いよいよ全国巡業へ
三ノ宮卯之助
十一代将軍家斉の前で力持ちを成功させた卯之助、
その3年後には、
江戸力持・西の関脇に昇進し、待望の三役入りを果たします。
このとき卯之助29歳。
ご上覧の名誉と関脇の地位を得た卯之助が次に目標としたのが、
尊敬する先輩力士、土橋久太郎や万屋金蔵と同じ全国巡業。
江戸力持ちの東の大関土橋久太郎と西の大関万屋金蔵が、
それぞれ一座を組んで上方(関西)へ旅立ったのが文政8年(1825)春のこと。
当時は上方から江戸へやってくる者はあっても、
江戸から上方へ出かける力持ちはほとんどいなかったため、
現地では大歓迎を受けます。
その時の「難波新地における江戸力持」の興行引札です。

高島愼助四日市大学教授蔵
実は、
ここでの力持ちを描いた浮世絵師歌川国広の木版墨摺が残されていますが、
所蔵の日本芸術文化振興会さんから、
「使用許可は原則団体で、調査研究の出版物等への掲載目的に限る。
個人の場合は学術論文への掲載のみ」とのことで使用を断られてしまいました。
みなさんにお見せできなくて残念です。
国広の絵では、
土橋久太郎が百五十貫目の石を左の絵の様に差しています。
「石の曲もち」と書かれていますので、
石を体のどの部分にも触れさせずに一気に持ち上げたのかもしれません。

一座の一人、木村与五郎は「邯鄲(かんたん)夢の枕」を演じています。
これは中国・唐の小説「枕中記」に出てくる故事で、夢がかなう枕という意味です。
これを力持ちが演じると、
横臥の姿勢をとり空中浮遊するという右の絵のようになります。
大阪の難波新地での久太郎組は、人気を博し、
「互ひの力腰と手に、抜かりは見えぬ五大力、
さはさりながら弱る色なき御風情、褒めてやろぞへ當ろぞへ」
と遊里で唄われたほどだったとか。
上方からのそんな評判を卯之助は耳にして、
「自分もいつかはきっと」と思ったことでしょう。
そしてその夢を早々に実現させたのです。
卯之助研究者の高崎力氏もまた、そんな卯之助を追う旅を始めます。
高崎氏は、卯之助は久太郎たちの歩いた道程をたどったはずと考え、
その行程を探し始めます。
しかし出発点はおろか、どの街道を通ったかも皆目わかりません。
ならばその道中で残しているはずの力石を探そうと、まずは東海道筋へ。

広重「東海道五十三次」の小田原・酒匂川 三島・朝ぎり

高島教授・伊勢型紙作品「東海道五十三次」沼津・黄昏図
高崎氏は小田原、静岡県の三島、沼津と何度も東海道を下りますが、
不思議なことに卯之助の石は全く見つかりません。
静岡県人としてはものすごく残念です。
次に中山道に目をつけますが、それも違った。
残りは甲州街道筋。
しかし勝沼や甲府あたりでは卯之助石は未発見だったため、
一気に長野県の諏訪地方へ。
諏訪地方の卯之助石については、以前お伝えしたように、
昭和45年(1970)、地元郷土史家から上智大学教授だった伊東明先生の元へ、
下諏訪秋宮での卯之助石発見の報告がありました。
また同年、
諏訪市・諏訪大社本宮の土橋久太郎の「天龍石」の報告もありました。

「長野の力石」の表紙に描かれた「天龍石」と「卯之助石」
スケッチ/高島教授
高崎氏はこの「天龍石」を求めて諏訪市文化財課を訪れます。
そこで「天龍石は上社本宮にある」と教えられ、訪ねたものの、
本宮では「知らない」という。
ようやく「裏山に庚申塔がある」と聞いて、草むらをかき分けていくとありました。
これが「天龍石」です。

長野県諏訪市中洲神宮寺・諏訪大社本宮
123×60×19㎝
「天龍石 当所若者中 江戸元祖 土橋久太郎持之
天保乙未歳七月廿日 目方百五拾貫 米俵参俵石上」
ここへは関西への巡業の途中に立ち寄ったのではなく、
諏訪大社本宮の招きで奉納力持ちをおこなったということです。
石の上にさらに米俵を3俵も乗せたようですね。
久太郎一座をお披露目する口上も、おもしろおかしく勇ましく、
力持ちのお囃子も、テンテンドドドンと賑やかに鳴り響いたことでしょう。
久太郎が奉納したこの石には「江戸元祖」と刻まれています。
「俺こそが江戸の力持ちの元祖だ」と名乗っていた久太郎の意地が感じられます。
しかし、諏訪大社本宮に招かれてはるばるやってきた江戸力持ち元祖の石も、
今はご覧のような情けない状態です。
さて高崎氏は、この日ようやく下諏訪町の諏訪大社秋宮で、
本命の卯之助石との対面を果たします。
卯之助石です。

長野県諏訪郡下諏訪・諏訪大社秋宮 89×54×26cm
「奉納 七拾メ目 武刕岩槻 三ノ宮住人 卯之助 持之
同治郎吉 天保九戌年四月吉日」
治郎吉は3年前のご上覧にも出場した卯之助の弟子です。
卯之助が甲州街道を通ってここを訪れ、この七十貫目の石を担いだのは、
先輩・久太郎がこの地で天龍石を担いだ3年後のことでした。
しかし卯之助の足取りは、ここからプッツリ消えてしまいます。
その卯之助の足取りを示す石が、
なんと諏訪からひとっ跳びに大坂の天満宮で見つかります。
これです。卯之助の4個ある「大磐石」の一つ。

大阪府北区天神橋・大阪天満宮 卯之助の「大磐石」と高崎力氏
久太郎と同時に旅巡業に出た金蔵一座は、
名古屋興行を終えるとその足で大阪へ向かっていますが、
卯之助一座はどういうルートを通って大阪へ出たのかわかっておりません。
諏訪の卯之助石には天保9年の刻字があります。
大坂天満宮の石には天保11年の刻字があります。
この開き、2年。
「この2年間、卯之助はどこで何をしていたのか。さらに遠隔地を廻っていたのか、
あるいはいったん、故郷へ戻ったのか一切不明です」と高崎氏。
その後高崎氏は、
道頓堀、天王寺、住吉大社も調査したが卯之助石は見いだせず、
さらに神戸、須磨、明石方面も探したものの、全く見つけることが出来なかった。
卯之助も不思議な消え方をしたものですね。
ほんとにどこでなにをしていたのやら。
<つづく>
※参考文献・画像提供/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
/「長野の力石」高島愼助 岩田書院 2014
/「日本一の江戸力持 三ノ宮卯之助の生涯」高崎力
平成16年講演資料
※画像提供/「日本庶民生活史料集成第十五巻 都市風俗」 三一書房 1971
/四日市大学高島研究室・伊勢型紙
※参考文献/「見世物研究」朝倉無声 昭和3年
その3年後には、
江戸力持・西の関脇に昇進し、待望の三役入りを果たします。
このとき卯之助29歳。
ご上覧の名誉と関脇の地位を得た卯之助が次に目標としたのが、
尊敬する先輩力士、土橋久太郎や万屋金蔵と同じ全国巡業。
江戸力持ちの東の大関土橋久太郎と西の大関万屋金蔵が、
それぞれ一座を組んで上方(関西)へ旅立ったのが文政8年(1825)春のこと。
当時は上方から江戸へやってくる者はあっても、
江戸から上方へ出かける力持ちはほとんどいなかったため、
現地では大歓迎を受けます。
その時の「難波新地における江戸力持」の興行引札です。

高島愼助四日市大学教授蔵
実は、
ここでの力持ちを描いた浮世絵師歌川国広の木版墨摺が残されていますが、
所蔵の日本芸術文化振興会さんから、
「使用許可は原則団体で、調査研究の出版物等への掲載目的に限る。
個人の場合は学術論文への掲載のみ」とのことで使用を断られてしまいました。
みなさんにお見せできなくて残念です。
国広の絵では、
土橋久太郎が百五十貫目の石を左の絵の様に差しています。
「石の曲もち」と書かれていますので、
石を体のどの部分にも触れさせずに一気に持ち上げたのかもしれません。


一座の一人、木村与五郎は「邯鄲(かんたん)夢の枕」を演じています。
これは中国・唐の小説「枕中記」に出てくる故事で、夢がかなう枕という意味です。
これを力持ちが演じると、
横臥の姿勢をとり空中浮遊するという右の絵のようになります。
大阪の難波新地での久太郎組は、人気を博し、
「互ひの力腰と手に、抜かりは見えぬ五大力、
さはさりながら弱る色なき御風情、褒めてやろぞへ當ろぞへ」
と遊里で唄われたほどだったとか。
上方からのそんな評判を卯之助は耳にして、
「自分もいつかはきっと」と思ったことでしょう。
そしてその夢を早々に実現させたのです。
卯之助研究者の高崎力氏もまた、そんな卯之助を追う旅を始めます。
高崎氏は、卯之助は久太郎たちの歩いた道程をたどったはずと考え、
その行程を探し始めます。
しかし出発点はおろか、どの街道を通ったかも皆目わかりません。
ならばその道中で残しているはずの力石を探そうと、まずは東海道筋へ。


広重「東海道五十三次」の小田原・酒匂川 三島・朝ぎり

高島教授・伊勢型紙作品「東海道五十三次」沼津・黄昏図
高崎氏は小田原、静岡県の三島、沼津と何度も東海道を下りますが、
不思議なことに卯之助の石は全く見つかりません。
静岡県人としてはものすごく残念です。
次に中山道に目をつけますが、それも違った。
残りは甲州街道筋。
しかし勝沼や甲府あたりでは卯之助石は未発見だったため、
一気に長野県の諏訪地方へ。
諏訪地方の卯之助石については、以前お伝えしたように、
昭和45年(1970)、地元郷土史家から上智大学教授だった伊東明先生の元へ、
下諏訪秋宮での卯之助石発見の報告がありました。
また同年、
諏訪市・諏訪大社本宮の土橋久太郎の「天龍石」の報告もありました。

「長野の力石」の表紙に描かれた「天龍石」と「卯之助石」
スケッチ/高島教授
高崎氏はこの「天龍石」を求めて諏訪市文化財課を訪れます。
そこで「天龍石は上社本宮にある」と教えられ、訪ねたものの、
本宮では「知らない」という。
ようやく「裏山に庚申塔がある」と聞いて、草むらをかき分けていくとありました。
これが「天龍石」です。

長野県諏訪市中洲神宮寺・諏訪大社本宮
123×60×19㎝
「天龍石 当所若者中 江戸元祖 土橋久太郎持之
天保乙未歳七月廿日 目方百五拾貫 米俵参俵石上」
ここへは関西への巡業の途中に立ち寄ったのではなく、
諏訪大社本宮の招きで奉納力持ちをおこなったということです。
石の上にさらに米俵を3俵も乗せたようですね。
久太郎一座をお披露目する口上も、おもしろおかしく勇ましく、
力持ちのお囃子も、テンテンドドドンと賑やかに鳴り響いたことでしょう。
久太郎が奉納したこの石には「江戸元祖」と刻まれています。
「俺こそが江戸の力持ちの元祖だ」と名乗っていた久太郎の意地が感じられます。
しかし、諏訪大社本宮に招かれてはるばるやってきた江戸力持ち元祖の石も、
今はご覧のような情けない状態です。
さて高崎氏は、この日ようやく下諏訪町の諏訪大社秋宮で、
本命の卯之助石との対面を果たします。
卯之助石です。

長野県諏訪郡下諏訪・諏訪大社秋宮 89×54×26cm
「奉納 七拾メ目 武刕岩槻 三ノ宮住人 卯之助 持之
同治郎吉 天保九戌年四月吉日」
治郎吉は3年前のご上覧にも出場した卯之助の弟子です。
卯之助が甲州街道を通ってここを訪れ、この七十貫目の石を担いだのは、
先輩・久太郎がこの地で天龍石を担いだ3年後のことでした。
しかし卯之助の足取りは、ここからプッツリ消えてしまいます。
その卯之助の足取りを示す石が、
なんと諏訪からひとっ跳びに大坂の天満宮で見つかります。
これです。卯之助の4個ある「大磐石」の一つ。

大阪府北区天神橋・大阪天満宮 卯之助の「大磐石」と高崎力氏
久太郎と同時に旅巡業に出た金蔵一座は、
名古屋興行を終えるとその足で大阪へ向かっていますが、
卯之助一座はどういうルートを通って大阪へ出たのかわかっておりません。
諏訪の卯之助石には天保9年の刻字があります。
大坂天満宮の石には天保11年の刻字があります。
この開き、2年。
「この2年間、卯之助はどこで何をしていたのか。さらに遠隔地を廻っていたのか、
あるいはいったん、故郷へ戻ったのか一切不明です」と高崎氏。
その後高崎氏は、
道頓堀、天王寺、住吉大社も調査したが卯之助石は見いだせず、
さらに神戸、須磨、明石方面も探したものの、全く見つけることが出来なかった。
卯之助も不思議な消え方をしたものですね。
ほんとにどこでなにをしていたのやら。
<つづく>
※参考文献・画像提供/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
/「長野の力石」高島愼助 岩田書院 2014
/「日本一の江戸力持 三ノ宮卯之助の生涯」高崎力
平成16年講演資料
※画像提供/「日本庶民生活史料集成第十五巻 都市風俗」 三一書房 1971
/四日市大学高島研究室・伊勢型紙
※参考文献/「見世物研究」朝倉無声 昭和3年
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