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いよいよ全国巡業へ

十一代将軍家斉の前で力持ちを成功させた卯之助、
その3年後には、
江戸力持・西の関脇に昇進し、待望の三役入りを果たします。
このとき卯之助29歳

ご上覧の名誉と関脇の地位を得た卯之助が次に目標としたのが、
尊敬する先輩力士、土橋久太郎や万屋金蔵と同じ全国巡業

江戸力持ちの東の大関土橋久太郎と西の大関万屋金蔵が、
それぞれ一座を組んで上方(関西)へ旅立ったのが文政8年(1825)のこと。
当時は上方から江戸へやってくる者はあっても、
江戸から上方へ出かける力持ちはほとんどいなかったため、
現地では大歓迎を受けます。

その時の「難波新地における江戸力持」の興行引札です。
img636 (2)
高島愼助四日市大学教授蔵

実は
ここでの力持ちを描いた浮世絵師歌川国広木版墨摺が残されていますが、
所蔵の日本芸術文化振興会さんから、
「使用許可は原則団体で、調査研究の出版物等への掲載目的に限る。
個人の場合は学術論文への掲載のみ」とのことで使用を断られてしまいました。
みなさんにお見せできなくて残念です。

国広の絵では、
土橋久太郎が百五十貫目の石を左の絵の様に差しています。
「石の曲もち」と書かれていますので、
石を体のどの部分にも触れさせずに一気に持ち上げたのかもしれません。

img295 (2) img732.jpg

一座の一人、木村与五郎は「邯鄲(かんたん)夢の枕」を演じています。
これは中国・唐の小説「枕中記」に出てくる故事で、夢がかなう枕という意味です。
これを力持ちが演じると、
横臥の姿勢をとり空中浮遊するという右の絵のようになります。

大阪の難波新地での久太郎組は、人気を博し、
「互ひの力腰と手に、抜かりは見えぬ五大力
さはさりながら弱る色なき御風情、褒めてやろぞへ當ろぞへ
遊里で唄われたほどだったとか。

上方からのそんな評判を卯之助は耳にして、
「自分もいつかはきっと」と思ったことでしょう。
そしてその夢を早々に実現させたのです。

卯之助研究者の高崎力氏もまた、そんな卯之助を追う旅を始めます。
高崎氏は、卯之助は久太郎たちの歩いた道程をたどったはずと考え、
その行程を探し始めます。
しかし出発点はおろか、どの街道を通ったかも皆目わかりません。
ならばその道中で残しているはずの力石を探そうと、まずは東海道筋へ。

img744.jpg img744 (2)
広重「東海道五十三次」の小田原・酒匂川 三島・朝ぎり

tokaido13.jpg
高島教授・伊勢型紙作品「東海道五十三次」沼津・黄昏図

高崎氏は小田原、静岡県の三島、沼津と何度も東海道を下りますが、
不思議なことに卯之助の石は全く見つかりません。
静岡県人としてはものすごく残念です。

次に中山道に目をつけますが、それも違った。
残りは甲州街道筋
しかし勝沼や甲府あたりでは卯之助石は未発見だったため、
一気に長野県の諏訪地方へ。

諏訪地方の卯之助石については、以前お伝えしたように、
昭和45年(1970)、地元郷土史家から上智大学教授だった伊東明先生の元へ、
下諏訪秋宮での卯之助石発見の報告がありました。
また同年、
諏訪市・諏訪大社本宮の土橋久太郎の「天龍石」の報告もありました。

img742.jpg
「長野の力石」の表紙に描かれた「天龍石」と「卯之助石」 
スケッチ/高島教授

高崎氏はこの「天龍石」を求めて諏訪市文化財課を訪れます。
そこで「天龍石は上社本宮にある」と教えられ、訪ねたものの、
本宮では「知らない」という。
ようやく「裏山に庚申塔がある」と聞いて、草むらをかき分けていくとありました。

これが「天龍石」です。
img735.jpg
長野県諏訪市中洲神宮寺・諏訪大社本宮
123×60×19㎝

「天龍石 当所若者中 江戸元祖 土橋久太郎持之 
天保乙未歳七月廿日 目方百五拾貫 米俵参俵石上

ここへは関西への巡業の途中に立ち寄ったのではなく、
諏訪大社本宮の招きで奉納力持ちをおこなったということです。
石の上にさらに米俵を3俵も乗せたようですね。

久太郎一座をお披露目する口上も、おもしろおかしく勇ましく、
力持ちのお囃子も、テンテンドドドンと賑やかに鳴り響いたことでしょう。

久太郎が奉納したこの石には「江戸元祖」と刻まれています。
「俺こそが江戸の力持ちの元祖だ」と名乗っていた久太郎の意地が感じられます。
しかし、諏訪大社本宮に招かれてはるばるやってきた江戸力持ち元祖の石も、
今はご覧のような情けない状態です。

さて高崎氏は、この日ようやく下諏訪町の諏訪大社秋宮で、
本命の卯之助石との対面を果たします。

卯之助石です。
img694 (3)
長野県諏訪郡下諏訪・諏訪大社秋宮   89×54×26cm

奉納 七拾メ目 武刕岩槻 三ノ宮住人 卯之助 持之
治郎吉 天保九戌年四月吉日

治郎吉は3年前のご上覧にも出場した卯之助の弟子です。

卯之助が甲州街道を通ってここを訪れ、この七十貫目の石を担いだのは、
先輩・久太郎がこの地で天龍石を担いだ3年後のことでした。

しかし卯之助の足取りは、ここからプッツリ消えてしまいます。
その卯之助の足取りを示す石が、
なんと諏訪からひとっ跳びに大坂の天満宮で見つかります。

これです。卯之助の4個ある「大磐石」の一つ。
img734.jpg
大阪府北区天神橋・大阪天満宮  卯之助の「大磐石」と高崎力氏

久太郎と同時に旅巡業に出た金蔵一座は、
名古屋興行を終えるとその足で大阪へ向かっていますが、
卯之助一座はどういうルートを通って大阪へ出たのかわかっておりません。

諏訪の卯之助石には天保9年の刻字があります。
大坂天満宮の石には天保11年の刻字があります。

この開き、2年。

「この2年間、卯之助はどこで何をしていたのか。さらに遠隔地を廻っていたのか、
あるいはいったん、故郷へ戻ったのか一切不明です」と高崎氏。

その後高崎氏は、
道頓堀、天王寺、住吉大社も調査したが卯之助石は見いだせず、
さらに神戸、須磨、明石方面も探したものの、全く見つけることが出来なかった。

卯之助も不思議な消え方をしたものですね。

ほんとにどこでなにをしていたのやら。


<つづく>


※参考文献・画像提供/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
              /「長野の力石」高島愼助 岩田書院 2014
              /「日本一の江戸力持 三ノ宮卯之助の生涯」高崎力
               平成16年講演資料
※画像提供/「日本庶民生活史料集成第十五巻 都市風俗」 三一書房 1971
        /四日市大学高島研究室・伊勢型紙
※参考文献/「見世物研究」朝倉無声 昭和3年


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将軍さまの前で

江戸後期の力持ち力士・三ノ宮卯之助の足跡をたどっています。

卯之助は天保3年(1832)、地元の伊勢講の招きで、
旧粕壁(埼玉県春日部市)の東八幡神社で興行を行いました。
このとき持ち上げた石の重さは百貫目(375㎏)。
新人の栄蔵が持ったのは六十貫の石。とはいえ、225㎏もあります。
375㎏は10Kg入りの米袋37個分+5㎏。想像を絶します。

この天保3年ごろというのは、
鎖国の日本に諸外国の船が押し寄せて、開国や通商を求め始めた時期です。
国内的にはお伊勢参りが爆発的に流行し、また一方で大飢饉に見舞われ、
全国的に打ちこわしや一揆が起るという騒然とした時代です。

しかし、このような時代にあっても、北斎「富嶽三十六景」を描き、
広重は東海道を旅して「東海道五十三次」を世に出し、喝采を浴びます。

四日市大学の高島愼助教授制作の伊勢型紙による
「東海道五十三次」のうちの「日本橋 朝之景」
日本橋tokaido1

東八幡神社での興行の翌天保4年6月
卯之助は、江戸・富岡(深川)八幡宮において、
徳川十一代将軍家斉の前で力持ちを披露するという栄誉を得ます。
こうした将軍ご上覧の栄に浴した記録は、卯之助以外にはないそうです。

その時の引き札と番付です。
まずは引札
img727.jpg
石の重さはそれぞれ80貫目、120貫目、280貫目。

中央で280貫目の石に米俵3俵を乗せて足差しをしているのが卯之助です。

このご上覧に臨み卯之助は、
現在の埼玉、千葉、東京という広範囲の地域から45名の力士を選び、
師匠格の肥田文八や小嶋久蔵、同僚の仙太郎も加えて番付を作成。
これをわずか26歳で成し遂げたのですから、
卯之助のリーダーとしての資質がいかに優れていたかがわかります。

卯之助が練りに練った番付がこちら。
img725 (2)

卯之助は東の大関となっていますが、
これはあくまでも卯之助一門限定のご上覧の番付です。
卯之助が晴れて江戸全域の力持ちから選ばれた東の大関に昇り詰めるには、
15年後41歳まで待たなければなりません。

興行場所となった富岡(深川)八幡宮は、
慶安元年以来禁止されていた勧進(有料)相撲が、
貞享元年(1684)正月、24年ぶりに再開された場所です。
これは五代将軍綱吉の希望だったとか。

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富岡(深川)八幡宮にある「横綱力士碑」  =東京都江東区富岡

その後相撲の本場所は、本所回向院に落ち着きます。

卯之助の力業をご覧になった将軍家斉は、力持ちや相撲が好きだったようで、
14歳のとき、子供相撲をご上覧。30歳のときには、
江戸中から相撲に優れた子供を集めて、吹上の苑中で相撲を取らせたとか。
家斉は子供相撲2回を含む計5回もの見物をしています。

ちなみに卯之助の力持ちのご上覧は、家斉61歳のときでした。

富岡(深川)八幡宮に残る力石です。
残念ながら、卯之助の石ではありませんが、ここに掲載します。
CIMG0785 (2)
これらは雑司ケ谷鬼子母神から移設したもので、大正から昭和の石。

大正時代の深川の力持ちたち。
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田口俊一氏蔵             「週刊朝日」より

敗戦直後、深川倉庫付近で力持ちを披露する地元の力持ちグループ
img730 (2)
田口俊一氏蔵      「週刊朝日」より

現在も行われている「深川力持睦会」による力持ち
img731.jpg

「物流の父」と言われた平原直先生は、

「力持ちの技法こそはわれわれの先人たちが、
苦心に苦心を重ねた末に編み出した貴重な日本の伝統技術の一つである」

として、東京力持ちの復活に尽力されました。
そして昭和31年、この「深川の力持ち」は東京都無形民俗文化財に指定され、
毎年、会員による力持ちを披露しています。

 
力石(りきいし)と詠むは今日日(きょうび)の若者ら   谷 克己



<つづく>


※参考文献・画像提供/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
※参考文献/「三田村鳶魚全集第十五巻」昭和51年 中央公論社
        /四日市大学高島研究室・力石の歌
※画像提供/「東京の力石」高島愼助 岩田書院 2003
        /「週刊朝日」第10巻10号 1975
        /四日市大学高島研究室、高島・伊勢型紙作品
        

伊勢講中から全面的支援

前回ご紹介した鎌倉と江の島の卯之助石には、年号がありません。
ですので、いつ卯之助がここで興行をしたのかわかりません。
神奈川県北部の巡業の延長で行ったのか、それとも別巡業の時か。
それについて卯之助研究者の高崎力氏は、こんな見解を示しています。

「私見としては別巡業ではないかと。なぜなら神奈川県北部の巡業では、
終始大木戸仙太郎が同道しており、石にも両人の名前が併刻されているが、
鎌倉、江の島の力石には仙太郎の名前が見当たらないから」

関西興行へ出かけた折にでも立ち寄ったのか、興味は尽きませんが、
それはさておき
卯之助は神奈川県北部の巡業、つまり、
仙太郎と共に横浜市綱島の諏訪神社などで奉納力持ちを行った翌年、
今度は、埼玉県春日部市の東八幡神社で力持ちを行っています。

春日部市(旧粕壁町)は、南北に日光街道、東西に岩槻街道が交差し、
古利根川の河岸場を持つ町。力持ちが集うのには絶好の場所です。

東八幡神社の力石です。ここにある4個のうち2個が卯之助石です。
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80×47×25余㎝ 67×46×24余㎝   =春日部市粕壁東・東八幡神社

奉納 力石百貫余 天保三辰二月吉日 伊勢講中
三ノ宮卯之助持之 嘉永元年申十月十六日 武州稲毛 弥五郎 持之」

この中に伊勢講中とあります。
江戸時代に盛んだったのがお伊勢参り(物見遊山を兼ねた伊勢神宮参拝)。
人々は積み立てをし講を組んでお伊勢参りに行ったわけですが、
この神社での興行は、
そうした伊勢講の人たちが卯之助を全面的支援して催したものだった、
そういうことがこの刻字からわかります。

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画/酒井正氏

そしてもう一つ、25歳の卯之助が天保3年に持ったこの石を、
16年後の嘉永元年に稲毛の弥五郎が持ったことも刻字からわかります。
弥五郎は横浜市鶴見区矢向の出身であったため、矢向弥五郎ともいいます。

このとき弥五郎26歳
この4か月前卯之助は、
江戸力持ち番付の東の大関という最高位に昇り詰めています。
弥五郎はその名声を慕って卯之助石に挑戦したものと思われます。

もう一つの卯之助石には、「金崎 栄蔵」という名前が併刻されています。
栄蔵は粕壁町北方の金崎村の若者だそうです。
これについて高崎氏は、こう言っています。

「今まで卯之助が組んだ相手は江戸出身者だった。
しかしこのころから地元の若者積極的に登用し始めた」

img723 (2)img724.jpg
画/酒井正氏

この粕壁での興行の成功が、翌天保四年のご上覧力持ちにつながったと、
高崎氏はみています。

さて、今はこのように保存処置がなされている力石ですが、
故・伊東明上智大学教授の調査時には境内には見当たらなかったそうです。
その後、参道やその周辺を探したところ4個見つかり、平成5年に保存処置。
地元の方の熱意の程がうかがえます。

春日部市の研究者氏が珍しい写真を送ってくれました。
DSCF8137.jpg
 
春日部市内の西武デパートの対面にある
地上用変圧器に描かれた「力持ちの図」

S氏の話では、
大砂は東八幡神社の旧来の地名で、
この力持ちの図は卯之助をイメージしたものではないか」とのことです。

羨ましい! 町中のこんなところに力持ちを描くなんて。
やっぱり卯之助はすごいですね。
その卯之助を生み育てた埼玉県民はもっとすごい!



<つづく>


※参考文献・画像提供/「三ノ宮卯之助の力石(2)」高島愼助・高崎力
               四日市大学論集第17巻1号 2004
               /「埼玉の力石」高島愼助 岩田書院 2007

※画像提供/さいたま市・酒井正
        /春日部市・S

「力石には全く関心はない!」

埼玉県越谷市の卯之助研究者・高崎力氏が、同郷の先輩・瀬尾哲太郎氏から、
「以前鎌倉・鶴岡八幡宮で卯之助の石を見た。調べてくれ」と言われ、
鎌倉方面の探索を始めたのが昭和26年のこと。

22歳の青年教師だった高崎氏は、機会あるごとに鶴岡八幡宮を訪れ、
立ち入り禁止区域まで調べたものの見つからず。

これが最後の調査と決めた平成9年(1997)2月、
とうとう発見できないまま、夕闇迫る八幡宮前に虚しくたたずんでいた高崎氏、
なんとなく目の前の駐車場造成中の工事現場に目を向けたとき、
空き地の奥に小さな赤い鳥居がぼんやり浮かんでいるのに気がついた。

導かれるように歩を進めると、そこになんと力石が、しかも二つも…。
三栄稲荷神社の卯之助力石が発見された瞬間でした。

img709.jpg
55余×33×23㎝  神奈川県鎌倉市雪ノ下(八幡宮前駐車場南西隅)

奉納 五拾八メ余 武刕 岩附 卯之助持□

img711.jpg
38×48×20㎝   同上

奉納さし石 四拾メ目 武刕 岩附卯之助□□

石垣にめり込んじゃってます。

 溶岩の一部とし見ゆ駐車場 南西隅の小さき稲荷に
                                       天野 翔

観光地ですからねえ、きちんと保存して説明板もつけてアピールするといいのにナ。

「力石発見は偶然の賜物」と高崎氏はおっしゃっていますけど、
鎌倉探索を始めてからなんと46年もかかっての発見です。
努力と根気の賜物です。

この発見は毎日新聞で取り上げられ、力石への関心が一気に高まります。
平成10年、高崎氏の元へ越谷市郷土研究会の会員から、
江の島での新たな卯之助石の発見が寄せられます。
江の島については鎌倉同様、長期にわたって調べたものの見つからず、
「ここにはない」と断定した直後の発見です。

これです。
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75×45×33㎝               撮影/S氏

奉納 八拾貫 岩槻 卯之助持之

この石が置かれていたのは、江島神社前の茶屋「あぶらや」です。
img714.jpg
 撮影/S氏        平成10年に撮影。

この発見、今度は読売新聞に掲載されました。
そのころ力石の調査を始めたばかりだった春日部市の研究者S氏、
かつて路上観察でここを訪れた折に見かけたことを思い出し、早速現地へ。

訪れたS氏に、あぶらやのマスターがこんな説明をしてくれたそうです。

「茶屋をオープンするにあたり、周囲の藪を刈り取っていたところ、
地面からなにやら文字を彫付けた石が顔を出していた。
掘り起こしてみると力石だったので、
江島神社の宮司さんの承諾を得て店頭に置いた」

昔、宮前の広場で卯之助の奉納力持ちがあり、石が奉納された。
ところがいつのころかがけ崩れがあり、石が埋まってしまった。
その後大雨で土砂が流されて、再び顔を出したということらしい。

この石は現在江島神社奥津宮へ移され、
注連縄を張られて、説明板と共に大切に保存されています。
img710.jpg
 =神奈川県藤沢市江の島・江島神社

絵にしたのがこちら。酒井氏のスケッチです。味があります。
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画/酒井正氏

 奥宮の亀甲石と力石 注連(しめ)新しくありがたく見ゆ 
                                       天野 翔 

このように江の島と鎌倉での新発見が続いたものの、
肝心の鎌倉・鶴岡八幡宮の卯之助石は未発見のまま。

高崎氏によると、
瀬尾氏が旅行中に目撃し、昭和13年に「鎌倉史跡めぐりの会」会員が見た
八幡宮社務所前の卯之助力石には、
「奉納 六十五貫 武州岩付 卯之助持之」
と刻まれていたという。(昭和47年発行の「鎌倉史跡めぐり会」に記録)。

img342 (3)
沢田重隆画 新潮社

高崎氏は鎌倉市文化財課鶴岡八幡宮に、
紛失したままの力石の調査や八幡前駐車場の卯之助石のきちんとした保存と
公開の便の考慮を再三お願いしたものの、いずれからも、

力石には全く関心はない。そんな余裕はない。
社務所前にそんな石があったことを知る宮司や職員はいない」と言われる始末。

江島神社や藤沢市の即応体制とは比較にならない鎌倉でのこうした現状に、
高崎氏は「このままでは先輩・瀬尾氏に申し訳がたちません」…

厳しく、寂しい現実です。

私はふと、
静岡県三島市・三島大社のうしろの藪に捨てられたままの力石を
思い出してしまいました。



<つづく>

※参考文献・画像提供/「三ノ宮卯之助の力石(2)」高島愼助・高崎力
               四日市大学論集第17巻1号 2004
※参考文献/「四日市大学高島研究室・全国の力石研究」「力石の歌」

ちょっと横道、本の話

江戸後期に活躍した力持ち力士、三ノ宮卯之助の話、佳境に入ってきましたが、

ちょいと疲れました。

なにしろ卯之助はこの世界では超有名人。卯之助研究者の目も光っています。
ここらでひと息入れることをお許しください。

ちょうどタイミングよく息子のお嫁さんからマンゴーが届きました。
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マンゴー食べ食べ、本の話です。
ここ2、3週間で読んだ本、ちょっとご披露します。

岸田吟香を調べていた関係で「上海東亜同文書院・風雲録」を、
「南方熊楠日記1」は前々から読みたかったので…。

意識的に読んだのが、白井聡氏の「永続敗戦論」(太田出版。2013)
この中でびっくりしたのが、憲法改正推進本部での安倍首相の発言。
「九条がなければ、北朝鮮による拉致は防げた」、つまり、
「憲法九条があったせいで拉致事件は起きた」と言ったそうで…。
これに対して著者は言います。
「安倍首相の発言の非論理性、無根拠性は悲惨の一語に尽きる」

もう一つ、意識して読んだ本がこれ。
豊下楢彦氏の「安保条約の成立」(岩波書店。1996)

「現在の米軍基地と沖縄の現状を生みだしたのは昭和天皇で、
それが新憲法、つまり象徴天皇になってからの政治介入だった」
「アメリカは日本の安全と独立を保障するいかなる条約上の義務も負っていない

これにはたまげた。
アメリカさん、日本の土地は好きな時に好きなだけ使うけれど、
そうだからって日本なんか守らないよって、こんなにはっきり言ってんだもの。

なんだかやんなっちゃって、気分を変えてこんな本を読んでみました。
「江戸の捨て子たち」
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 =沢山美果子 吉川弘文館 2008

この本で私は、将軍綱吉の「生類憐みの令」には犬ばかりでなく、
病人や捨て子の救済まで含まれていたことを初めて知りました。

もう一冊は「越後毒消し売りの女たち」(桑野淳一 彩流社 2008)
なんでもその昔、能登半島から新潟県の角海浜などに渡ってきた人たちがいて、
女はみんな美人だったそうな。田んぼもない漁業もしないこの村なのに、
どこの家も蔵を持つ豪邸。なんとなれば、
その美女たちが毒消しの薬を全国に売り歩いて稼いだから、というルポです。

最近、酒鬼薔薇聖斗を名乗って陰惨な事件を起こした元少年が、
手記を書いたことが話題になりました。
被害者の立場ならこんな手記の出版、再び被害に遭ったみたいでたまりません。
ですが、この事件、冤罪だということも言われていて、ちょっと気になって…。

「神戸事件を読む」(熊谷英彦 鹿砦社 2001)
自白調書など丹念に検証しています。読めば読むほど確かに矛盾だらけだ。
ひょっとしてやっぱり冤罪?

「神戸 酒鬼薔薇事件にこだわる理由 A少年は犯人か」
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 =後藤昌次郎 現代人文社 2005

松川事件、八海事件などの歴史的冤罪事件を手がけた人権派弁護士の著作。

少年が書いたとされる「懲役一三年」という文章があります。
14歳の、しかも国語の成績が2という少年が書いたとは思えない難しい内容で、
末尾にダンテの「神曲」からの引用があるという。
少年はこれを本屋で立ち読みしただけで、すべて暗記したとされています。
こういう特殊な才能の人を「直観像素質者」というんだそうです。

で、ここで私はハッとしたわけです。
私は子供のころから記憶力抜群で、
兄が「下手なことができない」と、よくこぼしていました。
記者時代にも録音は全くとらずメモもほとんど走り書き程度で全然平気でした。
なぜかといえば、無意識のうちにすべて映像で記憶していたからなんです。
頭の中のフィルムを巻き戻せば
そのときの会話も相手の表情も匂いすら鮮明に蘇りました。

この弁護士の本を読んで、私って「直観像素質者」だったんだって驚いたわけです。
ただし、なぜか文章だけは違います。映像とはなりません。
本は面で読みますから早いです。一度に3冊ぐらい交互に読んだりします。
でも、必要な個所はメモります。正確に覚えられないからです。
だから少年が本屋で立ち読みしただけで、一字一句覚えたなんてあり得ない、
そう思ってしまいました。

「それでも少年を罰しますか」野口善國 共同通信社 1998 

これは少年Aの付添人弁護士の著作。
少年犯罪に詳しい弁護士さんのようですが、
初めから、A少年犯人説をとっているような印象です。
「冤罪である」という本を読んだあとだったからでしょうか。

少年犯罪に関連して、これから読もうとしている本です。
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そして今読んでいる本がこれです。「阿片帝国 日本」
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 =倉橋正直 共栄書房 2008

「戦前の日本は世界一の麻薬生産国であり、恐るべき加害者であった」
「強い痛み止め作用のあるモルヒネは戦場の必需品であった」
「阿片は戦略用に使われ、アジア諸国民ははかりしれない害毒を被った」

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「阿片をもっと食えと無理強いされている中国人」 
=「阿片帝国日本」掲載の「拒毒月刊」32期(1929年8月)の挿絵。

「お百姓さん達の良い田畑は食糧増産に、
私達は荒地で罌粟(けし)の栽培を引受けませう、
こういうスローガンのもと、児童までもが阿片生産に狩り出された」

そして、著者はいう。
「戦後の日本はそういった恥ずべき行為を真摯に反省するどころか、
ひたすら隠蔽し続けてきたのだ」

やっぱりいやだ! 戦争は!

今週、買った雑誌。      こちらは15年も昔に出した私の本
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埼玉在住のSさんが、
おもしろいおもしろい」とほめてくださるので、その気になって出してみました。

本の写真、ちょっとピンボケですね。

私を本好きにしたのは、小学3年生ごろから夢中になった読切雑誌
貸本屋へ通いました。総ルビなので難なく読めました。
「好きな女の家へ忍び込むとき小窓から猿を入れて鍵を開けさせた」なあんてお話、
まだ覚えています。思えば嫌味なガキですね。

でもって、今回のブログ、ちと衒学趣味っぽくて、やっぱり嫌味かも…。

次回は気を引き締めて、また、卯之助です。

荒れた神社の境内に…

上智大学の伊東明教授が、
長年懸案となっていた「三ノ宮 卯之助」の「三ノ宮」という地が、
埼玉県内にあることを知ったのは昭和45年のこと。

先生は早速、現地調査へ出かけます。

東武伊勢崎線・大袋駅下車。
昭和26年に高崎力氏を卯之助生家へ案内した瀬尾氏が、
かつて村長をしていたというあの「大袋」です。

そのときの様子を伊東先生の随想から再現します。

「水田の中の細流に沿って、木立の中の三野宮部落(※原文ママ)に入る。
小曽川に近い香取神社境内へ。
荒れた境内広場の本殿左前に「大磐石」が立ててあり、
広場右隅に「三王石」「指石」が放置され、
広場集会所の建物の車止めとして「白龍石」が使ってあった」

「大磐石」です。
図三野宮神社 (3)
1m余×97×23㎝

やっと探し当てた卯之助の所在地と石。
しかしその喜びを砕かれるほどの無残な光景
伊東先生の驚きと落胆が伝わってくるような気がします。

そのとき先生は、
この4個すべてに「三ノ宮卯之助」の切付(刻字)があるのを確認しています。

この日、伊東先生がスケッチした「指石」(さしいし)です。
img704.jpg
62×51×24㎝

ところがこの「指石」が、いつの頃からか行方不明になり、
力石は下の写真のように3個だけになってしまいます。

img361 (2)

これに疑問を持った人がいました。
このブログのよき協力者、春日部市在住の研究者S氏です。

今から10年前の2005年
S氏は「本当にこの3個だけだろうか」と疑問を持ち、
行方不明の石の探索に乗り出します。
そして3個並んだうちの向かって左端の石の横、
棕櫚の木の根元にオデコだけ出して埋まっている石に気付き、
「辺りを気にしながら」掘り起こします。

そのときの写真です。
img698.jpg
赤丸の中の石が、S氏が再発見した「指石(さしいし) 

拡大したものがこれ。
img362 (2)

昭和45年に伊東先生が見た「指石」が、
35年後に再び姿を現した瞬間でした。
S氏はその時の喜びを、俳句に詠み込みました。

    「卯之助」を今見つけたり五月晴れ    斎藤呆人

これらの石は、将軍・徳川家斉のご上覧の栄に浴するなど、
江戸力持ち界のスターとなった卯之助が、
嘉永元年、故郷の三野宮で凱旋興行をした時のものといわれています。

「大磐石」は、ゆるぎない大きな石、
「三王石」は中国の三人の王、夏の禹王、殷の湯王、周の武王(文王)の意。

いずれも人気絶頂の力持ち力士としての自信にあふれた命名です。
江戸の花形力持ち力士が故郷へ錦を飾ったのです。
境内は近隣からの村人たちで埋まり、みんな固唾を飲んで卯之助を見つめ、
その人並みはずれた力技にヤンヤの喝さいを浴びせたことでしょう。

このとき卯之助、41歳

しかしその誇りある卯之助石も、次第に時代に置き去りにされ忘れられて、
伊東先生の調査時には、荒れ果てた神社に放置されたままという状況でした。
けれどその時から43年後の平成25年、
高崎力氏らの尽力で、この4個の石は共に越谷市の文化財になります。

車止めに使っていた石が文化財!

お釈迦様ならぬ卯之助様にも予測がつかなかった凄い展開になったわけです。

文化財になったことを報じた新聞記事です。
img706.jpg
 =2013年(平成25年)4月27日の朝日新聞。写真は「大磐石」

隣りにいる人物と見比べてください。すごい大きな石でしょう?
卯之助はこの巨石を足に乗せる足差しという方法で持ち上げました。

この昭和45年の香取神社の調査以来、
伊東先生の元には各地から卯之助石発見の報告が続々と入ります。
越谷市の久伊豆神社を始め、岩槻市の飯塚神社、桶川市の稲荷神社
そして遠く姫路市の魚吹八幡神社…。

卯之助はしぶとく息を吹き返し、今また多くの人たちを魅了し続けています。

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画/酒井正氏    埼玉県越谷市三野宮・香取(三野宮)神社

  
    指石の裾を取り巻く蟻地獄   酒井正


<つづく>


※参考文献/「随想 江戸力持力士 三ノ宮卯之助」伊東明 
         上智大学紀要37巻3号 1988
        /「三ノ宮卯之助の力石(2)」高島愼助・高崎力
         四日市大学論集第17巻1号 2004
※情報・画像提供/埼玉県在住の研究者S氏

伊東先生の卯之助探し

伊東明上智大学名誉教授が27年前に書いた論文、
「随想 江戸力持 三ノ宮卯之助」には、いくつかの興味深い記述があります。

まず、伊東先生と卯之助との出会いです。
「江東区史」に掲載されていた「天保七年丙申六月吉日」の「江戸力持」の番付、
その番付の西の関脇を張っていたのが卯之助で、
これが、先生と卯之助の最初の出会いだったそうです。

時期は、昭和20年代後半から30年代初めごろかと思われます。

江戸力持番付です。
img696.jpg
赤丸に三ノ宮卯之助の名前がある。(卯之助生家・向佐家所蔵・現在不明)

伊東先生はこう書いています。
「なぜ卯之助が記憶に残ったかというと、三ノ宮に拘泥したからである。
三ノ宮というと神戸の三宮が頭に浮かぶが、東京都内では思い当たらなかった」

その後伊東先生は淡路島のスポーツ研究家の田尾栄一氏や、
神戸商船大学の岸井守一教授から卯之助の興行引札を見せられ、
江戸と大坂を往来して力持興行をする半職業的な力士としての卯之助を知ります。

ですがこの時点でも、三ノ宮がどこにあるのかわからなかったそうです。
そして、卯之助の名を切り付けた石も、依然発見されないままだったという。

ここでちょっと、
「力石研究の概要」のおさらいです。

力石は初め体育史学の中で取り上げられました。
その端緒となったのが、昭和27年の第三回日本体育学会での、
太田義一先生(東京教育大学)による研究発表でした。

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絵馬「曲持」      =埼玉県幸手市教育委員会蔵

その後、全国の大学で力石への関心が高まり、
上智大学グループ、金沢医科大学や信州大学、大東文化大学などのグループ、
神戸商船大学・神戸大学・松蔭女子学院大学などの関西グループ、
高知学園短大、高知大学、鳥取大学などが活発に発表を行っていました。

しかし次第に大学での関心が薄れていき、
関東では上智大学の伊東先生が継続していたものの、平成5年、伊東先生逝去。
長崎女子短大の栗山史郎先生も退職と共に力石界から退き、
以降、高島教授が唯一の大学研究者として調査を続け、現在に至っています。

再び、伊東先生の論文に戻ります。

昭和45年になって、ようやく、
伊東先生が拘泥していた「三ノ宮」の地が判明します。
きっかけは信州・下諏訪町の郷土史家・中村龍雄氏からの年賀状。
賀状にはこうあった。

「諏訪神社境内より力石発掘ができました。奉納者の名と貫数が彫られています。
下諏訪秋宮宝物館前に飾りました」

それがこの石です。
img694.jpg
89×54×26cm =長野県諏訪郡下諏訪町上久保・諏訪大社秋宮

奉納 七拾メ目 武刕岩槻 三ノ宮住人 卯之助 持之 同治郎吉
天保九戊戌年 四月吉日

この報告によって、伊東先生は三ノ宮が武州(埼玉県)にあることを知り、
加えて、卯之助の刻字石の存在を初めて確認することができて、
「二つの懸案が一挙に解決した」と安堵。

埼玉在住の卯之助研究者・高崎力氏が卯之助の版木を見たのが昭和26年
伊東先生が三ノ宮の地名を知る18年も前に、
地元の郷土史家はその存在を知っていたことになります。

しかし卯之助生家にあった引札の版木がまな板になっていたことでもわかるように、
生家ですら先祖を知らず、ごく一部の郷土史家だけが知っていたという状況です。
力石や力持ち力士の存在が、いかに忘れられていたかがわかります。
この18年という歳月は、それぞれの立場で模索していた郷土史家と大学研究者が
意思の疎通ができるまでこれだけかかった、ということを示していると思います。

img692.jpg
画/酒井正氏 =さいたま市見沼区片柳「秋元宅」

下諏訪の卯之助石の発見をきっかけに、伊東先生の探索は急ピッチで進みます。
国土地理院の地図から岩槻市を探し、その岩槻市と隣接する越谷市の
綾瀬川の支流、小曽川沿いに三野宮の集落を見つけます。
この三野宮は三ノ宮であろうと推測して、現地踏査に向かいます。

次回は伊東先生の現地踏査の様子をお伝えします。

今回もまじめ~な話になってしまいましたので、ちょっと息抜き

埼玉在住氏の路上観察作品「髭オヤジ」
3斎藤路上観察

なあ~るほど。きれいなお顔にヒゲ。このしかめっ面が笑いを誘います。

こちらは高島教授の伊勢型紙作品です。
11.jpg

前回のなまめかしい女体から一転、童心に帰る
傘にあたった雨音が聞こえてきそうな、どこか懐かしい情景です。




<つづく>


※参考文献・画像提供/「埼玉の力石」高島愼助 岩田書院 2007
               /「長野の力石」高島愼助 岩田書院 2014
※参考文献/「随想 江戸力持力士 三ノ宮卯之助」伊東明 
         上智大学紀要37巻3号 1988 
        /「力石 ちからいし」高島愼助 岩田書院 2011
※画像提供/四日市大学・高島研究室 伊勢型紙作品より
        /S氏・路上観察物件より
        
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。今、「力石からバーベルへの道」を書いています。

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