カラン、コロン
柴田幸次郎を追う
「近代日本のあけぼの」と題されたフランス士官の写真集。
そこに写っていたのは、
両国橋と元柳橋河畔の名物・柳の木と「大王石」。
あの永井荷風もこの場所を「日和下駄」に書いています。
「両国橋より稍(やや)川下の溝に小橋があって、元柳橋と云われ、
ここに一樹の老柳ありしは柳北先生の同書にも見え…」
「柳北先生」とは、江戸時代、外国奉行会計副総裁として幕府に仕え、
維新後は朝野新聞社を興して活躍した成島柳北のこと。
奥医師・桂川甫周を父に持つ今泉みねの聞き書き、
「名ごりの夢」にも、この柳北が出てきます。
私はこの「名ごりの夢」が好きで、
いつでも手に取って読めるところに置いてあります。
その成島柳北より桂川甫周にあてた手紙です。

ちなみに前回ご紹介した亜欧堂田善。
この人は老中・松平定信から扶持を受けていた人ですが、
桂川甫周の遺品の中に、田善の作品があったそうです。
さて、荷風が江戸切り絵とこうもり傘を手に、
日和下駄をカランコロンさせながら東京の町を歩いたのは大正時代のこと。
しかしこのわずかに残った薬研堀も、明治36年の埋め立てで、
柳も橋も姿を消してしまったので、
荷風はそれを、柳北の本や絵の中でしか見ることができませんでした。
埼玉の研究者・斎藤氏は、
「永井荷風が柳北や小林清親の作品を引いて取り上げていたことで、
ここがよほどの名所だったことはわかります。
しかし、柳のことだけで大王石には一言も触れていないのが寂しい」と。
その小林清親の「元柳橋両国遠景」です。
少々赤丸がきつすぎました。清親さまご勘弁を。

柳の木の下に石が描かれています。
荷風はこの絵が気に入っていたようで、
「日和下駄」に絵の詳細を記しています。
でも柳の木や縞の着流しの男や猪牙(ちょき)舟に目を向けただけで、
木の下に描かれた石のことには全く言及しておりません。
もっとも荷風がここを歩いたのは薬研堀が埋められた後でしたから、
仕方がありませんが、でも残念です。
何事も確信がないと動かない師匠の高島教授が、
「この絵の石、本当に大王石かなあ」と言うので、専門家にお聞きしました。
東京都練馬区立美術館の清親研究者です。
「力石でよいのではないでしょうか。
意識的に描いているにほかありません」
そしてもう一つ「石が描かれている絵」を教えていただきました。
それがこちら。井上安治の「元柳橋」。
井上安治は清親の弟子で、明治22年、26歳で夭折。

東京都立図書館
確かに右端に石らしきものが描かれています。
遠くに両国橋と例の白い家まであります。
「名ごりの夢」の語り手で、奥医師・桂川家の姫様・みねさんは、
11歳のころ、鉄砲洲のこの大川端へ引っ越します。
お屋敷には専用の船着場があったそうです。
家には柳北など、のちに「近代日本のあけぼの」に貢献した洋学者たちが、
たくさん集まっていたといいます。
みねさんは5、6歳のころ、あの福沢諭吉におんぶされて、
諭吉の家へ行ったそうです。そこは二間しかない粗末な長屋。
幕府瓦解ののち、みねさんと父の桂川甫周は、
かつての諭吉の家と同じ二間しかない長屋住まいになった。
殿様だった父は銭湯の入り方がわからずまごまご。
みねさんは初めての買い物に、ランプの油を買いに油屋へ行き、
振袖姿で三つ指ついて
「どうぞ、油を少々いただきとうございます」
それを見た油屋のおかみさん、
「まあ、徳川のおちぶれのひいさまが…」
<つづく>
※参考文献・画像提供/「名ごりの夢」今泉みね 昭和51年 平凡社
そこに写っていたのは、
両国橋と元柳橋河畔の名物・柳の木と「大王石」。
あの永井荷風もこの場所を「日和下駄」に書いています。
「両国橋より稍(やや)川下の溝に小橋があって、元柳橋と云われ、
ここに一樹の老柳ありしは柳北先生の同書にも見え…」
「柳北先生」とは、江戸時代、外国奉行会計副総裁として幕府に仕え、
維新後は朝野新聞社を興して活躍した成島柳北のこと。
奥医師・桂川甫周を父に持つ今泉みねの聞き書き、
「名ごりの夢」にも、この柳北が出てきます。
私はこの「名ごりの夢」が好きで、
いつでも手に取って読めるところに置いてあります。
その成島柳北より桂川甫周にあてた手紙です。

ちなみに前回ご紹介した亜欧堂田善。
この人は老中・松平定信から扶持を受けていた人ですが、
桂川甫周の遺品の中に、田善の作品があったそうです。
さて、荷風が江戸切り絵とこうもり傘を手に、
日和下駄をカランコロンさせながら東京の町を歩いたのは大正時代のこと。
しかしこのわずかに残った薬研堀も、明治36年の埋め立てで、
柳も橋も姿を消してしまったので、
荷風はそれを、柳北の本や絵の中でしか見ることができませんでした。
埼玉の研究者・斎藤氏は、
「永井荷風が柳北や小林清親の作品を引いて取り上げていたことで、
ここがよほどの名所だったことはわかります。
しかし、柳のことだけで大王石には一言も触れていないのが寂しい」と。
その小林清親の「元柳橋両国遠景」です。
少々赤丸がきつすぎました。清親さまご勘弁を。

柳の木の下に石が描かれています。
荷風はこの絵が気に入っていたようで、
「日和下駄」に絵の詳細を記しています。
でも柳の木や縞の着流しの男や猪牙(ちょき)舟に目を向けただけで、
木の下に描かれた石のことには全く言及しておりません。
もっとも荷風がここを歩いたのは薬研堀が埋められた後でしたから、
仕方がありませんが、でも残念です。
何事も確信がないと動かない師匠の高島教授が、
「この絵の石、本当に大王石かなあ」と言うので、専門家にお聞きしました。
東京都練馬区立美術館の清親研究者です。
「力石でよいのではないでしょうか。
意識的に描いているにほかありません」
そしてもう一つ「石が描かれている絵」を教えていただきました。
それがこちら。井上安治の「元柳橋」。
井上安治は清親の弟子で、明治22年、26歳で夭折。

東京都立図書館
確かに右端に石らしきものが描かれています。
遠くに両国橋と例の白い家まであります。
「名ごりの夢」の語り手で、奥医師・桂川家の姫様・みねさんは、
11歳のころ、鉄砲洲のこの大川端へ引っ越します。
お屋敷には専用の船着場があったそうです。
家には柳北など、のちに「近代日本のあけぼの」に貢献した洋学者たちが、
たくさん集まっていたといいます。
みねさんは5、6歳のころ、あの福沢諭吉におんぶされて、
諭吉の家へ行ったそうです。そこは二間しかない粗末な長屋。
幕府瓦解ののち、みねさんと父の桂川甫周は、
かつての諭吉の家と同じ二間しかない長屋住まいになった。
殿様だった父は銭湯の入り方がわからずまごまご。
みねさんは初めての買い物に、ランプの油を買いに油屋へ行き、
振袖姿で三つ指ついて
「どうぞ、油を少々いただきとうございます」
それを見た油屋のおかみさん、
「まあ、徳川のおちぶれのひいさまが…」
<つづく>
※参考文献・画像提供/「名ごりの夢」今泉みね 昭和51年 平凡社
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