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「全員、聞か猿」の続き

弥五郎丸さんや路傍学会長さんから、
「全員、聞か猿というのは初めて見ました」
とのコメントをいただいたので、大急ぎで調べてみました。
まだ調べ足りませんが、

三匹とも耳を押さえている青面金剛像が描かれている絵があるようです。
それは、

「大津絵」

取り急ぎ。

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全員、聞か猿

庚申さんが出たついでに、もう一つご紹介します。

青面金剛明王像です。

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静岡市葵区有永・聖楽寺

この地区唯一の臨済宗のお寺です。寺の開創は推定、室町時代末。

像に製作年代は刻まれていませんが、
境内にある「六地蔵」と同時代、江戸中期ごろといわれています。

その「六地蔵」の一部です。
もうただの岩の塊り状態ですが、かすかに「六道」の文字が見えます。

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青面金剛像は丸彫りに近い浮彫りで、
6本の手のうち5本は、それぞれお馴染みの持ち物を持っていますが、
一本だけ手ぶらで、ショケラ(人間)を欠いています。

足元の両脇につがいの鶏がいます。
庚申さんの鶏の表現の仕方はいろいろあります。
一羽ならオンドリ、二羽だと夫婦か母子、三羽ですとファミリー。
ここのは夫婦みたいですね。

この青面金剛は私の好きな像の一つですが、
面白いのは下段の額縁にいる三猿です

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猿というより坊さんが座っているみたいな感じですが、
この3匹、みんな目をカッと見開いているんです。
口にも手をあててはいません。
いっせいに両手で耳を押さえているんです。すべて「聞か猿」。

左端も聞か猿。
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右端も聞か猿。
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真ん中も聞か猿。
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「三聞か猿」。どうしてなんでしょう。
庚申塔に詳しいブログ「路傍学会」の路傍学会長さんに、
教えていただかなくては、と思っています。

話変わって、
本堂の裏の高台に観音堂があります。
たびたび、俳諧「白兎園」の句会の会場になったところです。

芭蕉の弟子に杉山杉風(さんぷう)という俳諧師がおりました。
ある俳諧の席に突如一匹の白い兎が現れて文台に登ったそうで、
それを見た芭蕉が「白兎園」の号を起こし、
弟子の杉風に与えたと伝えられています。

さて、明治元年、幕府崩壊で、
杉家兎門十世が駿州へ移住してきます。
「白兎園」の拠点が江戸から静岡へ移ったわけです。

その後、地元住民の手に渡り、
明治38年、この寺の近くに住んでいた織田麻山が、
「白兎園」十三世となってこの地に俳諧の花を咲かせます。

これはその織田家に伝わる「白兎の文台にのぼりたる図」と、
芭蕉筆の「初鰹」の句です。

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「麻機誌」麻機誌をつくる編集委員会 編・安本博 昭和54年より

「白兎の図」には芭蕉、其角、杉風と白兎が描かれています。
現在、静岡市文化財資料館で保管。

静岡の農村に移された「白兎園」は十八世まで続きますが、
跡を継ぐ者が途絶え、昭和47年をもって終わってしまいます。

これは十三世織田麻山の玄孫の方からいただいた最後の句会の案内です。

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町の中心からほど遠い山あいの集落で、農業に従事しつつ、
みんなで寺の観音堂に集まって俳諧に興じていたなんて、

なんと素敵な!

そして散ったそのあとも、
墓石に自作の句を刻んで風流を楽しんでいらっしゃる。
みなさん、見事な人生です。


桐一ト葉人は未だし秋こころ    十三世  織田麻山

「白兎園」最後の人の句。

露静寂一切空の朝心           十八世  佐藤一州  

       

288年前の庚申さん

坂道の登り口に今も立っている庚申さんです。

夏でも、
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冬でも。
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建てられたのは今から288年も昔の享保13年(1728)戌申。

この年の「名主・彦左衛門日記」が残っています。

「享保十三年申
一、同七月八日大満水。前々川通り普請大分出来申し候」(岩崎文書)

このあたりは低湿地帯のため、人々は洪水と闘い続けてきました。
腰まで泥につかりながらの田植え。
農民たちは手足が丸太ん棒のように腫れあがる病いに悩まされました。

こちらは、今から47年前の同じ庚申さんです。
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「麻機誌」より

しかし6年後の昭和53年、河川工事のため撤去。
帰ってきたものの3つに割れ、コンクリートでつなぎ合わせてあったそうです。
それでもまだ碑文の判読はできました。

下は10年ほど前の私の調査ノートです。
つなぎ目はまだしっかりしていたし、文字も充分読み取れました。

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上部に「日輪」「月輪」
真ん中に、「奉待庚申供養塔」
下部に文字で「猿」「鶏」
その下に不鮮明ですが「結」の文字。一番下は判読不能。

2016年現在の姿です。
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割れ目も痛々しいただの石になり果てました。
どうやら新たにコンクリートで石を塗ったらしく、上部の文字は完全に消滅。
かすかに「庚申」の文字が読めるだけになっていました。
心の入っていない補修とはこのことです。

情けない姿になってしまって…。
でも、ボロボロになってもがんばれ! 最後の最後までふんばれ!

と、声援を送りつつ、庚申塔に寄り添うように立つ木に触れた途端、
「痛アー!」。指から血が…。

よくよく見たら、なんとこの木、トゲだらけ。
まるで「画鋲の木」です。

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この木、昔からあったような顔で立っていますが、
47年前の写真には写っていない。いったいいつごろここに生えたんだろう。

この「画鋲の木」の下には、炎天をさけて涼をとる人たちがよく佇んでいるし、
ウオーキングの人たちも子供たちも大勢ここを通っている。
こんなヘマをやらかすのは、万事そそっかしい私ぐらいなんだと気落ち。

でも、今まで「危ないから伐れ!」という声が出なかったのは救いです。

こんな不思議な木があったなんて、恥かしながら初めて知りましたが、
よくよく考えれば、昔の子供はこういう「危険」を体験して知恵をつけていき、
次なる大きな危険を自ずと回避していたのかもしれません。
私も昔の子供ですが、ちょっと体験不足でした。トホホ。

さて
ここに生きた288年前の人々の、
その熱い思いがしみ込んだ庚申さんとそれを守る「画鋲の木」

少々痛い目にあったけど、
「絵になる」この風景、いつまでも大切に守っていけたら、
そして、昔の人たちの声なき声に耳を傾ける、そんな思いを共有できたなら、
みんな優しくなれる、

そんな気がします。

と、ちょいといい恰好したけれど、やっぱりあの木は痛すぎる!


※参考文献/「麻機誌」麻機誌をつくる編集委員会 安本博編 昭和54年

浮世は夢の如し

「大ツモリ物語」、最終回です。

信州から落ち延びてきた望月一族が開いたと推定される大晦日集落。
文化文政のころには家数50軒ほどになったものの、昭和50年代には
10軒ほどに減少。平成の今はさらに減って2軒になってしまいました。

標高400㍍の尾根筋に、
甲斐から駿河湾沿いの由比へ抜ける入山街道が走っていました。
今、その大ツモリの森の中に廃屋が残っています。
まだどなたかが暮らしているような、そんな気配さえ感じられます。

入山街道からはずれた一画に芭蕉天神宮があります。
手島日真氏の「由比町の歴史」にここのご神体のことが書かれていました。

「内房・大晦日の芭蕉天神のご神体は、富士郡芝川町(現・富士宮市)の
西山本門寺に祀られている」

その西山本門寺にある伝「織田信長の首塚」です。
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静岡県富士宮市西山

驚きました
一昨年亡くなられた神社惣代の望月氏はご存知だったのでしょうか。
縁者の方は「恐らく知らなかっただろう」と。

なんでも明治の廃仏毀釈の折り、当時、由比加宿問屋をしていた
由比太郎左衛門がこの寺へ納めたというのです。

廃仏毀釈なんだから神社がご神体を隠すこともないのに、と思っていたら、
どうやら仏教徒も黙っていなかったみたいですね。

こちらは仏教排斥運動のとき切りつけられた遠州最大の仏さまです。
お顔だけでなく胸にも無数の疵があります。「丈六」という文字も。

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浜松市・龍潭寺

手島氏によると、政府の仏教排斥政策に怒った仏教徒たちが、
逆に神社のご神体を破壊する事態が各地で起き、
ご神体の代わりに破れうちわを神殿に飾るなどしたそうです。

敬ってきた仏さまを一転、首を切って捨ててしまったり再び敬ったり…。
民衆というものは物事の善悪ではなく、お上のいうことならなんでも、
「ヘヘーッ」と聞いてしまうものなんですね。愚かです。

でも、神社のご神体を西山本門寺という寺で保護したというのは、
思いもよらない不思議な行為です。
信徒からは非難されるかもしれないのに、よく決断したと思います。
表向きとは別にこの事態を憂慮していた人たちが結構いたということでしょうか。

で、西山本門寺に移されたご神体を大正時代に鑑定した人がいて、
「ご神体には、駿河国・小島(おじま)松平家の紋所がついていた」
と手島氏に話したそうです。

この内房村は幕府直轄領でしたから、なんでかなあと思います。
小島藩と芭蕉天神宮の関係って何だろう。
地誌「駿河記」にあった駿河の船手奉行とおぼしき
山下弥蔵屋敷跡、大ツモリにあり」の記述が少々気になります。

いずれにしても、
ご神体に大名の紋所が印されていたというのはおもしろいですね。

この小島藩・滝脇松平氏の紋所、今は地元小学校の校章になっています。

小島藩・滝脇松平氏家紋     静岡市立清水小島小学校の校章
紋小島藩 小島校章

小島藩というのは1万石の小大名で、
甲斐と駿河の交通の要衝に抑えとしてあった藩です。貧乏藩で有名でした。
でも今この館跡は、国指定史跡になっています。

その松平氏家臣に、江戸中期の戯作者・恋川春町がいます。
狂歌名は酒上不埒(さけのうえのふらち)。

酒の上での不埒だったかは知りませんが、
時の老中、松平定信の文武奨励政策を、
「ぶんぶぶんぶと蚊みたいにうるさいことよ」と揶揄した
「鸚鵡返文武二道」(おうむがえし ぶんぶのふたみち)を書き、怒りに触れ、
のちに謎の死を遂げます。

代表作は、片田舎に暮らす金々先生こと金村金兵衛の物語、
「金々先生栄花夢」(きんきんせんせい えいがのゆめ)。
駿河の貧乏藩の家臣が描いた人物が「金、金」というのも皮肉ですが。

この金々先生、浮世の楽しみを味わい尽くそうと江戸へ出ます。
御利益で名高い目黒不動へ来て、近くの粟餅屋へ入ってついまどろみ、
栄華を極めた夢を見ます。

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「日本名著全集・黄表紙廿五種」日本名著全集刊行会 大正15年

金々先生、夢の中で金持ちの養子となったものの放蕩がたたってついに勘当。
そこで目が覚めた。
夢の中では面白おかしく30年を過ごしますが、
目が覚めて現実に戻ったら、いまだ粟餅はひと臼も出来上がらず…。

そこで金兵衛、悟ります。

浮世は夢の如し。歓びをなす事いくばくぞや。
一生の栄花も邯鄲(かんたん)の枕の夢も、ともに粟粒一炊の如し」

ところで芭蕉天神宮のご神体は、その後どうなったのでしょうか。
まだ西山本門寺にあるのでしょうか。それとも…。

でも、「大ツモリ」の謎解きはこの辺でやめておきます。
だって、人間一生の楽しみは、
粟餅ひと臼炊くほど短く、儚い(はかない)ものだそうですから、

この「夢」の続きはまたの機会に…。



本当に語り継ぐべきことは

こんなに長くなるとは思わなかった「大ツモリ物語」。
いささかが入りすぎました。

「芭蕉天神宮の祭神・久我長通公は、この大ツモリで亡くなり、
ここに葬ったことになっているのに、それをわざわざ暴くことはないじゃないか」
と関係者からお叱りを…。

「暴く」なんて悪意はサラサラないんです。
ただ私は、こんな山奥にこんな立派な神社が、とまず驚き、
次には腹痛にご利益があることと京都の公家と奉幣使のつながりに驚き、

さてさてこの久我長通公とは一体何者?と調べたら、
死因は同じお腹の病気でしたけど、この人は京都で亡くなり
没年も天神宮関係者がいう年より19年も長生きしていた。

江戸末期の地誌編さん者で「駿河記」の著者・桑原藤泰が、
俗説にはここの祭神は公家衆の古墓也」としていたのは、
名もわからない公家衆の伝承ととらえていたからではないでしょうか。
だから、実在の人物を、
しかも没年の19年も前に、こうも堂々と「殺しちゃった」ことに驚いたのです。

下の写真は、静岡市のド真ん中、駿府城跡地の紅葉山庭園です。
駿府城にはなかったものですが、大名の庭園を真似て新たに作ったものです。

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富士山を始め静岡県の山・川・海を凝縮した疑似空間
安倍川の伏流水が岩の間から滝となって流れ落ちています。
浮世の雑念を忘れたいとき、私はここの四阿屋でぼんやり過ごします。

庭園を流れる川に住むカワニナです。ホタルのエサになります。
毎年5月、ホタル観賞会があります。

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かつて芭蕉天神宮には、長く険しい山道をものともせず、
腹痛に悩む人、大きなふぐりを下げた男たち、シモの病いの女たちのほかに、
健康な老若男女から鉄砲撃ちや博奕打ちまでつめかけた。

そこには信仰心だけではなく、娯楽・商業主義的においが感じられて、
幕末の「ええじゃないか」を彷彿させる光景だと思いました。

伝説伝承の荒唐無稽さを楽しむことと史実の追及は別物ですが、
でも、こうした伝承神話偽書などには、
真実を知るヒントが隠されているといいます。

その荒唐無稽な事象から史実につながるものを見つけ出そうとすると、
それが時には「暴く」ことになり、人を傷つけてしまうのかもしれません。

しかし、それをも恐れずぶっちゃけて言えば、
天神宮の「久我大納言終焉の地」説は「ありえない話」です。
力石に例えていえば、
新しい石に卯之助の名前を刻んで、「卯之助石」にしてしまうようなものです。

思うに、
「大ツモリ」で、本当に語り継ぐべきことは、
京都の公家の話なんかではなく、
信濃、甲斐、駿河、相模を舞台にした戦国時代の壮大な歴史と、
その一端を担った「望月一族」の姿ではなかったか、と。

人は現実の世界で泥臭く生きているからこそ、夢物語を求めるのでしょうが、
史実に裏付けられてこそ、ロマンがロマンとして生きると思っています。

国の登録有形文化財の駅舎・天竜浜名湖鉄道「気賀駅」。現役です。
虚飾のない美しさ、優しさ、誇りが感じられます。

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静岡県・旧引佐郡細江町気賀(現・浜松市)

この「大ツモリ物語」を書くにあたり、
私は手島日真氏の「由比町の歴史」から多くを学ばせていただいた。
その手島氏の苦労話をちょっと記します。

「数々の文献を読むに及んで、その地理的誤謬の数々を発見してから、
昔の戦跡を訪ねて山岳の跋渉、堂塔・塚・廟の調査に努めたうえ、
更に古文書の蒐集に志したが、これが最も至難の業であった」

そして手島氏は「はしがき」にこう書き残しています。

「歴史の分野では官撰史書を正史と称し、
私のような在野の者が書いた史書を野史というのであるが、
正史を書く人には、国家・社会の保護がある。

この一介の野人が独学勉強から始めて、史料の渉猟、執筆編集、
さらに刊行費用の心配に至るまでの労苦は筆舌に尽くしがたいものがある」

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浜松市北区引佐町井伊谷・龍潭寺(りょうたんじ)

寺の住職を務めながら、
人生の大半を由比の歴史探索に費やした一人の郷土史家の、

80歳のときの述懐です

同族のきずな

「望月一族」が大ツモリでの暮らしに見切りをつけて、
入山街道を下って行ったあと、大ツモリはどうなったのでしょうか。

芭蕉天神宮・本殿の狛犬
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静岡県旧芝川町(現・富士宮市)内房大晦日(おおづもり)

「由比町の歴史」の著者、手島氏によると、
谷筋や尾根筋のあちこちに、古い望月氏が存在していたそうで、
「諸木沢の作右衛門、うとろの三郎左衛門、阿僧の盛九郎」というように、
静岡県中部の山岳地帯から駿河湾まで望月姓がびっしり

大ツモリの望月氏が、「我が芝返し家(屋号)は他人の土地を踏まずに、
駿河湾まで行けた」と由緒書に書いたのは、
同族の「望月氏」の土地伝いに行けば、ということでしょう。

大ツモリから入山街道へ入ってすぐの久保山近くの、
「小路」という小集落に望月鉄五郎という農家があって、
そこに信玄公のお墨付きが残されていたそうです。

信玄の花押が押された知行宛行状で、日付は元亀3年(1572)5月。
河中島合戦の砌、よく働いたので富士川の辺の知行を申しつける」

駿河へ落ちてきた武士が帰農して、昭和の時代まで生き延びた。
子孫は信玄公の約束手形を約450年も大切に持っていたことになります。

大ツモリ・旧入山街道沿いの望月家別邸のカエルです。
「故郷へカエル日を夢見て」?

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私が住む静岡市にも、天目山で自害した武田勝頼から頼まれて、
勝頼の妹、於市を娶り安倍川沿いに落ち延びた遠藤という武士がいます。
苦労して開いた田が「遠藤新田」として今に残っています。

ご近所にも佐藤某という武田家臣の末裔がいて、
「駿河記」の著者、桑原藤泰が江戸末期にその家を訪ねています。

さて、大ツモリです。

芭蕉天神宮を守ってきた望月氏、これだけの神社を維持してきたことから、
それ相応の家であったとは思いますが、
先祖は「仁平治」ということのほかに確たる物証はありません。
由比へ移住の折り残った者か、再び戻った者かはわかりませんが、
一党の縁者であることは確かです。

屋号が「芝切り(しばきり)」ではなく「芝返し(しばがえし)」というところから、
いつのころか再び戻った者ではないかと、そんな気がします。

手島氏によると、芭蕉天神宮には、
由比・北田の望月氏寄進のものがかなりあるとのこと。
その一つがコレ、手水石です。

「文政四歳、巳九月吉日 由井 北田村 望月八郎左衛門」
と刻まれています。

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捨て去っても、北田の望月氏にとって大ツモリは故郷に変わりなく、
大酒屋となり名主にもなって、富も名声も得た者として、
なにくれとなく世話をしていたのではないかと思われます。

昭和50年代、大ツモリの住民から聞き取った話があります。
「宝永のころ山林所有者が杣道だった入山街道を拡張したため、
文化文政期には人馬の往来が激しくなり、酒が飛ぶように売れた」

この「宝永のころ道を拡張した」というのは、
宝永年間に富士山が爆発し、内房村では田畑が損壊、
麓の塩出では住民多数が死亡する山津波が起きて、
通行に支障をきたしたため、尾根筋のこの道を改修したのかもしれません。

文政3年(1820)の「内房村文書」に、
駿河半紙の紙漉きの冥加金(税金)を払った者として、
大ツモリの二人が記されていますから、
文化文政のころは、紙漉きの村として成り立っていたことがわかります。

また、
「富士川 ーその風土と文化ー」の中で、著者の遠藤秀男氏は、
内房村の望月氏と信州・望月村とのつながりを示す文書の存在を
伝えています。(落合・酒家文書)

望月城跡
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「望月氏の歴史と誇り」(金井重道 望月政治 日貿出版社 昭和44年)より

それによると、
文化10年(1813)の「延喜式内大伴神社 永代代々勧進帳」が現存し、
それに、
「望月氏の氏神である大伴神社では、古来から太太神楽を行ってきたが、
天正10年に大和守盛重が落城してから祭王を失い中止されたままになっている。
再興のため旧縁の方々の寄付を仰ぎたい」
とあり、関係者が信州から内房村へやってきた。

そこで名主の要三以下が寄付をした。
その内訳は、
内房村のうち、落合が13人、廻り沢が5人、宍原村が3人。
落合、廻り沢は共に武田方穴山氏配下の望月3兄弟がいたところです。

文化10年といえば、武田氏滅亡から231年もたっています。
信州・望月村から、駿河の片田舎まで同族をはるばる訪ねてくるということは、
時代を越えて、常に連絡をとっていたということでしょう。

「望月氏は繁殖力の著しい氏族」と手島氏はいいましたが、

その絆の強さもまた半端ではない!

直義、発見!

「由比町の歴史」の著者、手島日真氏が見いだした「望月直義」。
しかし、望月氏系図にその名はありません。
そこで、「どなたか直義を知りませんか?」と呼びかけたものの情報なし。

ところがあったんです。
「望月氏の歴史と誇り」という本の中に。
(望月政治 金井重道 日貿出版社 昭和44年)

望月氏の嫡系として「直義」をあげ、以下の3つを紹介していました。

宮内大夫左衛門直義、望月城落城後、甲斐・八幡村に隠れ住む。
  慶長16年6月16日没。(深沢喜一資料)

宮内左衛門直義、甲斐で出生(大草系図)

慶長9年6月16日没。八幡北村・普賢寺墓あり(望月有文系図)

個人宅の系図がその論拠になっていることと、没年に相違があることが、
ちょいとひっかかります。
また、この本の著者は、手島氏の説を完全に否定しています。

真実はどうあれ、
「直義」という人物が存在したことだけは確かなようです。

ただ気になるのは、この本に出てくる望月城城主の名前が、
最近の定説とはまるで異なることです。

定説での望月城城主信雅をこの本では盛時(別名は信雅)とし、
永禄4年(1561)の川中島で戦死としています。
定説の城主・信雅はその33年後まで生きています。

養子についても、一人目は信頼ではなく、なぜか信雅(義勝)とし、
二人目の養子は信永ではなく昌頼(出身不明)とし、
この昌頼は天正10年の落城で、真田氏の上田へ落ちていくとき、
土民に襲われ従者共々自害したとしています。

この「昌頼」って、確か天正10年の落城より39年前の、
天文12年(1543)の落城の時の城主の名前だったよね。

肝心の「直義」についても、
「望月氏の嫡系ではあるけれども、昌頼の子かどうかはわからない」と。

いろんな家系辞典を比べてみると、同一人物が死んでいたり生きていたり、
父と子が兄弟になっていたりで、こんがらがるばかり。
この「望月氏の歴史と誇り」も、
「武田氏家臣団人名辞典」とはあまりにも違い過ぎて、うーん?

最も気になったのは、手島氏が「直義の末裔」としていた
由比・北田入山望月氏についての記述です。

下の絵は西倉沢「望嶽亭」主人だった松永宝蔵氏が描いた
「中峯神社藤八権現と鳥居奉納の由来」です。

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「源蔵先生講義録」より

火事で困っていた村人たちを救おうと「火伏の神」になった藤八と
その藤八を、願い通りに権現として祀り、鳥居をあげたというお話です。
藤八はその願いを、
当時の北田の名主・望月八郎左衛門勝直に伝えて立ち去ったという。

さて、「望月氏の歴史と誇り」は630数ページにも及ぶ厚い本です。
その紙数の半分以上は、全国の著名な望月氏の紹介で占められています。

しかし、
入山の望月氏については、数ページにわたり、幸平翁の父の代から、
子、孫、ひ孫、玄孫とその妻まで懇切丁寧に紹介しているのに、
北田の望月氏については一行たりとも書かれていません。

無視といってもいいほどの扱いです。

こちらは、徳川家康が鷹狩りの折り休憩した
北田の「御殿場」から出土したです。

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「源蔵先生講義録」より

この「御殿場」の跡地の払い下げを受け、元禄4年に酒屋を開業したのが
望月八郎左衛門と叔父の勘十郎重範です。

その「八郎左衛門」家はも現存し、江戸時代の古文書も存在し、
今なお、由比・北田の歴史の中にしっかり生き続いている一族です。
後年、家運が傾いたとはいえ、名家として厳然と存在していたのです。

北田の望月一族は、この本のタイトル「望月氏の歴史と誇り」にふさわしい
望月氏の一人であったはずなのに、著者が本に名を記さなかったのは、

なぜ?

著者、望月政治氏が手島氏の「望月氏」に関する記事を見たのは、
昭和35年、37年ごろの由比町の広報紙だったという。

しかし手島氏は否定されても、望月氏が「歴史と誇り」を出版した3年後、
自説を曲げることなく、 「由比町の歴史(上・下)を世に出しました。



※参考文献・画像提供/「ふるさと「ゆい」郷土史・文化財 源蔵先生講義録」
               望月一成監修 望月良英編著 私家本 平成22年

夫婦同時に…

元和元年(1615)の大坂夏の陣の直後、
信濃から甲斐、そして駿河の甲駿国境の村、内房郷のそのまた果ての、
大ツモリという山中に落ち延びてきたとされる望月一族

「由比町の歴史」の著者、手島氏はこう記しています。
「何度も同じことを。ミミタコだよ」なんて言われそうですが、ま、とりあえず…。

「天正10年、主君の武田氏滅亡の折り、生き残った望月城の城主の弟
「望月直義」は、新たな主君として真田氏の元へ。
しかし33年後の大阪夏の陣で敗北。主君・真田信繫(幸村)と共に討死した」

「当時、直義の妻がどこに潜んでいたかは不明ですが、
妻は10歳になる遺児・義盈を連れ一族郎党と共に、
駿州内房(うつぶさ)大ツモリの山奥に隠れたのです」

尾根筋を行く「入山街道」。
その街道沿いの大ツモリ山頂付近にそびえる大榧(かや)の木です。

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静岡県・旧芝川町内房大晦日

駿州内房郷には早くから、
武田方の穴山信君配下の「野月党」望月一族がいました。
「武田氏家臣団」にも出てくる望月与三兵衛尉(よぞうひょうえのじょう)3兄弟です。
そうした同族の手引きで、この山中に身を隠したものと思われます。

ところが、10年後の寛永2年(1625)8月13日、
直義の遺児・義盈は、20歳の若さで没してしまいます。
あとに2児が残されます。

前回お伝えした勝範重範の兄弟です。

甲斐へつながる「入山街道」際の広場に置かれた力石です。
このように放置されていましたが、現在は立派に保存されています。
全部で5個あったそうですが、右の石垣を作るとき使ってしまったそうです。

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父の死後、二人の兄弟は無事成人しますが、
嫡男の勝範夫婦が「同時に死亡」という悲劇が起ります。

夫婦が同時に死亡とはただごとではありません。
何があったのでしょうか。

手島氏は、
「長男の勝範夫婦の死亡は、寛文12年(1672)のこと」で、
「勝範、行年32歳」としていますが、
父の義盈が死んだ寛永2年から勝範夫婦が死んだ寛文12年までは、
47年もありますから、32歳ということはあり得ません。

父親の年齢や死亡年が間違っているか、または、
義盈と勝範・重範兄弟の間にもう一代いないと年齢が合いません。

ま、それはともかく、
「同時に両親を失った嫡男・勝命はこのとき7歳」で、
「父の弟、つまり叔父の重範に育てられた」としています。

下の写真は、その重範の末裔、由比・入山の大庄屋、望月幸平翁が、
明治8年に架けた由比川の「玉鉾橋」。

img064.jpg
「東山寺の歴史」より

ただし、この勝範の嫡男・勝命については、手島氏に混乱が生じ、
下巻では「嫡男・勝重」としており、
「勝命は望月村の有力者の子かもしれない」という記述も現れます。

名前や年齢などに矛盾はありますが、それはひとまず置いといて、

それからほどなくしてこの一族は、内房郷大ツモリを離れます。
由比・北田への移住です。
人馬がやっと通れるほどの入山街道を、
大海原の広がる駿河湾へ向けてひたすら歩いたことでしょう。

移住したのは、延宝か天和のころといいますから、
山奥での暮らしは60~70年ほど続いたことになります。

由比へ出た一族は、造酒業の株を買います。
ただし、酒造株を買ったのは元禄4年(1692)2月だそうですから、
移住からすでに20年近くたっています。
その間の生計はどうしたのでしょう。気になるところです。

両親が亡くなったとき7歳だった勝命もすでに27歳。
酒造業の株は、叔父の重範名義で購入しています。
叔父さんももう還暦まじかのお年になっているはずです。

酒造業の株を買うには大金が入ります。
どこからそんな大金を手に入れたかというと、

「一族に、北松野・妙松寺日了上人という人がいて、
その人がよく世話をしてくれた。百両ぐらいは無造作に貸してくれた」

手島先生、まるで見ていたような書き方ですが、
たぶんそんな話が、望月家のご子孫に伝わっていたのでしょう。

北松野の妙松寺は、「内房口の戦い」で敗れた荻氏の開基で、
あの愛染明王像がある寺です。
江戸時代には十石二斗の御朱印寺になっています。

ただの同族に百両ものお金をポンと出すとは思えません。
大ツモリへ落ちてきた望月一族というのは、
やはり、手島氏いうところの主君筋だったのかもしれません。

60年もの山奥暮らしが成り立ったのも、主君筋だったからだと思えます。

由比・東山寺に立つ重範の末裔、幸平翁の顕彰碑です。
img063.jpg
「東山寺の歴史」より

右は入山街道の改修・架橋などの功績をたたえた碑。昭和32年建立。
碑文「幸平道之標(しるべ)山岡鉄舟の揮毫。
左は由比本陣・16代当主が大正3年に建立した「橋梁の遺業」の碑。

まあ、そんなわけで、
勝範の遺児・勝命は、その後、大酒屋望月八郎左衛門と名乗り、
その酒造業は昭和の時代まで子孫に受け継がれたということです。

そして叔父の重範の系統は、
子の藤三郎が由比・入山へ進出して大庄屋となり、
入山・望月家の祖となったということです。



※参考文献/「由比町の歴史 上・下」手島日真 由比文教社 昭和47年
※参考文献・画像提供/「東山寺の歴史」望月久代 私家本 2015

大酒屋と大庄屋に

内房郷・大晦日から駿河湾に面した由比へと延びる一本の杣道、
これを「入山街道(内房街道)といいます。
また「芭蕉天神道」ともいいます。この方が有名です。

由比から入山街道への入り口の一つです。
ここから由比の海産物が甲斐や信州へと運ばれました。

img058.jpg
「静岡県史民俗調査報告書第17集」より

富士川右岸の甲斐と駿河を結ぶ街道は、大まかにいって三筋あった。

静岡県教育委員会の著作物では、
その三筋の中で一番古い道がこの入山街道で、これは「中世の道」であり、
「今川義元の娘が信玄の嫡男に輿入れしたとき通った道」とも言っています。

ですが、私はそれにはちょっと疑問なんです。
ま、それはさておき、先を急ぎます。

「由比町の歴史」の著者、手島日真氏は、
由比・北田の大酒屋・望月氏が由比に定着した経緯を探るうち、
内房・大ツモリへとたどり着きます。

由比・北田の大酒屋・望月八郎左衛門の墓です。
img006.jpg
「由比町の歴史」より

手島氏はこの望月家の過去帳を元に、昭和43年から正保2年(1645)、
つまり三代家光の時代まで遡ってその祖先を突き止めます。
さすがお寺のご住職です。

正保2年3月2日に没しているのは、由比・入山の望月藤三郎です。
藤三郎の父は重範といい、その兄を勝範といいます。
この勝範、重範兄弟の父親こそ、
駿州の山奥、大ツモリへ落ち延びてきた望月新八郎義盈で、
その父、つまり勝範、重範の祖父が直義だと手島氏は言っています。

手島氏の著書から、その経緯を簡単に記します。

信濃国佐久郡の望月城は、天正10年、織田・徳川軍の攻撃を受けて落城。
城主は討死したが、その弟で9歳の宮内将監直義は、
真田昌幸の上田城へ逃れた。

真田昌幸像
img061.jpg
塩山市 恵林寺・信玄公宝物館所蔵

ただし柴辻俊六氏の「真田幸綱・昌幸・信幸・信繁」によると、
「この時にはまだ上田城はなかった」ので、これは間違い。

ちょっとおさらいです。
戦国時代、信濃・佐久郡の望月氏を統括していたのは望月信雅です。
この人には跡継ぎがいなかったため、武田家から養子をもらいます。
養子に入ったのは、武田信繁の長男と三男の二人です。

武田信繁(信玄の弟)ーー信頼(望月信雅養子)永禄4年、18歳で病死。
                 武田信豊        天正10年自害。34歳。
                 信永(望月信雅養子)天正3年戦死。24歳。

これを見ると、手島氏言うところの、天正10年の望月城落城のとき、
城と共に討死した城主は信頼でも信永でもないことになります。
正史では養子亡きあとの望月氏は、
彼らの兄弟、武田信豊に委託したことになっています。

まぼろしの「城主」とその弟・直義は本当にいたのでしょうか?

「武田氏家臣団人名辞典」の系図によると、
最初の養子・信頼には、もしかしたら「桃井将監室」になった女子がいたかも、
とあり、二人目の養子・信永の子供として「女子」と書いてありますが、
この女子たちが産んだ子としても年齢に無理があります。

ここでちょっと腑に落ちないのは、
手島氏が落城の時の城主を「信頼」としていることです。
信頼は落城の21年も前に没していますから、これは手島氏の間違いだと
思っていたら、ネット上に「信頼は二人いた」という記事がありました。

さらに「直義」が書かれた系図もありました。
直義の弟は「直次」とまで記されていました。

真偽のほどは、私にはサッパリ。
ただその子孫や係累が、今日まで連綿と続いていることは確かです。
手島氏の説を進めていきます。

直義(9歳で真田昌幸の元へ)
   直義、大阪夏の陣で戦死のため、嫡男・義盈、10歳で駿州・大ツモリへ。
   直義の没年齢について手島氏は34歳としていますが、計算上は42歳。
             義盈嫡男ーー勝範……由比・北田の望月氏の祖
             義盈二男ーー重範……由比・入山の望月氏の祖

望月勝範の子孫、大酒屋・八郎左衛門の末裔の望月峻氏(昭和25年没)
img060.jpg

明治34~38年、由比町長。由比のみかんの輸出に貢献した。

こちらは、
弟、重範の子孫、由比・入山の大庄屋、望月幸平氏(明治33年没)
img059 (2)

江戸へ出て井上八郎に入門。明治3年、北辰一刀流の免許皆伝。
山岡鉄舟、松岡万などとも親交があり、のちに故郷へ帰って
橋や道路、学校などに私財を投じ貢献した。
=「東山寺の歴史」より=

さて、話を「直義」に戻します。
直義は真田昌幸のもとで訓育され、のちに信繁(幸村)と共に
大阪夏の陣で討死したと手島氏は言っていますが、
確証は見つかりません。

ただ、真田氏には望月六郎なる忍び(かまり)がいて、
幼少に昌幸の小姓として仕えたことや大阪夏の陣で討死したときの年齢などが、
「直義」そっくりです。

望月直義が真田十勇士の一人、望月六郎その人なら、
もう、ワクワク!

真田信繫(幸村)の署名と花押
img062 (2)
「真田幸綱・昌幸・信幸・信繁」より

ちなみに幸村の名で知られている「真田信繁」ですが、
「真田幸綱・昌幸・信幸・信繁」の著者、芝辻氏によると、

「幸村という称号は江戸前期の戦記物からであって、
通俗的な読み物によって一般に流布したもの。
確実な史料上では最後まで信繫とのみ記されている」とし、

柴辻氏は、「そろそろ「幸村」はやめるときにきているのではないか」
と提言しています。

時代小説はフィクションなのに作者の意図とは無関係に、
史実として受け取られ、全く別の人物像として流布してしまう。
テレビや映画にでもなればなおさらで、歴史家泣かせです。
司馬遼太郎の「竜馬」がそれをよく示しています。

悩ましいところですね。



※参考文献・画像提供/「由比町の歴史(上・下)」手島日真 由比文教社 
               昭和47年
               /「東山寺の歴史」望月久代 私家本 2015
               /「真田昌綱・昌幸・信幸・信繁」柴辻俊六 
                岩田書院 2015
※参考文献/「武田家臣団人名辞典」柴田俊六、平山優、黒田基樹、
         丸島和洋編 東京堂出版 2015
※画像提供/静岡県史民俗調査報告書大十七集「町屋原・今宿の民俗」
        静岡県教育委員会編                       

大ツモリも大詰めに

「大ツモリ物語」がいよいよ「大ツモリ」、つまり大詰めになってきました。

駿河国・内房郷に武田方の間諜として入ってきた信濃望月氏について、
あれこれ考察してまいりました。
そろそろ大晦日(おおづもり)の山中に落ち延びてきた望月氏についても
お話していかなければ…。

と、その前に、この「大晦日」という風変わりな地名について一言。

晦日と書いて「つごもり」といいます。これは月の終わりの日のことです。
それにがつくと「大晦日」。言わずと知れた一年の終わりの日のことです。
大晦日の麓の集落には「大晦」と書いて「おおごり」と読む地区があります。
またこのあたりの方言で、大晦日のことを「おもせ」とも言っているそうです。

私の独断と偏見では、マージャンでいうところの
「ツモル」、つまり「果て」「終わり」「上がり」、
これに一年の終わりを意味する「大晦日」をあてたのではないか、と。

この地域で撮影したとおぼしき写真です。
山の暮らしはどこもこんな感じでしたが、私が最も胸を打たれた写真です。
「富士川 -その風土と文化ー 」からお借りしました。

img052.jpg

これには「すくい飯」という副題がついていました。
著者の遠藤秀男氏はこんな解説をしています。

「すくい飯とは米・麦・粟・ヒエなどを混合した食事の中から、米の多い所だけを
家長が最初にすくい、あとは家族の順位に従ってすくっていくやり方。
最後は雑穀だけとなり、「いつか普通の食事を」と夢見て、
農家の二、三男はそうした生活からの脱出をいつも考えていた。

災害と隣り合わせた山と川の中間に位置する河岸段丘の村々は、
危険と山川の恵みの二面の間で培われた郷土でもあった」

程度の差こそあれ、「大ツモリ」もまた、
そうした集落の一つだったのかも、と思ったりしています。
大正時代の「内房村誌」が「年に一度の鉄砲祭り」と記していたように、
焼畑狩猟紙漉きの村というイメージが彷彿としてきます。

戦国時代、武田氏の間諜として信濃からこの地に入った
望月3兄弟の一人に望月八郎右兵衛がいます。
下の古文書は、その八郎右兵衛の大正時代の子孫、
落合集落の望月源作家に残された寄進状の一部です。

img036.jpg

「内房村誌」にこうあります。
「元文元年(1736)11月10日に、
当時、水戸へ仕えていた望月五郎左衛門が、
当地若宮八幡参詣のみぎり、持ちきたらせしものの奥書」

水戸といえば、
「内房口の戦い」で討死した荻氏の子孫も水戸藩士になったし、
その荻氏を敗北へ導いた望月3兄弟の兄、与三兵衛尉はのちに関東へ下り、
その子角弥は三代家光の寛永8年に水戸で没しているという。

水戸と内房村の望月氏とは何か特別な縁故でもあったのでしょうか。

この五郎左衛門経通は、八郎右兵衛の子孫ではなく、
水戸で没した兄・与三兵衛尉の子孫だったのかもしれませんが、
いずれにしても父祖の活躍した地に、誇らしく凱旋したものと思われます。

さて、
信州佐久郡の望月城の主君筋が逃げ込んだといわれる大晦日ですが、
ここの望月氏には他の望月氏にあるような古文書がありません。
また、麓の相沼浅間神社にあるような武田氏の棟札
寄進状なども芭蕉天神宮にはありません。

そこが、
「一体、この天神宮の創建はいつだったのか」と、
不審を抱かせる原因でもありますが、
だからこそ、何かアッといわせる大きな秘密があるような、

そんなロマンをかきたてられます。



※参考文献・画像提供/「富士川 ーその風土と文化ー」遠藤秀男
               静岡新聞社 昭和56年
               /「内房村誌」内房尋常高等小学校編 大正2年

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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