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夏だ、花火だ、盆踊りだ!

民俗行事
08 /11 2015
暑中お見舞い申し上げます。

とはいうものの、私自身がバテバテです。
暑いですね! 
いつもの夏と違いますね。朝から霞。それでいて重苦しい暑さ。
入道雲も雷さまもまだお出ましではないし、変な夏。

で、すっかり出不精になって、花火も自宅のベランダから見ています。
なにしろ昔、徳川家康の居城だった駿府城
その跡地に建つはるかかなたの県庁から日本平まで見渡せるので、
市内あちこちの花火は居ながらにして見物できます。

ではありません。
撮影が下手でこんな感じになっちゃいました。
でも気に入ってます。こんな花火の写真も面白い。
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こちらの花火は、胞子になったタンポポもどき。
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すっかり引きこもりの私、でもやっと夕べから動き出しました。
恒例の国指定・重要無形民俗文化財の
「有東木(うとうぎ)の盆踊り」が始まったのです。
昨日は練習日でしたが、本番はこんな感じ。

img138 - コピー (2) CIMG0166.jpg

たまに浴衣を替えます。
夕べはテレビ局がきました。本番にも来るとのこと。
地元の方は慣れていて平気そうだったけど、私は緊張しました。

今年は送り盆の百万遍にも参加させていただけるとのこと。
本堂に車座になってお経を唱えながら、大きな数珠を順々に回す行事です。

ナンマイダーブツ、ナンマイダー

もう静岡市内には2か所しか残っていない宗教行事です。

約70戸の有東木集落。
盆踊りも後継者不足で存続が心配なんだそうです。

以前保存会の方からいただいたお手紙に、
「いずれは消えていく盆踊りだと覚悟しています。
けれど力の続く限り、これを盛り立て継承していく所存です」
とありました。

胸がつまりました。

一緒に来た小学生の女の子、弟たちは男踊りの輪に入って楽しんでいましたが、
彼女は頑なに拒み、異様なものを見るような顔で盆踊りを見つめていました。

そうですよねえ。
今は、ソーラン踊りとか静岡で言えば港かっぽれが定番で、
老若男女、くノ一もどきの出で立ちやら、新門辰五郎もびっくりというような、
ひと昔前の侠客が着た丹前みたいな長着をゾロッと羽織り、
一糸乱れぬ隊列を組み、早いテンポで踊りまくる。

それにひきかえ、
伝統の盆踊りは伴奏は太鼓だけという素朴さ。
唄い手さんは独特の節で、マイクも使わず朗々と唄い上げる。
けれど、「〽昔、平の清盛さまは~」なんて聞かされても、
平成生まれの彼女にはねえ。

昔はこれこそが流行の先端をいっていた盆踊りだったと思います。
都の風流を取り入れ、時の権力者をおちょくり、何食わぬ顔で踊りまくる。
それが地元独自の風流や文化になっていき、
変化させることなく守り抜いて伝統芸能になった。
伝統を守り後世に伝えていくのか、それとも変化してこそ盆踊りなのか、
それは永遠の問題じゃないのかなあなんて思うんです。

でも夕べの女の子、
どんなカタチであれ、この盆踊りは女の子の脳裏に深く刻まれたはずで、
無意識の中にあっても、
彼女の人生を彩る要素の一つになると私は信じています。

そしてもう一ついえることは、これは単なる盆踊りではないということです。
この地区を知る、当時の日本を知る歴史そのものだということです。
何度でも言います。
「義元や家康だけが歴史の登場人物ではない。
名もなき庶民の歴史にこそ、生の真実が隠されている」

それは力石にもいえることです。

東雲寺境内にて=静岡市葵区有東木
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「受け継がれてきたしずおかの民俗文化」
=静岡市無形民俗文化財保存団体連絡協議会=より「有東木の盆踊り」

ご先祖の御霊を乗せた灯ろうを中心に踊ります。
男踊りと女踊りがあり、こちらは女性だけで踊る女踊り

夕べは集落の若いお母さんたちが総出で、
唄に、太鼓に、踊りにと張り切っておられました。
町の衆の私たちを歓迎してくれて、丁寧に踊りの指導。

休憩には、
冷たいお茶に山盛りのスイカや梨、ブドウ、菓子の振る舞い。
幸せな一晩をすごさせてもらいました。
が、
日頃の運動不足がたたって、足腰ガクガクで帰宅とあいなりました。

余談ですが、
このお寺には平安時代の作といわれる大日如来像があります。
夕べ地元の方がこんなことを…。
「ここでは昔はありがとうのことをおおきにって言ってたんだ」

静岡市中心部から車で1時間。山を越えれば山梨県。
標高約600㍍の山上にポツンと開けた小さな集落です。
盆踊りにはなぎなたを持つ踊りもあり、歌詞も優雅。

村人のみなさんも大日如来さまも、
「いったいぜんたい、ここへはハア、どっからきたズラなあ」

「卯之助石」の熱きかな

三ノ宮卯之助
08 /06 2015
郷土の力持ち・三ノ宮卯之助を追いかけて大阪までやって来た高崎力氏は、
大阪天満宮で卯之助の大磐石と対面。
そこからさらに兵庫県姫路市へと向かいます。
魚吹(うすき)八幡神社にある卯之助石に会うためです。

図会に描かれた網干・宇須幾津(うすきつ)八幡宮=魚吹八幡神社
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「播磨名所巡覧図会」より   

ここにある卯之助石は、古くから知られていたそうですが、
学会への報告は、昭和48年、神戸商船大学の岸井守一教授の
「四国地方(瀬戸内海沿岸)の力石の研究」によってなされました。

高崎氏は神社宮司さんと網干史談会の方々から、こんな話を聞きます。

「昔の網干町は揖保川の河口の港町で、内陸部の農林産物、
瀬戸内海の海産物や塩の集散地として栄え、大阪への船便があった」
「大阪・天満宮で卯之助一座の力持ちを見た網干の船頭たちが、
ここへ招待したのではないか。往復とも船便を使用したものと思う」


魚吹八幡神社です
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お目当ての卯之助のモニュメントがみえます。=姫路市網干(あぼし)区

近づいてみると、こんな感じ。感激のご対面!
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社務所再建記念として、平成18年に建立

3年前の夏、私は卯之助に会いにここへきました。
ここへは高崎氏もS氏も高島先生も来たんだと思ったら感無量…。
しかし感激もつかの間、とにかく暑い!
強烈な日差しを浴びて卯之助は一層逞しく見えましたが、
私は青菜に塩状態。

卯之助の石はこれです。
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左の石=75×40×29㎝ 155Kg(実測)

「垣内 佐一郎持 新宮夘吉持 江戸力者三ノ宮卯之助 曲持
浜田 祐三郎持 津市場村 津田新七」

右の石=46×28×29㎝ 110Kg(実測)

「卯之助指之」

「江戸力者(りきしゃ)」という刻字から、
卯之助の名声は、遠く姫路にまで聞こえていたことがわかります。
その偉大な力持ちと同じ石を、地元の豪の者4名が担いでいます。
近隣の村人や着飾った娘たちで、当時の境内は華やかに賑わったことでしょう。

台座に引札が刻まれていました。
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石に刻まれていた「曲持」は足に石を載せる技のこと。
この「曲持」銘の入った力石は、ここの石が全国唯一のものです。
卯之助の得意技はこの足の曲持ですが、
石のほかに小舟に牛や馬を載せて足で差し、評判を取ります。
卯之助は小柄ながら筋骨隆々だったそうですが、
それにしてもすごい怪力です。

高崎氏によると、
重いものをさす場合、それを足に載せる介添えを必要とし、
腰下に布団を当てたとのことです。

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ここでちょっと力石の興行の様子を記してみます。

力持ちは、3尺(90㎝)ほど高く盛り土をしたところで行います。
最初は前芸で、酒樽や米俵、石をあげます。
次に中芸
演技はお腹の上に米を7、8俵載せる腹やぐらや、
お腹の上で餅をつく腹受けなど。

最後に真打ちの登場です。
真打ちの多くは足の曲持ちを行います。
卯之助はもちろん真打ちです。

こちらは現在の卯之助像です。
魚吹八幡9

3年前、私が訪れたときには5個だった石が、
一つ増えて6個になっています。
こんなふうにきちんと保存がなされると、どこからともなく石がやって参ります。
個人のお宅で持て余していたか、はたまた路傍に捨て置かれていたか、
いずれにしても安住の地を得て、まずはよかった!

さて、卯之助研究者の高崎氏、再びここで卯之助の足跡を見失います。
魚吹八幡神社での興行は、天保11年(1840)。
このとき卯之助34歳
記録上に再び卯之助が現れるのは、それから7年後の嘉永元年です。

高崎氏は「全国巡業に明け暮れていた」と推測していますが、
卯之助石は魚吹八幡神社以西からは一つも発見されてはおりません。

現れたかと思えばまた消える、
そのたびに卯之助研究者はやきもきさせられますが、
そんなところがまた卯之助の魅力なのかもしれません。

炎天の「卯之助石」の熱きかな  高島愼助

<つづく>

ーーー追記
高島先生からいただきました。

魚吹八幡神社の力石は、
現在の形に保存される以前は国旗掲揚台の下に放置されていて、
そのときすでに6個、確認されていたそうです。
平成18年の保存処置の折、欠損して形の良くない6個目はそのまま放置。
しかしのちに改めて、卯之助の足元に置かれたとのことです。

元の仲間のところに戻れて本当に良かった。
関係者の皆さま、ありがとう!


※参考文献/「三ノ宮卯之助の力石(2)」高島愼助・高崎力 
      四日市大学論集 第17巻1号 2004
     /「見世物研究」朝倉無声 昭和3年
     /「江戸力持力士 三ノ宮卯之助」伊東明 
      上智大学紀要37巻3号 1988
     /「力石を詠む(四)」高島愼助・山口友子 岩田書院 2010
※画像提供/「日本名所風俗図会」より「播磨名所巡覧図会 巻之四」
      角川書店 昭和56年

アンポ反対、えー、アンパン!

世間ばなし①
08 /01 2015
力持ちを一回お休みして、お盆を前に兄を偲んで…。

兄が逝って3度目の夏がきた。
ふと、電話をかけたくなる。
一年に及んだ入院中、一度も病室を訪れなかった不肖の妹。
それがいつも心に引っかかり…。

兄さんは夜になると電話をかけてきて、いつもこう言った。
「元気か? 困ったことがあったらすぐ言うんだぞ」


病気の足を切断した兄さんが病室から出られるのは、
この世を旅立つときなのだと兄さん自身が知っていたはず。
この期に及んでまで、兄貴としての威厳と優しさを見せる兄さんに、
私は「ありがとう。そうするよ」と返しつつ、
ウザったいんだよ、なんて突き放すような気持ちになって…。

「世話になったな。元気でな」
留守電にそんなメッセージを残した翌朝、兄さんは一人で旅立ってしまった。


今年も灯ろう流しに行ってきた。
流れる灯ろうを追っているとき、いろんなことが走馬灯のごとく駆け巡った。


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兄弟の中でただ一人、兄さんだけが分厚いメガネをかけていたのは、
ワンパク小僧だった小学生の頃、
石垣の上の桜の木からまっさかさまに落ちて額を打った時の後遺症だと、
母が言っていた。
出血多量でもう助からないと医者から宣告されたが、母はあきらめなかった。
その母の懸命な看護で一命を取り留めたものの目をやられて弱視になり、
あとあとまで、大量の鼻血を出し続けた。


高校生の兄が青ざめた顔で帰るなり、
洗面器へドロドロと血を吐き出していたのを、私は今でも鮮明に覚えている。

そして大学生になった兄さんが、
帰郷するなり話してくれたのは、こんな話だった。


「国会周辺は安保反対の学生で凄かったんだ。
でもな、抜け目のないやつがいてさ、そんな中でアンパン売ってるんだぜ。

アンポ反対、えー、アンパンってさ。ハハハ」

私はとっさに、それは兄さんではないのかと思った。

兄さんが東京の大学へ行きたいと父に懇願したとき、
父は「長男は家に残れ」と許さなかった。
兄さんはその苦悩を誰にもいえず日記に綴り、それを私はこっそり読んだ。

母の説得で父が折れたが、その父の示した条件は、
「入学金だけ出す。あとは自分で稼げ」だった。


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母に抱かれた赤ん坊の兄さん。
兄さんは母の死の2か月後、その母を追うように亡くなった。

あの東京で、
田舎出の右も左も不案内な18歳に、学費も生活費も稼げという。
多額の学費に下宿代、食費、本代、洋服・日用品代。
母が用意した学生服も学帽も即質屋へ持って行ったようだと、母から聞いた。

なんとか4年で卒業して帰郷した折、ビニールの風船みたいなものを持ってきた。
ふくらませると真っ赤な八本足のタコになった。
兄はちょっぴり恥ずかしそうに、こう言った。


「ゼミの先生がくれたんだ。
君は実によく働いた。授業には全く出ないで仕事ばかりしていた。
手が八本あっても足りないくらい、あれもこれもと休みなく実によく働いた。
口八丁に手八丁、これからもその調子で世の中を乗り切って行きたまえ。
そういってこれをプレゼントしてくれたんだよ」


 「アンポ反対、えー、アンパン!」

やっぱりあれは兄さんだったんだよ。
国会議事堂を取り巻くデモ隊にもまれながら、
懸命にアンパンを売る兄さんの姿が浮かんできて、私はそっと泣いた。
兄さんは父に背いてそのまま東京の人になり、
しばらくして、小さな会社を立ち上げた。


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兄と私と愛犬まる

兄さんのお葬式の日、
昔からの知人だという人が私に言った。
「学生時代の彼は、家庭教師から肥え桶かつぎまで、
やらない仕事がないくらいよく働いた」


もう一人、ご夫妻で参列されたご婦人が声をかけてきた。
「あなたが妹さんですか」
驚いたことに、50数年前の学生時代、兄が下宿していた家の娘さんだという。
「幼い私の相手をよくしてくれて、可愛がってもらいました。
あなたのことはいつも話していましたよ」

兄さんが入った大学の名前が、ひょんなところに出てきた。
「NHKと政治権力」という本の中に。


この本はNHKの元ディレクターが書いたもので、
2001年、NHK教育テレビ「ETV2001」シリーズ「戦争をどう裁くか」の
第2回「問われる戦時性暴力」、つまり慰安婦問題の内容が、
国会議員らの圧力によって放送前に改変された、
その経緯を当事者本人が綴ったものだった。

圧力をかけてきた国会議員として、
故・中川昭一氏や安倍晋三現総理、日本会議などの名前も出ていた。

2009年、著者の永田浩三氏は32年勤めたNHKを去り、
教員として武蔵大学に迎えられた。
肥桶かつぎの兄さんに、八本足のタコをくれたあの大学です。

その武蔵大学の教員になった永田浩三氏が、公開シンポジウムのテーマに
この番組改変事件を取り上げたことで、NHKから抗議がきた。
そのときの学長・平林和幸氏はこう言ったという。


「大学というところは真実を追求するところです。
何が起きたかをみんなで、公開の場で考えることは何も間違ってなどいません。
一時期、武蔵大学とNHKとのあいだに緊張が生まれるかもしれません。
しかしそのことも含め、武蔵大学の名誉でこそあれ、恥じることはありません」


兄さんは素敵な大学を出たんだね。
そんな兄さんを遅ればせながら、私は誇りに思った。

 
夏になると兄さんは毎日、私たち弟妹や近所の子供たちを、
川へ水浴びに連れて行ってくれた。


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前列左が私、私の肩に手をかけているのが兄さん。
兄さんの隣りは昨年カナダで亡くなった次女の姉、その前は次男の兄。

長男の兄さんだけが黒いふんどしで、あとはみんなズロース。
こんな時代もあったんだね。

兄がまだ歩けたころ、私たちは駅でよく待ち合わせた。
人々が改札口へなだれ込み、そのざわめきがパタリと止んだころ、
誰もいなくなった階段をゆっくりゆっくり降りてくるのが兄で…。

今でも新幹線の改札口に立つと、兄さんがふと現れて、
あの階段を降りてくるような、そんな気がして…。


アンポ反対、えー、アンパン!

兄が逝ってしまった三年目の夏、
兄さんは見ているだろうか、今の日本を…。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞