卯之助と行動を共にした人たち
三ノ宮卯之助
三ノ宮卯之助がどのような道程を経て、
日本一の力持ちになっていったのか、その足跡をたどります。
卯之助がその名を初めて刻した力石が残されています。
このとき卯之助18歳。

75×41×33㎝ 埼玉県久喜市太田袋・琴平神社
奉納 文政八酉正月吉日 五拾貫目余 當所 高橋繁蔵持之
長宮村 肥田文八持之 太田袋村 □井□持之 同村 □□□
三ノ宮村 三橋卯ノ□□□」
三橋卯之助となっているのは、
生家の近くに「三野宮橋」があることから、
「三野宮橋卯之助」としたが、長すぎるので「三橋」としたとの説があります。
この石に卯之助と共に名を残した肥田文八は、長宮村の剛の者で、
卯之助が元荒川の下流、
瓦曽根河岸場(現・越谷市瓦曽根)で
働きだした折りに知り合った人物です。
卯之助はこの文八を師と仰ぎ、次第に力をつけていきます。
親子ほど年の離れた二人ですが、以後、10年ほど行動を共にしました。
この二人はこの8年後の天保4年、将軍への力持ちご上覧の折、
その番付に卯之助が東の大関、文八が西の大関としてその名を連ねます。

「力競べ・石担ぎの図」 画/酒井正氏
肥田文八のもとで、めきめき頭角をあらわした卯之助は、
やがて江戸へ進出していきます。その第一ステップとなったのが、
江戸本所の権治郎との出会いです。
権治郎と卯之助の名が併刻された力石(2個)。

東京都江戸川区北小岩・北野神社
22歳になった卯之助が次に行動を共にしたのが、
江戸本郷の小嶋久蔵です。
久蔵銘の力石は現在5個確認されていますが、
そのうちの4個に卯之助の名が併刻されています。
卯之助と久蔵の名が刻まれた力石。

73×51×31㎝ 埼玉県越谷市瓦曽根・最勝院観音堂(廃寺)
作図/伊東明上智大学名誉教授
「奉納 七十メ余 三ノ宮卯之助 江戸 本□久蔵 瓦曽根 若者中」
最勝院は、旧日光街道に面し近くに瓦曽根河岸場があったため、
河岸場の船荷が少ない時は、相撲や力比べが盛んに行われ賑わったそうです。
河岸場人足だった卯之助も力技を見せて、
見物人を大いに沸かせたことでしょうし、
そんな卯之助に、ほのかな恋心を抱いた娘っこもいたかもしれません。
赤ら顔担ぐ彼見て頬染めて 大江美咲
そしてこの石は、
平成2年に伊東明教授が調査したときには存在していたものの
現在は所在不明。
伊東先生は、貴重な記録を残してくださったことになります。
また高崎 力氏は、
古い河岸問屋を尋ねたものの、古い文書は戦後処分したとのことで、
卯之助に関する記録は見つけることが出来なかったそうです。
こちらは、さいたま市岩槻区釣上の神明神社に残る
卯之助と久蔵併刻の「雲龍石」(37貫目)です。

71×55×25余㎝ 実物 拓本
「奉納 雲龍石 文政十三年寅三月吉日
武刕岩附領 三ノ宮 三橋卯之助 江戸本郷 小嶋久蔵
釣上新田 願主 縄手 守田吉右エ門同領恩間村 木村重次良」
このとき卯之助、23歳。
小嶋久蔵とは26歳までの4年間、行動を共にしました。

作図/酒井正氏
稲妻やギロリ見上げる雲龍石 斎藤呆人
<つづく>
※参考文献・画像提供
/「三ノ宮卯之助の力石(2)」高島愼助・高崎力 四日市大学論集 2004
/「日本一の力持 三ノ宮卯之助の生涯」高崎力 平成16年 講演記録
/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
※画像提供
/「郷土の石佛・写生行脚一期一会」酒井正 私家本 平成22年
/「岩槻市史 第5節 町と村のくらし 力石」岩槻市
資料提供S氏
日本一の力持ちになっていったのか、その足跡をたどります。
卯之助がその名を初めて刻した力石が残されています。
このとき卯之助18歳。

75×41×33㎝ 埼玉県久喜市太田袋・琴平神社
奉納 文政八酉正月吉日 五拾貫目余 當所 高橋繁蔵持之
長宮村 肥田文八持之 太田袋村 □井□持之 同村 □□□
三ノ宮村 三橋卯ノ□□□」
三橋卯之助となっているのは、
生家の近くに「三野宮橋」があることから、
「三野宮橋卯之助」としたが、長すぎるので「三橋」としたとの説があります。
この石に卯之助と共に名を残した肥田文八は、長宮村の剛の者で、
卯之助が元荒川の下流、
瓦曽根河岸場(現・越谷市瓦曽根)で
働きだした折りに知り合った人物です。
卯之助はこの文八を師と仰ぎ、次第に力をつけていきます。
親子ほど年の離れた二人ですが、以後、10年ほど行動を共にしました。
この二人はこの8年後の天保4年、将軍への力持ちご上覧の折、
その番付に卯之助が東の大関、文八が西の大関としてその名を連ねます。

「力競べ・石担ぎの図」 画/酒井正氏
肥田文八のもとで、めきめき頭角をあらわした卯之助は、
やがて江戸へ進出していきます。その第一ステップとなったのが、
江戸本所の権治郎との出会いです。
権治郎と卯之助の名が併刻された力石(2個)。

東京都江戸川区北小岩・北野神社
22歳になった卯之助が次に行動を共にしたのが、
江戸本郷の小嶋久蔵です。
久蔵銘の力石は現在5個確認されていますが、
そのうちの4個に卯之助の名が併刻されています。
卯之助と久蔵の名が刻まれた力石。

73×51×31㎝ 埼玉県越谷市瓦曽根・最勝院観音堂(廃寺)
作図/伊東明上智大学名誉教授
「奉納 七十メ余 三ノ宮卯之助 江戸 本□久蔵 瓦曽根 若者中」
最勝院は、旧日光街道に面し近くに瓦曽根河岸場があったため、
河岸場の船荷が少ない時は、相撲や力比べが盛んに行われ賑わったそうです。
河岸場人足だった卯之助も力技を見せて、
見物人を大いに沸かせたことでしょうし、
そんな卯之助に、ほのかな恋心を抱いた娘っこもいたかもしれません。
赤ら顔担ぐ彼見て頬染めて 大江美咲
そしてこの石は、
平成2年に伊東明教授が調査したときには存在していたものの
現在は所在不明。
伊東先生は、貴重な記録を残してくださったことになります。
また高崎 力氏は、
古い河岸問屋を尋ねたものの、古い文書は戦後処分したとのことで、
卯之助に関する記録は見つけることが出来なかったそうです。
こちらは、さいたま市岩槻区釣上の神明神社に残る
卯之助と久蔵併刻の「雲龍石」(37貫目)です。


71×55×25余㎝ 実物 拓本
「奉納 雲龍石 文政十三年寅三月吉日
武刕岩附領 三ノ宮 三橋卯之助 江戸本郷 小嶋久蔵
釣上新田 願主 縄手 守田吉右エ門同領恩間村 木村重次良」
このとき卯之助、23歳。
小嶋久蔵とは26歳までの4年間、行動を共にしました。

作図/酒井正氏
稲妻やギロリ見上げる雲龍石 斎藤呆人
<つづく>
※参考文献・画像提供
/「三ノ宮卯之助の力石(2)」高島愼助・高崎力 四日市大学論集 2004
/「日本一の力持 三ノ宮卯之助の生涯」高崎力 平成16年 講演記録
/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
※画像提供
/「郷土の石佛・写生行脚一期一会」酒井正 私家本 平成22年
/「岩槻市史 第5節 町と村のくらし 力石」岩槻市
資料提供S氏
スポンサーサイト