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卯之助を追い続けた男たち

埼玉県には力石に関する日本一が4つもあります。

① 力石の発見数が2、589個とダントツの日本一。
② 日本一古い年代刻字の力石がある=寛永九年(1632)。
   =久喜市樋ノ口・八幡神社。
③ 日本一の力持ち・三ノ宮卯之助の出身地である。

故郷から遠く、兵庫県の魚吹八幡神社に建立された三ノ宮卯之助像
CIMG0404 (2)
 =兵庫県姫路市網干。平成18年建立。

天保8年2月、大阪・天満宮で三ノ宮卯之助一行が興行したさい、
氏子の網干廻船の船仲間たちが神社に招き興行したようで、
力石には卯之助の名が刻まれています。

④ その卯之助がさした日本一重い力石、610㎏(実測)がある。

610Kgの「大磐石」
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 =埼玉県桶川市・稲荷神社   画/酒井正氏

そして、もう一つ特筆すべきことは、
ここには優れた力石研究者が3人もいるということです。

力石の研究には恵まれた土地柄とはいえ、
どの方もそれぞれ得意分野を持ち、一様にこよなく力石を愛する方々です。

「咳をしても一人」などの自由律俳句の俳人、尾崎放哉(ほうさい)はいう。

「草や木は風や雨にあたれば饒舌家になるが、
石は雨が降ろうが風が吹こうが只之 黙また黙。
それでいて石は生きているのであります

今回は「三ノ宮卯之助」をテーマに、
埼玉県在住の研究者、高崎 力氏、酒井 正氏、氏のお三方と、
力石調査のため、軽自動車に寝袋を積んで全国を駆け巡り、
その成果を書籍や論文にまとめ上げた高島愼助四日市大学教授の
貴重な資料に助けられながら、このシリーズを進めていきたいと思います。

卯之助を描いた絵本「力くらべ」
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埼玉県越谷市の「蒲生手作り絵本クラブ」による。

さて、江戸時代から明治大正、昭和初期頃まで、
全国の若者たちに愛されてきた力石ですが、
時代が人力から動力へ、また娯楽の多様化などで急速に衰退していきます。

明治を代表する力持ち、神田川徳蔵が、
初めてバーベルを使い「全朝鮮力道大会」で優勝したのが、昭和7年のこと。
これが力石からバーベルへ、
見世物興行から重量挙げというスポーツへと移行していった転換点でした。

しかし、
そうした嬉しい発展があった陰で、力石の多くは放置されてきました。
打ち捨てられ、時代に置き去りにされた石ゆえに目を止める人もおりません。

私が学芸員さんや戦国武将好きの歴史愛好家たちから、
「あんなマイナーなもの、よくやるねえ」
「あんな石っころのどこが面白いの?」
と笑われたのと同じ経験を、力石研究者は少なからずお持ちです。

左の写真は民話「力持ちの平六」ゆかりの、
平六地蔵露天風呂前の草むらに放置されている力石。 =静岡県賀茂郡松崎町
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右は賀茂郡東伊豆町稲取の八幡神社の木の根っこに置かれたままの力石。

笑われても無視されても、それでもめげずコツコツ調査してきたのは、
かつての若者たちの喜び悲しみがいっぱい沁みこんだ石が愛おしく、
そしてまた、そうした庶民の歴史には、権力者の歴史同等もしくは
それ以上の価値があると確信できたからなのだと私は思っています。

それを掘り起し、世に知らしめる使命のようなものを、
みなさんも私も胸に秘めてやってきました。
そして、私は思います。
多くの研究者が去った後も、
平成5年に亡くなるまで、一人コツコツと力石探求に力を注いでこられた
伊東 明上智大学名誉教授も、きっと同じ思いだったに違いないと。

その伊東先生の意志を継いだのが、最後の弟子の高島教授です。
高島教授は各地の教育委員会や郷土史家の助けを借りながら、
ついに全国の力石を集大成されました。
伊東先生もさぞ、喜んでくださっていることでしょう。

伊東先生が描き残された力石のスケッチ。
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 =東京都墨田区・三囲神社

  
  

      --杵淵彦太郎氏に
         君、石を愛し給えば。


    石は黙ってものを言ふ
   直に心にものを言ふ。


    雨には濡れて日に乾き  
    石は百年易(かわ)らない。

    流れる水にさからつて
   石は千年動かない。
             
            
                  堀口大学「人間の歌」



<つづく>

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静岡の火消しと新門辰五郎

突然ですが、下の石碑は、
静岡市に残る新門辰五郎建立のお墓です。
碑にはこう刻まれています。

「先祖累代墓  慶応四戊辰仲秋下旬 新門辰五郎□□」

これは、
幕末の鳥羽・伏見や戊辰戦争で亡くなった子分たちを供養した墓なんです。
新門一門はこれらの戦いに補助要員として危険な仕事に従事、
辰五郎は子分百数十人を失います。

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 =静岡市葵区常盤町・常光寺

江戸火消し・浅草十番組「を組」の頭、新門辰五郎と静岡とのつながりは、
最後の将軍・徳川慶喜公の護衛として、ここ静岡に来たことから始まります。

慶喜公は明治元年から約30年間、この静岡市で暮らします。
その間にお子さんをワンサカつくります。
こちらへくるとき、数多の側室や妾を整理して二人だけ連れてきたそうで、
その二人が一年交代で出産。

二人は大変仲良しだったようで、
後年、慶喜公から揃って、
「夜伽御免」つまり「夜のお勤めの退職」を言い渡されます。
ちなみに、新門辰五郎の娘・お芳も慶喜公の妾の一人でした。

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常光寺の裏にある「おでん横町」。終戦後から存続している飲み屋街です。

慶喜(よしのぶ)は、
なにしろ30年も静岡の住人でしたから、家族共々あちこちに足跡を残しています。
今でも静岡市民は、「けいきさん」「ケーキさん」 と親しみを込めて語ります。

新門辰五郎の在静はわずか3年でしたが、
彼もまた塩田事業、来静した旧幕臣の世話、玉川座建設などの功績を残しました。
そしてそのうちの一つが、火消しと江戸木遣りです。

江戸木遣りの伝統を今も唄い継ぐ静岡木遣り保存会「東嘉会」の面々。
女性もおりますよ。
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 =静岡市・静岡浅間神社・八千戈神社前

明治元年、市内での出火の際、辰五郎は消火を指揮し評判を取ります。
そして町の左官たちを集めて、町火消し「静岡消防組」4組を創設します。
今の静岡市消防団の基を作ったのは、新門辰五郎だったのです。
この消防組の士気を鼓舞するために伝授したのが、江戸木遣りだったんですね。
半天東嘉会 img653.jpg
代々受け継がれてきた「渡辺嘉吉の火消し羽織」(まとい)

新門辰五郎が伝授した江戸木遣りは、静岡の左官職人に受け継がれましたが、
新門一門が帰郷して一時衰退します。
しかし明治末、浅草鳶頭の中井東太郎が来静して、再び伝授。
このとき教えを乞うた左官職の渡辺嘉吉が「東嘉会」初代となります。

ちなみに「東嘉会」は、
浅草鳶頭の東太郎の「東」と初代嘉吉の「嘉」からつけたもの。

現在「東嘉会」は三代目渡辺嘉吉に受け継がれていますが、
実は恥ずかしながら、私はこの三代目の教えを受けたことがあるんです。
木遣りなど一度も聞いたことがないのに、なぜか飛び込みました。
私、「材木屋」なんです。何事にも「(木)」が多いから。

ええええ ああ えええおお
わかあつさあよ
ハー ヨーイヤネ

む、むずかしい!
素人の悲しさで、息継ぎがうまくできないものだから酸欠になって気が遠くなる。
そして案の定、わずか3回で脱落
でも、名人・三代目渡辺嘉吉の温かい人柄に接し、
その豊かな美声を身近にお聞きできただけでも、飛び込んだ甲斐がありました。

消防組の珍しい絵馬です。
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 =御殿場市竹之下・宝鏡寺    「地方史研究御殿場」より

慶喜公は家康と共に、静岡市民に今も根強い人気がありますが、
反面、新門辰五郎の影が薄いのが残念です。

以前、会津を旅したとき、地元のガイドさんが意外なことを口走りました。
「エッ、静岡からですか? 慶喜がいたところですよね。
慶喜は鳥羽伏見の戦いのとき、卑怯にも自分だけ船で逃げたんです」

あのときは会津藩のみならず新門一門も置き去りにされたのですが、
会津藩は最後まで幕府を助けたのに裏切られて、
白虎隊の悲劇やらなにやらあって恨みがある。ガイドさんのキッとなった顔を見て、
思わず慶喜公に成り代わり、 「す、すみません」

福助

「でも長州よりずっといいです。
長州人なら、宿を断るところもあるくらい嫌われていますから」

恐るべし!
幕府崩壊から150年。恨み骨髄、孫子の代まで。
そうですよねえ。人間って、楽しい事や有難い出来事より、
つらいことや悲しみ、怒りの方が忘れがたいですものね。

してみると、新門辰五郎が静岡市民に忘れられてしまったのは、

いいことをしたからなんですね、きっと。



※参考文献・画像提供/「静岡木遣集」木遣り保存会・東嘉会 平成16年
               /「地方史研究御殿場」「富士山東麓の絵馬」渡辺好洋
                2002

江戸の火消し

江戸時代の消防組織は三系統あったそうです。
幕府直轄の大名火消し定火消し(じょうびけし)。これと、
町人で組織された町火消し、つまり「いろは四十八組」の三つです。

大名火消しはその名の通り、大名の私設消防隊です。
でも、将軍家の墓所や米蔵などの消防義務も課せられていました。

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有馬藩江戸屋敷の火の見やぐら  「風俗画報」より

大名火消しで有名だったのは、加賀百万石・前田家の「加賀鳶」
江戸火消しの花形といわれ、
その装束の華麗さは、浮世絵師の格好の題材になったようです。

なぜ「鳶」かといいますと、昔の消防は水で消し止めるのではなく、
周囲の建物を鳶が使う鳶口で壊して延焼を食い止めるという
「破壊消防」だったからです。

これがその「鳶口」
img627.jpg

木場で鳶職たちが木材をひっかけて使う道具です。
これで家屋をひっかけて倒し、延焼を防いだんですね。
「川並鳶」と呼ばれていたのは、江戸の木場で働く男たちのことです。
火消しの鳶のことを「臥煙(がえん)といっておりました。

さて、「定火消し(じょうびけし)」です。
これは明暦の大火で危機感を募らせた幕府によって、
機能性を重視して組織された火消しで、旗本にその指揮をとらせ、
江戸城をとりまくように配備されていました。
定火消しの臥煙は、多い時で2000人ほどいたそうです。

定火消し屋敷です。
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定火消し屋敷には四方が開いた火の見やぐらがあり、半鐘と太鼓があった。
「尾張屋版江戸切絵図」より

丸太を枕にして寝ている臥煙たち。
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半鐘が鳴ると不寝番が丸太を叩いて起こした。 「江戸の花」より

さて、ここからはいよいよ「いろは四十八組」の町火消しの登場です。
町火消しは、それまであった店火消し(たなびけし)を発展させたもので、
八代将軍吉宗のとき、南町奉行の大岡越前守が名主たちの協力を得て着手。

隅田川以西の江戸市街を20町ごと一組として47組つくり、
それに「いろは四十七文字」をあてはめました。
火消し人足は、鳶と店人足合わせて1万数千人を数えたというから凄い。

ここでちょっと寄り道。
「いろは」にちなみ、泉岳寺の「いろは石」をお見せします。
いろは泉岳寺
東京都港区高輪・泉岳寺・妙海尼の墓所。 撮影/S氏

泉岳寺は、
主君の仇を討った大石内蔵助を始め、赤穂浪士四十七士が眠るお寺です。
この石には「いろは かな可き」(いろは仮名書き)と刻字があります。
「いろは四十七文字」を「四十七士」になぞらえて刻まれたものと思われます。
そしてもう一つ、いろは文字には隠された暗号があって、
それが「とかなくてしす」(咎なくて死す)と読めるところから、
罪もなく死んでいった義士たちを暗示しているとも言われています。

残念ながら、これが力石だったかどうかは不明です。
みなさんも泉岳寺へ行かれたら、ぜひ見てくださいね。

で、元へ戻って、町火消しの「いろは」についてです。
この「いろは四十七組」はのちに、
「へ」は「屁」、「ひ」は「火」、「ら」は「摩羅」に通じるとして嫌われ、
代わりに「百」「千」「万」とし、
それに語呂の悪い「ん」を「本」にして加え、四十八組となりました。

img649.jpg

前回ご紹介した力石に、「百組」と刻字されていたのは、
この「町火消し百組」のことだったのです。
百組の地域は、南茅場町、本八丁堀、亀嶋町などで、火消し人足は141人
力石に刻まれた「長吉」「平蔵」は、
この「町火消し百組」に所属していたことになります。

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神奈川県川崎市・平間寺(川崎大師)にある「江戸消防記念碑」

これは、石工の酒井八右衛門が、
「いろは四十八組」の名を永久に伝えるため、明治21年に起工。
いろは歌弘法大師作と伝えられているところから、
大師ゆかりのこの寺に建立したのだそうです。
火消しの組や人名を刻んだ石の壁が、記念碑をグルリと囲んでいる様は見事で、
一見の価値があります。

この平間寺(川崎大師)には、立派な力石がたくさん保存されています。
またの機会にご紹介します。



<つづく>


※参考文献・画像提供/「江戸の火事と火消」山本純美 河出書房新社
               1993 「風俗画報」明治31年12月
               /「江戸の火事」黒木喬 同成社 1999 
                「江戸の花」上編 東陽堂 1898
               /「大江戸今昔マップ」かみゆ歴史編集部 新人物往来社
                2011 「尾張屋版江戸切絵図」

「百組」って何?

前回のつづきの資料が間に合わず、時ばかりが過ぎてゆく。トホホ。
で、そちらは揃い次第ご披露するとして、
今回は力石に刻まれた不思議な文字のお話です。

今までにもたびたびお見せした「石観音堂」の力石です。
CIMG1024 (2)
76×51×24㎝   =神奈川県川崎市川崎区観音

石の中央に大きく「五拾八貫余」と彫られたこの石に、
謎の文字「百組」が刻まれています。
 
八町堀亀嶋平蔵 本八町堀一町目 権平 五拾八貫余 長五郎
 百組 長吉 大嶋村直吉 伊之助

お馴染みの石の平蔵の名も見えます。

もう一つご紹介します。
DSCF0233.jpg
50余×34×2㎝   =東京都練馬区高野台・長命寺 撮影/S氏

車ト石 六十五貫目 百組□ 持之 奉納寛政三年 八町堀亀嶋平蔵

これは埼玉在住のS氏が、2009年に発見した力石です。
こちらにも平蔵の名が…。このとき平蔵、35歳。

S氏によると、「百組」と刻字された力石は、現在この2個しかないそうです。

では、この「百組」とはなんなんだということですが、
これは、
江戸で組織された「町火消し四十八組」のうちの一つなんですね。
まずは江戸の火消しの世界を、ちょこっと覗いてみたいと思います。

img628.jpg
町火消しの行列             「風俗画報」より

「火事と喧嘩は江戸の華」なんてことがいわれてきました。
災害を江戸の華だなんて粋がっている場合かよ、と思いますが、
それだけ火事も喧嘩も多くて、江戸の名物になっていたということのようです。

なにしろ江戸後期には、人口120万人という世界最大の過密都市だった江戸。
一旦火を出すと、関東平野を吹きまくるからっ風にあおられて、
あっという間に大火になった。

このお江戸では、
江戸時代の267年間に大小合わせて1798件もの火事があったという。
中でも二日間にわたり燃え続けた「明暦の大火」=明暦3年(1657)=では、
死者10万人以上、江戸城から大名屋敷、町屋まで江戸の大半を焼き尽くすという
壊滅的被害をもたらしました。

これをきっかけに、幕府では防災都市づくりに着手、
消防制度の整備を本格化したといわれています。

img647.jpg img648.jpg
町火消し「ろ組」の革羽織  こちらは武家用の火事羽織 「守貞漫稿」より

江戸っ子の気風として、前述の「火事と喧嘩は江戸の華」のほかに、
「宵越しの銭は持たない」という言葉があります。

これはあまりにも火災が多いので、銭を貯めてもどうせ焼けてしまう。
そんならいっそ、その日の稼ぎはその日のうちに使ってしまったほうがよい、
そんな潔さと負け惜しみの気風を現わしているんだそうです。
だからこんな川柳も生まれたんですね。

  江戸者の生まれそこない金を溜め

まあ、使おうが貯めようが自分が稼いだ銭金ですからね。
貧困に喘ぐ庶民から吸い上げた銭を他国へ貢ぐクンよりよっぽどマシ。

てやんでえ、
人のフンドシで相撲をとるこんな輩、悪臭紛々で、
江戸っ子の風上はおろか風下にだって置かれねえやい!

と、江戸っ子が申しております。



<つづく>


※画像提供/「風俗画報」明治31年12月
        /「近世風俗事典」人物往来社 昭和42年 
         原書は喜多川守貞の「守貞漫稿」

「大王石」やあーい!

明治初年に、フランス士官が撮影した一枚の写真。
その隅田川河畔に写っていたのは、柴田幸次郎なる人物が差した「大王石」、
というところまでは判明しました。

ですが、この人物と石のその後は全くわかりません。

石が置かれていた場所は、
今は埋め立てられてしまった薬研堀の一画で、元柳橋のたもと。
重さ約300Kg、立てれば人の胸まで届くような巨石ですから、
神社へ奉納するにも容易ではありません。
ですが、
立派な刻字もありますから、無下に砕いて捨てたということも考えられません。

埼玉在住の研究者S氏は、
「ひょっとしたら近くの学校の敷地内に埋められているのではないか」と。

img635.jpg
赤丸のところが薬研堀跡と「ひょっとしたら」の日本橋中学校です。
前方に両国橋が見えます。フランス士官が撮影したのはこのあたりです。

消えてしまったのは大王石ばかりではありません。
柴田幸次郎の消息も、「竿忠の寝言」に登場したのみで、
数ある資料にも全く出てきません。プツリと途絶えたままなんです。

力石を持つ力持ちたちは、例えば木場で働く鳶で構成する「川並派」とか、
車力の仲間で組織した「車力派」に所属していたり、
また鬼熊、本町東助、扇橋三治郎、神田川徳蔵などのような、
名実共に力のあるリーダーに率いられて、
一門、連中などを名乗ったりしています。

文政年間に、「幸」と「勝」の一字違いの
「神田 柴田勝次郎」なる人物が一門を構えて活躍していますが、
幸次郎もまた同時代に存在した人物で、居住区もほぼ同じです。
ですがその「柴田連中」の中に、幸次郎は見当たりません。

これは群馬県桐生市・桐生天満宮にある「柴田連中」の石です。
桐生市・天満宮6
112×70×20余㎝    提供/高島愼助教授

奉納 大亀石 文政十丁亥歳九月吉日 
江戸神田 柴田勝次郎 柴田紋次郎 柴田吉五郎 柴田文八 □人中

こちらはS氏が発見した「柴田連中」の石です。
浅草・待乳山聖天1 (2)
撮影/S氏 70余×50×20㎝ =東京都台東区浅草・待乳山聖天

小亀石 文政十歳 柴田連中

S氏は新発見だけではなく、既存の石の誤読や判読不明も解き明かす名人です。
ですが石探しは孤独な作業。不審者にも見られて苦労します。
でも見つけたときの喜びは格別です。
で、S氏はこんなことをもらしています。

「見つけたいということが以心伝心で力石に働くのか。それとも、
力石から放たれているかもしれない”X波”を甘受できる体質になったのか」

この思い、ものすご~くわかります。
私にも似たようなこんな経験がありますから。

  伊豆巡る「ここだここだ」と力石(いし)が呼ぶ  さやこ

鎮守の森から、限界集落の庭先から、峠の地蔵さんの傍らから、
「よく来たね。待ってたよ」と力石が私を呼ぶんです。ホントですよ!

ま、それはさておき、ここでその他の「柴田連中」の石をご紹介します。

img631.jpg
足立区大谷田・郷土博物館「寶来石」 67×44×24㎝

千住仲町旧日光街道沿いの商家の庭に置かれていたものだそうです。

S氏が新たに判読した「柴田勝次郎」の石です。
CIMG0802 (2)
86×48×35㎝  =台東区浅草・浅草寺

「大亀石 文政九戌歳 柴田勝次郎□□」

そしてもう一人、柴田を名乗る「柴田四郎右衛門」なる人物がいます。
柴田連中とのつながりは今のところ不明ですが、一門だった可能性はあります。

柴田四郎右衛門の名前が刻まれた力石です。
CIMG0812 (2)
110余×73×32㎝  =千代田区外神田・神田神社(神田明神)

奉納 大磐石 神田仲町二丁目 柴田四郎右衛門持之 
 文政五年壬午三月吉日

柴田勝次郎の名前は、
浜松歌国が著した「摂陽奇観 巻五十」(文政八年三月)に出てきます。
これは江戸力持ちの東大関・土橋久太郎率いる一行が、
関西で興行したときの記録です。

そのときの引き札がこれ。
img636.jpg
真ん中に柴田勝次郎の名が見えます。大阪・難波新地にて興行。高島教授蔵

ちなみに京都、大阪では「ちらし」、江戸では「引き札」といっていたそうです。
どちらも広告ですが、「世上にあまねくちらす」から「ちらし」、
客の気を引くから「引き札」といったと、「引札繪びら錦繪廣告」に出ていました。

ああ、本日も熱を帯び、長々と書いてしまいました。
最初のブログを見ると、この三分の一くらいの量。
ハイ。私の「力石病」という熱病、「病こうこうに入る」状態でございます。


浜の真砂は尽きぬとも 世に力石のネタは尽きまじ



<つづく>


※参考文献/「群馬・山梨の力石」高島愼助 岩田書院 2008
        /「東京の力石」高島愼助 岩田書院 2003
        /「引札繪びら錦繪廣告」増田太次郎 誠文堂新光社 1976
※情報・写真提供/S氏


今ふたたび、戦争と若者と力石の話

私は今、いたたまれない気持ちでいっぱいです。
某国会議員の「憲法9条を変える」という主張。
総理大臣のアメリカ議会での発言。

みんなあの忌まわしい戦争を忘れてしまったのでしょうか。
体験がなくても、書物の中で、沖縄で、それは充分追体験できるのに。
武器商人は戦争で儲けますが、戦場に駆り出される若者には死しかありません。

「大王石」探索は次回へ回し、
今再び、若者たちの声なき姿をここに出します。

日露戦争で亡くなった223名の若者たちの木像です。
CIMG1856 (3)
 =静岡県藤枝市岡部・常昌院(兵隊寺)

軍馬も犠牲になりました。
CIMG1849 (3)

江戸和竿師・中根音吉さんの息子の中根喜三郎氏は、
「竿忠の寝言」の中で、昭和20年3月9日の東京大空襲での体験を書いています。

焼夷弾と熱風の中を家族と逃げ惑い、たどりついた先が小学校だった。
喜三郎さんは迫りくる炎が熱くてたまらず、夢中で校舎の窓から中へ入った。
外にいた人たちはみな焼け死に、父の音吉さんも母親も兄弟たちも見つからず…。
一瞬にして家族6人を失い一人ぼっちになった喜三郎さんは、
神田の叔母の家へ。叔母さんに抱きかかえられた13歳の喜三郎さんは、
安堵して大声で泣きはじめ、二晩泣き明かしたという。
戦後は、沼津に疎開していて助かった妹の香葉子さんとの
二人だけの生活が始まったそうです。

日露戦争で亡くなった若者のお墓力石です。
CIMG1082 (5)
 =東京都江戸川区東小岩・万福寺

ご両親は戦争のために子供を産み、育てたわけではないでしょう。
22歳で散った息子のために、その息子が生前愛用した力石を、
こうして墓前に置いて自分たちをも息子をも慰めたのかもしれません。

第2次大戦に従軍。トラック島夏島にて戦病死した23才の若者の墓と力石
CIMG1066 (4)
 =江戸川区南小岩・円蔵院

こんな大きな力石を担げたのですから、さぞ逞しい若者だったことでしょう。
当時の若者たちは、徴兵検査の知らせが来るとみんなで氏神様に集まって、
「この力石を担げたら甲種合格まちがいなしだ」と念じつつ、担いだのです。
見事担げたら嬉しくて、石を担いだまま村中の人に見せて歩いたそうです。

でも、本心はどうだったのでしょうか。
戦争へ行きたくない、死にたくない、弾にあたりたくない…。
そんな若者たちや家族が向かった先が 「弾除け祈願の神社」です。

そんな神社の一つ、静岡市清水区由比・中峯神社
CIMG1937 (2)
この神社へは急な坂を延々と登り詰めなければたどりつけません。

上り口に力石が二つ置かれていました。これを担いだ若者たちは、
無事、故郷へ帰ってきたでしょうか。

30年前の昭和60年(1985)、
朝日新聞静岡支局で一冊の本を出しました。
「聞き書き・静岡の戦争」です。
その冒頭に編集部ではこんな言葉を載せました。

「戦後40年目の節目にあたる1985年夏は、
戦争と平和を考える上で、いくつかの象徴的な出来事があった。
中曽根首相の靖国神社公式参拝防衛費の対国民総生産(GNP)1%問題、
国家秘密法案など、どれ一つとっても、
これからの日本の進路に影響を及ぼさずにはおかないだろう」

昭和13年、
「日独青少年交歓事業」で来日したヒトラー・ユーゲント(ナチス青少年団)。
img488 (2)
 =大島・三原山山上で交歓する静岡の青年とヒトラー・ユーゲント。

これに先立ち、日本の若者たちもドイツへ行きナチ党大会に参加
「ドイツ国民のヒトラーへの忠誠心に感動した」という記録があります。

そうした戦争への愚かさ・悲惨さをふまえて刊行した「聞き書き・静岡の戦争」。
その発刊から30年、今、まさに同じ状況が日本に起きつつあります。
果たして今
当時の記者たちのように、この状況を危惧し権力の暴走に対して意見を言い、
真実を国民に知らしめるマスメディアが存在するだろうか。

カレル・ヴァン・ウォルフレンは、
著書「人間を幸福にしない日本というシステム」で、こういいます。
日本の大新聞は、日本の民主主義実現を阻む単独では最大の障害物」と。
20年も前の本です。
今も全く変わっていないのでは、というより事態はもっと深刻かもしれません。

憲法学者の小林節氏が、
「国民が叫ばなければならないのは、”憲法9条を守ろう”ではなく、
”9条を政府に守らせよう”であろう」と発言したそうですが、
言われてみればその通りです。
だって、主権在民ですから。

img530 (2)
第2次大戦でビルマの最前線に出撃する少年兵たち。

14や15の少年たちに愛国の仮面を被った国が「人を殺して死ね」という。
こんな理不尽で、こんな残酷な犯罪はありません。
でも憲法9条を変え戦争のできる国にするということは、
そういうことですよ

現憲法下で選ばれた議員には、憲法に従いそれを遂行し、
国民の平和と安全と健康な暮らしを守る義務があります。
そこから逸脱しないよう規制するのが法律です。
今、それに逆行していないでしょうか。

まだ学生だったころ、ドイツ文学の老教授が突然、こんなことを言ったんです。

学徒出陣で軍隊へ入りました。そこは暴力と狂気の世界でした。
あるとき上官から痰壺(たんつぼ)を持ってこいといわれて…。
それで新兵同士で三々九度をしろと…。
痰壺に溜まっていたを小皿にいれて何度も飲まされた
だから今でもぬるぬるした食べ物は、見ることもできません」

兵隊寺の戦死した若者たちの木像です。
CIMG1865 (3)

戦争を始めたがる人へ。
そういう気持ちになったら、ぜひおいでください。

この若者たちに会いに…。




※参考文献/「竿忠の寝言」「寝言以後」中根喜三郎
        / 「聞き書き・静岡の戦争」朝日新聞静岡支局 1985
        /「人間を幸福にしない日本というシステム」カレル・ヴァン・ウォルフレン
         毎日新聞社 1994
※参考文献・画像提供/「静岡県民衆の歴史を掘る」「戦争に協力した青年団」
               肥田正巳 静岡県地域史教育研究会 
               静岡新聞社 1996
               /「悲傷 少年兵の戦歴・平和の礎となった15歳」
                毎日新聞社 昭和45年                            


江戸和竿師・中根忠吉

ネットのブログで偶然見つけた「竿忠の寝言」
「寝言」の主人公は、
明治の竿師三名人の一人、「竿忠」の初代中根忠吉という人でした。
 =元治元年(1864)~昭和5年(1930)=

この本は孫で竿忠三代目の中根音吉さんが、祖父が没した翌年、
祖父からの聞き書きや初代が残した日記帳、寝言集などをまとめて刊行したもの。
江戸っ子の小気味よい語り口や、
苦労もさらりと受け流す職人気質に思わず引き込まれ、夢中で読みました。

そしてまたまた偶然にも、
この中に出てきたのが、前回お伝えした「大王石」の情報です。

「大王石」です。明治初年に来日したフランス士官が撮影。その一部です。
img188 (8)
石のかたわらにこうもり傘を持った人物が写っています。
人物と比べてみると、かなり大きな石だったことがわかります。

ブログ主さんは、石川県・白山の麓で蕎麦屋さんを営む俗称「唐変木」さん。
この「唐変木さん」のお母さんは、初代竿忠の孫、つまり三代目音吉の妹さん。
音吉さんの息子の竿忠四代目は喜三郎さんという方で、
その喜三郎さんの妹さんが、落語家の故・林家三平氏の奥様の香葉子さん
つまり、唐変木さん、四代目、香葉子さんの3人はいとこ同士ということになります。

唐変木さんが「竿忠の寝言」をブログに載せたのは、
「たくさんの人に知って欲しい。覚えていて欲しい」と思ったからだそうです。
資料的価値が高い本だと、私も思います。

今は石川県にお住まいの唐変木さん、
子供のころ静岡県沼津市の香貫山のふもとに住んでいたとか。
戦時中はいとこの香葉子さんも疎開していて一緒だったとか。
一時期、ワタクシメと同県人だったんですねえ。

香貫山から見た駿河湾と富士山です。
img632.jpg

昨年、唐変木さんに、
「大王石」とこれを差した「鬼幸」「鬼柴田」こと柴田幸次郎の件を問い合わせ、
このたびやっとご連絡がとれたことは、前回ブログに書きました。

そして待ちに待った四代目喜三郎さんからのお返事は、
「三代目が書き留めた竿以外の寝言の内容については殆どわからない

ヴワァァァ~
♪うれしがらせええてぇ、泣かせえ~て、消えたあ~

いえいえ、唐変木さんが悪いのでも、ましてや四代目が悪いのでもありません。
私の期待が時空を超えて過大過ぎた結果です。
四代目が「なにしろ生まれる前の出来事なので…」とおっしゃった通り、
はるか江戸時代の話ですから。

でも、「竿忠の寝言」の中に実はもう一つ、こんな嬉しい記述があったのです。

「竿忠は以前から素人の力持ち連中の仲間に入って、
石や俵を差したりしたくらいだから、なりこそ華奢だが骨太で中々力があった」

江東区深川木場・洲崎神社の力石です。6個あります。
img630.jpg
  =画像/「東京の力石」高島愼助より

実はこの洲崎神社には、
徳富蘇峰揮毫の記念碑「名人竿忠之碑」があるのです。

で、もしや忠吉さんが力持ち連中と石を差したのはここではないか、
もしや石に竿忠とか忠吉なんて刻字があるのではないかと期待したのですが、
こちらもダメでした。

いろいろ空振りに終わりましたが、
でも、思いがけず江戸職人の世界を知ることができました。

その昔、初代竿忠のお父さん、
「釣音」中根音吉(三代目竿忠と同名)が弟子入りしたのが、
「泰地屋東作」という和竿師のもと。
その六代目・松本三郎氏が本の中で、こんなことを語っています。

「昭和11年に来日したロシアのフェオドル・シャリアピンという歌手が
日本の釣竿に惚れ込み、文芸春秋にこんな手記を載せた。
手記にはこう書かれていた」

「上等のヴアイオリン同様に、
名人の手によって作られるのが日本の釣り道具である。
私は東作からたくさんの釣り道具を買ったが、彼(四代目東作)などは、
釣り道具のストラディヴァリウスである」

img634.jpg
竿忠四代目・中根喜三郎氏の作品。撮影/塩沢槇氏。「江戸東京 職人の名品」より

img633.jpg
東作六代目・松本三郎氏の作品。撮影/谷岡義雄氏。
「江戸和竿職人 歴史と技を語る」より

私は思います。
和竿(わざお)だけではなく、
日本の職人さんはみ~んな「ストラディヴァリウスだ!」って。

いえ、それ以上です!


<つづく>


※参考文献/「竿忠の寝言」中根忠吉・中根音吉
         ブログ「竹林舎 唐変木のそばバカ日誌 人生の徒然を」より
※画像提供/「フランス士官が見た近代日本のあけぼの」アイアールディー企画
         2005
※参考文献・画像提供/「江戸和竿職人 歴史と技を語る」聞き書き・かくまつとむ
                平凡社 2006
               /「江戸東京 職人の名品」東京書籍 平成18年
                TBS「お江戸粋いき!」番組制作スタッフ

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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