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ゆく川の流れは…

おっかなびっくり始めたこのブログ、なんとか7ヵ月続けられました。
いつもおいでいただいて、つたない文をお読みくださってありがとうございます。

今日は大晦日
本年最後のページです。

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富士宮市の「音止滝(おとどめのたき)

ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず…

この歳になって、妙に思い出すのは子どものころのお正月
「もういくつ寝ると…」の歌の通り、ワクワクしながら待っていました。
台所では餅つきおせちの支度。
除夜の鐘まで起きていようとがんばったけど、とうとう眠ってしまった。

枕元に、真新しい下着と靴下を置き、3匹の猫と眠った大晦日。
空を飛ぶ夢を見たけれど、なかなか浮遊しない。
懸命に両手をばたつかせても、足は地面についてしまう。
疲れ切って目を覚ますと、猫が3匹、体の上で眠りこけていたっけ。

もうあの日は来ないけれど、
明日になれば新しい年です。
後ろを振り返らず、前を見て、命のある限り心躍らせて行こうと思います。

本年はお世話になりました

また来年、といっても明日ですが、
よろしくお願いいたします。

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娘を売らずに食える道

蓮沼門三、明治15年、福島県生まれ。

蓮沼は明治39年、24歳のとき、
「一人の力は弱くとも、その一人が善いことに向かって努力していたら、
共鳴者を生むことができ、やがて明るい世界を実現できる」として、
神道、仏教、キリスト教を融合した修養団を設立します。

修養団の目的は「人格の向上」。
その方法は、「瞑想」「汗を流して働く」「偉人崇拝」の三つ。
これが大正・昭和期に大きな社会運動になっていきます。

しかし、大正13年に平沼騏一郎が第2代団長に就任したのを境に、
修養団は国家主義的傾向を強めていきます。

大正から昭和の時代は物価高騰不況戦争と混迷の時代です。
大正7年
富山県の漁村の主婦たちが起こした米騒動は42道府県に拡大。
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政府は鎮圧に軍隊まで出動させた。騎兵と抜刀した警官が群衆を追い散らしている。

「夫と父を足尾銅山に出稼ぎに送り出した小笠郡比木村の31歳の妻は、
米が高くて生活困難なるにより、二人の子供と井戸に身投げして果てた」
(「静岡県の歴史」)

平沼騏一郎、慶応3年生まれ、岡山県出身。
大審院検事総長・院長、内閣総理大臣などを歴任。
きわめて国粋主義的で、共産主義、民主主義、ナチスなどの外来思想を軽蔑。
しかしまた親米英派ともいわれ、右翼団体から2度も襲撃されています。

昭和14年、国民総動員体制を推進し、
米の配給制度、国民徴用令などを制定。

そして、大正13年から昭和11年まで、実に12年もの間、
修養団の団長の地位にありました。

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大正12年、関東大震災。

「浜岡史談会」の記事は、この修養団についてこういいます。
「修養団は”向上”という雑誌を出して、
   世界ニ比ナキ日ノ国ニ 大和男ノ子ノ血ヲ受ケテ 
   生レ出デタル青年ノ 結ビハ固キ修養団
の団歌を高唱して、”今や思想ノ波荒レテ 有為ノ人ノ立ツトキゾ”と」

「大正7年米騒動の起った前後の労働運動、農民運動の全国的な高まり、
社会不安が深刻に広がる中で、それを”思想の悪化”ととらえ、一般青年団よりも
露骨な反動宣伝を盛んに行っていた」

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左の写真は「娘を売らずに食える道」部落座談会=青森県。昭和9年。景山光洋撮影
右は昭和5年の東北地方

大正9年に始まった世界恐慌大正12年関東大震災
そして昭和2年から始まった金融恐慌は長期にわたって人々を苦しめました。
これに凶作が重なり、特に東北地方は深刻で、飢えが日常的になっていきます。

都市でも失業者が増え、「大の男が働きたくても職がなかった」(加太こうじ)
そんな中、満州事変(昭和6年)が勃発します。
国は青少年を帝国軍人の予備軍と位置づけ、ますます強化していきます。
混乱と耐乏の時代の始まりです。
安倍郡(静岡市)青年団(5000余人)は、すでに大正6年に安東練兵場にて
歩兵29旅団長や34連隊隊長らの軍事訓練を受けています。

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水産学校(焼津市)の学校教練 北原吉右衛門氏蔵 「やきつべ」より
=昭和9年ごろ

民俗学者の宮本常一は、
「修養団の平和な世界を築こうという運動に献身報国が加わり、
戦争目的のために利用されていった。こういう運動は自己主張する精神が弱く、
否定の論理が乏しかった」(ムラの若者たち)

青年団の指導者・田沢義鋪も修養団に熱心だった。
そして修養団本部評議員になった大正8年、
明治神宮の造営に青年団の奉仕を提案します。

明治神宮の造営は大正4年に着工されたものの、
世界動乱の影響で物価が暴騰、労力も不足したため、
青年団の勤労奉仕を思いついたといいます。
まず試験的に、
前任地の静岡で模範村として指導した「有度村」の若者50名が上京。

「明治を生きた青年たちにとって、明治天皇は絶対的な権威であった。
明治天皇のその神社造営に奉仕することで、青年たちの血がわいた」
(宮本常一)

しかし、青年たちを奮い立たせたのはそればかりではなかったのかもしれません。
田沢という人物に青年たちは惚れ込み、この人のためならと喜んで馳せ参じた、
そんなふうにも思えます。

青年たちが「根かぎり働きます」と誓った通りこの試みは成功し、
静岡の青年に続いて、
北海道から沖縄までの18歳から25歳の青年たちが、続々と奉仕にやってきます。
その数、280余団体、1万5000人、延べ15万人にもなったそうです。

明治神宮が完成した4年後の大正13年、 「大日本連合青年団」創立。
翌14年、青年の殿堂「日本青年館」が開館します。

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大正14年(1925)に開館した地上4階地下1階の「日本青年館」=東京都新宿

日本青年館の総工費160万円。
そのすべては全国の青年が一人1円ずつ出しあったものだそうです。
「河川工事や道路修理、植林作業や海藻取りといった具合に、
集団勤労によって収益を得、それを拠出した。その総額実に193万7361円」
 (下村湖人「この人を見よ」)

しかし不思議なことに、
今、各郷土史には、当時の「日本青年館」や勤労奉仕のことがほとんど出てこない。
出てくるのは、
「軍事教練に明け暮れた」という記述ばかりです。



<つづく>


※参考文献 /「浜岡史談会」「立身出世」小野芳郎 1984
        /「ムラの若者たち」(復刻版)宮本常一 家の光協会 2004
        /「田澤義鋪選集」財団法人田澤義鋪記念会 昭和42年
        /「衣食住百年」加太こうじ 日本経済新聞社 昭和43年
※画像提供 /「新詳説・日本史」山川出版社 1989
        /「総合資料日本史」浜島書店 1988
        /「やきつべ」焼津市 平成13年
        /「昭和世相史・戦前編」平凡社 昭和50年 



「修養」が戦争に利用されるとき

ここで、田沢義鋪の考えを、その著作から少し取り上げてみます。

「無政府主義の国家否認と共産主義の国家革命とは、
いずれも正しい思想ではない
「国家経営の根本原理として、軍国主義、帝国主義、征服主義にも
賛成することができない
「国家間の戦争が道に反することを、人類は認識せねばならない」

大正8年、シベリア出兵
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 「ウラジオストークに上陸、市内を行進する日本軍」=「総合日本史」より

そして、「国際平和の手段による国際正義の樹立」
外交による紛争解決」の大切さを説きつつ、
「義勇奉公の精神」として、

「日本は皇室を中心に血族の情義を持って固く結びついている国家である。
したがって一旦緩急あれば、私を捨てて公に遵ずるのは極めて自然」
忠君愛国とは、非情のとき一切を捨てて国に殉ずることである」
=「道の国日本の完成」=としています。

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大正6年、近衛歩兵第一連隊に入隊した東京の力持ち横綱・小林市松、21歳。

写真は入隊を記念して行われた石担ぎ大会での小林青年。
近衛兵に選ばれることは大変な名誉で、
平成の現在でも、「あそこは近衛兵を出した家」と誇らしげにいわれるほどです。
右の写真はこの石担ぎ大会が開かれた田端神社(東京都杉並区)の絵馬

若者の政治への参加について田沢は、
「立憲政治は民意政治であるから、
国民の政治知識が低級であれば、低級な政治しか行われない」とし、
「政治教育の必要性」を強く主張しています。
しかし、青年団に関してはこういっています。
「青年は修養が第一だから、青年団は断じて実際政治に触れるべきではない」
「個人として関わるのはまた別の問題である」
=「政治教育小論」

静岡県近代史研究会の肥田正巳氏は、「近代静岡の先駆者」の中で、
広島の青年団指導者・山本滝之助に共感して、自ら青年団組織を作った
浅井熊太郎(静岡県榛原郡)を取り上げ、こう記す。

「浅井はその会則に、
”本会は政治運動はなさず”
”本会においては政談演説は一切これを禁ず”と。
ところが、こうした対応にあきたらない青年が、
”青年はもっと政治に関わるべきである。批判し糾弾すべきである”
と新聞に投書した」

この時期、こんな人の来日も。インドの詩聖タゴールの自画像と河口慧海ら。
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タゴールは大正5年より3度来日。日本の国家主義を批判。
ガンジーの独立運動を支持。アジア初のノーベル文学賞を受賞した詩人・思想家。

投書青年の「青年はもっと政治に関わるべきだ」という主張は、もっともです。
飼いならされた羊のまま、「国家に殉じなさい」といわれたんでは、
たまりません。あの明治維新は、
社会情勢や政治を批判し糾弾した若者たちが主役だったんですから。
実際に、
「第一次大戦後、青年は国家や社会に目を向けるべきだという
大正デモクラシーが盛んになっていき、
修養団体から思想転換する青年団運動も盛んになってきた」
(「近代静岡の先駆者」成瀬公策」)

この若者と政治の問題について、もう一つ、
「浜岡史談会」の記事をご紹介します。

「第一次護憲運動がおこると、青年団体の中には政治運動に関係したり、
町村政治に干渉するものもでてきたので、
これが当時の政府には気に入らず
大正4年、内務・文部省は訓令を発して、青年団体には、
”青年修養ノ団体”とせねばならぬと、有識者がよく指導するように通牒した」

「だから村では村長・小学校長、郡では郡長がその長となって、
政治や社会問題から青年たちを引き離すということになってしまった」

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身体の鍛錬に励む「青年講習会」小川小学校蔵 大正11年 「やきつべ」より

さらに「浜岡史談会」はいう。
「しかもこれに呼応して国家主義団体の国本社会長・平沼騏一郎や、
財界の支援を受けて農村青年の間にくいこんだのが、
蓮沼門三らの「修養団」だった」

田沢義鋪は大正4年、その「修養団」に共鳴し、
静岡で実験済みの天幕講習会の指導をするなど関係を深めます。
そして、
「徹底的な努力を払う決意を固め、大正8年には修養団本部評議員となった」
(下村湖人「この人を見よ」)

そのかいあって、団員は多い時で、100万人も集まったという。

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かつての青年集会所  =静岡市玉川

そしてこの年、
ドイツの青少年団体を見て感銘を受けた陸軍少将の田中義一が、
「日本の青年もやがて国の防衛にあたる責務があると説き、
青年団に接近してくる」(宮本常一「ムラの若者たち」)

軍部の要請は、青年団を16歳から4年間、軍事訓練、公民教育、補修教育を施す
「青年訓練所」に改造するというものでした。



<つづく>


※参考文献/「田澤義鋪選集」財団法人田澤義鋪記念会 昭和42年
        /「近代静岡の先駆者」「青年団活動の創生期を指導・浅井熊太郎」
         肥田正巳 「普通選挙・女性選挙運動の提唱者・松本君平」
         成瀬公策 静岡新聞社 1999
        /「浜岡史談会・第5話立身出世」小野芳郎 1984
※画像提供/「総合資料日本史」浜島書店 1988
        /「焼津市制50周年記念写真集」/・やきつべ」焼津市 平成13年
        /「朝日新聞100年の記事に見る・外国人の足跡」朝日新聞社 1979



不可解な転任辞令

「青年団の父」田沢義鋪(よしはる)が残した膨大な著作、
「田澤義鋪選集」を中心に、その足跡をたどってみたいと思います。

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「青年団の使命」「自治三則」「選挙粛正の意義と方法」などの著作。
「田澤義鋪選集」より

東京帝大を卒業した翌年、田沢は静岡県安倍郡長として来静します。

その当時のことを田沢自身が「青年運動の思い出」で、こんなふうに述べています。
郡長といえば相当の年輩の分別くさい人がやると決まっていた時分だから、
(自分のような)一青年が郡長室におさまってもどうも調子がよくない」
「自分を取り巻くのは父、叔父、祖父ぐらいの人ばかりで気づまりで仕方がない」

そこで田沢は「肩のこらない安息所」として、
若い人たちのいる夜学会や補習学校へ出かけたといいます。

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「五高時代・18歳」のころの田沢義鋪。相撲が大好きな青年だった。
「田澤義鋪選集」より

「郡長はちょっとした田舎の殿様」というくらい重い地位なのに、
内務省はなぜ大学を出たばかりの若い田沢を静岡へ出向させたのか。

明治38年、広島出身の山本滝之助が、
帝国教育会主催の大会で、「模範的な青年の活動」「青年の国家奉仕」を提唱し、
それが内務・文部省に採用されます。
ここから、
明治政府が青年会を通じて若者を統合していく基盤が整えられた、
つまり「国家のための官制青年団」の出発点になったといわれています。

田沢の静岡出向は、
内務省のそうした意図と使命を帯びたものだったとも考えられます。
そしてこの静岡は、
「青年団の調査研究」に、もっとも適した地域だったのではないでしょうか。

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貧富の差があまりない平均的な地域であること。
早くから、江戸後期の修養団「報徳社運動」が盛んであったこと。
日露戦争後の明治41年から、農業補習学校の生徒数が急激に増えるという
向学心に燃えた若者が多かったこと。
そして一番の理由になったのは、どこよりも完全な「若者組」が存在したこと。

静岡市が今も昔も、
日本人の平均的思考を持った町といわれるのは、以下のことからもわかります。
静岡市は、企業が新製品を売り出す前にその反応を見るために、
まずここでテスト販売をするところとして知られています。
あのJRの自動改札機も、
まずJR静岡駅で試みてから全国へ導入したといわれています。

新しい国家的プロジェクトを遂行するための実験場として、
内務省が静岡を選び、地域の若者と年齢の近い田沢にその任務が与えられた、
そんなふうにも思えます。

青年団運動の先駆者、山本滝之助が静岡に田沢を訪れたのも、
この静岡在任時代のことです。
以後、田沢は終生山本を尊敬し、のちに建設された日本青年館に、
山本の胸像を建てます。

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「富士登山記念」大正5年 服部順一氏蔵 「やきつべ」より 

上の写真は、田沢の青年強化育成の指導が富士登山という形になった例です。
静岡在任4年余の間に、田沢の薫陶を受けた若者たちは、
その後、地域の指導者となって地域の発展に貢献していきます。

さて、田沢は静岡へ赴任早々、
「若者組」に注目し、その研究に没頭します。
その調査研究のために全国に檄を飛ばしたといわれ、
収集した資料の中には、伊豆の若者組の「御条目」も入っていました。
このときの研究はのちに、
大日本連合青年団編「若者制度の研究」として、刊行されます。

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田沢から教えられた野外実習の楽しさは戦後にも受け継がれました。

岩田重則氏によると、
民俗学者・中山太郎の「日本若者史」(昭和5年)に、
田沢は跋文を寄せているとのこと。
また、民俗学者の瀬川清子も民俗調査に赴くとき、「若者制度の研究」の編纂者に
紹介状をもらっていたという。

民俗学者がその調査の価値を認めるほど、
田沢の若者組の調査研究は徹底していたということだと思います。

赴任から4年目、田沢の実践が矢継ぎ早に始まります。
青年強化育成の理想的な補習学校の試験村として、「有度村」が選ばれます。
次に寺に一週間泊まり込んでの「青年講習会」を開講。
その5か月後の8月、今度は三保の海岸で、
静岡歩兵第34連隊から借りた天幕(テント)で講習会を開催。

その同じ8月、静岡市を流れる安倍川が氾濫し、
死者45人、流失家屋1000戸、耕地流失180町歩余という大惨事が起ります。

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大正3年8月、静岡市の安倍川が氾濫、大洪水が起きた。
=「静岡市の百年」より

安倍郡長として当然辣腕を振るわなければならないそのときに、
なぜか内務省から転任命令が出て、翌年には東京へ戻ってしまいます。
田沢の親友の下村湖人も「この人を見よ」の中で、
「不可解な転任辞令」と書いています。

任ぜられたのは、「内務省明治神宮造営局総務課長」

崩御した明治天皇をお祀りする神社の造営です。
これを機に、全国の若者たちの勤労奉仕という一大運動が起ります。

作家・林房雄がいった「百年戦争」の最中です。
「第一回青年講習会」に参加した青年3人も、
その年のうちに兵隊として出征していきました。



<つづく>


※参考文献・画像提供/「田澤義鋪選集」後藤文夫 財団法人田澤義鋪記念会
               昭和42年
               /「焼津市制50周年記念写真集」焼津市 平成13年
               /「静岡市の百年・大正」山内政三 静岡市百周年記念出版会
                昭和63年
               /「ふる里を描く(上巻)」堀田貞彦 私家本 2011
※参考文献/「ムラの若者・くにの若者」岩田重則 未来社 1996


心を軽くするために…

高校以来の友人と二人で、
静岡県藤枝市岡部の「山の辺の道」を歩きました。
前日のどしゃ降りがトンと吹っ切れて、雲ひとつない快晴。
空も大地も家々の屋根もすっかり洗われて、どこまでも透明です。

スタートは「神(みわ)神社」です。

本殿にぶら下がっていた「酒林」
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平安時代創建。奈良の神神社と同じ「三つ鳥居」があります。

酒林(さかばやし)」
杉の葉で作った造り酒屋の看板のことです。

「極楽をいづくの程と思いしに 杉葉立てたる又六が門」
ーー極楽はどのへんにあるのか、さぞ遠かろうと思っていたが何のことはない、
酒林を立てた又六の門がそれであったよーー

と歌ったのは、風狂の禅僧といわれた一休宗純
一休は「破壊の中に極楽がある」と言い、
仏教で戒めていた飲酒も女犯も行ったとか。

20数年前、奈良の「山の辺の道」を歩いたことがあります。
その日は初瀬に泊まり、早起きして長谷寺の本堂へ登りました。
本堂前の外舞台は霜で真っ白。
そこに立って、30人ほどのお坊さんたちの読経を聞きました。

そんなことを思い出しながら、次の目的地、十輪寺へ。

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江戸後期の遊行僧、木喰五行上人が彫った仏様です。
虚空蔵菩薩(左)と子安地蔵菩薩(右)。ちょっとピンボケですねえ。

大正12年、民芸研究家の柳宗悦(やなぎむねよし)は、
甲州(山梨県)池田村で偶然、二体の木喰仏を見ます。
その口元に漂う微笑に心を奪われて、一体もらい受けて帰りました。

「私はそれに見入り見入り見入りました。毎日毎晩その佛と一緒に暮らしました」
と、「木喰五行上人之研究」にそのときの心情を吐露しています。

木喰は56才のとき、一千体造像の願いを持って全国行脚の旅に出ます。
そのときの数体がこの町に残されたというわけです。
そして柳は、木喰仏を見て以来、仏教辞典にも故郷・甲州の郷土史にも載らない
この「下手(げて=民衆)の宗教家」を「歴史に刻まんがため」、
調査して歩いたそうです。

遊行も漂泊も許されない今の時代は、ちょっと息苦しいですね。

岡部の観光案内所の方が、「地味だけどぜひ立ち寄ってみてね」と言っていた
「薬師堂」にも行ってみました。岡部で一番古いお寺とか。
正式な名は、奈良のあの有名なお寺と同じ「興福寺」です。

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薬師堂(興福寺)

そこから小さな峠を越えて、
先月一人で訪れた常昌院(兵隊寺)へ。

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110年前の日露戦争で戦死した223人の若者の木像が安置されています。

友人は「初めて知った」といい、
時間をかけて、直立不動の若者たちに見入っていました。

大きな通りに戻り、次を目指します。
途中の民家で、むかし懐かしの「ポン菓子」を買いました。

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旧東海道へ入ります。
程よい道幅の、かすかに右へ左へくねった「人にやさしい道」です。
この道沿いには、
元サッカー選手の「ゴンちゃん」こと中山さんの生家があります。

こんな手まりが家々の軒先にぶら下がっていました。
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サッカーボールの手まりです。

そうなんです。藤枝市はサッカーの町なんです。
県立藤枝東高校は、大正13年の学校創立と同時にサッカーを校技に採用しました。
わらぞうりの時代に、全校生徒はサッカーシューズで登校したそうです。

そしてゴンちゃん始め、
多くの生徒が「ジュビロ磐田」で活躍しました。

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20年前にお会いした「藤枝フットボールクラブ」「元老」のみなさん。

30代から80代までが所属しているクラブです。
年代別にパンツで色分けしています。
60代は、70代は、80代以上は「元老」はそういう人たちです。

さて、この日はもう一つ、木喰仏のあるお寺を訪ねました。
光泰寺です。

ここは20年ほど前にもお訪ねしています。
あの日はどしゃ降りで、
濡れねずみになった私を、ご住職が「さあさあ」と中へ招じ入れてくれました。
そして「聖徳太子像」に対座した私の前に、
手折ったばかりの菖蒲の花を黙って飾ってくれたのです。

20年ぶりに訪れたこの日、
あのときの菖蒲の瑞々しかったことと、ご住職の温かさが鮮やかに蘇りました。
息子さんの代になったのでしょうか。
若いご住職と奥様が先代と同じ笑顔で、「さあどうぞ」と。
友人の口元にも、思わず微笑が広がりました。

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「聖徳太子像」  光泰寺

20年前は、寺を出るころには雨も上がり、、
まるで心のモヤモヤを吹き払ったかのように、スッキリした青空になっていて、
お日様まで顔を出していました。

そのときふと浮かんだのが、木喰上人のこの歌でした。

わが心 にごせばにごる 
         すめばすむ すむもにごるも心なりけり



次回は再び、「若者と戦争」です。

だれか平和を知っているだろうか?

「戦争と若者」の話、ずいぶん長く書いてしまいました。
なぜかって?
そうですよねえ。力石のブログなのに戦争だなんて…。

石には若者たちの汗や涙、喜び、悲しみ、そんなものがいっぱい沁みこんでいます。
そしてその中に、「戦争」も入っていたんです。

往きの燃料だけの飛行機で敵艦に体当たりした「特攻隊」
昭和19年秋の特攻隊の主力は16歳から20歳の青少年たちだったという。
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上官から最期の水盃を受けている  「悲傷 少年兵の戦歴」より

大東亜戦争が始まった昭和17年の、小雪がちらつく朝のことでした。
氏神様で村人たちが見守る中、二十歳を迎えた若者たちが米俵を上げていました。
私の集落では力石を奉納する習慣がなかったので、代わりに米俵です。
それは徴兵検査の前日でした。
兄二人も飛び入りで参加しました。翌年、召集令状が来て、
その日以後、兄たちは帰ってくることはありませんでした」(浜松市)

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少年兵の訓練学校を卒業した日に、彼らは遺書を書き遺髪を残したという。

「20貫以上あったでかい石でね。
秋月堂のとこら辺まで担いで行けりゃあ、徴兵検査で
甲種合格まちがいなしだといって、担げえた人はうんと自慢して喜んだそうで…」
(静岡市清水区)

「毘沙門天に、
鎌倉時代の武将・和田義盛が力比べで遊んだという大きな石がありました。
なかなか担げる人はいなかったが、
満州で戦死した岩堀氏は、青年団員のとき抱え上げたといわれています」
(菊川市)

そして下の写真のような、こんな力石を見たら、
絶対、若者を戦場へ送ってはいけないって、そう思いました。

大雪の東京で。
CIMG1082 (4) CIMG1066 (3)
日露戦争で戦死した22歳の墓所(左) 第二次大戦で戦死した23歳の墓所(右)
その若者が愛用した力石が、墓碑にそっと寄り添っていました。

「俺にも大和魂があるんだ。敵陣に真っ先に飛び込んでいって、
憎い米英の軍隊をやっつけたい」

これは戦死した15歳の少年兵の日誌の一節です。
わずか15歳の少年にこう言わせたものは、なんだったのか。

「日本には、
あきれるばかりにふんだんな戦争があった」といったのは、
「人間の条件」の作者、五味川純平です。=「侏儒の嘆きと怒りと」
「生まれてこのかた、戦争の連続であったことは、私も全く同じである」
というのは、日露戦争直前に生まれた作家、林 房雄です。

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その林氏が五味川氏の「だれか平和を知っているだろうか?」の問いに、
こう答えている。
だれも知らない。知っているのは戦争だけだ」
「徳川時代の少なくとも200年は平和であった。だが、
その後の時代は”一つの戦争”が百年続いた」=「大東亜戦争肯定論」

二十歳のウブな娘時代に、
その林氏を鎌倉のお宅へお尋ねしたことがありました。
ミニスカートから足を出した孫のような私に、
林氏はこの「大東亜戦争肯定論」をくださった。
今でも温かく迎えてくれたご夫妻の笑顔が浮かびます。
そして今、
一度も開かなかったこの本を、やっと読む気になったのです。

若者たちは
なぜ国を背負って人を殺し、自ら死んでいかなければならなかったのか。
もしかしたらその一端が、「青年団指導者」にもあったのではないか、と。
明確になかったとしても、指導者たち自身が、
心ならずも「非常時局」という戦時体制に巻き込まれていったのではないか、
そんなふうにも思いました。

寺田沢蓮永
大正3年、静岡市・蓮永寺で開講した「第1回青年講習会」
円内は「青年団の父」と呼ばれた田沢義鋪。

青年を愛し、希望を与え、世界平和を願い続けたヒューマニスト、
そして何よりも暴力的行為を嫌った」といわれている田沢義鋪。
その足跡を追う中で、
戦争と若者」が少しでも理解できたら、
そんな思いで始めたシリーズです。

「重い話は聞きたくない」「夜這いみたいなエロい話がいいなあ」などと言わずに、

どうぞ、もう少しお付き合いください。



<つづく>



※参考文献・画像提供/「悲傷 少年兵の戦歴 平和の礎となった15歳」
               毎日新聞社 昭和45年
※画像提供/HP「静岡県田沢義鋪顕彰会」


戦争で大もうけの成り金

大正3年、安倍郡長の田沢義鋪が、
「田舎の勤労青年」を集めて「青年講習会」を開いたことは前回お話しました。

修養主義者の田沢が青年たちに伝えたのは、
汗を流して勤労すること」「一つの目標を立て、それを貫徹すること」
「そうした努力をすることが人格の向上につながる」というものでした。

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大正3年創立の郡立安倍農学校(のちの県立静岡農業高校)

すでに大正元年において、郡内の各村々には農業補習学校が開講。
生徒数2260名を数え、うち女子は159名となっています。

では、勤労青年たちと同時代の「学歴エリート」たちは、どうだったのか。
筒井清忠氏の「日本型”教養”の運命」から拾ってみます。

筒井氏は「修養主義に包含されていた教養主義が、
大正初期から中期にかけて修養主義から分離して、
エリート文化として自立してくる」とした上で、
大正3年に第一高等学校へ入学した三木清の例をあげています。

三木清
三木清 兵庫県出身。京都大学で西田幾太郎に師事。
京都学派を代表する哲学者。

終戦の年の昭和20年
治安維持法違反の容疑者をかくまったとして投獄され獄死。
一説には、
疥癬患者が使った毛布を与えられて感染、それがもとでの死亡とか。
享年48歳。思想弾圧の痛ましい犠牲者です。

この事件が敗戦後の出来事であったことから、
旧支配者層は外国から批判を浴び、
悪名高い「治安維持法」の急きょ撤廃につながったのです。

その三木清は、第一高等学校に入学したころをこんな風に回想しています。

「あの第一次大戦という大事件がありながら、
私たちは政治に対して全く無関心であった。無関心であることができた。
私どもを支配したのは、”教養”という思想である。
それは政治というものを軽蔑して、
文化を重んじるという文化主義的考え方であった」

文学や哲学を特別重んじ、科学とかいうものは”文化”に属しないで、
”文明”に属するものとして軽んじられていた」=「三木清全集・読書遍歴」より

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大正8年創刊の「改造」と大正14年発行の「キング
大衆雑誌のキングは、勤労・エリート青年ともによく読まれたという。

汗を流す青年も、
哲学書に教養を見出した青年も、目指すところは「人格の向上」。
そのころの世相をちょっと覗いてみると、

新劇運動がおこります。
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トルストイ原作「アンナ・カレイニナ」の舞台での松井須磨子 帝国劇場

マルクス主義が知識人たちに強い影響を与え、プロレタリア文学もおこってきます。
宝塚少女歌劇団が初公演したのも大正3年です。

薩長藩閥政治をやめさせて、政党政府を望む護憲運動が高まりをみせます。
男女同権を叫ぶ平塚らいてうのような新しい女性の出現も見ます。

時代は次第に自由主義的傾向を強めていったわけです。

さてもないない ない物は…、お酒が高くて酔われない、
電車に乗っては安くない」という「当世ない物づくし」が流行したけれど、
第一次大戦で大もうけした者が続出。
「きょうは帝劇、あしたは三越」という三越デパートの宣伝文句にあるような、
「にわか成り金」が出現します。

img448.jpg
花柳界で豪遊した成り金が、
玄関が暗いからと100円札を燃やして履物をさがさせているマンガ

しかし一方ではこんな現実もあったのです。

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岐阜県と長野県の県境、
「野麦峠」(1672㍍)を越えて生糸工場へ働きに行く女工たち。

まだ10代の少女たちが、
赤い腰巻、わらじばきで雪の難所を越えていったのです。



<つづく>


※画像提供/「静岡市の百年・大正」山内政三  静岡市百周年記念出版会 
         昭和63年
        /「総合資料日本史」浜島書店 1988
        /「新詳説 日本史」山川出版社 1989
※参考文献/「三木清全集・読書遍歴」第一巻 岩波書店 1966


田沢、静岡赴任の意味するもの

田沢義鋪(たざわよしはる)と親しかった下村湖人は、
著書「この人を見よ」の中で、田沢と山本滝之助のつながりをこう記す。

「明治38年、山本が府県知事に対して、
地方青年団体を援助指導すべしとの通牒を出させ、
政府と勤労青年団体との間に、初めて公の関係を結ぶことに成功した。
田沢はこのような人物の存在を知って驚愕した

そして、
「あらゆる手段を講じて山本と接触を図り、
直接間接に青年指導に関する指導の示唆を求めた」

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明治末、静岡市伝馬町に開業した「関川自転車店」の広告。

着任早々、田沢は精力的に郡内の若者組織を視察。
相撲が好きな田沢が、その太った体を自転車に乗せ走り回ったという。

下村湖人は、
「田沢は、時勢に置いてけぼりを食い急速に堕落していった若者団体を、
新しい青年制度に組み替える方法を模索していた」という。

しかし、民俗学者の宮本常一は、こういう。
「田沢は古い若者組の組織を見、組織化を思いついた。
それが由緒あるものであるとともに、組織の強固なところほど村に活気があり、
秩序が保たれていることを見て、青年団の組織化に力を注ぎ始める」

img375 (5)
伊豆・旧田方郡戸田村の若者組の加入式 「伊豆の若者組の習俗」より
戸田村は、田沢義鋪が着任早々、県知事のお供で訪れたところ。

田沢が青年の組織化に着手した動機を、
下村湖人は「堕落した若者団体を見て」といっていますが、
「堕落」という表現は適切ではないと思います。

明治以降、
若者組は、運営基盤であった「若衆山」の返還を余儀なくされ自治を失います。
そして、学制の整備でそれまで担ってきたムラの教育から手を引きます。
その結果、若者たちに残されたのは祭り消防の役目だけになりました。

時代が変わったのであって、決して若者が「堕落」したわけではなかったのです。
田沢は堕落した若者組に失望して新たな青年組織作りに着手したのではなく、
宮本がいうように、その独特の組織にひきつけられて、
新たな活用を思いついたのだと私も思います。

img373 (2)
八幡野浜若組の提灯

もともと静岡県、特に伊豆地方は、
どこよりも完成された「若衆制度」を持っていましたし、
県全体が、江戸後期の修養団体、「報徳社」運動の盛んなところでした。
そんな環境の中、田沢郡長は「若衆制度の研究」に熱中していきます。

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大日本報徳社の庭に立つ鍬を手にした二宮尊徳翁  静岡県掛川市

農民出身の山本が、「当今田舎青年は、怠惰放逸、陰険狡猾、げじげじの如く、
芋虫の如く」と唾棄したこととは異なり、
田沢は、若い衆の組織に興味を抱き、並々ならぬ情熱をもって研究した。
そこが士族と農民という出自と体験の違いかと思います。

大正3年(1914)3月、田沢郡長は、日蓮宗の寺・蓮永寺で、
山本がいうところの「田舎青年」のための「第一回青年講習会」を開催します。

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徳川家康の側室「お万の方」ゆかりの貞松(みまつ)山蓮永寺 静岡市

こちらが「お万の方」の供養塔。この方はあの水戸黄門のおばあさんです。
CIMG1977.jpg

そしてこちらが、勝海舟の母と妹(佐久間象山の妻)のお墓です。
勝海舟は西郷隆盛と会談して、江戸城を無血開城に導いたとされる人物。
CIMG1979.jpg
旧幕臣たちの墓や軍人墓地の一画にあります。

さて、ここでこの時代を少し見ていきたいと思います。
●山本滝之助が政府に青年団体への支援を取り付けた明治38年は、
日露戦争終結の年。
●翌明治39年、日本社会党が結成されるものの、40年に結社の禁止に。
田沢義鋪が静岡へ赴任した時代には、無政府主義者への弾圧がピークとなり、
明治44年、幸徳秋水らに死刑判決が出されます。

そして、蓮永寺で「第一回青年講習会」を開講した大正3年には、
第一次大戦勃発。日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦布告します。

「静岡歩兵第三十四連隊」の兵士の出征とそれを見送る人たち。
後方に見えるのは「駿府城」の石垣。
img445.jpg
大正3年10月。 「静岡市の百年・大正」より

「第一回青年講習会」は、寺に泊まり込んで一週間続けられました。
生徒は19歳から26歳までの25人。妻子のあるものもいたといいます。
この時田沢郡長、29歳
その頃の郡長は、片田舎の農民にとっては昔の殿さまのような存在だったという。
しかし年齢も近く、また田沢の持つ温かい人間性に参加者全員が魅了されます。

「この人を見よ」に、参加者の一人、斎藤青年のこんな言葉が載っていました。

憂国と愛国の至誠が指先までみちみちてくるように思えた。
もし日本に田沢郡長のような人が数十人もいたら、
日本は永遠に輝く世界の華になるであろう」



<つづく>



※画像提供/「静岡市の百年(明治)」山内政三 静岡市百周年記念出版会
        /「同(大正)」同 昭和61年、63年
        /「伊豆の若者組の習俗」平凡社 昭和47年
        /「写真集・伊東百年」竹田信一 昭和56年
※参考文献/「この人を見よ」下村湖人 田沢義鋪顕彰会 昭和41年
        /「村の若者たち」(復刻版)宮本常一 家の光協会 2004





田沢義鋪、静岡ニ着任ス

田沢義鋪(たざわよしはる)、佐賀県出身。明治18年生まれ。
山本滝之助とは12歳違いの年少者です。

同じ青年団指導者ですが、
田沢義鋪と山本滝之助はその生い立ちがかなり違います。

山本が農民出身で、
「能力がありながら貧困のために進学ができない田舎青年」であったのに対して、
士族出身の田沢は、幼少時は旧藩主鍋島直彬の薫陶を受け、
明治42年には東京帝国大学を卒業という恵まれた境遇にありました。

田沢義鋪です。
img439.jpg

「日本型「教養」の運命」の著者、筒井清忠氏は、
「学歴エリートの中核的文化を教養主義
大衆文化の中核にあったのが修養主義
それが明治後期に、修養主義として同時に同一物として成立した」と述べています。

そしてその目指したところは、どちらも「人格の向上」なのだという。

哲学、倫理を重んじる「岩波書店」を中心にした「教養主義的文化圏」と、
講談を読み物にすれば、一般大衆の精神的な慰安となり修養になるとした
「講談社」、
ニーチェもゲーテも里見八犬伝も佐藤紅緑も、等しく、
「青年の倫理、人格の向上」の修養になるというわけです。

img440.jpg img442.jpg
「評判講談全集・第六巻」 大日本雄弁会講談社 

国家体制の整備が進み
明治前期のような立身出世主義の一挙的達成の可能性が乏しくなり、
日清・日露戦争の勝利で富国強兵という国家目標が達成され、
青年の関心が天下国家から個人の問題へと移行した時期が明治末」
(筒井清忠氏)
さらに、筒井氏は、
「それは一面で青年の享楽的傾向、頽廃などを生む状況でもあった」と論じている。

そうでしょうか? この「頽廃」「享楽的傾向」は、個人の問題というより、
青年らしい厭世感から来たのではないかと私は思うのです
だって戦争が次から次へと起っていた時代ですから。
そしてそこから脱出する術、拠り所を青年たちは求めていたのでは、と思うのです。

それはともかく、
そうした弛緩した時期に出てきたのが修養主義という運動だというのです。
この時期、西田天香の「一燈園」、蓮沼門三の「修養団」などが登場し、
急激な修養書ブームが興ります。
田舎青年の山本滝之助もエリートの田沢義鋪も、その修養主義に心酔した人で、
その思想をもとに、青年たちを導いていったということです。

CIMG1992.jpg
市制施行100周年の平成元年に取りつけた「ガス燈」 静岡市役所本館前

田沢義鋪は、
東京帝大を卒業した翌明治43年、安倍郡(現在の静岡市)へ赴任してきます。
25歳の若き安倍郡長の誕生です。

img443.jpg
田沢郡長が赴任した当時の静岡県庁

町を彩るガス燈の灯りを、田沢郡長はどんな思いで見つめたことでしょうか。
徳川家康の居城だった駿府城跡地に建つ県庁の門を、
どんな思いでくぐったことでしょう。

そして、この静岡の地に、
「村造りは人造りより」というスローガンを掲げ、
「修養を忘れた青年は、真の青年と云うことができぬ」
という信念を持ったこの若き官吏が登場したことで、のちのちまでこう言われました。

「青年団では静岡県が先進的な地位にあった」


<つづく>


※参考文献・画像提供/「この人を見よ」下村湖人 田沢義鋪顕彰会 昭和41年
※参考文献/「日本型「教養」の運命」筒井清忠 岩波書店 1995
※画像提供/「静岡史跡めぐり」安本博 静岡県地方史研究会 昭和50年
        /「評判講談全集第6巻」大日本雄弁会講談社 昭和6年



力石から徴兵検査へ変わった「一人前の証し」

戦争に勝つと、負けた国から「賠償金」というお金がもらえるなんて、
なんでですかねえ。
しかも、紛争当事国以外の他国を戦場にして、終戦に至ったら、
その他国の土地を双方で山分けするなんて、さらに理解できません。

日露戦争で中立を宣言した韓国が、
侍姿の日本ロシア兵からロープで締め上げられている風刺画
img434.jpg
「日露戦争風刺画大全」より。作/バーナード・パートリッジ

ここで再び、山本滝之助の登場です。
広島県出身。24歳で書いた「田舎青年」で、全国の若者を熱狂させた
青年団運動の提唱者です。

山本滝之助は、
明治33年、日本新聞社の後援で「日本青年会」を組織。
明治35年、機関紙「吉備時報」を発行。
青年の国家奉仕の重要性を説き、青年の戦時後援運動を推進。

明治38年、帝国教育会主催の「第五回全国連合教育会」で、
種々の悪風をなす従来の若者組は、国力・国運の消長に影響を及ぼすとして、
新たな模範的な青年の活動を提唱。

このころから神社への奉納が、若者組の灯ろうや手水鉢から、
青年会の従軍記念碑皇室関係行事の記念碑に変わっていきます。

img437.jpg img438.jpg
大正4年建立の戦勝祈願の旗立石。右は日清戦争と日露戦争の従軍記念碑

日本の若者のこうした戦時の労働奉仕が、ドイツ従軍武官の目に止まり、
ドイツでも日本の青年会にならって、「ドイツ青年隊」を組織したそうです。

目をつけたのはドイツ武官ばかりではありません。
日本の内務省文部省がこれに着目。
日露戦争終了後もこの活動を維持するよう、全国の地方官に指示します。
その結果、若者たちが教養と農業実習などを学んでいた夜学校(実習補習学校)は、
青年訓練所となり、兵隊の予備訓練機関となっていきます。(宮本常一)

下の写真は、
背嚢(はいのう)、天幕などを担ぎ軍歌を歌って徒歩旅行した若者たち。
「補習学校から軍隊訓練をやってきているので、兵隊になった気分で勇んで行進した」

img401.jpg
「天幕旅行」 豊田村(静岡市)青年団。大正6年。

さて、日露戦争終結間もない明治38年の全国連合教育会で、
「模範的な青年団体の育成」を提議した山本滝之助の意見は、
文部省を動かし、
同年、山本の意見に沿った「青年団ニ関スル件」が出されます。

「ここにおいて明治政府が青年会を通して、若者を統合していく基盤が整えられた」
(岩田重則「ムラの若者・くにの若者」)
青年の自覚を促した運動が、
政府の中枢の地位にある人々と結びつき利用された
(宮本常一「ムラの若者たち」)
というように、ここに、

「国家のための官制青年団」
「帝国軍人の予備軍としての青年団」

が誕生したのです。

CIMG0859 (4)

「そういえばサ、うちのひいじいちゃんも戦争へ行ったんじゃないかな。
これ、じいちゃんが若い衆のころ使っていた力石と石のアレイだよ」

CIMG0858 (2)
静岡市の個人宅。

こうして、
「力石が担げなければ一人前として認められなかった。夜這いも許されなかった」
若い衆の時代から、
「徴兵検査に通らなければ一人前の男ではない」
青年の時代になっていきました。

やがて、
この山本滝之助と田沢義鋪(たざわよしはる)という一人の官僚とが結びつき、
青年団活動はますます熱を帯びていきます。



<つづく>



※参考文献・画像提供/「日露戦争風刺画大全(上)」「デイリー・ペーパー」飯倉章 
               芙蓉書房出版 2010
※画像提供/「富士川町の石造物」富士川町教育委員会 平成10年
        /「七十周年記念郷土史別冊・ふる里東豊田」
         編集委員会・東豊田小学校PTA 昭和58年

               

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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