奇しき縁(えにし)
力石余話
京都・醍醐寺から再び静岡へ。
由比の東山寺・薬師堂から始まったこのお話、
山の集落から海沿いの西倉沢・望嶽亭へと飛んでいき、
さらに東海道の難所・薩埵(さった)峠をひとっ跳び。
大海原に飲み込まれつつ、峠の反対側の興津へ出て、
昭和60年、400年の歴史に幕を下した旅館水口屋のあれこれを
O.スタットラーの本を借りての口上。
このあたりで東山寺へ引き返さなければ帰りっぱぐれると危惧しつつも、
足の延ばしついでに清水湊の次郎長さんへと話が及びました。
東山寺の望月久代さんはさぞ待ちくたびれていることでしょうが、
ま、その前に、
行きがけならぬ帰りがけの駄賃に、
次郎長さんの縄張り界隈の力石を二つばかりお目にかけます。

静岡市清水区北矢部・伊勢神明社 53×50×43㎝
この石を探すのにはちょっと手こずりました。
なにしろこのあたりは北矢部だの南矢部だの中矢部だのあって、
それが複雑に入り組んでいる。
おまけに神明社というのがあっちこっちにあって、
ホントにヤベエところでした。
近くにいたおじさんに尋ねたら、これがまたヤベエおじさんで、
「なにイ、力石だとオ!」
いやな予感が的中。
グダグダ絡んできたあげく、「聞き方が悪い」と説教まで垂れだした。
気を取り直して、もう一つ。
「青石」と呼ばれている力石です。

静岡市清水区岡町・青石地蔵尊 56×38×33㎝
さて、清水湊から由比へ戻ったところで、
次郎長、水口屋、望嶽亭の奇しき縁をお伝えしようと思います。
幕末の安政6年(1859)、
後継ぎが途絶えた水口屋では由比の一つ先の蒲原から養子を迎えます。
養子は「半十郎」と名乗り、以後代々、この名を継いでいきます。
廃業したときの半十郎さんは4代目だったそうです。
この初代半十郎の兄もまた養子に出ました。
その養子先はなんとあの望嶽亭です。
その望嶽亭の近くにやってきたのが子供時代の次郎長です。
粗暴さゆえに寺子屋を追われ、
困り果てた父親(義父)が悪たれ息子を預けた先が由比の親戚。
ここで次郎長は由比の叔父さんに徹底的にしごかれます。
O.スタットラーの著書「ニッポン 歴史の宿」にこんな記述があります。
宿屋の女主人伊佐子から聞いた話として、
「伊佐子の曾祖母が伊豆へ湯治へ行く途中、
埵薩峠で駕籠かきたちから、駄賃をもっと出せと脅された。
そのとき後ろの駕籠から、小太りの男が半身を乗り出した。
その途端、駕籠かきたちが真っ青になってひざまずいた。
男は用心棒として付き添ってきた次郎長であった」
下のハガキは20数年前、
望嶽亭の主人・松永宝蔵さんからいただいた暑中見舞いです。

松永さんにお会いしたころ、力石と出会っていたらよかったなって思います。
由比・東山寺の力比べの絵を描いていた松永さんですから、
力石や力持ちの話、いっぱいご存知だったはず。
そうそう、あのとき松永さんは、
「スタットラーさんが通訳を連れてうちへ来たっけよ」と言いながら、
一枚の額を見せてくれた。中に入っていたのは英文で書かれた手紙。
「あの人は律儀な人でね、礼状をくれたよ。全然、読めなかったけどな」
蔵座敷の天井からぶら下がった小さな灯りに照らされて、
額も松永さんもキラキラ輝いておりました。
由比の東山寺・薬師堂から始まったこのお話、
山の集落から海沿いの西倉沢・望嶽亭へと飛んでいき、
さらに東海道の難所・薩埵(さった)峠をひとっ跳び。
大海原に飲み込まれつつ、峠の反対側の興津へ出て、
昭和60年、400年の歴史に幕を下した旅館水口屋のあれこれを
O.スタットラーの本を借りての口上。
このあたりで東山寺へ引き返さなければ帰りっぱぐれると危惧しつつも、
足の延ばしついでに清水湊の次郎長さんへと話が及びました。
東山寺の望月久代さんはさぞ待ちくたびれていることでしょうが、
ま、その前に、
行きがけならぬ帰りがけの駄賃に、
次郎長さんの縄張り界隈の力石を二つばかりお目にかけます。

静岡市清水区北矢部・伊勢神明社 53×50×43㎝
この石を探すのにはちょっと手こずりました。
なにしろこのあたりは北矢部だの南矢部だの中矢部だのあって、
それが複雑に入り組んでいる。
おまけに神明社というのがあっちこっちにあって、
ホントにヤベエところでした。
近くにいたおじさんに尋ねたら、これがまたヤベエおじさんで、
「なにイ、力石だとオ!」
いやな予感が的中。
グダグダ絡んできたあげく、「聞き方が悪い」と説教まで垂れだした。
気を取り直して、もう一つ。
「青石」と呼ばれている力石です。

静岡市清水区岡町・青石地蔵尊 56×38×33㎝
さて、清水湊から由比へ戻ったところで、
次郎長、水口屋、望嶽亭の奇しき縁をお伝えしようと思います。
幕末の安政6年(1859)、
後継ぎが途絶えた水口屋では由比の一つ先の蒲原から養子を迎えます。
養子は「半十郎」と名乗り、以後代々、この名を継いでいきます。
廃業したときの半十郎さんは4代目だったそうです。
この初代半十郎の兄もまた養子に出ました。
その養子先はなんとあの望嶽亭です。
その望嶽亭の近くにやってきたのが子供時代の次郎長です。
粗暴さゆえに寺子屋を追われ、
困り果てた父親(義父)が悪たれ息子を預けた先が由比の親戚。
ここで次郎長は由比の叔父さんに徹底的にしごかれます。
O.スタットラーの著書「ニッポン 歴史の宿」にこんな記述があります。
宿屋の女主人伊佐子から聞いた話として、
「伊佐子の曾祖母が伊豆へ湯治へ行く途中、
埵薩峠で駕籠かきたちから、駄賃をもっと出せと脅された。
そのとき後ろの駕籠から、小太りの男が半身を乗り出した。
その途端、駕籠かきたちが真っ青になってひざまずいた。
男は用心棒として付き添ってきた次郎長であった」
下のハガキは20数年前、
望嶽亭の主人・松永宝蔵さんからいただいた暑中見舞いです。

松永さんにお会いしたころ、力石と出会っていたらよかったなって思います。
由比・東山寺の力比べの絵を描いていた松永さんですから、
力石や力持ちの話、いっぱいご存知だったはず。
そうそう、あのとき松永さんは、
「スタットラーさんが通訳を連れてうちへ来たっけよ」と言いながら、
一枚の額を見せてくれた。中に入っていたのは英文で書かれた手紙。
「あの人は律儀な人でね、礼状をくれたよ。全然、読めなかったけどな」
蔵座敷の天井からぶら下がった小さな灯りに照らされて、
額も松永さんもキラキラ輝いておりました。
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