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観音さまに罪はない

由比・阿僧の瘤山観音堂には、
樟(くす)一本彫りの十一面観世音菩薩が安置されているそうです。
そりゃまあ、観音堂ですから当たり前ですが…。

これなんです。観音様に向かって「これ」はないですよね。
こちらです。
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「阿僧の歴史」(望月良英)より

写真で見る限りは、すらっとした美しい観音さまです。
ところが「由比町の歴史・下巻」で著者の手島日真氏はこう言っています。

手島氏は、
「お堂の柱の軸受けが唐様組子の繰物肘木で、しかも極彩色。
このことからもこのお堂が、
いかに立派な建築物であったかをうかがうことができる」
と感嘆したあと、いよいよお厨子を開きます。
ところが、ビックリ仰天!

「古色蒼然とした三十二相を具し給う御本尊と思いきや、
明治の末か大正時代の樟の一本彫り、等身大の聖観世音のお姿である。
恐らく、古物屋に騙されて置きかえられたものであろうが、
実に惜しむべく、憎むべき行為である」

今でも山奥のお堂などへ行くと、
立派な仏像が簡易な鍵だけで保管されていたりします。

盗難が心配ですね」というと、集落の人はのんびりと、
「なに。こんな山ン中までドロボーはこねえよオ

これは民話「すもうにかったびんぼうがみ」に出てくる「貧乏神」です。
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松谷みよ子 再話 斎藤真成 画   福音館書店 1973

私の大好きな絵本です。要約するとこんなお話です。

貧乏な一人暮らしのあにさのところに嫁さまがくることになった。
ところがこの家の天井裏には、ずっと昔から貧乏神が住みついていた。
そんなことも知らず、嫁さまは「おらうちの守り神様」にせっせとお供えをした。

若い夫婦はよく働いたので、家は少しずつ豊かになった。
困ったのは貧乏神です。なぜかって?
福の神と交替するためにこの家を出て行かなければならないからです。

でも若い夫婦は「ずっと一緒に暮らしてきただもの、出ていくことはねえ」
「福の神が来たとてここへは一歩もいれねえぞ。負けるでねえぞ」
そう言ってどんどんおまんまを食べさせた。

で、力をつけた貧乏神はやってきた福の神と相撲をとって勝った。
「こんなうちは初めてだあ」と福の神はたまげて逃げ出した。
あんまり慌てていたので打ち出のこづちを落としていった。

貧乏神がそれを振ると、
「じゃらん、ぽん、ちん」とお金もお米もざっくざく。
貧乏神を見たら、なんと、でっぷりした福の神になっていた。

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斎藤真成・画

不謹慎かもしれないけれど、
瘤山観音堂のすり替えられた観音さまを知って、
「貧乏神が福の神になった」このお話を思い出したのです。

今安置されている観音さま、
古物商のよこしまな手を経てここへやってきたとはいえ、
集落の人々の熱い思いを一身に受けて、
今では魂の入った立派な仏さまになっているんじゃないかな、と。

あ、でも念のため、一度天井裏をのぞいた方がいいかもね。



※参考文献・画像提供/「阿僧の歴史」望月良英 私家本 2016
               /「由比町の歴史・下巻」手島日真 由比文教社
                昭和47年
               /「すもうにかったびんぼうがみ」松谷みよ子 再話
                斎藤真成 画 福音館書店 1973
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由比の力石めぐり②

4月初旬の思わぬ花冷えの朝、
四日市大学の高島教授と私は、待ち合わせ場所の阿僧宇神社で、
由比の郷土史家・望月久代さんと無事、合流。

そこから徒歩で「瘤山(こぶやま)観音堂」へと向かいました。

瘤山観音堂です。
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「阿僧の歴史」(望月良英)より

縄文遺跡があるここ阿僧は、
由比最古の人の居住地といわれております。
また、鎌倉時代には由比氏の祖、由比五郎入道浄円の屋敷があり、
室町期にはそこが二万三千石の川入城になりました。

このときの城主は今川氏二十四将の一人、由比光詔
しかし、
天文15年(1546)、信州の村上義清(甲斐・武田説も)に攻められ落城。
光詔の遺児・光秋は今川氏滅亡後帰農して、由比今宿の里長になります。
その川入城跡に出来たのが、法城山常円寺
昔は「古城山常円寺」といっていたそうです。

そんなわけで、この阿僧地区は歴史も深く、
江戸時代には経済的にもゆとりのある村だったようです。

話を瘤山観音堂に戻します。この観音堂は、
明治の廃仏毀釈で廃寺となった深谷寺(新国寺)=しんこくじ=の境内仏堂で、
寛文六年(1666)の鰐口や、
由比地域最古といわれる慶長十七年(1612)の墓石などが現存しています。

これは明暦元年(1655)建立の多宝塔式の浮彫観音石塔です。
img955.jpg
「由比町の歴史下巻」(手島日真)より

右側の石塔は寛文六年(1666)の庚申塔です。
望月良英氏によれば、三猿が彫られた上部に、

「庚申を共に守り、終夜至心にして更に違うことなく、清浄本然として、
三彭(さんぼう=三尸の虫)是非を説くを遮らず」

と漢文で刻字されているそうです。
由緒ある観音堂ですが、今はちょっと寂しい風情です。

瘤山観音堂の力石です。
CIMG0033 (2)

立派な力石ですが、
今はもう、誰にも顧みられることなくこのように放置されています。

昔はこの境内で賑やかに盆踊りが行われていたそうです。
そんなとき、村の若者たちは娘っこたちの前で、
石を担いで競い合い、力自慢をしたことでしょう。

   
    今はただ木の根枕に夢の中 
          力石(いし)は語らず人も語らず   雨宮清子



※参考文献・画像提供/「阿僧の歴史」望月良英 私家本 平成28年
               「由比町の歴史・下巻」手島日真 由比文教社
               昭和47年

はまり込んだら抜けられませんぜ

由比の力石を一回お休みして…。

私は「力石」という認知度の低い石のお話を書いています。

全国津々うらうらはいうに及ばず、諸外国にもあるこの力石、
平安鎌倉から昭和初期に至る長い歴史があるにもかかわらず、
「紙」の資料しか有難がらない歴史家や歴史愛好家には、
「あんなマイナーもの」と蔑まれる、まことに不運な石でございます。

新助、喜八コンビの力石です。
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東京都港区白金・立行寺 60×40×38㎝  S氏撮影

「奉納 寛政六申寅年 市谷八幡前 新助 喜八」

でもそのマイナーゆえの味はまた格別。
この面白さにはまったら、抜けられません。

岡本かの子、あの芸術家・岡本太郎のお母さんですが、
そのかの子さんが書いた「東海道五十三次」という作品のなかに、
こんな記述があります。

「この東海道には、
東海道人種とでも名付くべき面白い人間がたくさんいるんですよ。
その東海道人種の一人、作楽井(さくらい)さんが言ったんです」

『東海道というところは、
うっかりはまり込んだら抜けられませんぜ

「この作楽井さん、元は小田原の穀物商。
商用で東海道へ足を踏み出したら病み付きになり、ついに一家離散。
以来二十年、用もないのに道中双六のように、
東海道を住み家に上ったり下ったり」

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旧東海道・静岡市 宇津ノ谷集落

最近はこの零細ブログを訪れてくださる方も増えてきて、
さらに力石の報告をしてくださる方もいて、感激しております。

一家離散の作楽井さんほどではありませんが、
それなりに「はまり込んだ」
そんな方のブログを二つばかりご紹介します。

戦国時代を追いかけて 日本の歴史つまみ食い紀行」のつねまるさん。
http://rekitabi4.blog.fc2.com/

愛車を駆使して北海道までも「追いかけて」いくほどの元気な方です。
先日、「ありましたー!」と力石との初対面の感動を寄せてくれました。

もうお一人は「路傍学会」路傍学会長さん。
http://robougakkai.blog.fc2.com/

主に関東地方の神社仏閣を歩かれています。
狛犬、庚申塔、旗立台などなど。
面白いのは古い街角の塀などに残されているこれまた古い標識の発見です。

そんな中、力石を見つけ、ブログに載せてくださっています。

本当に嬉しい!

できるだけ多くのみなさんに知っていただくことが、
文字として残りにくかったこの庶民習俗、文化を、
消滅させない力になりますから。

東海道のおまけをもう一つ。
井上ひさし「新・東海道五十三次」の中で、こんなことを言っています。

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「日本名著全集下巻」日本名著全集刊行会 昭和2年

「東海道は仏道である」
「法華経に入法界品の一章があって、それに仏の道へ入るために
善財童子という少年が、
南方諸国の五十三善知識を訪なったときの一部始終が書かれている。

五十三人の善知識人には老者あり病者あり遊女あり。
これは街道を歩くのと同じこと。
ゆえに東海道とは仏の教えを求める道、すなわち求道である」

つねまるさんも路傍学会長さんも私も、
はまりこんだら抜けられなくなった「作楽井さん」になりましたが、
これは「仏道、求道」ですから、
お互い、おおいに精進いたしましょう!

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浜松市新居・教恩寺

   いにしえの寺のイチョウを訪ぬれば
             虚ろな穴を残すひと株
    雨宮清子

望月良英さんのこと

阿僧在住の郷土史家、望月良英さんを知ったのは、
6年前の平成22年のことでした。

図書館で何気なく手にした冊子「郷土研究 結愛(ゆうあい)」を見て、
あ、この本欲しいなと思ったんです。

それは静岡市清水区由比の「結愛文化クラブ」の郷土史愛好家たちが、
正法寺のご住職、手島英真氏の指導の下、自分たちの郷土について
先人たちが遺した資料に学び、自分たちの足で調べた機関誌でした。

気負いもてらいもない、真っ直ぐで率直なところに魅かれました。

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家に帰ってすぐ巻末の電話番号へかけました。
そのとき応対してくださったのが、
この機関誌を編集していた望月良英氏だったのです。

それからしばらくして、私は再び良英氏に電話をかけました。
「由比に力石はありませんか?」

今思えば、いささか厚かましかった。
でもすぐ応じてくれたんです。「望月久代さんなら」と。

これは良英氏が今は亡き最愛の息子さんに捧げた本です。
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発行は平成24年3月15日。
この前年の同じ日、つまり東日本を襲った大震災の4日後の3月15日、
息子さんは赴任先の会津若松市で急逝。
金沢大学電気情報工学科で学んだ前途洋々たる好青年。
41歳を迎えたばかりでした。

そうとは知らず、私は19日に行われる東山寺・薬師堂での
「力石の重さ当てイベント」への参加の電話をかけてしまいました。
あのとき電話へ出られた奥さまの気丈な声は今も忘れることができません。
以来、東山寺の力石と良英氏のご家族のことは切り離せなくなりました。

他人様の悲しみに触れることにはためらいがあります。
こういう形で書くことはいけないことではないのかとの思いもあります。

良英氏には正式なお悔みさえ、私はいまだに言ってはおりません。
口に出して言えば薄っぺらなものになる、そんな気がして…。
それでも変わらぬ笑顔で、私の力石の講演会には久代さんと共に、
2度もかけつけてくれました。

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静岡県富士宮市 西山本門寺
私が子供の頃遊ばせていただいたお寺です。当時のご住職は由比さん。
同級生だったこの寺の娘さんもすでにいない。

穏やかな良英氏を見て、人は言うかもしれない。
「あなたは強い人ねえ」と。
私自身が幾たびか言われてきた一番嫌いな言葉です。

「強くなんかない。本当は情けないほど弱くて、
針で身体のどこをつついても涙がほとばしり出てくるほどなのに。
今にもボロボロ崩れそうな自分をなんとか支えて不器用に生きているのに。
悲しみや辛さに遭遇して強くいられる人なんているわけないじゃない」

押しつぶされそうな現実に耐え、泣きわめかず、懸命に生きている人に、
決して言ってはならない言葉、
「あなたは強い人ねえ。私だったらとてもそんなふうにはなれないわ」
たまりかねて相手にこう言ったことがあります。
「じゃあどうすればいいの? 死ねば弱い人と思ってあげられるってこと?」

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巴川の灯篭流し 毎年、行っています。

息子さんは亡くなるひと月前、良英氏にこう言ったそうです。
「父さん、身体の不自由な人やつらい生活をしている人は、
人間として意識レベルの高い人間なんだよね」

良英氏は定年を迎えた時、一冊の本を書いた。
「知っていると役立つルール」
職場で教えられたことや一緒に郷土史を学ぶ仲間たちから得た教訓を
ご自分なりにまとめた本です。
息子さんが言い残していった言葉は、父から贈られたこの本の中にありました。

父は子に人生のルールを文字に託してそっと伝え、子はその父に
「父さん、わかったよ」と無言のうちに感謝しつつ伝えていった。

本来なら、良英氏の著作や活動のご紹介をさせていただくのが筋ですが、
あの日以来、
私の胸に刺さったままの痛みや思いを記させていただきました。


    などかくもつらき別れぞ今宵また
         思い出たどるこぞ逝きし子の
   望月良英



詩を読むように故郷を語る

望月久代さんから新たな力石発見の知らせを受けて、
由比・阿僧(あそう)へ赴いたのは5年前の早春のこと。

「駿河記」(桑原藤泰)に描かれた阿僧です。
由比川を挟んで対岸(右)に見えるのが東山寺の紫山。
img947.jpgimg946 (2)

師匠の高島愼助教授は例によってご自宅を深夜に立ち、
途中の温泉施設の駐車場で仮眠。

先生はここの調査の後、関東方面への調査へ出かけるとのことで、
阿僧へは夜が白々明け始めた早朝の出立となった。

久代さんとの待ち合わせ場所は阿僧宇神社
春とはいえ花冷えのする朝です。まだ家々は眠りから覚めやらず…。
その物音一つしない集落の道を久代さんの車がやってきました。

これは今年2月、阿僧在住の郷土史家、
望月良英氏が出版した「阿僧の歴史」です。

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良英氏は本の中で、ふるさとと向き合うきっかけをこう語っています。
「10年ほど前ふと足を運んだ郷土史の講座で、郷土史家の望月源蔵先生が、
故郷を思う心をまるで詩のように美しく語るその姿に感動し啓発された」

その後、正法寺のご住職、手島英真氏の指導の下、
仲間と共に郷土史研究に没頭。著作にも精力的に取り組み、
「日蓮宗聖典 日蓮聖人日訓遺文集」「ふるさとのことば「ゆい」方言辞典」
「ふるさと・ゆい 郷土史・文化財 源蔵先生講義録」などを発行します。

「源蔵先生」です。
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「由比町の建物を見ても仏像や神社を見ても、外観も内容も立派。
お金があったからいいものができたわけではない。
金があればとかく無駄遣いが多く、
文化には吝嗇(りんしょく=ケチ)になるものですが、
由比の人たちはわずかなお金を持ち寄りコツコツためて、
自分たちの納得のいくものを心でつくり、残してくれたのです」
「源蔵先生講義録・源蔵氏の序文」より

良英氏の本には、調査研究は緻密にトコトンやらねば気が済まない
という姿勢が貫かれています。
エンジニアらしいといったら怒られるかな?

その良英氏の言葉です。
「郷土史は俯瞰的・編年的な日本史に比べ、石垣の間詰石(まづめいし)
みたいなものです。
しかしこの小さな石ころがなければ石垣は成り立ちません」

「郷土史はその時々の現実を生きた人々が流した汗の雫であり、
その時は空気のようで、
記録に残す必要さえ感じなかったその日その日の伝承です。
そういう地域の人々に光を当て、人々の思いや情念の襞に触れるとき、
知り得た知識の一部でも後世に伝えるべく
「阿僧の歴史」を書いてしまいました」

久代さんと待ち合わせた阿僧宇神社です。
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静岡市清水区由比阿僧  「阿僧の歴史」(望月良英)より

この「阿僧」と書く地名は、全国に一つしかないそうです。
地名の由来には、
「九州阿蘇山の阿蘇説」、麻の栽培地の「麻生」などがあるようですが、
良英氏は「崖、崩壊地を控えた場所「アズ」が訛ってアソウになった?」
との考えを示しています。

なにはともあれ、建久二年(1191)の改築の棟札があるそうですから、
古いお社であることは間違いありません。

しかし古いのはそればかりではないんですね。
この神社はなんと縄文遺跡の上に建てられていたのです。

今から83年前の昭和8年9月のこと。
猛烈な台風の襲来で神社の大木が根こそぎ倒された。
近くの久保田憲次君が駆けつけてみると、
大木の根元に大量の石器が顔をのぞかせていた。
久保田君は当時15歳だった望月源蔵少年に相談。
二人で担任教師に石器を見せた。

これが「阿僧遺跡」発見の発端だったのです。
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「阿僧の歴史」より

この遺跡は縄文前期から中期の集落遺跡で、
「由比町の最古の人が住んだ場所」(静岡大学・市原寿文教授)だとか。

良英氏が敬愛してやまない望月源蔵先生の本業は人形づくり
平成20年に90歳で亡くなるまで、
その審美眼洞察力と故郷への愛情は衰えることなく、
ふるさとの名もない遠い祖先たちとの出会いに精魂を傾けられました。

東山寺・薬師堂の天井裏の版木を見つけた一人が、
この源蔵先生だったそうです。

終生「石垣の間詰石」に徹した源蔵先生、こんな言葉を残しています。

「静岡市と合併しても、由比町には誇るべき独自の文化があります。
自分たちが住んでいるこの土地の歴史に思いを馳せ
古人の声に耳を傾けて欲しいと思います。
それがこの土地の新しい将来を築くことにつながるからです」




※参考文献・画像提供/「清水区由比 阿僧の歴史」望月良英編著
               私家本 平成28年
               /「ふるさと「ゆい」郷土史・文化財 源蔵先生講義録」
                望月一成監修 望月良英編著 私家本 平成22年

由比の力石めぐり①

由比の力石のほとんどは、郷土史家の望月久代さんによって発見された、
ということは以前にもお伝えしました。

東山寺・薬師堂(東山神社)の力石発見を皮切りに、
私の元に、矢継ぎ早に情報が届きました。

「久代です」
受話器の向こうからふんわりと柔らかな声。
やや間をおいて、
「ありましたッ」
このときばかりは息がはずんでいます。

由比川を挟んだ東山寺の対岸に、阿僧(あそう)という地区があります。
由比氏の本拠地、川入城があったところですが、
その阿僧の瘤山観音堂白井沢・第六天神社の力石も、
久代さんからの情報です。これらは稿を改めてご紹介します

こちらは自治会館の庭に半分顔を出している力石です。
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静岡市清水区由比西倉沢 倉沢自治会館

後日、師匠の高島愼助教授とお訪ねしました。
「ここいらの若者は漁で鍛えているからね」と元自治会長の松永元信氏。
「でもこのままじゃあ、いつか忘れられてしまう。どうしたものか」

みんなに愛されてきた力石です。
散逸を恐れた先人たちが、
せめて、という思いを込めてここに並べて置いたのでしょう。

刻字が難しければ、
とりあえず文字を書いておくことを提案してみました。

倉沢自治会館です。
CIMG0301.jpg

波に踊る2尾の魚の彫刻、懸魚(げぎょ)がなんとも美しい。

こちらは以前、「戦争と若者と力石」の中でご紹介した中峯神社の力石です。
CIMG1937 (3)

右の二つが力石です。赤丸の中に盃状穴があります。
この力石は向かいの家の奥さまが、
「これは力石で、若い衆がみんなで担いだんだよと祖父から聞いていた」
と証言してくれました。

左側に神社への登り口があります。戦争中は、
弾除け祈願に兵士たちの家族が大勢この道を登って行ったそうです。
この石を担いだ若者たち、無事、戦地から帰ってきたでしょうか。

手島日真氏の「由比町の歴史(上巻)」に、第二次世界大戦で亡くなった
夥しい数の由比の若者たちの名が記されています。

戦没場所はバタン海峡、ミンダナオ島、レイテ島、ビルマ、満州…。
遺族の名の多くは母親で、ひさ、たけ、しの、ふく、はな、たみ…。

この中には何人もの息子さんを亡くした母もいるかもしれません。
著者の手島氏も本の中に「長男出征」と記してありました。

お堂の中の物語

由比東山寺・東山神社に保存された力石を写真に収めたあと、
望月久代さんが薬師堂へと招じ入れてくれました。

普段は固く閉ざされている扉が開く瞬間って、なんともいえないですねえ。

ワクワク

この薬師堂は前回ご紹介した由比本陣岩辺郷右衛門政重が、
寛文元年(1661)に建立したものです。

「由比本陣公園」として蘇った本陣跡です。
中に「東海道広重美術館」があります。
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静岡市清水区由比

私が東海道をうろついていたころの本陣跡です。このときはまだ工事中でした。

岩辺郷右衛門の先祖は由比氏といい、鎌倉時代は源頼朝に、
室町時代には今川氏に仕えた武士で、由比郷の領主。
また、日蓮宗の高僧を数名輩出した名門一族です。

この由比氏、江戸時代になると刀を捨てて町人になりますが、
のちに本家の由比氏と傍系の岩辺氏に分かれます。
傍系の初代岩辺郷右衛門は徳川家康にことのほか好かれ、
家康は鷹狩りの折りには、本陣にたびたび立ち寄ったそうです。

薬師堂建立者の郷右衛門政重はその五代目にあたります。

薬師堂の棟札です。
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「由比町の歴史」より

上棟文にはだいたいこんなことが書かれています。

「東山寺に薬師の殿堂があるが、
今その尊像は雨に洗われ風に晒され磨滅状態。
そこで諸檀越と志を合わせて古に復せるためにここに堂を創建した」

前回お伝えした経文「純円独妙経」(法華経)の版木は、
この薬師堂建立の25年前に彫られたものです。
その25年の間に隆覚寺もまた、衰退しつつあったということでしょうか。

堂建立の同じ年に、版木から経文が摺られました。
それがこちら。
CIMG2765.jpg

実はこれ、どこにあったかというと、なんと薬師如来胎内
版木を見つけたとき、同時にこちらも発見されたそうです。
天井裏から版木が、薬師さまのお腹の中からは経文が…。
発見者の驚いた顔が目に見えるようです。

経文を胎内に納めていた薬師さまです。
CIMG2757.jpg

下の写真は発見された当時の経文です。
この摺られた経文の中に、どういういきさつで版木がつくられたか
という由緒書「開板縁起」があったそうです。

つまり前回ご紹介した
「発願者は開山・見真上人」「彫りは京都の花田専惣」「書は耽源和尚
完成は「寛永13年(1636)」などを書いたものです。

img942.jpg
「由比町の歴史」より

一つ残念なことは、
この版木や経文、由比町の文化財として大切に扱われていたのに、
平成の大合併で由比は静岡市に編入されたため、
静岡市の文化財指定からはずされてしまったことです。

こうした郷土の宝を長年守り続けてきた小さな町の方々が
合併によって不利益をこうむることはあってはならないこと。
小さな集落では守りきれません。
静岡市には再考を望みます

版木・経文発見の折り、実はもうひとつの発見がありました。
です。
img886 (2)
「東山寺の歴史」より

ただしこの「面」、現在は所在不明だそうです。
なんとも気品のある面です。
こういった面をつけてこのお堂で舞楽を催したんでしょうね。
本当に惜しいことをしました。

この面、どこから見つかったかというと、
こちらの弘法大師座像の胎内なんです。
CIMG2761.jpg

「由比町の歴史」手島日真氏によると、
由比の神社仏閣のほとんどは、
由比太郎左衛門と岩辺郷右衛門の息がかかり、名が連ねてあるそうです。

しかし、由比太郎左衛門家は明治中期には疲弊して、
家屋敷を売って行方不明になってしまったとか。

昔のお金持ちは、そのお金で神社や寺を作ったり橋をかけるなど、
慈善事業にも熱心で、私腹を肥やすということをあまりしなかった…。

それにひきかえ、
今はお金に固執するのない政治家やお役人やコバンザメがワサワサいて、
ああ、やんなっちゃうなあと、つくづく思います。

そうそう、「由比町の歴史」にこんな一文がありました。

「明治の廃仏毀釈で廃寺となった寺は、廃藩に伴う士族に払い下げられた。
隆覚寺は8円50銭4厘で東山寺出身の士族に払い下げられたが、
その士族は他の払い下げと共にすぐそれを売り、母を連れて上京。
しかし職探しの途中、病死してしまった」

時代の変革のむごい一面を見る思いがしました。



※参考文献・画像提供/「由比町の歴史(上・下)」手島日真 
                由比文教社 昭和47年
               /「東山寺の歴史」望月久代 私家本 2015 


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ちから姫

天井裏にお宝が…

力石のことはちょっと置いといて、
東山寺・薬師堂に関するお話を二つ三つ。

この東山寺(隆覚寺)を語るとき、郷土史に散見されるのは、
七堂伽藍の大寺で、創建は和銅年間(708~715)、あるいは
大同年間(806~810)との伝承がある」という記述です。

うむむ?

和銅年間といえば、やっと律令体制が成立したころで、
聖武天皇が全国に国分寺と国分尼寺建立の詔を出す30年も前です。

大寺建立にはそれを庇護する有力豪族がいたはずですが、
東山寺を庇護した有力豪族の有無さえ明らかになっていない。
しかも場所は、都からはほど遠い中部地方の山中です。
七堂伽藍の大寺があったとの伝承はにわかに信じがたい

また大同年間は平安時代初期にあたりますが、
その大同元年(806年)は、空海が真言密教を携えて帰朝した年です。

空海が真言宗の総本山、京都・東寺を下賜されたのは、
それから17年後の弘仁14年(823)のこと。
東山寺が伝承の通り、和銅や大同年間の創建であれば、
当然、真言宗でも東寺の末寺でもないことになります。

私のご近所さん宅の水源地に祀られている弘法大師空海の石像
CIMG1179 (2)
静岡市

「由比町史」」(由比町教育委員会 平成元年)には、こう書かれています。
「飛鳥から平安時代までの由比に関する記録・文献史料は皆無

さらに「由比町の歴史」手島日真 由比文教社 昭和47年)には、
「東山寺村は隆覚寺を除くとほとんど史話も伝説も残されていない村である。
名主の家にも古文書は皆無に等しい」と。

しかしその手島氏を始め、由比の郷土史家たちは、
「七堂伽藍」「和銅・大同年間創建」という伝承を簡単に捨て去ることはしない。
では、何によってそれを証明しようとしているのかといえば、その一つに、
奈良時代の編纂と伝えられる「駿河国風土記」をあげています。

でもこれは、後世に書かれた偽書といわれるものです。
なのになぜ、あえて偽書に根拠の糸口を?

町史がいうように、
「平安以前の由比町はこれによってしか紹介できない」ということもあります。
でも「由比町の歴史」の著者で、
由比・正法寺のご住職だった手島日真氏はこう書き残しています。

「仮にこれが偽書であれ、東山寺村は古くから実在し、
東山寺の七堂伽藍があったという東内の広場、鐘平、その後身と称する
欣慶山隆覚寺(ごんぎょうざん・りゅうかくじ)跡などは厳然として残っている」

日真氏のご子息で、現在のご住職、手島英真氏も、
「由比町小史」(手島四郎 私家本 1961)に、こう記しています。

「偽書に依拠して歴史の解明を試みると、
その真実を見誤ることになるから注意しなければならない。
しかし完全に虚構であっても、それすら、
歴史的解明になんらかのヒントを与えるものとしてとりあげることも必要」と。

確かに…。歴史学者の網野善彦氏も言っていました。
「歴史の解明には想像力が必要だ」と。

下の絵図は、駿河国の地誌「駿河記」に描かれた東山寺周辺です。
img892.jpg

著者は桑原藤泰。文化6年(1809)に筆を起こし同15年に脱稿。
駿河の村々を訪ね歩き、寺社、古跡、伝説に至るまで記述した労作です。
わずかな食料を下男に背負わせ、
野宿しながら(力石の誰かさんにそっくり)の調査だったそうで、
時には密偵と間違えられたとか。

絵図に「紫山」、そのふもとに「山寺村」「由比川」が記されています。
東山寺は紫山を背後に持ち、「紫雲山」と称していました。

桑原藤泰は著書「駿河記」にこう記しています。
薬師堂隆覚寺 真言宗 遠江国小川久昌院末 除地三石
 この薬師は昔、東山寺の薬師なりと云伝」

この「遠江国小川久昌院末」が、チト気になりますが、結論として言えば、

いつのころかは定かではないけれど、
かつてこの地に東山寺という寺があったが、いつのころか衰退した。
その後、またいつのころかは定かではないけれど、その同じ場所に、
真言宗隆覚寺が再建された、ということなんですね、きっと。

隆覚寺は明治の廃仏毀釈により薬師堂を残して廃寺となりますが、
その薬師堂に思わぬお宝が隠されていたのです。

版木です。
CIMG2767.jpg

経文「純円独妙経」(法華経)が彫られています。

この版木の存在は昭和初期には確認されていたといい、
そのときは5、60枚はあったそうです。
ところが子どもたちがどんど焼きに持ち出して焼いてしまい、
残りは行方不明。
町は貴重な文化財の消失に悔やんだものの後の祭り。

それから46年後のある日、町内の歴史好きが3人集まったとき、
そのうちの一人が、
「子どもの頃の遊び場だった薬師堂の天井裏
字を彫った板があった」ことを思い出し、早速3人で天井裏へ忍び込んだ。

CIMG2770.jpg

なんと、あったんですね、版木が。
9枚しか残っていなかったけれど、その中に最も重要な一枚がありました。

「聖暦寛永十三丙子仲秋 良辰」
「功徳主 天覚天真上人」
「開板 良匠二条半敷町 花田専惣」
「小比丘 耽源叟書」

つまり、こういうことです。

「寛永13年(1636)、徳川三代将軍家光の時代に、
隆覚寺の開山・見真上人が浄財をもって匠人に依頼して、
純円独妙経(法華経)全巻を開板した」
「書は由比・桃源寺の耽源和尚、彫りは京都の花田専惣が受け持った」

この版木によって隆覚寺は、
江戸初期にはすでに存在し、京都の匠に彫りを頼むほどの寺であった、
ということがわかります。

施主に、由比本陣職を務めた岩辺氏五代目の岩辺郷右衛門政重ほか、
京都の人を含む30人が名を連ねています。

その岩辺郷(江)右衛門が、
寛文元年の薬師堂建立の折り寄進した堂前の石灯ろうです。
CIMG2751 (2)

岩辺氏の名前が刻まれています。
CIMG2775.jpg

天井裏にあった版木は真っ黒に汚れていたので、
発見者の一人T氏のお母さんがたわしでゴシゴシ洗ったそうです。
そしたら、立派な文字が現れてビックリ仰天。

のちにこれが町の文化財に指定されたのですから、
たわしで洗ったお母さん、二度ビックリ。

でもまあ、ざっと380年分のほこりですからねえ、
たわしでゴシゴシしてもかなり手強かったと思います。

やったネ!「久代先生」

由比・東山寺の力石は、
郷土史家の望月久代さんのご尽力で、無事、保存されました。

その翌年の平成27年2月、久代さんから電話がきました。
「説明板付けました! 見に来てください」

設置費用がねん出できないと悩んでいたその説明板が付いたのです。
「はい」と返事をしたものの、現地へ赴いたのはそれから8か月後10月

東海道線由比駅まで迎えに来てくれた久代さんの車に乗り込み、
一路、東山寺へ。

説明板です。
CIMG2740.jpg
静岡市清水区東山寺 薬師堂・東山神社

簡潔で解りやすく、的を得た文章です。

「雨に濡れても字が消えないように作りました」と久代さん。
とっても嬉しそう。
「設置費用はみなさんが?」とお聞きしたら、ちょっぴり照れつつ、
「これ、主人からの寄贈なんです」

永久保存された力石と望月久代さんです。
力石がなんだか、恐竜の卵が並んでいるみたいに見えます。
CIMG2742.jpg

由比町時代は幼稚園の園長先生や文化財保護審議委員を歴任。
現在は静岡市由比庵原地区の更生保護女性会会長
美術館、歴史観光ボランティアなどを務めています。

町を歩くとみなさんから、「久代先生」と声がかかります。

この久代先生、平成23年当時、
神社総代で、町内会長だった野島章司氏の依頼で、
歴史講座「東山寺を歩こう」の講師を2年間務めました。

私も一度受講しました。
20人ほどの町内のご近所さんがサンダル履きで参加。
お昼前には解散という、無理なく歴史を楽しめる現地密着の講座でした。

「普段見慣れている場所に、そんないわれがあったとは」
「そうそう、この橋、小学生のころは吊り橋でねえ。おっかなかったっけよ」

「自分の住む地区の歴史を知ろう」と呼びかける、
こんな素敵な町内会ってそうそうないですよね。
力石が立派に保存されたのも、こうした町内だからこそと思いました。

久代さんに、石担ぎに挑戦している岐阜の大江誉志さんのことを話したら、
「えっ、そんな人がいるんですか。
一度担いでいただけたら、石が生き返ります

その力石の中に、こんな石がありました。
CIMG2743 (2)

石に「実」と刻まれています。

設置したあと初めて気が付いたとのことで、他に文字があるのか、
またなぜ、こんな中途半端な位置に刻まれているのか今のところ不明。

力石の発見から保存まで6年。それを一人で成し遂げた「久代先生」。
女の底力ですね」と石を前に、女同士笑い合いました。

境内にいる三猿クン、目も耳も口も開いて、
今日のこの日のことを、ちゃんと後世に伝えていってくださいね。

CIMG2777.jpg

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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