後醍醐天皇の綸旨
大づもり物語
芭蕉天神宮の祭神とされる「久我(こが)長通」公は、
鎌倉時代後期から南北朝にかけて活躍したお公家さんです。
お公家さんの中でも「摂関家」に次ぐ「清華家」という名門だそうです。
そのお公家さんの名前がなぜこの片田舎に残っているかというと、
後醍醐天皇が富士山本宮浅間神社へ勅使を遣わせたからなんです。
これは本宮浅間神社に残る後醍醐天皇の綸旨(りんじ)です。

「浅間文書纂」浅間神社社務所編 名著刊行会 昭和47年
後醍醐天皇の綸旨は2通あります。両方とも大宮司富士氏宛てです。
1通は「元弘三年(1333)九月三日」の日付で、
「駿河国下島郷(現・静岡市)の地頭職を浅間神社に寄付するので
よく知行しなさいよ」というもの。
鎌倉幕府・討幕計画がバレて隠岐島へ流されていた天皇が、
島を脱出したのがこの年の2月。
それから3か月後の5月に、念願だった鎌倉幕府が滅亡します。
この綸旨はその4か月後に出されたことになります。
で突然ですが、話がちょっと逸れます。
本宮浅間神社にまつわるお話を二つ三つ。
下の写真は本宮浅間神社の元宮・山宮浅間神社の遥拝所です。
現在の浅間神社は里宮といいます。その里宮ができる前は、
こうした何もない場所で霊峰富士(浅間の大神)を仰ぎ見て祈ったそうです。

富士宮市山宮
本宮の建立以降は毎年2回、里宮からこの山宮(奥宮)へ
神様をお連れする「御神幸」が行われていました。
そのとき鉾を立てた石がこれです。

この御神幸はすべて闇の中で行ったそうで、里宮へ帰るのは
午前2時ごろになったとか。しかし明治7年にこの行事は廃止され、
以来、鉾立石は越し方を回想するが如く、ポツネンと座っております。
近くに村山浅間神社があります。
今川時代には義元に仕えた「透波(すっぱ)山伏」の
中心地になっていました。
「すっぱ」とは忍者のことです。
伊豆の北条氏、甲斐の武田氏の忍者たちと攻防を繰り広げていたわけです。
話を戻します。
武士なんて元々、公家に「さぶらう者(侍)」に過ぎなかったのに、
生意気にも公家様を差し置いて鎌倉幕府なんぞをつくって…。
と思ったかどうかは知りませんが、
後醍醐天皇はとにかく北条氏から天下を奪ったことで大張り切り。
さっそく「建武の新政」に着手します。
しかしその新政も長続きはせず、
こののちも武家、公家入り乱れての目まぐるしい展開が続きます。
さてさて、また脱線です。
下の写真は江戸時代に盛んだった富士講の「人穴富士講遺跡」です。
信者たちが建立した約200基の記念石塔が並んでいます。
これ、お墓ではありません。
今、東京などに残っている富士塚もこうした信者たちが作ったものです。
またここには、人穴(ひとあな)と呼ばれる溶岩でできた穴があります。
富士講の開祖・角行が修業した穴といわれ、西の浄土とされていました。
富士山周辺には新興宗教が寄りやすいと言われていますが、
富士山の神秘性、気高さ、爆発の憤怒が引き寄せるのかもしれませんね。

富士宮市人穴
後醍醐天皇の綸旨の合間に、浅間神社周辺をご紹介していますので、
話がとびとびになりましたが、ご勘弁を…。
さて、綸旨です。
もう1通は最初の写真の綸旨で、日付は「建武元年(1334)九月八日」。
「駿河国富士郡上方(現・富士宮市)のすべてを寄付するので、
天皇方の武運を祈りなさいよ」というもの。
後醍醐天皇サン、地方の有力社寺や荘園を王権のもとに置こうと必死です。
そのために「天皇は全国へ綸旨を乱発した」
=「後醍醐天皇と建武政権」伊藤喜良 新日本出版 1999=
しかしこうした寄進状は、すぐに武士の足利尊氏にとって替わられます。
権力者はどなたも在地豪族を一人でも味方につけようと、
すでに他人が安堵した領地を今度は自分の名前で安堵したりします。
もらった方はどっちへ転んでもいいように、しっかり保管しておくわけです。
この寄進状の推移をみることによって、
権力者の衰退と優勢がみえてくると、「富士宮市史」はいいます。
白糸の滝です。

富士宮市上井出
この滝の水は旧芝川町を貫通して流れ、
前回ご紹介した釜口峡の下流あたりで富士川と合流します。
その合流地点近くにある力石がこちらです。
赤丸の中が力石。右矢印が富士川の筏師たちの道しるべ。
家々の後ろは富士川の流れ、その向うに見える山が内房地区です。

旧芝川町月代(げんだい)
ちなみに後醍醐天皇という方は、
お宝の蒐集家としても有名だったそうで、
「書写したいから○○経を持参せよ」などと言い、書き終わっても返さない。
ご本尊を持って行かれた寺ではずいぶん困惑したようです。
どこにどんなお宝があるかなんてことはよく知っていて、
それに非常な目利きだったみたいですね。
でもそうして集めたお宝は、戦火でほとんど失われたといわれています。
なにはともあれ、そんな時代に、
京の都から本宮浅間神社へ勅使が来たことだけは間違いありません。
鎌倉時代後期から南北朝にかけて活躍したお公家さんです。
お公家さんの中でも「摂関家」に次ぐ「清華家」という名門だそうです。
そのお公家さんの名前がなぜこの片田舎に残っているかというと、
後醍醐天皇が富士山本宮浅間神社へ勅使を遣わせたからなんです。
これは本宮浅間神社に残る後醍醐天皇の綸旨(りんじ)です。

「浅間文書纂」浅間神社社務所編 名著刊行会 昭和47年
後醍醐天皇の綸旨は2通あります。両方とも大宮司富士氏宛てです。
1通は「元弘三年(1333)九月三日」の日付で、
「駿河国下島郷(現・静岡市)の地頭職を浅間神社に寄付するので
よく知行しなさいよ」というもの。
鎌倉幕府・討幕計画がバレて隠岐島へ流されていた天皇が、
島を脱出したのがこの年の2月。
それから3か月後の5月に、念願だった鎌倉幕府が滅亡します。
この綸旨はその4か月後に出されたことになります。
で突然ですが、話がちょっと逸れます。
本宮浅間神社にまつわるお話を二つ三つ。
下の写真は本宮浅間神社の元宮・山宮浅間神社の遥拝所です。
現在の浅間神社は里宮といいます。その里宮ができる前は、
こうした何もない場所で霊峰富士(浅間の大神)を仰ぎ見て祈ったそうです。

富士宮市山宮
本宮の建立以降は毎年2回、里宮からこの山宮(奥宮)へ
神様をお連れする「御神幸」が行われていました。
そのとき鉾を立てた石がこれです。

この御神幸はすべて闇の中で行ったそうで、里宮へ帰るのは
午前2時ごろになったとか。しかし明治7年にこの行事は廃止され、
以来、鉾立石は越し方を回想するが如く、ポツネンと座っております。
近くに村山浅間神社があります。
今川時代には義元に仕えた「透波(すっぱ)山伏」の
中心地になっていました。
「すっぱ」とは忍者のことです。
伊豆の北条氏、甲斐の武田氏の忍者たちと攻防を繰り広げていたわけです。
話を戻します。
武士なんて元々、公家に「さぶらう者(侍)」に過ぎなかったのに、
生意気にも公家様を差し置いて鎌倉幕府なんぞをつくって…。
と思ったかどうかは知りませんが、
後醍醐天皇はとにかく北条氏から天下を奪ったことで大張り切り。
さっそく「建武の新政」に着手します。
しかしその新政も長続きはせず、
こののちも武家、公家入り乱れての目まぐるしい展開が続きます。
さてさて、また脱線です。
下の写真は江戸時代に盛んだった富士講の「人穴富士講遺跡」です。
信者たちが建立した約200基の記念石塔が並んでいます。
これ、お墓ではありません。
今、東京などに残っている富士塚もこうした信者たちが作ったものです。
またここには、人穴(ひとあな)と呼ばれる溶岩でできた穴があります。
富士講の開祖・角行が修業した穴といわれ、西の浄土とされていました。
富士山周辺には新興宗教が寄りやすいと言われていますが、
富士山の神秘性、気高さ、爆発の憤怒が引き寄せるのかもしれませんね。

富士宮市人穴
後醍醐天皇の綸旨の合間に、浅間神社周辺をご紹介していますので、
話がとびとびになりましたが、ご勘弁を…。
さて、綸旨です。
もう1通は最初の写真の綸旨で、日付は「建武元年(1334)九月八日」。
「駿河国富士郡上方(現・富士宮市)のすべてを寄付するので、
天皇方の武運を祈りなさいよ」というもの。
後醍醐天皇サン、地方の有力社寺や荘園を王権のもとに置こうと必死です。
そのために「天皇は全国へ綸旨を乱発した」
=「後醍醐天皇と建武政権」伊藤喜良 新日本出版 1999=
しかしこうした寄進状は、すぐに武士の足利尊氏にとって替わられます。
権力者はどなたも在地豪族を一人でも味方につけようと、
すでに他人が安堵した領地を今度は自分の名前で安堵したりします。
もらった方はどっちへ転んでもいいように、しっかり保管しておくわけです。
この寄進状の推移をみることによって、
権力者の衰退と優勢がみえてくると、「富士宮市史」はいいます。
白糸の滝です。

富士宮市上井出
この滝の水は旧芝川町を貫通して流れ、
前回ご紹介した釜口峡の下流あたりで富士川と合流します。
その合流地点近くにある力石がこちらです。
赤丸の中が力石。右矢印が富士川の筏師たちの道しるべ。
家々の後ろは富士川の流れ、その向うに見える山が内房地区です。

旧芝川町月代(げんだい)
ちなみに後醍醐天皇という方は、
お宝の蒐集家としても有名だったそうで、
「書写したいから○○経を持参せよ」などと言い、書き終わっても返さない。
ご本尊を持って行かれた寺ではずいぶん困惑したようです。
どこにどんなお宝があるかなんてことはよく知っていて、
それに非常な目利きだったみたいですね。
でもそうして集めたお宝は、戦火でほとんど失われたといわれています。
なにはともあれ、そんな時代に、
京の都から本宮浅間神社へ勅使が来たことだけは間違いありません。
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