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神奈川県に卯之助を追う

22歳で江戸力持ちの仲間入りを果たした卯之助は、
その後全国各地へと旅興行に出かけます。

そうした痕跡は、前回お伝えした神奈川県川崎市の
川崎大師平間寺や若宮八幡神社の力石にも見られました。

三ノ宮卯之助の「浅草観音境内」での興行引札です。
img690.jpg
 =神戸商船大学図書館蔵

上智大学の伊東明教授はこの引札を、昭和40年ごろ、
神戸商船大学の岸井守一教授から紹介されたと随想に記しています。

一方、埼玉県越谷市の卯之助研究者・高崎力氏は、
img691.jpg
昭和26年、旧大袋村村長・瀬尾哲太郎氏の案内で、
卯之助の生家にあった「まな板になっていた版木」を目にします。

その瀬尾氏から、
「卯之助の力石が川崎大師や鎌倉八幡宮にある。他にもないか調べてくれ。
卯之助は日本中を回っていたらしい」と言われ、
調査の範囲を地元越谷市から東京下町、神奈川へと広げていきます。

そんなある日、川崎市在住の方から情報がもたらされました。
「綱島の諏訪神社の石段の下に卯之助石が転がっている

「転がっていた」力石は、平成2年、このように立派に保存処置がなされました。
img687.jpg
 =横浜市港北区綱島東・諏訪神社

卯之助石はなんと4個もありました。

「池谷石 天保二年四月十五日 岩附卯之助 大木戸仙太郎 持之
65×42×32㎝
「奉納飯田石 天保二年四月十五日 岩附卯之助 大木戸仙太郎 持之
71×50×32㎝
「さし石 三十二メ 岩附卯之助 大木戸仙太郎 持之61×33×29㎝
「さし石 四十貫 岩附卯之助 飯田氏74×37×27㎝

これらの石は、江戸時代の南北綱島村の名主、飯田家池谷家が、
4月15日の諏訪神社の祭礼に卯之助一行を招き、奉納力持ちを開催。
そのとき使われた力石を神社に奉納したものでした。

このとき卯之助、24歳
のちにご上覧力持ちで関脇となる仙太郎と行動を共にしています。

こちらは横浜市都筑区大熊町・杉山神社の卯之助石です。
img688.jpg
79×38×31㎝

「大くま 岩附 卯之助 大木戸 仙太郎 持之

上智大学名誉教授の伊東明先生は、
img055 (2)
昭和62年、横浜市緑区の郷土史家・相沢雅雄氏から、
「大熊町の杉山神社の”大くま石”に、岩附卯之助の名前が刻まれている」
との報告を受けます。
それが上の写真の石です。

伊東先生は翌昭和63年の「随想 江戸力持力士 三ノ宮卯之助」の中で、
「岩附」の地名について、こうおっしゃっています。

「ごく最近になって続けて発見された神奈川県下の「岩附 卯之助」の切付のある
三個の力石の「岩附」は、「岩槻」と解釈してよいのだろうか」

三個の力石とは、川崎大師、若宮八幡神社とこの杉山神社の石のことで、
伊東先生は、これらに刻まれた「岩附 卯之助」と、
昭和45年に報告された信州諏訪神社の「武州岩槻 三ノ宮卯之助」を並べて、
「岩附」は「岩槻」と解釈してよいのか、「卯之助」は同一人物なのかと思いを巡らせ、
確定できる資料の発見を待っていたと思われます。

卯之助はこのころ、やっとその名を知られ始めたということですね。
伊東先生のこうした論文から、
卯之助石の刻名一つでも確実な資料を得てから結論を導き出す、
そういう研究者の真摯な姿勢を垣間見た思いがいたします。

こちらは神奈川県北部を調査中に、高島教授が発見した石です。
img689.jpg
60×34×24㎝ 20貫600(説明板による)
     =横浜市都筑区南山田・山田神社

「岩□□ 卯之助さし (裏面)山田村 

DSCF0013 (2)
高島愼助四日市大学教授

卯之助石に限らず、こうした庶民の文化遺産は、
郷土史家や地元市民から大学研究者へリレーされ、また再調査を重ねて、
初めて記録され後世に伝えられていくのですね。
こうして長い時間をかけて、多くの人たちから託された力石です。
安易に捨て去ることなくしっかり見守り、
石に沁みこんだ若者たちの物語を、後の人たちに手渡していきたいものです。

かた~い話が続きました。
ここでちょっとお口直し…。

埼玉在住の研究者氏による路上観察作品「バード」
ismfileget (8)

路上に白鷺が倒れていると思い近づいてみたら、
なんとビニールのこうもり傘だった。

これは凄い! ホントに白鷺そのものに見えます。

こちらは高島愼助教授の伊勢型紙作品。
17.jpg

な、なまめかしい~!
教授にこんな一面があったとは…。



<つづく>


※参考文献・画像提供/「三ノ宮卯之助の力石(2)」高島愼助・高崎力 
               四日市大学論集 第17巻1号 2004
※参考文献/「随想 江戸力持力士 三ノ宮卯之助」伊東明 
         上智大学紀要37巻3号 1988
※画像提供/四日市大学高島研究室 高島・伊勢型紙作品
        /S氏による路上観察物件より「バード」
        /神戸商船大学図書館        
        /「広報こしがや・お知らせ版・わがまち この人」平成23年11月号

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終戦五十年を記念して

巨大な「カナマラ様」にめまいを覚えつつ、気持ちを立て直して力石です。

若宮八幡神社の力石群です。全部で11個あります。
CIMG1051~1
 =神奈川県川崎市川崎区
終戦50年目の節目の年の、平成7年に建立したものです。
碑文
「力石 大本山川崎大師平間寺 貫主 高橋隆天 敬書

碑の裏面です。
CIMG1054.jpg

「終戦五十年 平成七年八月吉日建立 奉献 若宮八幡宮氏子総代会
          宮司 中村博彦代        施工羽田鈴木石材店

さて、卯之助石です。
これです。
CIMG1053 (3)
65×34×25㎝

「さし石 大木戸 仙太郎 岩附 卯之助 當所 四ッ家 伊之助 指之

卯之助と仙太郎が差した石を、
のちにご当地の力持ちの伊之助が、先輩にあやかろうとして差した石です。
ここに出てくる「大木戸 仙太郎」は、卯之助と同時代の力持ちで、
天保四年の御上覧力持番付には、
卯之助東の大関仙太郎関脇として出ています。

御上覧力持番付。
img685.jpg
画像提供/「石に挑んだ男達」

卯之助と仙太郎の名を併刻した力石は、神奈川県内に5個残されています。

さて、ここで一つの疑問が…。
故・伊東明上智大学名誉教授の1988年の論文に、
昭和62年の調査時、若宮八幡神社の力石、「奉納さし石」に、
岩附 卯之助の切付が発見された」

とあります。

現在、この神社には卯之助銘の石は先にご紹介した「さし石…」のみです。
保存された石の中には「奉納さし石」の刻字石はありますが、
この石は一部地面に埋め込まれ、他の石と重なっているため、
卯之助の名の確認はできません。

また、伊東先生は境内に放置されていたころに調査されていますし、
時として力石は人為的に移動されますので、論文にあるように、
昭和62年当時、卯之助銘の入った「奉納さし石」があったのかもしれません。

ここには力石とおぼしきこんな石もありました。
CIMG1063.jpg

保存された石の背後にでも置いていただけたらいいのですが…。
刻字がなくても、これらもまた立派な力石ですから。

こんなものも境内にありました。
大師河原の酒合戦(酒の飲み比べ)を記念したとっくりと盃です。
CIMG1058.jpg

慶安二年(1649)、大師河原の名主・大蛇丸底深と、
医者の地黄坊樽次が、三日三晩酒の飲み比べをしました。
それにちなみ、今でも毎年10月には大蛇丸側15名、地黄坊側17名が、
川崎大師平間寺で酒合戦を繰り広げ、若宮八幡神社まで練り歩くそうです。

ちなみに酒飲みは酒のことを「水鳥」なんて言うんですよ。
水の部首、さんずい(氵)に酉(とり)と書いて酒になるので…。
呑兵衛はどんな言い訳をしてでも酒飲みを正当化したいってわけですね。

でもこの八幡神社は実に面白い神社です。
おおらかで、しゃれっ気たっぷり。

なんだかウキウキして、おみくじを引きました。
珍しい扇のおみくじです。

そして出ました! 大吉が!

CIMG2231.jpg

願い事 叶う 恋愛 成就 

金運 宝くじに幸運があります



<つづく>

※参考文献/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
        /「随想 江戸力持力士 三ノ宮卯之助」伊東明 1988・10・15
         上智大学紀要 37巻3号

卯之助石を求めて東海道へ

埼玉県越谷市在住の卯之助研究者・高崎 力氏は、
卯之助石を求めて、ついに東海道へ足を踏み入れます。

調べてみるとその多くは、すでに地元の方々に発見され文書化されていました。
ここではそうした石を取り上げてみます。
まずは川崎市の川崎大師・平間寺です。

川崎大師の八角五重塔です。
CIMG1044.jpg
 =神奈川県川崎市川崎区・川崎大師・平間寺

川崎大師によると、
「八角は最も円に近い建造物で、これは包容力、完全性を象徴している」とのこと。

力石はこの塔の近くにあります。

説明板です。
CIMG1037.jpg

力石です。5個並んでいます。
CIMG1038.jpg

一番向こうから順に「虎龍石」「六十貫余」「雲龍石」
いずれにもご当地の力持ち「伊之助」の名前が入っています。

三ノ宮卯之助が持った石はこれです。
CIMG1039.jpg
71×44×28㎝  135Kg

奉納 三十六メ目 岩附 卯之助 指之
明治三拾八年八月十日 大師河原 石川氏 
當所 四ッ家 伊之助 指之

これは、昔、卯之助が差した石を、明治38年に大師河原の石川氏と、
四ッ家伊之助が差したもの。卯之助が差した年は不明です。
かつて卯之助が、
憧れの江戸力持ちの土橋久太郎や萬屋金蔵が差した石に挑戦したように、
今度は伊之助が大先輩の卯之助に挑戦した、
そういうことをこの石の刻字が物語っています。

そしてもう一箇所、
卯之助の名が入った石が残されています。
こちらの石にも四ッ家伊之助の名が追刻されています。

ここです。京浜急行・大師線・川崎大師駅のすぐそばです。
CIMG1057.jpg
 =神奈川県川崎市川崎区・若宮八幡神社

境内から子供たちの元気な声が聞こえてきました。
神社に併設されている幼稚園のお帰りの時間だったのです。
恐る恐る中へ入ると、なにやら怪しげな一画が…。
なんだろうと近づくと、ふいに異様なモノが目に飛び込んできました。

CIMG1059.jpg CIMG1061 (2)
黒光りした巨大な男性のシンボルと木の股。

なにしろ気が小さいのでワイセツブツなんたらになるのでは、と気になって、
写真にモザイクをかけてしまいました。

でもこのときはドキドキしながらも、これは絶対写真に撮らねば、と。
そんな私を尻目に園児たちはなんの屈託もなく元気いっぱい、
キャッキャ言いながら、シンボルの周りをかけっこしていました。

ここ若宮八幡神社は、
東京都大田区にある大師河原干拓の総鎮守
「八幡塚六郷神社」を分祀した神社だそうで、かなりの古刹。

境内にあるこの「金山神社」は、
巨大な男根を神輿にして練り歩く奇祭「かなまら祭」で有名な神社で、
若い女性や外国人には大変人気があるのだそうです。

ふうーっ…



<つづく>


※参考文献/「三ノ宮卯之助の力石(2)」高島愼助・高崎力 四日市大学論集
         第17巻1号 2004
        /「川崎市石造物調査報告書、力石、97-99」川崎市教育委員会
         1980
        /「神奈川の力石」高島愼助 岩田書院 2004

文化財になった卯之助石

前回お伝えしたように、
卯之助はかねてから憧れていた江戸力持ち、土橋久太郎らが持った石を、
その7年後の文政13年(1830)に、同じように差し上げて自分の名前を刻みます。

これが江戸力持ち界へのデビューとなりました。
23歳で江戸力持ちの仲間入りを果たした卯之助の、その後の快進撃がすごい。

年号が天保と変わった翌天保2年(1831)、
地元越ヶ谷の有力者、会田一族の会田権四郎の贔屓を受けるようになります。
このとき卯之助24歳。その証しとなった力石が残されています。

これです。
img233 (2)   
画/酒井正氏

CIMG1090 (2)
78×65×32㎝         埼玉県越谷市越ヶ谷・久伊豆神社

奉納 五十貫目 天保二辛卯年四月吉日 三ノ宮卯之助持之
本町 曾田権四郎」

高崎氏は言います。
驚いたことに、一つの力石のために占有地があり、入口には一対の石灯籠、
台座上には注連縄が巻かれた力石が祭られている」
さらに驚くことに、秋の例大祭で神官は、真っ先にこの石に詣でて祝詞を奏上。
力石の背後の榊に神の降臨を願い、祭礼の無事成功を祈るのです」

この力石は一昨年、越谷市文化財(有形文化財・歴史資料)の指定を受けた
卯之助石6個のうちの一つです。
この文化財指定は、朝日、毎日、読売の各新聞に大きく報道されました。

その一つ、毎日新聞の記事の一部です。
img683.jpg

現在、全国で文化財に指定された力石は約400個
その大半が東京です。
地方で力石を文化財に指定することは至難のわざ。
私の住む静岡県では力石の文化財は皆無です。
指定申請すら門前払いという状況です。

日本一の力持ちを輩出した埼玉県でさえ、今回の指定を加えてもわずか14個
今回の決定までにも数年の歳月がかかっています。

越谷市教育委員会では、卯之助石を文化財にした理由をこう言っています。

「今は失われてしまった力持ちという風習や、力持ち興行、力石奉納という
風俗慣習を理解することができる民俗学的に貴重な資料である」
「当地にとって貴重な歴史的文化遺産である」

高崎氏の60数年に及ぶ苦労が見事に実った瞬間でした。
逆に言えば、60有余年の歳月を経なければなかなか実現しなかった、
それほどに力石の文化財指定は困難であるということなのですね。

昨年、越谷市へおじゃました折、
私はS氏と酒井正氏のご案内で、久伊豆神社を訪れました。
文化財になった卯之助の石を見た後、お二人に誘われるまま本殿裏へ。

あれも、力石だと思うんですよ」

そういうお二人の指差すほうを見ると、石が一つ無造作に転がっていました。
CIMG1095.jpg

   力石残夢の杜にまどろみて   さやこ

足を踏み入れることができないので、玉垣の間から写真を撮る。
拡大すると何やら文字が…。
CIMG1095 (2)

「二拾貫余 □□

やっぱり力石です。
未登録の石です。

四日市大学の高島教授は常々言っています。

「刻字は力石の歴史的背景の指標となるが、
見事な刻字のある力石のみに文化的価値があるのではない。
素朴な自然石であっても多くの人々が汗し親しんだ力石です。大切にしてほしい」

その思いは、S氏も酒井氏も私も、もちろん高崎氏も同じだと思います。

    力石(いし)の背を色なき風の撫でゆけり  酒井正



<つづく>

<追記>

またまた失敗です。埼玉在住のS氏からのご指摘です。
久伊豆神社の本殿裏の石、すでにS氏が2006年に調査済みでした。
ご案内いただいた時、もう一人の同行者・酒井氏に「調査済み」をお話した際、
撮影に夢中だった私が聞き漏らしてしまったようです。

改めてご報告いたします。

「奉納 二拾貫余 文政九戌九月吉日 新町 栄蔵」
56×32×27㎝

S氏によると、
宮司さんに訳を話してやっと内側に入れてもらい、撮影・採寸をしたとのこと。
Sさん、早とちりしてごめんなさい!
それにしてももったいない。もう少しきちんと保存していただけたら、と思います。


※参考文献/「三ノ宮卯之助の力石(2)」高島愼助・高崎力
         四日市大学論集第17巻1号 2004
        /「日本一の力持ち 三ノ宮卯之助の生涯」高崎力 
         平成16年講演資料
        /「越谷市文化財調査委員会会議録」「指定文化財調書」
         平成21、22、25年
         /「力石を詠む(五)」高島愼助・板羽千瑞子 岩田書院 2011ほか
※画像提供/酒井正
※情報提供/S氏

江戸力持ちに憧れて

卯之助が憧れていた江戸力持ちがいます。
越谷市在住の卯之助研究者の高崎 力氏はこう言っています。

「卯之助が憧れ、尊敬していたのが、
江戸力持ちの芝・土橋久太郎と飯田町・萬屋金蔵で、
後に卯之助が辿った道程も、彼らの足跡であった」

ここに出てくる土橋久太郎と萬屋金蔵は、文化文政期に活躍した力持ちで、
久太郎は文政6年ごろの江戸力持番付の東の大関
金蔵は西の大関という大物でした。

彼らを描いた「御蔵前八幡奉納力持錦絵」(国安画)です。
img058.jpg
酒樽3個と米俵一俵を足で差し上げているのが土橋久太郎

img057 (3)
八十八貫目の石を両手で差し上げているのが萬屋金蔵

この二人はその後二組に別れて、それぞれ関西へ興行の旅に出ます。
後に卯之助もそれにならい、この大先輩たちの旅をたどりますが、
このことは稿を改めてご紹介します。

卯之助がこの二人に憧れていた証しの石が残されています。

これです。
img584.jpg
 千葉県木更津市中里・観蔵寺     88×47×38㎝

「五十五貫余 文政癸未冬十月六日此自持 於之内田 子之刻其人誰東都
三有力 芝土橋久太郎 飯田町直吉 萬本店 金藏 彌吉 定七 
□右衛門 権藏 権治良 
文政庚寅七月 武刕岩附 卯之助 江戸本郷 久蔵」

石の刻字から、
江戸力持ちの有力な力士3名が、文政6年(1823)に持った石を、
その7年後の文政13年に卯之助と本郷久蔵が持ち、
先輩たちの名前と並べて、自分たちの名を追刻したということがわかります。

この「三有力」のもう一人、飯田町直吉は、錦絵に描かれた金蔵の隣りで、
「大亀」という120貫目の石を足で差している関脇直吉のことです。

尊敬する偉大な先人にあやかり、その同じ石を自分も持ったという誇りが
この石から読み取れます。

この時、卯之助23歳。

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卯之助を描いた絵本「力くらべ」  蒲生手作り絵本クラブ制作

千葉県木更津市・観蔵寺にあった卯之助銘のこの石を見た高崎氏は、
卯之助は埼玉から千葉の木更津まで来て力持ちを行ったと思い込み、
「それならこの近辺には卯之助石はまだあるはず」と、一年ばかり探し回った。
ところがいくら探してもこれ以外は見つからない。

そうこうするうちに、観蔵寺のご住職から連絡がきた。

「三代前の住職の時、木更津から海苔を積んだ舟が運航していた。
ある時、帰り舟に力石を積んできて寺の近くの山口市郎兵衛のところへ置き、
近在の若者が集まって力持ちをやった。
のちにその石を観蔵寺で預ることになったんだ」

なあんだ、江戸から運ばれてきた石だったのか、
どおりでいくら探してもほかに出なかったわけだ、という次第。
高崎氏もご苦労されてます。

img680.jpg
大正2年4月、舟で日本橋浜町から千住へ花見に行くところ。
舟の舳先に力石が置かれています。        「週刊朝日」より

昔はこんなふうにして石が運ばれたんですね。
花見にも持っていき、
船上でも桜の花の下でも、みんなで石担ぎをして楽しんだそうです。


    ひとひらの はなびらふわり ちからいし   
                                 高島愼助



<つづく>

※参考文献・画像提供/「三ノ宮卯之助の力石(2)」高島愼助・高崎力 
               四日市大学論集第17巻1号 2004
               /「日本一の力持 三ノ宮卯之助の生涯」高崎力 
               平成16年講演資料
               /「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
               /「週刊朝日」第10巻第10号 1976
               /「見世物研究」朝倉無声 1928
※参考文献/「力石を詠む(七)」高島愼助・板羽千瑞子 岩田書院 2014

卯之助と行動を共にした人たち

三ノ宮卯之助がどのような道程を経て、
日本一の力持ちになっていったのか、その足跡をたどります。

卯之助がその名を初めて刻した力石が残されています。
このとき卯之助18歳

img660 (2)
75×41×33㎝   埼玉県久喜市太田袋・琴平神社

奉納 文政八酉正月吉日 五拾貫目余 當所 高橋繁蔵持之 
長宮村 肥田文八持之 太田袋村 □井□持之 同村 □□□ 
三ノ宮村 三橋卯ノ□□□

三橋卯之助となっているのは、生家の近くに「三野宮橋」があることから、
「三野宮橋卯之助」としたが、長すぎるので「三橋」としたとの説があります。

この石に卯之助と共に名を残した肥田文八は、長宮村の剛の者で、
卯之助が元荒川の下流、
瓦曽根河岸場(現・越谷市瓦曽根)で働きだした折りに知り合った人物です。
卯之助はこの文八を師と仰ぎ、次第に力をつけていきます。
親子ほど年の離れた二人ですが、以後、10年ほど行動を共にしました。

この二人はこの8年後の天保4年、将軍への力持ちご上覧の折、
その番付に卯之助が東の大関、文八が西の大関としてその名を連ねます。

img677.jpg
「力競べ・石担ぎの図」          画/酒井正氏

肥田文八のもとで、めきめき頭角をあらわした卯之助は、
やがて江戸へ進出していきます。その第一ステップとなったのが、
江戸本所の権治郎との出会いです。

権治郎と卯之助の名が併刻された力石(2個)。
img676.jpg
 東京都江戸川区北小岩・北野神社

22歳になった卯之助が次に行動を共にしたのが、
江戸本郷の小嶋久蔵です。
久蔵銘の力石は現在5個確認されていますが、
そのうちの4個に卯之助の名が併刻されています。

卯之助と久蔵の名が刻まれた力石。
img659 (2)
73×51×31㎝   埼玉県越谷市瓦曽根・最勝院観音堂(廃寺)  
作図/伊東明上智大学名誉教授

奉納 七十メ余 三ノ宮卯之助 江戸 本□久蔵 瓦曽根 若者中

最勝院は、旧日光街道に面し近くに瓦曽根河岸場があったため、
河岸場の船荷が少ない時は、相撲や力比べが盛んに行われ賑わったそうです。
河岸場人足だった卯之助も力技を見せて、見物人を大いに沸かせたことでしょうし、
そんな卯之助に、ほのかな恋心を抱いた娘っこもいたかもしれません。

    赤ら顔担ぐ彼見て頬染めて  大江美咲


そしてこの石は、
平成2年伊東明教授が調査したときには存在していたものの現在は所在不明
伊東先生は、貴重な記録を残してくださったことになります。

また高崎 力氏は、
古い河岸問屋を尋ねたものの、古い文書は戦後処分したとのことで、
卯之助に関する記録は見つけることが出来なかったそうです。

こちらは、さいたま市岩槻区釣上の神明神社に残る
卯之助と久蔵併刻の「雲龍石」(37貫目)です。
img663.jpg img661.jpg
71×55×25余㎝    実物                  拓本

奉納 雲龍石 文政十三年寅三月吉日 
武刕岩附領 三ノ宮 三橋卯之助 江戸本郷 小嶋久蔵 
釣上新田 願主 縄手 守田吉右エ門同領恩間村 木村重次良

このとき卯之助、23歳
小嶋久蔵とは26歳までの4年間、行動を共にしました。
img662.jpg
作図/酒井正氏

    稲妻やギロリ見上げる雲龍石   斎藤呆人


<つづく>


※参考文献・画像提供/「三ノ宮卯之助の力石(2)」高島愼助・高崎力
               四日市大学論集 2004
               /「日本一の力持 三ノ宮卯之助の生涯」高崎力
                平成16年 講演記録
               /「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
※画像提供/「郷土の石佛・写生行脚一期一会」酒井正 私家本 平成22年
        /「岩槻市史 第5節 町と村のくらし 力石」岩槻市
         資料提供S氏

まな板になっていた版木

今から64年前の昭和26年(1951)、
高崎 力氏は郷土史家で大袋村の元村長、瀬尾哲太郎氏から、
「浮世絵を見せる」との連絡を受けました。

この時、高崎氏、24歳。
埼玉県越谷市内の中学校の社会科教諭でした。

高崎氏は瀬尾氏とともに「浮世絵」があるという三野宮の農家に出向きます。
そのとき目にしたのが、
今まで見たこともない人の群像が陽刻された版木。

これです。
img669.jpg
撮影/S氏                     =向佐家蔵=

高崎氏が訪ねた三野宮の農家というのは、
日本一の力持ち力士、三ノ宮卯之助の生家「向佐(むかさ)家」だったのです。
版木はまな板代わりに使用されていたので裏面は包丁の傷だらけ、
中心部は横一線にひび割れていたという悲惨な状態。

しかし、
この版木との出会いが、高崎氏を卯之助研究へ駆り立てたきっかけになりました。

上の写真は、高崎氏が版木を目にしてから59年後にS氏が撮影した版木です。
S氏によると、
この家のおばあちゃんが市へ貸したら青く塗られて戻ってきたと言い、
少々立腹気味だったとか。

そんなわけで、黒かった版木がごらんのように青くなっちゃったんです。
まな板にされたり青く塗られたり、版木も数奇な運命をたどっています。

版木に彫られていたがこちらです。
img673.jpg
三ノ宮卯之助の興行引札  =高崎力氏・高島愼助教授蔵=

高崎氏が郷土史の研究を始めたのは、22歳のとき。
昭和41年には大相模見田方遺跡の発掘調査、その後は「越谷市史」の編さん、
「越谷市郷土研究会」など、郷土にしっかり根を下ろした活動をされてきました。

そうした中で卯之助と出会い、
この埋もれた郷土の偉人を世に知らしめる調査に没頭。
卯之助研究の第一人者として、数々の成果をあげてきました。

高崎氏が調査のために歩いた行程です。

img658 (2)

高崎氏は、「力なし(弱虫)」と笑われていた少年卯之助が、やがて、
江戸力持番付の東の大関となり、11代将軍家斉のご上覧の栄を受けるなど、
出世の階段を登る中で、卯之助に影響を与え行動を共にした
3人の力持ちと多くの力石を見出していきます。

三ノ宮卯之助
文化4年(1807)の卯年、岩槻藩領三野宮村(現・越谷市三野宮)に生まれる。
虚弱体質で周囲から「力なし」とあだ名され、
その悔しさから鍛錬に励み、村一番の力持ちになった。

10代半ばごろ、米俵を積んだ舟が浅瀬に乗り上げて動かなくなったとき、
卯之助が川へ潜り舟底を押し上げ、とうとう舟を深みへ動かした、
そんなエピソードも残っています。

img675.jpg
今はお菓子やお守りになって生まれ故郷に貢献しています。

次回は、
この稀有の力持ち力士の栄光の時代から、
その真っただ中、毒殺されたとのうわさのある48歳での謎の死までを、
高崎氏の調査論文に即してたどってまいります。



<つづく>


※参考文献・画像提供/「日本一の力持 三ノ宮卯之助の生涯」高崎力 
               平成16年の講演記録より
              /四日市大学論集「三ノ宮卯之助の力石(2)」
               高島愼助・高崎力 2004
※画像提供/S氏
     

60有余年、卯之助を追う

「今にして思えば、ほかの石もやっておればよかった」

昨年2月、越谷市中央市民会館で行われた講演会場で、
同市在住の高崎 力(つとむ)氏は、そう言っていたずらっぽく笑った。

この講演会は、
越谷市三野宮出身の力持ち力士、三ノ宮卯之助の力石6個が、
市の有形文化財・歴史資料になったのを記念して行われたもので、
講師は四日市大学の高島愼助教授が務めました。

CIMG1087 (2)
高島教授  =埼玉県越谷市・中央市民会館

この日、市の職員が用意してくださった最前列に、
埼玉県在住の研究者、高崎 力氏、酒井 正氏、氏がそろって着席。
どなたとも初対面の私は、高崎氏とS氏に挟まれるようにして座りました。

ここでの高島教授の講演は11年ぶりだそうで、開始を待つ間、三人の間で、
「相変わらず教授はパワフルだなあ」
「この前来た時とちっとも変っていませんねえ」と会話が弾みます。

11年前、酒井 正氏は、
教授の「熱情溢れる話」を聞いたことで、
「この時を境に、私の中へ力石と力持ちたちがずいっと入り込んできた」
とその著作に記しています。

img666.jpg
画/酒井正氏

酒井 正氏は文字のデザイナー
そして石仏・石造物の研究者でもあります。
その石仏を求めて、埼玉県内を始め遠く岐阜県や長野県まで行脚。
平成22年には、約2000体を写生した石仏の本を出版しました。
酒井氏のことは稿を改めてご紹介します。

そしてこの講演会以来、
私のよき相談相手になっていただいているのが氏です。
資料の提示やアドバイス、「謎の大王石」探しには謎解きに協力してくださるなど、
今では得難い先輩です。

「若い頃から古い歴史のしみ込んだ街を歩くのが好きだった」S氏は、やがて、
赤瀬川原平、南伸坊氏らの「路上観察学」にのめり込んでいったそうです
S氏の作品「フェイス」
1斎藤路上観察
工場の壁面に取り付けられている換気扇。 
 =人のちょっと困った顔のように見えるところからフェイスと命名=

そのS氏の関心が力石に移ったきっかけは、
卯之助の力石が神奈川県江の島で見つかったという新聞記事でした。

img667.jpg
卯之助の石の発見を伝える1998年(平成10年)の読売新聞の記事。

以来S氏は関東一円の力石探索に情熱を傾けるようになり、
数多くの新発見をしていきます。
その地道な調査への評価は高く、
高島教授の最も信頼する協力者として、力石界の一翼を担っています。

S氏のこともまた、稿を改めてご紹介します。

この日披露された卯之助の「大磐石」の拓本
CIMG1088 (2)
113×91×30㎝ 重さ約520㎏

背後でこれを持つ人と比べて見てください。
いかに大きな石かおわかりいただけるかと思います。

三ノ宮卯之助という稀有の力持ちを生んだ埼玉県。
その郷土の偉人を生涯かけて追い続けた人が高崎 力氏(88)です。

この道60有余年。


次回は卯之助研究の第一人者・高崎 力先生のお話です。



<つづく>


※画像提供/「郷土の石佛・写生行脚一期一会」酒井正 平成22年 私家本

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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