蓮沼門三、明治15年、福島県生まれ。
蓮沼は明治39年、
24歳のとき、
「一人の力は弱くとも、その一人が善いことに向かって努力していたら、
共鳴者を生むことができ、やがて明るい世界を実現できる」として、
神道、仏教、キリスト教を融合した
修養団を設立します。
修養団の
目的は「人格の向上」。
その方法は
、「瞑想」「汗を流して働く」「偉人崇拝」の三つ。
これが大正・昭和期に大きな社会運動になっていきます。
しかし、大正13年に平沼騏一郎が第2代団長に就任したのを境に、
修養団は国家主義的傾向を強めていきます。
大正から昭和の時代は
物価高騰、
不況、
戦争と混迷の時代です。
大正7年、
富山県の漁村の主婦たちが起こした
米騒動は42道府県に拡大。

政府は鎮圧に軍隊まで出動させた。騎兵と抜刀した警官が群衆を追い散らしている。
「夫と父を足尾銅山に出稼ぎに送り出した小笠郡比木村の31歳の妻は、
米が高くて生活困難なるにより、二人の子供と井戸に
身投げして果てた」
(「静岡県の歴史」)
平沼騏一郎、慶応3年生まれ、岡山県出身。
大審院検事総長・院長、内閣総理大臣などを歴任。
きわめて国粋主義的で、共産主義、民主主義、ナチスなどの外来思想を軽蔑。
しかしまた親米英派ともいわれ、右翼団体から2度も襲撃されています。
昭和14年、
国民総動員体制を推進し、
米の配給制度、国民徴用令などを制定。
そして、大正13年から昭和11年まで、実に
12年もの間、
修養団の団長の地位にありました。
大正12年、関東大震災。
「浜岡史談会」の記事は、この修養団についてこういいます。
「修養団は
”向上”という雑誌を出して、
世界ニ比ナキ日ノ国ニ 大和男ノ子ノ血ヲ受ケテ
生レ出デタル青年ノ 結ビハ固キ修養団
の団歌を高唱して、”今や思想ノ波荒レテ 有為ノ人ノ立ツトキゾ”と」
「大正7年
米騒動の起った前後の労働運動、農民運動の全国的な高まり、
社会不安が深刻に広がる中で、それを”思想の悪化”ととらえ、一般青年団よりも
露骨な反動宣伝を盛んに行っていた」

左の写真は
「娘を売らずに食える道」部落座談会=青森県。昭和9年。景山光洋撮影
右は昭和5年の東北地方
大正9年に始まった
世界恐慌、
大正12年の
関東大震災、
そして
昭和2年から始まった
金融恐慌は長期にわたって人々を苦しめました。
これに
凶作が重なり、特に東北地方は深刻で、飢えが日常的になっていきます。
都市でも
失業者が増え、「大の男が働きたくても職がなかった」(加太こうじ)
そんな中、
満州事変(昭和6年)が勃発します。
国は青少年を帝国軍人の予備軍と位置づけ、ますます強化していきます。
混乱と耐乏の時代の始まりです。
安倍郡(静岡市)青年団(5000余人)は、すでに
大正6年に安東練兵場にて
歩兵29旅団長や34連隊隊長らの
軍事訓練を受けています。

水産学校(焼津市)の学校教練 北原吉右衛門氏蔵 「やきつべ」より
=昭和9年ごろ
民俗学者の
宮本常一は、
「修養団の平和な世界を築こうという運動に献身報国が加わり、
戦争目的のために利用されていった。こういう運動は自己主張する精神が弱く、
否定の論理が乏しかった」(ムラの若者たち)
青年団の指導者・
田沢義鋪も修養団に熱心だった。
そして修養団本部評議員になった大正8年、
明治神宮の造営に青年団の奉仕を提案します。
明治神宮の造営は大正4年に着工されたものの、
世界動乱の影響で物価が暴騰、労力も不足したため、
青年団の勤労奉仕を思いついたといいます。
まず試験的に、前任地の静岡で模範村として指導した
「有度村」の若者50名が上京。
「明治を生きた青年たちにとって、明治天皇は
絶対的な権威であった。
明治天皇のその神社造営に奉仕することで、青年たちの血がわいた」
(宮本常一)
しかし、青年たちを奮い立たせたのはそればかりではなかったのかもしれません。
田沢という人物に青年たちは惚れ込み、この人のためならと喜んで馳せ参じた、
そんなふうにも思えます。
青年たちが
「根かぎり働きます」と誓った通りこの試みは成功し、
静岡の青年に続いて、
北海道から沖縄までの18歳から25歳の青年たちが、続々と奉仕にやってきます。
その数、
280余団体、1万5000人、
延べ15万人にもなったそうです。
明治神宮が完成した4年後の大正13年、
「大日本連合青年団」創立。
翌14年、青年の殿堂
「日本青年館」が開館します。
大正14年(1925)に開館した地上4階地下1階の「日本青年館」=東京都新宿
日本青年館の総工費160万円。
そのすべては全国の
青年が一人1円ずつ出しあったものだそうです。
「河川工事や道路修理、植林作業や海藻取りといった具合に、
集団勤労によって収益を得、それを拠出した。その総額実に193万7361円」
(下村湖人「この人を見よ」)
しかし不思議なことに、
今、各郷土史には、当時の「日本青年館」や勤労奉仕のことがほとんど出てこない。
出てくるのは、
「軍事教練に明け暮れた」という記述ばかりです。
<つづく>
※参考文献 /「浜岡史談会」「立身出世」小野芳郎 1984
/「ムラの若者たち」(復刻版)宮本常一 家の光協会 2004
/「田澤義鋪選集」財団法人田澤義鋪記念会 昭和42年
/「衣食住百年」加太こうじ 日本経済新聞社 昭和43年
※画像提供 /「新詳説・日本史」山川出版社 1989
/「総合資料日本史」浜島書店 1988
/「やきつべ」焼津市 平成13年
/「昭和世相史・戦前編」平凡社 昭和50年