FC2ブログ

「竿忠の寝言」と「大王石」

先日、思いがけない方からメールをいただきました。
江戸和竿の職人の日誌「竿忠の寝言」をブログに掲載されていた方です。

話は昨年の7月にさかのぼります。

帰りのバスを待つ間、図書館で何気なく手にした古い写真集。
パラパラとめくったその時、くぎ付けになった一枚の写真がありました。

これです。
img188 (4)
撮影/明治9~11年、ルイ・クレットマン

オオーッ! これ力石じゃないの」

クローズアップするとこんな感じ。
img188 (6)

石に刻字がある。「大王石」と彫付けてあるような…。

埼玉在住の研究者S氏は「現在確認されている大王石は一つだけ」といい、
写真を送ってくださったのですが、どうもそれとも違う。
師匠の高島教授も初めて目にした新発見の石です。

ここからこの石の探索が始まりました。
でも、撮影場所がわかりません。
苦心の末、前方に見える橋は東京・隅田川に架かる「両国橋」
石が置かれていた場所は「元柳橋」のたもとということを突き止めました。

この写真に写っている柳は有名な夫婦柳で、
ここは絵師や写真師の格好の被写体になっていた場所でした。

その一つ、小林清親の「元柳橋両国遠景」です。
0421-C069 (2)
赤丸の中に「力石らしきもの」が描かれています。

当時、私が悪戦苦闘した様子は、
2014年7月29日の「両国橋 求む、情報!」をごらんください。

しかし、場所は判明したものの、
これが力石であるという確証や現在の石の所在地がわかりません。
私の探索はさらに続きました。

ある晩ネットをながめていたら、こんなブログが出てきました。
「竹林舎 唐変木のそばバカ日誌 人生の徒然を」
ブログ主さんは石川県・白山のふもとで蕎麦屋さんをやっている方。
その中に「竿忠の寝言」なる記事がありました。

これがやたらと面白い。
時代背景といい職人の気風といい、江戸の雰囲気がたっぷり漂っていて…。
ところが読み進むうちに出てきたんです。
もう狂喜乱舞(ちょっと大袈裟か)

「両国橋の角に東屋という釣具店があって、
そこの初代茂八の女房は「おひさ」といった」

これが「おひさ」さん。17歳。寛政の3美人の一人。喜多川歌麿画。
C0100784 (2)

「このお久さんは柳橋と名付けられた起りの柳の木の下に、
昔、柴田幸次郎といい、
俗称鬼柴、あるいは鬼幸とも称された怪力の人が差したという
七十五貫の大王石のかたわらに水茶屋を出していた」

出ました! 「大王石」!

差した人物の名前まで!

すごーい! 

そのときの私の気持ち、どうぞお察しください。
さっそくブログ主さんへ問い合わせのメール。
でもなかなかお返事がなくて、
諦めていたところへ年が変わった今月、ヒョコンと来ました。
ずっとブログを更新していなかったため、コメントに気づかなかったとか。

いいんです、いいんです。
お返事いただけただけでも嬉しいんです。感謝感謝

よかったら「柴田幸次郎発見」のときの記事も是非ごらんくださいね。
これです。
2014年8月2日の「ここまで解けた、両国橋の「謎の石」のなぞ」


つづきはまた明日


※参考文献/ブログ「竹林舎 唐変木 そばバカ日誌 人生の徒然を」
             「竿忠の寝言」中根忠吉・中根音吉 
※画像提供/「フランス士官が見た近代日本のあけぼの」アイアールディ企画
         2005
        /東京国立博物館

スポンサーサイト



清見神社は夏草の中

「夜半のねざめに鐘の音ひゞきぬ。
おもへばわれは清見寺のふもとにさすらへる身ぞ。ゆかしの鐘の音や」

これは明治の文学評論家・高山樗牛「清見寺の鐘声」の一節です。

これがその清見寺(せいけんじ)の鐘楼です。
CIMG1908.jpg
 =静岡市清水区興津清見寺町

清見寺(清見興国禅寺)の歴史は古く、七世紀後半の天武朝のころ、
東北の蝦夷に備えて関を設け、そこに鎮護の仏堂を建てたのが始まりという。
時の権力者の庇護を受け、江戸時代には朝鮮通信使の宿舎にもなりました。

清見寺の五百羅漢です。
img621.jpg

ところがここには意外な一面が…。

「余はここに黙して過ぐる能はざる一事を見たり」
ドイツ生まれの博物学者ケンペルは、元禄6年(1691)、江戸へ向かう途中、
興津・清見寺門前で10歳から12歳の男の子が化粧して座っているのを見ます。
これは表向きは膏薬を売り、実は旅人に買われる子供たちだったのです。

西鶴も言っています。
「興津と僧侶と男色とは、古きころよりの由緒あることなり」
知らなかった! 学校ではそんなことひと言だって教えなかった。
「海道記」の著者は、
「ここは清見の名の通り、濁る心も澄むほど清らかな所だ」と称賛していたし。

この男色を日本に移入したのはあの弘法大師・空海さんなんだそうで…。
仏教では女を不浄なものとしたから、代わりに美少年を性の処理に使ったとか。
時宗の開祖・一遍上人も世捨て人の鴨長明も一休さんもわび・さびの芭蕉さんも、
みーんな稚児を相手の暮らしをしていたとは!
ああ、「弘法も筆のあやまり」の本当の意味?を、私は知ってしまった!

話が妙な方向へ飛んでしまいました。あまり根ほり葉ほり書くと嫌われます。
軌道修正して、

清見(きよみ)神社です。
CIMG0208.jpg
清見寺の近くにあります。前方に興津埠頭が見えます。
同じ「清見」でも寺は「せいけん」、こちらは「きよみ」と読みます。

     金文字で「力石」と刻みたり 
            清見神社は夏草の中

                                さやこ

これが清見神社の力石です。
CIMG0162.jpg
奉納年も奉納者名もありません。地元の方に聞いても「さあ?」

この神社へ行くには、背後の林道から下る道と町中から登る道があります。
清見寺は明治時代の東海道線開通で境内が分断されていますが、ここも同じ。
しかし清見寺には陸橋がありますが、町中からこの神社へ行く道は、
警報機のない踏切を渡らなければなりません。これはかなり緊張を強いられます。
肝を冷やしつつ渡った先に、今度は延々とつづく急な石段が待っています。

    百八十五段を登りつめ力石に会いにゆく
              振り向けば興津の海、満々

                                       さやこ

冒頭の高山樗牛は、興津で病身を養いますが31歳でこの世を去ります。
墓は遺言により同じ清水区の龍華寺にあります。

さて、明治・大正のころの興津は、
その風光明媚なことから政治家や文学者に愛されてきました。
中でも有名なのは、
明治の元勲・西園寺公望の別荘「坐漁荘(ざぎょそう)です。

17歳の西園寺公望」です。
CIMG1902.jpg

坐漁荘の名は、
坐して釣り糸をたれる中国・周の軍師、呂尚(太公望)の故事からとったとか。

坐漁荘で思い出すのは、お会いした当時80歳だった小池次男さんのこと。
小池さんは第二次大戦に突入したころ、
選ばれて坐漁荘に赴任した警備警察官でした。

坐漁荘の前に並んだ昭和14年当時の警備警察官。
img331.jpg
後列右端が小池さん。  写真提供/小池次男氏

新聞の連載記事の取材のため、
静岡県西部にあるご自宅をお訪ねした私を、ご夫妻共々迎えてくれたあと、
開口一番、小池さんはこうおっしゃった。
「こんな年寄のむかし話、本当に役にたつのでしょうか」
私は即座に返した。
「私がお聞きしたかったのは、そのお話なんです」

小池さんのその控えめで謙虚な姿勢に胸を熱くしたあの日のことを、
私は、20年たった今も忘れることはありません。

小池さんは生き生きと語りました。
「緊張の連続だった警備の非番の日に見た女優・楠トシエの舞台。
休暇で帰ったときお見合いして結婚した話
夫人のゆき枝さんも当時を振り返りながら話に加わりました。
39円50銭の安月給でね。生活は苦しくてねえ」

文献に記されたことだけが歴史ではない。
むしろ市井の人の口を通して語られる「埋もれたままの話」
そうした生の、リアルな個人史にこそ得難い真の歴史がある、
そういうスタンスでずっと私は記事を書いてきました。

力石の探索・研究もまた、この延長線上にあるつもりです。

先日、偶然にもかつて取材させていただいた方にお会いしました。
こちらも20年ぶりです。
その日のうちに私のこのブログを読んで下さり、早速メールをいただきました。

「発信力は健在ですね!」

嬉しい再会と最高の褒め言葉。つくづく思いました。

良かったな、自分の信念を貫いてきて。

八丁堀平蔵の歌石・その二

八丁堀・亀嶋平蔵は、天明元年(1781)7月16日、
「一代禁酒」と彫付けた力石を佐賀稲荷神社に奉納します。
これには歌が刻まれています。
「歌石」といわれるものです。

一番高いところに置かれた石が「歌石」です。(有形民俗文化財)
img603 (2)
77×44×36㌢ =東京都江東区佐賀・佐賀稲荷神社
黒く見える部分は、雨に濡れた跡です。

さて、ここからが難しい。
これは「歌石」「禁酒石」だと伝わっているのですが、この歌、読めません。
なんとか読めても意味が全然通じません。
このどこが「禁酒」なんだと思ってしまいます。

まずは石の側面の刻字をご紹介します。

   天明元年七月十六日 
   一代禁酒 八町堀亀嶋町 石の平蔵


天明期は江戸の三大飢饉の一つ、天明の大飢饉で、
東北・関東を中心にたくさんの餓死者を出しました。

また側用人の田沼意次が実権を握った時代で、商人と役人の不正が横行します。
賄賂を贈られて便宜をはかる役人を風刺するこんな歌も。

 役人の子はにぎにぎをよくおぼえ

ま、いつの世も…。今はバレても面の皮千枚張りの政治家ばかりで…。

でも江戸の庶民はついに立ち上がります。全国で百姓一揆や打ち毀しが起ります。
img619.jpg
米屋、質屋、酒屋などが襲撃された。=「幕末江戸市中騒動図」
時代背景はそのくらいにして、本題へ入ります。

これが歌石に刻まれた歌です。
img556.jpg
 =作図/伊東明上智大学名誉教授

これを、今は亡き伊東先生はこう読みました。

奉納 雲きりもはれ行 空の高き石の 
         ひろまるからに 我はささげる


しかし先生ご自身は論文の中で、
「歌の判読はたぶん間違っていると思われる」と書き残しています。

おひざ元の江東区教育委員会ではどう読み解いたかというと、

奉納 雲記りも者れ行 山の高き石の 
         飛ひまるからに 我はささへる


う~ん、これもイマイチ。
そこで助っ人をお願いしました。
静岡市の歴史ある駿河古文書会の重鎮、
中村典夫(みちお)先生です。

この文字が拓本ではなく人の手による作図であること。
石そのものが風化が激しく正確に読み取ることが困難であること。
こういったことから解読をお願いするのは心苦しかったのですが…。

やはり先生はおっしゃいました。
「誰彼(どなた)の解も腑に落ちず、仲々難物
やはり刻字がいささか読みづらいからだと思われます。
その陰刻が本来の「刻」か、また否か。のちに凹凸が出た跡か、これが判然とせず
仲々悩まされます」

「結論から申し上げます。これは解り兼ねます

う~ん、残念。
でも中村先生は誠実な方なので、最後まで解読に努めてくださったんです。
以下は先生からの説明です。少し長いですが後学のため記します。

●初句と第二句の初め、は成程、
「雲起り(くもきり)もはれ行(ゆく)」と読めないことはありません。

●続く第二句の末尾「□ の」が解りません。
「□ の」が一部切れていて、「支(き)」の如くにも思われます。

●第三句は「高き人の」と読みたいところ。しかし「き」と読むには難があります。

●第四句も「ひろまるからに」と読みたいのですが、
果たして確かに「ろ」・「ま」かどうか。ここも疑問です。

●第五句も悩ましい限りです。
「我ハさ□□□」の如くですが、
「我」も印字で見る限り果たして確かに「我」かどうか。

●第五句の最後の四音「さ□□□」ですが、一見すると、
最後の一字は「會」(ヱ・あふ)という字に見えます。
第五句も本当に生きている画(かく)とそうでない画(かく)とが、
混じっているように思われます。

そして中村先生は、最後にこんな感想を。
禁酒石というからには、禁酒の誓いの如き歌意を想像するのですが、
右の次第にて、全くその如き意味が浮かんで参りません」

本当にそうなんです。
このどこが禁酒なんだ!って、
私も思わず叫びたくなったこともしばしば。

「長時間お預かりしたのにかかる結果にて、まことに申し訳なく思います」

とんでもない。
ご無礼をかえりみず古文書の大家にこんな不完全な石の解読をお願いして、
私の方こそ申し訳なさでいっぱい。でもお返事をいただけてうれしかった!!

そんなわけで、平蔵さんの歌石はひとまず置いといて、
お口直しに、同じ「雲霧」でも解りやすい句で〆といきます。
有名な芭蕉「雲霧…」の句です。

「雲霧…」の句碑の一つ。
img604.jpg
撮影/平井正次氏  =静岡市清水区・鉄舟寺・観音堂

     
       雲霧の暫時百景を尽くしけり
                             (芭蕉句選拾遺)

甲斐国で富士を目のあたりにした芭蕉先生
「雲が切れたかと思うと霧が立ち昇る。
このように瞬時に変わる富士山は、またたく間に百景を形成する」として、
「瞬時変貌する霊峰富士の崇高な姿」を句に詠んだけれど、

平蔵さん
あなたの歌は雲霧が晴れても、まったく全貌が見えてこず、
こっちの頭は雲霧に覆われたままでございます。



※参考文献/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
※画像提供/「新詳説・日本史」山川出版社 1989
        /「伊東明教授退任・古希記念原著論文」上智大学 1988

八丁堀平蔵の歌石・その一

石の平蔵の異名を持つ八丁堀・亀嶋平蔵が残した力石は、全部で28個
これは三ノ宮卯之助に次いで全国2位の多さです。

残された石から平蔵を想像してみると、なかなかの人物だったことがうかがえます。
以前にもご紹介しましたが、内田金蔵の手形奉納額の世話人になったり、
よく後輩たちの面倒を見る頼もしい力持ちです。

法明寺(鬼子母神)にある力石群。
img601.jpg
 =東京都豊島区雑司ケ谷

この中に、平蔵とその弟子たちの名が刻まれた石があります。

  「奉納 四十七貫目 霊岸嶌 八丁堀 
  源蔵 亀治 清五郎 長五郎 長吉 平蔵」

ここには長唄「近江のお兼」に歌い込まれた「中の字」こと中村弥兵衛や、 
万屋金蔵の刻字石もあります。

こちらは江戸名所図会に描かれた法明寺(鬼子母神)=部分=です。
img601 (2)
赤丸のところにちゃんと力石が描かれています。

石の平蔵さんもここで石を持ち上げたんでしょうね。
参拝客のびっくりする様子が目に見えるようです。

ここで平蔵の石を少しご紹介します。
何しろ28個もあるので全部はお見せできませんが、ちょっとだけ

img607.jpg
=東京都江戸川区の第4葛西小学校にある平蔵の力石。

こちらは伝吉の記事の中でお伝えした千葉県市川市本行徳・八幡神社の力石。
1千葉・本行徳八幡神社 (2)
埼玉在住の研究者S氏が発見した平蔵28番目の力石です。

亀戸天神社=東京都江東区亀戸=の平蔵の力石です。
CIMG0873.jpg

もう一つあります。
img609.jpgimg608.jpg
作図/高島愼助四日市大学教授  

「奉納 天満宮 霊巌島湊町亀治 右同町 長七 本八丁堀五丁目 熊蔵
八丁堀亀嶋町平蔵 奴 清治 深川 三井親和書 
寛政八丙辰歳三月吉日 元木場金七 刻之

この石には江戸時代の著名な書家・深川(三井)親和が揮毫しています。

三井親和です。
img610.jpg
礒田湖龍画

亀戸天神社の石は共に江東区の有形民俗文化財に指定されています。
見学の折には神社の方に申し込んでくださいね。案内してくださいます。

亀戸天神社です。
CIMG0874 (2)

東京はこうした庶民の文化遺産も大切にするいい街です。

この青空、ずっと続くといいな!



※追記

師匠の高島先生から「鬼子母神の鬼は角がないんだよなあ」との連絡が…。
そうなんですよねえ。でも変換できないし…。
「雑司ケ谷鬼子母神」のHPでも角付きの文字を使っています。
でもちょっと説明が必要ですね。

「鬼」という字の「甶」は角の付いた面、「儿」は人の意。
つまり人が面を被って死者の霊魂に扮するさま、神霊ということのようです。

一説には、
鬼子母神は人間の子を取って食うという恐ろしい鬼でしたが、
お釈迦様に諭され帰依したことから、安産と子育ての神になったんだそうです。
それで角が取れて、甶から田になったので、
それ以後「鬼子母神」の「鬼」は角のない文字が使われるようになった…、
つまり、以下のような文字になった、というわけでございます。

image001.gif

この文字、師匠が送ってくださったんです。
やっぱり持つべきものは師匠です。感謝してます。



<つづく>


※参考文献・画像提供/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
※画像提供/「江戸名所図会(中)」
         校註者鈴木棠三・朝倉治彦 角川書店 昭和55年
        /埼玉在住の研究者S氏


花わさびとぶり卵

おいしいお話、第2弾です。

「おいしい」わりには写真がイマイチ。ご勘弁ください。

花わさびです。
CIMG2138.jpg

静岡市を流れる安倍川の上流部、標高600㍍の山間に、
有東木(うとうぎ)という70戸ほどの小さな集落があります。
国指定重要無形文化財の盆踊りがあるところです。
私も毎年、参加させていただいています。
  ※「古典芸能」2014・6・18のブログ、よかったら見てください。
    ワタクシメが踊っております。

実はここ、日本の山葵発祥の地といわれているところなんです。
伊豆の山葵はここから持って行ったといわれております。

この時期楽しめるのが山葵の新芽、花わさびです。
コレが出てくるのを、毎年心待ちにしています。

「花わさび塩コンブ」の和え物です。
CIMG2134.jpg

3㌢ほどにザクザク切った花わさびに、塩をふりかけて軽くもみます。
それに80度ぐらいのお湯をくぐらせてギュッとしぼったら、
タッパーに入れて冷蔵庫で休ませます。
頃合いを見て、市販の塩コンブ(塩をまぶしたもの)を混ぜたら出来上がり。
超簡単!
二日以降が食べごろです。ほのかなわさびの香り辛みが口中に広がります。

お次は「ぶりの卵の煮つけ」
CIMG2150.jpg

いつものスーパーに行ったら、ありました! ラッキー!
「長崎産 天然ぶり卵」、
てんこ盛りで200円。一つしか出てないのに誰も買いません。
おいしいのになあ。

批判精神旺盛な知人がいます。
「なに、あなた! バターなんか食べてるの? 動物性脂肪は体に悪いわよ。
うちはマーガリン
「マーガリンは食用油をむりやり固めてバターに似せたマガイモノだよん」
なんて言おうものなら、収拾がつかないから無言を通す。

「なに、やだ! あなた電子レンジ持ってないの!」
「私は直火の味が好きなのよ」なんて言おうものなら、
「そこまで貧乏してるとは」なんて蔑むから無言を通す。

第2次大戦中、
静岡県島田市の大井川流域に秘密の研究所があったんです。
殺人光線と呼ばれたZ光線(電磁波)の開発をしていたんですね。
のちのノーベル賞受賞者の湯川秀樹氏や朝永振一郎氏らがいました。

技研視察中の高松宮 =1945年4月20日
img590.jpg
 =「明日までつづく物語」より

どういう光線かというと、
飛行機に光をあてると形はそのままでも飛行機は破壊されるという新兵器です。
ウサギで実験したら、中は完全に煮えているのに外見は生きているときのまま。
実用化される前に敗戦になって陽の目をみなかったけど、
その技術がアメリカに渡って、電子レンジになったといわれています。

電子レンジと直火の調理は全く別物なんですね。
まだフライパンを持てるうちは、私は直火派でいきます。
そのフライパンにしても「なに、あなた。まだ鉄のフライパン?」なんていわれたっけ。

無駄口はさておき、 「ぶり卵の調理法」です。

こういう生臭は下ごしらえが肝腎です。
血合いと薄皮を取って、熱湯をくぐらせたらざっと洗います。
それから甘辛く煮るだけ。

CIMG2144.jpg

昨年転居の際、食器を段ボール箱に3箱ほど捨てました。
ヤレヤレさっぱりしたとその時は思ったのですが、
今になってみると、捨てなきゃよかった
同じ器ばかりでは盛り付けに張り合いがありません。

本日のメインは「ゆで豚のニンニクみそ焼き」です。
「ひらたけのホイル焼き」いちごを添えて…。
CIMG2158.jpg
「赤米入りごはん」「地のりの吸い物」

ゆで豚の手順です。
三枚肉を緑茶でゆでます。
あの豚肉特有のいやなにおいがどんどん緑茶に移ります。
2,3分したら水洗いします。今度は新しい水に、
長ネギ生姜ローリエ黒こしょうお酒を入れてコトコト一時間。
ゆで豚は肉の旨みも溶け出すので、ゆで汁は捨てずにスープにします。

さて、少量のゆで汁にみそ、みりん、砂糖、隠し醤油、隠し酢、すりごまをいれて
火にかけ練り上げます。それにニンニクをすりおろして混ぜ、
肉に塗ってグリルで焼いたら出来上がりです。
う~ん、香ばしい!

お皿はオキュパイトジャパンです。

ちょっと食べ過ぎたがや!



※画像提供/「明日までつづく物語」小屋正文・小林大治郎・土居和江 1992


誇らかに立つ

大島伝吉のお話、最終回です。

伝吉の足跡を追うと、その活動の主な場所は東京、埼玉など関東近辺です。
ところが嬉しいことに、
伝吉は私が住むこの静岡県に貴重なものを残していってくれました。
巨大な力石興行の記録です。

静岡県三島市の三嶋大社には、
「明治初年、伝吉が清酒四斗樽を下駄代わりにはいて境内を歩いた」という
伝承はありますが、確たる証拠はありません。
ですが、静岡市には伝吉の足跡を記す証拠が残されていました。

まずは興行の記録からご紹介します。

これは伝吉一行が当地で興行するという予告新聞記事です。

img576.jpg
 =明治18年7月23日発行の「静岡大務新聞」

  曲持興行 来廿六日より当岡寺町の小川座にて、曲持を興行す。
  右曲持力士は国井金蔵島田傳吉杉忠蔵杉浦三次郎の四人なりと。
  其曲持の石は八十貫目より五十六貫目迄の物にて、
  なお、四斗入りの米十二俵を、足にて曲持をするよしなり

ここに出てくる「小川座」とは、
静岡市の繁華街、現在の七間町にあった芝居小屋です。
「七間町」は、長らく映画街として若者たちでにぎわった町で、
ここを歩くことを東京・銀座の「銀ぶら」を真似て「七ぶら」と呼ばれていました。

小川座の前身を「玉川座」といい、
あの浅草・奥山の侠客、新門辰五郎が明治3年に建てました。
玉川座
二代目歌川貞景筆「静岡玉川座棟上の図」 =「七間町物語」より

新門辰五郎は幕府崩壊で謹慎となった最後の将軍・徳川慶喜の護衛として、
慶応4年から明治4年まで静岡市で暮らします。
その間に清水次郎長と会い、
清水湊の豪商・松本屋の援助でこの芝居小屋を建てたそうです。

こけら落としには東京から当代の千両役者が来演。
毎日大入り満員で、静岡のファンを熱狂させたといいます。
ちなみに玉川座建設に多額の資金を提供した松本屋は、
まもなく没落してしまいます。

23日に続き、25日にも掲載された伝吉一行の興業予告記事
img577.jpg
 =明治18年7月25日「静岡大務新聞」
静岡大務新聞の「大務」とは、ニューヨークタイムズの「タイム」を真似たものです。

  曲持興行 前々号の紙上に掲げし明二十六日より当岡寺町小川座に於いて
  興行する曲持国井金蔵一座は、
  去る二十日より五日間当国清水向島に於いて興行したりというが、
  昨今の不景気に似もやらず随分大入りを占めしという

伝吉一行が興行を行ったもう一ケ所、明治時代の清水・向島です。
img269.jpg
徳川慶喜撮影「清水波止場」        =茨城県立歴史館蔵
左端の2階建ての建物が、明治19年開業の次郎長経営の船宿「末廣」

この写真は徳川慶喜が明治26年に撮影。
この年の6月、次郎長は74歳で波乱の生涯を閉じます。
慶喜公は次郎長のために自分の主治医を差し向けるほど、
次郎長を可愛がっていたそうです。
  ※次郎長さんは文政3年(1820)の生まれですが、
   この同じ年にあのナイチンゲールも生まれているんですね。
   「それが何か?」といわれれば、「いえ別に」としか答えようがないのですが、
   次郎長とナイチンゲールは同級生!   
   なあんてことに、私は思わずクスッとなってしまうのです。

こちらは平成13年に復元された「末廣」です。
CIMG1554 (2)

伝吉一行が次郎長のおひざ元の向島で興行したのが明治18年
この興行主はだれかわかっておりませんが、
対岸には次郎長生家や住まいがあり、船宿「末廣」も建設中のため、
伝吉たちが次郎長に会った可能性は充分あります。

また、向島へ渡る港橋の際には、金杉藤吉銘ほかの力石3個が現在もあります。
これらの力石や力持ち興行と次郎長との接点が欲しいところですが、
残念ながら、
現時点ではそうした文献を探し出すところまでには至っておりません。

さて、いよいよ大島傳吉が持った「大傳石」のご紹介です。

CIMG0178 (2)
77×63×36㌢         静岡県伊東市物見が丘 =「仏現寺」

「大傳石 大島傳吉 世話人 当所 武山栄七 
         東京力持 本町 忠蔵 同 関原金蔵」


ここに出てくる「本町 忠蔵」は、
東都力持ちの中心的人物だった本町東助の門弟です。
また「関原金蔵」は、東京力持ちの東大関を張った力持ち力士です。
この碑に記された大島傳吉、本町忠蔵、関原金蔵の3人は共に、
明治21年の力持興行の広告番付に名を連ねています。

静岡県内で、これほど立派な力石はほかにありません。
まさに静岡県が誇れる力石でございます。


      大杉に負けじと肩をいからせて
                大傳石は誇らかに立つ 

                                         
                                       さやこ


※参考文献/「静岡大務新聞」明治18年7月23日・25日
        /「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
※参考文献・画像提供/「七間町物語」「玉川座から若竹座までの歴史」
               白倉和幸 七間町町内会 平成18年
※画像提供/茨城県立歴史館


プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

フリーエリア
お願い
このブログに掲載されている 写真・記事等には著作権があります。 無断使用はご遠慮ください。
カレンダー
03 | 2015/04 | 05
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
最新記事
最新コメント
訪問者数
ブログランキング
ブログランキング
ランキングに参加しています
カテゴリ
月別アーカイブ
最新トラックバック
リンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR