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「ありました」

由比の力石
01 /30 2016
由比・東山寺の望月久代さんを知ったのは、6年前の秋でした。

郷土誌「結愛」の編集委員・望月良英氏に、
「由比に力石はありませんか?」とお尋ねしたところ、「久代さんなら」と。

それから間もなく、その久代さんから、
「ありました!」との連絡。
「薬師堂の土俵のところを掘ったら出てきました」

それがこちら
CIMG1192 (3)
静岡市清水区由比東山寺 東山神社・薬師堂

驚きました。あまりにもあっけない発見です。
しかも6個も。

「記憶していた人がいたんです」と久代さん。
「豊島由太郎さんという人が逆立ちで持って、薬師堂を一周したそうです。
ここには昔、青年の集会所があって娯楽の場所だったそうです」

力石持ち上げる如霜柱  望月久代

力石薬師の庭に揃い踏み  雨宮清子

力石六人衆の揃い踏み  高島愼助

薬師堂(舞楽殿)です。右に東山神社の鳥居が見えます。
CIMG2750 (2)

東山神社は、東山寺(隆覚寺)の鎮守だったそうです。
久代さんによると、この神社は子授け、安産の神として尊崇され、
願い事をするときには、底なしの巾着を奉納し、
願いが叶ったら底を縫い合わせた巾着を奉納したそうです。


私が今まで知っていたのは、
願い事が叶う(通る)ように、
石に穴を開けて奉納する「穴あけ信仰」です。
このブログでも取り上げた「盃状穴」もその一つです。

下の写真は穴を開けたひしゃくを奉納して、
するりと子供が生まれるよう願掛けしたものです。
CIMG1007.jpg
静岡市清水区三保・美穂神社

実は私、この「底を縫い合わせる」
というお礼の仕方を聞き、ハッとしました。
ひしゃくや穴あき石の奉納時期はいつか、願いが叶ったあとはどうしたのか、
これまで私は、曖昧なままにしてきました。

※穴を開けた石やひしゃくの奉納時期は、どうやらふた通りあるようです。
つまり願掛けの時と願いが叶った時と。

静岡県西部の子安地蔵尊では、子授けの願いが叶ったとき、
生まれた子が男の子なら鎌か鎌を描いた絵馬を
女の子なら穴の開いたひしゃくをお礼に奉納したそうです。
静岡市内でも、あとから石に穴を開けてお礼をした例を聞いています。

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静岡市葵区松野・阿弥陀堂の穴の開いた石

しかし元は、
東山神社のように底なしの巾着で願を掛け、叶ったら底を縫うというのが、
正しい作法だったのでは、と思います。

みなさまの土地の風習、ご教示いただければ幸いです。

なにはともあれ、子宝に恵まれたときや子供が無事生まれたとき、
女たちは、ひと針ひと針に喜びと感謝をこめて縫い合わせたんでしょうね。
なんとも奥ゆかしい。

昨今は、謙虚さや公僕意識がまるでない政治家が増えて、
「国民から税金を吸い上げる」と公言してはばからない人まで現れた。

「うそ」と「金まみれ」の世の中って、人の心をささくれさせ、汚します。
もともと日本人ってそうじゃなかった。「巾着の底を縫い合わせて感謝する」、
そんな優しさや慎ましさ、心の豊かさを持つ人種だったはずなのに…。

昨年秋、久々に薬師堂を訪れました。
久代さんの案内で境内を歩いていたとき、一人の男性がやってきました。

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東山神社本殿  「東山寺の歴史」より

「ごくろさまです」と久代さん。
「あの人は神社にお灯明をあげにきたんですよ」
「え? お灯明を?」
「はい。365日毎日、全世帯で当番でやってます」


和銅年間(708~715)建立と伝えられる東山寺です。
その鎮守の神へ、1000年以上脈々と続けてきた
気の遠くなるような献灯です。

これは坂の途中に残る東山寺の山門礎石
img890.jpg
「東山寺の歴史」より

かつては七堂伽藍を備えた威風堂々の大寺だったといわれる東山寺。
今は薬師堂と神社を残すのみとなりましたが、それを守る人たちの、

なんて尊い姿なんでしょう。

<つづく>
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望月久代さんのこと

由比の力石
01 /28 2016
静岡市清水区に由比という町があります。
由比といえばなんといってもサクラエビ

サクラエビです。私はかき揚げが大好き。
さくらえび (2)
「ゆい桜えび館」HPからお借りしました。

その由比の海から反対側の、町を貫く由比川をずっと遡った山の手に、
東山寺(ひがしやまでら)という集落があります。
これからご紹介する望月久代さんは、
ここで生まれ、育ち、そしてここで家庭を持ち、
みかん農家の主婦として多忙な日々を送っている方です。

望月さんにはもう一つ、郷土史家としての顔があります。
由比には見事な力石がたくさんありますが、
そのすべてを見つけてくださったのが、この方なんです。

昨年末、望月さんは「東山寺の歴史」という本を出版しました。

これです。
img888 (3)

古老を訪ねて話を聞き、寺のご住職に石塔の梵字解読の教えを乞い、
壁にぶつかったときは、
自らも関わっている郷土史研究会「結愛文化クラブ」の代表者の力を借り、
監修を郷土誌「結愛」の元編集委員の望月良英氏に頼み、
そうして完成させた渾身の一冊です。

郷土史への長年の研鑽が実を結んだのです。
屁理屈やこじつけのない、真実のみを追求した本当に素晴らしい本です。

なによりも、郷土への愛情がどのページにもあふれています。

この本から、写真と望月さんの解説をお借りして少しご紹介します。
深い歴史のある集落だということがよくわかります。

馬つくろい場跡
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馬の蹄を守るために足袋やワラジ、のちには蹄鉄をつけた場所。
かたわらに「南無馬頭観世音菩薩 東山寺馬持一同建立」の石碑があります。

ここ東山寺には、海沿いの由比宿から大宮町(富士宮市)を経て、
山梨県へ抜ける街道がありました。今は富士富士宮由比線が走っています。

中下(若江ノ郷)の名主・望月市兵衛一族の墓です。
一番古い墓は万治元年(1658)
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泉性寺山(先田外戸)

望月家には神楽屋敷があり、
終日、鳴り物入りでお神楽が行われていたとか。
直系のご子孫は現在、大阪在住。
市兵衛は久代さんのご先祖でもあるそうです。

東山寺・菅原天神宮本殿落成式に参加した人々
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大正15年撮影  望月芳明氏提供

総工費 4710円89銭。今に換算すると約2000万円ぐらいでしょうか。
米10Kg約3円、コロッケ2銭の時代の、小さな村での4710円89銭です。
工事に携わった総人数は1895人。大変な数ですね。

昭和46年、東山寺・薬師堂
弘法大師座像の胎内から発見された
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現在所在不明

この薬師堂のある場所には、
和銅年間(708~715)、
東山寺(とうざんじ)という古刹があったそうですが、
いつのころか衰退し、大同年間(806~810)、隆覚寺として新たに創建。
しかし明治の廃仏毀釈で廃寺となり、薬師堂だけが残ったということです。

和銅年間には東山寺のほかに西山寺(最光寺)という寺院があって、
時の鐘を打ち合ったという伝承があるそうです。

なんかいいですね。「ニッポン昔ばなし」みたい。
こういう山の中にこそ、豊かな悠久の歴史が息づいているんだと思いました。

東山寺の歴史、次回もお伝えしていきます。

<つづく>

※参考文献・画像提供/「東山寺の歴史」望月久代編著・望月良英監修
           平成27年 私家本
※画像提供/レストラン・海産物販売「ゆい桜えび館」HP

力石文化を次世代へ手渡す

三重県総合博物館
01 /24 2016
力石研究者の高島愼助四日市大学教授が、なぜ力石と関わったのか、
ここまでご自身を突き動かしたものは何だったのか、いまだ聞いてはいない。

それは私自身にも答えられるものではなかったから。

強いて言えば、土の中から欠片を探す考古学者にしても、
山村の消えゆく芸能の保存に尽力する民俗学者にしても、
また断崖絶壁に挑むクライマーや戦場ジャーナリストや、
極限まで己を追い詰めるアスリートもそれは同じで、答えられるとすれば、
そのどこかに自分の琴線にふれる何かを感じたからではないか、と。

大学教授とはいえ、こんな言葉を何度も投げかけられたと思います。
「過去のあんな石に何の価値があるの?」
「石担ぎなんて、どうせ見世物とか下層階級がやったことでしょう?」

若い頃、石担ぎに興じていた経験者からは、
「力仕事だったしな、こんな田舎じゃあ、ほかに遊ぶもんもなかったし」
と、多分に自嘲気味な言葉を聞いたはず。

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東京都三鷹市下連雀・八幡大神社 60×40×24㎝

「奉納 三十八メ目 当所村越藤作 弟春吉」

そんなとき私は、
民俗学者の宮本常一氏のこんな言葉を思い出すのです。

「私は長い間歩き続けてきた。そして多くの人に会い、多くのものを見てきた。
その長い道程の中で考え続けた一つは、
いったい進歩というのは何であろうか、発展というのは何であろうか
ということであった。すべてが進歩しているのであろうか」


「進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、
時にはそれが人間だけではなく生きとし生けるものを
絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。


進歩の陰に退歩しつつあるものを見定めてゆくことこそ、
われわれに課されているもっとも重要な課題ではないかと思う」

=「自叙伝・民俗学の旅」文芸春秋 1978

宮本氏のこの言葉が私をとらえて離さないのです。

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「こうしんさまの力石」
野村昇司・作 安部公洋・絵 ぬぷん児童図書出版 1983

高島先生を励まし続けていた同大学の谷口 優教授は、
約30年にも及ぶ高島先生の力石行脚を「内観の旅」とイメージした。

宮本常一氏も、
「民俗学は内省の学問」という言葉を残しています。
内省も内観も同じ「自己探求」という意味です。

そしてフィールドワークに徹した宮本氏らしいこんな嘆きも。
「歴史を誤らせるのは、
事実を見ずに、本で得た知識に自分のわずかな体験を組み合わせて、
自分に都合のいい歴史を創作する人たちだ」

三重県総合博物館へ収蔵された力石の資料は膨大で、
博物館ではそのリストの作製に相当の時間がかかるという。

全国各地で地道に力石と取り組んできた
過去現在の「内観の旅人」たちの「事実の結晶」が、
谷口 優教授の助言通り、高島先生の手を経て、
「学問的トレンド」へ見事に昇華されたのです。

CIMG0233 (3)
静岡県・伊豆・古宇のかつての青年宿と調査中の高島先生。
右は、寝袋を積んで野宿しつつ全国行脚した軽自動車。

私が古い資料をめくって力石と出会ったときのように、
この博物館収蔵の資料は、50年100年のちの人たちの
琴線をふるわせることと信じています。

「遠郷」の文字刻みたる力石
         出稼ぎ人の想い潜めて
 高島愼助

「ぼくは死んでも墓はいらない、骨は捨ててくださいと言ってある」
師匠は時々ドキッとすることをおっしゃる。
でも自称弟子の私はこんな風に願っているのです。

師の伊東明先生との約束を見事に果たしたからといって、
脱力してひょいと石担ぎの手を緩めたら危ないですよ~。
先生自身が埋もれた力石になってはダメですよ~。

「見つけてくれ~」と、
どこかの草むらで叫んでいる力石と、
その石に触れた人々の文字として残らなかった文化が、
今もどこかでひっそりと息づいているはずですから。

テシャマンクに見送られて

三重県総合博物館
01 /21 2016
山の中の雨は一直線に降る。
大きな雨粒が幾筋も交差しつつ、フロントガラスにドカドカ突き当る。
頭の上ではドシャドシャバタバタ乱れ打ちだ。
周囲の木々はざわざわと落ち着かない。


「どこかで雨乞いでもしているのかしらん」

坂の途中で停まったままの車の中で、私はそんな空想をしていました。

20分ほどたったころでしょうか。
突然フロントガラスに二つの大きな目玉が張り付きました。

竜神様に供えた牛の首が飛んできた!
と思ったら、中野さんと師匠を乗せた四駆のライトでした。

車外に出た中野さんはニコニコ。だが師匠は顔面蒼白。
その師匠の帰還第一声は、
「死ぬかと思った!」

なんでも中ノ沢沿いの道は断崖絶壁で、しかも今にも崩れそう。
おまけにどしゃ降りの雨で視界が効かない。そこを中野さんはガンガン飛ばす。
「ほかに道は?」と師匠が聞くと、「あるけどものすごく遠回りになるから」と。

「ここが終焉の場所かと覚悟した」と師匠。

私のトラバサミの恐怖を笑った師匠、今度は自身が怯えている。
クックックッ。お互いさまですねえ。

樹木におおわれてちょっとわかりにくいですが、
師匠が命がけ?で撮影してきたシャビキ石です。
川根本町・社引石3
榛原郡川根本町東藤川坂京

写真の右手に見える道が「遠回りの道」らしい。
地図で見ると沢沿いの道はこの道に突き当たり、三叉路になっている。
塞の神様をお祀りするには最適の場所です。
でも咳の神様、シャビキさまに今はお参りする人もなく…。

まだ青ざめたままの師匠と笑いをこらえた私は、
柔和な中野さんに見送られて、
本日の最終目的地、大井川の最上流部静岡市井川へ出発。
坂京の山々を抜けるころにはストンと雨も上がり、川底から白い霧が…。

霧深し井川の峰に力石(いし)尋ぬ  雨宮清子

井川に着く。
長い夏の日はすでに闇と交替し始めていました。
大急ぎで怪力テシャマンクの墓を探して撮影。
私たちは闇に追われるように井川をあとにしました。

「おーいおーい」
背後で誰かが呼んでいます。見るとテシャマンクが、
「また来いよーっ」と大きな手を振っておりました。

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静岡市井川

県内9ヵ所を巡った石探しの長い一日が無事終わりました。

シャビキさま

三重県総合博物館
01 /18 2016
川根本町・坂京の元庄屋の中野さん宅で「シャビキ石」を尋ねたら、
このすぐ下のもう一軒の中野さんを教えてくれました。

直角に近いカーブを曲がるとその先は思わずのけぞるような下り坂。
元庄屋さんの家へは胸突き八丁みたいな急坂をウンウン登ったが、
今度はつんのめりそうだ。

坂の京(みやこ)とは言い得て妙。

坂下に人家が見えます。
傘をさした体格のいい柔和な男性が出迎えてくれました。

石は沢の一番下にあるという。
師匠の高島先生だけ行くことになり、
中野さんの四駆で出かけていきました。

img868.jpg
平成10年ごろの坂京

左上赤丸の元庄屋さんの家から、
急な角度を曲がって右の青丸のお宅へ。
そこから中ノ沢(波線)沿いを行くと、シャビキ石です(下段赤丸)。

元庄屋さんは、シャビキは、神社などを引「社引き」としていました。
また平成10年、地元の教育委員会では、
「石・曳き(シャ・ヒキ)」と解説しています。

恐れずにいいますと、私の見解はこうです。

坂京のシャビキ様は風邪を治す神様というのですから、
これはシャビキ、つまりシワブキ(咳)のことではないか、と。

全国には咳を治す神様がたくさんおられます。
「社引岩」「シャビキ岩」「おしゃぶきさま」「シワブキバアサン」
または、「姥神社」「姥神」などなど。


ことに「姥神」は、
子供の百日咳に効き目があり、疱瘡も治すというので、
「疱瘡ばあさん」とも呼ばれていました。

昔は百日咳や疱瘡で子供を失う親たちが多かったんですね。

「ジジババ尊」です。
ここへは力石探しの折り立ち寄ったものの、
写真は撮らずじまい。下手な絵でご勘弁を。
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東京都墨田区牛島・弘福寺

この二人はとても仲が悪いので、少し離してあるのだそうです。
最初にばあさまに頼み、次にじいさまに頼むと治りが早いとか。


ばあさんは偉大なり。

ここからは、民俗学者の柳田国男先生からの受け売りです。

咳は関・塞に通じます。
関や塞は峠や村境や三叉路、橋のたもとなどにあります。

昔の人は村に病気などの悪いものが入らないように、
それを「せきとめる」神様を村境や峠などに祀りました。
こうした神様には、
塞の神、姥神、サクチの神(シャグジン・境の神)、道祖神。男根なんてのも。

男根型の石棒や道祖神は、若者たちの格好の力石になりました。

山梨県や静岡県東部に多い双体道祖神は、
男女の激しい愛を見せつけて悪霊を退散させるというものです。
誰が考え付いたんでしょうかねえ。


石敢當も塞の神です。
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左は沖縄の石敢當  右は静岡市の塀につけられた石敢當

ちなみに「サクチの神」のサクは、
裂く、チはのこと。
またサ・クチのクチはでもありますから、坂口の神ともいいます。

長野県の「佐久」もこれからきているとか。

ひるがえって、坂京のシャビキ様を見てみると、
村と坂の入り口にあって、しかも咳に効力があるというのですから、
単に石を曳いた巨人ではなく、
まぎれもなく、関・咳の神様、
つまり咳も悪霊もせき止める神様だと私は思います。

それからもう一つ、
町教育委員会ではシャビキ様はダイダラボッチとしていましたが、
ダイダラボッチとも少し違うのではないか、という気がします。

この大井川上流部には、怪力伝説がたくさんあります。
このあたりではダイラボッチと呼ぶダイダラボッチを始め、
三十人力のテシャマンク、20人分の仕事を一人でやった怪力女トクセイバー
力次郎左衛門海野七郎次郎なんていう現実的な怪力もいた。

テシャマンクはお墓まであります。
CIMG0217.jpg
静岡市井川

地元の人によると、
テシャマンクのテシャは器用・利口という意味で、
マンクは万九郎という名前だそうです。


さて、坂京のシャビキ様は、
風邪を引いて力が出なくなったなんていう人間臭さも持ち合わせています。

ダイダラボッチ、関の神、咳の神、塞の神、そういういろんな要素を持ち、
村人たちのたくさんの願いをこめた「巨人」だったのでは、と思います。


こちらは左衛門という、力は強いが限りなく人間臭い男の話です。

img866.jpg
「川根のむかし話」より

大井川河口部の町、島田市北部に、
大井川左岸の集落、上河内へ抜ける道がありました。
その途中にあったのが標高約600㍍の祭文峠(左衛門峠)です。
今ではハイキングコースになっています。

「むかしむかし、左衛門というたいそう力の強い男がおりました。
左衛門があんまり力自慢をするので村人たちが、
「あの大石は上がるまい」と言うと、左衛門は「なんだこんなもの」と、
100貫もあろう大石を担いで、坂道をエッサエッサ。


しかしもうすぐ頂上というところで、左衛門は力尽きて倒れてしまいます。
そこへちょうど通りかかった白装束のおばあさんが左衛門に水を飲ませると、
呪文を唱えつつ錫杖で大石をころがして頂上へあげてしまいました。

元の場所へ引き返したおばあさん、左衛門に向かって、
「あまりうぬぼれると身を滅ぼしてしまうぞ」と言って立ち去りました。
その後左衛門は、

おばあさんの言いつけを守り、平穏な一生を終えたということです」

CIMG0817.jpg
富士市の三叉路にあった道祖神。まだ新しい。

旅のおばあさんの方が怪力だったという風変わりな、
そしてちょっぴり教訓めいたお話でした。
ここでは旅のおばあさんが超能力を持つ「姥神」です。
もちろん左衛門は、
坂京のシャビキ様のような神様にはなれませんでした。

力持ちになりたいものは峠のこの大石に花を添えて祈ったということですが、

今でもこの石、あるのかな?

<つづく>


※参考文献・画像提供/「本川根町田代・坂京・青部の神楽」
           本川根町教育委員会 平成10年
          /「川根のむかし話」川根町教育委員会 昭和60年

むかしむかしの物語りです

三重県総合博物館
01 /16 2016
山の中で人を探すことは砂浜に落とした宝石を探すようなものです。
そんなとき威力を発揮するのがカーナビ。

以前、師匠の元に寄せられた手紙から、
坂京の元庄屋さんの電話番号を入力
それに導かれて山のテッペンへ。

元庄屋さんの家は、
山のテッペンにさらに石垣を積み上げた堂々とした構えのお宅です。
民俗学者の野本寛一先生の本で見た通りの家が、
そこに再現されていました。

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静岡市葵区羽鳥・洞慶院の蝋梅

私たちがここ坂京を訪れた目的は、「シャビキ石」
ここの当時のご当主がそのいわれを手紙で知らせてくださっていたのです。

CIMG2853.jpg
洞慶院の笠地蔵

「むかしむかしの物語りです。
力持ちの大男がおりました。はにかみ屋で人前には姿を現しません。
鎮守様や屋敷を整地して引っ越そうと村人たちが相談していると、
一夜のうちに移築してくれて大助かり。
誰いうとなく社を引くから社引さんと呼んで、
見えぬ巨人に感謝しておりました」

「あるとき社引きさんが、高山のテッペンへ大石を持ち上げようと、
崎平の方から周囲30㍍もある石を引っぱってきました。
ですが社引きさん、風邪気味で体調が悪く汗びっしょり。
とうとう夜も白んできたので中野さんの家の下で精魂尽き果てて
石をほっぽり出して一目散に姿を隠してしまいました

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「急坂を往来する人たちを見守る旧道のお地蔵さん」。  
さいたま市緑区大間木附島 画/酒井正

「それっきり石はその場に居座って、巌(いわお)となりました。
それから何年かたち、大岩の上に松の木が生えて、
村人たちは社引石というようになりました。

風邪気味だった社引きさんが大汗かいて風邪がケロリと治ったので、
社引石は風邪の神様というようになり、
村人の信仰を集めております。近隣からも大勢参拝に参ります。
中野八次さんの山なので、八次さんがお世話しております」
      
ーー 伝承者・中野昌男氏 ーー

CIMG0097.jpg
裾野市葛山・仙年寺付近の路傍

<つづく>

※画像提供/「郷土の石佛」写生行脚一期一会 酒井正 平成22年
※民話提供/中野昌男

ヨコの道、タテの道

三重県総合博物館
01 /13 2016
時の権力者の思わくから、川に橋がかけられなかった江戸時代、
大井川は「越すに越されぬ」と唄われていました。
その中流域の久野脇集落から、今度は上流部の坂京集落を目指します。

右岸の久野脇(くのわき)から左岸の坂京(さかきょう)へ行くには、
川と鉄道線路を越えなければなりません。
どのあたりで橋を渡り左岸へ出たのか、私にはわからなかったのですが、
とにかく師匠は上流目指してぐんぐん飛ばします。

大井川鉄道の終点・千頭駅の一つ手前あたりで、
ようやく支流の坂京河内川沿いへ。

さっきまでの小雨が本降りになり、
フロントガラスに激しくぶつかり始めました。

坂京集落です。
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「本川根町田代・坂京・青部の神楽」より

坂京集落(現・榛原郡川根本町東藤川)は、
平成10年には戸数28、人口94人でしたが、現在は戸数21、人口50人。
減っているとはいえ、
近世、近代を通じて流入流出の少ない比較的安定した集落とされています。

この大井川を始め、西の天竜川、東の安倍川流域は、
神楽の宝庫です。
ここ坂京にも「ミサキ神楽」と呼ばれる神楽があります。
「ミサキ」とは不慮の死を遂げた人の怨霊をさす言葉です。

豊作や平穏を祈る神楽に、憑き物の名称を付けるなんて変わっています。
なんでかなあと思ったら、やはり、こんな伝承がありました。

その昔、泥棒と勘違いされた旅の坊さんが村人たちに殺されて…。
どうやら、その怨霊鎮めの神楽ということのようです。
今でも「ミサキ」さんの小祠と坊さんの供養の石が残されているそうです。


神楽の多くは、初め地元の神主たちが舞っていたといいます。
それを見た村の若者たちが教えを乞い、自分たちの娯楽にしていった。
そうなんです。娯楽だったのです。

祭りの日には峰々に散在する村人たちが面や太鼓を背に、
険しい峠を越えて参集したといいます。


「チキドン」です。
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静岡市葵区梅が島新田神楽

昨年末、某民俗学者のお話を聞きました。
「伝統ある神楽が衰退してきたからといって、
存続のためだけに変質させて現代に迎合するのは間違っている。
存続が困難なら村が消滅するとき一緒に消滅させたほうがいい」


この人は若者たちが奇抜な衣装で踊り狂う今風の盆踊りや、
町から見物人を連れてきて体育館で演じてみせる神楽に異議を唱えていた。
町から来た人たちが最後まで見ずに帰ってしまったことにも怒っていた。

かつては神社で舞われていたこの「チキドン」。いつのころからか
野外へ飛び出し家々に福を呼ぶ門づけ芸へと変わった。
伝統に縛られず、自分たちにとって一番楽しい形に変えた例です。

異様なお面の出現に泣きだす子供。
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そりゃあ、お面がしゃべるんですもんね、怖いですよ。

民俗学者の話を聞いたとき、
私の脳裏にこんな言葉が浮かんできました。
例年参加させていただいている有東木の盆踊りの主催者の言葉です。

「今は国指定の重要文化財になった盆踊りですが、
取り入れた当初は流行の最先端の踊りだったと思います。
当時の若者たちは村の長老たちから批難されたと思います。

踊りには仏教的な解釈がありますが、先祖たちはそれはそれとして、
都の風流をいち早く取り入れ、衣装や歌の節にも創意を凝らし、そうして
長い年月をかけて自分たちの踊りにしていったのではないでしょうか。
難しいことなど考えず自由に、ただ楽しく踊っていたんだと思います」

流行は常に変わるもの。伝統を守る難しさはそこにあるんですね。
でも盆踊りの主催者はこうも言っていました。
「この盆踊りも、いずれはなくなるものと覚悟しております」

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静岡市葵区日向・福田寺観音堂「七草祭」(田遊び)

前述の民俗学者さんは、
神楽見物を半分で切り上げた町の人に不快感を示しましたが、
チンプンカンプンの神楽を最後まで見続けるには大変な根気がいります。
極論すれば、
母親のお腹の中にいるときから神楽を感じてきた者でなければ、
魂を揺さぶられることも陶酔することも難しいと思います。


所作がどうの学問的にどうのなんて事は学術調査団に任せておけばいい。
素人でよそ者の私にいえることは、理屈なんて考えず、
ただ演者と同じ空間に身を置いて肌で感じればよいという、
そんなことだけ。


昔の人だって、理屈から始めたわけではないのですから。
夜明けまで踊り明かし、一番鶏が鳴くころまで神楽に興じたのは、
浮き浮きして気持ち良く一体感があって楽しかったからではないでしょうか。
でなければ、こんなに長くは続きません。

大井川源流部の南アルプス・間の岳です。
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濃霧の間の岳山頂。女3人で登りました。左端が私。

ここに流れた霧の一粒一粒が岩肌に沁み、小さな流れをつくって山を下り、
周辺の山々の水を集めつつ、やがて一つの大河となって、
160㎞もの長い旅路の果てに駿河湾へと注いでいます。

それが大井川です。

長い間、川の両岸に住む人たちは、
川の向こう側にどんな人が住んでいるか知らなかったといいます。

大井川鉄道が開通する昭和6年ごろまで、
右岸の人々は西側の周智郡森町や金谷方面へ、
また左岸の集落では東側の静岡市の商業圏へ行くために、
それぞれ道をヨコへ求めて、谷を下り急峻な山を越えて暮らしてきました。

明治時代の通船で新たな道が開け、さらに鉄道の開通で、
このヨコの道がタテの道へと大きく変わっていったのです。

tokaido25 (2)
高島愼助教授による伊勢型紙作品「東海道五十三次・大井川」

車はどしゃぶりの中、車道というタテの道をひた走ります。
早朝からハンドルを握り続けている師匠の疲れもピークに達しているはず。
無口な師匠の口がさらに重たくなっています。


大井川上流部で右岸から左岸へ、さらに支流沿いの山また山の中へ。

坂京はもうすぐです。

<つづく>

※参考文献・画像提供/「本川根町田代・坂京・青部の神楽」
           本川根町神楽調査報告書 本川根教育委員会
           平成10年

歌の文句じゃないけれど

三重県総合博物館
01 /10 2016
あやうくトラバサミの餌食になりかけた私に、
「ぼくが行くまで待っていてください」との有難~い師匠のお言葉。

しかし、それにはおまけが…。
「それまでに充分な数の石を探しておいてください」

ハイハイ。
そのお言葉通り、その日のために9ヵ所もご用意いたしました。

8月半ば、師匠の車は静岡市で私を乗せ、一路、県東部の富士宮市へ。
そこから旧清水市へ戻り3ヵ所調査。

その一つ、静岡市清水区高橋の神明宮です。
CIMG0204.jpg

ここにあるのが「だるま石」
碁盤をうちわ替わりにするほどの力持ち、天保生まれの友蔵と、
45貫目のお茶を担いで箱根山を越えた
怪力、嘉永3年生まれの大吉の二人が、
奥の集落の若者と賭けをして勝ち、持ち帰ったのがこの石だという。

CIMG0205.jpg

この石には無数の穴が穿たれています。
説明板によると、「高橋地区の子供たちが石で突いた名残り」だとか。
元は村の辻にあったそうですから、これは願掛けの穴「盃状穴」で、
のちにそうした穴を利用して子供たちが遊んだのでは、と私は思います。

そこから三保半島を巡った後、
静岡市を素通りして県西部の磐田市へ。
磐田市で一つ確認して、そこから一気に大井川へと向かいました。

大井川中流域右岸にある川根本町・久野脇集落に着くころ、
急に空が暗くなり、小雨がぱらつきだしました。
目指す八幡さまがわかりません。道沿いの農家に尋ねて無事到着。

久野脇・八幡神社の力石(右)です。
CIMG0213.jpg
52×38×28㎝

この石は、民俗学者で近畿大学名誉教授の野本寛一先生のご著書、
「民俗探訪・石と日本人」に掲載されていたものです。

野本先生が撮影した石はこちら。
img863.jpg

拝殿の同じ軒下にありました。
野本先生が訪れてから約30年間、
石はこの場所に留まっていたことになります。

先生は30年前の本の中で、
「この石に関する伝承は絶えてしまっているが、これは明らかに力石である」
と書いていましたが、
八幡さまを教えてくれた農家のおじさんは、
「力石」ということをご存知でした。

30年前、それが力石であるという証言者を発見できなかったのに、
30年後にこの私が、それを知っている人と遭遇したなんてラッキー!

それからおじさんは「ダイダラボッチの袂石」も教えてくれたのですが、
師匠は興味なさげにうなづくだけ。

このあたりにはいろんな巨人伝説があります。
中でも一番有名なのは、ダイダラボッチ。
「袂石」は、「ダイダラボッチが久野脇の薬師山と対岸の駿河の山に
両足を踏ん張って一休みしているとき、袂から転がり落ちた石だという。

それがこれ
img864.jpg
高さ・径とも約3㍍  撮影/野本寛一教授

野本先生によると、
「袂(たもと)石というのは、聖地を訪れた際、袂に入れた小石が、
村へ帰ってから大きく成長したという石成長譚として語られる石のこと。
霊力のある石は成長するという、そういう信仰があった」

おじさんがせっかく教えてくれたのに、師匠は軽く受け流してしまった。
帰り際、お礼を言ってからおじさんの顔を見たら、
ちょっと残念そうな表情になっていました。

「先生、袂石はどうします?」という私に、「いい。いらない」と。

ところがずっと後の、いよいよ「静岡の力石」の編集が始まったころ、
師匠が言った。

「あれ、行ってみればよかった…」

ほらね! 歌の文句じゃないけれど、

♪だから云ったじゃないの 今さら今さら愚痴なんて

<つづく>

※参考文献・画像提供/「民俗探訪・石と日本人」野本寛一 樹木社 
           昭和57年

こんなところでくたばってたまるか!

三重県総合博物館
01 /08 2016
丸子川を渡って初めて足を踏み入れた道で、思いがけず見つけた立札。
それにはこう書かれていました。

「元宿山 大日如来
羽鳥家が法印をつとめた江戸時代より三代目の鈴宝院良順のとき、
村人の中で体は小さいが力持ちの小玉じいさんが、
ご神体を元宿山へ背負い上げた」


説明板を読んでいると、地元の人とおぼしきおじさんが声をかけてきた。

「小玉じいさんのうちは今でもあるよ。
じいさんが担いだ大日さんは、この山のテッペンにあるよ」


早速、その元宿山へ。

元宿というからには、
この辺りが元々の宿場だったんだろうなと思いつつ、
石ころだらけの林道を歩き出しました。

ここを流れる丸子川には蝉のように鳴くカジカガエルがいます。

これがカジカガエル
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国立研究開発法人・森林総合研究所より

以前、この丸子川で聞いたことがありますが、
ヒュルリリリというような、ヒグラシみたいな涼やかな声でした。

恋の季節に、雄鹿が雌鹿を慕って鳴く声に似ているところから、
河の鹿、「河鹿(かじか)]と命名されたそうです。

笠を手にいそぐ夕べや河鹿鳴く  正岡子規

3月桜、ポカポカ陽気です。汗をかきかきひたすら登りました。
林道はこの先、下り坂になっている。ここがどうやら頂上らしい。
見れば左手に微かな踏み跡が…。

雑草を踏み分けていくと鉄線で囲った一画がありました。
なおも進むと前方の藪陰になにやらのようなものが…。
それも黒くて頑丈そうな大きな檻!

とっさに浮かんだのがコレ
img860.jpg
撮影/静岡県林業技術センター

えっ! ひょっとしてクマの捕獲器?
もしかしてこの道はけもの道?
だとするとさっき見た鉄線は電気柵だ!

だったらこの道には、罠が仕掛けられているはず。
罠といえばトラバサミ。知らずに踏んだ動物が足を挟まれて、
もがけばもがくほど足に食い込むという…。

トラバサミの凄惨さはツキノワグマの取材で、
クマの研究者からいやというほど聞かされている。
あんなのに挟まれたらクマだって大イノシシだってひとたまりもない。
ましてやかよわき私なんぞ…。

あわわわわ

血の気も失せたまま、下山開始。
「あのまま突き進んでいたら…」との思いが頭から離れません。

ガタガタ震えながらさっき来た林道を何度も曲がる。
一刻も早くこの場を立ち去りたい。

と思いつつふと見ると、右手の急斜面に登山道らしき細道が…。
入り口にはたくさんの杖まで置いてある。
なんとまあ、来るとき見過ごしてしまったんだ。

こんな日は大人しく引き上げるほうがいいに決まっている。
だけど、力持ちが担ぎあげた大日如来さまも突き止めたい。

エイヤ!とばかりに新たな山道へ。
よく踏まれた道ですが、勾配がキツイ。
茶畑の中を潜り、ジグザグに登り詰めると、ありました!
小玉じいさんが背負って担ぎあげた大日如来さまです。

CIMG1215.jpg
静岡市駿河区丸子・元宿山

帰宅後、
災難を切り抜けられたのは大日さまのおかげかもと思いつつ、
師匠の高島先生に報告。

「力持ちが担ぎあげた大日さまがありました」

ところが師匠は「そんなのはいらない」とにべもない。
「えっ! なんで? 下田のエンマさまはよくてこちらはダメって。
どちらも力持ちが担いだ石仏ですよ」
「でも、それはいらない」

ムカッ! 命の危険を冒してまで探してきたってのに。

「先生、今日、私、命を落とすところだったんですよ」
「えっ!」
「もし罠に挟まったら、あんな人っ子一人いない山中です。
呼べど叫べど助けなど…。
新聞は書きますよ。力石探しが趣味のAさんは、トラバサミに挟まれて…」


すると師匠がわっはっはと笑い出した。
「姫がトラバサミに挟まれた姿を想像すると…。フッフフフ」

なんて人なんだ! ッたく!
消しても消しても、血だらけで息絶えた我が身が浮かんできて
食べ物さえ喉を通らないってのに。

さんざん笑った師匠、突如、真面目な声でこんな提案を…。

「これからは行きにくい所は、ぼくが行くまで待っていてください」

あ、ありがたい。そう来なくちゃ。
やっぱり師匠だなあ。
そう思ったのもつかの間、先生は事もなげに言った。

「ただしそれまでに充分な数の石を探しておいてください」

<つづく>

静岡の調査は命がけ

三重県総合博物館
01 /05 2016
静岡県での力石探しにはいくつかの難しい点がありました。

第一には、刻字のない石がほとんどであること。

県内で確認された265個の力石のうち、刻字石はわずか42個。
そのうえ、無刻字の石の大半は放置され、
それを力石と証明する人がほとんどいないというトホホの状況。


そうした石に「おいらは本当は力石なんだ」と語らせるには、
現地での地道な聞き込み文献に頼るしかありません。

証明されたのに捨てられてしまった力石二つ。
CIMG1241.jpg
富士市田中新田・淡島神社 ①43×43×23㎝ ②38×38×28㎝

無人の神社に「ぜひ保存を…」としたためた手紙を置いてきましたが、
その後どうなったのか…。

こちらの石は、以前は手水鉢のかたわらに放置されていましたが、
今はご覧のように、石仏の前に安住の地を得たようです。
CIMG1250.jpg
富士市高島町・愛宕神社 70×23×23㎝

立派な力石です。ですがこのままではこれが力石だと知る人がいなくなれば、
前述の石と同じ運命をたどりかねません。
刻字を施して後世に伝えていってくれたらと願うばかりです。

さて、調査を困難にさせたもう一つの理由は、
文献上で発見できてもその所在地のほとんどが、
バスも通わない山間地であることです。
ペーパードライバーの私は、この時点で調査に携わる資格なしです。

民俗学者の宮本常一氏は、
食料を詰めた大きなリュックを背負い、徒歩で村々を訪ね歩いた人ですが、
その宮本氏を真似ようにも時代が違いすぎます。
その頃は訪ねる人も迎える人も、自分の足で野越え山越えした時代です。

私も、野外へ出かける時のいでたちは宮本氏並みですが、
車社会の今、山間部では車は必需品。道はすべて車仕様です。
だから私も、電車とバスとタクシーを使っての調査に終始。
でもすぐに財布が悲鳴をあげました。


かつても今も取材する側なので、自分の写真はほとんどありません。
これは10数年前の私。友人が撮ってくれた貴重な一枚です。
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紀行文を書くために歩いていた頃です。こんな若い時代があったんだ!

リュックを背に胸にニコンのカメラ
平地歩きでも3000㍍峰でもこのスタイル。
思えばスカートとハイヒールには縁のない人生でした。
でも、こんなふうに過去に思いを馳せるのは、
それだけ老化が進んだってことだよな。やめたやめた!

近場はもっぱら歩き調査です。
でもそこでとんでもないことが!

その日は、旧東海道「丸子宿」一帯を歩き回りましたが、成果は全くなし。

その「丸子宿」にあるのが「丁子屋」とろろそばの店です。
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも登場します。
弥次さん北さんはここで夫婦喧嘩に巻き込まれ、とろろに滑って散々な目に。
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静岡市駿河区丸子

もう帰ろうかなと思いつつ、
丁子屋の前を流れる丸子川沿いの道を、あてもなく辿っていたら、
今まで来たことがなかった道へとぶつかりました。
右手に茶山が連なっています。なにかありそうな気配。

ほどなく山裾にこんな看板を見つけました。

「体は小さいが力持ちの小玉じいさんが…」

なに! 力持ち? 一気に期待が膨らみました。

<つづく>

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞