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後醍醐天皇の綸旨

大づもり物語
04 /29 2016
芭蕉天神宮の祭神とされる「久我(こが)長通」公は、
鎌倉時代後期から南北朝にかけて活躍したお公家さんです。
お公家さんの中でも「摂関家」に次ぐ「清華家」という名門だそうです。

そのお公家さんの名前がなぜこの片田舎に残っているかというと、
後醍醐天皇が富士山本宮浅間神社へ勅使を遣わせたからなんです。

これは本宮浅間神社に残る後醍醐天皇の綸旨(りんじ)です。
img985.jpg
「浅間文書纂」浅間神社社務所編 名著刊行会 昭和47年

後醍醐天皇の綸旨は2通あります。両方とも大宮司富士氏宛てです。

1通は「元弘三年(1333)九月三日」の日付で、
「駿河国下島郷(現・静岡市)の地頭職を浅間神社に寄付するので
よく知行しなさいよ」
というもの。

鎌倉幕府・討幕計画がバレて隠岐島へ流されていた天皇が、
島を脱出したのがこの年の2月。
それから3か月後の5月に、念願だった鎌倉幕府が滅亡します。
この綸旨はその4か月後に出されたことになります。

で突然ですが、話がちょっと逸れます。
本宮浅間神社にまつわるお話を二つ三つ。

下の写真は本宮浅間神社の元宮・山宮浅間神社の遥拝所です。
現在の浅間神社は里宮といいます。その里宮ができる前は、
こうした何もない場所で霊峰富士(浅間の大神)を仰ぎ見て祈ったそうです。

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富士宮市山宮

本宮の建立以降は毎年2回、里宮からこの山宮(奥宮)へ
神様をお連れする「御神幸」が行われていました。
そのとき鉾を立てた石がこれです。

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この御神幸はすべて闇の中で行ったそうで、里宮へ帰るのは
午前2時ごろになったとか。しかし明治7年にこの行事は廃止され、
以来、鉾立石は越し方を回想するが如く、ポツネンと座っております。

近くに村山浅間神社があります。
今川時代には義元に仕えた「透波(すっぱ)山伏」
中心地になっていました。
「すっぱ」とは忍者のことです。
伊豆の北条氏、甲斐の武田氏の忍者たちと攻防を繰り広げていたわけです。

話を戻します。

武士なんて元々、公家に「さぶらう者(侍)」に過ぎなかったのに、
生意気にも公家様を差し置いて鎌倉幕府なんぞをつくって…。

と思ったかどうかは知りませんが、
後醍醐天皇はとにかく北条氏から天下を奪ったことで大張り切り。
さっそく「建武の新政」に着手します。

しかしその新政も長続きはせず、
こののちも武家、公家入り乱れての目まぐるしい展開が続きます。

さてさて、また脱線です。
下の写真は江戸時代に盛んだった富士講の「人穴富士講遺跡」です。
信者たちが建立した約200基の記念石塔が並んでいます。
これ、お墓ではありません。
今、東京などに残っている富士塚もこうした信者たちが作ったものです。

またここには、人穴(ひとあな)と呼ばれる溶岩でできた穴があります。
富士講の開祖・角行が修業した穴といわれ、西の浄土とされていました。

富士山周辺には新興宗教が寄りやすいと言われていますが、
富士山の神秘性、気高さ、爆発の憤怒が引き寄せるのかもしれませんね。

CIMG1349.jpg
富士宮市人穴

後醍醐天皇の綸旨の合間に、浅間神社周辺をご紹介していますので、
話がとびとびになりましたが、ご勘弁を…。

さて、綸旨です。
もう1通は最初の写真の綸旨で、日付は「建武元年(1334)九月八日」。
「駿河国富士郡上方(現・富士宮市)のすべてを寄付するので、
天皇方の武運を祈りなさいよ」というもの。

後醍醐天皇サン、地方の有力社寺や荘園を王権のもとに置こうと必死です。

そのために「天皇は全国へ綸旨を乱発した」
  =「後醍醐天皇と建武政権」伊藤喜良 新日本出版 1999=

しかしこうした寄進状は、すぐに武士の足利尊氏にとって替わられます。

権力者はどなたも在地豪族を一人でも味方につけようと、
すでに他人が安堵した領地を今度は自分の名前で安堵したりします。
もらった方はどっちへ転んでもいいように、しっかり保管しておくわけです。

この寄進状の推移をみることによって、
権力者の衰退と優勢がみえてくると、「富士宮市史」はいいます。

白糸の滝です。
CIMG1774.jpg
富士宮市上井出

この滝の水は旧芝川町を貫通して流れ、
前回ご紹介した釜口峡の下流あたりで富士川と合流します。
その合流地点近くにある力石がこちらです。

赤丸の中が力石。右矢印が富士川の筏師たちの道しるべ。
家々の後ろは富士川の流れ、その向うに見える山が内房地区です。

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旧芝川町月代(げんだい)

ちなみに後醍醐天皇という方は、
お宝の蒐集家としても有名だったそうで、
「書写したいから○○経を持参せよ」などと言い、書き終わっても返さない。
ご本尊を持って行かれた寺ではずいぶん困惑したようです。

どこにどんなお宝があるかなんてことはよく知っていて、
それに非常な目利きだったみたいですね。
でもそうして集めたお宝は、戦火でほとんど失われたといわれています。

なにはともあれ、そんな時代に、
京の都から本宮浅間神社へ勅使が来たことだけは間違いありません。
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富士川に阻まれて

大づもり物語
04 /27 2016
今回お話する芭蕉天神宮
所在地・内房(うつぶさ)はどこにあるかというと、

まずは大正時代の静岡県庵原郡の地図をごらんください。
右側は東京方面、左側が関西方面、地図上部は山梨県です。

img992.jpg
「静岡県庵原郡誌」庵原郡役所 大正5年

地図の一番下が駿河湾。右の緑の流れが富士川です。

青丸は静岡市清水区由比の阿僧地区。
あの木の根で眠り込んでいる力石の所在地、瘤山観音堂と
第六天神社がある場所です。
緑の丸は望月久代さんのご尽力で力石が保存された東山寺です。

そして赤丸のところが芭蕉天神宮の所在地、内房(うつぶさ)。
「日本書記・皇極三年(644)」に、
常世の神という虫を売る大生部多が、
秦河勝に討たれる話が出てきますが、
その舞台になったところがこの「内房」といわれています。

ちなみに、静岡県知事は京都出身の川勝氏です。
たぶん秦氏ゆかりのお名前かと。何かの因縁を感じます。

内房村も対岸の芝富村も共に甲斐国への出入り口ですが、
日本三大急流の一つと言われた富士川に阻まれて行き来は難しく、
そのためか右岸の内房村は由比と同じ庵原郡
左岸の芝富村は浅間本宮のある大宮町と同じ
富士郡に所属していました。

「駿河記」の著者・桑原藤泰が描いた
文化15年(1818)ごろの富士川・釜口峡にかかる綱橋です。
img986.jpgimg986 (2)

手前が内房村側です。中ほどに描かれている島(瀬戸島)へ舟で渡り、
竹や藤蔓で作った綱橋を渡ってようやく芝富村へ行くことができました。
橋の下は魔の難所といわれた釜口峡です。
橋があった場所「橋場」は今も地名として残っています。

下の写真は明治時代の橋ですが、状況は全く変わっておりません。

img989.jpg
「目で見る芝川町の歴史」
唐紙一條、芦沢幹夫、佐野文孝 緑星社出版部 昭和51年

大正7年には歩兵六十連隊の兵士たちが渡った際吊り橋が切れ、
7名の犠牲者を出してしまいました。

この二つの集落が同じ行政区域になったのは昭和31年のことで、
内房村は庵原郡から富士郡芝川町に変わり、
そして現在は共に富士宮市となりました。

さて、駿河国(静岡県)と甲斐国(山梨県)との往還の道は、
富士川の右岸左岸ともにいく筋かありましたが、
ここでは右岸の興津、由比、岩淵からの道をとりあげます。

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そこに開かれた塩の道イサバ道
戦国時代のいくさ道信仰の道をたどり、
その道筋にあった芭蕉天神宮へと話を進めてまいります。

史実と伝承のはざま

大づもり物語
04 /24 2016
ちょっと力石から離れて、
以前からたびたびご紹介してきた「芭蕉天神宮」についてのお話です。

この神社は旧芝川町(現・富士宮市)内房大晦日(おおづもり)の
住民2世帯という限界集落の山の中にあります。

普段は人っ子一人いない寂しいところですが、
年2回のお祭りには、近郷近在からの参拝客で賑わいます。

芭蕉天神の名前の由来となった芭蕉の木が背後に見えます。
CIMG2895 (3)

立派な狛犬さんも優しい目をした神馬さんもおります。
かつての繁栄が偲ばれます。
CIMG0509 (2) CIMG0516 (2)

この神社から車で10分ほどの山頂近くに、
これもよくご紹介してきた力石があります。これです。
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かつてここには広場と青年の集会所があって、
芝居をやったり力石を担いだりしてみんなで遊んだそうです。
昭和50年代まで力石の力比べをやっていたそうですから、
県内で一番遅くまで行われていた地域といえるかと思います。


そのころの方々はまだ70代で、
「これを担げなければ男じゃねえぞ」と言われたなど、
昨日のことのように話してくれました。

ここは本当に人里離れた山の中です。
不思議な空間なんです。
こういう場所は、私の最も居心地の良い好きな世界です。

だから、いろいろなことを想像してしまいました。

明治13年、
伊豆の名工・村上芳次郎時正(由緒書)により建立された本殿と彫刻。
絵馬も飾られています。
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私が何を想像したかというと、「よからぬ」ことなのです
「重箱の隅をつつく」ことになるかもしれません。

問題は神社由緒書や郷土史家などの本に記されたこの一行です。
「この地で亡くなった京都の公家・久我長通大納言を祀った神社」

この文言に最初は魅かれ、次には「あり得ない」に変わっていったからです。

由緒書には「久我大納言は1334年9月にここで亡くなった」とありますが、
この人が亡くなったのはそれから9年後のことで場所は京都

あきらかに史実と違うんですね。
実在の人物を実際の没年の9年も早く亡くなったことにしてしまうなんて、
大胆というかなんというか。
亡くなった場所も京都ではなくこの山中ってことにしたことも…。

さらに昭和59年、久我家の子孫の方がこの地を訪れ、先祖の長通公を偲び、
芭蕉天神の大祭で祭主を務めたそうで…。
これってどういうことだろうか? 史実とは違うと知りつつ務めたってこと?

そこでこの不思議な空間の旅に、
ちょっと出かけてみようと思い立ちました。


これから少しの間、
素人のつたない旅のつれづれを少しばかり綴ってまいります。

甘夏ピールを作りました

お料理のページ
04 /23 2016
知人から甘夏をたくさんいただきました。
数えたら21個も。自家栽培の無農薬です。

うーむ。久々にやるか! というわけで早速とりかかりました。

甘夏さん、どれも少々不器量ですが、実はこういうのがおいしいんです。
今夜は7個だけと決めて水の中へ。
お顔が汚れていますので、タワシで磨きました。
次々と美しいシンデレラ姫に早変わり

CIMG3162.jpg

2個分の皮は細く切って天日干し用です。
カラカラに乾けば、漢方薬の陳皮になります。
お湯を注いで飲むもよし、入浴剤でも台所洗剤用でもよし。

あとの5個分の皮は鍋に入れてグツグツ。
CIMG3165.jpg

皮で甘夏ピールをつくります。
これ、料理の腕は全く必要ありませんが、ただ根気が入ります。
水を替えて3回ほどこのグツグツを繰り返します。

皮の白い綿の部分、ここに苦味があります。
甘夏の場合は特に苦いので、スプーンで削ってしまう人も多いのですが、
ここにこそ体にいい成分があるそうです。

それにこの苦味、なかなか捨てがたいんです。
私はそのまま使います。

実は全部裸にして半分は砂糖をまぶして冷凍室へ。
これは夏のシャーベット用です。

7個分の実です。
CIMG3166.jpg

こうしておくと食べやすいです。
みかんと違って甘夏の袋はむくのがめんどうですから。

その間にパンを焼きました。
炊飯器で作るパンです。超かんたん。
こちらも技術はいらないけれど、保温時間何分とか目が離せません。

できました。
CIMG3171 (2)

出来上がりのあつあつを千切ってパクパク。おいしくできました。
写真のパン、本当は後ろの方、私が食べてしまってないんです。
食べてから「そうだ、写真を」と思い立ったので…。

翌日は少し固くなりますので、薄めにスライスしてオーブンで焼き、
イチゴジャムかバターでいただきます。
ラスクみたいです。

今、イチゴは終了に近づいたので、農家さん、安く売ってくれます。
ホントに「この値段でいいの?」というくらいです。
これでジャムを作ります。
今はアクもろくに取らずズボラに作りますが、味はまあまあです。

さて、鍋でゆでた甘夏の皮です。
これは一晩水に晒してから、今度はお砂糖で煮詰めます。
焦げ付かないようお砂糖をいれては鍋を揺すり、また入れては揺すり。
飴色になったら陰干しします。
洗たく用網にすっぽり入れて二日ほどベランダへ。

まあいいだろうと思ったころ取り入れて、最後の仕上げにかかります。
適当に切ってあとはグラニュー糖をまぶすだけです。
食べきれないので小分けして冷凍室へ。

こんな感じ
CIMG3167.jpg

食べる分はブランデーをかけてしばらく放置。
おいしんですよ、これが。

ホロッと苦くてほんのりお酒の香りがしてゼリーみたいにしっとり。
私は下戸ですが、なぜかお酒の香りが好きなんです。

出来上がった甘夏ピールをつまみながら、再びピールづくりです。
今度は10個分。午後の仕事へ行く前にグツグツ。
只今、ベランダで乾燥中です。

残りの甘夏4個は冷蔵庫で出番を待っていますが、
こちらは陳皮に仕上げることに決めました。
ここまで〆て一週間。

甘夏は甘いだけに足が速い。なので私も駆け足で作りました。

やれやれ、疲れた!

由比の力石めぐり⑤

由比の力石
04 /20 2016
豊積神社に力石のような石があるんですよ」
由比在住の郷土史家、望月久代さんからの電話です。

オッ、あの有名な「豊積(とよづみ)神社」に!
胸が高鳴ります。

この神社はやたら古いんです。
なにしろあの「延喜式神名帳」に載る「延喜式内社」ですから。
これは延喜年間に時の醍醐天皇が全国の神社を調べさせ、
「由緒ある神社である」とのお墨付きを与えたものです。

「延喜式神名帳」の完成は延長5年(927)。
ということは、この豊積神社は1100年もの昔から、
すでにこの地に存在していたということになります。

豊積神社・本殿です。
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「ふるさと・ゆい 郷土史・文化財 源蔵先生講義録」
(望月一成監修、望月良英編著)より

望月良英さんによると、現在の本殿は文政8年(1825)、
伊豆・土肥町八木沢の宮大工と地元の大工が手がけたものだそうです。

土肥町には力石調査で行きましたが、
それよりはるか昔、新聞の取材で訪れたことがあります。
県内の演劇人などを訪ね歩く「ライブの創り手たち」の連載のため、
その日は昼間は伊豆・旧韮山町の「韮山時代劇場」へ赴き、
夕方から土肥町の菜の花畑で行われる「菜の花舞台」を訪ねました。

これは俳優の橋爪功さんと演劇集団「円」、
それに地元の人たちが共に作り上げた珍しい試みの舞台でした。

プロの役者はプロらしく、
地元の大人や子供たちは素人そのままの姿で無理なく溶け合い…。
真っ暗闇の中、おぼろ月だけが頼りのぞくぞくわくわくするひとときでした。

そうそう。歌手のかまやつひろしさんがギター抱えて飛び入りしましたっけ。

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旧土肥町小土肥 菜の花畑の特設舞台での橋爪さんと子供たち。

年のせいですねえ。このごろは昔のことをよく思い出してしまうんです。
ここに写っている子供たちも、すでにお父さんお母さんになっているはず。

この土肥町にも力石はたくさんありますが、それはまたの機会にして、
まずは豊積神社へ。

境内の大イチョウの根元に置かれた石です。
CIMG1957.jpg
静岡市清水区由比町屋原

「これ、どうでしょうか? 力石みたいですけど」と久代さん。
確かに!
特にイチョウの根元の丸い石はもう力石そのもの。
「でもねえ、できるだけたくさんの地元の人に聞いたんだけどわからないって」
久代さんはとても残念そう。

高島愼助教授に問い合わせるも、
「証言が得られなければ力石とは認められません」とのつれないお返事。
散逸を恐れた昔の人がご神木の根元に置いたことは充分考えられますが、
証言者がいなければやはり諦めるしかありません。

東山寺の力比べを描いた「望嶽亭」の松永宝蔵さんがご存命ならなあと、
二人して嘆息しました。

推定1200年もの歴史のあるこの豊積神社には、
奇祭と呼ばれる「お太鼓まつり」があります。

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延暦16年(797)、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征伐に向かう途中、
この神社に立ち寄り戦勝祈願をしたとの伝承があります。
その願いが叶って帰路、ここで神楽を催したのがこの祭りの始まりとか。

江戸時代になるとこれが男女の出会いの祭りになります。
老若男女が太鼓の後について、歌を掛け合うわけです。
男女が輪になって踊る旧中川根町・佐沢薬師のひよんどりや、
静岡市の小野薬師の歌垣に似たものです。

でも私が取材に入ったころは、
15歳になった若者の「若衆入り」の行事になっていて、
先輩たちが歌う「めでた歌」と水祝儀を浴びながら、
少年たちが大太鼓を叩くという勇壮な祭りになっていました。

正月二日目の「入り太鼓」
img20220904_18171722 (2)
氏子さん提供

当時の新聞記事です。
このころは、大晦日も元旦も飛び回っていました。

思えばよく働きました。

かまど神

書籍
04 /17 2016
熊本に端を発した地震は中央構造線上を大分へ延びたそうですね。

私の住む静岡県はこの中央構造線と糸魚川・静岡構造線、
それに富士川断層が三つ巴に重なる地域です。

おまけに建物は、かつての大湿原、つまり軟弱地盤の上に建っています。
また偏西風の通り道ですから、浜岡原子力発電所で事故が起きたら、
もうオシマイ。

自然破壊だけなら勤勉な日本人のことですから、
未来へ向けてすぐ復興に着手しますが、山河が放射能まみれになったら
お手上げです。断層・構造線上にある原発の無事故を祈るしかありません。

今日は力石からちょっと離れて、「かまど神」のお話です。
これは、
「かまど神」が分布する岩手県・宮城県を歩いて調査した方の本です。

img010.jpg

「はだかかべ」とは、明治から昭和初期まで壁塗り(左官)職人だった
岩手県気仙郡竹駒村(現・陸前高田市)の
阿部浅之介という人物のことです。
年中、フンドシ一つの裸で壁塗りをしていたのでそう呼ばれていたそうです。
「かまど神」製作者の一人でもあります。

この「かまど神」というのは、この地方特有の家の守り神なんですね。
こういうかまど神を知ったのは、岩手出身の方のブログからです。

ブログ主のkappaさんは、最近故郷に古民家を買ったそうです。
故郷は「1000年前、蝦夷のアテルイが倭と戦った地」で、
古民家は、
「母が生まれ育ち嫁ぐまで暮らした私たち兄弟の祖父母の家」

お母様は東日本大震災の最中に亡くなり、
この地も放射能に汚染されてしまったそうですが、忘れがたき故郷です。

その家に残っていた「かまど神」です。
目に貝殻がはめ込まれているようです。
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kappaさんのブログより

ユーモラスというかちょっと不気味というか…。
とにかく存在感抜群。
静岡県などではかまど神といえば「三宝荒神」なのでこれには驚きました。

かまど神はその家の主人に似せて作ったりしたそうですから、
kappaさん宅のかまど神もご先祖のお顔かもしれませんね。

もう一冊、ご紹介します。
昭和33年発行の「ものいわぬ農民」です。
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作者は明治42年に岩手県の山村に生まれた大牟羅 良です。
17歳で代用教員、戦地から復員後は行商で家族を養い、
その後、雑誌「「岩手の保健」の編集者になった人です。

昭和25年ごろ、某大学教授が六三制をどう思うかというプリントを
村に配った。そのとき大牟羅は農家から相談を受けた。
「これはお上の調べでがんすべか? アメリカさんの命令だべすか?
なじょに書けばよがすべ?」

大牟羅は村人たちが、
「自分はこう思うのではなく、相手のご機嫌を考えて回答する」ことに
心を痛めます。

「何を基準に決定するかというと、世間ではどう思うだろうかということが
大きな条件になっている。
自分一人が猫のように十二支からはずされるわけにはいかない、と」

でもこれは、岩手に限ったことではありません。
今もどこでもこんな感じじゃないでしょうか。

しかし、「ものいわぬ農民」ばかりを責められないとも大牟羅はいう。
84歳のおばあさんは大牟羅にこう告げた。

「戦争に負けたおかげでおらにも選挙権がきた。だから欠かさず行っていた。
税金安くしてけるの年寄は死ぬまで大切にしてけるのというから。
だども空法螺(からっホラ)ばかりだから、もう行くのは止めた」


img015.jpg
「ものいわぬ農民」より

この本には貧しい暮らしがたくさん書かれています。
私には信じがたい貧しさです。

ある家で5歳の男の子が亡くなった。
貧しさゆえに、生きているときには一枚も写真を撮らなかったその子の、
せめてこの世に存在した証しをと、
父親は死んだ子を抱いて写真を撮ったそうです。

かつてのそうした農村が、今、放射能で打ちのめされてしまいました。
私には人がいなくなった被災地の写真のどれもが、
「死んで初めて父親に抱かれて写真を写してもらえた子」の
その写真とダブって見えてしまうのです。

再び、九州がそうならないよう祈りつつ…。

※画像提供/ブログ「f-kafkappaの日記2-緑と青の風に乗ってー」
※参考文献・画像提供/「かまど神とはだかかべ」新長明美 
           日本経済評論社 2004
          /「ものいわぬ農民」大牟羅良 岩波書店 昭和33年

由比の力石めぐり④

由比の力石
04 /15 2016
熊本県で大きな地震が起きたようですね。
被害が拡大しないよう、皆さまの無事を祈るばかりです。

ここ静岡では「東海大地震」が来ると言われてから、すでに40数年。

水、パンの缶詰、アルファ化米、簡易トイレ、非常用ローソクは2週間分常備。
寝室には太陽光携帯ライト以外は何も置かず、
いつでも飛び出せるようパジャマがわりにスポーツウエア着用。
各部屋にペットボトルを置き、玄関への逃げ道には倒れるものは置かず、
タンスは一部屋に集中設置。本棚には転倒防止策。

なにしろ40年間、「来るぞ来るぞ」ですから、自然にこうなりました。
準備万端でも建物自体が倒壊したら何もなりませんけど。

さて、由比の力石めぐりです。
由比の力石の情報提供者・望月久代さんがある日、小声で言いました。
「静岡の力石」に載っている石の中に、ちょっと疑問の石が…」
思わず、ギョエ!

それがこれ。確かに少し大きすぎるような…。
img943.jpg
静岡市清水区由比・個人宅  84×48×25㎝、68×39×20㎝

それで久代さんと石の所有者宅へ伺いました。
ここには江戸時代、由比宿の木戸と、
閻魔様を祀る十王堂があったそうです。
出てきたこの家の奥さん、
「エエーッ! これが力石? 聞いたことないっけやあ。
庭を掘ったら出てきた石だって聞いてたけど、う~ん」

この石の情報は10数年前のことで、提供者は他県の方です。

石は玄関わきにあって門扉を開けなければ入れませんし、
寸法もちゃんとはかってありますから、無断で入ったはずもない。
当時の住人に力石であると確認してのことだろうと思います。

同じ家にいても知っている人と全く知らない人がいる、
こういう例はママあります。

こちらは清水区小河内和田・金毘羅神社の参道の力石です。
img013.jpg
63×36×30㎝

「奉納」と刻字があります。斜めの線は絡まった蔦(ツタ)。

こちらの情報も10数年前のことで、市の石造物調査の折りに、
当時の調査者が土地の古老から聞き取ったものです。

ところが現在の地元の郷土史家は全くご存知なかったのです。
というより「力石」という名称すら知りませんでした。
たった10数年でこんな状態になってしまうんですね。

同じ土地の住人でも先輩から後輩へと伝えられていない、
あくまでも個人の思い出の中にしか残っていないのです。
現在ここにお住いの郷土史家にいくら説明しても、
「これが力石だなんて聞いたことがない」と頑強に認めませんでした。

こんなふうなので、
その証拠を調査報告書に残しておかなければうやむやになります。
全国調査をした高島愼助教授の仕事の価値はここにあります。

今この力石は頭部の一部を欠いた状態で、参道に放置されています。
由比の個人宅の力石は、
寺社へでも保存しない限り所在不明になる確率が高そうです。

愛着を持たれなかった力石の運命は無残です。

※参考文献/「静岡の力石」高島愼助・雨宮清子 岩田書院 2011

大人のみなさん、どうしちゃったの?

世間ばなし
04 /12 2016
ちょっと世間話です。
このところ「保育園」のことがニュースになっていますね。

直近のニュースは、
「子どもの声がうるさいという近隣の苦情で保育園の建設取りやめ」
その前には選挙の立候補者が、
保育園の入園に落ちた働くお母さんの嘆きを聞いて、
「おまえら、貧乏だから保育園必要なんだろ?」と発言。

「子供の声がうるさい」って、場違いな場所で騒いだならともかく、
園そのものを許容できないって、なんか悲しいなあ。
それとも何か別の問題があってのことだろうか。

子どもの声=騒音になったのはいつごろからだろうか。
ひょっとして、清潔志向が高まってやけに潔癖症の人が増えてきて、
公共施設などで手の消毒液を置き始めた頃からだろうか?

昔は子供はうじゃうじゃいて、群れて暗くなるまで遊んでいました。
夏休みはもう毎日のように川へ水遊び。
いたずら小僧は行きがけに畑のキュウリやトマトを失敬して、
湧水で冷やしておいて、あとでおやつ代わりに食べたりしていた。
畑の持ち主はゲンコツ一発見舞ったけれど、1、2個なら許してくれた。

そこには子供を「排除する」思考はこれっぽっちもなかった。

かつて向うの山の中腹に分校がありました。(赤丸の中)。
CIMG1325 (2)

30年ほど前ここへ来たときはまだ子供がいて、
その子供たちの声が山々へこだましていましたが、
3年前に来たときはすでに廃校になっていて、シンと静まり返っていました。

「学校がなくなるということはどんなことかわかりますか?」
そう言った村の人の悲しげな顔が忘れられません。
これは単に大人の郷愁ではありません。

子供の声が消えるということは、
極端に言えば、 集落そのものが死んでしまうことなんです。
後継者問題でも山の中だからでもなく、生きる原動力を失うことなんです。

都会でも、いやむしろ
孤独を抱えた人が多く、人のつながりが希薄な都会だからこそ、
その深刻度は田舎の比ではないともいえます。
華やかさの陰の喪失感・疎外感。
無味乾燥な世界、老いた町、そんなイメージです。


2年前おじゃました分校の生徒さんの一人です。
CIMG0851.jpg

また政治家を志す人の「おまえら、貧乏だから保育園が…」の発言。
まだこういう発想の人がいることに仰天しました。

ウン十年前になります。
東京・世田谷区で保育園に申し込んだときのことです。
役所から電話がきました。

「あんたの旦那は一体何しているのかね。働いていないのか」
「女房を働かせなければならないほど、あんたんところは貧乏なのか」

当時の保育園事情は、むしろ田舎の役所の方が進んでいました。
難しい保育理論など不要。ただ温かく愛情たっぷりに見守っていて…。
農家の子供も学校の先生の子供もみんな一緒に、
村のお姉さん先生たちがみてくれていました。

生徒7人の山の分校の授業風景です。
CIMG0849 (3)

この子たちの存在がどんなに集落を元気づけていることか。

私の住む町の小学校でも、最近は運動会に音楽を流しません。
昔は誰もうるさいとは思わず、むしろあの行進曲に浮き浮きして、
子供たちと共に楽しんだものですが、今は苦情があるからと…。
そういえば近くの保育園から聞こえていた楽器演奏も、
ここ一年ほど止んでいる。

なんでここまで遠慮しなければならないのか。
未来ある子供をなぜここまで萎縮させるのか。
働く若いママたちをどうして応援できないのか。

老境に入った人たちにも、当時の大人社会から、
時には厳しくもゆったり見守られてきた子供時代があったはず。
そのことを大人たちは忘れてしまったんでしょうか。

それとも、上階の幼子の走りまわる元気な足音を聞いて、
「あ、病気してないな」と安心するような私の方がおかしいんでしょうか。
この幼子の足音が、ひっそり暮らす私の活力にもなっているんです。

「子供の声がうるさい」って思ったら、
一度、山の分校を訪ねてみてほしい。

子供がいかに尊い存在であるかがよくわかりますから。

由比の力石めぐり③

由比の力石
04 /11 2016
由比・阿僧の瘤山観音堂で、木の根に集められた力石を確認したあと、
私たちは次の目的地「白井沢」へと向かいました。

白井沢の力石の情報をくださったのは、青木仁さんという農家さんです。
早朝にも関わらず、青木さんは笑顔で、
「今、案内します」
それから高島教授の軽自動車をチロッと見て、
「うーん。うちの車で行くかね?」

先生、慌てて、
「いや、これで行きます」
それでも青木さん、
「うーん。道悪いでね、うんと悪いでね、慣れてない人にはどうかなあ」

結局、久代さんだけ青木さんの車へ乗り換え、
私は高島教授の軽自動車に乗り込んで、いざ、山のテッペンへ。

青木さんが言った通り、軽一台やっとの山道。おまけに左側は断崖です。
そのざらざらのクネクネ道を登り詰めたところに小さなお社がありました。

青木さんにご案内いただいた第六天神社です。
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「阿僧の歴史」(望月良英 私家本 2016)より

第六天神って時々見かけますが、今一つわからない神様です。
なにしろ仏道修行をじゃまする天の魔王ですから。
織田信長がこの魔力に魅せられて信奉したそうですが、
結局、本能寺であえない最期を遂げてしまいました。

でもこの魔王さん、お釈迦さまが涅槃に入られるとき駆けつけて、
大乗仏教とその信奉者を守護することを誓ったそうです。

青木さんによると、
ここの第六天神社には、武士の守り本尊の摩利支天
山の神様が合祀されているとのこと。

第六天神社の力石です。
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ここもまた木の根枕の力石  雨宮清子

力石がこんなにたくさんあるってことは、
かつてここには多くの若者たちがいて、力比べに興じていたってことですよね。
それを「魔王」さまがご覧になっていた。

そういう日々はもう来ないんだよなあとちょっぴりセンチメンタルになりつつ、
青木さんの車を先頭に、
再びざらざら道をつんのめるようにして下りました。

でも有難いことに、
望月良英さんが、
郷土史「阿僧の歴史」」にその痕跡を永久に残してくれました。

これです。
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今は人々から忘れられ、みんなで寄り添って眠る力石ですが、
この郷土史に記録されたことで、
その存在を郷土のみなさんに再確認していただくことができました。


そして私が、昔の人たちが残してくれた郷土史の中で力石と出会い、
それを元に尋ね歩いたように、
「阿僧の歴史」を見た「もの好き」な若者がこの石に会いにくる、
そんな日がきっとあるような、そんな気がいたします。

赤きくちびる…

古典芸能
04 /08 2016
稚児舞のお話の続きです。

開始の3時半ちょっと前に再び静岡浅間神社へ。
お天気が味方してくれたんですね。

舞殿の周辺には、すでに大勢の人が集まっていました。
撮影ポイントには各テレビ局と新聞社、
それにアマチュアカメラマンたちが陣取っていて、もう入る余地がない。


人の肩越しに撮るしかないけど、なんとかがんばろうと、
改めてデジカメを見ると、なんと電池切れのオレンジランプ。
途中で赤ランプになったけど、なんとか最後の舞まで撮りました。

初めに四方を清める舞「振鉾(えんぶ)」です。
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拝殿から一歩踏み出した途端、稚児の表情がグッと引き締まり、
実に神々しい。
午前中に見せていたあのおどけた笑顔がうそみたいです。

次は「納曽利」(なそり)です。
通常は二人で舞うもので、雌雄の龍が遊ぶ様を模した舞です。
ですが、ここでは一人で舞います=「落蹲」(らくそん)。
童舞のときは面はつけません。

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足の運びをご覧ください。この稚児さんはとても上手で、
躍動感と優美さを非常によく表現していました。
ひらりと身をかわして空を舞うところを撮りたかったのですが、
捉えられませんでした。残念!

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前のおじさんの腕とその前のおじいさんの白髪頭が邪魔でねえ…。
イラッ!

「安摩(あま)」の舞です。
周囲から「女の子かしら?」の声。いえいえみんな男の子です。
この子たち、普段は踊りとは縁のない普通の小学生ですが、
すべての舞、10日ほどで会得したそうです。恐るべし!

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優雅に舞っているところへ爺と婆が登場します。
こちらは爺。婆は真っ赤な大きな舌をべろっと出しています。

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「二の舞(ずじゃんこ舞)」
滑稽なしぐさで稚児を笑わせようとしますが、稚児は笑いません。
爺と婆はすごすごと退場します。

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「還城楽(げんじょうらく)」です。
蛇を好んで食べるという中国西域の人が、
蛇を見つけて歓喜する様を表現した舞です。
せまい舞台で、しかも重たい衣装なのに美しく見事に飛び上がりました。

思わずオオーッ!
左端の鉾持ちの少年たちにも拍手を送りたいですね。

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手に持っている輪のようなものが蛇。
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最後が「太平楽」です。
太刀や鉾を持って勇壮に舞います。
でも稚児らしく可愛らしいですね。

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中国・漢の高祖と楚の項羽が催した酒宴で、
項荘と項伯の二人の武将が剣舞を披露した故事を模した舞です。

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花のもと袖ひるがえし稚児の舞う
           赤きくちびる固く結びて
  雨宮清子

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞