fc2ブログ

ヨコの道、タテの道

三重県総合博物館
01 /13 2016
時の権力者の思わくから、川に橋がかけられなかった江戸時代、
大井川は「越すに越されぬ」と唄われていました。
その中流域の久野脇集落から、今度は上流部の坂京集落を目指します。

右岸の久野脇(くのわき)から左岸の坂京(さかきょう)へ行くには、
川と鉄道線路を越えなければなりません。
どのあたりで橋を渡り左岸へ出たのか、私にはわからなかったのですが、
とにかく師匠は上流目指してぐんぐん飛ばします。

大井川鉄道の終点・千頭駅の一つ手前あたりで、
ようやく支流の坂京河内川沿いへ。

さっきまでの小雨が本降りになり、
フロントガラスに激しくぶつかり始めました。

坂京集落です。
img862.jpg
「本川根町田代・坂京・青部の神楽」より

坂京集落(現・榛原郡川根本町東藤川)は、
平成10年には戸数28、人口94人でしたが、現在は戸数21、人口50人。
減っているとはいえ、
近世、近代を通じて流入流出の少ない比較的安定した集落とされています。

この大井川を始め、西の天竜川、東の安倍川流域は、
神楽の宝庫です。
ここ坂京にも「ミサキ神楽」と呼ばれる神楽があります。
「ミサキ」とは不慮の死を遂げた人の怨霊をさす言葉です。

豊作や平穏を祈る神楽に、憑き物の名称を付けるなんて変わっています。
なんでかなあと思ったら、やはり、こんな伝承がありました。

その昔、泥棒と勘違いされた旅の坊さんが村人たちに殺されて…。
どうやら、その怨霊鎮めの神楽ということのようです。
今でも「ミサキ」さんの小祠と坊さんの供養の石が残されているそうです。


神楽の多くは、初め地元の神主たちが舞っていたといいます。
それを見た村の若者たちが教えを乞い、自分たちの娯楽にしていった。
そうなんです。娯楽だったのです。

祭りの日には峰々に散在する村人たちが面や太鼓を背に、
険しい峠を越えて参集したといいます。


「チキドン」です。
CIMG1179 (4)
静岡市葵区梅が島新田神楽

昨年末、某民俗学者のお話を聞きました。
「伝統ある神楽が衰退してきたからといって、
存続のためだけに変質させて現代に迎合するのは間違っている。
存続が困難なら村が消滅するとき一緒に消滅させたほうがいい」


この人は若者たちが奇抜な衣装で踊り狂う今風の盆踊りや、
町から見物人を連れてきて体育館で演じてみせる神楽に異議を唱えていた。
町から来た人たちが最後まで見ずに帰ってしまったことにも怒っていた。

かつては神社で舞われていたこの「チキドン」。いつのころからか
野外へ飛び出し家々に福を呼ぶ門づけ芸へと変わった。
伝統に縛られず、自分たちにとって一番楽しい形に変えた例です。

異様なお面の出現に泣きだす子供。
CIMG1177.jpg

そりゃあ、お面がしゃべるんですもんね、怖いですよ。

民俗学者の話を聞いたとき、
私の脳裏にこんな言葉が浮かんできました。
例年参加させていただいている有東木の盆踊りの主催者の言葉です。

「今は国指定の重要文化財になった盆踊りですが、
取り入れた当初は流行の最先端の踊りだったと思います。
当時の若者たちは村の長老たちから批難されたと思います。

踊りには仏教的な解釈がありますが、先祖たちはそれはそれとして、
都の風流をいち早く取り入れ、衣装や歌の節にも創意を凝らし、そうして
長い年月をかけて自分たちの踊りにしていったのではないでしょうか。
難しいことなど考えず自由に、ただ楽しく踊っていたんだと思います」

流行は常に変わるもの。伝統を守る難しさはそこにあるんですね。
でも盆踊りの主催者はこうも言っていました。
「この盆踊りも、いずれはなくなるものと覚悟しております」

CIMG0658.jpg
静岡市葵区日向・福田寺観音堂「七草祭」(田遊び)

前述の民俗学者さんは、
神楽見物を半分で切り上げた町の人に不快感を示しましたが、
チンプンカンプンの神楽を最後まで見続けるには大変な根気がいります。
極論すれば、
母親のお腹の中にいるときから神楽を感じてきた者でなければ、
魂を揺さぶられることも陶酔することも難しいと思います。


所作がどうの学問的にどうのなんて事は学術調査団に任せておけばいい。
素人でよそ者の私にいえることは、理屈なんて考えず、
ただ演者と同じ空間に身を置いて肌で感じればよいという、
そんなことだけ。


昔の人だって、理屈から始めたわけではないのですから。
夜明けまで踊り明かし、一番鶏が鳴くころまで神楽に興じたのは、
浮き浮きして気持ち良く一体感があって楽しかったからではないでしょうか。
でなければ、こんなに長くは続きません。

大井川源流部の南アルプス・間の岳です。
img865.jpg
濃霧の間の岳山頂。女3人で登りました。左端が私。

ここに流れた霧の一粒一粒が岩肌に沁み、小さな流れをつくって山を下り、
周辺の山々の水を集めつつ、やがて一つの大河となって、
160㎞もの長い旅路の果てに駿河湾へと注いでいます。

それが大井川です。

長い間、川の両岸に住む人たちは、
川の向こう側にどんな人が住んでいるか知らなかったといいます。

大井川鉄道が開通する昭和6年ごろまで、
右岸の人々は西側の周智郡森町や金谷方面へ、
また左岸の集落では東側の静岡市の商業圏へ行くために、
それぞれ道をヨコへ求めて、谷を下り急峻な山を越えて暮らしてきました。

明治時代の通船で新たな道が開け、さらに鉄道の開通で、
このヨコの道がタテの道へと大きく変わっていったのです。

tokaido25 (2)
高島愼助教授による伊勢型紙作品「東海道五十三次・大井川」

車はどしゃぶりの中、車道というタテの道をひた走ります。
早朝からハンドルを握り続けている師匠の疲れもピークに達しているはず。
無口な師匠の口がさらに重たくなっています。


大井川上流部で右岸から左岸へ、さらに支流沿いの山また山の中へ。

坂京はもうすぐです。

<つづく>

※参考文献・画像提供/「本川根町田代・坂京・青部の神楽」
           本川根町神楽調査報告書 本川根教育委員会
           平成10年

スポンサーサイト



雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞