このブログでたびたび取り上げている
「若者御条目」。つまり、
「
親に孝行いたし、家業大切に…」
「海上にて難破船相見え候はば、
早々相助け…」
「
仁義礼知信の五行の道を行い…」
「
他家の下女に迷惑いたさせ候者、屹度仕置きいたすべき…」
などと記した若者の憲法・定め書きです。
こうした真面目な、どこか官僚的な決まり文句と、
実際に、新参の少年たちに口伝えで教える「掟」の内容、
たとえば、
「
夜這いにはみんなが寝静まってから、そうっと行くだよ」などとは、
かなり「ズレ」がありますよね。
文化10年に若者組が奉納した手水鉢です。

静岡市古庄・
淡島神社「ムラの若者・くにの若者」の著者・岩田重則氏は、若者についてこう述べています。
「
若者とは、近世後期のムラに登場してきた
ひとつの社会勢力」
そして、歴史学者の高橋 敏氏は、
「
村落秩序を打ち破る突出した存在として、若者組があったのではないか」
さらに、
「下田(静岡県下田市)の若者たちは半プロ層とともに、
天保7年(1836)の打ちこわしの
中心勢力であった」
岩田氏はこうもいう。
「神社などにある若者中(若者組)が奉納した灯ろうや手水鉢は、
近世末に台頭してきた若者が、
大人社会にその
実力と存在を誇示した痕跡である」
そして、
「若者御条目」については、
「幕藩体制と相克を生むそのような若者の活動を統制し、
支配体制へ組み込む装置として、
体制側が作った」

松崎町建久寺村の「若者御条目」 文化5年
ここから導かれるのは、
「社会勢力として台頭し始めた若者たちを、支配層が御条目で牽制した。
その結果、若者組は
自律的組織にはなれず、
幕藩村落の秩序に組み込まれ、その枠内で存在する組織として生かされてきた」
というものです。
あれま! 私は散々、若者組は自治組織だなんて
美化しまくってきたけれど、
支配層の手の上で踊っていただけだったとは。
なんか、若者に肩入れしすぎてしまったのかもなあ、ああ…。
「若い衆の宮参り」 南伊豆町 1954

提灯持ちのうしろにいるのは、黒紋付・羽織姿の若者組の頭役。
そのあとを中老、小若い衆が続く。 写真・説明/芳賀日出男氏
ちなみに、岩田重則氏は、
「若者組という言葉は、
柳田国男の造語であって、
残された文書にある
「若者(わかいもの)中」というのが妥当であろう」としています。
そして、
「柳田民俗学が若者の恋愛と婚姻にのみ重点を置いたので、
若者組といえばすぐ、ムラの自由恋愛論を思い浮かべる発想になってしまった」と。
さて、冒頭で私が感じた「御条目」と口伝えの「掟」との「ズレ」についてです。
瀬川清子氏は、若者の組織には、
「若者組」「若者仲間」という二つの組織があるとしてこんな定義をしています。
「
若者組は、儀礼を重んじ、年齢階層的秩序を持ち、
村落運営を担った組織で、
将来ムラの中核を担う
長男のみが入った。
それに対して「
若者仲間」とは、同年齢が知り合いの家に宿を借りて寝宿とし、
夜這いなどの性に関することに終始した
遊び仲間、宿仲間である」
江戸中期から若者たちによって伝えられた神楽の
「狂いの舞」です。

松崎町峰・津島神社 「松崎町史」より
「若者仲間」は
西日本に圧倒的に多く、東日本ではあまりみられません。
伊豆では前回ご紹介した西伊豆町仁科などで、この二つの組織が見られました。
つまり羽織袴で「式三番」を演じていたのは、
長男集団「若者組」だったのです。
でも伊豆に於いては、22通もの御条目が示すように、
「若者組」自身がムラに一つの寝宿を持つという、「若者組」に「若者仲間」を内包していたという形態が多かったように思います。
だから私は、その中での
「御条目」と「掟」とのズレを気にしているわけです。
だって、片方では「他家の女に迷惑かけるな」といいながら、
もう一方では「夜這いの行き方」を伝授するんですから。

吠えるべきか吠えざるべきか悩んでいた君も、そう思いません?
なになに? 今回のブログは少し理屈っぽかったって?
まあねえ。
難しいんですよ、この問題。
でもこの「ズレ」、私には、
伊豆の若者の、上から命令された官制の掟への抵抗としか思えないんです。
とまあ、またまた伊豆の若いモンに肩入れしてしまいましたが、
このつづきはまた明日。<つづく>
※参考文献/「ムラの若者・くにの若者」岩田重則 未来社 1996
※画像提供/「日本民俗写真大系・東海道と黒潮の道」
「漁村の暮らし」芳賀日出男 日本図書センター 1999
/「松崎町史資料編 第四集 民俗編(上)(下)」
松崎町教育委員会 平成14年