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さし石やー

柴田幸次郎を追う
08 /26 2016
和竿師・中根忠吉ゆかりの洲崎神社は江東区木場にあります。
「木場」というのはかつての貯木場のことです。

江戸時代初期から明治の初めまで、
木場は江戸の町の建築木材の一大集積地でした。
それが明治20年に埋め立てられ、跡地に遊郭ができます。
「洲崎遊郭」です。

この遊郭は最初、根津にあった。
近くに東京帝国大学の建設が持ち上がり、風紀上好ましくないということで、
この埋立地に移転させられ、その後、吉原に並ぶ歓楽街となったものの、
売春防止法の施行で昭和33年に廃止されました。

「風紀上好ましくない」という言い方がね、なんかこう、
そこの女性たちのことを考えると、ちょっとやりきれない気がしますが、

ま、それはさておき、その遊郭ゆかりの力石をお目にかけます。

洲崎遊郭で働く使用人が持った力石です。
img108.jpgimg109.jpg
60余×60×37㎝
場所は富岡の深川不動尊。右は伊東明上智大学名誉教授のスケッチ。

「奉納 四拾貫目 大正十四年五月十八日 納之
洲崎廓img113.jpg水金 加藤吉太郎 川手金次郎

杉並区の天祖神社にも同じ店の使用人・堂森喜代助の力石があります。

遊郭でも力くらべをやっていたのでしょうか。

さて、貯木場に浮かべた原木を鳶口で巧みに操り、
仕分けや運搬に従事していたのが、
「川並鳶」(かわなみとび)と呼ばれた男たちです。
危険が伴う仕事ゆえ、溺死したとき見分けがつくようにと、
フンドシ一つの体に、
「深川彫」という文身(ほりもの)を入れていたそうです。

その川並鳶たちです。
「JAPANESE ACROBAT]と書かれたイギリス発行の絵葉書。

どうです、この体。
右から二人目の人、なんだか白人っぽい顔立ちをしていますが…。

img093.jpg
「東京写真大集成」より

幕末から明治・大正にかけて東京の力持ち界は、
この「川並派」と「車力派」の二派が勢力を競っていたようで、
その反目の痕跡を世田谷区・幸龍寺「本町東助碑」に見ることができます。

洲崎神社には、木場の男たちが持った力石が4個保存されています。
その中の一つがこちら「納」石です。

img107.jpg
60余×57×39㎝ 作図/伊東明教授

高島教授によると、伊東先生は石の写真は撮らず、
いつもスケッチをしていたそうです。
その伊東先生の論文の中に、見落としていた個所がありました。
それがこちら。

「川部茶酔の「木場名所図絵」力持ちの図に添えて、

さし石や遊びと見えぬ腕くらべ  茂丸

の句がある。
木場の野遊びの名残りの力石が、洲崎神社の力石であろうか」

深川木場(上)と洲崎(下)
img094.jpg
「東京写真大集成」より

「木場名所図絵」は初耳。早速、調べました。

この名所図絵は、東京木材市場株式会社創立者の一人、
森田寛次郎が描いたもの、ということがわかりましたが、
これを所蔵する国立国会図書館では館内閲覧のみ、ということで、
「力持ちの図」は未だ見ておりません。

また「茂丸」という人物については、杉山茂丸しか思い浮かばず。

この人は、
明治、大正、昭和初期に暗躍?した政財界のフィクサーと呼ばれた人で、    
奇怪な小説「ドグラマグラ」の著者、夢野久作のお父さんです。

奇しくも和竿師・忠吉とは同年の生まれ。
忠吉や木場とは、どこかで接点があったのかと思ったものの、
玄洋社、頭山満、満鉄、黒幕などといった単語と「力石」が結びつかない。

もしこの句を詠んだ人が杉山茂丸なら、
ちょっと探ってみようかなあ、などとうっかり横道に入りかけ、
「ダメダメ。今は鬼柴田だ」と慌てて引き返しましたが、

興味津々です。

<つづき>

※参考文献・画像提供/「東京都江東区内の力石の調査・研究」伊東明
          上智大学紀要 1988
※画像提供/「明治・大正・昭和/東京写真大集成」石黒敬章・編・集成
     新潮社 2001
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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞