卯之助を追い続けた男たち
三ノ宮卯之助
埼玉県には力石に関する日本一が4つもあります。
① 力石の発見数が2、589個とダントツの日本一。
② 日本一古い年代刻字の力石がある=寛永九年(1632)。
=久喜市樋ノ口・八幡神社。
③ 日本一の力持ち・三ノ宮卯之助の出身地である。
故郷から遠く、兵庫県の魚吹八幡神社に建立された三ノ宮卯之助像

=兵庫県姫路市網干。平成18年建立。
天保8年2月、大阪・天満宮で三ノ宮卯之助一行が興行したさい、
氏子の網干廻船の船仲間たちが神社に招き興行したようで、
力石には卯之助の名が刻まれています。
④ その卯之助がさした日本一重い力石、610㎏(実測)がある。
610Kgの「大磐石」

=埼玉県桶川市・稲荷神社 画/酒井正氏
そして、もう一つ特筆すべきことは、
ここには優れた力石研究者が3人もいるということです。
力石の研究には恵まれた土地柄とはいえ、
どの方もそれぞれ得意分野を持ち、一様にこよなく力石を愛する方々です。
「咳をしても一人」などの自由律俳句の俳人、尾崎放哉(ほうさい)はいう。
「草や木は風や雨にあたれば饒舌家になるが、
石は雨が降ろうが風が吹こうが只之 黙また黙。
それでいて石は生きているのであります」
今回は「三ノ宮卯之助」をテーマに、
埼玉県在住の研究者、高崎 力氏、酒井 正氏、S氏のお三方と、
力石調査のため、軽自動車に寝袋を積んで全国を駆け巡り、
その成果を書籍や論文にまとめ上げた高島愼助四日市大学教授の
貴重な資料に助けられながら、このシリーズを進めていきたいと思います。
卯之助を描いた絵本「力くらべ」

埼玉県越谷市の「蒲生手作り絵本クラブ」による。
さて、江戸時代から明治大正、昭和初期頃まで、
全国の若者たちに愛されてきた力石ですが、
時代が人力から動力へ、また娯楽の多様化などで急速に衰退していきます。
明治を代表する力持ち、神田川徳蔵が、
初めてバーベルを使い「全朝鮮力道大会」で優勝したのが、昭和7年のこと。
これが力石からバーベルへ、
見世物興行から重量挙げというスポーツへと移行していった転換点でした。
しかし、
そうした嬉しい発展があった陰で、力石の多くは放置されてきました。
打ち捨てられ、時代に置き去りにされた石ゆえに目を止める人もおりません。
私が学芸員さんや戦国武将好きの歴史愛好家たちから、
「あんなマイナーなもの、よくやるねえ」
「あんな石っころのどこが面白いの?」
と笑われたのと同じ経験を、力石研究者は少なからずお持ちです。
左の写真は民話「力持ちの平六」ゆかりの、
平六地蔵露天風呂前の草むらに放置されている力石。
=静岡県賀茂郡松崎町

右は賀茂郡東伊豆町稲取の
八幡神社の木の根っこに置かれたままの力石。
笑われても無視されても、それでもめげずコツコツ調査してきたのは、
かつての若者たちの汗や涙、喜び悲しみがいっぱい沁みこんだ石が愛おしく、
そしてまた、そうした庶民の歴史には、権力者の歴史同等もしくは
それ以上の価値があると確信できたからなのだと私は思っています。
それを掘り起し、世に知らしめる使命のようなものを、
みなさんも私も胸に秘めてやってきました。
そして、私は思います。
多くの研究者が去った後も、
平成5年に亡くなるまで、一人コツコツと力石探求に力を注いでこられた
伊東 明上智大学名誉教授も、きっと同じ思いだったに違いないと。
その伊東先生の意志を継いだのが、最後の弟子の高島教授です。
高島教授は各地の教育委員会や郷土史家の助けを借りながら、
ついに全国の力石を集大成されました。
伊東先生もさぞ、喜んでくださっていることでしょう。
伊東先生が描き残された力石のスケッチ。

=東京都墨田区・三囲神社
石
--杵淵彦太郎氏に
君、石を愛し給えば。
石は黙ってものを言ふ直に心にものを言ふ。
雨には濡れて日に乾き
石は百年易(かわ)らない。
流れる水にさからつて石は千年動かない。
堀口大学「人間の歌」
<つづく>
① 力石の発見数が2、589個とダントツの日本一。
② 日本一古い年代刻字の力石がある=寛永九年(1632)。
=久喜市樋ノ口・八幡神社。
③ 日本一の力持ち・三ノ宮卯之助の出身地である。
故郷から遠く、兵庫県の魚吹八幡神社に建立された三ノ宮卯之助像

=兵庫県姫路市網干。平成18年建立。
天保8年2月、大阪・天満宮で三ノ宮卯之助一行が興行したさい、
氏子の網干廻船の船仲間たちが神社に招き興行したようで、
力石には卯之助の名が刻まれています。
④ その卯之助がさした日本一重い力石、610㎏(実測)がある。
610Kgの「大磐石」

=埼玉県桶川市・稲荷神社 画/酒井正氏
そして、もう一つ特筆すべきことは、
ここには優れた力石研究者が3人もいるということです。
力石の研究には恵まれた土地柄とはいえ、
どの方もそれぞれ得意分野を持ち、一様にこよなく力石を愛する方々です。
「咳をしても一人」などの自由律俳句の俳人、尾崎放哉(ほうさい)はいう。
「草や木は風や雨にあたれば饒舌家になるが、
石は雨が降ろうが風が吹こうが只之 黙また黙。
それでいて石は生きているのであります」
今回は「三ノ宮卯之助」をテーマに、
埼玉県在住の研究者、高崎 力氏、酒井 正氏、S氏のお三方と、
力石調査のため、軽自動車に寝袋を積んで全国を駆け巡り、
その成果を書籍や論文にまとめ上げた高島愼助四日市大学教授の
貴重な資料に助けられながら、このシリーズを進めていきたいと思います。
卯之助を描いた絵本「力くらべ」

埼玉県越谷市の「蒲生手作り絵本クラブ」による。
さて、江戸時代から明治大正、昭和初期頃まで、
全国の若者たちに愛されてきた力石ですが、
時代が人力から動力へ、また娯楽の多様化などで急速に衰退していきます。
明治を代表する力持ち、神田川徳蔵が、
初めてバーベルを使い「全朝鮮力道大会」で優勝したのが、昭和7年のこと。
これが力石からバーベルへ、
見世物興行から重量挙げというスポーツへと移行していった転換点でした。
しかし、
そうした嬉しい発展があった陰で、力石の多くは放置されてきました。
打ち捨てられ、時代に置き去りにされた石ゆえに目を止める人もおりません。
私が学芸員さんや戦国武将好きの歴史愛好家たちから、
「あんなマイナーなもの、よくやるねえ」
「あんな石っころのどこが面白いの?」
と笑われたのと同じ経験を、力石研究者は少なからずお持ちです。
左の写真は民話「力持ちの平六」ゆかりの、
平六地蔵露天風呂前の草むらに放置されている力石。
=静岡県賀茂郡松崎町


右は賀茂郡東伊豆町稲取の
八幡神社の木の根っこに置かれたままの力石。
笑われても無視されても、それでもめげずコツコツ調査してきたのは、
かつての若者たちの汗や涙、喜び悲しみがいっぱい沁みこんだ石が愛おしく、
そしてまた、そうした庶民の歴史には、権力者の歴史同等もしくは
それ以上の価値があると確信できたからなのだと私は思っています。
それを掘り起し、世に知らしめる使命のようなものを、
みなさんも私も胸に秘めてやってきました。
そして、私は思います。
多くの研究者が去った後も、
平成5年に亡くなるまで、一人コツコツと力石探求に力を注いでこられた
伊東 明上智大学名誉教授も、きっと同じ思いだったに違いないと。
その伊東先生の意志を継いだのが、最後の弟子の高島教授です。
高島教授は各地の教育委員会や郷土史家の助けを借りながら、
ついに全国の力石を集大成されました。
伊東先生もさぞ、喜んでくださっていることでしょう。
伊東先生が描き残された力石のスケッチ。

=東京都墨田区・三囲神社
石
--杵淵彦太郎氏に
君、石を愛し給えば。
石は黙ってものを言ふ直に心にものを言ふ。
雨には濡れて日に乾き
石は百年易(かわ)らない。
流れる水にさからつて石は千年動かない。
堀口大学「人間の歌」
<つづく>
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