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シャンパングラスで新茶

「大ツモリ物語」の途中ですが、ちょっと一服

鎌倉中期の臨済宗の名僧、
円爾(えんに)=聖一国師(しょういちこくし)=の生まれ故郷、
静岡市・藁科川(わらしながわ)上流の栃沢(とちさわ)へ行ってきました。

ここは大川地区といって、この栃沢を含めた8つの集落で成り立っています。
「広さは東京の山手線内と同じくらい」なんだそうです。
農林地93.1%。海抜200~800m。
そこに309世帯、797人が暮らしています。

本日お伺いした栃沢は、31世帯、81人の集落です。

栃沢は、源頼朝に献上された名馬「駿墨」(するすみ)の生まれ育った所
といわれています。
同じ伝承なのに、岐阜県の方は「墨」、こちらは「駿墨」。

でもまあ馬の産地だったことは間違いありません。
ですからこんな石も残されています。駿墨のひづめの跡がついた「馬蹄石」

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静岡県で2番目に大きいかやの木です。
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静岡市栃沢・龍珠院(曹洞宗)

「聖一国師の名を知っている人は少ない」と地元の人は残念がりますが、
本当はすごい人なんです。
34歳で中国・宋へ渡り、40歳の時帰国。
そのとき持ち帰った茶の実、それが現在の静岡茶(本山茶)になったんです。

この恩を忘れないために、聖一国師の誕生日の11月1日(新暦)は、
お茶の日になっています。

国師生誕の地・栃沢から峠を越えると、茶の実を蒔いた足久保に出ます。
江戸時代には将軍家御用茶として知られた足久保茶の産地です
その古道沿いにある子安神社です。

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寛文13年(1763)の鰐口には、
藁科(わらしな)の里」ではなく「菊科(きくしな)の里」と彫られているそうです。
峠の古道に野菊が咲き乱れていたからだとか。

子安神社の入り口にある石碑です。
左の石碑には昭和8年の大火で、
このあたり一帯がことごとく焼けてしまったことを記してあるそうですが、
磨滅していて読めません。

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右は大正時代、大八車が通れるようになった開通記念碑。

茶農家「山水園」の経営者、内野さんです。
ブログ「山水園」での自己紹介は、
「静岡の山奥で茶を栽培する小さな小さなひゃくしょう!」

本当は決して「小さくはない」研究熱心な凄い人です。
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「新芽は二葉を手摘みで摘む」

その初摘みの新茶をいただきました。
「シャンパングラスで新茶」です。

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初めの一煎目は大匙一杯ほどの水を注ぎます。
グラスを傾けて香りを味わい、それからいただきます。
コクのある甘さと渋みが口中に広がります。濃い!

2煎目はややぬるめのお湯を茶葉すれすれに注ぎます。
そのあと自家製の酒まんじゅうをいただきました。
ほのかな麹の香りを口中に残しつつ、3煎目です。
3煎目は熱めのお湯を茶葉の倍以上に注ぎます。
コクは薄れますが、「新茶を飲んだぞ!」という満足感に満たされます。

最後は茶葉に塩をふりかけて食べてしまいます。
これを味わえるのは、みるい(柔らかい)新芽のみ。
塩と渋みのコラボが絶妙。ふんわりと爽やかです。

お茶を運んだ古道入り口に立つ道しるべの馬頭さんです。
現在は「ティーロード」と名付けられハイキングの道になっています。

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内野家はこの地に400年続く旧家です。
その太く黒光りした梁の下で、内野さんのお話をお聞きしました。

「ここの子供たちは(ひじり)の子なんです。聖一国師の子供たちですから。
国師は京都の東福寺を開山した人です。
それで毎年、修学旅行のとき中学生たちが、
国師ゆかりの東福寺で献茶をします」

大川地区にある大川中学校は全校生徒が10人の小さな学校です。
昨年は3年生4人が献茶をしたそうです。
こんなこと、都会の子供では決してできません。
やっぱり「聖の子」でなくちゃね。

東福寺には大川中学校の生徒たちが育てた栃沢の茶の木があり、
栃沢には東福寺からいただいた紅葉が見事に枝を広げています。
話す内野さんの誇らしげな、嬉しそうな顔。
聞き惚れ過ぎてカメラがブレてしまいました。

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そうそう、福岡県の「博多祇園山笠」、
その生みの親はこの聖一国師さんなんですよ。
国師は宋から帰国したとき、まず福岡へ留まり承天寺を建てた。
そのころ蔓延していた疫病退散のため、町人たちが担ぐ施餓鬼棚に乗り
水をまきながら祈祷したのが山笠の始まりなんだそうです。

祭りが近づくと、
国師生誕地のを汲みに、福岡からはるばるここへやってくるそうです。
福岡県博多と静岡県栃沢との不思議な縁です。
聖一国師さん、どこかで微笑んでいるかもしれません。

祇園山笠は博多の櫛田神社のお祭りです。
この神社には力石がたくさんあります。
現代の力士たちの力石があることで有名ですが、
昔の怪力たちの力石にこそ、注目していただきたい。

江戸から明治にかけて活躍した神奈川出身の神奈川権次郎
稲毛平次郎刻字の力石があります。

これは神奈川権次郎の名が記された慶応3年番付です。
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神戸商船大学蔵

またここには福岡県有形民俗文化財の力石が3個あります。

「九州・沖縄の力石」の表紙に描かれた櫛田神社の力石です。
石の刻字は、「三百五拾斤余」

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博多そうめんの元祖で狂歌師の富田久右衛門が還暦の年に抱えた
46貫目の石もあります。石の裏面にはこう記されています。

    「いつまでも 変わらぬ御世の力石 
                 六十一で心持よさ」




※参考文献・画像提供/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
              /「九州・沖縄の力石」高島愼助 岩田書院 2009

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本、二冊

甲斐の駿河侵略に関して、印象深かった本をご紹介します。

「戦国期 静岡の研究」
静岡県地域史研究会編 清文堂 2001

静岡大学名誉教授の小和田哲男氏、古城研究者の水野茂氏など
各分野の研究者、11名による論文集です。

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中でも面白かったのは、
今川氏滅亡に直面した家臣たちの身の振り方を書いた
前田利久氏の「今川家臣の再仕官」でした。

最後まで主君・今川氏真従う者、
相模の北条氏へ仕官する者、敵方の武田氏へ鞍替えする者とさまざま。

その再仕官について前田氏は、
主家を失った戦国武将の再仕官に重要な発給文書について、
大石泰史氏がこれを「暇状」と仮称したことに倣い、論じています。

この発給文書「暇状」というのは、
自家の系譜、家格、知行地、知行高、戦歴や戦功などを主君に書いてもらい、
「他家への推薦状」にしたもので、また「旧主への再仕官も可能」という
願ったりかなったりのものだったそうです。

ただしそれは家臣がぎりぎりまで主君を支え、主君から見ても
「お前の暇乞いはもっともだ」と思えた時に発行されたらしく、
「裏切り」とは違うようです。

例えば、それまで今川氏を支えてきたのに、
反今川グループのドンとなって、主家を滅亡へ導いた瀬名氏の場合、
今川氏滅亡のあと武田氏からもらえるはずだったご褒美を反故にされ、
武田氏滅亡後、今度は北条氏から仕官を断られたという。
=「今川氏とその時代」小和田哲男編 「瀬名氏三代の考察」長谷川清一
 清文堂 2009=

権謀術数の世界であっても、
主家を裏切る行為は「仁義にもとる」ということか。

その「暇状」は旧主お墨付きの身分証明書ですから、
紛失したらお家の一大事。だから嫁に行く娘に写しを持たせたりしていました。
公家も同様で、久我大納言家が火事で文書類を一切失った時は
悲歎に暮れたということでも、文書がいかに重要なものかがわかります。

旧芝川町・橋場庚申堂のです。珍しいので載せてみました。
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「芝川歴史漫歩 無限嶺」(王子坂保彦 昭和61年)より  

今川家臣の三浦義次の例をあげます。
永禄11年、信玄の駿河侵攻で居城の駿府城を捨てて掛川城へ逃げるとき、
三浦は主君の今川氏真に随行します。

ところがその道中で、「代々之手形数多を失脚」、つまり紛失した。
そこで本地回復と家名存続のため氏真から2度も安堵、
つまり再発行してもらったというのです。

武士は鎧の下にそういう文書を携行して戦っていたってことでしょうか。
でもまあ、その人を証明するものがそれしかない時代ですからねえ。
なんだか涙ぐましい。

もう一冊、ご紹介します。

「武田氏家臣団人名辞典」
執筆は、
芝辻俊六平山優黒田基樹丸島和洋柴裕之鈴木将典の6人。
2015年、東京堂出版から刊行されています。

2007年から準備に入り、取り上げる家臣1600名を抽出。
2009年から執筆に入ったもののさまざまな困難で一時中断。
3年後に再開され、抽出家臣は大幅に増えて2500名となった。
今度は順調に進み、無事、2015年に刊行されたということです。

足かけ8年がかりという難事業。
ご苦労が偲ばれます。

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はここに登場する「2500名の人々」を暇さえあれば眺めていました。
ほんの数行の人でも、生没年不詳の人でも、
その空間に浮き彫りにされた一人一人の人生がなんだか愛おしくて…。

諏訪氏のは、父を信玄に殺されたあげく側室にされて勝頼を産んだ。
また信玄の嫡男義信は父に幽閉されて自害に追い込まれ、
義信の妻子は実家の駿河の今川館へ送り返された。

一つの氏が滅びるとき、阿鼻叫喚の地獄が展開されたはずですが、
紙面から受けるのは諦観ともいうべき静寂でした。

信玄の五女・は落城する高遠城から逃げ、
相模・武蔵の国境を越えて八王子へ落ちて尼となり、
その一生を一族の供養に捧げたといいます。

武田勝頼の三男勝親が武田氏滅亡を迎えたのは1歳の時。
家臣に抱かれて城を離れ、大菩薩峠を越えて鎌倉へ。
のちに摂州(大阪と兵庫の一部)尼崎の浄土真宗本願寺派の僧侶となって、
103歳という高齢でこの世を去ったという。

また勝頼室は、「もはや、これまで」と悟った夫、勝頼から
実家の小田原・北条氏へ逃げるよう勧められたが、これを断り自害。
享年19歳

その辞世の句です。

   「黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき、
             思いに消ゆる露の玉の緒」


文書に見る3兄弟の活躍

甲斐の武田軍の駿河侵攻は4回ほどありました。
一回目の侵攻は「内房口の戦い」です。

その「兵(つわもの)どもが夢のあと」です。
今川方の荻氏武田方が分け隔てなく祀られています。
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「目で見る芝川町の歴史」より

この戦いがあった翌永禄12年4月1日
内房・廻り沢の土豪、望月与三兵衛尉(よぞうひょうえのじょう)は、
主人の穴山信君から内房と松野の知行宛行状をもらいます。
つまり、このたびの働きに対するご褒美です。

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「内房村誌」より

「武田氏家臣団人名辞典」によると、
この人は「内房口の戦い」前年の永禄11年に、
武田領から今川領を往復する荷物について、二疋分の諸役
異議なく通過させてもよいとの認定を穴山信君から受けているそうですから、
信州から内房へやってきたのは、それより以前となります。

郷土誌「内房村誌」に、
一旦、信州へ戻り再び駿河の内房へやってきたとの記述があります。
かなり自由に動き回っていたのではないかと思います。

武田氏の駿河への南下政策は早くから始まっていたようで、
この望月氏だけでなく、「武田の植民地か」といわれたほど
篠原、佐野、青木などの家臣が様々なところに入り込んでいたようです。

こちらは与三兵衛尉と同じ年月日に、同じ穴山信君から
落合の望月八郎右兵衛(はちろううひょうえ)へ宛てた知行宛行状です。

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「内房村誌」より

もう一人の弟、弥兵衛については、元亀元年の宛行状が残っています。
こうして見ると、花押というものは美しいものですね。
戦国大名たちはオリンピック・エンブレムのデザイナー以上の
感性をお持ちか、と。

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「内房村誌」より

さて、「松野村郷土誌」によると、与三兵衛尉は信君から、
「松野郷に隠れ者がいるから探索せよとの命令を受けたそうです。

敵への容赦ない殲滅作戦。
勝てば官軍、負ければ戦犯です。欲得の争いは非情です。

それでもいくらかのお慈悲もあったとみえ、
内房口の戦いで壊滅した北松野城の荻氏は、9代目の荻君誉が生き残り、
このあと穴山信君に仕え、穴山氏没後は家康に仕えて水戸へ移り、
幕末まで水戸藩士としてその地に居住したとのことです。

愛染明王です。
初めは武田軍が駆け上った泉水山・愛染堂にあったが、
その後、かつての領主・荻氏開基の北松野(富士市)の妙松寺に移された。

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「ふじかわ」より

「内房村誌」によると、
武田方の穴山家臣として大いに働いた望月与三兵衛尉もまた、
この内房に子を残して関東へ下り、かの地で没したそうです。
なぜ関東へ下ったかは不明です。

ともあれ、
永禄から天正にかけて甲斐の駿河侵略に貢献した望月3兄弟は、
共にこの地に多くの子孫とその痕跡を残していきました。

その子孫たちはこの内房にしっかり根をおろし、
明治から昭和に至るまで、内房村の村長として
村の発展に貢献したとのことです。

昔々の合戦の話ばかりで恐縮ですが、
ご安心ください。今の世の中の事もちゃんと見据えております。

最近気付いたことですが、
オリンピックの開催地決定のとき、あの美女が言った「おもてなし」
この本当の意味がやっとわかりました。

「表ナシ」つまり「裏がある」



※画像提供/「目で見る芝川町の歴史」唐紙一修 芦沢幹雄 佐野文孝
         緑星社 昭和51年
        /「内房村誌」内房尋常高等学校編纂 大正2年
        /「富士川町閉町記念誌 ふじかわ」富士川町 平成20年
※参考文献/「松野村郷土誌」望月隆策 昭和28年

望月3兄弟

武田信玄が駿河侵略に使った道は、富士川の両岸に幾筋かありました。
内房の対岸には、富士五湖の一つ本栖湖を経由する
「中ツ道」=右左口(うばくち)道=があって、
その先にあったのが、最近世界遺産になった富士山本宮浅間神社です。

浅間神社の富士氏は宮司ですが、大宮城城主で今川方の武将でした。
その子孫は明治維新の時、「駿州赤心隊」の隊長として官軍に与します。
ちなみに神主だった私の曽祖父もその赤心隊の隊員でした。

というと、「いったいあなたはいつの時代の人か」などと言われそうですが、
曽祖父はおろか祖父さえ、
私の誕生のはるか以前にこの世を去っていますから、全く未知の人です。
慶喜公には及びませんが、晩年まで子づくりに頑張ったみたいで…。

曽祖父たち先祖が守ってきた神社に立つ仇討ち本懐の灯ろうです。

「奉納 大願成就 和州十津川桂山住 小松典膳平延盛 
嘉永元歳戌申 五月吉日」

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静岡県富士市厚原 曽我八幡宮

話が逸れました。信玄の進入路に戻ります。

数ある進入路の中から、今回は望月氏に絞ってお話しています。
この内房村を通過する駿甲往還を「河内路」といいます。
河内路には三筋の道がありました。
宍原・興津への道、由比への道、松野を経て蒲原への三筋です。

下の地図は、
江戸末期に「駿河記」の著者・桑原藤泰が歩いたコースです。

手前が駿河湾。右の流れが富士川。地図上部が甲斐(山梨県)の国です。
藤泰は東海道の興津から入り、薩埵(さった)山・由比を経て蒲原へ。
そこから河内路の一つへ入り、赤丸の内房へ。
内房から黄色の丸の宍原を経て、興津へ戻っています。

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河内路は、甲駿を結ぶ最短の連絡道だったそうです。

前回示した内房の地図の赤丸を見ると、
この赤丸の所「落合」「廻り沢」はこの三筋の道のになっています。

信玄はよく考えていますね。
ここに間諜、つまり情報収集者の草の者を置いた。
それが信州出身の望月氏だったのです。

「草」にもいろいろあったそうで…。
敵をスッパ抜くスッパ者、敵陣を突破するトッパ者、敵を乱すラッパ者。
今でも難関を突破するとか他のマスコミをスッパ抜くなんていいますから、
「草」の心意気は生きています。

武田氏ののろし台があったとされる標高567㍍の白鳥山(城取山)。
手前は富士川。背後は甲斐国の身延方面。
この山裾に峯、尾崎、相沼、落合、塩出などの集落が散在していた。

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「目で見る芝川町の歴史」より

「由比町の歴史」の手島氏によると、望月氏には11の党があったそうです。

そして、この内房にやってきたのは「野月党」といい、
与三兵衛尉(よぞうひょうえのじょう)、
八郎右兵衛弥兵衛(弥平)の3兄弟だったそうです。
これが内房の望月氏の祖といわれています。

この3兄弟は、
身延下山に住む信玄のいとこ、穴山信君の家臣として働きます。

さて、娘や息子を人質として結婚させ、
かろうじで均衡を保ってきた甲斐の武田、駿河の今川、相模の北条でしたが、
永禄3年(1560)の桶狭間で、
今川義元が織田信長の奇襲にあい敗死したのを機に、
その均衡が一挙に崩れます。

駿河の塩と海を虎視眈々と狙っていた武田氏が動きます。

永禄11年(1568)12月、甲府を立った信玄は身延・下山で穴山信君と合流。
河内路を下って白鳥山の麓、内房に陣を敷きます。
これを迎え撃ったのが今川方、北松野荻図書之助清誉です。

荻氏の領地、北松野・神明社力石です。
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宍原に布陣していた武田家臣・山県昌景は、
富士見峠を越えて内房へかけつけ、荻氏の軍と合戦。
尾崎、峯、塩出は激戦地となります。
世にいう「内房口の戦い」です。

城主とはいえ、所詮、田舎の土豪。
荻図書之助軍は、大軍の前にあえなく全滅してしまいます。

血生臭い話の途中ですが、ここでまた力石です。
やっぱりね、力石のブログですので。

坊さんの墓石を使った代用力石です。
武田家臣の山県昌景が布陣した宍原にあります。
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静岡市清水区宍原 福聚院

昭和3年生まれの大木守彦氏にお話をうかがいました。

「明治37年に亡くなった蕃渓和尚の卵塔墓を、
明治から大正の若者が担ぎました。
この坊主は重いなあ、なんて言いながら。

20年ほど前までは本物が寺にありました。
細長い卵型の非常に重い石で、これを上まで挙げたのは佐野利一さん。
肩まで担いだのはうちの親父と大木兵馬さんだけ。
私は膝下ぐらいまでしか上げられなかった」

墓石を力石に使うなんてけしからんと思われるかもしれませんが、
自分の墓石を若者に担いでほしいと願った話は各地で聞きました。


20年ほど前にあった本物ですが、寺を新築するとき捨てちゃったそうです。
庶民の文化財なのにもったいない!

それはさておき、下の写真は、
このときの戦死者の血で染まったとの伝承がある血流川(ちぼがわ)です。
手前は富士川。富士川は写真左へ流れ、蒲原で駿河湾にそそいでいます。
遠方に甲斐の山々が見えています。

芭蕉天神の祭礼が終わった夕暮れ、大晦日の望月さんの奥さまが、
五輪の大カヤに囲まれた亡き夫の墓前に正座して、
「甲斐の山々陽に映えて」と切々と武田節を歌った姿が目に浮かびます。

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「ふじかわ」より

内房口で勝利し、勢いづいた武田軍はさらに南下。
次なる目標、蒲原城を目指して愛染山を駆け上ります。

と、まるでその場にいたような書き方で、講釈師になった気分ですが…。

その蒲原の和歌宮神社にある力石です。
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54余×37×22㎝

「力石 三十貫 明治中興ニ至ル迄青年此ノ境内ニ集リ
各自ノ力量ヲ試セシモノナリ

蒲原城へ手引きしたのは、
荻氏の領内にいた武田氏の間諜、「松野六人衆」です。
この中に望月氏が二人いました。

その通り道の木島室野の子之神社にある力石群です。
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5個あります。放置されていて散逸が心配。右端の力石は珍しい男根形。

そのころ、今川義元亡き後の跡取り、氏真は、
薩埵山の向う、興津の清見寺に布陣。
しかし家臣たちが次々離反し、ついに敗走を始めます。

氏真が布陣した清見寺のすぐ近くにある清見神社力石です。
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清水区興津清見寺町堂脇

ひえ~、
今回は信玄の駿河侵攻に乗じて、
力石をたくさんご紹介してしまいました!

悪しからず。



※画像提供/「目で見る芝川の歴史」唐紙一修、芦沢幹雄、佐野文孝
        緑星社出版 昭和51年
        /「富士川町閉町記念誌・ふじかわ」富士川町 平成20年
※参考文献・画像提供/「静岡の力石」高島愼助 雨宮清子 岩田書院
                1911

送り込まれた間諜

駿州・内房村の地図をもう一度出します。


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一番右端の富士川に沿いつつ万沢へ行く道、これが甲州街道です。
現在の国道52号線とほぼ同じ道筋です。
その甲州街道と富士川の間にあるのが「橋上(はしがみ。はしかみ)で、
渡船・船役の森一族の集落です。

下流、吊り橋近くの集落「相沼(そうぬま)は、
富士川という大河と支流に挟まれていたのでたびたび洪水で水没。
そのため以前は、すべて沼になったという意味の「惣沼」と書いていました。
遠藤一族の集落です。

ここには惣沼浅間神社があります。
穴山信君(梅雪)の嫡男・武田勝千代寄進の棟札が残っています。
ちなみに、信君の「君(きみ)」は最近、「ただ」と読むことが判明して、
現在は「のぶただ」と読まれています。

物資を運ぶルートは、廻り沢から尾崎を経て甲州街道へ入るものと、
から塩出(しょで)へ出て甲州に至る道筋がありました。
地図に示した落合から塩出への道は、本当はクネクネと曲がっていて、
を経て塩出へ繋がっています。書き方が下手ですみません。

塩出への荷はほとんど塩です。

「馬頭三面観音」
峯から塩出へ行く道筋は、道幅が狭く険阻なため牛馬の転落死が絶えず、
慰霊と安全祈願のため、享保11年(1726)、岩上に建立された。
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「合併記念写真集 ふるさと芝川」より

明治の廃仏毀釈で首を落され、頭部は長い間行方不明になっていたが、
昭和35年に発見されて、復元したそうです。
毎年2月と11月には10頭の牛馬を集め、「にんにく飯」を焚きだしたという。
にんにく飯ってどういうものなんだろう。

日蓮上人は、鎌倉時代の文永11年(1274)、鎌倉から身延山へ赴くとき、
足柄峠、浮島ヶ原を経て富士川の手前で大宮(富士宮市)への道に入った。
大宮から山越えで長貫(ながぬき。芝富村)に出ると、
富士川の難所・釜口峡に架かる綱橋(吊り橋)を渡って対岸の尾崎へ。
尾崎本城寺(本成寺)で一泊し、翌日、甲州街道へ足を踏み入れています。

「大嵐」の下の茶色の丸は「中(仲)」集落です。
仲集落に鎮座する山王宮です。
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山王宮にある力石です。
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62×33×28㎝

     草生やし蓑亀になった力石    雨宮清子

     力石まあるく丸く雪積もる     望月昭子


望月昭子さんはこの石の情報提供者です。

地図へ戻ります。

紫の丸の中の「山口」「野下」は、宇佐美一族の集落です。
宇佐美氏は伊豆の狩野氏の流れをくむ古い家柄で、
鎌倉時代には源頼朝の家臣だったと伝えられています。

左端の「瓜島(うりじま)は、深沢一族の集落です。
地図には書き落としてしまいましたが、
ここは駿河の国・宍原(ししはら)へ抜ける重要な中継地点です。

そして、大晦日を除いた残り二つの赤丸、
「落合」「廻(巡)り沢」望月氏の集落です。

下の石は、その廻り沢から北松野へ抜ける道沿いに、
一軒だけ残ったお宅の力石です。
この家のご主人は若い頃、ひと山越えて大晦日のかやの木の広場へ行き、
みんなと石担ぎをして遊んだそうです。

昭和40年代には青年が20人ほどいて、女の子もいた。
担げないと一人前の男じゃないと先輩たちに叱られたよ」

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48×38×34㎝                  富士市北松野

戦国時代、この内房を支配していたのは、
北松野城の殿様で、今川氏方の荻図書之助清誉です。

この「廻り沢」から北松野を通り抜けて富士川沿いをさらに南下すると、
江戸と京都を結ぶ東海道に合流します。
駿河湾沿いの蒲原由比を打ち過ぎ、薩埵山を越えて興津へ出、
さらに東海道を西へ進むと、
今川氏の居城・駿府城(静岡市)へと行きつきます。

「落合」「廻り沢」は、その通路の甲州側の出入り口にあたります。

そこに陣取っていたのが、今川氏の駿河国を狙う武田氏が、
密かに送り込んだ望月氏だったという構図になります。

この望月氏のことは次回、お伝えします。



※参考文献・画像提供/「合併記念写真集 ふるさと芝川」芝川町 2013

手引きした仲間

大阪夏の陣で父・直義を失った新八郎義盈(よしみつ)。
母や一族郎党と共に駿州・内房の山中、大ツモリへ逃げ延びたことは、
前回お話しました。

手島氏が「なまやさしいものではなかった」と想像した山奥の暮らし。
でもただやみくもに、この地へやってきたのではないはずです。
手引きした仲間がいたはずです。

そこで時代を戦国時代へ戻し、当時の内房を概観してみたいと思います。

まずはこのあたりの地図をご覧ください。
大正2年(1913)ごろの集落の位置を示しました。
集落の名称と位置は戦国期・江戸期とほとんど変わりません。

落ち延びてきた武士や甲斐の国から流入した農家の二、三男、
修行者などが居つき、山深い僻地の所々に
小さな集団を作ったのではないかと思われる地域です。

地図は私の手書きですので、少々お見苦しいかと…。

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静岡県富士宮市(旧芝川町)内房

地図上部、黄色い四角の「万沢(まんざわ) は甲斐国(山梨県)です。
万沢は富士川右岸における駿河と甲斐の国境の村です。

今川義元の娘が武田信玄の総領へ嫁いで行ったときも、
離縁となって幼子の手を引いて駿河へ戻るときも、
そして、
信玄の父の信虎が息子に追放されて駿河の今川館へ向かったときも、
みんなこの万沢口を通り抜けました。

そして信玄が駿河へ侵攻した戦の道もまた、この万沢から始まりました

万沢の先の甲州街道沿いの石碑群。両端赤丸は力石です。
CIMG0238.jpg
山梨県南部町大和字清水沢

地図へいきます。
ほとんどが半農半士の集団で形成された集落です。
つまり普段は百姓をやり、いざいくさが始まると参戦するという…。

緑の丸の「塩出(しょで)は、塩の関所です。
信玄が喉から手が出るほど欲しかった塩です。
由比や興津で作られた塩がここへ運ばれ、甲州、信州へと送られました。
ここには遠藤一族がいて、塩関を管理していました。

黄色い丸は「大嵐(おおあらし)
その大嵐の薬師堂「医王殿」です。
CIMG0860.jpg

今川方の嵐大(太)門の屋敷跡といわれています。
信玄の駿河侵攻で激戦地となり嵐大門は討死。
残った一族が風の岡という意味の「風岡」姓に変えて現在に至っています。

このあたりでは米がとれないので焼畑をやっていました。
江戸時代、この内房村は紙漉きの盛んな村で、
原料の三椏やコウゾは焼畑で栽培していました。
そうした集落には地名の語尾に「焼」「嵐」などが付けられる例が多い。

ここでは大嵐と書いて「おおあらし」と読ませていますが、
静岡市の山間部には「おおぞれ」と読ませている集落があります。

地名の「大嵐」の由来が、
嵐という豪族からか焼畑という形態からなのかはわかりませんが、
そんな解釈があることを記しておきます。

昭和51年ごろの医王殿です
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「志ば川の歴史 史実と伝説」より

医王殿の十二神将です。
img045.jpg
「目でみる芝川町の歴史」より

中央御厨子に33年に一度開帳の秘仏・薬師さまがいらっしゃいます。
「秘仏」って実は中は空っぽなんて話も聞きますが、
ここの薬師さまは美しい立姿で、ちゃんと存在しています。

ここには4度ほど行きました。もちろん力石探しに、です。
この医王殿を中心に、あっちの丘こっちの峰という具合に家があります。
一番奥の高台に建つ家には88歳の女性が一人で暮らしていました。

そこから谷をはさんだ向かい側は大晦日集落で、
その山のテッペンに榧(かや)の木が見えました。
あの台座に鎮座した力石がある五輪の大かやです。

この大嵐集落も過疎化が進み、
薬師様ご開帳の33年後はどうなっているか心配です。

大嵐の力石です。医王殿の庭に3個ありました。
石の寸法を計っているのは、四日市大学の高島先生です。
CIMG1191.jpg

集落の方々が集まってきて、
「昔は石段の際にあった」「捨てるわけないよ」と言いつつ探してくれて…。

夏来たときは境内が夏草に覆われていて見つけられなかったのですが、
この時は草が枯れていて、力石はひょっこり顔を出していました。

「お堂の横に青年団の集会所があってね、
そのころはここにも青年がたくさんいただよ」
「そうそう。夜はそこへ泊って火の番なんかしてさ」

昔話っていいですね。
無口な高島先生もおばあさんたちの輪に入って笑っている。
無理して話を合わせているところが、気の毒なような可笑しいような。

青年たちは代わる代わる石を担いで、医王殿の石段を登り、
力比べに興じていたそうです。

おばあさんの一人が感慨深げに言いました。

ふんでもまあ、こーんなイカイ石、よくあげれえたっけなあ。
私ら触ったこともないけえが、
昔のわけえしはふんとに力があっただなあ」



※画像提供/「志ば川の歴史 史実と伝説」斉藤静夫、王子坂保彦、
        唐紙一修 芝川町郷土史研究会 昭和51年
        /「目でみる芝川町の歴史」唐紙一修、芦沢幹雄、佐野文孝
         緑星社 昭和51年

隠れ住むこと十年

天正10年(1582)、佐久郡の望月城落城の際、
真田昌幸の上田城へ逃げ込んだ少年がいたことは、
手島日真氏の「由比町の歴史」にでてきます。

昭和15年、志田郡(現・焼津市)の花沢城跡を調査中の手島氏。
img976.jpg

花沢城は永禄13年(1570)、信玄の駿河侵攻で陥落した今川氏の城です。

さて、本日の主人公の少年は宮内将監・望月直義といいます。
ここから手島氏の健筆、確信を持って走り出します。

この直義、真田昌幸に訓育されて成長し、
「昌幸にのように添い苦難を共にした」
昌幸没後は息子の真田幸村(信繁)と結び、
慶長19年(1614)、豊臣方として冬の陣に出陣。

翌元和元年(1615)、夏の陣にも出陣。
しかし徳川軍に敗れて、真田幸村は5月6日、討死。
直義はそれに遅れること24日目に討死
手島氏、討死の日にちまでしっかり書き込んでいます。

徳川氏の三つ葉葵の紋
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久能山東照宮。静岡市「家康公四〇〇年祭」パンフレットより

没年月日まで書かれていますが、
ただ直義の行年が34歳となっていて計算が合いません。
望月城落城の時は9歳だったから、その33年後は42歳なんですよね。
細かいことを言うようだけど…。

ただ手島氏が、
2千ページにもおよぶ「由比町の歴史」の執筆に着手したのは、
80歳のときで、片目失明、もう一方も不自由になっていたそうですから、
大変なご苦労の連続だったと思います。
ご自身も「容易ではなかった」と書き残しています。

私は上下巻、何度も読み返すほど魅せられ、たくさんのことを教わりました。

その手島氏の筆を借りて、先を急ぎます。

大阪夏の陣で討死した直義には10歳になる息子がいた。
名を新八郎義盈という。
直義の妻はこの義盈を連れ、
一族郎党と共に駿州内房村大ツモリの山奥に隠れた。

いよいよ、大晦日(おおづもり)の登場です。

下の写真は、富士川沿いにあったいかだ道道しるべ
甲州からの筏流しの男たちが富士川を下り、帰りはこの道を帰っていった。
義盈一行はこれ以上の杣道を逃げてきたんだろうと想像しています。

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「志ば川の歴史」より

5基あった道しるべ、昭和の半ばごろ3基盗まれたそうです。
なので現在は道祖神場にこのように固定されています。赤の矢印。
CIMG0100 (4)
旧芝川町月代

さて、直義の遺児、新八郎義盈ですが、
「寛永2年(1625)8月13日にこの地で没している」と記されています。

大ツモリに隠れたとき、義盈は10歳だったということですから、
20歳の若さで没したことになります。早すぎますね。

手島氏は著書の中でこう述べています。
「内房の山奥大ツモリに、一族と共に身を隠していた苦労は、
なまやさしいものではなかったと思う」

そう思います。
で、ついでながらこうも思います。
やっぱり芭蕉天神宮はこの頃はまだ存在していなかった、と。

「東海道図屏風」駿府府中。駿府城が描かれています。
img042.jpg
静岡市蔵

隠れ住むこと10年。時代はすでに江戸時代です。

駿府城の大御所・家康公は鯛の天ぷらにあたってこの世を去り、
政治の中心は江戸へ移り、
将軍職も二代将軍・秀忠から三代家光へとバトンタッチ。

江戸幕府270年の歴史が軌道に乗り始めておりました。



※参考文献・画像提供/「由比町の歴史」手島日真 由比文教社 昭和47年
※画像提供/「志ば川の歴史」斉藤静夫、王子坂保彦、唐紙一修
         芝川町郷土史研究会 昭和51年

望月直義って誰よ

信濃国(長野県)佐久郡にあったという
望月城の落城について見ていきたいと思います。

一度目の落城は武田信玄らに攻められた天文12年(1543)。
そのときの城主は望月昌頼です。
昌頼は生き延びますが、城へ帰れないまま死去。
宗家は庶流の望月信雅に替わります。

2度目は前の落城から39年後の天正10年(1582)。
あの武田氏滅亡と同じ年といわれています。
39年前に望月氏宗家となった信雅、仮に二十歳で継いだとすると、
このときにはすでに還暦まじかのおじいさんです。

武田信玄です。
img037.jpg

「姓氏家系大辞典」(太田亮 角川書店 昭和38年)には、
「天正10年7月、徳川勢に攻められて落城す」とあります。

「今川氏とその時代」の執筆者の一人、望月厚氏はこれに否定的で、
望月源五郎なる人物が城にて徳川軍と戦い敗北。真田昌幸を頼って
逃亡する最中に上田黒坪にて討たれる、
という記述が一部の書物に見られる。
しかし信雅が頼った依田氏の「依田記」にそのような人物の記述はなく、
また望月城で合戦があったという記録もない」と。

佐久市・社宮司神社の力石です。
img040.jpg
50×42×31㎝

「由比町の歴史」の手島氏は、2度目の落城は天正10年1月とし、
「18歳の城主は討死。9歳になる弟は母や叔父と城を脱出。
真田昌幸の上田城へ逃れた」としています。

上田市中央の平林書店の「力石を持つ石像」
リアルすぎてちょっと生々しい…。
img039.jpg

手島氏は、
18年前に死んだはずの信頼をこのときの城主としていますので、
「007は2度死ぬ」ってことになっちゃいました。
また、一緒に逃げた叔父を望月甚太郎繁氏としていますが、
この名前、21年前に死んだ望月甚八郎重氏と似ています。
もし同一人物として考えていたのなら、
こちらはゾンビもどきに「生き返らせちゃった」ことになります。

そうはいっても、同じ名前の武将はいますし、名前もコロコロ変えますし、
新しい資料が出てくると今までの説は簡単にくつがえりますしね。
歴史に、
「これが真実だ!」との断定は永遠にできないような気さえしてきます。

例えば今川義元の喝食(かつじき・かっしき)
=禅寺で食事に携わる稚児=の時の名前ですが、
長い間「梅岳承芳(ばいがくしょうほう)と呼んでいました。
ところがつい数年前、
「梅」ではなく「栴檀は双葉より芳し」の「栴(せん)だとわかった。
だから今は「栴岳承芳(せんがくしょうほう)と呼ばれています。
偉い先生たちがみんな間違っていたわけです。

考古学者が土器の破片からいろいろ推定するのと同じで、
歴史学者もまた紙切れやら伝聞などから試行錯誤を繰り返している。
オレオレ詐欺もどきの偽書なんてのもありますから、気を抜けません。

さて、落城した望月城から上田城へ逃げたという9歳の弟ですが、
手島氏によると、この弟こそが、駿河国内房・大晦日へ落ち延びてきた
望月氏の父親にあたる人なんだそうです。

安曇野市本郷・郷倉跡(上手集会所前)の力石
郷倉とは、江戸時代、年貢米を収納していた倉のこと。
img041.jpg
①83×34×29㎝ ②66×31×21㎝

説明文 「でいもち石(ばんもち石)」

9歳で城を脱出したこの少年は、上田城の真田昌幸に訓育され、
成人後は常に昌幸と行動を共にした。
そして、
昌幸が蟄居先の紀州・九度山で没したあと、
今度は真田幸村に仕えたと手島氏は言っております。

確かに真田十勇士の一人に望月六郎なる人物がいますし、
真田系図にも望月三郎なる者もいます。
真偽はわかりませんが、望月千代女なる「くノ一」もいたような…。
「くノ一」なんていっても若い方にはわかりませんよね。
を組み合わせると「女」になります。つまり女の忍者。

家康の伊賀越えを手引きしたのも伊賀・甲賀の望月氏だったといいますし、
滋野、海野、根津、望月という一族は、情報収集に長けていたようで、
根津の歩き巫女は各地を歩き、暗躍していたといいます。

img038.jpg

忍者ってなんかワクワクしますね。
さて、本題に戻ります。
城から脱出した9歳の少年の名前ですが宮内将監・直義となっています。

直義って誰よ!

この「直義」なる名前、ないんですよ、系図に。
どこで調べたかとお聞きしたくても、手島氏はもういないし、
浅学の私にはどうしようもありません。

信雅の二人の養子、信頼、信永の遺児なのか?
それとも養子たちの兄弟、信豊の子供か?

どなたか「直義」さんをご存知の方、いませんかあ~!



※参考文献/「由比町の歴史 上下」手島日真 由比文教社 昭和47年
        /「今川氏とその時代」小和田哲男編 清文堂 2009
※参考文献・画像提供/「長野の力石」高島愼助 岩田書院 2014 

望月一族

「望月氏は繁殖力の著しい氏族である」

と言ったのは、「由比町の歴史」の著者、手島日真氏です。
そういえば、「東山寺の歴史」を書いた久代さんも、
「阿僧の歴史」の著者、良英氏も共に望月姓です。

そして今お話している芭蕉天神宮、
そこを守り続けてきた大晦日(おおづもり)の一族も望月氏です。

私がこの芭蕉天神宮に格別興味を持ったのは、
この「由比町の歴史」に思いがけなく、
「大晦日」「望月氏」が出てきたからです。

CIMG3023.jpg

著者の手島氏はその中で、
由比・北田の名家で造り酒屋だった望月家を取り上げ、
そのルーツを根気よくたどっています。

信州・佐久郡の豪族、武田武士の望月一族が、
大阪夏の陣で父を失った10歳の総領を連れて大晦日の山奥へ隠れ住んだこと。
そして数十年後の孫の代になったとき、
そこから延びる「入山街道」を下り、由比に定住したことを突き止めます。
それが由比・北田の望月家だったというのです。

造り酒屋で新酒ができたとき知らせる杉の葉で作った酒林
img029.jpg

「望月氏」について、「今川氏とその時代」に掲載の、
望月厚氏の論文から見ていきます。
この方も「望月さん」なんですね。

望月厚氏は、平安時代、信濃守に就任した滋野善根より
海野、禰津、望月の三氏に分かれたところから論を進め、
そのうちの望月氏は佐久郡に本拠を持ち、
信濃国で最も大きい馬の飼育場、望月牧を管理していたとしています。

室町時代の天文12年(1543)、甲斐の武田晴信(信玄)の佐久郡侵攻で、
望月氏総領は没落。庶流の望月源三郎が生き残り、
一族と共に布引城へ籠城し武田氏への抵抗を続けるものの投降。
その後は晴信の信をもらって信雅と改名し、武田氏被官となります。

信州系武田武士の誕生です。
軍用に欠かせない馬牧を持っていたことが幸いしたといいます。

下の写真は、戦国時代、
今川、北条、武田に翻弄され、ついに武田に滅ぼされた葛山氏の墓所。
信玄が6男を入れて家を継続させたため、墓所に武田菱が彫られています。

CIMG1799.jpg
静岡県裾野市葛山・仙年寺

この寺にある力石です。

「力浄心也 □七月二九日」

CIMG1802.jpg
44×28×23㎝

武田信玄の弟に信繁という人物がいます。
永禄4年(1561)の第四次・川中島の合戦で討死してしまいますが、
その信繁の息子の一人がこの望月信雅の養子になります。

さて、ここからは諸説あって、非常にややこしくなります。
討死した信繁に息子が3人いたことは、どなたも異論はありませんが、
養子に入ったのは誰かがまちまちなんですね。

望月厚氏はこう説明しています。
信繁の長男は信豊、二男は信頼、三男は義勝で、
望月家に養子に入ったのは、「甲陽軍鑑」「乾徳山恵林寺雑本」から見て、
三男の義勝が有力である、と。

望月信雅の花押
img031 (2)

一番新しい文献「武田氏家臣団人名辞典」を見てみますと、
長男は信頼、二男は信豊、三男は信永になっており、
望月厚説とは長男と二男が入れ替わり、信永という新しい人物が登場します。

「武田氏家臣団人名辞典」では、望月氏への養子は二人とし、
最初は長男・信頼が入ったものの18歳で没したため、
改めて末弟の信永を養子に迎えたとしています。

ちまたでは、
「義勝」は養子二人のどちらかと同一人物かも、ともいわれています。

史料を持たない素人の私には口を挟めないテーマですが、
他人様の著書をお借りして、おおよそを書き出してみます。

天正三年(1575)、織田・徳川連合軍と武田軍が戦った
長篠の合戦が勃発します

この合戦で望月信雅は二人目の養子、信永を失います。
信永、養子生活10年。享年24歳。

「無銘 信玄鍔 百足の図」 室町末期
呪術的意味から、鍔(つば)の周囲にムカデをあしらってあります。
img030.jpg
「鍔(つば)入門ー百人百鍔ー」柴田光男 工芸出版 昭和42年

頼みの跡継ぎを亡くした養父の信雅は困り果て、
小諸城にいた養子たちの兄弟武田信豊を頼りますが、
この信豊も、天正10年(1582)、天目山で武田氏が滅亡した折り、
家臣の裏切りにあい、自害してしまいます。享年34歳。

またまた一人残された望月信雅は、
親ガメがこけてしまったので慌てて次を探します。
今度は徳川氏に連なる依田氏を頼り、その配下となります。

望月厚氏によると、
その信雅の消息も天正17年の蓮華定院への安堵状を最後に消えたそうで、
望月氏が他の滋野一族よりも先に滅んでしまったのは極めて残念」
と結んでいます。

ところがどっこい、手島氏によれば、
「滅んだとはいえしっかり生き延び、静岡県の安倍郡や庵原郡を中心に、
大いにはびこっている」とのこと。

さて、大晦日には一体、誰が落ち延びてきたのでしょうか。



※参考文献/「今川氏とその時代」小和田哲男編 清文社 2009
        /「武田氏家臣団人名辞典」柴辻俊六、平山優、黒田基樹
         丸島和洋 東京堂出版 2015

石を挙げ博打もやった…

桑原藤泰が地誌編さんのため、この芭蕉天神を訪れた文化年間は、
「四方遠近ヨリ詣人群衆ス」という状態だった。

「東海道の旅の途中、疝痛が起きたため、
はるか芭蕉天神の方角へ向かって一心に祈ったら治った」
と書いた江戸の旅日記がありますが、
この神社の霊験は広く流布していたものと思われます。

桑原サン、得意の絵筆で建物を描き残してくれていたら良かったのに。

この写真は大正5年の天神宮です。
img990.jpg
「静岡県庵原郡誌」静岡県庵原郡役所 大正5年

写真に写っている本殿は、現在と同じ明治13年再建のもの。
石灯ろうと狛犬の間に舞殿風の拝殿?があります。

こちらは現在の拝殿です。この後ろに本殿があります。
それまでの拝殿を壊して、本殿と狛犬の間に新たに再建したようです。

CIMG0510 (3)

神社の成り立ちについて地誌をみてみますと、
「庵原郡誌」は「無格社 祭神は菅原道真」として、二説紹介しています。

一つは、「後白河天皇の保元三年(1158)、勅使某、富士大宮浅間に奉幣し、
その帰路この地を過ぎ、病いを得て馬上に薨す。
村人、遺言にてここに葬り菅原天神と称す」

保元三年は源平の戦いに敗れた源頼朝が伊豆へ流されたころで、
平家全盛の時代です。

もう一説は現在流布している「後醍醐天皇の時」になっています。
こちらも勅使某となっています。

公家衆がここで没したという話は古くから流布していたようですね。
もっとも、たとえ当時この山中に人家があったとしても、
庶民には公家の名前などわかりようがなかったと思います。

祭りの日、大晦日出身の祖母が孫に力石の説明をしていました。
CIMG0630.jpg

「庵原郡誌」とほぼ同時期に発行された内房尋常高等小学校編纂の
「内房村誌」でも、「確たる証拠がないので伝聞にて記す」として、
「後醍醐天皇の時の某公卿」としています。

その「内房村誌」にはこんな記述もありました。

「この神社では参詣者が減ったため、
明治44年に祭りの日を替えてみたが、あまり効果がなく以前の日に戻した」

「ところが、明治初年には二、三百人に過ぎなかった参詣者が年々増えて、
現在(大正初年)は賽銭のみにても百円を越すほど増加した」

江戸末期の文化文政期には押すな押すなの大繁盛を見たものの、
明治に入って減少に転じ、明治13年に本殿再建を果たしたものの
思ったほど伸びなかった。
だが再び盛り返して隆盛を見た、ということでしょうか。

「賽銭の百円」は一日分かどうかはわかりませんが、
それにしても米10㌔が1円の時代の百円です。
人々がこの山を目指して続々と登ってきた様子が目に見えるようです。

大晦日の山を下ると中地区になります。そこの山王宮の石仏群です。
CIMG1186 (2)

「芝川歴史漫歩 無限嶺」(王子坂保彦 緑星社 昭和60年)にも、
その賑わいぶりが紹介されています。著者が聞き取りをした相手は、
昭和60年当時のここの住人・望月市太郎さん。
以下は先祖からの言い伝えとして市太郎さんが話した内容です。

「けもの道程度だった道が宝永初年(1704)、山林所有者によって開かれ、
由比、甲州間の物資を運ぶ人馬の往来が次第に激しくなった。
道には牛馬観音が立てられ、文政4年には行者が百番札所の碑を建て、
山林所有者は山神社を建てた」

思うに、この山林所有者は、
今もこの一帯の山を所有する天神総代の望月家ではないだろうか。
そして、郷土史家が言った「久我大納言を祀った白髯神社」は、
市太郎さんが言う「山神社」ではないのかと、そんな想像をしてしまいました。

市太郎さんの話を続けます。
「大晦日は芭蕉天神と共に繁栄を極め、人家は50戸を数えるまでになった。
牛馬は一日に50数頭往来、村人たちは小商売をしていずれも繁盛した。
うちは茶屋屋敷といって休憩を兼ねた酒屋をやっていて、
一日に四斗樽のこも被り数本を空にするほど酒が売れた」

これは大晦日集落の対岸、稲子の地蔵堂集落・六地蔵の力石(赤丸)です。
CIMG0104 (2)

下の写真は上の写真と同じ場所で、昭和51年当時のもの。
この道はこの先の石神峠を経て甲州(山梨県)へ続く道です。
たくさんの人馬やばくろう(馬買い商人)たちが行き交い賑わったそうです。
当時はバクチが盛んで、この六地蔵に勝ちを祈って峠を登って行ったとか。

今も田舎の寺へ行くと、バクチ用の隠し部屋の話を聞くことがあります。
寺では部屋の使用料を取っていたので、それを「寺銭」といいました。

img025.jpg
「志ば川の歴史 史実と伝説」斉藤静夫、王子坂保彦、唐紙一修
芝川町郷土史研究会 昭和51年

この本によると、芭蕉天神でもバクチは盛んだったようで、
著者の一人はこんな感想をもらしています。

「公家の縁起がどうのというより、疝気に悩んだ人が遠くから来たり、
バクチの舞台になったことの方が庶民的だと思うのだが…」

   石を挙げ博打もやった村祭り    雨宮清子


しかし「内房村誌」にはこんな記述も。
「古来、ここでは弓箭大会が盛んで、
そのときには遠近から熟達者が集まって楽しんだ」

ここを管理している望月家の先祖は弓の名手を輩出している家柄です。

また正月2日には鉄砲祭りも行われたようで、
山野を駆け巡って遊んだことが記されていました。

神社参拝のあとは力石を挙げ、バクチもやり、弓や鉄砲でも遊び、
ちょいと女の子をひっかけたり…。
ここはそうした一大リクリエーション広場だったのかも。
峠を越え舟を操って駿河や甲斐の若者たちが大勢やってきたことでしょう。

ishikawa1.jpg
「愛知の力石」(高島愼助 岩田書院 2014)より

芭蕉天神の賑わいは望月久代さんの「東山寺の歴史」にも記されていて、
「朝早く由比から歩いて天神詣でに出掛けた」との古老の手記を紹介しています。

東山寺では、悪路の山坂を越えての往復12キロの苦労を解消するため、
大正14年、地元に天神社を建立した。祭神は久我大納言ではなく、
分霊を京都・北野天満宮から受けて菅原道真公とし、
名称は「菅原天神宮」にしたという。

最盛期には50戸を数えた大晦日集落も、
昭和60年には戸数は10戸まで減り、
平成28年現在では2戸になってしまいました。


プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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