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喧騒は消えて

「柴田一門」4個目の石は、台東区浅草の浅草寺にあります。

浅草寺のどこにあるかというと、
奥山「熊遊(くまあそび)碑のかたわらにあります。
この碑そのものも力石で、これを持ったのが、
鎌倉河岸の豊島屋酒店のタルコロ鬼熊こと熊治郎です。
「まるで熊みたいな力持ちだ」ということで、「鬼熊」と呼ばれていました。

「熊遊」
CIMG0799 (2)

真ん中に立っているのが「熊遊」碑です。
碑には建立者として、江戸から幕末にかけてこの奥山を取り仕切っていた
侠客・新門辰五郎の名が刻まれています。

この人が熊治郎です。菊池貴一郎
img055 (7)
「江戸府内絵本風俗往来(下)」より

タルコロとは、
関西から船で江戸へ運ばれてきた新酒を陸揚げする労働者のこと。

これが江戸の酒問屋街、新川。赤丸がタルコロです。
新川は隅田川から亀島川へ通じる延長60mほどの掘割りで、
その川の両側に酒問屋が軒を連ねていました。

img252 (3)
「江戸名所図会」より

      新川は下戸の建てたる蔵はなし
              いづれ上戸か目あてなりけり


こちらもタルコロです。
三斗一升入りの酒樽で21、2貫、「大関」こも樽で24貫(約90㎏)もある樽を、
幅30㎝ほどの「アユビ板」に載せてたくみに転がしていきます。

img238 (3)
「新撰東京名所図会」より

陸揚げした酒樽をこのようにコロコロ転がして酒蔵へ運ぶので、
「タルコロ」と呼ばれていたのです。

豊島屋の鬼熊は怪力のタルコロだったので、「ひと樽ずつ運ぶのは面倒だ」
というわけで、先の絵のように両手両足でいっぺんに運んだそうです。

下の写真は明治39年撮影の中井酒店河岸蔵前の従業員たちです。
酒問屋で働く若者には優れた力量の者が多く、
慶応二年、本所回向院で行われた力くらべの番付には、
酒問屋の若者たちがたくさん名を連ねています。

写真前列の男性はこの店の店主で、大変な力持ちだったという。

img252 (2)

が大きく逸れました。
柴田連中の石に戻ります。

「熊遊」碑の周りには、力石がたくさん置かれていますが、
「柴田連中」の力石も、その中にあります。

「大亀石 文政九戌歳 柴田勝次郎□」

この石の存在は以前からわかっていましたが、刻字が判読不明。
なにしろ巨石ですから、隠れている部分を見たくても持ち上がりません。

でも努力?の甲斐あって、その判読に成功し、
年号とこれを持った力持ちが柴田勝次郎であることを証明したのが、
埼玉在住の研究者、斎藤氏です。
通い詰めてトコトン調べる斎藤氏の根気強さには脱帽です。

CIMG0802 (4)
86×48×35㎝

さて、この浅草奥山は江戸から明治・大正にかけての一大歓楽街で、
ここに立ち並んだ見世物小屋に人々は大挙押し寄せ、
玉乗りや珍しい動物や大仕掛けの活き人形力持ちなどを見て楽しみました。
油絵展なんかもやっていたそうです。
写真術の元祖、下岡蓮杖もここに店を開いていたとか。

この奥山周辺を遊び場にしていた渋沢青花は著書「浅草っ子」に、
「等身大の半身の肖像写真をかけた店舗から、痩せて背の高い老人が、
杖をついて出てくるのを見た。それが下岡蓮杖だった」と書いています。

また、「新門辰五郎没後も一家は浅草寺の境内を預かっていて、
という字をあらわした印半天を着て公園内を徘徊していた」そうです。

時は移り、
見世物でにぎわった奥山の喧騒も山の印半天を着た新門の兄イたちも、
新川の酒問屋のタルコロたちもとうに消え、
今はただ力石だけが境内のささやかな一画で、

往時を偲んでおります。


<つづく>

 =「アユビ」という表記について=

※文中にでてくる「アユビ板」について、
「アユミ板」ではないでしょうかとの問い合わせがありました。

ご指摘の通り、正しくは「アユミ板」だと思いますが、
江戸時代の酒問屋のご子孫の本では「アユビ板」とありましたので、
そのまま使いました。

現在でも掛け渡す板のことを「アユミ板」といいますから、
正しくは「ミ」だろうと思いますが、「ヒ」「シ」の発音が苦手な江戸っ子ですし、
また粋と意地でちょっとひねって「アユビ」と言ったのかもしれません。

また、割板のことを「アイビ」と言っていますね。
「アユビ」「アイビ」ーー。
江戸っ子ですからね、「アユミなんて気取った言い方できるかい」ってなもんで。

詳しい方がおられましたら、教えていただけたら嬉しいです。

柴田連中

今、追いかけている「柴田幸次郎」のほかに、
「柴田」を名乗る力持ちが神田におりました。

この「柴田」は柴田勝次郎をリーダーとした一門で、
「柴田連中」と名乗った。彼らが担いだ力石は、
都内に4個、群馬県桐生市に1個計5個残されています。

5個を一挙公開です!

「小亀石」
20150503134557f57 (2)
70余×50×20㎝ 東京都台東区浅草 待乳山聖天 発見者・撮影/斎藤

「小亀石 文政十歳 柴田連中」

彼らが残していった力石を見ていくと、
この一門の活動時期は文政年間(1818~1830)に集中しております。
残念ながら、その一門の中に幸次郎は出てきません。

「大亀石」
桐生市・天満宮6 (2)
112×70×20余㎝ 群馬県桐生市 桐生天満宮  撮影/高島教授

「奉納 大亀石 文政十丁亥歳九月吉日
江戸神田 柴田勝次郎 柴田紋次郎 
柴田吉五郎 柴田文八 □人中」

この中にも、幸次郎の名は見当たりません。

しかし、その幸次郎は、
文政から約40年後に生まれた「竿忠」初代忠吉の記憶の中にいた。
柴田連中の話は同時代に生きた祖父などから聞いていたはずですから、
柴田幸次郎「大王石」を持った時期もまた、
文政年間の可能性があります。

また同時に、両国橋角で釣具店を営んでいた「東屋」初代茂八の女房
「おひさ」が生きていた時代でもあります。

こちらは足立区大谷田の区立郷土博物館の力石です。
柴田連中の「寶来石」を含め全部で5個収蔵されています。

img631 (2)

「寶来石」
img118.jpg
67×44×24㎝   「東京の力石」より

「寶来石 文政十歳 柴田連中」

以前は千住仲町の旧日光街道沿いの商家の庭に、
商売繁盛を願う縁起物の庭石として置かれていたそうです。
説明板にはこう書かれています。

本来は庭の池の中央に、
宝島蓬莱山に見立てて置かれていたものであろう」

力石が縁起物になっていたなんて、

うれしいですねえ。


足立区立郷土博物館「寶来石」を取り上げてからすでに13年。
ひょっとしてもう片づけられてしまったかもと心配になり問い合わせました。
郷土博物館様より「今も庭にあります」とのお返事をいただき、安堵。

お近くへ行かれた折りにはぜひ、見ていただけたら嬉しいです。

と、これで、シャンシャンかと思いきや、新たな事実が判明。
  
埼玉の研究者・斎藤氏からご指摘を受けました。

足立区立郷土博物館さまから、
「現在も庭に5個ございます」とのお返事をいただきましたが、
実は「6個」であることが斎藤氏からのメールで判明しました。
斎藤氏は、2010年1月24日に現地で6個目の力石を確認しています。

「郷土博物館さ~ん! しっかりしてくださいよ~

下は現在の同博物館の力石です。一番右端に立ててある石が「寶来石」
一番左端の石が新発見の「二拾メ目」石です。

DSCF0629.jpg

「二拾メ目」石です。
DSCF0633.jpg
57×33×14余㎝  撮影/斎藤



<つづく>

※参考文献・画像提供/「東京の力石」高島愼助 岩田書院 2003
               /「新発見・力石」高島愼助 斎藤保夫 
                岩田書院  2010
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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