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すべてが戦争のためにあった時代

街角でひっそりと開催されていたミニ企画展「戦後70年」。
主催者は歴史家で歌人だった長倉智恵雄氏の娘さんでした。

来客に説明中の長倉さん(真ん中)。
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=静岡市浅間通り       がれりあ布半

静岡空襲で長倉さんの母は焼かれ、
おんぶしていた赤ん坊の妹さんは亡くなりました。
家も焼かれたため田舎へ疎開。

その疎開先で長倉さんはグラマン機に狙われます。
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ウルシ・ヒロ画

「はっきり見えたんですよ。操縦している人が…。夢中で逃げました」

今夏、私はできるだけ、先の大戦に関する展示を見て歩きました。
どの展示も戦争の悲惨さをあますところなく訴え、特に体験者の語りは
聞く者に衝撃を与え、二度と戦争はゴメンだという思いを植え付けました。
小中学校では「平和授業」をやり、その成果も会場に展示されていました。

中学校で取り組んだ「平和について学び考え表現する」作文
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=静岡市民ギャラリー

血染めの千人針と摘出された小銃弾
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=静岡市民ギャラリー

戦場でお腹を撃たれ、巻いていた千人針が血で染まった。
幸いにも弾を摘出して、この方は助かった。
生々しさが残るこの展示品を、小学生が一生懸命カメラに収めていた。

本当に子どもから大人まで、戦争はどんなに愚かな事か理解できたはずです。
ですが、私にはなんとなく不満が残りました。
その不満は何かを、この街角の小さな戦争展で気づかされました。
ここには被害と共に加害の事実も展示してあったからです。

長倉さんが指し示す先にあったのは、写真雑誌のグラビアです。
そこには数珠つなぎにされて日本軍に連行されていく
朝鮮人民衆の残酷な姿がありました。

そうだったんです。
今まで見た展示会の展示品のほとんどが、自分や自国への被害の実態で、
他国への加害行為を示すものはなかったのです。

こちらは7月に図書館で見つけた本です。
驚きの内容でした。初めて知りました
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「阿片帝国 日本」の著者、倉橋正直氏はいう。
「戦前の日本は世界一の麻薬生産国であった」
「阿片は戦略用に使われ、アジア諸国民に計り知れない害毒をもたらした」
 ※当ブログ2015.7.10参照。

展示の目的が静岡市に関するものに限るのであれば、
ヒトラー・ユーゲントのことも取り上げるべきではなかったかと私は思います。

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昭和13年8月、静岡県の青年団とヒトラー・ユーゲントの交流会。
=三原山

この年の5月、静岡県出身の団長と共に日本の青少年30人がドイツへ。
3か月滞在し、「ヒトラーへの忠誠心に感動して帰国」。
8月にはドイツからヒトラー・ユーゲント(ナチス青少年団)が来日。
帰国の時は東海道線の各駅で、
静岡の青年たちは「ドイツ国万歳」を叫んで彼らを盛大に見送りました。
 ※当ブログ2015.1.7参照。

ここで
日本の植民地時代を生き、32歳で自ら命を絶った韓国の詩人、
キム・ソウォル(金素月)氏の詩(1922年作)をご紹介します。

ツツジ  

私を見るのが嫌になって
(あなたが去って)行く時には
黙って優しく送ってあげよう

寧辺(ヨンピョン)の薬山
ツツジ
手一杯とって(あなたが去って)行く道にばらまこう

(あなたが去って)行かれる足元
そこに置かれたその花を
やさしく踏んで行ってください

私を見るのが嫌になって
(あなたが去って)行く時には
(私は)死んでも涙は流しません

                       (呉善花・訳)

「ワサビと唐辛子」の著者、オ・ソンファ(呉善花)さんは、こう説明しています。

「この詩は失われた祖国への(ハン)を歌ったものと言われている。
”去りゆく恋人”に仮託して”去りゆく祖国”への悲しみが恨として歌われている。
テーマは、国民を見放して日本の統治下へと去り行く祖国。
この詩は決して優しさの心情を現わしたものではない。
相手を許していないからこそ
あえて”黙って優しく送る”態度をとる。すさまじいばかりの恨。
だからこそ、死んでも涙は流しませんという表現になる」

「韓国人は恨をバネにして生きると言ってもいいだろう。
韓国では恨を溶かすという言い方がよくされるが、
これは将来の人生へ向けての願望として使われる言葉です。
恨を溶かすことで未来への希望がより強く湧いてくる。
この詩はそうした心の美学を歌ったものです」

終戦直後の日本の小学校です。
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ウルシ・ヒロ画

「校舎が焼けてしまいましたので、プールが教室になりました」と長倉さん。

何もかも失ってしまったけれど、子供たちの顔はとびきり明るい
韓国流にいうなら、
「恨を溶かして」未来への希望に向かい始めたということでしょうか。

終戦2年後にシベリアから帰還した長倉智恵雄氏は、
こんな歌も遺しています。

     慰安婦律子が裾をからげて渡り来し
             十里河の流れいまもきよきや


ミニ企画展「戦後70年」を見終えて出ようとしたとき、
長倉さんが一枚のチラシを差し出しながらポツンとおっしゃいました。

「私、この言葉が好きなんです。すごくいいと思います」

そのチラシです。
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「静岡の戦争」~静岡市の戦争資料展~
=静岡市文化財資料館

長倉さんが「すごくいい」と言ったチラシに書かれていた言葉です。

   
   「知っていますか? 
   すべてが戦争のためにあった時代を」





※参考文献・画像提供/「静岡県民衆の歴史を掘る」「戦争に協力した青年団」
               肥田正巳 静岡新聞社 1996
※参考文献/「阿片帝国 日本」倉橋正直 共栄書房 2008
        /「ワサビと唐辛子」呉善花 祥伝社 平成9年
         /長倉智恵雄歌集「多聞」「野の葡萄」
※画像提供/ウルシ・ヒロ
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街角の小さな戦争展

ちょっと寂しい商店街の交差点。その十字路の角にそれはありました。
ミニ企画展「戦後70年」

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=静岡市浅間通り         がれりあ布半

主催は「文化の小さな窓」
手作りの、しかし思いの濃厚な展示品がところ狭しと並べてあります。

入るとすぐこれが目に入りました。
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その下に憲法九条の条文が大きくはり出してあります。

年配の上品なご婦人が一人、来客に丁寧に説明をしています。
どうやらこの方が主催者らしい。
テーブルには戦時中の新聞、旧制静岡高校の生徒の遺稿集、
戦場からの便りなど貴重なものが置かれています。

旧制静岡高校の出身者には、
元首相の中曽根康弘氏、作家の故・吉行淳之介氏がいます。
エコノミストの竹内宏氏もここの出身。今は「次郎長翁を知る会」の最高顧問として、
故郷・清水でユニークな活動をされています。

展示品の夥しい雑誌や書籍は初めて見るものばかり。タダ者ではない気配です。

奥へ行くと、温かい色づかいの絵が何枚も飾られていました。

「静岡の空襲
長倉智恵雄  留守家族の記録  ウルシ・ヒロ画

「長倉智恵雄さん、この方のお名前、聞いたことがあります」
そう言ったら、ご婦人がにっこりして、「なんです。私、娘なんです」

長倉智恵雄氏は、「戦国大名 駿河今川氏の研究」の著作を持つ歴史家で、
古城研究者としても知られた方でした。そして著名な歌人でもありました。

「留守家族の記録」は、出征中の長倉さんの家族を描いた実話でした。

「逃げるなと蹴られる」
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「空襲で逃げようとした女性を警防団のおじさんが、
”逃げていくのか、お前は非国民だ”と言って蹴ったんです」

この絵を見て、アレは本当だったんだと思いました。
アレとは、コレのことなんです。
表紙に焼夷弾が描かれています。
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この小冊子は、私もちょっぴり関わっている静岡市主催の戦争資料展、
「静岡の戦争」(静岡市文化財資料館)に展示されているものなんです。
この展示会は今までお伝えしてきた「戦争と静岡展」とは別のものです。
ですが、資料提供など相互に関わりを持った企画展でもあります。

この「時局防空必携」は、
今の町内会にあたる「隣組」で住民に配った町内の決まりごとです。
資料館を訪れた私に、館長さんがおっしゃいました。

「なぜあんなにおおぜい焼け死んだのか、なぜ逃げなかったのか
ずっと不思議だったんですよ。でもこれを読んでわかったんです」

命よりまず消火。防火第一主義だったんです。
防空壕は単なる待避所だから、
火事になったら飛び出して消火にあたれ。逃げるなんてとんでもない、と」

こんなことも書かれていました。

弾にはめったにあたらない
爆弾・焼夷弾にあたって死傷する者は極めて少ない
「焼夷弾も心がけと準備次第で、容易に火災にならず消し止め得る」

どこかで聞いたようなセリフです。
そう、福島原発の核爆発で多量の放射性物質が日本中に拡散したとき、
確か政府や学者が似たようなことを言っていました。

直ちに健康に影響を及ぼさない」とか、
「放射能の影響はニコニコ笑っている人にはきません。
クヨクヨしている人にはきます」って。

「弾にはめったにあたらない」「ニコニコしている人にはきません」
素人の一般人が言ったんではありませんよ。
どちらも、人の上に立つ影響力の極めて強い人が言ったんです。
よくこんなふうに断言できるものですね。ひどいもんです。

焼夷弾や放射能より怖いのは、こうした「エライ人」の発言です。

「空襲で焼かれた母」
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「母も背中の赤ん坊、私の妹ですがひどいやけどで…。
母の両手から焼けた手の皮がズルズルとぶら下がっていました」

「母は体をひどく焼かれて、妹にお乳を飲ませることが出来なくなって…。
ヤギのお乳をもらってきて飲ませたんですが、妹は死んでしまいました」

父親の長倉氏は出征中。
終戦後はシベリア抑留。その2年後、ふいに家族の元へ帰ってきたそうです。

「栄養失調で顔がぶくぶくにむくんでいて、最初、誰だかわからなかったんです」

その長倉氏の短歌が残っています。

   幼子を死なせしことを詫びていう
            妻の双手も焼けただれたり




<もう一回つづく>

第五福竜丸

力石ブログが「戦争一色」になってしまいましたが、
今また妙な雰囲気になりつつあり、戦後70年の節目の年でもありましたので、
私なりに、ぜひともとりあげてみたかったのです。
「戦争」関係はあと一回で終了の予定です。

「戦争と静岡展」には3日間通いました。
静岡市旧庁舎1階の静岡市民ギャラリーを全室使用。
これは静岡大空襲に遭ったものの奇跡的に残った建物です。

駿府城跡地に建つ県庁から見た旧庁舎。左は新庁舎。
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 =昭和9年竣工。    国登録有形文化財

1階がギャラリー、2階以上は市議会会議場。
建物の特徴は、テラコッタを多用した外壁とドームです。 

この展示会は、
「静岡市の空襲」「戦時下の市民生活」「放射能」の3部からなり、
このほか、市民から寄せられた戦争に関する作品の創作広場
語りや国策紙芝居や演劇を上演するイベント広場で構成され、
子供から高齢者まで容易に理解できる内容になっていました。

現在世界で勃発している紛争や、
水爆実験の被害者・マーシャル諸島の人たちや原発事故にも言及していました。

今回は「放射能被害と人間」の展示室をご紹介していきます。
ここでは主に、昭和29年3月、太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁で、
アメリカが行った水爆実験によって被曝した焼津市の
「第五福竜丸」に関する展示がされていました。

私がよく訪れるブログ「緑と青の風に乗って」のブログ主のkappaさんは、
東京・夢の島にある「第五福竜丸展示館」によく足を運んでいますが、
私は被曝した船の故郷の隣りに住んでいながら、まだ一度も。

部屋の入口でゴジラがお出迎えです。
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第五福竜丸(30分の1)の模型です。大石又七氏製作。
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ビキニでの被曝船は、八百数十隻もあったそうです。
なぜ第五福竜丸だけが騒がれたんですか?」の質問に、
係りの方は、「焼津の人が強硬に抗議したから」と。
真偽はわかりませんが、他の船の方々はその後どうなったんでしょうか。

私が一番驚いたのは、この第五福竜丸は被曝後、
東京水産大学の練習船になっていたことです。
死の灰が積もった船ですが、本当に大丈夫だったんでしょうか。
10年後、廃船となり夢の島に捨てられますが、
保存運動のおかげで、被曝の証人として現在に至っているとのこと。

死の灰、ガイガーカウンター、検査用のマグロのウロコなど。
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すべて本物だそうです。こわごわ覗きました。

水爆実験の放射能汚染でマグロが売れなくなりました。
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魚検査済みのポスター。

福島原発事故後の放射能の食品汚染と重なります。
kappaさんの話では、汚染マグロは東京のどこかに埋められているとか。
なにしろ被曝船は八百数十隻だったそうですから、かなりの量です。

被曝して亡くなった無線長の久保山愛吉さん。
奥様と幼いお子さんたちを残して…。なんとも痛ましい。
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その後、乗組員の多くは、ガンなどを発症し次々と倒れていきました。

これにも驚きました。
当時の読売新聞の記事です。
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「邦人漁夫 ビキニ原爆実験に遭遇
「23名が原子病」
「死の灰つけ遊び回る」

主催者が付けた説明には、同船の乗組員の談話としてこうありました。

「漁から帰っても船の上での作業があり、
すぐに下船はできないから遊び回るなんてことはなかった。
邦人漁夫って、漁師に対する蔑視・偏見を感じます」

たとえ遊び回ったとしても、長い遠洋漁業から帰れば当然のこと。
でも彼らはあくまでも、アメリカの水爆実験の被害者です。
死の灰なんか好き好んでくっつけたわけではありませんよ。
それを「死の灰つけ遊び回る」だなんて…。

記者は、
水爆実験場にいた船のほうが悪い
とでも言いたかったのでしょうか。



<つづく>

パンプキン爆弾

今年1月、貴重な戦争遺跡が一つ消えました。
場所は静岡県島田市の大井川に突き出た牛尾山の、
その先端にあった「海軍技術研究所・牛尾実験場」です。

何を研究していたかというと、マグネトロンによる電磁波発射装置、
俗にいう殺人光線兵器=Z研究です。
特殊な光線を敵機に照射して、パイロットのみ殺してしまおうという装置です。

この研究のために物理、化学、電子、生物などの日本の最高頭脳がここに集結。

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後のノーベル賞受賞者、湯川秀樹氏や朝永振一郎氏の顔も見えます。
=庁舎玄関裏

高松宮(右)もここへ視察に訪れました。
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 =1945年4月20日

うさぎでは見事に成功したものの、実用に至らず終戦。
ここでの実験資料はのちにアメリカへ渡されたとも言われていますが、
今、家庭で使われている電子レンジは、
この「殺人光線」から生まれたものです。

日本の頭脳が集結したこの牛尾実験場は、
大井川の川幅拡張工事のため、今年1月、跡形もなく消滅しました。

私がこの実験場のことを知ったのは、
21年前、偶然目にしたある一冊の本からでした。
島田市にある島田学園高校の3人の教師と生徒たちが記録した
「明日までつづく物語」です。

本にあったのは、実験場のことだけではありませんでした。

こんな田舎のぼくたちの町に戦争があったこと。
そして、ここに落とされたのは、かぼちゃ型のパンプキン爆弾で、
50名もの町民が犠牲になったこと。

この爆弾は長崎に投下されたプルトニウム爆弾と同型の模擬爆弾で、
終戦間近の7月26日、米軍が原爆投下の訓練のために落としたことを知り、
教師も生徒も愕然となったという。

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爆心地の普門院で被災者の話を聞く高校生たち。
高校生による聞き取り調査は1989年から3年間続けられた。

大きな戦争の中の小さな出来事として人々から忘れられ、
ひっそりと暮らす被災者たちを探し出して、聞き取り調査を開始。
まだ体に爆弾の破片が刺さったままの被災者たちは、
一気に胸の内を吐きだし、口々に生徒たちにこう言った。
「今日中にはとても話し切れない。明日までかかっちゃうよ

その高校の生徒たちの演劇が、この夏、「戦争と静岡展」で上演されたのです。
高校の名称は島田樟誠高校と変わっていましたが、
劇は島田学園高校時代の卒業生が書いた「『聖戦』の果てに」でした。

上演前、執筆者のお一人で、
21年前に私の取材に応じてくださった土居先生にお会いしました。
先生は定年まで勤め上げ、お母様の最後を看取ったとのこと。
かつて生徒たちと手がけた「仕事」が、
今なおこうして続いていることが嬉しくてたまらない様子。

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召集令状がきて、一家の主が出征。  =島田樟誠高校・演劇部

椅子席の前に用意されたシートに座って、熱心に演劇を見る子供たち。
演じる側も見る側もみんな平成生まれです。
演じる内容は、70年も前の戦争のお話。思えば不思議な光景です。

父は戦地で行方不明に、母は島田に落とされたパンプキン爆弾で死亡。
孤児になった少年が役所へ助けを求めたものの、役人は冷たく言い放つ。
「君のような子供はたくさんいる。いちいち構ってはいられない

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出演者全員でフィナーレ。

終演後、司会者の「何かご感想を」の声に立ちあがったのは、
私の隣りにいた外国の方。4人連れのお一人です。
震えるようなか細い声で、耳の悪い私にはあまり聞き取れなかったものの、
高校生たちの顔がみるみる紅潮、彼らは女性の言葉に何度も頷いています。
この外国の方は、イスラム教徒の女性が被るヒジャブで髪を覆っていましたが、
その横顔にツーッとが流れるのが見えました。

涙をぬぐいながら話す女性を見て、高校生たちの顔がより真剣になりました。

私は日本の高校生が伝えた戦争と、
それをしっかり受け止めてくれたイスラム圏の女性の姿に感動し、
その涙の意味を噛みしめながら、会場を後にしました。


<つづく>


※画像提供/「明日までつづく物語」小屋正文・小林大治郎・土居和江
         平和文化 1992

私の「戦争体験」

私の「戦争体験」といっても、直接の体験があるわけではありません。
みんな母を通しての「二次的体験」です。
ですが、母の話から想像が膨らみ、私の脳裏にはより強く残されています。
そんな話を二つ三つ…。

B29が炎をあげながら落ちて行った。怖かったよオ」

このときのB29は村の上空を横切り、山の向うの町へ落ちた。
落ちたのは、アメリカ空軍爆撃機・ニックネーム「WERE  WOLFE]。
「B29のアメリカ兵を竹やりでみんな突き殺したんだよ」
母は見てきたようなことを言ったが、それは違う。

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アメリカ空軍「WERE WOLFE」の搭乗員たち

この機はサイパンから東京へ向かう途中、
富士山上空で鈴木正一伍長の戦闘機に撃墜され空中爆発
搭乗員11人のうち7人死亡。生存の4人は捕虜として東京へ送られたが、
その4人も病気や東京大空襲で死亡した。
墜落死した7人は地元の共同墓地に埋葬され、近年、子孫が墓参にきたという。

このB29墜落の話を母は何度も繰返した。
次第にそれが私自身の体験のようになっていき、私は高校生のころまで、
何度も、真っ赤に燃える戦闘機の夢にうなされて飛び起きた。

母はこんな話もした。
役場から茅を3把供出せよとの命令があった。でも町からきた母には鎌がない
茅を刈る山もない。周囲はみんな農家だったが、持ち山で刈らせてくれなかった。
仕方なく誰の山でもない遠くまで出かけたが、そういう山に茅はあまりない。
なんとか刈って背に担いだころには、日もとっぷり暮れて漆黒の闇

父は出征中で、家には子供しかいない。
みんなお腹をすかせているだろう、
幼い弟妹たちを預った8歳の長女は、さぞ困っているだろうと、
母は暗闇の中を懸命に走った。

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母の留守を守った小学2年生の長女と1年生の長男。昭和19年。

家の厚手の木の引き戸に、ピンポン玉ほどの穴が開いていた。
戦時中、村の男が小刀で開けた穴だと母が言った。
母はまだ20代。町から来た美しい女性だった。
夫のいない留守に手籠めにしようとして、鍵をはずすためにあけた穴だった。

「こちら側で震えながら、竹刀を握って身構えていたんだよ。
入ってきたら、叩き殺してでも子供を守らなくちゃって」

戦後数年立っても、村の学校は戦前が抜けなかったとみえて、
元日には学校へ集まり、君が代を歌い天皇陛下万歳を三唱した。
母は神主だった祖父の緋の衣をほどき、それを袴に仕立て直して私にはかせ、
元旦の祝賀へ送り出した。
「先生みたい」とみんながはやし立てたが、私は背をぴんと伸ばして立っていた。

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小学1年生の私。黄組。担任はもとこ先生。

上の赤丸の中の男の子は、私の初恋の人、とおるクン

7歳で恋に盲目になりました。
休み時間になると、とおるクンの椅子に二人で腰かけて過ごしました。
とにかく体を密着させていたかったんですね。
あるとき、視線を感じてふと見ると、もとこ先生と隣りの担任が私の方を見て、
なにやらヒソヒソ。
汚いものでも見るような、その視線のいやらしかったこと。
冷や水を浴びせられたような気持ちになりました。

「これは悪いことなんだ」
そう思った途端、恋心がスーッと消えました。
それからまもなく、
とおるクンは遠くへ引っ越していき、幼い恋は終わりました。

ですが、それ以来、人を好きになるたびに、
汚いものでも見るようなあのときの先生の目がブレーキになってしまい、
その後は謹厳実直、堅いばかりのトホホの人生とあいなりました。

代わりにを書くことを覚えました。
いつも枕元にノートと鉛筆を置いて寝てました。
そんな子供時代の私の詩です。


「かげ

わたしは道をあるいていた
たいようの光がわたしの背中にむかって
てっていた

前をみると
せいたかのっぽのように
わたしの足からかげがはえていた

ふもうとしてもなかなかふめない
かげはずんずんとぶ
わたしがとべばいっしょになって前をとぶ


戦後になっても上級生から、「赤い蟻はアメリカ兵だから殺せ」と言われたり、
物乞いの老夫婦が戸口に立ち、
盲目の妻が手にした竹で拍子をとりながら歌う「芸者ワルツ」を立ち聞きしたり…。
そんな戦後の風景の中にいた私です。

とおるクン今、どうしているんだろう。


<つづく>

泣くことができなくなる

「ぼくは国民学校の経験しかありません。
今のような普通の小学校は知らないんです」

本日の語り部はこの方。
「青葉城恋唄」のさとう宗幸さんに似た柔和なお顔で、静かに語ります。

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「レジュメを作ってくればよかったね。すみません」

「国民学校というのは、国策学校なんですね。
訓練ばかりの小学校。音楽の授業は敵の音なんかを聞き分ける訓練、
強い兵隊をつくる体育の授業とかね」

戦前の教科書
戦後、軍国主義を思わせる都合の悪い箇所は全部墨で塗りつぶされた。
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現在でも内部文書は、こんな風に黒く塗りつぶされて公表されますね。

「当時のぼくの家は、祖母と母、長男のぼくと弟1人、妹が2人、
それに東京から疎開していた従妹の7人。
父は戦争へ行っていました。内地でしたが…」

昭和20年の6月19日、空襲が一旦収まってやれやれと思っていたら、
母がなんか変だ、大きいのが来る、と。
母の予感通り、今度はものすごい空襲。
母は4歳の妹、祖母が一番下の妹をおんぶして逃げました」

「避難先の広場へ行くとすでに人でいっぱいでね、
一番安全な奥の方に偉い人たちがいました
母の背中で妹が、怖いよう怖いようと泣きだした。そしたら周りの大人たちが、
泣き声で敵に感ずかれるからお前らは出ていけ、と」

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 =静岡市に落ちた焼夷弾

「そのときあたりがパアーっと明るくなったんです。昼間のように。
照明弾が落ちたんです。
広場にいた人たちがてんでに川の方、山の方へ逃げた。
僕らは山へ逃げた。そこは僕の遊び場だったんでよく知っていた。
空から焼夷弾が降ってくる。南の方を見るともう火で真っ赤」

「で、ふと気が付いた。なんだか右腕がね、変なんだ。痛みは全然ないけど
血がね。神経やられたなって思って、前にいた母を呼んだんだ。
そしたら母の背中がやけに赤い。
妹の頭がぱっくり割れていたんだ。頭に直撃を受けたんだ」

「”怖いよう”といって周りから出ていけと言われたとき、
母は妹に、目をつぶると怖くないよって言って…。
妹は母の背中で目をつぶったまま死んだんです」

「母が家へ行ってふとんを持ってこいというので家へ帰った。
重い敷布団を抱えて戸口を見ると、もう炎が迫っていて。
ようやく持ってきた布団に死んだ妹を寝かせたんです。
弟はずっと泣きじゃくっていたけど、ぼくは泣かなかった

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展示作品。「蛍の光を頼りに」。栗原民子さんの作品。当時15歳。

「焼失した家を後に山の小屋へ。日もとっぷり暮れてあたりは真っ暗。
途方に暮れていた私たちの周りに無数の蛍が…。
母は10匹ほど手ぬぐいにいれ、それで足元を照らして歩いた」(栗原民子)

「4歳の妹が死んでもぼくは泣かなかった。
泣くことが出来なくなっていたんだ
冷たい人間じゃないかと自分を責めたけど、泣くことはできなかった」

「後年、母が亡くなった時も泣くことができなかった。
それが戦争なんだね。泣くことができなくなる」

「あのころは食べ物がなくてね。

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=「創作広場」の展示作品

「食べ物がないと、精神もね、病むようになる」

この日、会場に語り部さんの幼馴染の女性が来ていました。
空襲以来、70年ぶりだという。
「こんなことがあるんですね」と、司会者が感極まって女性を紹介。

立ち上がった女性と語り部さん、あっという間に幼い顔に戻りました。



<つづく>


※展示作品は静岡平和資料センター所蔵

地獄図

「首相は集団的自衛権も安保体制も、国民を守るためには強行もやむをえない
と息巻いていますが、国家は国民を守りはしないんです」

いきなりの政府批判。
いただいたレジュメには安倍ではなくアベ首相と片仮名で書かれています。

「あれは戦争法案です。憤りを抑えることができません

ここで語る方々は一様に安保法案を「戦争法案」と言う。
会場で聞く人たちもそれを違和感なく受け止めている。
「こういうところへ集まるのは、なんでも反対のサヨクばかりだから」
そういう声が聞こえてきそうですが、それは違う。

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 =展示作品。「遺された母」。津金国子さん撮影。

会場には腰の曲がったおばあさん、杖を突いたおじいさんが多い。
共通するのは、つらい戦争体験を持っていること。
だから質問の時間には質問ではなく、自分の体験談になってしまいます。

今普通の市井の方々が、こうして心に持ち続けた重荷を吐き出し始めたのは、
やっぱり日本が再びきな臭くなってきたせいで、
封印してきたそれぞれの過去をよみがえらせたのだと、私には感じました。

本日の語り部は、77歳
話すたびに唇が震え、目には涙がにじんでいます。

「1945年6月19日の夜でした。
B29の襲来です。ぼくは国民学校の2年生でした」

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 =当時14歳だった遠藤熊彦さんが描いた展示作品。 「B29跳梁」

「周りはあっと言う間に火の海。
近所の友達は安倍川へ逃げましたが、ぼくらは反対側へ逃げた。
川へ逃げた友達一家は全部死にました」

「川が燃えた」
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 =体験者が描いた展示作品。

自分はなぜ死ななかったんだろうってよく思います。
友達のように、あのとき死んでしまったら楽だったのではないかと…」

「家を焼かれたので、祖父の甥がいる引佐郡へ疎開しました」

  頭抵れ反物ゆづり芋十貫
            家族七人飢えをしのぎぬ

「大きな家でしたが祖父が亡くなると居ずらくなって、
山の中に掘っ建て小屋を作って移りました。
学校で弁当をあけると真っ白いごはんで、嬉しいなと思いつつよく見ると、
米はわずかであとはさいの目に切った大根ばかり。
恥かしい思いをさせない母の工夫だったのです」

「学校の代表として発表することになったものの、貧しくて服が買えなかった。
そのとき母が色のはげたズボンに絵の具を塗ってくれて…」

  絵の具にて剥げしズボンを繕ひし
            母を誇りに演壇に立つ  
  

「そのうち父が亡くなりました。
女親だけになると、世間の目が冷たくなってきて…。
でも母は愚痴もこぼさず、独りで百人一首を詠み続けていたんです」

  父逝きていよよ淋しきおらが春
            母朗々と百人一首(カルタ)詠みおり

「我が家のあまりの貧しさを見るに見かねて、
里子の話を持ってきた人がいました。
ぼくはごはんを腹いっぱい食べたかったので、里子に行きたいと言ったんです。
そしたら母が怖い顔して、
どんなことがあっても子供は手放さない、と」

「田舎には11年いました。
周囲の人情に助けられて、なんとか人間的成長を遂げることができました」

「広島・長崎の原爆、沖縄戦に比せば、私の体験などものの数ではないでしょう。
でもたとえささやかなことであっても、
黙っていれば辛酸の事実はなかったことにされてしまう。
老いたからと言って、この体験を帳消しにすることはできません」

小長谷澄子さん(当時21歳)が描いた「伯父一家の死」
CIMG2337.jpg
=母と子ども達は防火用水で、伯父は路上で。
黒焦げになった伯父のお腹の上には、飛び出した腸がとぐろを巻いていた=

「今もって、空襲の地獄図は目に焼き付いて離れません」



<つづく>


※短歌は「母を恋ふる歌」(望月秋男)より引用
※体験者が描いた展示作品は静岡平和資料センター所蔵

「戦争は人災なり」

「午後の語りが始まりますよ~

係りの方が声掛けをしながら廊下を歩いています。
その声を聞いた途端、
展示場にいた子供たちが、ワッと語りの部屋へなだれ込んできました。
今度の方は子供にずいぶん人気があるらしい。

語り部さんは机上になにやら小道具をいっぱい並べてすでに待機。
柔和な顔で子供たちを迎えます。

現在81歳
子供時代を戦争の中で過ごされた方です。

「戦争中、僕らはこんな遊びをしていたんだ」
そう言って、次々と袋から遊び道具を取り出す。
メンコ、ビー玉。そのたびに子供たちの目が語り部さんの手に集中する。

CIMG2307.jpg

これは人が陥りやすい「錯覚」を、筒状に丸めた紙で実験しているところ。

「両目を開けたまま筒を覗いてごらん。手の一部が欠けて見えるだろう?
でも目を離すと欠けていない。これが錯覚。
人は錯覚しやすいんだ。物事はしっかり見て、騙されないようにね」

「コマはこうしてひもをかけて…」
子供たちがいっせいに身を乗り出す。
語り部さんにとって、ひ孫ぐらいの子供たちです。

CIMG2309.jpg

「やってごらん」「あー、ダメだー」
CIMG2308.jpg

語り部の名は、池ヶ谷春雄氏。
なんとなく聞き覚えがある。帰宅してからめぼしい本を開くとありました。

名誉栄達を望まず、子供たちと生きることを幸せとするヒラ教員たちの記録」
img771.jpg
 =編著者・西沢紀生 昭和54年 太郎次郎社

本の紹介にこうありました。
センセイになるべくして生まれた人
子供を痛めつけるものとの妥協のない闘いをする人」

これは、私が東京からここ静岡へ転居して初めて手にした本です。
そして、奇しくもこの本の表紙を描いた丹羽勝次氏とは、
20数年後に新聞の取材でお会いし、現在までお付き合いいただいています。

丹羽勝次氏は、静岡市の美術グループ「幻触」の中心的メンバーだった方で、
美術評論家の石子順造氏と親交がありました。
84歳になられる現在もその創作意欲は衰えることなく、
県内美術館を始め、東京銀座などで個展を開いています。
今は主に、オブジェなどを置いて空間全体を作品として観客に体験させる
インスタレーション、箱や道シリーズなどを手掛けています。

展示室で係りの方の説明を聞いていた私の所へ、
「元気な声が聞こえると思ったら…」と言いいつつ、丹羽先生がひょっこり。
思わぬところでの再会です。

創作広場で丹羽夫人とも再会。
CIMG2287.jpg
 =蒲原母親クラブによる布紙芝居「戦争時代 蒲原で起きたこと」

さて、語りの部屋では、池ヶ谷氏のお話が続いています。
子供たちは熱心にメモをとっています。

「ぼくはね、君たちを戦争へ行かせたくないんだ。死なせたくないんだ。
空から爆弾が落ちてくるような体験をさせたくないんだ

日焼けした子供の顔がギュッと引き締まります。
最後に池ヶ谷氏自作の簡単な歌、
「戦争はやめよう」「楽しく生きよう」をみんなで歌って散会しました。

池ヶ谷氏の反戦歌・百首(抄)
「今ぞ平和を!」(2004)から、2首ご紹介します。


  子に孫に銃は持たせじ 
         イラクへの派兵反対デモに出ていく


  「戦争は人災なり」とひめゆりの
              壕の語り部訥々と説く





<つづく>

あのとき僕は10歳だった

「戦争と静岡展」(静岡平和資料センター主催)の開催は5日間。
その全日程で体験者の語りがありました。

「語りの部屋」の入り口です。
CIMG2292.jpg

二日目の語りのトップバッターはこの方。
現在80歳
「満州開拓団」の一員として家族と共に、9歳で中国へ渡った方です。

CIMG2300.jpg

「初めに結論を申し上げます。
満州開拓団は中国農民に対する最大の侵略者であった。
しかし、満州侵略の元凶は関東軍であり、中国農民と満州開拓日本農民は、
関東軍の戦争政策の共通の犠牲者であった、これが結論です」

「日本政府は初めに、在郷軍人で結成された武装開拓団を送りだして、
中国住民を立ち退かせ、土地を強制的に取り上げたのです。
政府は100万戸移住計画を立てて、そこへどんどん送り出しました」

「私の一家は1944年に移住しました。
2町歩ほどの畑に主に大豆を作っていました。中国農民を一人与えられて…。
しかし、渡満した翌年、私が10歳のとき敗戦。
すぐにソ連軍の侵入中国人からの襲撃が始まりました」

「頼みの関東軍や行政官、経済人、都市住民は帰国のために逃げていき、
開拓村から本部役員や学校の先生、駐在さんらの姿が消えた。
開拓農民だけを置き去りにしたんだ
ぼくらは敗戦を知らされていなかったんです。教えてくれたのは中国人だった。
その年の8月に父が腸チフスで死んで、
母はみんなで死ぬための青酸カリ入りのぶどう酒を用意した。
でも、とにかく逃げ切れるだけ逃げようと…」

CIMG2305.jpg
展示物・久保山栄一氏による「故国えの道 満州脱出の記録」より

「昼は山に隠れ夜歩くという逃避行が始まりました。
足手まといの赤ん坊を殺したり中国人に売ったりした親もいた。
僕らは、父の遺骨も衣服も中国人に奪われ下着一枚になって…。
その後、八路軍に救われて、撫順の収容所へ送られたんです。
でもそこで開拓団員の半数が飢餓と発疹チフスで死に、
母と兄も相次いで死んでしまいました」

「発病した姉の看護をしながら、石炭拾いで得たお金でなんとか生き延びて、
終戦2年後の11歳のとき、病み上がりの姉と二人で帰国いたしました」

CIMG2304.jpg
展示物「戦時下の子供たち」

会場いっぱいの人々が一様に、身を固くして聞いていました。
そんな時、小学生の女の子から質問が出ました。
「中国の子供と遊びましたか?」

話者のこの方の顔がふっとほころび、会場の空気が和らぎました。

「そう、子供同士はね、日本人も中国人も関係ないんだね」

「それでね、今から5年前、中国へ行ってきました。開拓団があったところへ。
向うの方に、開拓団を知る当時の方々とお会いできないだろうかとお願いしたら、
対応しますとの返事をいただいて」

「責任を問われることを覚悟しつつ、3人の方とお会いしました。
その方たちは、日本の神のことや日本語を教えられたこと、
強制的に働かされたことなど話したあと、こうおっしゃったんです」

「子どもの頃は開拓団の子どもとよく遊んだ。
開拓団は日本の貧困な人たちだった。
私たちと同じ戦争の犠牲者です。
そういわれて、万感、胸に迫るものがありました」

「開拓団は日本国内で過剰人口といわれた貧民の移住だったんです。
その満州国を作ったのは、日本国の罪なんです。
日本の誰もが負わなかったその罪の償いを、
開拓団が一身に背負ったように私には思われます」

「そうそう。
病気の姉さんの顔に、ひと抱えもあるアカシアの緑の枝をつきだしたら、
姉さんはそれにワッと抱きついた」

この方は元国会議員です。
現在は日中の連帯こそ、不戦、友好の絆、底力だという信念の元、
日本が再び戦争を繰り返さないための活動をされています。



<つづく>


コイツ、まだ温ったかいぞ

卯之助をちょっとお休みします。
今年は戦後70年の年。そんなお話を少し書いてみたいと思います。

国会で安保法案が議論されています。
強い政権の前では、それに逆らったり平和や憲法九条の話をしてはいけない、
そんな雰囲気がどことなく漂っているのをずっと感じていました。

でも敗戦の日が近づくにつれ、小さな画廊やホール、市の施設などで、
戦争を振り返る展示や体験者の語り、朗読会などが開かれ始めました。

img769.jpg
 =静岡市民ギャラリーにて

静岡平和資料センター主催・静岡市教育委員会共催の、
「戦争と静岡」展へ行ってきました。
まずは体験者のお話をお聞きください。

現在91歳。20歳で入隊。
翌年終戦を知らされないままソ連軍の捕虜になり、シベリアへ。
img768.jpg

捕虜収容所では、寒さと重労働と飢えのために毎日人が死んだ。
仲間が遺体を埋めた。その作業をしていた人が翌日には埋められる側になった。

「シベリア抑留は64万人。それは故国から見放された棄民同然。
体力のない年配者はみんな死にました」

「戦争はね、殺し合いです。
僕らは爆弾を持たされて、そのまま敵の戦車に体当たりしろと言われた。
特攻隊と同じ、肉弾です」

中東の若者の自爆テロを批難できませんよね。
彼らは志願して行うけれど、70年前の日本兵はお国の命令でやらされた。

「かつてイラク派遣隊が決定したとき、
母親の一人が、息子はきっと無事に帰ってくると信じている、と言いました。
このひと言に私の遠い過去がよみがえりました。
行き先を告げられずに軍用列車に乗り込んだ初年兵の頃。
大尉殿が言った。生還は期せず立派に奉公せよ、と」

「でも僕は生き残った。僕がこの事実の認識を広めるのは、
生還した者の使命ではないかと思うからであります」

こちらは、
22歳でインパール作戦に参加。4年間、ジャングルを彷徨った92歳の方。
CIMG2298 (2)

「野戦病院では歩ける者は病院から退去させ、
歩けない者は自決または病院側によって命を絶たれた。
戦傷病者になれば死ぬしかなかった」

「武器も持たされず、わずかな食糧だけで戦場へ送り出されました。
すぐに食べるものが尽き、みんな空腹に耐えかねて倒れている仲間を…。
コイツ、まだ温ったかいぞって。地獄でした」

「飯盒は誰もが死ぬまで持って歩いた」
CIMG2299.jpg
この方が戦後70年間持ち続けてきた当時の飯盒、水筒、かばん。

「友軍の骸がビルマ平原まで続く白骨街道といわれたところを、
杖にもたれ、片手に空の飯盒を持って歩いた、
これが日本軍の最後の姿でした」

「川があったので水を飲んだら妙な味がした。
上流へ行ったら死んだ友軍が水に漬かって並んでいました」

CIMG2301.jpg
展示物の「米軍が記録したガダルカナルの戦い」(草思社)より

米兵に撃たれた日本兵。
全裸で骨と皮だけになっていた。足の片方だけに軍靴をはいています。
これを撮影した米軍の説明にはこうあります。
「栄養失調になった遺体は涙を誘う」

「戦争へ行きたくないなんて自己中心的だ」といった議員さんには、
ぜひこの写真を直視していただきたい。

ジャングルを彷徨っていた92歳のこの方が言いました。

「仲間だと思って近づいてみると、軍服を着た白骨でした。
真っ白な人がいると思ったら、全身ウジ
真っ黒い人がいると思ったら、全身ハエ
空から禿鷹が襲ってくるんだ」

主催者から「時間が来ました」と告げられて、残念そうな顔。
「またの機会に」「どうぞお元気で」
そういう主催者の言葉のなんと虚しいことか。

もっともっとお話しをさせてあげたかった。
心の中の重いかたまりを、もう何も残らないくらい吐き出していただく、
それを根気よく聞くのが今の私たちの義務ではないのかと思いました。

最後に声を振り絞るようにおっしゃいました。
「戦争は嫌だ」

会場に展示されていた安倍総理を批判した女性週刊誌です。
CIMG2303.jpg

昨日までに5人の体験者のお話をお聞きしました。
驚いたことはその内容だけではありません。どの方もこうおっしゃったんです。

「安倍総理はとんでもないことをする」

保守王国静岡のド真ん中で、公然と安倍政権批判をするなんて、
今までは考えられなかったことです。

あれは戦争法案だよ。あんなもの絶対ダメだ」
パソコン生活とは無縁のご高齢の方々が、怒りをこめて発したこの言葉、

連日会場につめかけているマスコミの方々に言いたい

こうした発言を消すことなく、
きちんとテレビ視聴者や新聞の読者に伝えてください



<つづく>

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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