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富岡八幡宮ミステリー

力石余話
02 /28 2015
前回、富岡八幡宮には、力石の保存場所が2か所あるとお伝えしました。

ここと、
CIMG0785.jpg

もう一ケ所は「横綱力士碑」の片隅のここ。
img562 (2)
こちらの保存は、ちょっとひどいですねえ。

あまりのお粗末さに埼玉在住の力石研究者・S氏は、こんな句を…。

さし石の捨て場か 藪蚊 蜘蛛 毛虫  呆人

で、ここからがミステリー。

今から3年前の初秋、
S氏は富岡八幡宮からさほど遠くない「紀文稲荷神社」へ出かけた。
と、そこに見慣れない力石が二つ。
ここの力石は16個のはずが2個増えて18個になっていたというわけです。


いつの間にか増えていた力石がこちらの二つ。
1紀文稲荷
「飛龍」(左)と「つる乃子」(右)=紀文稲荷神社(江東区永代) 撮影/S氏

「飛龍」と「つる乃子」は一体、いつどこから来たのかとS氏は頭を巡らした。
「飛龍」のことはとんと分からないが、
「つる乃子」という力石には、以前お目にかかったことがある。
「もしや…」とS氏が確かめに行った先が、富岡八幡宮です。
すると、


1富岡八幡
6個あったはずの力石が5個になっていた! 
撮影/S氏

なんと、その消えた一つが「つる乃子」だったのです。
八幡宮にあった「つる乃子」と紀文稲荷の「つる乃子」の刻字は、


「つる乃子 さし石 さが町 又三 由き夫 実」

と、全く同じ。間違いなくこの石は同一の石だったのです。
「誰が、どうして、こんなことをしたのか」とS氏。
石が一人で歩いて行くわけがないし、
さては紀文稲荷のおキツネさまのいたずらか?

江東区の文化財課でも八幡宮でも、なぜ石が移動したのかわからないという。

まさにキツネにつままれたような展開です

そのときS氏の脳裏に浮かんだのが、かつて、本の中に写っていた石の、
現在の所在地を突き止めた時のことでした。

そのとき、S氏が見た写真です。
昭和34年の「深川力持ち」のイベントです。
力石イベント朱雀
ここに「朱雀」と刻字のある石が写っています。

S氏はこの「朱雀」の探索に乗りだし、ついに探し当てます。
「朱雀」はこの力石群の中から見つかりました。
1福住稲荷
「福住稲荷神社」=江東区永代・渋沢倉庫敷地内 撮影/S氏

これです。
朱雀福住稲荷

このことから、S氏は富岡八幡宮の「つる乃子」の移動をこう推理しました。
「つる乃子も飛龍も深川の力持ちイベントで、
このような使われ方をしたのではないだろうか。
その結果、元あった場所から移動してしまった」


富岡の「つる乃子」どこぞ消えたのは
            惚れた「飛龍」のもとぞ紀文の
  呆人

さて、そのころ私は、力石の師匠の
「東京の力石」の富岡八幡宮のページとにらめっこしていました。
本には、「八幡宮所有の13個の力石のうち7個が文化財」と書いてある。
でも何かおかしい。

どれっ、電話かけて確かめてみるか、というわけで、
江東区役所で文化財の台帳を調べていただくと、案の定、
「富岡八幡宮の力石文化財は7個ではなく、<3個です」とのお返事。

わーい! 師匠がミスった。 弘法も筆の誤りってなことなのね!

でも残念なことに、江東区が有形民俗文化財に指定した3個のうち2個は、
この「ゴミ捨て場」みたいな場所に置いてあるんですよね。

八幡宮のみなさま、こんな粗末な扱いをしていると、
「つる乃子」さんみたいに、


み~んな家出してしまいますよ~!

<つづく>

※参考文献/「昭和30年・40年代の江東区・なつかしの昭和の記録」
         三冬社 2010
※参考文献・写真提供/埼玉在住の力石研究者S氏
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「力士碑」と「力持碑」

力石余話
02 /25 2015
「江戸学」の祖と呼ばれた江戸文化・風俗の研究家、
三田村鳶魚(明治3~昭和27年)は、その著書の中でこういっています。

「元禄ごろまでは体力本位、腕づくの力相撲だったから
力持ちも相撲取りになれた。
しかし相撲に柔(やわら)が入って相撲術が生まれたため、
単に力があるだけでは力士になれなくなった。
ここで素人と玄人とが立ち別れた」


化政期ごろから、相撲が武芸から見世物の「芸相撲」の傾向を見せ、
相撲を取らない飾り物のこんな力士が出現します。

img561.jpg
11歳で22貫あった大童山文五郎。土俵入りだけしたという。東洲斎写楽筆

しかし「酒蔵の町・新川ものがたり」には、
酒問屋関係で大関になった伊勢ノ浜と常陸岩が出てきます。
問屋の若者が角界入りしたり、
引退力士が子弟を酒問屋の小僧に出したりなど、
新川と角界とはかなり身近な関係にあったようです。


本の中に、「陣幕久五郎」という相撲取りの話が出てきます。

第12代横綱・陣幕久五郎です。
CIMG0792.jpg
迫力・貫禄は飾り物力士の文五郎とは大違い。

相撲取りが並はずれていたのは、膂力(りょりょく)や技ばかりではなかった。
けたはずれの酒豪が多かったようで、篠原文雄氏の「日本酒仙伝」によると、
力士のちょっと一杯は「二、三升」で、栃木山は一日一斗五升。
「伊勢ノ海は巡業先で他の力士3人で三斗九升飲んだ」

こんな話も…。

「海山(二所ケ関)は酔いつぶれて寝ていたとき、
仲間に起こされて取り組み、相手を投げ飛ばすと再び眠ってしまい、
相撲を取ったことすら覚えていなかった」


とかく世は喜び烏酒のんで
       夜があけたかア日がくれたかア
  唐衣橘州

さて、陣幕久五郎です。明治33年、陣幕は全国からの募金で、
富岡八幡宮に「横綱力士碑」を建立します。


CIMG0780.jpg
富岡(深川)八幡宮 =江東区富岡

発起から7年後の明治33年に完成。
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初代から67代までの横綱の四股名が刻まれています。

力士碑の両サイドには、
安政4年の陣幕と不知火の取組みが刻まれています。
下位の陣幕が大力士・不知火に勝った記念すべき取組みだったそうです。


CIMG0794.jpg CIMG0790.jpg
不知火光右衛門    陣幕久五郎

そして、富岡八幡宮の本殿をはさんで、この「力士碑」に対峙しているのが、
「力持碑」です。
ここには力石が「力持碑」周辺に7個、
「力士碑」近くに5個(かつては6個)あります。


img562.jpg
「力士碑」近くに無造作に置かれた力石。「東京の力石」より
この中の一つが行方不明とか。次回その顛末をお伝えします。

「力持碑」です。
CIMG0784.jpg
米問屋が多かった佐賀町の力持ち集団が持った力石です。
右端の「白玉」は昭和15年、左端の「辰巳」は大正10年の奉納。

睦会深川力持
平原直先生のご尽力で復活した「深川力持睦会」の力持ちの技芸
=東京都無形民俗文化財。「江東区役所」HPより

力持辰巳男の伊達姿  詠み人知らず

こちらは「力持碑」の隣りに並ぶ力石群です。
CIMG0783.jpg
台座上の石は中村弥兵衛が持った55貫目の力石。区文化財。

さて、
三田村鳶魚は著書の中で、
相撲取りと力持ちについて、こんな説明をしています。
「相撲に柔の技が入ったため、
単に力があるだけの力持ちは相撲の力士にはなれなかった」


明治の力持ち神田川徳蔵が、力石をバーベルに持ち替えて、
力持ちを見世物から、
ウエイトリフティングというスポーツに高めていったというお話を
以前ご紹介しました。


そこからわかることは、
「力があるだけでは相撲取りにはなれない」のではなく、
相撲と力持ちの技は、最初から別ものであるということです。

どんな名横綱でも
オリンピックのウエイトリフティングの選手に選ばれないことが、
何よりもそれを証明しております。

<つづく>

※参考文献/「三田村鳶魚全集 第15巻」中央公論社 昭和51年
        「鳶魚江戸学 座談集」朝倉治彦編 中央公論社 1998
        「酒蔵の町・新川ものがたり」高木藤夫・高木文雄・沢和哉
         清文社 1991
        「日本酒仙伝」篠原文雄 読売新聞社 昭和46年
※参考文献・画像提供/「東京の力石」高島愼助 岩田書院 2003
              /「見世物研究」朝倉無声 昭和3年

チョイチョイとよし

力石余話
02 /21 2015
江戸っ子の「初物」好きに目を付けた浪速商人が始めたのが、
新酒を樽に詰めて江戸への一番乗りを競う
海上レース「新酒番船競争」です。

享保期(1716~1736)に7艘から始まり、多い時で15艘が参加。
天明の飢饉もなんのその、幕末まで続いたそうです。

「酒蔵の町・新川ものがたり」によると、
江戸への輸送は通常3週間から1か月かかるところを漕いで漕いで漕ぎまくり、
遠州灘を一日で乗り切り、
わずか3、4日で品川沖へ到着したというのだからすごい


新酒旗

江戸入港順位に従って、一番船二番船三番船とつけられたところから
「番船」と呼ばれた。着順は早飛脚によって大阪、西宮の荷主に知らされた。

「ドブーンと品川の海へ碇をぶちこんだとなると、
早速に早飛脚が新川へと飛ぶ。
何丸が一番だと触れられると、夜半でも新川中の問屋は大戸を開けて、
祝いの酒肴の準備にとりかかる。
その間に荷足(にたり)船=小型の和船へ移して永代から川へ入っていくと、
ソラ来た、ヤレ来た、めでたいめでたいと新川一帯はさらに景気立つ」


「何しろ新酒の初積みだ。各問屋では酒は飲み放題、肴は食べ放題」

赤い襦袢を着た一番船の船頭たちが、喜びのあまり町を踊り廻っています。
伊豆の若者、佐七が働いていた「南新川」付近です。
番船の図
「幕末明治の歴史②」より「新酒番船 入津繁栄図」部分 朝霞楼芳幾画

「船頭は酒の銘入りの手ぬぐいで向こう鉢巻して、
船の名を白く染め抜いた朱縮緬の半襦袢に三尺をグルグル巻き、
手には小さな太鼓と五色の采配を持って足袋裸足、
ソーラ、いっちゃいっちゃと踊りまわる」


この命がけのレースで一番になった船の船頭には、
江戸の荷主から賞品と金一封が贈られたそうです。

そして、入賞3位以内の酒荷に対して標準価格を決定。
それがその年の酒の価格になったということです。


こちらは江戸名所図会の「新酒番船」入港の絵です。
たるころ

タルコロが酒樽を陸揚げしています。

タルコロ

剣菱、七つ梅などの名酒が続々到着です。

ヤジキタもご機嫌です。
img559.jpgimg559 (2)
「続膝栗毛十一編」より

江戸中が浮かれています。

朝もよし昼もなほよし晩もよし
     その合ひ合ひにチョイチョイとよし
 蜀山人

そんなに召しあがったらお体にさわります。

酒のない国へ行きたい二日酔い   そらごらんなさい。
また三日目には帰りたくなる   もう帰ってこなくてよし!

<つづく>

※参考文献
/「酒蔵の町・新川ものがたり」高木藤夫・高木文雄・沢和哉
清文社 1991
※画像提供
/「錦絵・幕末明治の歴史②横浜開港」小西四郎 講談社 昭和52年

雨ニモマケズ

力石余話
02 /17 2015
いつもコメントをくださる「ヨリック」さんが、
「墓石まで残っているのがすごい!」と感嘆されていたので、
ここで再び、鬼熊こと熊治郎の墓碑について申し上げます。


鬼熊の墓碑と力石がある本覚山妙寿寺(法華宗・本門流)です。
CIMG0729.jpg
=東京・世田谷区北烏山

もとは江東区猿江町にありましたが、
大正12年の関東大震災で焼失したため現在地へ移転。
この北烏山にはそうしたお寺が26ヵ寺あります。


写真中央は鬼熊の力石(丸い石)と墓石(力石の後ろ)です。
左の石は明治の力持ち、竪川大兼が持った力石「鳳凰」

CIMG0735 (2)

ここには女優だった大原麗子さんのお墓もあるそうです。
美人女優と同じお寺だなんて、鬼熊さん、よかったネ!

力石研究の高島慎助四日市大学教授によると、
実はこの墓石、以前は寺の裏にある墓地に転がしてあったそうです。
それで先生とご住職とが連絡を取り合い、
平成14年、現在の場所(庫裡の前)にきちんと保存されたということです。

なにはともあれ、大震災の焼け跡から、
墓石と力石を世田谷まではるばる運んできてくれたんですもの、感謝、感謝!


記録されていた鬼熊の墓石図です。山口豊山「夢跡集」より
img552.jpg CIMG0735 (3)

真ん中に「妙法」、右に「勇猛院熊力信士」、左に「霊山院□□信女」
鬼熊は82歳でこの世を去ります。没年は明治18年。
「信女」さんは明治13年没になっています。鬼熊の奥さんかしら?


さてさて、こちらは妙寿寺境内にある梵鐘です。
CIMG0730.jpg
関東大震災のとき破損。今も当時のままの状態で台座に置かれています。
鋳造は、享保4年(1719)

そしてこちらは、
梵鐘の近くに建立された宮沢賢治の詩碑「雨ニモマケズ」
CIMG0736.jpg

この詩は死の2年前、病床で手帳に書きつけたものだそうです。
詩碑の文字は、手帳に記されたままを刻してありました。

冒頭の「11、3、」は日付(11月3日)です。
私はこれを逆さに「3、11」と読んでしまい、
一瞬、賢治は平成の東日本大地震を予言していたなんて思ってしまいました。

CIMG0736 (2)

ですが、大地震はなんとなく賢治にまとわりついているような…。

「祈りのことば」の著者、石寒太氏が、
「賢治は地震の申し子のようだ」というように、
生誕の明治29年8月のその2か月前に、三陸大地震と大津波、
誕生5日目に陸羽大地震、
亡くなる半年前の昭和8年には再び三陸大地震が発生。


「賢治の生涯はまさに、天災と凶作と苦難の時代を踏まえていた。
だからこそ、
今度の平成の大地震でも賢治の”ことば”が多くの人々のこころを打つのです」
と石氏はいいます。


東日本大震災以降、この「雨ニモマケズ」は、
各地のチャリティコンサートなどで朗読され、
多くの人の共感を得ているそうです。


さて、その賢治が、
日蓮主義を奉ずる「国柱会」の熱心な信者であったことはよく知られています。
この国柱会は静岡県清水市の三保に「最勝閣」という道場を持っていました。


昭和の初めごろまであった「最勝閣」
img553.jpg

大正11年、賢治は二つ下の最愛の妹を病気でなくします。
翌年、その納骨のためにここを訪れているそうです。
宮澤賢治は静岡に足跡を残していたんですねえ。


でも堀尾青史氏編の「宮澤賢治年譜」によると、
もう一人の妹シゲの回想の中に、こんな話があるという。

「春の終わりごろ、
父と私は納骨のため清水から舟で三保へ渡り最勝閣へ行った」

これを踏まえ、堀尾氏はこう推測している。
「賢治はそれより前の1月、三保の”国柱会本部”へ行ったと思われるが、
このときは納骨の手続きをとっただけかもしれない」

作家の井上ひさしは「宮澤賢治に聞く」の中で、
科学者であり、宗教者であった賢治を
「人間のお手本である」と評してこういう。


「科学が独走するとろくなことにはならない。
宗教だけに凝り固まると独善の権化のようになってしまう。
賢治の中ではこの二つのものが
互いのお目付け役をつとめていたように思われる。
そしてその二つのものの中間に文学があった」


「科学の独走、独善の権化」って、

なんだか、今の日本とそっくりだ!

<つづく>

※参考文献・画像提供/「石に挑んだ男達」高島慎助 岩田書院 2009
               「夢跡集」山口豊山 私家本 国会図書館蔵
※参考文献/「宮澤賢治・祈りのことば」石寒太 実業の日本社 2011
        /「宮澤賢治に聞く」井上ひさし 文藝春秋 1995
        /「宮澤賢治年譜」堀尾青史編 筑摩書房 1991
※画像提供 /「清水みなと史」立川春重 明治大学校友会清水支部 昭和39年

ちょっと寄り道、「神楽」です

古典芸能
02 /14 2015
久々に神楽を見ました。
場所は静岡浅間神社・舞殿。

氷雨の降るあいにくの日曜日です。
でも出かけました。
なにしろ舞うのは、日本を代表する岩手県の
早池峰・大償(はやちね・おおつぐない)神楽ですからね。


地元の清沢(きよさわ)神楽との共演です。

清沢神楽です。静岡県指定・無形民俗文化財です。
CIMG2048.jpg

静岡市を流れる安倍川の支流、藁科川流域の旧清沢村を中心に、
江戸時代から伝わる伊勢系統の神楽です。

真剣を使った「八王子の舞」です。
元は8人で舞ったものですが、この日は若者2人を入れた4人で舞いました。
CIMG2051.jpg

利き手ではない左手で重い刀を長時間クルクルまわします。
大変な技と体力が求められます。

手元が狂って真剣が飛んできたらどうしよう、なんてふと思ったりして…。
不謹慎、不謹慎。


さて、本日のお目当て早池峰・大償神楽です。こちらは山伏系の神楽。
国指定・重要無形民俗文化財ユネスコ・無形文化遺産というすごい神楽です。


災いを防ぎ、人々の平安を祈る「権現の舞」
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御年84歳の舞人です。

前日のホールでの公演の疲れも見せず、躍動感あふれる動きです。
最初から最後まで一人で舞います。
胸にジンときて、なんだか涙が出そうになりました。

東日本大震災以降、この「鎮魂と祈りの舞」で被災地を訪問。
また、岩手の民俗芸能の復興再生のために、
各地で公演を行っているそうです。
84歳でがんばっておられるんですもの、きっと大丈夫です。

CIMG2039 (2)
今度は獅子頭をかぶり、色白の素敵な若者を従えて舞います。

岩手県は、このブログに時々コメントを下さるkappaさんのふるさとですね。
kappaさんも若かりし頃は、きっとこんな若者だったかもなあ、と思いつつ…。

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最後に見物人へありがたいお神酒「福」のふるまいです。

神楽が終わって歩きはじめたら、足の指の感覚がない。
寒かったし、早くから立ちっぱなしだったもんなあ、と思いつつ、
しかし、すっかり心が洗われた思いで帰宅。


その夜、知り合いのおじさんから電話が入った。開口一番こう言った。
「おーい、雨宮さん、今日浅間さんで神楽見てたら?」
「えっ! なんで知ってるの?」
「テレビに出てたもん。NHKのニュースにだよ!
一番前にいたっけよ。カメラ持ってサア」
「エエーッ!」
「なんだ、見なかったのかい。アリャー」

あらま! この私が天下のNHKに出てたなんて、アリャー。
でもさ、うちにはテレビがないから、そんなことどうでもいいんだヨン。

「勇猛院熊力信士」

力石余話
02 /11 2015
「タルコロ」の第一人者ともいうべき「鬼熊」が働いていたのが、
慶長元年(1596)創業という酒問屋「豊島屋」です。

驚いたことに、この豊島屋さん、現在も「株式会社豊島屋本店」として営業中。
場所は鎌倉河岸から千代田区猿楽町へ移転したものの、
徳川家康が江戸へ入城した年から、約420年も続いているというのですから、
老舗中の老舗です。


豊島屋酒店です。
img322 (2)
「鎌倉町 豊島屋酒店白酒を商ふ図」 
=「江戸名所図会」長谷川雪旦画 天保7年

初代豊島屋十右衛門の夢枕に紙雛様が立って、
白酒の作り方を伝授したそうで、
以来、2月末の雛祭り(桃の節句)には白酒を商ってきた。
これが評判になり、
「遠近の輩、黎明より、肆前(しぜん=店の前)に市をなして賑えり」
という状況に。やがてこれが江戸の名物となり、


「山なれば富士 白酒なれば豊島屋」
と詠われるようになったそうです。

img322.jpg
豊島屋のシンボルマーク「カネジュウ」

ちなみに「桃の節句」の桃は、
咲き始めた桃の風情が、大人になりかけた少女を彷彿させると共に、
「百歳(もも)」にも通じる縁起の良さからこういわれているとか。


さて、豊島屋の名物男、鬼熊のその後です。

鬼熊は年老いてから、
「神田・新し橋の彼方柳原より右に曲がれる横町のかどに居酒屋を出しける。
その家のかたわらに、20貫目より80貫目位の大石あまたありて、
持てし者の名を彫付けたり」
=青葱堂冬圃の「真佐喜のかつら」より

江戸文化・風俗研究家の
三田村鳶魚(えんぎょ)
=明治3年~昭和27年=はこういう。

「ここ(居酒屋)へ来て自分の力量を試みる者があったから、
力石が備え付けてあったとみえる。
その中に、鬼熊の力石150貫目あって、銘は”熊遊び”という。
その後浅草の奥山へ移したと聞く」


それがこの力石です。
CIMG0806 (3)
東京都台東区・浅草寺「熊遊」

鬼熊の持った力石(名前が入っているもの)は全部で20個。
そのうち4個ほどお目にかけます。

CIMG0870 (2) CIMG0755 (2)
左は江東区亀戸・亀戸天神社
石に豊島屋の「カネジュウ」が彫られています。
右は江東区南砂・富賀岡八幡神社「昇竜石」

CIMG0725 (2)
世田谷区北烏山・幸龍寺の「本町東助碑」。
碑の下部、右から二つ目の石が鬼熊の力石「連城石」

CIMG0734 (3)
世田谷区北烏山・妙壽寺
丸い石が鬼熊の力石。そのうしろが鬼熊の墓石です。

墓碑にはこう書かれています。

「鬼熊 勇猛院熊力信士 
                  明治十八年八月十三日」

<つづく>

※参考文献/「三田村鳶魚全集 第十五巻」中央公論社 昭和51年
        /「株式会社豊島屋本店」HP

つわ者なれや鬼ころし

力石余話
02 /08 2015
「酒蔵の町・新川ものがたり」(高木藤夫氏ほか編)によると、
「江戸下りの酒」は、
初めは樽を馬の背につけて東海道を下る「駄送り」だったそうです。

廻船による海上輸送になったのは元和5年(1619)で、
泉州堺の商人が木綿や油などの日常生活品に酒樽を積んだのが始まりとか。
文化文政期には、
積み荷を混載する菱垣廻船から酒樽専用の樽廻船の全盛となり、
江戸下りの船は300艘にものぼったという。


img542 (2)
新川二ノ橋三ノ橋、右上は「新川大神宮」=「新撰東京名所図会」より
赤丸のところに、次の写真の「タルコロ」たちが描かれている。

「新川の名、
世に聞こゆるや久し、故に新川といえば人皆酒問屋の本場たるを知る。
川流をはさみて、左右みな問屋たり」


新川に名におふ酒の大関や 呑口も猶つよき剣菱

関西から運ばれた酒は、
五大力船や達磨船から各問屋の伝馬船に船移しされ、
それぞれ陸揚げされた。
酒樽を船積み・河岸上げする若者たちは各問屋の召し抱えで、
「タルコロ」「コバコロ」と呼ばれ、
膂力(りょりょく)に優れ、樽の扱いに熟達した者でなければ務まらなかった。


img238.jpg
新川堀から各問屋へ渡した幅30㌢ほどのアユビ板の上を、
酒樽を転がして運ぶタルコロたち。(上の写真の赤丸の部分)

「酒蔵の町・新川ものがたり」によると、
「当時の大樽は四斗入りの”こも樽”で、二十二貫四、五百目。
蔵へ積み上げる際、土間に藁を敷き、
その上に二つ重ねに4、4列の排を作り、若衆の一人がそれに乗り、
太鼓上げ、巻き上げ、蹴上げ、投げ込みで酒樽を積み上げていった」


この「投げ込み」というのがすごい。

「手数をはぶくために肩と手の力を利用して、
酒樽を裏向き、表向きに投げ込む方法である。
彼らは一度肩にかついで投げる方法より、
このように酒樽を手玉にして投げ込む技量を名誉としていた。
しかしこれは、特別の力量がなければできなかった」


静岡市清水区・西宮神社に力石を残した明治の力持ち「金杉藤吉」も、
この「手玉にして投げ込む」技の持ち主であったことを、
ご子息が書き残しています。


新川のつわ者なれや鬼ころし 三星うちし樽の曲芸

「荷仕舞いをすると酒樽に真鍮管を突き刺してラッパ飲み。
帰店すると店で用意したトロの刺身を肴に、熱燗を飯茶碗でグッとあおった。
そのあとは娘義太夫を聴きに行ったり、端唄の稽古に行く若衆もいた」

めっちゃカッコいいじゃないですか。


さて、タルコロの有名人はなんといってもこの人「鬼熊」です。

img055 (6)
神田鎌倉河岸の酒店「豊島屋」召し抱えのタルコロ、鬼熊こと熊治郎
鬼熊の力石の一つ「熊遊」は浅草寺にあります。

鬼熊がいた「豊島屋」のタルコロたちは、
日暮れになると酒樽で曲持ち、曲指しをしたという。
この曲芸が始まると堀岸の揚場は見物人が群れをなし、
「賞賛の声やまざりける」状態だったそうな。


img548.jpg

曲持の腕こきむれて豊島やに 
          いで鎌倉と河岸のあげ樽
  暁月軒浦松

<つづく>

※参考文献/「酒蔵の町・新川ものがたり・高木藤七小伝」
         高木藤夫・高木文雄・沢和哉編 清文社 1991
※画像提供/「新撰東京名所図会」東陽堂 明治32年
※参考文献・画像提供/「江戸府内絵本風俗往来」菊池貴一郎 
               東陽堂 明治38年 新装版 青蛙房 平成15年

大酒飲みの記録は一斗八升!

力石余話
02 /05 2015
江戸時代の若者、「みち婦村の佐七」が残した力石に、
「南新川」という地名が刻まれています。

「新川」といえば、江戸っ子にはおなじみの江戸の酒問屋街です。

明治7,8年ごろの新川付近(四角い囲みのところ) 

=松浦宏・東京大小区分絵図
右端の川が大川(隅田川)、左の赤丸は亀島川。
酒問屋が並ぶ新川の真ん中を、掘割りが通っています。

img254.jpg

その掘割りをはさんだ両岸を「北新川」「南新川」と呼んでおりました。
佐七が働いていたのは「南新川」ですが、店の名前はわかっておりません。


さて、お酒のお話です。
お酒は「江戸への下り酒」といい、海上輸送で関西方面から運ばれてきました。
ことに西摂地方の灘の酒は、その品質のよさから江戸っ子に好まれ、
江戸市場を独占したといいます。

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伊丹の酒造り 「摂津名所図会」 寛政8年
絵の上部は足踏みによって玄米を搗いている人たち。

灘酒の酒質が芳醇なのは、「硬度の高い宮水、摂播の米、吉野杉の香り、
丹波杜氏の技量、六甲の寒気、摂海の湿気」が相まってのことだそうで、
特に、
甕や陶磁器の器では醸し出せない味わいが出るのが吉野杉の酒樽だという。
遠州灘の荒波に揺られることで江戸へ到着するころには、
酒樽に水分が吸収されて濃度を増し、コクのある銘酒になったのだそうです。

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酒荷専用の「樽廻船」 大関株式会社蔵

江戸っ子は相当呑兵衛だったようで、
文化文政ごろには、一年に180万樽もの酒が消費されたという。
「日本酒ルネッサンス」の著者・小泉武夫氏によると、
「江戸っ子一人あたりの消費量は毎日約二合。
飲酒をしない人たちを差し引くと、
一日三合を毎日一年間飲んだ勘定になる」のだそうです。


酒の飲みくらべの「酒合戦」も盛んに行われました。

小泉氏によると、酒合戦の古いものは、
平安時代、宮中で行われた8人の公家衆による御前試合だそうで、
「大盃8回の巡盃にも平然としていた藤原伊衛が、
宇田上皇から乗馬を賜った」


「文化12年に行われた酒合戦は、柳橋の芸者3人が酒をつぎ、記録係が記録し、
見分役が見届けるという公式のものであった」
こうした大会には見分役として著名な文化人が立ちあったそうで、
大田蜀山人や儒者の亀田鵬斉、画家の谷文晁などが名を残しているという。


隅田川・涼み船の図 =「新撰東京名所図会」より
左端の茶釜でお酒の燗をつけています。
仲良しの芸者衆が水面を渡る涼風を受けつつ、
熱燗で一杯というところでしょうか。

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大酒飲み大会での最高記録は、文化14年、鯉屋利兵衛の1斗8升だとか。
昭和2年に埼玉県熊谷で行われた酒合戦では、優勝者は1斗2升も飲み、
第2位は女性で、なんと9升5合も飲んだそうです。


信じられませんよねえ。
ただの水でも、1斗はおろか1升だってとても無理。
いったい胃袋はどうなっているのか、
はたまた、その後のご本人は果たして無事だったのか、知りたいもんです。

<つづく>

※参考文献・画像提供
/「酒蔵の町・新川ものがたり・高木藤七小伝」
 高木藤夫・高木文夫・沢和哉編 清文社 1991
/「日本酒ルネッサンス」小泉武夫 中央公論社 1992
※画像提供/「新撰東京名所図会」東陽堂 明治32年

「佐七」のその後

若者組・若い衆組
02 /01 2015
「みち婦村の佐七」へ入る前に、ちょっと寄り道。

静岡県内の力石を調査していて、気づいたことがあります。
それは、静岡県のほぼ中央に位置する県庁所在地の旧静岡市を境に、
東へ行くほど力石の発見個数が多くなり、
西へ行くほど少なくなるということです。


東に位置する「佐七」の故郷、伊豆の松崎町は一町だけで16個もあるのに、
西の浜松市には「武将が使った」という伝承の割れた力石が一つあるだけ。

このことを知ったNPO法人の「天竜川・杣人の会」理事の斉藤朋之氏、
「なぜだ!」と発奮して? 力石探索に乗り出してくれました。
そしてきめ細かく歩き回り、とうとう2個も見つけてしまったのです。

一つ目はこれです。
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天竜林業体育館北の路傍  =浜松市天竜区月

秋葉道に人待ち顔の力石  雨宮清子
                          
案内板によると、
「この石は昔からここに置かれて村人を守ってくれた道祖神です。
また若者の力だめしに力石としても使われていました」
分類上では「代用力石」となりますが、重さ139キロの見事な力石です。


もう一つはこちら。
石垣の上に黒光りした石がちょこんと乗っかっていますが、これが力石です。


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五社神社=浜松市天竜区佐久間町浦川

浦川の郷土史家・伊東明書(あきふみ)氏と、
「天竜川・杣人の会」の斉藤朋之氏のご尽力で、陽の目を見た力石です。


家並も力石(いし)もセピアに塗り込めて
         こぬか雨降る山あいの町
  雨宮清子
                                      
力石の個数が、なぜ地域によって偏っているのかはっきりはわかりません。
早くから都市化や開発が進んだところは少ないかといえば、
そうでもありません。
大空襲で壊滅的被害を受けた東京には、
約1400個もの石が保存されていますし、輸出港として栄えた旧清水市は、
県内最多の力石保有地域です。

ひょっとしたら、若衆組や青年団の消長と関係があるのかもしれません。
つまり、古い若衆組を捨てて、
ハイカラな青年団色を強く打ち出したところには、力石は残りにくく、
若衆組と青年団が併存していた地域には残りやすかった、
そんなことも考えられます。


「みち婦村の佐七」が力石を残した八木山八幡神社の若者たちです。
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昭和28年(1953)で最後となった奉納相撲の地元力士たち

伊豆地方には完成された「若衆制度」があり、厳しい「御条目」がありました。
明治以降、国はこの堅固な若者組の組織を官制の青年団に作り替えます。

ですが、伊豆地方などでは若者組の良さを失いたくないという思いが強く、
昔からの若者組と上から押し付けられた青年団とを併存してきたといいます。
そのため「若衆組の寝宿」の習慣が、昭和50年代半ばまでありました。


「会社勤めをしながら夜は寝宿へ泊った。
最後は二人になり、昭和56年で廃止と決まった」

(沼津市木負・昭和13年生まれの記録)

「戦争の帰還兵が若者組に帰ってきたとき、
やたら年少者を殴るので困った」。そんな重苦しい話も残っています。

さて、「佐七」です。

佐七が八幡神社に力石を奉納したのが「天明3年」であることから、
佐七は江戸中期ごろの人ということになります。
カツオ船の乗組員でしたが、漁の仕事がない冬季には、
江戸の南新川、つまり酒問屋へ出稼ぎに行っていたということが、
石の刻字からわかります。

佐七のその後はどうなったのか気になるところですが、
残念ながら、今のところ、全く手がかりがありません。

下の絵は「御蔵前八幡奉納力持錦絵」三枚つづりのうちの一枚です
歌川国安画、文政7年 =御蔵前八幡(現・東京都台東区の蔵前神社)

011 (2)
右側の酒樽を片手でさしている人物は、「小結佐七」とあります。

これが「みち婦村の佐七」であったなら、とは思いますが証拠はありません。
ですが佐七は、故郷の八木山八幡神社に、
「六拾貫余(約225㌔)」もの力石を奉納した力持ちです。


「御蔵前八幡力持奉納錦絵」には、素人力士が6人描かれています。
ほとんどが文政期に活躍した力士たちで、酒問屋の奉公人です。

佐七が江戸でも通用する力持ちであったこと。
酒問屋の奉公人であったこと。
錦絵が描かれたのは、佐七と同時代であること。


もしかして、もしかして、
錦絵の「小結佐七」が伊豆の若者「みち婦村の佐七」であったなら…。

無駄とは思いつつ、そんなことを夢想せずにはいられません。

<つづく>

※画像提供
/「松崎町史資料編 第四集 民俗編(下)」松崎町教育委員会
 平成14年

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞