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男が惚れる

柴田幸次郎を追う
08 /29 2016
木場の話をもう一つ。

深川木場で川並をやっていた方、
明治18年生まれの湊庄吉さんの聞き書きです。
聞き書きが行われた昭和39年当時、79歳。
川並鳶としての風格が滲み出ています。

img116.jpg
「続・職人衆 昔ばなし」より

「川並というのは木場の筏乗りで、
昔は仙台堀と油堀と新地の口が木場へ出入りする喉元で…」


「紺の股引きに紺の長半天、菅笠の緒をキリッと締めた川並が、
手慣れの竿鍵一本で、混み合う大川の河口を乗り切る姿は、
男が男に惚れたくなるような見事なもんでした」


男が惚れる? いやいや女は大惚れです。

湊さんは阿波の徳島出身。13歳で木場の材木商の小僧になった。
13歳で20貫(約70㎏)の材木を担げたそうですから、
昔の人は本当に凄い。

歌川広重「江戸名所百景」深川木場
2深川木場

「下は股引きですが上半身は裸。
麻で縫った肩当てを右肩にヒョイとのっけてから担ぐんです」

「股引きの色は19歳までは浅葱色で、19歳からは一人前の黒。
ああ、早くパリッとした黒の股引きをはきたいなあと何度も思った」


「19歳になったとき、憧れの黒の股引きをはけるようになり、
50貫目(約185㎏)ぐらいの材木は担げるほど力もついた」

この深川材木町には、
「世に隠れなき名筆」と言われた書の大家、三井親和が住んでいた。
この人が揮毫した力石の一つをお見せします。

墨田区の吾妻神社の力石です。この中に2個あります。
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三井(深川)親和揮毫の力石 作図/伊東明教授
CIMG0888.jpgimg117.jpg
83×48×21㎝

「元木場材木町 金七擔之 正目五拾貫貮百目 深川親和書」

「擔之」は「これを担いだ」という意味です。
正目とは「正味」=正確に量った重さの意。

高島愼助教授によると、「切付(きりつけ)八掛け」という言葉があって、
力石の多くは、その石に刻まれた貫目の八掛けが、
正味の重量とされていたそうです。
つまり刻字(切付)された貫目の2割引きが実重量ということになります。

だから、「自分は刻字(切付)通りの重さを担ぎましたよ」と証明するために、
わざわざ「正目」と入れるわけです。

金七は元木場材木町の住人で、石も担いだ力持ちの石工です。
それにしても金七さん、
「五十貫貮百目」とはチト細かい。

<つづく>

※参考文献・画像提供/「続・職人衆 昔ばなし」斎藤隆介 
          文藝春秋 昭和43年
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さし石やー

柴田幸次郎を追う
08 /26 2016
和竿師・中根忠吉ゆかりの洲崎神社は江東区木場にあります。
「木場」というのはかつての貯木場のことです。

江戸時代初期から明治の初めまで、
木場は江戸の町の建築木材の一大集積地でした。
それが明治20年に埋め立てられ、跡地に遊郭ができます。
「洲崎遊郭」です。

この遊郭は最初、根津にあった。
近くに東京帝国大学の建設が持ち上がり、風紀上好ましくないということで、
この埋立地に移転させられ、その後、吉原に並ぶ歓楽街となったものの、
売春防止法の施行で昭和33年に廃止されました。

「風紀上好ましくない」という言い方がね、なんかこう、
そこの女性たちのことを考えると、ちょっとやりきれない気がしますが、

ま、それはさておき、その遊郭ゆかりの力石をお目にかけます。

洲崎遊郭で働く使用人が持った力石です。
img108.jpgimg109.jpg
60余×60×37㎝
場所は富岡の深川不動尊。右は伊東明上智大学名誉教授のスケッチ。

「奉納 四拾貫目 大正十四年五月十八日 納之
洲崎廓img113.jpg水金 加藤吉太郎 川手金次郎

杉並区の天祖神社にも同じ店の使用人・堂森喜代助の力石があります。

遊郭でも力くらべをやっていたのでしょうか。

さて、貯木場に浮かべた原木を鳶口で巧みに操り、
仕分けや運搬に従事していたのが、
「川並鳶」(かわなみとび)と呼ばれた男たちです。
危険が伴う仕事ゆえ、溺死したとき見分けがつくようにと、
フンドシ一つの体に、
「深川彫」という文身(ほりもの)を入れていたそうです。

その川並鳶たちです。
「JAPANESE ACROBAT]と書かれたイギリス発行の絵葉書。

どうです、この体。
右から二人目の人、なんだか白人っぽい顔立ちをしていますが…。

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「東京写真大集成」より

幕末から明治・大正にかけて東京の力持ち界は、
この「川並派」と「車力派」の二派が勢力を競っていたようで、
その反目の痕跡を世田谷区・幸龍寺「本町東助碑」に見ることができます。

洲崎神社には、木場の男たちが持った力石が4個保存されています。
その中の一つがこちら「納」石です。

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60余×57×39㎝ 作図/伊東明教授

高島教授によると、伊東先生は石の写真は撮らず、
いつもスケッチをしていたそうです。
その伊東先生の論文の中に、見落としていた個所がありました。
それがこちら。

「川部茶酔の「木場名所図絵」力持ちの図に添えて、

さし石や遊びと見えぬ腕くらべ  茂丸

の句がある。
木場の野遊びの名残りの力石が、洲崎神社の力石であろうか」

深川木場(上)と洲崎(下)
img094.jpg
「東京写真大集成」より

「木場名所図絵」は初耳。早速、調べました。

この名所図絵は、東京木材市場株式会社創立者の一人、
森田寛次郎が描いたもの、ということがわかりましたが、
これを所蔵する国立国会図書館では館内閲覧のみ、ということで、
「力持ちの図」は未だ見ておりません。

また「茂丸」という人物については、杉山茂丸しか思い浮かばず。

この人は、
明治、大正、昭和初期に暗躍?した政財界のフィクサーと呼ばれた人で、    
奇怪な小説「ドグラマグラ」の著者、夢野久作のお父さんです。

奇しくも和竿師・忠吉とは同年の生まれ。
忠吉や木場とは、どこかで接点があったのかと思ったものの、
玄洋社、頭山満、満鉄、黒幕などといった単語と「力石」が結びつかない。

もしこの句を詠んだ人が杉山茂丸なら、
ちょっと探ってみようかなあ、などとうっかり横道に入りかけ、
「ダメダメ。今は鬼柴田だ」と慌てて引き返しましたが、

興味津々です。

<つづき>

※参考文献・画像提供/「東京都江東区内の力石の調査・研究」伊東明
          上智大学紀要 1988
※画像提供/「明治・大正・昭和/東京写真大集成」石黒敬章・編・集成
     新潮社 2001

追いかけて追いかけて

柴田幸次郎を追う
08 /24 2016
柳の木の下にあった「大王石」は今どこにあるのだろうか。
これを持った柴田幸次郎とはどんな人だったのだろう。


75貫目、約280㎏もの巨石で、しかも立派な刻字まである石が、
そう簡単に姿を消すはずはないし、
怪力ゆえに鬼を冠して呼ばれた柴田幸次郎が、
人々から、こんなにきれいさっぱり忘れられるなんてありえない。

猫もやります、石担ぎと足差し
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江戸川区郷土資料室のキャラクター猫ちゃん  

でも、明治3年生まれの江戸文化・風俗研究家の<三田村鳶魚や
「きわもの」といわれた見世物を庶民文化と捉え、
文献的資料として名著「見世物研究」を完成させた
朝倉無声(明治10年生まれ)の著作にも柴田幸次郎は出てこない。

ただ無声の「見世物研究」に面白い記述があった。
それは明治時代の郷土玩具研究者の清水晴風への聞き書きです。

清水晴風は嘉永4年(1851)の生まれで、幼名は半七、通称・仁兵衛。
家は神田で車力(しゃりき。運送業)を営んでいた。
先祖は明暦の頃、駿河国(静岡県)清水から江戸へきたという。

ちなみに「そんなの当り前じゃないか」というときに使われた
「あたりきしゃりき」はこの車力からきています。

車力
img106.jpg
「近世風俗事典」より

本業は車力だが、書画・俳諧をたしなみ、戯作者の仮名垣魯文
児童文学作家の巌谷小波などと「竹馬の友」を結成。
また、人類学者の坪井正五郎らの「集古会」にも参加した文化人です。

その晴風にはもう一つ、力持ちという顔があった。
無声はいう。

「晴風は力持ち番付の幕の内に列したほどの力量の持ち主で、
それゆえ、幕末から明治へかけての素人力持ちについては、
生き字引ともいわれるほど精通していた」

私が注目したのはそれではない。
晴風が力持ちの真打について話したこのセリフです。

「三百貫目と称する大王石(実は百五十貫程)を足にて差し上げ…」

探していた「大王石」が、サラッと出てきたからです。

晴風が住んでいた神田と幸次郎の大王石があった元柳橋は近い。
間違いなくこれは同じ石だ。
とは思うものの、残念ながら晴風はこれ以上の情報を残してはくれなかった。

また、平成5年に亡くなるまで力石の調査に奔走した
伊東明上智大学名誉教授の調査論文にも幸次郎の名はなく、
その伊東教授をして、

「江戸川区内の力石研究としては、ほとんど完璧といえる」と絶賛された
鷹野虎四の調査記録にも幸次郎は姿を現さない。

下の写真は、2015年に開催された
「まるいし おもいし ちからいし」展での鷹野虎四氏の調査記録です。

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東京都江戸川区松島・グリーンパレス内 江戸川区郷土資料室

伊東先生没後、その師の跡を引き継ぎ、
全国規模の調査報告を成し遂げて、いまなお調査を続けている
高島愼助四日市大学教授も、「幸次郎の名は初耳だ」とおっしゃっる。

でも和竿師の「竿忠」初代忠吉はその名を知っていた。
忠吉自身、力持ち連中の仲間に入って石を担いでいたとも言い残している。

ならばその忠吉ゆかりの洲崎神社にもう一度戻ってみようと思い立ちました。
「たかが石一つに」とお笑いくださいますな。

笑われようともマイナーな研究だと言われようとも、
先人たちはそれこそ、「細大もらさず、しらみつぶしに」
調査に労力を費やしてきたのですから。

とはいうものの我ながら、ちょっと力み過ぎかも。

<つづく>

※画像提供/「近世風俗事典」監修・江馬務 西岡虎之助 浜田義一郎
        人物往来社 昭和42年

トンとわからない

柴田幸次郎を追う
08 /22 2016
隅田川河畔の「大王石」は、「柴田幸次郎」が持った力石、
というところまではトントンときましたが、ここから行き詰りました。

思案したあげく、
こうなりゃ「竿忠の寝言」を載せていたブログ主さんに聞くしかない。
というわけで問い合わせました。

待ちに待ったお返事をいただいたのはその半年後。
年号が2015年と変わっていました。

img063 (3)
葛飾北斎の「力くらべ図」より「力者」

「ブログの更新をしていなかったので気が付かなかった。申し訳ない」

「いいんです、いいんです。こちらが勝手に送り付けたんですから」

「で、喜三郎さんに問い合わせしてみたんです」とブログ主さん。

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竿忠四代目・中根喜三郎氏の作品。撮影/塩沢槇氏。
「江戸東京 職人の名品」より

わっ、竿忠四代目に聞いてくださったんだ。夢みたい。
で、そのお返事は、

「三代目が書き留めた「寝言」の、
竿以外の内容については殆どわからない」


アワワワッ!

♪うれしがらアせ~てー、泣かせエーて、消えたアー

いえいえ、勝手に期待して嬉しがっていた私がいけないんです。

いとこでブログ主の蕎麦屋さん、気の毒そうに、

「喜三郎さんがいうには、
竿のことならたいがいわかるけど、石のことはトンとわからない。
なにしろ生まれる前の出来事なので、と」

img105.jpg
「釣魚伝」より

そうですよねえ。
おっしゃる通り、なにしろ江戸時代のことですから。

というわけで、またも行き詰まり。
でもここでメゲテいるわけにもいきません。
原点に戻って、もう一度資料を見直すしかないんだよなあ。

ふぅ…

<つづく>


※画像提供/「江戸東京 職人の名品」東京書籍 平成18年
     TBS「お江戸粋いき!」番組製作スタッフ
     /「続燕石十種」第一巻「釣魚伝」黒田五柳 弘化三年 
     解説・森銑三、野間光辰、朝倉治彦 中央公論社 昭和55年

釣り

柴田幸次郎を追う
08 /19 2016
「寛政の三美人」の一人、高島屋おひさの年齢がちょいと合わない。
でもまあ、たかだか10余年の誤差だから目をつぶることにして先を急ぎます。

おひさのご亭主となった人は、釣具・釣り舟店「東屋」の初代茂八。
「この店は文化頃に起こった」と「竿忠の寝言」の忠吉さんは言っています。

文化年間は14年と長いから、特定するのは難しいが、
とにかくこの年月の中で茂八は店を起こし、おひさと夫婦になった。
その初代茂八は58歳で亡くなり、二代目は61歳で没したそうです。
そこまで知っていて忠吉さん、なんで没年を書かなかったのか。

なんとも悔しい。

ちなみにおひさたちを描いた喜多川歌麿は文化2年に没しています。

ここでちょっと釣りの話を…。

これは釣りのバイブルといわれた「釣魚大全」です。
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著者はイギリス人のアイザック・ウォルトン
1653年初版。日本でいうと江戸初期、四代家綱の時代です。

「釣りは芸道」といい、釣魚を哲学にまで深めた名著といわれています。

私がこの本を読んだのははるか昔のことで、内容はおおかた忘れました。
覚えているのは、ウグイだったか、
その川魚のお腹に詰め物をする料理があって、
それを真似て作ってみたものの、不味くて捨ててしまったことや、
外国にもカジカがいるんだと驚いたことぐらいです。

その「釣魚大全」に匹敵する釣りの書物が、
日本にもあったことを最近知りました。

時代はずっと降って、
弘化三年(1846)、黒田五柳が書いた「釣客伝」です。

「釣客伝」のさし絵。
img103 (2) img103.jpg

五柳の紹介する釣り場は江戸に限らず江の島、箱根、小田原と広範囲で、
場所の選定、魚の種類による釣り方、道具などと事細か。
そして、やっぱり出てくるんですね。
忠吉の父親「釣音」が、その昔、弟子入りしていた和竿の「東作」が…。

「鮒三仕舞手本の竿は、下谷釣道具屋東作、是を始めるなり」

子供のころ、私も兄たちに倣(なら)って釣りをしました。
その辺に生えている笹にテグスと針を付け、
河原の石をひっくり返して獲った川虫をグググッと針に差し込んで…。

そんないい加減な竿でも、昔の川には魚がたくさんいたんですね。
アブラッパヤが面白いようにかかりました。
天ぷらにして食べましたが、なかなか美味でした。

その後東京暮らしになったけれど、
都会の暮らしは好きになれず、一家で静岡へ転居。
で、夏になるとよく鮎釣りに出掛けました。一番簡単なエサ釣りです。


鮎釣り中の私。エサ釣りは友釣りの方たちに嫌がられました。
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静岡市・安倍川

転居後、東京から夫の知人たちがやたら遊びに来るようになりました。

ある日川遊びに出掛けた時、客の男が何を思ったのか、
幼稚園児だった二男をいきなり流れに放り込んだのです。

私はとっさに下流へ猛ダッシュ。
流れが速くて、二男は水没したままあっという間に7、8メートル流された。
そこに偶然夫がいたことが幸いして…。とにかく間一髪。
体を掴んで水から引きあげたときは、安堵と怒りで身体が震えましたが、


客の男は「奥さんは神経質すぎる」とへらへら。

「川の流れは二層になっているんです。
穏やかな流れの下にはもう一つ流れがあって上と下では速さが違うんです。
だから下の流れに足を取られたら引きずり込まれて、
そのまま本流へ流されて、そうなったらもう見つかりません。
まだ泳げない子供をしかも不意打ちして。あなたはとんでもないことを…」


と言いたかったけど、実際にはこの半分も言えなかった。
でも川のことは、
本から得た知識ではない。子供の頃、川から教わった川の教訓です。

で、その帰路、都会の夜の海しか泳いだことがないこの男、
渡河するとき、ヒザほどの浅瀬で足を滑らせて転倒。
ビールっ腹が邪魔してか、水流の強さに起き上がれず、
石の上をガラガラ音を立てて流されていきました。


浅瀬に乗り上げてようやく止まった男に言ってやりました。

「一級河川を流れるなんて名誉なことで…」

これだけはやんわりとですが、言えました。

<つづく>

※画像提供/「釣魚大全」アイザック・ウォルトン 角川書店 昭和50年
     /「続燕石十種・第一巻」「釣客伝」黒田五柳 弘化三年
     監修森銑三・野間光辰・朝倉治彦 中央公論社 昭和55年

年が合わない

柴田幸次郎を追う
08 /16 2016
「寛政の三美人」の一人、高島屋おひさ。
この方は両国橋角の釣具店「東屋」の初代茂八の女房になった。

のちにおひさは、鬼柴田とも鬼幸とも呼ばれた
怪力・柴田幸次郎が持った「大王石」のかたわらに水茶屋を出した。

「大王石」は75貫目(約280Kg)もの巨石だったそうですが、
そのころのおひささんも負けず劣らず、
28貫目(約105Kg)の巨漢に変貌していたという。


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初代忠吉さんがなぜこんなに詳しいかというと、
忠吉さん15、6歳のころ、この「東屋」に奉公していて、
このおひささんを知っていたからなんです。

「竿忠の寝言」の「白魚と道行」から引用します。

忠吉さんは、
「東屋では昼間は釣り船の船頭をし、夜分は釣竿づくりをしていた。
両国橋のたもとに井戸があって、
十六貫からする担ぎ桶で水汲みに行くのが日課だった」


2竿忠

「これがなかなかの辛苦であった。
だから、
なにか機会があったらこの家を飛び出そうとする腹であった」


その忠吉さんには苦手なものがもう一つあった。

「この東屋には大きいお内儀さんのお角力おひささんがいて、
この人はなかなか小喧しい婆さんであったから、これも嫌気の種であった」


楚々とした美女が肥満体の酒豪になり、
ついには小やかましい婆さんになった…。
考えさせられます。
さて、
ある朝、忠吉さんはのちに東屋三代目となる政次郎に誘われて、
白い靄が立ち込める海へ白魚すくいに出掛けます。
この政次郎は忠吉より一つ年長。

その政次郎を舟に残し、忠吉は獲れた白魚を売りに陸へあがり、
そのまま「ズラカッた」


白魚の入れ物はこれとは違いますが、とりあえず「魚売りの図」
img101.jpg

で、忠吉さんは「竿忠の寝言」にこう書いています。

「おひささん、八十四歳で没す」

おひささんがこの世を去ったのは、仮に忠吉が奉公中の15歳頃だとすると、
忠吉は元治元年(1864)生まれだから、おひさ没年は明治12年(1879)となり、
ここから逆算すると、
おひささんは寛政7年(1795年)生まれということになります。

でも歌麿が「寛政の三美人」を描いたのは
寛政5年~12年ごろとされており、
おひささんは当時17歳だったといわれているんです。
歌麿の絵の完成がギリギリの寛政12年(1800)としても、
その時おひささんは、まだ5歳にしかならず…。

年が合わない…。うーむ?

<つづく>

高島屋おひさ

柴田幸次郎を追う
08 /13 2016
江戸和竿師「竿忠」初代・忠吉の一代記、「竿忠の寝言」の中に、
ひょいっと出てきた「大王石」「柴田幸次郎」。

それは、
「日本橋新柳町四番地、両国橋の角に釣具店で彦田茂八さん、
此お方は屋号を東屋と云って、文化頃に起った」
で始まる「東屋の全盛」に書かれていました。


その「東屋」の初代茂八さんの妻は「おひさ」さんといって、
錦絵にも描かれた有名な「お角力お久」といわれた人なんだそうです。

おひささん。17歳。喜多川歌麿・画
この錦絵は、
2007年「ふるさと切手・江戸名所と粋の浮世絵」の一枚になりました。

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なんでも、
吉原の芸者・富本豊ひなと浅草寺隋身門前の水茶屋の娘・難波屋おきた、
それにこの薬研堀両国米沢町の
せんべい屋兼水茶屋の娘・高島屋おひさは、
「寛政の三美人」
と謳われた当時のスターたちだったそうです。

歌麿はこの三美人がよほど気に入っていたとみえて、
「腕ずもう」の絵なども描いています。

この三美人を描いた錦絵も2011年、「ふるさと切手」になりました。

2011sanbjin.jpg
左がおひさ、右がおきた

そんな美女を釣具店の茂八さんが女房にしていたなんてすご~い!

でも竿忠の初代忠吉さんは、こんなことも書いているんです。
「目方が二十八貫、女で一升のお酒を呑んだ名物女」

二十八貫といえば105㎏です。
う~ん…。
いつ頃の話かわかりませんが、
でっぷり太って大酒食らっていたおひささんなんて、
「寛政の三美人」とはほど遠いイメージです。

ちょっとがっくり。

このおひささん、
「柳橋と名付けられた起こりの柳の木の下に、
昔、柴田幸次郎、俗称鬼柴田あるいは鬼幸
とも称された怪力の人が差した大王石の傍らに、
水茶屋を出していた」そうで。

忠吉さんがいう「昔」って、どれほど昔のことかはわかりませんが、
とにかく幕末生まれの忠吉さんの記憶に名前まで残っていたのです。
柴田幸次郎はかなり名の知れた力持ちだったと思います。

ほっそり美人が肥満体の酒豪おばさんに変貌してもそれはそれ。
なにはともあれ、忠吉さま、よくぞ書き残してくれました。

今のところ、元柳橋の「大王石」のことは、
この「竿忠の寝言」の証言しかないのです。


こちらはフランス士官のあの写真と同じ場所を描いた
亜欧堂田善の油彩画です。

350px-Aodo_Denzen_21 (2)
柳の木の下にいる二人は相撲取りでしょうか。
そして左側の家は、おひささんゆかりの水茶屋なんでしょうか。

この絵の中に「大王石」は描かれてはいませんが、
相撲取りのうしろに、デンと控えていたに違いありません。

=追記=

「江戸名所図会」で知られる斎藤月岑の著書
「武江年表」に出てくる「寛政の三美人」のうちの一人は、
芸者・豊ひなではなく、芝神明前の水茶屋の娘・おはんです。

どうやらおはんさんはランク落ちして、
芸者・豊ひなに取って代わられたみたいです。

また「武江年表補正」の著者・喜多村信節(のぶよ)=筠庭(いんてい)は、
こう書いています。
「(おきた見たさに)隋身門前は見物人混みあいて…(略)…、
しかし、両国のおひさの前はさほどにはなかりき」

美を競うのはなかなか厳しい。

<つづく>

お暑うございます

ごあいさつ
08 /10 2016
猛暑お見舞い申し上げます。

暑くて頭が働きません。おまけに足首を痛めて、閉じこもり状態。
食欲だけは全く衰えないので、食べまくっています。

3年前に農協の市場で買ったメダカです。
ラベルに「楊貴妃」とありました。

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最初5匹だったのが、3年目の今年は70匹に増えまして…。
とうとうベランダに水槽が5個も。
とにかく次々産卵。
親が食べないうちに稚魚を隔離するので、そうなりました。

これ以上増えたらどうしようと思っていたら、この暑さ。
氷を入れてもすぐ溶けてしまいます。
小さいメダカから弱ってきて、あっという間に半分に。

水槽はありあわせのものやら100均のタライやらいろいろ。
一つだけクーラーボックスを使っていますが、
これが優れもので、水温が全く変わらないんです。

生き残ったのは元気いっぱいですが、
これ、ホントにメダカなの?って思うくらい金魚みたいにデカくなってます。

こちらは5月下旬に写した網戸にいた虫です。
名前は知りませんが、
バレリーナみたいな優雅な姿に、思わず見とれてしまいました。

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兄と妹

柴田幸次郎を追う
08 /06 2016
幕末から明治、大正、昭和初年を生きた江戸和竿師・中根忠吉。
その生きざまを綴った「竿忠の寝言」の中に、
探していた人物がひょこっと出てきました。

その人の名は「柴田幸次郎」
あの「大王石」を持った人です。
怪力ゆえに「鬼柴田」とも「鬼幸」とも呼ばれていたそうです。

さてさて、佳境に入りかけたところで恐縮ですが、
「鬼柴田」のことはちょっとおいといて、
ブログ「竹林舎 そばバカ日誌」の記事をお借りして、
「竿忠」四代目の中根喜三郎氏についてお伝えしたいと思います。

喜三郎氏は父・音吉が刊行した「竿忠の寝言」復刻版に、
「寝言以後」という一文を載せています。
その中に昭和20年3月9日の東京大空襲での体験が綴られていました。

こちらは体験者が描いた静岡空襲の絵です。
焼夷弾に油が仕込まれていたため、川一面が火炎地獄となり、
川へ逃げた人はみんな焼け死んだそうです。

CIMG2290 (2)
昨年、静岡市民ギャラリーで開催された
静岡市平和資料センターと市共催の「戦争と静岡」展より

東京がB29の大空襲を受けたその日、
喜三郎さんは両親、祖母、兄たち7人で焼夷弾の中を逃げ惑います。
たどりついた先は小学校。喜三郎さんは迫りくる炎が熱くてたまらず、
校舎へよじ登り中へ入ります。


下の絵は、静岡空襲で逃げる人々を警防班の人が、
「逃げるのは非国民だ」と言って蹴りつけた実話です。

「弾にはめったに当たらない。
焼夷弾も心がけと準備次第で火災にならない。
弾に当たったり火災になるのは、お前らの心がけが悪いからだ」と。


当時、そう書いた国民の心得手帳が配布されており、
蹴った人は、お上の言いつけを忠実に実行したまでだ、ということでした。

戦争のおぞましさは、
「狂気」が「正常」とされてしまうところだと、私は思っています。

上官が若い兵隊をレイプするのは、日常茶飯事だったそうですね。

学生時代のドイツ語教授の話は今でも忘れられません。
「上官からタン壺を渡され、新兵同士で三々九度をしろと飲まされた。
だから今もって、ぬるぬるした食べ物は見ることもできない」と。

CIMG2349 (2)
2015年、個人商店「がれりあ布半」が開催した「戦後70年」展より
画/ウルシ・ヒロ

さて、昭和20年3月9日の大空襲で、校舎へ逃げ込んだ喜三郎少年は、
B29の爆撃音が止み、あたりの奇妙な静けさに気づきます。


恐る恐る外へ出てみると、、校庭には夥しい焼死者。
一緒に逃げた家族はどこにも見当たりません。
わずか13歳の喜三郎さんは、一瞬にして家族6人を失ってしまったのです。


この手記の中で、私は喜三郎さんの妹さんは、
故林家三平師匠の奥さま、香葉子さんであることを知りました。
テレビでお見かけした香葉子夫人はえくぼが印象的な方で、
このご一家はいつもまばゆいばかりの「明るさ」を放っていました。

その香葉子さんは静岡県沼津市の親戚に疎開していたため、
空襲をまぬがれたそうですが、
戦後の混乱の中、13歳と11歳の兄と妹が歩んでこられた道は、
想像を絶するものだったに違いありません。

下の写真の建物は、
東京からの疎開児童約120人が暮らした
「旧赤坂沼津臨海学園」です。
戦後は戦災児童を収容する施設となりました。
現在は「沼津市文化財収蔵庫」になっています。

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沼津市下香貫

昨年は戦後70年の年でした。
私は可能な限り各展示会場へと足を運びました。
ちょっぴり関わっている静岡市文化財資料館でも、
「知っていますか? すべてが戦争のためにあった時代を」
と副題をつけた「静岡の戦争」展を開催しました。

この副題を見たご高齢の方が感慨深げにおっしゃった。
「本当にすべてが戦争のためにあった時代でしたねえ。つろうございました」

圧巻は体験者の語りでした。語りの会場へは3日間通いました。
語り部はみなさん、ご高齢です。今しか聞くことができません。

「母がおんぶしていた弟の頭に焼夷弾が直撃したんです」
男性は少年だったあの日の出来事を、ポツリポツリと話し始めました。
「弟が死んだときも母が亡くなった時も、ぼくは泣くことができなかった。
ぼくは泣けなくなっちゃったんだ。それが戦争なんだね」


インパール作戦で武器も食料も与えられず、ジャングルに放り出されて、
そのジャングルを4年間彷徨った92歳の男性の話は凄惨でした。
「みんな空腹に耐えかねて、倒れている仲間を…。
こいつ、まだ温ったかいぞって。地獄でした」


付添いの男性が言いにくそうに、「つまりそのう、食べたということです」

会場に持参したのは、どんなときでも手放さなかった当時の飯盒と水筒です。
しかしその飯盒と共に過ごした戦後70年間は、
忘れようとしても蘇える悪夢との闘いだったのではないでしょうか。

思いのたけを話し終えたあと、声をふりしぼるようにおっしゃいました。
「戦争はいやだ」

今年もあの戦争を振り返る夏がやってきました。
ここに掲げた写真は、これまでブログでご紹介してきた写真ばかりですが、
また出すことにしました。

これはトラック島で戦病死した23歳の若者の墓所です。
墓石のかたわらに若者が生前愛用した力石が置かれています。

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東京都江戸川区南小岩・円蔵院

日露戦争で亡くなった223人の若者を模した人形です。
親たちが「この子たちをいつまでも覚えていてほしい」と、
息子たちの遺影を人形師に託して製作されたものです。

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静岡県藤枝市岡部・常昌院(兵隊寺)

現在84歳の兄の喜三郎氏は昨年、名誉都民になられ、
妹の香葉子さんは長年、エッセイストとして活躍。
ご子息たちも噺家になられるなど、素敵な人生を送られています。

「江戸和竿師「竿忠」のことを、
たくさんの人に知ってほしい、覚えていてほしい」

そういう思いでブログに「竿忠の寝言」を載せたブログ主さんは、
喜三郎氏や香葉子さんのいとこさんで、
現在、石川県白山市で、蕎麦屋さんを営んでおられます。

その方がおっしゃっていました。
「喜三郎さんは僕より12歳、香葉子さんは10歳年上です。
喜三郎さんはまだまだ元気で、今も現役の竿師です。
一日でも長生きしてくれって、いつも思っています」

<つづく>

「竿忠の寝言」

柴田幸次郎を追う
08 /04 2016
図書館でフランス士官の写した「大王石」の写真を見つけたのが7月28日。
この石を持った人物の特定ができたのが、それから4日後の8月1日。

のめり込んだら周囲が見えなくなるのが私の習性です。

この時も「大王石」という獲物を得て燃え上がり、猪突猛進。
自分で思っていた以上の早い展開でした。

ことの発端は、ここから始まりました。

ネットで「竹林舎 唐変木のそばバカ日誌 人生の徒然を」というブログを
見るともなしに見ていたら、
「竿忠の寝言」なる変わったタイトルの記事がありました。
読み始めたら、これが実に面白い。

おきゃんな小娘になりきって、
ひと夜、「寝言」の中の江戸から明治の下町をほっつき歩きました。

「竿忠の寝言」の主人公は、明治の竿師三名人の一人、
江戸和竿職人「竿忠」の初代・中根忠吉です。
 ※中根忠吉 元治元年(1864)~昭和5年(1930)

こちらは「竿忠」五世四代目・中根喜三郎氏の仕事場。
忠アド街竿

「竿忠の寝言」は1931年に私家本として刊行され、その45年後に復刻。
四代目喜三郎氏のいとこにあたるブログ主さんが、
ご子孫の了解を得て、ブログに掲載していたそうです。

この本は忠吉の孫で「竿忠」三代目の中根音吉さんが、
祖父からの聞き書きや日記などをまとめて、初代没後に刊行したもの。

実母に邪険にされた子供時代、幼くして職人を目指した健気さ、
貧しさの中で妻に先立たれ、残された幼子を男手一つで育てたつらさ、
そうした苦労をさらりと受け流して生きてきた江戸っ子職人の物語です。

忠吉は孫の音吉を可愛がり、
上野の美術館や骨董店などにひんぱんに連れ出します。

また火事場へ出るのが好きで、刺し子の装束はひと揃えあった。
芝居も大好き、俳句もやった。俳号は竹林舎雨雀
頼まれて、パリの万国博覧会へ和竿を出品。好評を博した。

第二代総理大臣・黒田清隆に贔屓にされて、たびたびお屋敷へあがった。

ちなみに黒田公は、世田谷区の幸龍寺にある「力士 本町東助碑」や、
伊豆大島の力持ち、大島伝吉の碑に揮毫した人です。
かつては「力士」は相撲取りのことではなく、
「力持ち」をこう呼んでいました。

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大島町・岡田港  作図/高島愼助教授

竿師・忠吉には、当時の官僚や公家からも和竿の注文が入った。
職人は玄関から入っちゃいけない。必ず裏口からとわきまえて伺うものの、
こと竿に関しては相手が誰であれ一歩も譲らない。

ケンカの仲裁はたびたび頼まれた。
弥次・北よろしく仲間三人と諸国見物へも出かけた。
以前から素人の力持ち連中の仲間に入って、
石や俵を差したりしたくらいだから、なりこそ華奢だが骨太で中々力があった。


こちらの写真は洲崎神社の力石群です。
ここには徳富蘇峰揮毫の「名人竿忠之碑」があります。
ただ残念ながら、忠吉銘の力石はありません。

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東京都江東区深川木場・洲崎神社 「東京の力石」より

住まいは徳右衛門町二十七番地、六軒長屋の一番はずれ。

忠吉の父親「釣音」が弟子入りしていたのが「泰地屋東作」で、
その家の裏隣りに酔っぱらいの絵師が住んでいた。
「たぶん、猩々狂斎だったと思う」と忠吉はいう。


天才浮世絵師・河鍋暁斎をなんのてらいもなく
「酔っぱらいの…」というところがさっぱりしていて好もしい。

ブログに掲載されていた「竿忠の寝言」、
目にしたのが最終章からだったので、そこから読み始めました。
読み進むに従い時代を遡り、いよいよ15、6歳の少年忠吉に差し掛かった時、

まさかの展開!

目に飛び込んできたのが、なんと、あの「大王石」の文字と、
それを持った人物の名前だったのです。


<つづく>

※「竿忠の寝言」中根音吉 1931刊行。1976年、文治堂書店より復刻。  

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞