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カラン、コロン

柴田幸次郎を追う
07 /29 2016
「近代日本のあけぼの」と題されたフランス士官の写真集。
そこに写っていたのは、
両国橋と元柳橋河畔の名物・柳の木「大王石」

あの永井荷風もこの場所を「日和下駄」に書いています。

「両国橋より稍(やや)川下の溝に小橋があって、元柳橋と云われ、
ここに一樹の老柳ありしは柳北先生の同書にも見え…」


「柳北先生」とは、江戸時代、外国奉行会計副総裁として幕府に仕え、
維新後は朝野新聞社を興して活躍した成島柳北のこと。

奥医師・桂川甫周を父に持つ今泉みねの聞き書き、
「名ごりの夢」にも、この柳北が出てきます。
私はこの「名ごりの夢」が好きで、
いつでも手に取って読めるところに置いてあります。

その成島柳北より桂川甫周にあてた手紙です。
img091.jpg

ちなみに前回ご紹介した亜欧堂田善。
この人は老中・松平定信から扶持を受けていた人ですが、
桂川甫周の遺品の中に、田善の作品があったそうです。

さて、荷風が江戸切り絵とこうもり傘を手に、
日和下駄をカランコロンさせながら東京の町を歩いたのは大正時代のこと。

しかしこのわずかに残った薬研堀も、明治36年の埋め立てで、
柳も橋も姿を消してしまったので、
荷風はそれを、柳北の本や絵の中でしか見ることができませんでした。

埼玉の研究者・斎藤氏は、
「永井荷風が柳北や小林清親の作品を引いて取り上げていたことで、
ここがよほどの名所だったことはわかります。
しかし、柳のことだけで大王石には一言も触れていないのが寂しい」と。

その小林清親「元柳橋両国遠景」です。
少々赤丸がきつすぎました。清親さまご勘弁を。

0421-C069 (4)

柳の木の下に石が描かれています。

荷風はこの絵が気に入っていたようで、
「日和下駄」に絵の詳細を記しています。

でも柳の木や縞の着流しの男や猪牙(ちょき)舟に目を向けただけで、
木の下に描かれた石のことには全く言及しておりません。
もっとも荷風がここを歩いたのは薬研堀が埋められた後でしたから、
仕方がありませんが、でも残念です。


何事も確信がないと動かない師匠の高島教授が、
「この絵の石、本当に大王石かなあ」と言うので、専門家にお聞きしました。
東京都練馬区立美術館の清親研究者です。

「力石でよいのではないでしょうか。
意識的に描いているにほかありません」


そしてもう一つ「石が描かれている絵」を教えていただきました。

それがこちら。井上安治「元柳橋」
井上安治は清親の弟子で、明治22年、26歳で夭折。

井上保治 元柳橋
東京都立図書館

確かに右端に石らしきものが描かれています。
遠くに両国橋と例の白い家まであります。

「名ごりの夢」の語り手で、奥医師・桂川家の姫様・みねさんは、
11歳のころ、鉄砲洲のこの大川端へ引っ越します。
お屋敷には専用の船着場があったそうです。
家には柳北など、のちに「近代日本のあけぼの」に貢献した洋学者たちが、
たくさん集まっていたといいます。

みねさんは5、6歳のころ、あの福沢諭吉におんぶされて、
諭吉の家へ行ったそうです。そこは二間しかない粗末な長屋。

幕府瓦解ののち、みねさんと父の桂川甫周は、
かつての諭吉の家と同じ二間しかない長屋住まいになった。
殿様だった父は銭湯の入り方がわからずまごまご。
みねさんは初めての買い物に、ランプの油を買いに油屋へ行き、
振袖姿で三つ指ついて

「どうぞ、油を少々いただきとうございます」

それを見た油屋のおかみさん、

「まあ、徳川のおちぶれのひいさまが…」

<つづく>

※参考文献・画像提供/「名ごりの夢」今泉みね 昭和51年 平凡社
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広重も亜欧堂田善も…

柴田幸次郎を追う
07 /26 2016
橋の名前は両国橋。
大王石の置かれた場所は浜町。


絡まった糸が少しずつほぐれていきます。

絡まった糸といえば、実は私、
子供の頃、この絡まった糸や毛糸を解きほぐすのがなにより好きで…。
やりはじめたらもう夢中。周りなんか全然見えません。

今思うと、なんか「普通」の子供じゃなかったなァ。

でもね、その毛糸のおかげでラブレターもらっちゃいました。
ご覧の通り、黄ばんでボロボロ。なんかほろ甘くて捨てられなくて。
一応、モザイクをかけました。

CIMG3378.jpg

昔は、古くなったセーターはほどいて糸にしてから洗い、
近所の編み物上手のお姉さんに、再びセーターに編んでもらっていました。

出来上がったのは、
クリーム色の地に青色の縞模様が胸のあたりに二本入ったセーター。
日曜日に、さっそく着込んで田舎道を歩いていたら、
向こうから少年が二人、釣竿を担いで坂道を登ってきました。
お互い無言ですれ違ったけれど、翌日、靴箱に小さく畳んだお手紙が…。

でもお互いドギマギしつつそれっきり。会うことも話すこともなく幾星霜。

おっと!
追憶に浸っている場合ではないですよね。

「大王石」探索を急がねば…。

浮世絵、版画、絵、写真などを見ていると、
フランス士官や「浜町から見た両国橋」と同じ構図がよく出てくるんです。
隅田川にかかる「両国橋」、そして決まって左端に「巨木」

ひらめきました。問題解決の鍵はこれだって!
「♪浮かれ柳の…」というからには、これは柳の木だ。

歌川広重の「江都八景暮雪」にもありました。
ryogokubosetu (2)

こちらは亜欧堂田善の銅版画「両国勝景」です。
柳の木は、もうふっさふさ。この木を意識して描いているのは明らかです。

C0006825 (2)

この銅版画には大王石は描かれていませんが、
手前に石がゴロゴロおいてあります。

それにしても立派な柳の木です。
実はこれ、夫婦柳といって、もとは二本あったそうですが、
連れ合いが枯れてしまって一本になっちゃったとか。

この柳の木が立っている場所は、
「薬研堀」という掘割りに架かる橋のたもと。
薬研堀は明和8年(1771)に埋められてしまったそうですが、
この一画だけが残り、そこに小橋が架けられていたそうです。
その橋の名は「元柳橋」

それを教えてくれたのがこちら。
広重の名所江戸百景「両ごく回向院元柳橋」
回向院のある対岸から元柳橋を見た風景です。

2広重元柳橋 (2)

元柳橋の部分を拡大するとこうなります。
右端(黄色の丸の中)に大きな柳が2本、描かれています。

401px-100_views_edo_005.jpg

名画を勝手にいじってしまって、

広重さん、どうもすいません。

<つづく>

※画像提供/「広重江戸風景版画第聚成」小学館
     /「亜欧堂田善作品集」須賀川市立博物館編集 2001

念ずれば花開く

柴田幸次郎を追う
07 /24 2016
フランス士官が明治初年に写した一枚の写真。
その写真に写り込んでいた「大王石」の探索に走り出した私。
2年前の、ちょうど今ごろのことでした。

しかし、撮影場所がわかりません。遠方に見える橋の名もサッパリ。
撮影場所を特定するには、あの橋の名を突き止めなければ、
というわけで、まずは橋の向うの特徴的な白い家から探索を開始。

念ずればなんとやら
まだ本当の花が開くまでにはほど遠いですが、
一つ目の手掛かりが見つかりました。

これをご覧ください。
img209 (2)

バッチリです。あれに見えるは、まぎれもなくあの白い家です。
この写真は、神田川が隅田川に合流する地点から写したもので、
二人がたたずむ橋は、神田川に架かる「柳橋」

ということは、遠方に見えるあの橋は「両国橋」ということになります。
フランス士官が撮影したあの写真は、
武蔵国と下総国を結ぶ両国橋だったのです。

この橋の東西は、見世物小屋が立ち並ぶ江戸随一の歓楽街でした。
そしてこの橋を、浮世絵師たちは好んで描きました。

例えば、葛飾北斎。
「冨嶽三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽見」
img205 (2)

さて、隅田川に架かる橋の名は両国橋と判明しましたが、
肝心の撮影場所と「大王石」の所在地がわかりません。
柳橋より下手で、両国橋を越えたすぐの川岸あたりのはず。

なんとなく近くなってきたな、と思っていたら、
こんな写真が目に飛び込んできました。

オオーッ、これは!
橋の向うの白い家と「大王石」が写っています。
フランス士官の写真と全く同じ構図です。


タイトルもちゃんとありました。「浜町から両国橋を見る」

浜町とくれば「明治一代女」
♪浮いた浮いたと浜町河岸に、浮かれ柳の恥かしや

島倉千代子さんの甘くか細い歌声がどこからか聞こえてきそうです。

img210 (3)

この写真は撮影者も撮影年も不明。
フランス士官の写真と比べると、両国橋はより近代的になりましたが、
川岸の木は枯れて、どこか寂れた感じです。

写真の主役は両国橋ではあるけれど、
何食わぬ顔で写り込んでいる「大王石」。
是が非でも探し出さねば…。

なにはともあれ、まずは遠方の橋が両国橋で、
撮影場所が浜町河岸であることまで判明。


やれやれ。
窓に目をやると、昼なお長き夏がすでに暮れかかっておりました。

<つづく>

※画像提供/「古写真で見る江戸から東京へ」世界文化社 2001
     /「クラブホーン・コレクション 浮世絵名品展」図録 1996

始まりは一枚の写真

柴田幸次郎を追う
07 /22 2016
「江戸火消しと力石」の途中ですが、ここでいきなりはずれます。

私はしょっちゅう、こんなことをしていまして。
加えて、整理整頓が苦手ときていますから、
ブログのカテゴリも中味の分類はあやふやで、
自分でも何がどこにあるのか、トンとわからなくなりました。

が、興味は果てしなく広がってまいりますから、
思いつくまま気の向くまま、前進あるのみ。

前回、江戸・神田をベースに活躍した「柴田一門」の名を出しました。
柴田とくれば、脳裏に浮かぶのは謎の男、柴田幸次郎です。
柴田の名を見た途端、
謎を解き明かせず断念していた悔しさにメラメラと火が付きました。

途中からの読者のみなさまのために、
今までの経緯をかいつまんでご説明いたします。

2年前の2014年7月、
図書館の棚からなにげなく手に取った写真集。
パラッとめくったそのページの、一枚の写真に釘付けになりました。

それがこれ。赤丸の中をご覧あれ!
img188 (9)

明治9年に来日したフランス士官、ルイ・クレットマンが撮影したものです。

こ、これ、力石じゃないの! 

このときの私の興奮、ご想像ください。

拡大したのがこちら。
img188 (10)

刻字があります。
「大王石」と読めます。
力石に間違いありません。

見つけたからには探さなくてはなりません。

それが「力石ハンター」の宿命です。なんちゃって。

で、「この場所はどこなんだろう」となりました。
写真の説明文はただ、「隅田川に架けられた橋」としか書いてない。
特徴は橋の向うに見える白い大きな建物です。

「将を射らずんば、まず馬を射よ」

というわけで、まずは白い建物は何かを探るために、
酷暑の夏の図書館通いが始まりました。

<つづく>

※参考文献・画像提供/「フランス士官が見た近代日本のあけぼの」
         ルイ・クレットマン アイアールディー企画 2005

「は組」がなぜ群馬に?

江戸火消しと力石
07 /20 2016
群馬県伊勢崎市・諏訪神社の力石、「は組」のなぞ解きです。

なにしろ子供のころから、疑問に思ったら黙っていられない性分で…。

重さ300Kgの巨石に、繊細で美しい「は組」の線彫り。

江戸の勇みの象徴・町火消しが、半てんや纏(まとい)に記した文字は、
力文字、伊達文字などというそうです。

5群馬諏訪 (3)
撮影/斎藤氏

力文字って名称、いいですねえ。江戸火消しの心意気がビンビン。
でも、こんな立派な「は組」の力石なのに、
奉納年もこれを持った人の名前も奉納者名も入っていないのです。

最も不思議に思うのは、江戸火消しの刻字石が、
なぜ群馬県にあるのか。
さらに「大願成就」って、
一体これを担いだ力持ちはどんな大願を果たしたというのでしょうか。

力石研究の大先輩、斎藤氏にこの疑問をぶつけてみました。

「これは個人が奉納した力石だと思います。
ぼくの推測ですが、
ここ境村出身の若者がひと旗あげようと江戸へ出た。
若者の願いは、江戸の華・鳶職になること。
力持ちの彼は次第に注目されるようになり、ついに鳶・火消しの職を得た。
大願を果たして故郷へ凱旋した彼は、
村人たちに自慢の力技を披露して、記念にこの石を奉納した」

静岡県の伊豆・松崎町には、佐七という若者が故郷へ凱旋した折、
氏神様に奉納した力石が残っています。

CIMG0088 (4)
賀茂郡松崎町岩科南側・八木山八幡神社。2本の木の間に置かれています。

左側の丸い石が「佐七」奉納の力石です。
ちょっと寂しい置き方ですが…。

CIMG0087 (4)


「奉納 六拾貫余 癸卯天明三年三月 
         南新川 佐七 みち婦村 佐七」


みち婦(道部)村の佐七はかつお船の漁師ですが、
漁のない冬季は、
江戸の南新川酒問屋へ出稼ぎにいきます。
伊豆は力持ちの宝庫ですから、
腕に自信のある佐七は江戸での力比べに出場して、優勝でもしたのでしょう。
その凱旋記念に石に自分の名前を刻み、奉納したと思われます。

伊勢崎市・諏訪神社の「は組 大願成就」石にも、
伊豆の佐七のような、名前や年号の刻字があったらよかったのに。

「なぜ奉納年も名前も刻まなかったのかはわかりませんが、
ちなみに、同じ群馬県の桐生市に、
江戸神田をベースに活躍した柴田一門の力石が残されています。
桐生の有力者の招きによる力持ち興行のとき使ったものですが…」と斎藤氏。

これがその柴田一門が奉納していった力石です。
桐生市・天満宮6
群馬県桐生市・桐生天満宮 112×70×20余㎝   撮影/高島愼助教授

この境村出身らしき「は組」の若者と、
力持ち集団「柴田一門」とをつなぐ証拠は全くありませんが、
ちょっぴりでもどこかでつながっていたらいいなあ、なんて思うんです。

斎藤氏も「そりゃあ、妄想だよ」と笑いつつも、
頭の片隅で、きっとそんな夢を描いているはずです。

次回はこの「柴田一門」に触れていきます。

※参考文献/「静岡の力石」高島愼助 雨宮清子 岩田書院 2011
     /「群馬・山梨の力石」高島愼助 岩田書院 2008

諏訪神社「は組」の変遷

江戸火消しと力石
07 /17 2016
群馬県伊勢崎市境萩原の諏訪神社に残る「は組」の力石。
前回、ゴミ置き場が作られてしまった残念な姿をお伝えしました。

なにしろ私は、
こんな状態になってしまった力石を今までも目にしてきたので、
「またか」という落胆と寂しさがフツフツと。

そうした一例です。
三島市・三嶋大社 (3)
静岡県三島市・三嶋大社

「奉納 力石 元飯田町金蔵 彦太郎 福□真□ 直吉」

江戸の力持ちたちの名前がずらりと刻まれています。

以前は宝物館の前に説明板とともに保存されていましたが、
現在は裏の藪に放置。というか、放り投げられている。
宮司さんにも総代さんにも再度の保存をお願いしましたが、ナシのつぶて。
どなたも「力石」という言葉も知りませんでした。

現在、この藪の中に立ち入ることもできません。

こちらは石段にされてしまった力石です。
当事者にも、もうどれが力石だったかわからないとのこと。

CIMG0082 (4)
静岡県賀茂郡河津町・河津八幡神社

石段にされた力石は3個
以前は下の写真の河津三郎の力石「手玉石」のうしろに、
台座に乗せてきちんと保存されていました。

別の場所にあった河津三郎モニュメントのスペース確保のため、
3個の石が邪魔になり、石段にしてしまったそうです。

CIMG0083 (5)

では、伊勢崎市・諏訪神社の力石の場合、以前はどうなっていたのか、
埼玉県の研究者で関東地域で次々と新発見をしている斎藤氏と、
力石研究の第一人者・高島愼助四日市大学教授の助けを借りて、
お伝えしていきます。

今から47年前の1969年発行の「境風土記」には、
地元の人の談話として、こう書かれています。

「境内に転がっているのは重さ八十貫もある力石である。
私らが転がそうとしてもびくともしないヤツを担ぎあげた人がいたのである。
この石は境町の唯一の力石。
知らずにいて失ってしまうのは惜しいことである」

47年前には力石は境内に一個あり、ただ転がして置かれていたようです。

この力石のことは、2003年発行の
「境の石造物」にも取り上げられており、
「個人名はわからない。恐らく江戸火消し「は組」に属した者。
八十貫は300Kgで、これは米俵5俵分の重さである」

2007年に、高島教授がここを訪れています。
そのときの写真です。

神社群馬・長野の力石諏訪
左が「は組」の力石で70×57×18㎝ その横の力石は82×40×35㎝ 
撮影/高島教授

「このころはまだ前からきちんと写せました」と高島教授。
ですからこれが、「は組」力石の本当の姿ということになります。

47年前は「町で唯一の力石」と記されていましたが、
この時点で2個確認されたということです。

これが現在の状態です。
前の写真と姿が少し違って見えますが同じ石です。
黄色の矢印の石も力石です。

1群馬諏訪 (2)
撮影/斎藤氏

以上のことから、
以前は境内に転がっていただけの「は組」は、いつのころか保存され、
そのときにはもう一つ、力石が増えていた。
そして、ゴミ置き場は、
高島教授が訪れた2007年には、まだ設置されてはいなかった、
ということがわかりました。

47年前の地元の方が、
「失ってしまうのは惜しい事である」といい、その後、保存がなされた。
しかし、さきに紹介した静岡県の2例やここの力石を見ると、
後世の人はそれをあっけなく壊してしまいます。

石を壊すということは、これを担いだ人の魂も、
それを讃え惜しんで保存した地元の方々の心をも壊してしまうことだと、
私は思うのです。

「庶民の心の遺産」であることを、どうか忘れないでいてください。

※参考文献/「群馬・山梨の力石」高島慎介 岩田書院 2008

「は組」の力石

江戸火消しと力石
07 /14 2016
江戸火消しと力石について、少し語っていきたいと思います。

徳川将軍の時代、江戸には3つの消防組織がありました。
幕府直轄の大名火消し定火消し
そして町人で組織された町火消し

この町火消しは八代将軍吉宗のとき、南町奉行の大岡越前守が
名主たちの協力で作ったもので、いろはで組分けされていたため、
「いろは四十八組」と呼ばれていました。

町火消し人足は1万数千人もいたといいますから、凄いですね。

その火消し組に力持ちたちも名を連ねていました。
その痕跡を少し紹介していきます。
写真はすべて、埼玉の研究者・斎藤氏の撮影です。

まずは「は組」。

こちらは群馬県伊勢崎市にある「は組」の力石です。
1群馬諏訪
伊勢崎市境萩原・諏訪神社

なんか変ですよね。
石も説明板も反対側を向いています。

DSCF1766.jpg

「力石の前に大きなゴミ置き場を作ってしまっていて、
正面から全体の写真を撮れません。行政はどうしようもないです」
と斎藤氏。

伊勢崎市さあ~ん! ひどいですよ~!

大谷大学名誉教授で宗教民俗学がご専門だった五来重教授は、
著書「石の宗教」にこう書き残しています。

「名もない庶民は記録文献にのるような歴史はのこさない。
のこすとすれば石で造った石塔や石碑であり…(略)

ことに石塔、石仏、石碑は雨の日も風の日も晴れの日も路傍に立って、
通る村人にほほえみかけ、見る人の心をなごませる。
それは子孫に何ものこせなかった先祖たちの心の遺産であると思う」

斎藤氏がどんなにがんばっても、
ゴミ置き場があるため、こんなふうに横向きにしか撮影できません。

3群馬諏訪 (2)

PC操作で縦に直し、
刻字が少しでも確認できるよう色調を変えてみました。
でもあまり変わりませんね。うっすらとしかわかりませんが、
左端に大きく「は組」と刻まれています。

3群馬諏訪
70余×57×18㎝

「貫目 八拾貫目 江戸 は組 大願成就」

「は組」の文字の部分です。こちらもPCで縦にしました。

5群馬諏訪

伊勢崎市文化財課さんと諏訪神社さんへお願いです。

「石碑以外、
子孫に何も残せなかった先祖たちの心の遺産」
に、

もう一度、目を向けてください。

この石は、自分たちの「生きた証し」「誇り」を刻んでいった
名もなき庶民の群像です。

その熱き思いを汲み取って、

どうか心ある新たな保存を!

「馬」のあれこれ③

力石
07 /11 2016
もう誰も通らなくなった峠道に、今も立ち続けている馬頭観音さん。

草に埋もれながら手を合わせ、来るあてもない旅人たちの安全を
一人ぼっちで祈っている、切ないけれど決して惨めなわけじゃない。

こちらは町に残った馬頭さんです。
摩耗していますが、消防分団の駐車場に保存されています。

野の仏も町の仏も祈りの心は同じです。

CIMG1115 (2)
静岡市

この馬頭さんの造立は天保年間。
北村、東村、羽高村と刻まれていますから、
元はこの3つの村境にあったものと思われます。

こちらは文字だけの馬頭観音(左)です。
右の石碑はこの先にある「平沢観音」への道しるべ
CIMG1304 (2)
静岡市

馬との暮らしが絶えて久しくなりましたが、
今もその痕跡がこうして存在しているのは、
いいことだなあと私は思うのです。

学校の行き帰りに子供たちはここを通ります。
全く関心を持たなくても、記憶のひだのどこかに刻まれるはずです。
その記憶が後年、必ず蘇えります。
私自身がそうでしたから。

長野県野辺山の「大馬頭冠像」
img088.jpg
画/酒井 正氏

人生の終盤に入り始めたころ、ふと馬頭観音さんが目に止まりました。
そのとき、まざまざと浮かんできた遠い記憶がありました。
「馬力屋のトメさん」です。

長い坂道を馬のひづめだけがカッカッと闇夜に響きます。

戸を開けると、馬がただ一人でまっすぐ登ってきました。
荷車の空の荷台には、
泥酔して前後不覚のトメさんが大の字に伸びています。
母が言いました。
「馬は利口だから、ああしてトメさんを家まで連れて帰るんだよ」

それから間もなく、
田舎でも車の所有が増えて、馬力運送業のトメさんは廃業
あのときの馬はどうなったのかはわかりません。

こちらは練馬区大泉学園町に残る
「力持ち惣兵衛さんの馬頭観音」です。
練馬区登録有形民俗文化財。
惣兵衛の力石
提供/高島愼助四日市大学教授

正面に「馬頭観世音」
両脇に「當知是處 即是道場」
 (まさにここ すなわちこれ どうじょうとしるべし)

「天保十一庚子天 九月日 加藤惣兵衛七十六秤目」

七十六秤目(はかりめ)」とあるので、力石であることがわかります。

実はこれ、惣兵衛さんが建てた馬の墓石なんです。
この石にはこんな話が伝わっています。

ある日、惣兵衛さんは武家屋敷の主人から、
「この大石を持ち上げられたら差しあげましょう」と言われて挑戦。
見事に担ぎあげます。

約束どうり石を貰い受け、愛馬の背中に乗せて家路を急ぎました。
ようやく家の近くまで来た時、
馬は石の重さに耐え切れず、そのまま押しつぶされて息絶えてしまいました。
惣兵衛さんは泣く泣く馬を葬り、この石を墓標にしたということです。

<ムチャしたものですねえ。

自分を押しつぶした石が墓石になって、自分を圧し続けるってのも
なんだかなあ。
それがまた文化財になったというのも、
お馬さんにとっては複雑な心境だろうなあ。

こちらは馬頭さんではありませんが、馬の絵が刻まれた珍しい力石です。

矢口馬の絵千葉
千葉県山武郡大網白里町(現・大網白里市)・矢口神社

躍動感あふれるお馬さんです。
この石に刻まれた「今井久吉」さんも、
トメさんのように、馬と関わって生きてきた人なのかもしれません。

秋風に馬の絵踊る力石  高島愼助

※参考資料・画像提供/「東京の力石」高島愼助 岩田書院 2003
           /「力石・ちからいし」高島愼助 岩田書院 2011
※画像提供/「郷土の石佛・写生行脚一期一会」酒井正 私家本 平成22年

謎解きは楽し

力石余話
07 /08 2016
「馬」の途中ですが、またまた話をそらします。

先日、県立図書館へ行った折、
以前見た「千社札」の本が目に留まりました。
パラパラとめくり、再びこの札とご対面。

そこでハタと…。
この札は明治の力持ち「神田川徳蔵」を書いたとき、
「力石を上げている珍しい千社札」とだけしか記さなかった。

それがこの札です。ほれぼれするようないい絵柄です。

img290 (2)

「千社札・二代目銭屋又兵衛コレクション」より

神田川徳蔵の記事と徳蔵の千社札は2014年9月10日、12日に載せています。
ぜひお目を通してください。

さて、千社札です。
これは観音霊場などを巡った折、
功徳を積むために寺社へ貼ったものですが、これが次第に、
浮世絵師や書家に書かせた自慢の札を交換し合う
「納札会」として大流行をみます。

図書館で再び目にしたこの千社札には、こう書かれていました。

「うつぼ 荒いせ」
「明治維新永代濱力競」

そして男の半てんには「荒伊勢」の文字。

私は以前、これをうつぼ料理屋「荒伊勢」の千社札と思い込みました。
で、改めてみたら「明治維新 永代濱 力競」と書いてある。
「永代濱」ってどこよ? 「力競べ」? この力持ち力士は誰?
またまた謎解きをしたくなりました。

困った時の神頼み、早速埼玉の力石研究者・斎藤氏にSOS。
凄いですね。
朝依頼して夕方仕事から帰ってきたときには、
斎藤氏はすでに謎を解いていました。

永代濱で検索してみてください。
うつぼは地名。永代濱は荷揚げ場でした」

濱摂津名所図会永代
「摂津名所図会」の「永代濱」

大坂! うわわわわ。

「明治維新、永代、力持ち、納札とあったので隅田川、永代橋との先入観で、
まさか大坂とは思ってもみなかった」と斎藤氏。

私も同じです。

現在の大阪市西区靭本町に、
塩干魚や昆布などを商う問屋街があって、
そこの永代濱で荷揚げをしていたとのこと。

こちらは芳瀧が描いた「浪華百景・永代濱」
img087.jpg
大坂府立中之島図書館

大坂の方々なら、
「永代濱は大阪に決まってるじゃないの」とおっしゃるでしょうが、
すみません。全く考えが及びませんでした。
まして私は「濱」を「演」と誤読までしていたので…。

斎藤氏いわく。
「おもしろいやら嬉しいやら。謎解きは実に楽しい!

でも斎藤さん、ちょっと待った!
まだ謎は残っていますよ。

「荒いせ」とは何なのか。
永代濱の問屋の可能性がありますけど、
それはまだ判明したわけではありません。

また、荷揚げ場には力自慢の男たちが大勢働いていたはず。
だからこのような力くらべが千社札になって残っている。
ならばその力石はどこかにあるはずです。

大坂力持ち番付けに名を残した「若濱栄次郎」や、
此花区の地蔵堂の「左志石」に名を刻んだ「若濱□□」は、
もしかしたら、この永代濱の関係者かもしれません。

謎の「三不聞猿」、謎の「馬頭観音」
そして今回の「永代濱」

なぞなぞはまだまだ続きますよ~!

※画像提供
/「千社札・二代目銭屋又兵衛コレクション」姫野希美・中嶋桂子編集
大西和重・装丁 青幻舎 2004

「馬」のあれこれ②

力石
07 /04 2016
前回、卍を刻んだ顔らしきものを胸から出している
謎の「馬頭」さんをご紹介しました。

静岡県伊東市にはこんな馬頭さんもいらっしゃいます。
観音様におんぶ、というより背後霊みたいにのしかかっています。

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静岡県伊東市・弘誓寺の無縁墓地
「伊東ー石佛石神誌」伊東市立伊東図書館 平成12年より

力石にも「馬」を刻字したものがあります。
場所は東京都墨田区の牛嶋神社
その昔は「牛御前社(うしごぜんしゃ)「牛の御前(みまえ)といいました。

ここです。奈良・大神神社と同じ三つ鳥居です。
CIMG0938 (2)

こちらは、
「新撰東京名所図会」=風俗画報 明治30年=に描かれた牛嶋神社です。
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左が隅田川。桜の名所でした。
黄色の丸が本殿。赤丸の中に牛が描かれています。

その撫で牛さんは今も健在です。
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なぜか赤いよだれ掛けをかけています。

ちなみに、
地蔵さんによだれ掛けをかけるのは、
死んだ我が子の匂いを地蔵さんに知ってもらうためで、
「この匂いのする幼子が賽の河原で泣いていたら、どうかお救いください」
と願った哀しく切ない親心がこめられているんです。

ここの牛さんのはどういう意味があるのでしょうか。
よだれに薬効があるとか。

また、牛がいるからといって、天神さんではないみたいです。
「牛は大人(うし)または主(ぬし)の借字」とか。

青丸のところに石碑が描かれています。
いま、このあたりに力石が集められていますが、
残念ながら、とても「保存」とは言い難い状態です。

CIMG0926 (2)

ここには江戸力持ちが持った9個の力石があります。
酒問屋・内田屋の金蔵八丁堀・亀嶋平蔵などの有名人がずらり。

この神社をブログに載せる方はたくさんいても、三つ鳥居や撫で牛ばかり。
まあこの状態では力石に目が向かないのも無理はありません。

コンクリートで固められてただの残骸と化しています。泣けてきます。
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「馬石」に至ってはめり込んじゃってます。
CIMG0928 (2)
105×36×36㎝

「奉納 馬石 西川岸 清治郎 八丁堀 平蔵」

馬頭さんではありませんが、馬ヅラのように長い石です。

1986に伊東明上智大学名誉教授が描いた「馬石」です。

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「東京都墨田区内の力石の調査・研究」伊東明 1986 上智大学紀要

保存は今ひとつですが、嬉しかったことがあります。
若い巫女さんに力石の場所を聞いたら、即座に「はい。あそこです」と。
ちゃんと力石をご存知だったのです。

牛の御前さま。改めて申し上げます。

これだけの文化財的力石をお持ちですから、
今度改築するときには、ぜひ、それなりに美しく保存していただけたら、

江戸の華が「モオー」ひとつ開きます。


雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞