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力石資料が三重県総合博物館へ③

「事実の集積から収斂される学問的トレンドへ発展させよ

これは四日市大学の谷口優先生が、
力石に取り組む高島愼助先生に、その目指す方向を示唆された言葉です。

各地での個々の事実の集積はあっても全国的にまとめられたものはない。
しかも力石は人々の記憶から急速に消えかかっている。
「事実の集積」を急がなければと考えた高島先生は、
全国47都道府県の各市町の教育委員会や自治会、老人会、文化財課等へ
力石に関する情報提供を依頼する手紙を出した。
その数1万数千通。

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「豊遊石」を担ぐ町田村矢向生まれ(現横浜市)の矢向弥五郎

ここでちょっと、高島先生の経歴を簡単にご紹介します。
先生は兵庫県姫路市のご出身。

私は3年前、その姫路市へ力石の調査、というより見物に行ってきました。
酷暑の中、姫路を歩きまくり、そこから岡山へ行きまた歩きまくり、
あげくに左足をムカデに咬まれて、リンパ浮腫という病気を発症。
ふらふらになって自宅へ戻った私に、電話の向こうから、
「僕の故郷はどうだった? よかったでしょう?」とお気楽な声。

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タクシーの待ちぼうけを食らった姫路市広畑才の天満神社

「タクシー呼んだら、待てどくらせど来ない。催促の電話をしたら、
”ここらへんは天満宮だらけや。どこの天満宮や”ってえらい剣幕。
丁寧に住所を伝えたのに…。
それに先生が、ここへ行ったらこの人に会うといいよと言うから、
汗かきかき訪ねたら、事前にご連絡いただかない人とは会いませんって。
なんですか、関西ってとこは。ああ、ヤダヤダ
と言ったら、先生、言葉もない。

先生は常々、今住んでいる三重県は「人情厚く最高だ」と言ってたけど、
でもやっぱり生まれ故郷は特別なのねえ。
それで慌てて言い足した。

「あ、そうそう。姫路駅に展示してあった山車、あれは凄かったです。
豪華絢爛。金に糸目を付けないって感じ。姫路の人は豪快ですねえ。
静岡にはあんな度肝を抜くような豪勢な山車はないですもん」
これ、お世辞でもなんでもない。本当にあれは凄かった!

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ここで行われる力持ちは市無形民俗文化財
=姫路市大津区天満・神明神社

経歴を続けます。
高校時代は体操選手として活躍。
大阪体育大学体育学部体育専攻科を修了して、三重大学医学部へ。
そこで博士号を取得。
現在は四日市大学経済学部教授で、専門は運動生理学・体育史学

「三重大学から静岡県立大学を希望したんだけどダメだった」そうで、
もし先生がこの静岡へ赴任していたら、私は調査に携わることもなく、
「静岡の力石」に私の名が記されることもなかったはず。
モノゴトはすべからく偶然の重なり合いというべきか。

それはさておき、
今までにも何度かお話したように、先生が力石の世界へ入られたのは、
伊東明上智大学教授との出会いからで、先生42歳のとき。
伊東先生もまた体育史がご専門で、その視点から、
庶民の遺物として片隅に追いやられていた力石にアカデミックな光をあて、
体育史研究の対象としたそうです。

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三重県三重郡菰野町田光・多比鹿神社

高島先生は、
平成4年(1992)、初の力石の報告書「三重県津市の力石」を発表。
しかし、その翌年、師の伊東先生ご逝去。
あとに、青森県から沖縄県にまで及ぶ膨大な資料が遺されました。

先生はそれを整理し、そこからさらに膨らませていき、
全国の力石としてまとめていこうと決意。
(とまあ、これは私の想像ですが、たぶん、当たらずとも遠からず)。
その手始めに発信したのが、
全国へ情報提供を呼びかける手紙だったのです。

そして全国から寄せられた力石の情報を元に、
カメラとメジャーと地図を片手に、軽自動車を駆っての全国行脚、
谷口先生言うところの「事実の集積」の旅が始まります。

   力石(いし)を追い直ぐな航跡隠岐の島   
                                 
   力石やゝ温かし伊予の春   高島愼助 


平成6年(1994)には、
郷土および庶民の文化遺産「力石」についてで、毎日郷土提言賞
三重県優秀賞を受賞。

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北前船の寄港地・尾道で活躍した力持ち大湊和七の像
=広島県尾道市長江・御袖天満宮


   平成20年(2008)年、還暦を迎えて詠める

   六十歳(むととせ)に力石追う秋の風    高島愼助



<つづく>


※参考文献・画像提供/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
              /「力石「ちからいし」」高島愼助 岩田書院 2011
※画像提供/横浜市民局「庁内報」矢向の豊遊石 第245号 1980
※参考文献/「力石を詠む」シリーズより
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力石資料が三重県総合博物館へ②

私が力石という石の存在を知ったのは、20年ほど前のこと。
そのときは「ちからいし」という呼び名に、
なんともいえない愛おしさを感じたものの、まだ記憶にとどめる程度でした。

まあ、仕事仕事でそれどころではなかったのが実情でしたけど。

それが一変したのは、6年ほど前、
突然、四日市大学の高島先生から来た一本のメールでした。
見知らぬ大学教授からメール。驚きました。

なんでこんなことになったのかというと、
この少し前、近所の知人から地元の石造物の案内を頼まれて、
庚申塔、巡礼碑、地蔵さんなどを巡った後、力石を見せました。
知人も力石に興味を持ったのか、それを自分のブログに載せたところ、
高島先生の目に留まり、私へ連絡をいただいたというわけなのです。

そのときの力石がこれ
CIMG0741 (2)
=静岡市葵区有永・大御戸神社

元禄16年建立の鳥居の一部。明治大正時代の青年たちが力石として担ぎ、
石段を何回上り下りできるか競った代用力石です。

先生はこれをぜひ見たいという。
こんな石一つのためにわざわざ三重県から来るなんて、
なんて物好きな、と私は思いました。
でも、せっかく来られるならと、急きょほかの石も探しました。

それがこちら
葵区瀬名・藤巻宅1 (2)
=静岡市葵区瀬名・個人宅

地元の郷土史家で版画家の中川雄太郎氏が、
著書の中に書き残してくれていた力石です。
元は阿弥陀堂にありましたが、取り壊されたため個人が引き取ったとか。
しかし代が息子さんに変わり、このときはただ庭に転がしてありました。

さて、いよいよ先生がはるばる三重県からお越しくださる日となりました。
晩秋の肌寒い早朝、軽自動車で私の住まいまでやってきた先生、
丁寧にあいさつをされます。
私はニコニコしながら、挨拶もそこそこにサッサと車の助手席へ。
そんな私に、先生が戸惑いつつ発したのは、
「あなたは見ず知らずの人の車にいつもそんなふうに…」

ひやあー。
思いがけない言葉に面食らいつつ、
「だったら先生お一人で行きますか?」というと、
「いえ、ご案内してください」

言われてみれば、私はいつもこんなふうに無防備で…。
初対面でも長年の知己のように、なんの警戒心も気取りもなく、
ニコニコしながらスッと自然に話しかけるので、
「まるでずっと前からの知り合いのようだ」と言われたりしてきた。
職業柄とはいえ、
初対面の人との緊張感に、私は少し欠けているのかもしれない。

とまあ、反省しつつ、とにかく先生のオンボロ軽自動車に乗り込みました。
でも言い訳をすれば、私はいつもこんなふうに、
初対面の人が気まずい思いをしないようにとの気遣いを働かせてきました。
先生もまた、
私への配慮からそう言われたのだろうと思ったり…。

なにはともあれ、これが私の力石ワールドで遊ぶ第一歩となりました。

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2011年発行の先生との共著「静岡の力石」

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表紙のこの絵は、静岡市清水区由比・薬師堂での力比べ。
描いたのは、江戸時代の茶店「望嶽亭」のご子孫、故・松永宝蔵氏。

車は本当にオンボロでした。
薄い座席に固い背もたれ。ガタガタと上下左右に揺れどおし。
ただし、先生の運転の腕は超一流。切れ味抜群でものすごくうまい。
さすがかつての体操選手。
静と動、フィニッシュと何でもピタリと決めて、実に快適なドライブです。

若い美女ならともかく、すでに老境に差し掛かった枯葉マークの私では、
先生もチト気も萎えるかと思いつつも、
これ以後は、
「袖振り合うも多生の縁」とばかりに、静岡県内力石の旅へ。

そんな旅の珍道中を、ちょいとお目にかけていこうかと…。

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強者はこんな鉄の下駄をはいて力石を担いだとか。
=富士宮市大中里・丘路八幡宮



<つづく>


力石資料が三重県総合博物館へ①

嬉しいお知らせです。

長年力石の調査研究に取り組んでこられた四日市大学・高島愼助教授の、
力石に関する著書や蒐集された資料等が、
このほど、三重県総合博物館に収蔵されました。
 ※ 詳細はリンク先の「四日市大学高島研究室」をご覧ください。

収蔵されたものは、先生の著書や論文、報告書、番付、引札などですが、
特筆すべきは報告書で、これは全国各地の教育委員会や文化財関係者、
老人会や自治会、そして個人等の協力によってなされたもので、
この熱意と協力なくして、如何な根気とフットワーク抜群の高島先生でも、
ここまで成し遂げられなかったと思います。

全国の、お互い顔も知らない人たちが総力をあげて先生の元に情報を寄せた、
これは凄いことです。
他の研究分野では起りえない現象です。その一部をご紹介します。

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は埼玉県行田市教育委員会による力石の調査報告書。1979年。
は静岡県賀茂郡松崎町教育委員会による
   町史資料編「民俗編」の力石報告書(抜粋)。2002年。 

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は石川県小松市立博物館による「バンモチ石調査報告書」2004年。
   石川県、富山県、福井県、岐阜県などでは力石のことを、
  「磐(盤)持石」=バンモチやバンブチなどと呼ぶのが一般的だという。
は広島県福山市・鞆の浦歴史民俗資料館友の会による報告書。
    1995年。

こちらは個人の調査報告書です。
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濱田きみ子氏による「淡路の力石」神戸新聞出版センター。1983年。
高橋利男氏による「若狭の力石」私家本。2001年。

このように、
打ち捨てられたままの力石は、それを惜しむ篤志家たちが石に文字を刻み、
郷土史家たちが記録に残し、後世に伝える努力をしてきました。

もう二つご紹介します。
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戸田卯之助氏(東京倉庫)による「東都力石名石調帳」(手記)
    1970年ごろ。
鷹野虎四氏による「江戸川区の力石」私家本。1999年。

現在、東京都江戸川区の江戸川区郷土資料館で、
企画展「まるいし おもいし ちからいし」を開催中です(11月15日まで)。

江戸川区郷土資料館とは特別なご縁はありませんが、
力石の保護はおろか調査にも無関心、博物館の庭への設置のお願いには
笑って断る我が静岡では、石の企画展など夢のまた夢
だから、
江戸川区は素晴らしいなあという羨望賛辞をこめてのご紹介です。
そしてもう一つ、この企画展では力石の調査研究に情熱を傾けた
「江戸川区の力石」の著者・故鷹野虎四氏の業績も紹介しているとのことです。

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江戸川区郷土資料館さ~ん、
近々見に行きまあ~す!

さて、ここで、私が勝手に師匠と呼ばせていただいている高島先生が、
どのようにこの世界の第一人者になっていったかを少しお話していきます。

力石が大学での研究テーマとして初めて取り上げられたのは、
昭和27年東京教育大学太田義一先生によってだそうです。
しかしその研究も、隆盛から次第に衰退への道をたどります。
そして最後に残ったのが上智大学伊東明先生です。
伊東先生は平成5年に亡くなりますが、その没後は、
先生の最後のお弟子さんだった高島先生が力石の調査を一手に引き受けます。

「ご遺族から資料をドサッと渡されたときは、正直、途方に暮れた
と高島先生。

調査取材中の高島先生です。
ご覧のように道端の石っころを、写真に撮ったり寸法計ったりするわけですから、
奇異の目で見られます。
でもそんなことに構っちゃいられませんしね、私はもう慣れました。

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=静岡県伊東市宇佐美・城宿会館前の路傍。刻字はあるものの判読不能。

勤務する四日市大学の谷口優特任教授から、
「力石から何を学ぶべきか! 
日本の力石の歴史的背景の中から日本人が学び習得すべき文化はなにか! 
事実の集積から収斂される学問的トレンドへ発展させよ!
と絶えず尻を蹴飛ばされたそうです。

高島先生の力石探索のスタイルは、
軽自動車寝袋をつんでの全国行脚。

でもその谷口先生は、高島先生のこの旅をこんなふうに見ていました。
「殉教者のように日本全土の力石を探ねるエネルギーの背景には、
先生の敬虔な自己探求性「内観の旅」をイメージする」と。

高島先生はしばしば師の伊東先生が歩いた道をたどりました。
しかし伊東先生が記録していた石も、行ってみると所在不明になっている。
伊東先生は写真は撮らずスケッチで残しているし、
周囲の風景は描いていないから探すのがちょっと大変です。

これかな? いや違うな。
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これだ! 間違いない。石段脇の鳥居の後ろにありました。
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=静岡県賀茂郡東伊豆町稲取水下・愛宕神社

いつもはアタフタと気忙しい先生が、このときばかりは、しばししんみり。

   たたずみて土に埋もれし力石(いし)見つむ 
               師の遺志継ぎし探求の人   さやこ


ちょっと持ち上げすぎちゃった、かも…。


<つづく>


※参考文献・画像提供/「力石「ちからいし」」高島愼助 岩田書院 2011

巨星墜つ

人はだれしもいつかは死を迎えます。ですが、卯之助の最期は悲劇的です。

卯之助は現在の埼玉県桶川市の桶川稲荷神社で、
日本一重い力石「大盤石」610㎏を足指しした2年後の嘉永7年、
48歳の若さでこの世を去ります。

卯之助には毒殺説があります。
昭和20年代、地元の古老がこんな話を残しています。

「とある西国大名の江戸屋敷において、
大阪方と江戸方の一番の力持ちを対決させ、日本一を決めることになった。
その結果大名お抱えの力持ち力士は負け、卯之助が勝った
その夜、大名屋敷で双方力士を招いての酒宴が催された。
しかしその帰路、卯之助は突然苦しみ出し、そのまま悶死してしまった」

これは卯之助の位牌です。
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表に日本市大力持 三ノ宮卯之助 四十八才
裏に □ 到刹清㐰士 嘉永七年七月八日 不二位」

越谷市の卯之助研究者・高崎力氏はこういいます。
「位牌に一般的に使われない到刹清㐰士とか不二位などから推測すると、
毒殺というような事件は真実味を帯びてくる」

※位牌の「㐰士」は、個の略字のような人偏に口の文字が書かれているが、
春日部市の研究者S氏によると、
これは個ではなく「信」の異体字の古字だそうです。

また高崎氏はこうも言う。
「日本としたのは、一では二や三に書き換えられる恐れがあったからだろう」

このことから、この位牌を書いた人の、
「卯之助こそ日本一」を守り抜きたいという怨念のようなものが感じられます。

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江戸浅草観音境内における三ノ宮卯之助の興行引札  
=神戸商船大学図書館蔵

卯之助が命を落とした嘉永7年(1854)は、
前年にアメリカからペリー、ロシアからプゥチャーチンが来日するなど、
開国を迫る西欧列強に揺さぶられ始めた幕末の騒乱期です。
こんな時代に、のんびり力持ちの東西対決をさせた大名って一体誰?

ま、それはともかく、この位牌は、
卯之助の没後100年近くたった昭和の戦後間もなく、
越谷市在住のO氏から卯之助生家へ届けられたそうです。
高崎氏の調べでは、このO氏の先祖は興行師で、
常に卯之助と行動を共にしていたマネージャー的存在だったらしいとのこと。

しかし、
東西対決をしたという大名屋敷も卯之助の死因も死亡場所、埋葬場所も不明。
また、位牌をO氏の家でなぜ100年も持ち続けていたのかも、のまま。

勘ぐれば、卯之助を招いた西国の大名が秘密の暴露を恐れてもみ消した?
マネージャーのO氏も力持ちの仲間たちも、身の危険を感じて口を閉ざした?
O氏はそんな卯之助を憐れみ、ひそかに位牌を手作りし、
そこに卯之助事件の真相を暗示的に記して、100年も大切に持っていた…。
とまあ、こんな見方もできますが、でも、真相はすべて闇の中

その後、卯之助の生家ではのちのご当主が位牌を作り直したそうです。
それがこちら
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S氏撮影。

2008年、卯之助生家を訪れた春日部市在住の研究者S氏に、
その家のおばあちゃんがこんなことを…。
「おじいちゃんが仏壇屋に頼んで新しくした。古い位牌はどうなったかわからない」

旧位牌に比べて、新しい位牌は立派ですが、
S氏は、旧位牌の文字と新しいのとでは文字が所々違うことに気づきます。
そして、こんな指摘をしています。

新しい位牌には「寛永七寅年」と彫られている。
旧位牌にそう書かれていたのでしょう。
でも寛永嘉永ではえらい違い。あとから寛を削って「カ」に書き換えてある。
旧位牌にあった「不二位」の「不二」が省かれているのは仏壇屋の独断か?
七月日が七月日に、力持の「持」「特」と誤字。
岩槻市史では、
「信」の異体字の古字「㐰」「個」に、「刹」「殺」にしているがこれは間違い。
だから仏壇屋が「個士」ではなく「信士」にしたのは正しい

生家に残されていた卯之助石です。
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=越谷市       画/酒井正氏

三ノ宮卯之助が残した力石は、全国最多の39個(不明2個)。
そのうち有形文化財に指定されたのは7個です。

将軍ご上覧の栄を賜り、江戸力持の最高峰・東の大関に出世、
だれも持ったことがない610㎏もの大盤石を指した不世出の力持ち。
ですが、日本一に確定したその日のうちに、卯之助は命を絶たれます。
行年48歳

巨星墜つ

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=兵庫県姫路市網干・魚吹八幡神社

しかし日本一の力持ち、三ノ宮卯之助は、今も多くの人に愛され
力石研究者の血を沸かせ続けて、今なお生きています。


    卯之助よ、永遠なれ!



※参考文献・画像提供/「三ノ宮卯之助の力石(2)」高島愼助・高崎力
               四日市大学論集大17巻1号 2004
※画像提供/S、酒井正


オリンピックに出たならば

卯之助には「大盤石(おおばんいし)といわれる力石が4個あります。
その名の通り、特別大きな重い石のことをいいます。

四日市大学の高島愼助教授によると、
「特に基準は決められてはいない。力石と刻字された大盤石より大きい石もある。
石に大盤石の刻字があれば大盤石となる」とのことです。

ここでは卯之助の「大盤石」を見ていくことにします。

まずは、たびたびご紹介してきた大阪府北区大阪天満宮大盤石
卯之助34歳のとき差した石です。

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115×79×23㎝         作図/伊東明上智大学名誉教授 

これは故郷の三野宮香取神社大盤石。このとき卯之助41歳。 

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100余×97×23㎝ 写真/読売新聞           画/酒井正

こちらは埼玉県戸田市上戸田の氷川神社大盤石です。
卯之助の大磐石の中では最小のもの。またこれを差した時の年齢は不明。

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70×49×39㎝                    画/酒井正氏 
氷川神社には卯之助石を含め15個の力石があります。

4個目は、日本一の大盤石です。
埼玉県桶川市寿の桶川稲荷神社にあります。
重さがなんと610㎏実測です。
卯之助このとき45歳

力石から発展したウエイトリフティングですが、
105㎏級以上でイランの選手がクリーン&ジャークで、
263㎏を挙げたのが世界記録だそうです。
足と手の違いはあるものの、卯之助が挙げた石は610㎏
世界チャンピオンの持った重さの倍以上です。

さらに力石は持つところがなく、いびつで表面がツルツルしていますから、
バランスをとりにくい。これを小柄な卯之助が挙げた。

もし卯之助がオリンピックに出たならば、間違いなく世界チャンピオンです。
(ひいき目かって? はい、願望&ひいき目で言ってます)

610㎏の日本一の力石「大盤石」
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画/酒井正氏             実物     125×75×35㎝     

下の写真は、桶川市の市民祭で、
卯之助はこの大盤石をこのように差したという再現をしているところです。

大勢の人が石を持ちあげ、それを卯之助の足の上に乗せます。
持ちこたえられないと、石の下敷きになりますから命がけです。
ちなみにこれは祭り用のハリボテですから、ご安心を…。

桶川市民祭り1 (5)

「大盤石 嘉永五年壬子歳後二月 岩槻 三ノ宮卯之助持之
石主 大坂屋清右衛門 世話人 大坂屋佐五兵衛 江戸屋重次郎 
古久屋治郎右衛門 加藤市左衛門 布屋彦右衛門 布屋安五郎
栗原權左衛門 青木屋彦八 伊勢屋平兵衛 木嶋屋源右衛門
林屋勘七 伊勢屋忠右衛門

   商人の力顕す大盤石
            歴史を語る初午の朝   杉井梢虫

ここに世話人として名を連ねているのは、
当時の桶川の「紅花(べにばな)の大商人たち」です。
卯之助はこうした地元の旦那衆の招きでこの桶川宿を訪れ、
全国最大の610㎏もの石を足差(指)しで挙げました。

ここ桶川は今も紅花の産地です。
こちらは、桶川市マスコットキャラクターのオケちゃん

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頭に紅花が咲いています。

オケちゃんよりベニコちゃんの方が可愛いなあと私は思うのでありますが…。

こちらは私が購入したお守り
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桶川稲荷神社     越谷市で売られている卯之助の和菓子

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桶川市で売られている卯之助の和菓子「大盤石」

総理大臣になると、自分の名前を冠したお菓子を売ったりしますが、
卯之助は総理大臣にならなくても、お菓子になりました。

    力石見て力石なる菓子を食う   高島愼助



<つづく>


※参考文献・画像提供/「日本一の力持 三ノ宮卯之助の生涯」高崎力
               越谷市での講演資料 平成16年
               /「埼玉県の力石」高島愼助 岩田書院 2007
※画像提供/酒井正
        /読売新聞 2013年4月24日
        /桶川市観光協会
※参考文献/「力石を詠む」シリーズ

 

花を食べる

今朝の目覚めは、なんと午前10時
このごろはどうも夜更かし朝寝坊が習い性になっちゃったみたい…。

窓を開けると
買い置きの静岡産うなぎで、まずは腹ごしらえ。
変な臭みもなく肉厚で美味、う~ん満足!

雨の日は何んにもしないでボーッと過ごしたい。
なので、遅めの昼食はおやつを兼ねて、花を食べました

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オクラの花です。
淡い黄色の、ふんわりしたバレリーナの衣装みたいな花びら。
見ているだけで気分も軽ろやかに。

この花びらをざっくりちぎって、カツオ節とお醤油でいただきます。
三杯酢もOK。肉やサラダの彩りとしても素敵です。
香りはありません。
ちょっとネバネバしますが、オクラの実ほどではなく爽やかです。

あとは、
近所の農家のいちじく、地元農協の若妻会で作ったわらびもち
最近、定期バスが廃止されてしまった山間の集落の、
農家のお母さんたちが作っただんご
それに自家製乳酸菌飲料を添えて、

オール手抜き料理。これでいいのだ!と開き直って、

「いっただきまあーす!」

 ♪はな~は、は~なは、花は咲く~
 叶えた~い夢もあった
 変わり~た~い自分もいた

まあ、今さら「変わりた~い」と言っても、もう手遅れだしなあー。
ま、せいぜい花を食べて、
 
 ♪わた~しの心に 花は咲く~

文殊の石

長い長い「戦争体験」からやっと戻って参りました。
埼玉県三ノ宮生まれの力持ち、卯之助もまた、長い全国巡業から戻ります。

前回のお話をかいつまんで…。

越谷市在住の卯之助研究者・高崎力氏は、
卯之助の足跡を追って、甲州街道へ入りました。
そして、長野県の諏訪大社下社秋宮で七十貫の卯之助石を確認し、
その足で大阪へ向かいます。

その大阪の大阪天満宮で「足指」と刻字された大磐石との対面を果たします。

大阪天満宮の大盤石と高崎氏。
img734 (3)
=大阪府北天神橋

そこから兵庫県姫路市の魚吹八幡神社へと足を延ばしました。
立派な卯之助像があるあの神社です。
ここでの奉納力持ちは、卯之助34歳のとき。

ところがここから卯之助の足取りはぷっつり途絶えてしまいます。
これはあくまでも、卯之助の足取りのわかる文献がないことと、
卯之助の刻字石が未発見だということなのですが…。

魚吹八幡神社の奉納力持ちから7年後の嘉永元年(1848)3月、
突如、卯之助は故郷・三野宮(香取)神社に姿を現わします。
卯之助は41歳になっていました。

以前にもお伝えしましたが、ここで卯之助が持ち上げた「大磐石」は、
平成25年(2013)、越谷市の有形民俗文化財・歴史資料に指定されました。

同じ嘉永元年の卯之助石が、さいたま市にも残されています。

これです。
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=さいたま市緑区大門・大門神社  画/酒井正氏
78×46×28余㎝

奉納 大王石 嘉永元戌申 □月大吉辰 三ノ宮卯之助
 世ハ人 中嶋政五郎 願主 河鍋寅松

   卯之助の汗血はるか大王石   酒井一止

この嘉永年間には、牛馬を曲差しすることが流行ったそうです。
同じ力持ち力士の川崎弥五郎が馬一頭を板に乗せ曲差しすると、
卯之助は牛一頭を小舟に入れて差すといった具合。
これに対抗したのが大阪出身の大碇梅吉です。

大碇一座による子供曲持
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天保版「大碇曲持引札」

天保年間、子供の力持ちが流行しました。
これには、大碇(おおいかり)一座や鉄割(かなわり)一座が活躍します。
安岡章太郎の「大世紀末サーカス」(朝日新聞社・1984)によると、
「碇の字のつく名前は足芸人のことをいう」のだそうですが、どうでしょうか。

とにかくその大碇梅吉さん、卯之助に対抗して、
人を乗せた馬2頭を船に入れ頭上高く差し上げたというのですから、
たまげてしまいます。このとき梅吉26歳
以来、大碇といえば力持ちの代名詞のようになったそうです。

卯之助、負けるな!

明治になると、こうした芸人たちは盛んに海外へ出かけます。
粘菌学者で民俗学者の南方熊楠もイギリスで足芸の美津田滝次郎と知り合い、
アメリカでは曲馬師の京極駒治に会っています。
力石の力持ちも海外へ出ますが、足芸や軽業の芸人には及びません。

曲馬師の京極駒治と弟たち。
img791.jpg

さて、
卯之助が長い全国興行から帰ってきたとされる嘉永元年には、
もう一つ特筆すべきことがありました。
卯之助はこの年、念願の江戸力持番付の東の大関になりました。
名実ともに日本一の力持ちになったわけです。

故郷に腰を落ち着けたかのような卯之助ですが、
ひょんなところから卯之助が旅に出ていたことがわかりました。

平成15年、
四日市大学の高島愼助教授が越谷市での講演を終えて帰宅したところ、
留守中に甲府市教育委員会から手紙が届いていました。
なんとそれは、卯之助石発見を知らせる手紙だったのです。

甲府市教育委員会から知らされた卯之助石
img761.jpg
=山梨県甲府市太田町・穂積神社
70×40×35㎝

百廿貫 嘉永二年 武州岩附三ノ宮卯之助 同岩附長□□ 同七五□
 同馬□ 鷺ノ宮徳治□ 

説明板にはこう書かれています。

「文殊の石 石の上に手を置き願い事を述べ3回廻れば願いはかなう

凡人でも3人寄れば知恵の仏様・文殊にも劣らない知恵が生まれる
そういう故事と、
卯之助たち3人の力持ちが上げた石とを重ねたものと思われます。

この石は卯之助にあやかり、
今では受験生の合格祈願の石になっているとか。

   
    大丈夫と元気与えし力石   鉾崎ちえみ



<つづく>

≪追記≫

さいたま市・大門神社の「大王石」の刻字について
調査資料には「九月大吉辰」と「□月大吉日」の二通りがありました。
春日部市在住の研究者・S氏に問い合わせしたところ、
わざわざ確認に出向いてくださいました。感謝します。

その結果、
「初めのは剥落があり、どう見ても九とは判読できない。
はそう言われればそうかもしれなという感じ。日でないのは確か。
結果としては月大吉辰」
とのお返事をいただきましたので、本文ではその通りの表記にしました。


※参考文献・画像提供/「怪力伝説」「江戸力持三ノ宮卯之助」高崎力
               葛飾区郷土と天文博物館 平成11年度特別展
               /「三ノ宮卯之助の力石(2)」高島愼助・高崎力
                四日市大学論集大17巻1号 2004
               /「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
               /「見世物研究」朝倉無声 昭和3年
               /「南方熊楠日記1」 八坂書房 1987
               /「力石を詠む」シリーズより


ナンマイダー

日本一の力持ち、三ノ宮卯之助をご紹介している途中で「戦争」に突入。
どっぷり漬かりすぎて、卯之助に戻れない。どうしよう…。

というわけで、
ここでちょっとティータイム。
民俗行事で気持ちを整えます。

「戦争展」の合間に、戸数70戸余の有東木集落へ盆踊りに行ってきました。

標高700㍍の有東木集落です。
CIMG2338.jpg

静岡市の中心部から車で一時間。山の向うは山梨県です。
わさび発祥の地でもあります。
その味に魅了された家康から、「門外不出」と言い渡されたとか。

ここに見える家がこの集落の全部の家です。
クネクネした山道を登るので、
友人の多くは「おっかなくて運転できない」としり込みします。

でもここで、
国指定重要無形民俗文化財盆踊りが育まれてきたのです。
それだけではありません。
ここには神楽も残っています。こちらは静岡市指定の文化財です。

神楽が演じられる白髭神社10本杉です。
CIMG2342.jpg
狭い境内に杉の巨木が10本もあります。

ここ有東木には、盆踊りの翌々日、またおじゃましました。
「百万遍」です。
場所は盆踊りをやったお寺の本堂。
集落の人たちの輪に入れていただきました。
子供からお年寄りまで、みんなで声を揃えて、

   ダーブツダーブツ、ナンマイダー

友人たちを誘っても誰も来たがりません。
なぜかなあ。私はこんなのがなんだか好きなんですけどねえ。

帰ってくると「どうだった?」と聞くので、
「ダーブツダーブツ、ナンマイダーってやってきたよォー」というと、
みんな笑います。なんでですかねえ。

CIMG2347.jpg
=東雲寺

大声で念仏を唱えながら、数珠を上下に動かして隣りへまわします。
時々黒光りしたひときわ大きな数珠玉がやってきます。
その都度、隣りのおばあちゃんが、
「ほれ、来たよーっ! いいことあるよーっ!」
と送ってくれます。
私はそれを有難く受け取ると両手でささげて「ナンマイダー」

どの顔もニコニコ。とっても楽しそう。
心を一つにするって大事なんだ。

有東木のみなさんには、本当にいろんなことを教わりました。、

ホントにホントに、  

  すてきな夏をありがとう!

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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