「青年団の父」田沢義鋪(よしはる)が残した膨大な著作、
「田澤義鋪選集」を中心に、その足跡をたどってみたいと思います。
「青年団の使命」「自治三則」「選挙粛正の意義と方法」などの著作。
「田澤義鋪選集」より
東京帝大を卒業した翌年、田沢は静岡県
安倍郡長として来静します。
その当時のことを田沢自身が
「青年運動の思い出」で、
こんなふうに述べています。
「郡長といえば相当の年輩の分別くさい人がやると決まっていた時分だから、
(自分のような)一青年が郡長室におさまってもどうも調子がよくない」
「自分を取り巻くのは
父、叔父、祖父ぐらいの人ばかりで気づまりで仕方がない」
そこで田沢は「肩のこらない安息所」として、
若い人たちのいる夜学会や補習学校へ出かけたといいます。
「五高時代・18歳」のころの田沢義鋪。相撲が大好きな青年だった。
「田澤義鋪選集」より
「郡長はちょっとした田舎の殿様」というくらい重い地位なのに、
内務省はなぜ大学を出たばかりの若い田沢を静岡へ出向させたのか。
明治38年、広島出身の
山本滝之助が、
帝国教育会主催の大会で、「模範的な青年の活動」「青年の国家奉仕」を提唱し、
それが内務・文部省に採用されます。
ここから、
明治政府が青年会を通じて若者を統合していく基盤が整えられた、
つまり
「国家のための官制青年団」の出発点になったといわれています。
田沢の静岡出向は、
内務省のそうした意図と使命を帯びたものだったとも考えられます。
そしてこの静岡は、
「青年団の調査研究」に、もっとも適した地域だったのではないでしょうか。
貧富の差があまりない平均的な地域であること。早くから、江戸後期の修養団
「報徳社運動」が盛んであったこと。
日露戦争後の明治41年から、農業補習学校の生徒数が急激に増えるという
向学心に燃えた若者が多かったこと。
そして一番の理由になったのは、どこよりも
完全な「若者組」が存在したこと。
静岡市が今も昔も、
日本人の
平均的思考を持った町といわれるのは、
以下のことからもわかります。
静岡市は、企業が新製品を売り出す前にその反応を見るために、
まずここで
テスト販売をするところとして知られています。
あのJRの自動改札機も、
まずJR静岡駅で試みてから全国へ導入したといわれています。
新しい国家的プロジェクトを遂行するための
実験場として、
内務省が静岡を選び、地域の若者と年齢の近い田沢にその任務が与えられた、
そんなふうにも思えます。
青年団運動の先駆者、
山本滝之助が静岡に田沢を訪れたのも、
この静岡在任時代のことです。
以後、田沢は終生山本を尊敬し、
のちに建設された日本青年館に、山本の胸像を建てます。

「富士登山記念」大正5年 服部順一氏蔵 「やきつべ」より
上の写真は、田沢の青年強化育成の指導が富士登山という形になった例です。
静岡在任4年余の間に、田沢の薫陶を受けた若者たちは、
その後、地域の指導者となって地域の発展に貢献していきます。
さて、田沢は静岡へ赴任早々、
「若者組」に注目し、その研究に没頭します。
その調査研究のために全国に檄を飛ばしたといわれ、
収集した資料の中には、伊豆の若者組の
「御条目」も入っていました。
このときの研究はのちに、
大日本連合青年団編
「若者制度の研究」として、刊行されます。

田沢から教えられた
野外実習の楽しさは戦後にも受け継がれました。
岩田重則氏によると、
民俗学者・
中山太郎の「日本若者史」(昭和5年)に、
田沢は跋文を寄せているとのこと。
また、民俗学者の
瀬川清子も民俗調査に赴くとき、
「若者制度の研究」の編纂者に紹介状をもらっていたという。
民俗学者がその調査の価値を認めるほど、
田沢の若者組の調査研究は徹底していたということだと思います。
赴任から4年目、田沢の実践が矢継ぎ早に始まります。
青年強化育成の理想的な補習学校の試験村として、
「有度村」が選ばれます。
次に寺に一週間泊まり込んでの
「青年講習会」を開講。
その5か月後の8月、今度は三保の海岸で、
静岡歩兵第34連隊から借りた
天幕(テント)で講習会を開催。
その同じ8月、静岡市を流れる
安倍川が氾濫し、
死者45人、流失家屋1000戸、耕地流失180町歩余という
大惨事が起ります。
大正3年8月、静岡市の安倍川が氾濫、大洪水が起きた。

=「静岡市の百年」より
安倍郡長として当然辣腕を振るわなければならないそのときに、
なぜか内務省から転任命令が出て、翌年には東京へ戻ってしまいます。
田沢の親友の下村湖人も
「この人を見よ」の中で、
「不可解な転任辞令」と書いています。
任ぜられたのは、「内務省
明治神宮造営局総務課長」
崩御した明治天皇をお祀りする神社の造営です。
これを機に、
全国の若者たちの勤労奉仕という一大運動が起ります。
作家・林房雄がいった「百年戦争」の最中です。
「第一回青年講習会」に参加した青年3人も、
その年のうちに兵隊として出征していきました。<つづく>
※参考文献・画像提供
/「田澤義鋪選集」後藤文夫 財団法人田澤義鋪記念会 昭和42年
/「焼津市制50周年記念写真集」焼津市 平成13年
/「静岡市の百年・大正」山内政三 静岡市百周年記念出版会 昭和63年
/「ふる里を描く(上巻)」堀田貞彦 私家本 2011
※参考文献/「ムラの若者・くにの若者」岩田重則 未来社 1996