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「伝吉の石を追う」第3弾

再び、伊豆・大島出身の大島伝吉(島田伝吉)のお話です。
と、ちょっとその前に…。

埼玉在住の研究者S氏から、「大嶋直吉」についてのご指摘がありました。
重要なご指摘です。
3月20日掲載の「伝吉の石を追う」に追記として書き込みました。
今一度お読みいただけたら幸いです。

さて、本題に入ります。
前回、大島伝吉銘の力石は、現在9個確認されているとお伝えしました。
そして、
出身地の大島・岡田港の「勇鑑石」と千葉県市川市本行徳・八幡神社の石は、
すでにご紹介しました。

これは江戸名所図会に描かれた「行徳船場」のうちの「行徳八幡宮」です。
img589.jpg
赤丸のところに力石が描かれています。

ここには前回お伝えした「超有名力持ち力士4人」の名が入った石のほかに、
もう一つ、伝吉が持った石があります。

これです。
本行徳・伝吉石3

    「五十八メ目 傳吉」

ここで、静岡県伊東市にある「大傳石」を除き、あとの力石を一挙公開します。

「連城石」
CIMG0711 (2)
 =東京都世田谷区北烏山・幸龍寺

「連城石 矢向弥五郎 豆州大島 傳吉持之  
世話人 □鬼熊 代地芳次郎 本町東助

「萬代石」ほか
img580.jpg
 =神奈川県三浦市三崎・海南神社

(右端の石) 88×48×37㌢
「萬代石 豆州大島岡田港 嶋田傳吉持之 □□□□□
(真ん中の石)
「豆州大島岡田港 □□□□□ 嶋田傳吉持之」

「昇龍石」と「扶桑石」
CIMG0759 (3)
 =東京都江東区南砂・富賀岡八幡宮

「昇龍 toshimaya_logo (2)店鬼熊 豆州大島 傳吉持之
世話人 扇橋 金兵衛 同音吉 四ツ目吉五郎 四十町力蔵 本町東助

「扶桑石 大嶋傳吉 
世話人 本町東助 小合己之助 玉山厚書 印

「扶桑石」に刻字された大嶋傳吉の銘です。
CIMG0750 (3)

さて、ここで、
「江戸名所図会」に出てくる「力石の絵」についてお話していきます。

今までにも何度か江戸名所図会に描き込まれた「力石」をご紹介してまいりました。
江戸名所図会に力石が描かれていることを発見したのは、
師匠の高島愼助教授です。
でも、ある日、ふと思ったんですね。
力石のようだけど、確証はない、と。
そこで調べました。徹底的に。名所図会の絵、すべてを

虫めがね片手に隅から隅まで。教授が見落とした絵も何点か新発見。
で、とうとう見つけました。力石を持ち上げている絵を…。

これです。
img588 (2)img588.jpg
「日暮里総図」(ひぐらしのさとそうず)其の四

近くに「船つなぎ松」と「こんぴら」「観音」、下方に「青雲寺」の名が見えます。

赤丸の所を拡大するとこんな感じです。
img588 (3)img588 (4)
石が4つあります。男が抱え上げております。あとの二人もやる気満々です。
二本差しのお侍が両手をあげて「すご~い!」と驚いています。

まぎれもなく、力石を使って力比べをしている状景です。

これが力石であるという資料も見つかりました。

大和郡山藩の2代藩主・柳沢信鴻(のぶとき)の日記「宴遊日記」の、
安永7年(1778)2月25日にありました。

柳沢信鴻は安永2年、家督を嗣子に譲り、
50歳にして江戸駒込染井の別邸(現・六義園)に隠居。
芝居三昧の日々を過ごします。

安永7年のこの日、中野で筆立てを買い水茶屋で休んだりしたその帰路、
日暮里(新堀・ひぐらしのさと)へさしかかったところ、

「彼岸明けゆへ辻々賑也。
力石七ツ計有。八十八歳にて未年持ち由彫付けし石有り」

このとき柳沢信鴻は7個の力石を見ています。
そのうちの一つに、「88歳で担いだ」という刻字があるのを見つけています。
でも担いだ人の名は記されてはおりません。
またこういう刻字のある石は、現在所在不明です。

残念ですが、でも大きな収穫になりました。

「江戸名所図会」上・中・下巻、すべてのさし絵742点を覗き終えて、
虫めがめをはずして、しょぼつく目で窓を見ると、
すでに白々と夜が明けておりました。

前日の宵から座りっぱなし。体中がギシギシときしんで…。
でも、すぐに喜びと満足感で、体ははちきれんばかりになりました。

狂気の沙汰、お笑いください。



<つづく>


※参考文献・画像提供/「神奈川の力石」高島愼助 岩田書院 2004
               /「江戸名所図会」下巻 斎藤幸雄・幸孝・幸成、長谷川雪旦
                校註者鈴木棠三・朝倉治彦 角川書店 昭和55年
※参考文献/「日本庶民文化史料集成」第13巻・芸能記録(二)
         編者・芸能史研究会 三一書房 1977


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春がきた!

春ならとっくに来てますよ~、なんていわれそうですね。
でも私の「春がきた」は、春キャベツ新玉ねぎが店頭に並んだときなんです。

「伝吉の石を追う」をちょっとお休みして、本日はプライベートタイム朝飯のお話。

さっとお湯を通した春キャベツ+お塩でしんなりさせた新玉ねぎ
+スルガエレガントのサラダで~す。
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野菜の旨みと塩味とみかんの酸味のみ。
毎日食べてます。美味

みかんの皮は干して入浴剤や食器洗いに使っています。

ラデッシュとくずきりの酢の物。美味
CIMG2111.jpg

昔、カメラマンが言ってました。
食べ物の写真が一番難しい。なので着色してから撮影するんだって。
今はカメラがうまくやってくれますから、まあまあ実物通りです。

「マイぬかどこ」です。植物性乳酸菌で発酵させています。
まろやかでフルーティーに漬かります。
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近くに農協の市場があります。
地元の農家さんが朝採りの新鮮な野菜を売っています。有難いです。
珍しい野菜は農家さんに調理法をお聞きしています。

CIMG2112.jpg

自家製ジンジャーティ、
自家製豆乳ヨーグルト、ちょっと茶色なのは黒砂糖を入れたため。
その横のはコカブの糠漬け。パンにモッツァレアとイタリアンパセリをのせてます。
その隣は処分品のカゴから買ったバナナ。黒い皮をむけば中はきれいです。
完熟。これにオリゴ糖をかけて食べます。美味。

新婚のころ、姑がいいました。
「料理のうまいお嫁さんの家の旦那は浮気しない」って。
うぶでしたから本気にしちゃって…。
でもそんなの全然抑止力にはなりませんでした。

ロールキャベツで~す。
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コンソメもケチャップも使いません。亜硝酸がダメなので無添加ベーコンです。
フルーツトマトと黒こしょう。隠し味に数滴のお醤油とお酢。超美味

「18も年が離れていて5人の男と同棲した経験豊富な純情な女の子」
が結婚生活中の夫の最後の恋人だった。
そんでもって「俺たち不倫じゃないよ。純愛なんだよ」ってサ。

文筆業の端くれなら、別れのセリフにそんな陳腐な言葉を使うなよ!

ってなわけで、

お幸せにぃ~、そのまま地獄へどうぞ~! と送り出してやりました。

お茶缶のちゃっきり姉妹で~す。
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いつも私の食卓に、つつましくおいでです。

料理は人のためにあらず。だから今は自分のためだけに作っております。

で、こちらがジンジャーティが入っていたマグカップ
CIMG2125.jpg
クリムトの「接吻」
もうかれこれ20年ほど使っています。彼と彼女は未だに接吻中です。

クリムトは好きじゃないけど、これは好き。
これと同じ絵柄のこうもり傘をさして歩いていたら、後ろから声をかけられました。
素敵な傘ですね。クリムトですね」って。

街中だから「素敵」といわれますけど、うちの近所じゃあ、
「何それ。わいせつな傘
と、こうなります。

おいしい生活は最高です。
でもって、私は毎朝、大口開けて、
ジンジャーティと共にこの接吻を飲み込んでいるというわけなのです。

食後にはコーヒーにシナモンをちょいとふりかけて…。

人生、紆余曲折。前進あるのみ!



次回は再び「伝吉の石を追う」第3弾です。


「伝吉の石を追う」第2弾

「ついに寄って見極めてきました」

3年前の春、埼玉在住の研究者・S氏は、
以前から気になっていた千葉県市川市本行徳・八幡神社の力石に足を運び、
今まで発表されていた石の刻字が間違いであったことを証明しました。

これがその力石です。
1千葉・本行徳八幡神社
石の表面がかなり剥離しています。  =市川市本行徳・八幡神社
撮影/S氏

S氏は刻字の判読の間違いだけではなく、
それまで判明していた島田伝吉、内田金蔵のほかに、
新たに万屋金蔵と八丁堀平蔵の名を発見します。

六十八メ目 八丁堀 平□ 伊豆大島岡田村 島田傳吉 
        飯田町 萬屋金蔵 湯島天神下 内田金蔵


「平□は八丁堀と同じ書体。平蔵に間違いない。
この超有名な4人の力持ち力士の刻字のある石は、
この力石しか現存していない。
大変貴重な石です。驚くやら嬉しくなるやら…」

そのときのS氏の興奮が伝わってまいります。

ここに出てきた万屋金蔵は、
あの渡辺崋山の「喜太郎絵本」に描かれた人物ですが、
もう一人の金蔵は、埼玉県三郷市出身で天明4年(1784の)生まれの、
神田明神下・酒問屋内田屋のタルコロです。

内田金蔵が持った力石の一つをご紹介します。
CIMG0746 (2) img587.jpg
「樊噲石」(はんかいいし)  右は故・伊東明上智大学名誉教授の作図
 =東京都江東区南砂・富賀岡八幡宮  ※樊噲(はんかい)とは、
   中国・漢の武将の名で、高祖劉邦に仕えて戦功を立てた強力の人。

朝倉無声の「見世物研究」に、こんな話が載っています。

文政3年(1820)3月、
江戸の両国広小路で大阪下りの力持ち太夫・力松が興行をした。
百二十貫目の釣鐘を軽々と差し上げるというので評判を呼んだ。

「お江戸八百八町、広大大繁盛の土地ではござりまするが、
このような怪力士は恐らくござりまするまい」

との口上が内田金蔵の耳に入った。
子分を連れて見物に行った金蔵、どう見ても釣鐘は90貫以上あるとは思えない。
そこで力松に問うたところ、力松、冷笑して、
「あるかないか持ってみればわかる」と。

「もし持ち上げたらどうする」
「お持ちなさったらこの釣鐘を進上致しましょう」

というので、金蔵、つかつかと舞台へ上がって、
何の苦もなく差し上げてしまった。
それを見た力松、舞台の片隅でブルブル。
金蔵は約束どうり釣鐘を子分たちに担がせて、悠々退場。
力松一行は手をついて謝り一札を入れ、早々に大阪へ帰ったというお話です。

まさに金蔵は「樊噲」の名に恥じない力持ちですね。
それにしても当時の江戸っ子は、お隣りのお国の歴史をよくご存知です。

内田金蔵の手形が残されています。
img585.jpg
埼玉県三郷市高洲の香取神社に奉納されている金蔵の手形。

奉納年月は文化12年(1815)3月。
金蔵、このとき32歳
世話人の八丁堀亀嶋平蔵、59歳

S氏が市川市の八幡神社で発見・解明した力石に刻まれた超有名力持ち力士は、
八丁堀平蔵、島田傳吉、萬屋金蔵、内田金蔵の4人。

このうち平蔵、内田金蔵、萬屋金蔵は江戸を代表する力士です。
その力士たちの刻字石に、明治の力士・伝吉の名が追刻されているということは、
伝吉がいかに優れた力持ちであったかの証しでございます。

そして八丁堀平蔵は、金蔵の手形の世話人を買って出るほどに、
この親子ほども違う若者を可愛がっていたものと思われます。

しかし惜しいことに金蔵は、30代半ばで没してしまいます。

故郷・三郷市高洲の共同墓地に、
金蔵が建立した実家・福岡家のお墓があります。




<つづく>


※参考文献・画像提供/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
               「伊東明教授退任・古希記念原著論文」
               「江東区内の力石の調査・研究」1988
※情報・画像提供/S氏
※参考文献/「見世物研究」朝倉無声 昭和3年



伝吉の石を追う

伊豆・大島出身の力持ち、
大嶌傳吉(本名・島田伝吉)の足跡をたどります。

伝吉の名が刻まれた力石は全部で9個
残念ながら年代を刻した石はありませんので、
各地に残された石から、伝吉の活躍の痕跡をご紹介していきます。

静岡県伊東市の郷土史家、故・木村博氏が書き残した「伊豆の大力伝記」に、
「伝吉は明治初年、三島大社の境内で興行したとき、
清酒四斗樽2個を下駄代わりにはいて歩いた」との記述があります。

かつて力石が展示されていた三島大社・宝物館です。
img583.jpg
昭和10年ごろ              =静岡県三島市

木村氏が「伊豆の大力伝記」を書いた1985年当時は、
この宝物館の前に立派な立札と共に力石が置かれていたそうですが、
現在は神社裏の藪の中に打ち捨てられており、
神社関係者はその存在すらご存じありません。

裏の藪に放置されたままの力石。
三島市・三嶋大社 (2)
写真からもまだしっかりと「力石」の刻字が読み取れます。

「奉納 力石 元飯田町 金蔵 彦太郎 福□真□ 直吉」

神社関係者の皆様には、
今一度郷土の庶民のこうした文化的価値を再考していただき、
ぜひ保存を、と切に願っています。

三島大社の当時の説明文によると、
「石は80貫(約300㌔)、
伊豆大島の出身、直吉と申す者が角技の上達を当社に祈願して奉納した」
とあったそうです。

この石には、「飯田町金蔵」「直吉」などの名が刻まれていますが、
これについて木村氏は、
「大島伝吉と大島直吉とを混同したのではないか」としています。

img062 (2)
渡辺崋山が描いた「飯田町金蔵(万屋金蔵)」

ですが、四日市大学の高島愼助教授は、
「飯田町金蔵と併刻されていたのなら、直吉は大島出身の直吉ではなく
飯田町直吉のことではないか」
「金蔵と飯田町直吉の名を併刻した力石は全部で5個。これとは別に
大島村 直吉の刻字石は2個存在する」としています。

つまり同名の「直吉」は別人だということです。

img584.jpg
飯田町金蔵と飯田町直吉の名が併刻された力石 =観蔵寺(千葉県木更津市)

五十五貫余 文政癸未冬十月六日此自持 於之内田 子刻之其人誰東都
三有力 芝土橋久太郎 飯田町直吉 萬本店金蔵 彌吉 定七 □右衛門
権蔵 權治郎 文政庚寅七月 武刕岩附 卯之助 江戸□□久蔵」

この石には、力持ちの超有名人が名を連ねています。
610㌔の石を持ち上げた日本一の力持ち「卯之助」の名も見えます。

こちらは大島村 直吉の銘の入った力石
CIMG1024.jpg
石観音堂                =神奈川県川崎市

「八丁堀亀嶋平蔵 本八丁堀一町目 権平 五十八貫余 
長五郎 百組 長吉 大嶋村 直吉 伊之助」

こちらの石にも八丁堀平蔵伊之助など有名力持ちが名を連ねています。

さて、飯田町金蔵(万屋金蔵)ですが、
この人は文化文政期に活躍した江戸を代表する素人力持ちです。
ですから、明治初年の力持ち・伝吉と一緒に興行した可能性は低い。

しかし木村氏によると、
大正時代、地元の沼上徳兵衛がこの石を持ち上げて境内を歩いた」
とのことですから、石に伝吉の名が刻まれていなかったとしても、
総理大臣に贔屓されるほどの伝吉です。
明治初年の三島大社での興行のとき、
江戸の西方大関を張った飯田町金蔵銘の石に挑んだことは、充分考えられます。

そのころ伝吉は二十歳ぐらいの若者だったと思われます。

「伝吉の石を追う旅」、次回へと続きます。



※追記
 埼玉在住の研究者S氏より貴重なご指摘がありました。
 「大嶋村 直吉」についてです。

 上記の記事中、私は神奈川県川崎市川崎区の石観音堂の力石を、
 「伊豆大嶋村出身の直吉」としましたが、
 S氏によると、川崎区に「大嶋」という地名があり、この石観音堂に刻まれた銘は、
 伊豆大嶋ではなく川崎の大嶋のことではないか、ということです。
 
川崎にいた力持ちコンビの直吉伊之助が力技を披露し、
 その記念に互いの名を刻して奉納した」

とのご指摘です。重要なことなので、ここにご報告いたします。
そういえば、
同じ川崎区の川崎大師平間寺の「虎龍石」も「大嶋村 直吉 伊之助」ですね。
Sさん、ありがとうございました。



※参考文献/「静岡の力石」高島愼助・雨宮清子 岩田書院 2011
        /「伊豆の大力伝記」木村博 伊豆新聞 1985  
        /「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
        /「神奈川の力石」高島愼助 岩田書院 2004
※画像提供/「写真集 静岡県の絵はがき」監修・若林淳之 羽衣出版 平成5年
        /「江戸名作画帖全集3 文人画 文晁・崋山・椿山」「喜太郎絵本」
         駸々堂出版株式会社 1993

力士・大嶌傳吉

2年前の平成25年、
伊豆の大島で第68回国民体育大会・相撲競技が開催されました。
その応援イベントとして行われたのが「伝吉まつり」です。

まつりの主人公は大嶌伝吉、本名・島田伝吉
=弘化4年(1847)~明治23年(1890)=大島が生んだ怪力の力持ち力士です。

伝吉の肖像画(油彩)です。
肖像画伝吉

このイベントにちなみ、
東京都大島町・大島町立第二中学校の当時の校長先生が、
学校通信に伝吉のことを紹介しています。

伝吉まつりの主催者は地元の人たちです。
自主的に動いた活力には敬服します」

「島田伝吉、通称は大嶌伝吉。岡田出身。
明治初年にかけて活躍。伝吉の碑が岡田漁港入口にある。
碑文は、伝吉のファンだった二代総理大臣・黒田清隆の書で、
裏面には当時の関取名や有志の名前が刻まれ、伝吉の人気ぶりがうかがえる

として、保護者や地域のみなさんにまつりへの参加や碑の見学を勧めています。

なんだか素敵だなあ、校長先生。
力持ち力士を取り上げる学校なんて、恐らくここだけではないでしょうか。

校長先生が学校通信に書いていた「伝吉の碑」です。
img579.jpg
左が黒田清隆揮毫の碑、
右は伝吉が持った力石「勇鑑石」=東京都大島町岡田

伝吉は44歳の若さで亡くなりますが、
お墓は今もご子孫が大切に守っておられます。
碑は没後の明治27年に建立。
碑の裏面には後援者として、相撲取りの高砂浦五郎阿武松緑之助
剣術家の榊原健吉東京力持連、房州勝山等の名前が刻まれています。

この勇鑑石は100×58×37㌢あります。
阿武松、高砂の両大関が二人で押しても動かすことができなかったこの石を、
伝吉は両手で高く差し上げたそうです。

碑を図にしたものです。
img575.jpg
作図/高島愼助四日市大学教授

碑文を書いた人、黒田清隆です。
img276 (3)
黒田清隆は力持ちの大ファンだったそうです。
ほかに「力士 本町東助碑」=東京都世田谷区・幸龍寺=も揮毫しています。

江戸時代、相撲取りを抱えていた大名がたくさんいました。
あまり目立ちませんが、お抱え力持ち力士も大名の庇護を受けていました。
そうした風潮は明治になっても同じで、政治家たちの贔屓があったわけです。

地方へ行きますと、地元の政治家が地元の力士を連れて、
選挙区を自慢げに歩いたなんて逸話も残っております。

伝吉が持った力石は、現在9個確認されておりますが、
碑や石だけではなく、番付にもその名が残されています。

明治21年の「東京力持興行」の広告。
img578.jpg

この絵の上部、「東京力持番付」の右端に、
「豆州 大嶌傳吉」の名前があります。

img578 (2)

伝吉の故郷では今でも力持ち・伝吉のことを忘れず、イベントまで開きました。
幸せですね、伝吉さん!

相撲は知っていても、力持ちや力石のことを知る人はあまりおりません。
過去のこと、見世物のたぐい、時代遅れ…。
そんな意識が博物館の学芸員さんたちにも濃厚です。

「力石? あんなマイナーなもの、よくやってるねえ」

調査の時、私がよく投げつけられた言葉です。
でもめげずに続けているうちに、理解され、賛同者も増えてきました。
講演会にも呼ばれるようになって、お話をすると、
みなさん、「初めて知った」「素晴らしかった」「感動した」とおっしゃいます。
旅行先で力石を見つけたといって、写真を送って下さる方々も増えました。

岐阜の若者たちは力石の会を立ち上げて、実際に力石を担いでいます。

少しずつですが、力石がみなさんに知られるようになりました。

嬉しさ、しみじみ…



<つづく>


※参考文献・画像提供/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
※画像提供/HP「伊豆大島の風景」


ちょいと、文学散歩

酒塚のある日緬寺にほど近い海沿いに、
作家・芹沢光治良「芹沢文学館」があります。

円卓が置かれた文学館内部です。
img571.jpg
=沼津市我入道

この土地は、
芹沢が7年の歳月をかけて完成させた自伝小説「人間の運命」の舞台なんです。

「生まれた村は貧しい漁村で、男の子はみな漁師にさせられた。
男の子のいない家では、よそから子供を買った。その子の年齢や健康状態で、
十円とか十五円とかの定価がつく。
その子は名前の上に定価が定冠詞のように付いて呼ばれる。
十円で買われた松郎は”十円の松ちゃん”というように」

そして芹沢は本の中で語る。
「その貧困のすぐそばに御用邸があり、特権階級の別荘があった」

漁師にならず中学校へ進学したため、芹沢は人々から排斥され、
以後、故郷と絶縁します。
その芹沢の心を故郷へ向けるために、中学校の後輩たちが文学館建設に奔走。
昭和45年、故郷との和解のきっかけとなった文学館が完成します。

芹沢文学館から先は、千本浜が続きます。
その松林の中に、若山牧水の歌碑があります。

img569.jpg
全国の牧水歌碑の第一号です。  =沼津市千本浜公園
「幾山河こえさりゆかば寂しさの はてなむ国ぞけふも旅ゆく」

牧水は千本松原の美しさに魅せられて、大正9年、ここに移住します。
大正15年、松原伐採計画が出た時、牧水はその反対運動の急先鋒になります。

「須磨明石は箱庭、筑前の千代松原は刈萱の原、三保・酒田には深みがなく、
犬吠埼・銚子河口は規模が小さい。
この千本松原こそ天下第一」と。

でも「深みがない」といわれた三保の松原は今、世界遺産なんです、牧水さん。

さて、牧水といえばお酒です。

    人の世に楽しみ多し然れ共
            酒なしにして何の楽しみ


という具合。

しかし、胃腸や肝臓を壊して昭和3年、43歳で他界してしまいます。
その前日のメニューがものすごい。
朝食に、午前中、昼食に、午後、夕食に、夜中に三度もを飲み、
末期の水も当然だったそうですから、ぶったまげてしまいます。

この牧水歌碑にほど近く、作家井上靖の詩碑があります。

img568.jpg
城の石垣か古墳の石室みたいな井上靖の詩碑「千個の海のかけらが…」
=沼津市千本浜公園

「中学生時代、御成橋付近を歩いていく牧水を畏敬の念で眺めていた」井上靖は、
「作家、故郷へ行く」の中で、こんなことを言っている。

「牧水の碑は、いい場所に建っている。
駿河湾の荒い波と松籟(しょうらい)の音に四六時中包まれている」

その井上靖の碑が、のちに牧水と同じ場所に建ったんですね。
なんとなくいい話です。

でも同じ作家の井上「ひさしさん」は、こんなことを…。
「文学碑はたくわん石のなりそこね」
作家の田辺聖子さんも「夥しく建ってさまになるのは、木の卒塔婆だけである」

確かに! 言えてる

でもですね、牧水歌碑や靖詩碑は決してたくわん石でも卒塔婆でもありません。
千本松原にぴったりの堂々たる文学碑です!

最後に日緬寺に戻って「力石」のご紹介です。

CIMG0701.jpg
全国の酒造元から献酒されたお酒。 =沼津市下香貫牛臥
毎年、新嘗祭のとき「酒をもってその報恩に感謝する祭」が行われています。

そしてこちらが、日緬寺の「力石」です。
CIMG0704 (2)
俵型の石が6個。

両国の信者が力士にちなんで奉納したもの」という以外、
残念ながら、詳細は不明です。


日緬寺の酒塚

またまたお酒の話です。
下戸の私には、酒飲みの醜態に酔いしれるという悪癖がございます。
まったくもって酒飲みはオオバカモノでございます。

    友もなく酒をもなしに眺めれば
             いやになるべき夜半の月かな 

                                         蜀山人 

往々にして呑兵衛は、酒を飲む前から自分に酔っております。

飲んでからは夢に酔い、脱俗の境地に酔いしれて、
やがて醒めるに従って、笑いながら泣き、威張りながら怯え、
楽しそうに振舞うほどに侘しくなり、
あれやこれやと理屈をつけて自己弁護しつつ自己嫌悪に陥るという
ただのエーカッコシーでございます。

    酒を飲み女を買った報いにて 
               しず心なく鼻の散るらん


     酒乱から地位名望も水の泡
               世に大酒の癖は許さじ


許すも許さないもこうなったらもう手遅れ、ご愁傷様ってやつでございます。

酒というものはかくも害毒をもたらすものでありますが、
江戸時代、
この酒の危険性必要性とを仏教道歌に託して行脚していた人がいました。
美作国(岡山県)の人、飛山長左衛門です。

長左衛門はこの仏教道歌を石に刻み、全国各地に酒塚を建てて歩きます。
その酒塚の一つが静岡県沼津市にあります。

これです。
CIMG0703.jpg
長左衛門、22国目の酒塚。現存する唯一のもの=大本山日緬寺(にちめんじ)
伊豆・下田の個人宅にあったものを昭和19年、現在地へ移転。

上からひょうたんひき臼となっておりますが、
以前は杯の上にがかぶさっていたそうです。
ひょうたんの前面には、こんな刻字があります。

宝暦八年十月二十七日
撞鐘        主美作
    供養塔
廻国        飛山氏


裏面には、ひょうたん、樽などに掛けた仏教道歌が刻まれています。
例えば、

くわっけい(活計)は すこしのむのがよひものを
      たる(樽)ほどのめば よいすぎる□□(かな)


そして、一杯いただいで陶然となったときが極楽だとして、こう歌っています。

ごくらくを ねがわばいそげーのみ(一飲み)の
              きえぬうちこそ のちのよのたね


お隣の三島市には、こんなお墓がございます。
急坂で難儀する旅人を助けて、箱根路を往復した雲助・又四郎の
「雲助徳利の墓」です。

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盃と徳利を彫付けた墓標  =旧東海道・箱根峠から三島へ下る石畳終点付近

終生、酒を愛した又四郎のために仲間たちが建立したそうです。
いい人だったんですねえ。

本来、雲助は「浮雲のごとき境涯ゆえにという」そうで…。
街道や峠に出没した盗賊とはわけが違う。
駕篭を担ぎ、旅人の荷を背負って駄賃をもらうれっきとした労働者。
民俗学者の柳田国男も言っています。

「雲助の親分は一種の人傑なり。大雲助なり」

又四郎はきっと大雲助だったに違いありません。

ね、羅漢さんもそう思いません?
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のんびりと将棋に興じている羅漢さん =沼津市・大通禅寺
   

珍しい酒塚のある大本山日緬寺のつづきは、またあした



※参考文献/「日本酒仙伝」篠原文雄 読売新聞社 昭和46年
        /「禁酒文芸 百人一首」小諸禁酒会編 日本国民禁酒同盟出版部
         大正12年 仙台郷土史研究会会員・佐伯昭氏所蔵


〽ありゃりゃりゃりゃよいやさ

突然ですが、七代目市川団十郎です。
江戸後期の歌舞伎役者。

右側の人が七代目団十郎。「梅王丸」を演じています。
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歌舞伎「菅原伝授手習鑑・天拝山の段」 文化9年市村座上演。一世豊国筆

福岡の大宰府へ流された菅原道真を慕って都からやってきた梅王丸から、
藤原時平の陰謀によって配流されたことを知った道真は、
雷神となって天拝山の頂上から京の都へ飛び去っていく、という物語です。

左の人は道真を演じる市川団之助です。
今、雷神となって天拝山から飛び立とうとしているところです。

それはさておき、
七代目団十郎の俳号の一つに「寿海老人」というのがあります。
名優のこの俳号をつけたお酒が、かつてあったそうです。

これがそのマーク。
img557.jpg
江戸末期の人、喜多川守貞「守貞漫稿」の中で、
銘酒としてこの名をあげています。

七代目は7男5女の子福者でありましたが、団十郎の名を襲名した長男は、
幕末の嘉永7年、興行先の大阪で突如謎の死を遂げてしまいます。
   ※戸板康二の「團十郎切腹事件」に詳しい。

「当八月六日、於大坂八代目市川団十郎変死の由聞ゆ。いたましき事也」
  =三代目中村仲蔵「手前味噌」より

人気絶頂だった30歳で自刃した八代目団十郎
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「鬼神のお松」で夏目四郎三郎を演じる八代目団十郎。三代豊国筆

再び、七代目団十郎へ戻ります。
この荒事の名優が娘姿で踊ったのが「近江のお兼」

お兼は鎌倉初期に近江の琵琶湖のほとりに住んでいた遊女で、
誰にも止められなかった暴れ馬を、
高足駄でちょいと踏んづけて止めた大力の持ち主だったとか。

「近江のお兼」です。
img565.jpg
「文政版見世物語」所蔵

長唄「近江のお兼」には、
色気白歯の団十郎娘と歌い込まれていますが、

私がお伝えしたいのは、こちらの歌詞です。

〽力試しの曲持ちは 石でもごんせ 俵でも
ござれござれに差し切って
五十五貫もなんのその 中の字きめし若い衆も 女子にゃ出さぬ力瘤

ここに出てくる「五十五貫」とは、「富岡八幡宮」にあるこの力石のことなんです。
CIMG0783 (3)
富岡(深川)八幡宮=江東区富岡  江東区有形民俗文化財

そして、「中の字きめし若い衆」は、
この石に刻まれている「中村弥兵衛」のことだったのです。
力石や力持ちが長唄に唄われ、
それを歌舞伎の名優が踊ったなんて、すご~い!


〽今じゃ中の字 文化財でござる
       よいやなよいやな ありゃりゃりゃりゃよいやさ





※画像提供/「もう一つの日本美」広末保 美術出版社 1965
        /「近世風俗事典」=喜多川守貞「守貞漫稿」の現代語訳
         監修江間務ほか。人物往来社 昭和42年

         /「見世物研究」朝倉無声 昭和3年
         /「名作歌舞伎全集・第2巻」監修戸板康二ほか。東京創元新社
          昭和43年
※参考文献/「手前味噌」三代目中村仲蔵。郡司正勝校註 青蛙房
            昭和44年



わたしのお雛さま

今日は桃の節句、ひなまつりです。

いくつになっても好きなんです、おひなまつり。
昔は男の子が生まれてもお雛さまを贈ったそうで、
実家の一番上の雛壇には、長女長男の立派な御殿飾り
中段にはその下の姉や兄のひな人形が華やかに飾られていました。

その雛壇の一番下に、ちんまりと置かれていたのが、これ。
CIMG2061.jpg
私のひな人形です。

なにしろ一番末に生まれたので、母方からも父方からももう何も贈られず…。
口には出さなかったけれど、自分のお雛さまがないのは寂しいもんです。
その様子を見ていた母が可哀そうと思い、行商のおばさんから買ったのがこれ。

土でできた「芥子雛(けしびな)です。
つまようじと見比べてみてください。まるで芥子粒みたいに小さいんです。

CIMG2079.jpg
小さくても三人官女五人囃子菱餅もみんな揃っています。

   土雛は昔流人が作りけん   水巴

私はこのお雛さまが大好きで、だからこうして今でも大切に持っています。
本格的なお雛さまって、どこか妖気漂っているし、年経ればますます怖い。
そこへいくと私のこの土雛は、いつまでたっても愛らしい

お内裏さまと並んだ「すまし顔」のお雛さまです。
CIMG2063.jpg
ちょっと泣きそうなところが、自分に似ているような…。

7歳のお祝いで初めて振袖を着て、お雛さまになった心地。
img563.jpg img564.jpg
年頃になり、人並みに花嫁御料になって…。
おっ、我ながらなんと初々しい! あ~あ、あの頃にもどりたい! 

    古雛の高砂の髪も老ひにけり   石鼎

人生の荒波をくぐって、今ではすっかり別人になり果てました。

CIMG2082.jpg
菱餅が巨大に見えます。

お雛祭りには母が作ったご馳走をお重につめて裏山へ出かけました。
女の子だけの宴会です。
野に入って山の神と食事を共にするという風習を、母が私たちに伝えたのです。

あのときは、今は亡き姉が白酒に酔っぱらってしまって…。

    
     桃の日や雛のくちびる姉に似て    さやこ



プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。今、「力石からバーベルへの道」を書いています。

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