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あのとき僕は10歳だった

戦争と力石
08 /16 2015
「戦争と静岡展」(静岡平和資料センター主催)の開催は5日間。
その全日程で体験者の語りがありました。

「語りの部屋」の入り口です。
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二日目の語りのトップバッターはこの方。
現在80歳
「満州開拓団」の一員として家族と共に、
9歳で中国へ渡った方です。

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「初めに結論を申し上げます。
満州開拓団は中国農民に対する最大の侵略者であった。
しかし、満州侵略の元凶は関東軍であり、
中国農民と満州開拓日本農民は、
関東軍の戦争政策の共通の犠牲者であった、これが結論です」

「日本政府は初めに、在郷軍人で結成された武装開拓団を送りだして、
中国住民を立ち退かせ、土地を強制的に取り上げたのです。
政府は100万戸移住計画を立てて、そこへどんどん送り出しました」

「私の一家は1944年に移住しました。
2町歩ほどの畑に主に大豆を作っていました。中国農民を一人与えられて…。
しかし、渡満した翌年、私が10歳のとき敗戦。
すぐにソ連軍の侵入中国人からの襲撃が始まりました」

「頼みの関東軍や行政官、経済人、都市住民は帰国のために逃げていき、
開拓村から本部役員や学校の先生、駐在さんらの姿が消えた。
開拓農民だけを置き去りにしたんだ。
ぼくらは敗戦を知らされていなかったんです。教えてくれたのは中国人だった。
その年の8月に父が腸チフスで死んで、
母はみんなで死ぬための青酸カリ入りのぶどう酒を用意した。
でも、とにかく逃げ切れるだけ逃げようと…」

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展示物・久保山栄一氏による「故国えの道 満州脱出の記録」より

「昼は山に隠れ夜歩くという逃避行が始まりました。
足手まといの赤ん坊を殺したり中国人に売ったりした親もいた。
僕らは、父の遺骨も衣服も中国人に奪われ下着一枚になって…。

その後、八路軍に救われて、撫順の収容所へ送られたんです。
でもそこで開拓団員の半数が飢餓と発疹チフスで死に、
母と兄も相次いで死んでしまいました」

「発病した姉の看護をしながら、石炭拾いで得たお金でなんとか生き延びて、
終戦2年後の11歳のとき、病み上がりの姉と二人で帰国いたしました」

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展示物「戦時下の子供たち」

会場いっぱいの人々が一様に、身を固くして聞いていました。
そんな時、小学生の女の子から質問が出ました。
「中国の子供と遊びましたか?」

話者のこの方の顔がふっとほころび、会場の空気が和らぎました。

「そう、子供同士はね、日本人も中国人も関係ないんだね」

「それでね、今から5年前、中国へ行ってきました。開拓団があったところへ。
向うの方に、
開拓団を知る当時の方々とお会いできないだろうかとお願いしたら、
対応しますとの返事をいただいて」

「責任を問われることを覚悟しつつ、3人の方とお会いしました。
その方たちは、日本の神のことや日本語を教えられたこと、
強制的に働かされたことなど話したあと、こうおっしゃったんです」

「子どもの頃は開拓団の子どもとよく遊んだ。
開拓団は日本の貧困な人たちだった。
私たちと同じ戦争の犠牲者です。
そういわれて、万感、胸に迫るものがありました」


「開拓団は日本国内で過剰人口といわれた貧民の移住だったんです。
その満州国を作ったのは、日本国の罪なんです。
日本の誰もが負わなかったその罪の償いを、
開拓団が一身に背負ったように私には思われます」

「そうそう。
病気の姉さんの顔に、ひと抱えもあるアカシアの緑の枝をつきだしたら、
姉さんはそれにワッと抱きついた」

この方は元国会議員です。
現在は日中の連帯こそ、不戦、友好の絆、底力だという信念の元、
日本が再び戦争を繰り返さないための活動をされています。

<つづく>
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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞