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奇しき縁(えにし)

力石余話
02 /28 2016
京都・醍醐寺から再び静岡へ。

由比の東山寺・薬師堂から始まったこのお話、
山の集落から海沿いの西倉沢・望嶽亭へと飛んでいき、
さらに東海道の難所・薩埵(さった)峠をひとっ跳び。

大海原に飲み込まれつつ、峠の反対側の興津へ出て、
昭和60年、400年の歴史に幕を下した旅館水口屋のあれこれを
O.スタットラーの本を借りての口上。

このあたりで東山寺へ引き返さなければ帰りっぱぐれると危惧しつつも、
足の延ばしついでに清水湊の次郎長さんへと話が及びました。

東山寺の望月久代さんはさぞ待ちくたびれていることでしょうが、
ま、その前に、
行きがけならぬ帰りがけの駄賃に、
次郎長さんの縄張り界隈の力石を二つばかりお目にかけます。

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静岡市清水区北矢部・伊勢神明社  53×50×43㎝

この石を探すのにはちょっと手こずりました。
なにしろこのあたりは北矢部だの南矢部だの中矢部だのあって、
それが複雑に入り組んでいる。
おまけに神明社というのがあっちこっちにあって、
ホントにヤベエところでした。

近くにいたおじさんに尋ねたら、これがまたヤベエおじさんで、
「なにイ、力石だとオ!」
いやな予感が的中。
グダグダ絡んできたあげく、「聞き方が悪い」と説教まで垂れだした。

気を取り直して、もう一つ。
「青石」と呼ばれている力石です。
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静岡市清水区岡町・青石地蔵尊   56×38×33㎝

さて、清水湊から由比へ戻ったところで、
次郎長水口屋望嶽亭の奇しき縁をお伝えしようと思います。

幕末の安政6年(1859)、
後継ぎが途絶えた水口屋では由比の一つ先の蒲原から養子を迎えます。
養子は「半十郎」と名乗り、以後代々、この名を継いでいきます。
廃業したときの半十郎さんは4代目だったそうです。

この初代半十郎の兄もまた養子に出ました。
その養子先はなんとあの望嶽亭です。

その望嶽亭の近くにやってきたのが子供時代の次郎長です。
粗暴さゆえに寺子屋を追われ、
困り果てた父親(義父)が悪たれ息子を預けた先が由比の親戚。
ここで次郎長は由比の叔父さんに徹底的にしごかれます。

O.スタットラーの著書「ニッポン 歴史の宿」にこんな記述があります。
宿屋の女主人伊佐子から聞いた話として、

「伊佐子の曾祖母が伊豆へ湯治へ行く途中、
埵薩峠で駕籠かきたちから、駄賃をもっと出せと脅された。
そのとき後ろの駕籠から、小太りの男が半身を乗り出した。
その途端、駕籠かきたちが真っ青になってひざまずいた。
男は用心棒として付き添ってきた次郎長であった」


下のハガキは20数年前、
望嶽亭の主人・松永宝蔵さんからいただいた暑中見舞いです。
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松永さんにお会いしたころ、力石と出会っていたらよかったなって思います。
由比・東山寺の力比べの絵を描いていた松永さんですから、
力石や力持ちの話、いっぱいご存知だったはず。

そうそう、あのとき松永さんは、
「スタットラーさんが通訳を連れてうちへ来たっけよ」と言いながら、
一枚の額を見せてくれた。中に入っていたのは英文で書かれた手紙。

「あの人は律儀な人でね、礼状をくれたよ。全然、読めなかったけどな」

蔵座敷の天井からぶら下がった小さな灯りに照らされて、
額も松永さんもキラキラ輝いておりました。
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京都・醍醐寺「餅上げ力奉納」

力持ち大会
02 /25 2016
由比の力石、またまたお休みして臨時のお話です。

京都・醍醐寺へ行ってきました。
目的は、「五大力尊仁王会(ごだいりきそん・にんのうえ)」で行われる
「餅上げ力奉納」

夜明け前に家を出て一番の新幹線に乗り、ようよう京都駅へ。
駅前から乗ったバスは、30分後に醍醐寺の真ん前に到着。
「あそこは寒いよ~」と言われてきたけれど、汗ばむほど暖かい。

早速、霊宝館に入って、
絵画や書、国宝の薬師三尊五尊の明王を拝観。
そこから今度は三宝院を訪れて、お庭を拝見しました。

国宝・表書院から見た「三法院」のお庭です。
玄関、唐門、書院と国宝だらけ。さすが世界文化遺産のお寺ですね。
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京都府伏見区醍醐東大路町

3個の石で賀茂川のさまざまな流れを表現した「賀茂の三石」
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微かな滝の音。美しい砂。ずっと座っていたくなります。

美しいお庭と重厚なお部屋を堪能したあと門の外へ出ると、
参道は人の波。その波に飲まれつつ、
「五大力尊」と染めた幟のはためく間を歩き、仁王門へ。

国宝・五重塔です。
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お接待の宇治茶をいただきながら見上げる五重塔。至福のひとときです。

餅あげが行われる金堂前に巨大なお餅が並んでいました。
壮観です。

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柴燈護摩道場では護摩を焚いています。
読経の声が境内に満ち満ちています。ここにもお餅がありました。

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今はどうなのかわかりませんが、
昔は護摩の灰には災難除けのご利益があるといわれ、
灰を大切に持っていたそうですが、
これを悪用したのが江戸時代、峠などに出没したゴマのハエです。

ただの灰を護摩の灰だと偽って旅人に売りつけ金を強奪。
蝿みたいにぶんぶんまとわりつくので、灰がハエになったそうで…。
「災難除けの灰」で災難が降りかかるなんて、ブラックユーモアですね。

信者さんたちが御影(みえい)を求めて行列を作っています。
御影とはその人に影のように付き添い守ってくれるお札だそうです。

正午きっかりに、餅上げ力奉納が始まりました。

女子の部でチャンピオンになった人です。餅の重さは90㎏
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余裕の笑顔です。
ニコッとするたびに見物人がどよめきます。
終了後はマスコミ各社に囲まれて、ヒーローインタビューを受けていました。

男性のチャンピオンです。
餅の重さは150㎏
男性出場者約40名のトップバッターとなり、マスコミのカメラに囲まれての挑戦。
どうやら出場者の3番目までを、舞台にマスコミ各社をあげて撮影させる
という約束になっているようです。

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出場者は持ち上げても失敗してもみんな晴れやかにニコニコ。
面白いのは見物人からの掛け声です。

「しんぼうしいや!」「応援するのは美女ばっかりやで~!」
そのたびにドッと笑いと拍手が起きます。
やっぱり関西には楽しい人が多いですね。

力石では数々の記録を出している岐阜の大江誉志さんもお仲間と参加。
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残念ながら入賞はできませんでした。
石挙げとはまた違う技術があるんですね、きっと。

楽しい一日でしたが、心残りもちょっぴり。

表彰式を見られなかったことと、
予定していた醍醐寺の精進料理を食べ損ねたこと。

おまけに思わぬアクシデントが…。
夜の京都で迷子になるという失態を演じてしまいました。

途方に暮れていた私を通りがかりの女性が助けてくれて、
京都駅まで電車に同乗。土産物店や新幹線乗車口まで案内してくださって…。
このご親切、忘れません。

お寺で買ってきた「五大力餅」「五大力明王の力餅」です。
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「七難即滅、七福即生」
やっぱり五大力さまのご加護があったのでしょうか。

感謝せねば。

晴れてよし曇りてもよし

力石余話
02 /22 2016
諸田玲子さんという方がいます。
吉川英治文学新人賞や新田次郎文学賞を受賞した
静岡市出身の作家です。

この方が講演でこんな話をしています。
「母方の祖母の祖母が次郎長の兄の子供。つまり次郎長の姪で、
のちに次郎長の養女になりました」

というわけで、諸田さんは次郎長の末裔なんだそうです。

「あまり自慢できる先祖ではないので、
母から人には言うなといわれていました」

ところが、
「日経新聞に清水港を舞台にした「波止場浪漫」を書いているうちに、
次郎長への見方がいい方へどんどん変わってきた」そうです。

次郎長の生家近くの路地です。いたずら小僧がひょいと現れそうな…。
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大正14年の静岡民友新聞にこんな記事があります。

「次郎長の後継者決まる。
土木管理局主管の小島氏の息子で、母親が次郎長の孫にあたる11歳の子。
次郎長とは瓜二つ。将来何か一仕事しでかすだろうとうわさされている」


生来の暴れん坊で、寺子屋からも追い出された次郎長。
ひらがなしか書けません。
山岡鉄舟への手紙もこんな感じ。

「むらたでん志ろうとわ わしがなかよしだから あんしんしておくれなさい
やまおかせんせいさん」


その山岡鉄舟が再興した鉄舟寺です。入口の石柱は鉄舟の書。
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静岡市清水区村松

現在国宝になっている久能山東照宮には、
かつて久能寺というお寺がありました。
京の都から東国へ下る旅人は、
山上から流れてくる1500余人の僧たちの読経を聞きながら、
三保まで続く有度浜を歩いたといわれています。

その久能寺は戦国時代、甲斐の武田信玄の駿河侵攻で、
山上から追い出されてしまいます。

江戸時代は里へ下りて命脈を保っていましたが、
明治になると廃仏毀釈で廃寺という憂き目に。
建物は売り払われ荒れ寺と化しますが、それに光りをあてたのが鉄舟です。

鉄舟寺に残る屏風「伝・義経の薄墨の笛」です。
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屏風は鉄舟筆と思い込んでいたので、その真偽は未確認。
でもこの字はそうだよなあと思うものの、
ご住職に確認しなかったのは私のミス。

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あの法隆寺より古い創建かも、ともいわれる古刹久能寺
その古さと大寺だったことをうかがわせるのが、
平安時代に作られた国宝の装飾経「久能寺経」の存在です。

久能寺の再興を決意した鉄舟は、
その資金稼ぎに得意の書をどんどん書いて次郎長に販路を託します。

しかし志半ばで鉄舟病没。
あとを引き継いだのが魚問屋「芝栄」の初代芝野栄七です。
全財産を投じて寺を再建、寺名も鉄舟禅寺と変えます。

鉄舟寺再建の本当の功労者はこの芝野栄七さんなんですね。

初代は次郎長と昵懇の仲だったそうですが、
三代目は次郎長と義兄弟の契りを結んだとか。

鉄舟寺の芝野栄七像です。
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次郎長は東京谷中の全生庵で行われた鉄舟の葬儀に旅姿で参列。

その鉄舟が没した5年後の明治26年、そして鉄舟寺完成の19年前、
次郎長もまたあの世とやらへ旅立っていきました。

完成2年前の明治41年、破れ衣に笠をかぶった一人の僧が山門をくぐります。
月庵老師です。
再建後も続く赤貧も苦にもせず、貧しい食材で誰をももてなし、恬淡、飄々。

晴れてよし曇りてもよし不二の山
         もとの姿はかはらさりけり
  山岡鉄舟

それにつけても、
鉄舟の書の師・岩佐一亭揮毫の力石は、
岡山県笠岡市にあるのに、
多作の鉄舟さん、力石には何も残していってくれなかったのが残念です。

とまあ、月庵老師の無欲な生きざまに魅せられつつも、
どこまでも欲張りな<俗人の私メでございます。   

でしょ? 次郎長さん

力石余話
02 /19 2016
力石のブログなのに歴史の話になっちゃったなあと
お嘆きの向きもあろうかと…。

そこで、お目にかけます。
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静岡市清水区宮加三・宮加三神社。三保半島の付け根にある神社です。 
60余×31×35㎝ 64余×43×31㎝

「宮加三(みやかみ)」とは、いかにも由緒ありげな地名ですが、
明治6年、宮一色村、加茂村、三沢村の合併の時、
いさかいが起きないよう村の名前から一字ず取った合成地名です。
研究者泣かせの地名ですね。

さて、前回ご紹介したO.スタットラーの「ニッポン 歴史の宿」には、
清水の侠客次郎長のことが、かなりの量で紹介されています。

「ばくち打ちの次郎長は山岡鉄舟に会い、劇的な変貌を遂げた」
とスタットラーが語っているように、次郎長はその後半生では、
実業家として清水港の発展に欠かせない人物になっていきます。

清水区次郎長通りで踊る「次郎長道中」の人たちです。
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右のぼうや、28人衆を従えた次郎長サンの振りを真似しています。
微笑ましいですね。

「おひかえなすって」
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ちょっと寂しい商店街になりましたが、
次郎長はここで生まれ、育ち、没しました。

山岡鉄舟を始め、最後の将軍・徳川慶喜にも可愛がられ、  
軍人、政治家、僧侶、文学者、晩年は子供たちから「おじいちゃん」と慕われて、
今も地元の人々に愛され続けています。

次郎長通りで魚屋を営む中田さんです
かつて「お魚と僕のまち」という秀逸なブログを書いていました。
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ちょんまげ姿で、次郎長翁を巡る歴史ウオークで説明している中田さん。
「清水郷土史研究会」に所属する郷土史家でもあります。

研究テーマは次郎長や清水湊廻船問屋など地元にこだわっています。
特筆すべきは店舗の前にある美濃輪稲荷神社の玉垣調査

およそ500基ある玉垣を、仕事の合間にコツコツと調べ上げ、
一昨年、調査報告書をまとめました。

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この神社は数年前、少年の放火から本殿を全焼。
かつては十数万の参拝者でにぎわった神社もいまだ再建ままならず、
東京や横浜、愛知、和歌山などの船主たちの名を刻んだ玉垣に、
往時を偲ぶしかない状態です。

剥離の激しい玉垣から、中田さんはいくつかの貴重な発見をしています。
次郎長の石柱の発見もその一つですが、
面白いのは明治時代の実業家「岸田吟香」の玉垣です。

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清水区美濃輪町・美濃輪神社
右の写真の石柱に次郎長の本名「山本長五郎」が刻まれています。

岸田吟香は「麗子微笑」を描いた岸田劉生の父。
吟香の玉垣がなぜここにあるのかは謎なんです。
中田さんのさらなる調査が待たれます。

この神社から歩いて10分ほどのところにあるのが、
今まで何度もご紹介した明治の力持ち、金杉藤吉銘の力石です。

神社の掲示板に力石と私の紹介が張り出されています。
中田さんは私を「石の先生」と呼んでおります。
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清水区本町・西宮神社

中田さんを見ていると、歴史は偉い先生方が証明していくわけじゃない、
こうした地元の方の地道な努力があってこそ
掘り起こされ解明されていくんだということがよくわかります。


でしょ? 次郎長さん。

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時の流れの中で

力石余話
02 /16 2016
かつて興津・清見寺の近くに、
「水口屋(みなぐちや)」という旅館がありました。
江戸時代は興津宿の脇本陣として栄え、
明治から昭和にかけては、この興津に元老・西園寺公望が、
別邸「坐漁荘」を建てたため、
西園寺詣でにやってくる政財界の人たちの宿として隆盛を極めました。

これは「ニッポン 歴史の宿」という本です。
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人物往来社 昭和37年

「水口屋」という一軒の宿屋を通して見た日本の近代史です。
著者はGHQの軍属として敗戦国日本にやってきたオリバー・スタットラー
水口屋は占領軍の保養所とされたため、スタットラーもやってきたわけです。

着物を着た女中が玄関の畳に膝まづき、深いおじぎをして、
「ようこそお越しくださいました」と出迎え、
女主人が「しばらくでございました」と微笑するこの宿屋に魅せられ、
彼は、「この国の古く美しい礼儀で、
私をつつんでくれる場所だ」と感じ入ります。

そして、
「古き日本を頑固に守ってゆく水口屋を見ていると、
どんなに米国人が来ようとも日本は依然として日本的であるだろうと
私は信じるようになる」と確信します。

思わず笑ってしまったのは、江戸時代の貧乏公家のこんな話。

「面倒なのは公家で、勅使として日光へ赴くとき宿屋に泊まるのだが、
宿賃を払わない。
書を書いてそれを宿賃の代わりにした。
彼らはそれが高く売れるような顔をしていたが、
そのようなものは幾らでもあって、大した値打ちはなかった

あるある。由緒ある旅館にそういう書が…。
あれはそういうものだったのかと初めて知りました。

その「古く美しい礼儀でつつんでくれた」宿屋も「時勢」には勝てず、
昭和60年400年の歴史に幕を閉じました。

それを報じた新聞記事です。
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スタットラーの本にたびたび登場する「女主人」の伊佐さん。
右はご当主の望月半十郎氏。
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昭和60年、廃業を伝える新聞記事より。

「ニッポン 歴史の宿」は、古本屋で買いました。
本に各新聞の切り抜きが黄ばんだまま挟まっていました。
蔵書印も押されています。
ページを繰るごとに以前の持ち主が偲ばれて、なんともいえない心地です。

さて、清見寺を訪れた文学者はたくさんおりますが、
山形県出身の明治の文学者・高山樗牛もその一人です。

樗牛は清見寺の近くに仮寓し、
「夜半のねざめに鐘の音ひゞきぬ」で始まる「清見寺の鐘声」を書き、
明治35年、わずか31歳で神奈川県平塚市で没します。
そして、
「もし小生死後に相成り候えば、龍華寺に埋葬相願い度く候」
の遺言通り、龍華寺に葬られました。

高山樗牛の墓所です。胸像制作者は朝倉文夫
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静岡市清水区村松・龍華寺 「観富山龍華寺」栞より。 

昨年、その龍華寺を20数年ぶりに訪れました。
以前おじゃましたのは、新聞の取材でこの方にお会いするためでした。

小倉正治氏です。
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当時74歳。三重県出身の蒔絵師。
甥にあたる龍華寺のご住職に乞われて、
新築する祖師堂・格天井の天井画を制作中でした。

天井画はタイムカプセルで結構。自由に描いてよい」とご住職から言われ、
サッカーの町清水をふんだんに取り入れていました。

軽妙洒脱、遊び心いっぱいの小倉さん。でもその奥底には、
「漆塗りという静岡の伝統文化を次の時代につないでいく
という気持ちでやっています」
との強い信念をお持ちでした。

静岡県版画協会の会員でもあった小倉さんの
第43回「全日本年賀状版画コンクール」優秀賞作品です。

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鉄道の駅が十二支で構成されています。これを彫った年は戌年のようです 

小倉さんにお会いしてから20数年。すでに鬼籍に入られていました。
あのとき、天井画の予定枚数160枚のうち、完成はまだ40枚。

その完成作品を昨年、初めて拝見しました。

版画コンクールの審査員から、
「アイデア、線、色調は若々しく、高齢者の作品とはとても思えない。
作者の豊かな人柄が感じられる」と絶賛された小倉さん。

さすがです。荘厳な中にも躍動感溢れる天井画がずらり。
それを一つずつ仰ぎ見ていたら、あらまッ! やっぱり。

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風神・雷神がサッカーボールを蹴っています。

どこかで小倉さんがいたずらっぽく笑っているような気がしました。

寥々の空 海の満々

由比の力石
02 /13 2016
薩埵峠への道は、松永宝蔵さんの望嶽亭から始まります。
枇杷やみかん畑を突き抜けると、突然の大海原。

海は地球の丸み通りに盛り上がり、視界いっぱいに広がっています。
左にうっすらと伊豆半島、右手に三保の松原
背後には富士の山。

絶好のロケーションです。

その大海原に飲み込まれつつ峠を越えると興津(おきつ)に至ります。

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旧東海道に立つ山梨県・身延への道標
ここ興津から身延までは十三里と刻まれています。

興津・清見寺(せいけんじ)の五百羅漢です。
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天明の飢饉で苦しむ民衆救済のために作られたとか。

♪らかんさんがそろたら、まわそじゃないか
ヨイヤサノヨイヤサ ヨイヤサノヨイヤサ


子供の頃、こんな歌を歌いながらみんなで輪になって遊びました。
今じゃ、こんな遊びをする子供はいませんよね。

清見寺は、
古代、北の蝦夷の侵入を防ぐ「関」とそれに付随したお堂から始まりました。
その清見ヶ関の礎石が今でも残されています。

万葉集田口益人のこんな歌が載っています。

廬原(いほはら)の清見(きよみ)の崎の三保の浦の
                    ゆたけき見つつ物思いもなし


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明治時代、東海道線の開通で分断されてしまった清見寺

天智朝のころ、
倭国・百済と唐・新羅が戦った「白村江の戦い」という戦争がありました。
当時この一帯を治めていたのが「廬原(いほはら)の君」。
天智天皇の命令で大船団を組んで朝鮮半島まで行ったもののボロ負け。

この寺の近くに「清見(きよみ)神社」があります。
寺は「せいけん」、神社は「きよみ」と読みます。

清見神社の力石です。
CIMG0162 (2)
60×35×27㎝

金文字で「力石」と刻みたり
        清見神社は夏草の中
   雨宮清子

室町時代、連歌師・宗長が塩湯の湯治に来た浜は、
今ではすっかり埋め立てられて工場や倉庫が立ち並んでいます。

林道から見た清見神社です。眼下に工場群と興津の海が見えます。
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百八十五段を登りつめ力石に会いにゆく
          振り向けば寥々の空海の満々 
  雨宮清子
  
※参考文献/「力石を詠む(六)」高島愼助・板羽千瑞子
     岩田書院 2012

望嶽亭 藤屋

由比の力石
02 /11 2016
「富士を見わたし海面幽邈にして、三保の松原は手に取る如し。
道中無双の景色なり」
と書き残したのは、
寛政9年に刊行された「東海道名所図会」の編著者・秋里籬島

秋里は、
「薩埵(さった)山の東の麓、西倉沢には、
名産のさざえやあわびを料理して商う茶店がたくさんある。
中でも望嶽亭(ぼうがくてい)という茶店には,
旅の文人墨客がよく立ち寄って、
詩歌俳諧などをしるしてこの茶店に残していくことが多い」と書いています。

その「東海道名所図会」に描かれた望嶽亭がこちら。
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左の茶店に「望嶽亭」と書いてあります。右が薩埵峠への道。

「おはいりなさやァせ」
「さとうモチよヲ、あがりやァせ。しょっぱいのもおざりやァす」


茶屋女たちの呼び声に、「東海道中膝栗毛」の弥次さん北さんは、
「エエ、やかましい女どもだ」と言いつつ、こんな歌を…。

ここもとに売るはさざゐの壺焼や
           見どころ多き倉沢の宿


下の絵は桑名の焼き蛤ですが、
さざえやあわびも、きっとこんなふうに売っていたんでしょうね。
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「東海道中膝栗毛」十返舎一九

私がこの望嶽亭を知ったのは、今から24、5年前のことです。
薩埵峠への登りに差し掛かったとき、背後から呼びかける女性の声。

「おはいりなさやァせ」と声を掛けられたような気がして、ふと振り向くと、
品のいいご婦人がニコニコしながら、
「よかったら、うちへあがっていきませんか?」

江戸時代の茶店風の構え。玄関には「望嶽亭 藤屋」の看板。
誘われるままに中へ入りました。
案内されたのは「蔵座敷」(くらざしき)。
窓一つない蔵の中。かなりの広さです。そこに畳が敷いてありました。

入った途端、ひんやりした空気が蠢き出し、たちまち江戸へタイムスリップ。

それから2、3年後の1994年
私は再びここを訪れました。今度は新聞の取材として。
ご主人の松永宝蔵さんに迎えられて、じっくりとお話をうかがいました。
松永さん、この時77歳

松永さんの著作です。
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「五十三次道中記」「塩の道・甲州街道旅日記」が描かれています。

みかん農家の長男に生まれた松永さん。
「絵が好きで絵描きになりたかったけど、家業を継ぐしかなかった。
でも絵は捨てきれなくてね。だから仕事の合間に独学で覚えました」

この蔵座敷には、
「東海道名所図会」の著者・秋里籬島が記していたように、
江戸の文人墨客たちの作品がたくさん眠っていました。
宝蔵さんの名の通り、まさに宝の蔵です。

「大学の偉い先生方が見せてくれと言ってくるんだけど、
借りていったまま返さなくてねえ」
と松永さん。

ため息をつきつつも、惜しげもなくいろんなものを見せてくれます。

やがて松永さんは、幕臣の山岡鉄舟が峠の向うの駿府にいる西郷隆盛と、
「江戸城無血開城」について話し合うため、
ここへやってきた時のことを語り出しました

「駿府に向かうその山岡を、薩埵峠で待ち伏せていた官軍が襲ったッ。
命からがらこの望嶽亭に逃げ込んだ山岡は、
このや(家)の主人、七郎兵衛の機転で
漁師に変装。隠し階段から脱出したッ」


清水の侠客次郎長の手引きで舟で駿府へ向かったそうで、
そのとき鉄舟は、ここにピストルを残していったという。

それがこれ。十連発の短銃。フランス製だそうです。
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本当に鉄舟のものかと疑う向きもありますが、
フランスと連携していた徳川慶喜に仕えていた鉄舟です。
フランス製というところに注目したいですね。
それにこんな片田舎に,
おフランスのピストルがあるなんて面白いじゃないですか。

また次郎長と鉄舟、次郎長と由比、次回お話しする
興津の脇本陣水口屋と次郎長と望嶽亭との深いつながりを考えると、
宝蔵さんが祖父や父から聞いた話はウソではないような…。

床の下まで波が打ち寄せていた蔵座敷。

松永さんの名調子を拝聴し、床に開けられた隠し階段を覗いた私としては、
小舟に乗った山岡鉄舟が、波に揺られつつ闇に消えていった様子が、
映画のワンシーンのように見えた気がしました。

<つづく>

美しすぎる

内房の力石
02 /07 2016
「由比・東山寺」の途中ですが、ちょっと寄り道。

今日は、富士宮市大晦日(おおづもり)の芭蕉天神宮へ行ってきました。

お祭りです。
標高約400㍍にある天神宮までの山道を、
ハイカースタイルで大勢の人たちが登っています。
私たち一行の車とすれ違うたびに、徒歩の人たちが手を振ってくれます。

蝋梅がほのかに香る境内では、
かや飴焼きそばを売る店が準備を始めていました。
CIMG2866 (2)
富士宮市内房大晦日・芭蕉天神宮

源平の戦いに敗れた平氏の落人が開いたと伝わる大晦日集落。
かつては由比から甲州・信濃への塩の道として栄えていましたが、
今は世帯数2軒という限界集落です。
ですが、この日ばかりは人々の歓声が響きます。

神事を待つまでの間、いろりにあたってお茶やお酒のお接待です。
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外では地元の「清流太鼓」のみなさんがスタンバイ。
「オヤジバンド」(写真左)も楽器の調整中です。

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数年前に奉納した高島愼助教授の俳句の短冊を見つけました(左)
CIMG2871.jpg CIMG2872.jpg
右の短冊は同行者・長倉千代さんが今回奉納したものです。

この芭蕉天神宮を守ってきた望月旭さんは、一昨年、98歳でご逝去。
いつもいろりのそばでニコニコと参拝者を迎えていたあの姿はもうありません。

大晦日の力石です。

写真上部は榧(かや)の木に囲まれた望月家の墓所。
12月31日の大晦日生まれの旭さんはその大晦日にこの世を去り、
大好きなふるさと・大晦日(おおづもり)で永遠の眠りにつきました。

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俳句は旭さんの奥さまが詠まれたものです。右は天然記念物の大榧(かや)

大榧に抱かれ寄り添う夫婦石  高島愼助

神事終了後、山頂の望月家をお訪ねしました。
いつも旭さんが座っていた場所に、奥さまの順代さんが座っていました。
今年91歳。
長い年月を寄り添い歩いて来られたお二人。
美男美女のままのご夫婦でした。

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杖揃え力石背に並びおり
           美しきかな翁と媼
  雨宮清子

帰り際、「お墓まいりをしていってください」と奥さま。
みんなで墓所へ。真下に力石が見えます。
これを保存したときの旭さんの笑顔が浮かびます。

同行者の長倉夫妻に支えられながら、亡き夫の墓前にぬかづいた奥さま。
冷たい石の上に正座して、墓石に向かって呼びかけました。

「お父さん、見守ってくれてありがとう。天気もよくて大勢来てくれました。
私はみんなに支えてもらっていますから心配しないで」


それから突然、歌い出しました。

♪甲斐の山々陽に映えて われ出陣に憂いなし 
  おのおの馬は飼いたるや 妻子につつがあらざるや あらざるや


か細くもしっかりした歌声が夕暮れの空気を震わせつつ拡散していきます。

曲がった小さな体をピッと伸ばし、冷たい石に正座して歌うその姿に、
私は泣きました。

身はままならなくとも、
祭りの精神的支柱として、夫の代わりに大任を果たしたのです。
その安堵と感謝が小さな背中にうかがえました。

♪祖霊ましますこの山河 敵に踏ませてなるものか
 人は石垣人は城……


あまりにも美しすぎて、涙が止まらなくなりました。

※参考文献/「力石を詠む(七)」高島愼助・板羽千瑞子 岩田書院 2014

道中無双の景色なり

由比の力石
02 /05 2016
「力石発見」の報を受けて、
高島先生と共に由比・東山寺へ出向いたのは、2010年の秋。
そこで思いがけなく、望月久代さんから一枚の絵を手渡されました。

以前にもご紹介した絵ですが、再度。
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この絵は、
高島先生との共著「静岡の力石」の表紙に使わせていただきました。

絵には「大門薬師堂の力石」と添え書きがあります。
東山寺の門の礎石らしい写真はすでにご紹介しましたが、
やはりかつてここには大門がそびえていたんですね。

「見てください。風景は今も全く変わりません」と久代さん。
確かに、絵の中にある石碑もそのままです。

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静岡市清水区由比東山寺・薬師堂境内

描いたのは松永宝蔵さん。

この絵は旧由比町時代の1990年、
町婦人団体連絡協議会が、町制100周年記念として発行した
「いきいき由比の女たち」に掲載されていたものです。

久代さんによると、当時、婦人会が募集した
「伝えたい私たちの身近な町の民話・エピソード」に、
松永宝蔵さんが投稿したもので、
それが今回の力石発見につながったということでした。

松永さんは、
江戸時代から続く茶店「藤屋・望嶽亭」のご主人だった方です。
「望嶽亭(ぼうがくてい)」は、
東海道の難所、薩埵(さった)峠の登り口「西倉沢」にあります。

歌川広重が描いた薩埵峠(左側の崖)と駿河湾です。
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写真では不鮮明ですが、崖の上から二人の旅人がこわごわ覗いています。

広重が絵筆をとったとおぼしき付近からが覗いて見た風景です。
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国道1号、東名高速、JRがあやとり紐みたいに交差しています。
新東名と新幹線は近くの山の中を走っています。
今も昔もここは東西交通の大動脈なのです。

「富士を見わたし海面幽邈(ゆうばく)にして、三保の松原は手にとる如し。
道中無双の景色なり」

朝鮮通信使大名も行列を組んでここを通りました。
オランダ使節のケンペルは旅行記を、
大田蜀山人は狂歌を残しています。

「総身の疵(きず)に色恋も、さった峠の崖っぷち」
河竹黙阿弥はここを「切られお富」の舞台に使いました。

江戸定火消し時代にも画家になってからも足しげくやってきた広重
その広重が描いたもう一つの薩埵峠です。
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「三方ハ険阻ニシテ谷深ク切レ、一方ハ海ニテ岸高く峙(そそ)リ…」
「太平記」にある通りの情景です。

今は遊歩道ができて、こんな感じ。
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山の中に道ができるまでは、
そそり立つこの崖の下の波打ち際を急いで歩いたそうです。
一名「親知らず子知らず」
うかうかしていると、波にさらわれてしまいます。
親も子も相手を気遣ってはいられません。

もう一つこの峠には悲しい話があります。
江戸へ働きに出ていた孝行息子が父親の待つ家へ向かう途中、
この峠で追いはぎにあって殺されてしまいます。
追いはぎはなんと、貧しさゆえに夜な夜な峠に出没していた父親だった…。

親は子と知らず、子は親と知らず

絵の右手に茶店が描かれていますが、松永さんの「望嶽亭」かもしれません。

ここの名物は目の前の海に海女が潜って獲るあわびやサザエ。
蜀山人もこの茶店のあわびを楽しみにしてきたのに、
松平近江守の一行がいて従者たちが占領していたため、
仕方なく隣りの茶店に入ったと、「改元紀行」に書いています。

<つづく>

石の重さ当てクイズ

由比の力石
02 /02 2016
由比・東山寺薬師堂の土俵から力石6個が掘り出されたのが2010年。
さっそく師匠の高島愼助先生と調査に出向きました。
再び久代さんから連絡が入ったのは、
それから4か月後の翌年3月のこと。

「今度町内で、石の重さ当てというのをやります」

うわっ、楽しそう。
ところが、出掛ける前夜になってカメラが動かなくなった。
翌朝電気店へ駆け込んで、新しいカメラを買うはめに。

そんなこんなで電車に飛び乗り、由比駅からタクシーで東山寺へ。
早く着き過ぎて境内にはまだ誰もいません。

土俵上にはこんな看板が…。
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あらかじめ町内全域に重さを書く投票用紙を配ってあるとのこと。
みなさんは仕事のあとや休日にここへ来て、重さを考えたんでしょうね。


凛とした山の空気に、春めいた日差しが差しこんできたころ、
久代さんがひょっこり現れました。
続いて集落の方々が三々五々集まってきました。

まずは久代さんによる力石の解説です。
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うららけし土俵に並ぶ力石 望月久代

石を持ち上げます。5人がかりです。
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「じいちゃん、大丈夫かなあ」
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「昔の人は凄いもんだなあ」「ホントにこんな重いの、一人で持ったのかい?」CIMG0011 (5)

新聞記者もかけつけてきました。
若い記者さん、力石なる石を見るのも名称を聞くのも初めてなので、
一生懸命、久代さんに聞いています。

いよいよ石の重さの発表です。
急に人が集まり出しました。みなさん、固唾をのんで発表を待っています。

「一番重い石は135Kg!」
自治会長の野島章司さんがそう告げた途端、
「当たったアー!」

ピタリと当てたのは女性です。賞品はお米10Kg。
薬師堂の庭が、歓声と拍手と笑いに包まれました。

そのときの新聞記事です。真ん中にいるのが自治会長の野島さん。
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静岡新聞 2011年3月22日

野島自治会長はなかなかのアイデアマンです。

でもその発案や行動力はごく自然でさりげない。
住人の一人、久代さんから力石のことを聞き、素早く行動。
あっという間に土俵から力石を掘り起し、それを集落のみなさんに知らしめた。
そして、
重さ当てクイズで楽しさをみんなと分かち合うことを考えた。

気負いもてらいもなく、穏やかに構えています。
集落を流れるゆったりとした風のように爽やかです。


いいな! 東山寺。

<つづく>

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞