元和元年(1615)の大坂夏の陣の直後、
信濃から甲斐、そして駿河の甲駿国境の村、内房郷のそのまた果ての、
大ヅモリという山中に落ち延びてきたとされる望月一族。
「由比町の歴史」の著者、手島氏はこう記しています。
「何度も同じことを。ミミタコだよ」なんて言われそうですが、ま、とりあえず…。「天正10年、主君の武田氏滅亡の折り、生き残った望月城の城主の弟
「望月直義」は、新たな主君として真田氏の元へ。
しかし33年後の大阪夏の陣で敗北。主君・真田信繫(幸村)と共に討死した」
「当時、直義の妻がどこに潜んでいたかは不明ですが、
妻は10歳になる遺児・義盈を連れ一族郎党と共に、
駿州内房(うつぶさ)大ヅモリの山奥に隠れたのです」
尾根筋を行く
「入山街道」。その街道沿いの大ヅモリ山頂付近にそびえる大榧(かや)の木です。

静岡県・旧芝川町内房大晦日
駿州内房郷には早くから、
武田方の穴山信君配下の「野月党」望月一族がいました。
「武田氏家臣団」にも出てくる
望月与三兵衛尉(よぞうひょうえのじょう)3兄弟です。
そうした同族の手引きで、この山中に身を隠したものと思われます。ところが、10年後の寛永2年(1625)8月13日、
直義の遺児・義盈は、20歳の若さで没してしまいます。
あとに2児が残されます。
前回お伝えした勝範と重範の兄弟です。甲斐へつながる「入山街道」際の広場に置かれた力石です。
このように放置されていましたが、現在は立派に保存されています。
全部で5個あったそうですが、右の石垣を作るとき使ってしまったそうです。
父の死後、二人の兄弟は無事成人しますが、
嫡男の勝範夫婦が「同時に死亡」という悲劇が起ります。
夫婦が同時に死亡とはただごとではありません。
何があったのでしょうか。手島氏は、
「長男の勝範夫婦の死亡は、寛文12年(1672)のこと」で、
「勝範、行年32歳」としていますが、
父の義盈が死んだ寛永2年から勝範夫婦が死んだ寛文12年までは、
47年もありますから、32歳ということはあり得ません。
父親の年齢や死亡年が間違っているか、または、
義盈と勝範・重範兄弟の間にもう一代いないと年齢が合いません。
ま、それはともかく、
「同時に両親を失った嫡男・勝命はこのとき7歳で、
「父の弟、つまり叔父の重範に育てられた」としています。下の写真は、その重範の末裔、由比・入山の大庄屋、望月幸平翁が、
明治8年に架けた由比川の「玉鉾橋」。

「東山寺の歴史」より
ただし、この勝範の嫡男・勝命については、手島氏に混乱が生じ、
下巻では「嫡男・勝重」としており、
「勝命は望月村の有力者の子かもしれない」という記述も現れます。
名前や年齢などに矛盾はありますが、それはひとまず置いといて、それからほどなくしてこの一族は、内房郷大ツモリを離れます。
由比・北田への移住です。
人馬がやっと通れるほどの入山街道を、
大海原の広がる駿河湾へ向けてひたすら歩いたことでしょう。
移住したのは、延宝か天和のころといいますから、
山奥での暮らしは60~70年ほど続いたことになります。
由比へ出た一族は、造酒業の株を買います。
ただし、酒造株を買ったのは元禄4年(1692)2月だそうですから、
移住からすでに20年近くたっています。
その間の生計はどうしたのでしょう。気になるところです。
両親が亡くなったとき7歳だった勝命もすでに27歳。
酒造業の株は、叔父の重範名義で購入しています。
叔父さんももう還暦まじかのお年になっているはずです。
酒造業の株を買うには大金が入ります。
どこからそんな大金を手に入れたかというと、「一族に、北松野・妙松寺の日了上人という人がいて、
その人がよく世話をしてくれた。百両ぐらいは無造作に貸してくれた」
手島先生、まるで見ていたような書き方ですが、
たぶんそんな話が、望月家のご子孫に伝わっていたのでしょう。
北松野の妙松寺は、「内房口の戦い」で敗れた荻氏の開基で、
あの愛染明王像がある寺です。
江戸時代には十石二斗の御朱印寺になっています。
ただの同族に百両ものお金をポンと出すとは思えません。
大ヅモリへ落ちてきた望月一族というのは、
やはり、手島氏いうところの主君筋だったのかもしれません。
60年もの山奥暮らしが成り立ったのも、主君筋だったからだと思えます。由比・東山寺に立つ重範の末裔、幸平翁の
顕彰碑です。

「東山寺の歴史」より
右は入山街道の改修・架橋などの功績をたたえた碑。昭和32年建立。
碑文「幸平道之標(しるべ)>は山岡鉄舟の揮毫。
左は由比本陣・16代当主が大正3年に建立した「橋梁の遺業」の碑。
まあ、そんなわけで、
勝範の遺児・勝命は、その後、大酒屋・望月八郎左衛門と名乗り、
その酒造業は昭和の時代まで子孫に受け継がれたということです。
そして叔父の重範の系統は、
子の藤三郎が由比・入山へ進出して大庄屋となり、
入山・望月家の祖となったということです。※参考文献/「由比町の歴史 上・下」手島日真 由比文教社 昭和47年
※参考文献・画像提供/「東山寺の歴史」望月久代 私家本 2015