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「おやじカフェ」、癒やされたあ~

このところ重いテーマが続きました。
まだまだこれからが本番です。なので、ここらでちょっとティータイム

二日間限定の「おやじカフェ」へ行ってきました。
場所は静岡市清水区のエスパルスドリームプラザ。

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みんな地元の素人のおやじたちです。
半年間、ダンサーで振付師の伊藤キム氏の指導を受けてのお披露目。

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ダンスの合間に給仕して、テーブルごとに「二人羽織」や「腹話術」などをサービス。
「おやじの褒め殺し」を頼んだら、
「お肌がきれい」「メガネが素敵」な~んて、ありきたりでイマイチだったけど、
照れながら一生懸命褒めようとする努力が素人っぽくて、可愛かったよ。

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お客さんも大喜び。安上がりのホストクラブ? トンデモナイ!

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おチャメなおじさんです。

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静岡のおやじたち、カッコいいぞー!
その勢いで、
悪徳政治家を吹っ飛ばせー!
ついでに、
御用学者を蹴っ飛ばせー!
ていたらくマスコミに活入れろー!
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戦死した若者に寄り添う力石

日清戦争終結の9年後、また戦争です。 
今度は日露戦争
日本は「イギリスにけしかけられて、ロシアの前の火中の栗」を拾ったわけです。
火中の栗とは、ロシアが日本に返還しない「満州」のことでしょうかねえ。

キリスト教の内村鑑三や社会主義者の幸徳秋水、堺利彦らが、
非戦論、反戦論を、
そして東京帝国大学などの7人の博士たちが強硬な主戦論を唱えました。

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唖蝉坊詞「社会党ラッパ節」  「朝日新聞100年の記事に見る」より

明治37年(1904)2月
話し合いが決裂、日本とロシアは互いに宣戦を布告します。
これを受けて青年会の若者たちの間で、
戦勝祈願が熱狂的に行われます。

「ムラの若者・くにの若者」の著者、岩田重則氏によると、
静岡県島田市では、熱狂した若者たちが川で禊ぎをして集団で神社へ参拝、
それを制止しようとした警察官と衝突。投石に及んだという。

「県当局はそうした行為は認めず、代わりに「軍事後援活動」として、
軍備充実のための国債応募貯蓄勤労奉仕などを奨励したため、
「裸まいり」のような熱狂的戦勝祈願は、まもなく下火になっていった」という。

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弾丸(たま)除け」祈願の穂積神社がある竜爪山  =静岡市

「裸まいり」のエネルギーを「軍事後援活動」に転換した青年たちでしたが、
その一方、徴兵逃れの祈願にも出かけます。
標高1014㍍のこの山に、日々、何万人もの人々が、
「弾丸(たま)除け」や「徴兵逃れ」の祈願につめかけたそうです。

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竜爪山登山道

岩田氏はいう。
「戦勝祈願は単純にそれに熱狂するものではなく、むしろ、それとは相矛盾する
徴兵忌避、厭戦とでもいえる不満をも胚胎していたといえよう」

「それは非戦論、反戦論者のような明確な理念を持ったものではなく、
理念に昇華されることのない、素朴な感情の発露であった」

突然ですが
かつての「弾丸除けの山」でのシャワークライミング、「こいさんの滝のぼり」です。
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ン十年前のワタクシメです。          竜爪山・長尾沢本谷
平和だからこそ、できることです。シミジミそう思います。

さて、日露戦争当時の若者たちは、
献金や出征兵士の留守家族支援のほかに、幻灯会、講話会も開きます。
講話会には新聞記者代議士教師などがきて、
軍事力の充実を説き、長期戦に耐え抜くよう鼓舞したといいます。

下の写真は日露戦争で戦死した22歳の若者の墓所です。
左端に、この若者が生前愛用した力石が置かれています。
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東京都江戸川区       大雪の日の万福寺

力石には「さし石 川野定次郎 松丸安吾良」と刻字があります。
ご両親が石に名前を刻み、息子さんのそばに置いたものでしょう。
それから100余年、力石は今も変わらず22歳で散った若者に寄り添っています。

……親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せと教えしや
   人を殺して死ねよとて 二十四までを育てしや……

                   「君死にたもうことなかれ」(与謝野晶子)より抜粋



<つづく>


※参考文献/「ムラの若者・くにの若者」岩田重則 未来社 1996
※画像提供/「朝日新聞100年の記事に見る・奇談珍談巷談(上)」
         朝日新聞社 1979
        /「竜爪山縁起」絵図 明治初年



「青年」というハイカラな言葉

広島県の農家に生まれた山本滝之助は、17歳で小学校教師になります。
この若き青年は、
「従来からの若い衆、若連中は、
無知で蛮風を備えている未開人のような印象を受ける」
として、教養のあるように聞こえる「青年」というハイカラな言葉を使い始めます。
そして、新しい青年組織「好友会」を結成します。

ちなみにこの「青年」という語は、
明治13年に、キリスト教の日本人教徒が作った造語とか。

日清戦争出征家族の無料治療の広告と、勝利を祝う曲馬の広告
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滝之助が、青年の組織「好友会」を結成した4年後の明治27年(1894)、
日清戦争が勃発します。
これは朝鮮半島で起きた農民戦争がきっかけで、
大日本帝国と大清国(中国)がその領有権を巡って争った戦争です。

これに勝利した大日本帝国は、清国から領土と多額の賠償金を得ます。
これがロシア、フランス、ドイツを刺激し、遼東半島の返還を日本に要求するという
「三国干渉」に発展します。そして日英同盟へとつながっていきます。

ロシア(左)の前にある「火中の栗」を、イギリス(右)が
日本(中央)に拾うよう、けしかけているところ。
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日英同盟を風刺した漫画(中央新聞所蔵)

青年団運動を提唱した山本滝之助は、「青年は国家に奉仕すべき」として、
青年たちとワラジを作って軍隊へ献納。
日清戦争では兵士はワラジを履いて戦ったそうで、なんかびっくりですね。

そして、彼は日清戦争終了の翌年、
24歳のとき、
田舎の青年も都会の青年も平等であると主張した「田舎青年」を出版します。
その主張は立派なものですが、その中に並ぶ言葉の凄まじいこと。

当今田舎青年のおおかたは、華奢贅沢、怠惰放逸、軟弱虚誇、陰険狡猾、
卑怯些末因遁姑息、無鉄砲無責任なり」
と、もう伊豆の若い衆が聞いたら、怒り心頭の言葉が並ぶ。

さらに
げじげじの如く、芋虫の如く、陰険狡猾にして一点正大の風なきの如く、
の如きなり」

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ですけど、何か?

彼は農村青年をバカにして、こういう言葉を並べているわけでは決してない。
むしろ「都会の青年と同等の尊厳性を獲得するため、
農村青年を奮い立たせようとした」のだという。

著作「田舎青年」と彼の運動は、全国の農村青年を勇気づけ熱狂させます。
おりしも日清戦争に勝利したあとです。
そうした中、滝之助は着々と青年団指導者としての地位を固めていきます。

青年の自覚をうながした運動でしたが、その中心にすえた理念は「国家への奉仕」

運動は新聞社の後援を得、文部省とつながり、
やがて、
国の中枢の地位にある人々と結びついていきます



<つづく>


※参考文献・画像提供/「朝日新聞100年の記事に見る外国人の足跡」
               同・「奇談珍談巷談上」朝日新聞社 1979
               /教科書「新詳説・日本史」山川出版社 1989
※参考文献/「村の若者たち」(復刻版)宮本常一 家の光協会 2004
        /「田舎青年」山本滝之助 明治29年 「近代日本青年期教育叢書」 
         日本図書センター 2000


戦争は知らないうちにやってくる

明治5年(1872)、
明治新政府は日本中の村々にこう命令します。
「邑(村)に不学の家なく、家に不学の人なからしめん」
つまり、「村に学校を作り、家から無学文盲をなくしなさい」

西欧列強に伍していくには、一にも二にも子供の教育です。
最初は笛吹けど踊らず状態だった就学率でしたが、
日清・日露戦争のころになると、なんと90%という高水準になります。

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大富尋常高等小学校入学記念写真(静岡県焼津市) 明治41年 松永安子氏蔵
=焼津市史・写真集「やきつべ」より 

写真右端のちょび髭の人は、校長先生でしょうか。
左端の先生は詰襟の学生服を着ています。
子どもたちはみんな縞の着物に坊主頭。可愛いですね。

小学校教育を終えたムラの若者たちは、今度は「夜学会」へ通います。
そこでまたお勉強です。
夜学ですから、「夜遊び」や「夜這い」には行けません。
そこが政府の狙いでもあったわけです。つまり若者の民俗・風俗の統制。

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「またコレ出すの?」なんておっしゃらないで!
夜這いの絵なんて、そうそうないんですから。

明治13年の「函右日報」に、こんな記事があります。

「若者連がこの辺の陋習を頑なに守り、集会し、とんだ淫奔の淫舌会を開き、
通行人に喧嘩を売り、婦人にいろいろ雑言を言って辱めるが、
コンナコトはもう止めたらよかろうとの報あり」

「報あり」と書いているところをみると、実際に見たわけではなさそうです。
なんらかの意図を持って書くことは、今のマスコミにもママあることだしねえ。

もっとも「夜這い」なんて、褒められたものではありませんし、
なくなって当然のものですが、
これが下火になった一番の理由が面白いんです。
なんと「電灯の普及」なんだそうです。

男女が薬師堂の境内に集まって、歌を掛け合って求愛する歌垣も、
寺の和尚さんが「夜道は危なかろう」と考えて、参道に街灯を付けたら、
「こっぱずかしくて」誰も来なくなってしまったそうな。

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「さあさあ、ご覧(ろう)じろ、ご覧じろ」と記事を売り歩く江戸時代の「読売」

さて、明治22年、
政府はそれまでの兵役免除条項があった徴兵令を改正して、
国民皆兵
つまり誰もが天皇の軍隊に入らなければならないという法律を作ります。

明治24、5年になるとムラの大人たちは、
従来の若者組、若衆組は指導不十分にして、ややもすれば賭博、酒食等に浸り、
……、弊害多くして利益少なかりし」(現・藤枝市青島町史)として、
健全な成長を期待するための「青年会」の結成を勧めます。

「風紀の改善」という立派な理由に、異議を唱える人は皆無でしょう。
ですが、その裏では、すべての国民が国に都合よく管理されるということが、
人知れず静かに進んでいたのです。

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青年講習会 大正11年 小川小学校蔵  「焼津市史・やきつべ」より 

「国家のための官制青年団」
「帝国軍人の予備軍としての青年団

この動向を決定的なものにしたのは、明治27年(1894)に勃発した
「日清戦争」だと言われています。

そしてそこに、推進役とでもいうべき人物が登場してきます。
広島県出身、山本滝之助、その人です。



<つづく>


※参考文献・画像提供/「焼津市史 市制施行50周年記念写真集・やきつべ」
               焼津市 平成13年
※画像提供/「講座・日本風俗史別巻1 性風俗」 「好色旅枕・夜這之図」元禄8年
         雄山閣出版 昭和34年
        /「絵でよむ江戸のくらし風俗大辞典」柏書房 2004



社会勢力としての若者

このブログでたびたび取り上げている「若者御条目」。
つまり、

親に孝行いたし、家業大切に…」
「海上にて難破船相見え候はば、早々相助け…」
仁義礼知信の五行の道を行い…」
他家の下女に迷惑いたさせ候者、屹度仕置きいたすべき…」
などと記した若者の憲法・定め書きです。

こうした真面目な、どこか官僚的な決まり文句と、
実際に、新参の少年たちに口伝えで教える「掟」の内容、
たとえば、
夜這いにはみんなが寝静まってから、そうっと行くだよ」などとは、
かなり「ズレ」がありますよね。

文化10年に若者組が奉納した手水鉢です。
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静岡市古庄・淡島神社

「ムラの若者・くにの若者」の著者・岩田重則氏は、若者についてこう述べています。
若者とは、近世後期のムラに登場してきたひとつの社会勢力
そして、歴史学者の高橋 敏氏は、
村落秩序を打ち破る突出した存在として、若者組があったのではないか」
さらに、
「下田(静岡県下田市)の若者たちは半プロ層とともに、
天保7年(1836)の打ちこわしの中心勢力であった」

岩田氏はこうもいう。
「神社などにある若者中(若者組)が奉納した灯ろうや手水鉢は、
近世末に台頭してきた若者が、
大人社会にその実力と存在を誇示した痕跡である」

そして、 「若者御条目」については、
「幕藩体制と相克を生むそのような若者の活動を統制し、
支配体制へ組み込む装置として、体制側が作った

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松崎町建久寺村の「若者御条目」 文化5年

ここから導かれるのは、
「社会勢力として台頭し始めた若者たちを、支配層が御条目で牽制した。
その結果、若者組は自律的組織にはなれず
幕藩村落の秩序に組み込まれ、その枠内で存在する組織として生かされてきた」
というものです。

あれま! 
私は散々、若者組は自治組織だなんて美化しまくってきたけれど
支配層の手の上で踊っていただけだったとは。
なんか、若者に肩入れしすぎてしまったのかもなあ、ああ…。

「若い衆の宮参り」                南伊豆町 1954
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提灯持ちのうしろにいるのは、黒紋付・羽織姿の若者組の頭役。
そのあとを中老、小若い衆が続く。     写真・説明/芳賀日出男氏

ちなみに、岩田重則氏は、
「若者組という言葉は、柳田国男の造語であって、
残された文書にある「若者(わかいもの)中」というのが妥当であろう」としています。
そして、
「柳田民俗学が若者の恋愛と婚姻にのみ重点を置いたので、
若者組といえばすぐ、ムラの自由恋愛論を思い浮かべる発想になってしまった」と。

さて、冒頭で私が感じた「御条目」と口伝えの「掟」との「ズレ」についてです。

瀬川清子氏は、若者の組織には、
「若者組」「若者仲間」という二つの組織があるとしてこんな定義をしています。

若者組は、儀礼を重んじ、年齢階層的秩序を持ち、村落運営を担った組織で、
将来ムラの中核を担う長男のみが入った。
それに対して「若者仲間」とは、同年齢が知り合いの家に宿を借りて寝宿とし、
夜這いなどの性に関することに終始した遊び仲間、宿仲間である」

江戸中期から若者たちによって伝えられた神楽の「狂いの舞」です。
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松崎町峰・津島神社               「松崎町史」より

「若者仲間」西日本に圧倒的に多く、東日本ではあまりみられません。
伊豆では前回ご紹介した西伊豆町仁科などで、この二つの組織が見られました。
つまり羽織袴で「式三番」を演じていたのは、長男集団「若者組」だったのです。

でも伊豆に於いては、22通もの御条目が示すように、
「若者組」自身がムラに一つの寝宿を持つという、
「若者組」に「若者仲間」を内包していたという形態が多かったように思います。

だから私は、その中での「御条目」と「掟」とのズレを気にしているわけです。
だって、片方では「他家の女に迷惑かけるな」といいながら、
もう一方では「夜這いの行き方」を伝授するんですから。

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吠えるべきか吠えざるべきか悩んでいた君も、そう思いません?
なになに? 今回のブログは少し理屈っぽかったって? 

まあねえ。難しいんですよ、この問題。
でもこの「ズレ」、私には、
伊豆の若者の、上から命令された官制の掟への抵抗としか思えないんです。

とまあ、またまた伊豆の若いモンに肩入れしてしまいましたが、
このつづきはまた明日。


<つづく>


※参考文献/「ムラの若者・くにの若者」岩田重則 未来社 1996
※画像提供/「日本民俗写真大系・東海道と黒潮の道」
        「漁村の暮らし」芳賀日出男 日本図書センター 1999
        /「松崎町史資料編 第四集 民俗編(上)(下)」
         松崎町教育委員会 平成14年




昼は炭焼き、夜は神楽の練習

かつて、「若者組」「若衆組」は、ほぼ全国的に存在していました。
ですが、
村に大きな地主や親方がいたところや、
飛騨・白川村のような大家族で暮らしていたところでは、
若者組をつくる自由も結束力も持てなかったと、宮本常一氏は著書に書いています。

長男以外の男の子に分け与える田畑がない、そういった地域では、
二、三男は大地主の家に小作人として住み込んだので、若者組は作れません。
ですがそれでも小作の若者たちは、夜になると橋のたもとに集まって
石の担ぎっくらをして遊んだという話が残っています。

秋田県山本郡三種町(旧琴丘町)あねこ峠の「あねこ石」です。
琴丘町・あねこ石
石碑前の石。約80㌔     写真提供/高島愼助四日市大学教授

村人たちが力自慢に使ったこの石、
担ぎ手が凛々しい若者や美男子だとやすやすと上がるのに、
ブ男と老人では全く上がらなかったそうです。

なかなかはっきりした性格の「姉っこ」ですね。

さて、東北地方は他県に比べて力石が少ないのですが、
中でもこの秋田県、全国一力石が少ない県なんです。
確認されている石は、全部で10個しかありません。
若者組をつくる自由も結束力も持てなかったということでしょうか。

静岡県賀茂郡南伊豆町にあった「若い衆宿」です。
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写真/芳賀日出男氏   「東海道と黒潮の道」より

民俗学者・瀬川清子氏によると、
「延宝5年(1677)から昭和2年(1927)までに作られた「若者条目」は122通
その半数が静岡県と愛知県のもので、そのうち34通が静岡県下のもの。
そしてその34通のうちの22通が伊豆半島のもの」
だそうです。

つまり静岡県の伊豆は他の地方にくらべて、
若者の組織が非常によく完成されていたということのようです。

そのせいか、伊豆の各市町の教育委員会でも民間でも若者組の研究に熱心で、
調査書に記された文章には、往時の若者たちへの理解と誇りがにじみ出ています。

西伊豆町仁科の式三番に使われた浄瑠璃首です。
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「検非違使」文政8年(1825) 「小娘」弘化3年(1846)
いずれも駿府上横田町の人形師・長兵衛作

伊豆にこうした文化をもたらしたのは、
慶長11年(1606)に金山奉行として伊豆にやってきた
大久保長安だといわれております。
大久保長安の父親は猿楽師で、長安自身も能楽や人形芝居を好み、
各地に神社を建てた折には、自ら舞いを奉納したと伝えられています。

写真は、「式三番」舞台、下方の若者たち。
人形使いは、一つの人形に3人ずつ付きます。一番下の見習いは足を担当。
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謡、地謡、小鼓、笛などの若者たちが、羽織袴で並びます。
=「式三番と浄瑠璃首」より

昭和初期に神楽の獅子を舞った松崎町の男性は、こんな言葉を残しています。

「昼は炭焼きで汗を流し、夜は若衆宿で寝泊まりして毎晩練習をした。
長老の指導は徹底して厳しかったが、
大勢の観客から拍手喝さいを浴びた感動は忘れられない」

「昼は炭焼き夜は神楽の練習」
すごい豊かな青年時代だと思いませんか?

私は神楽や田遊びなどの伝統芸能を見るとき、
そのものの素晴らしさのほかに、もう一つ感動することがあります。
それは
普段はわさびやお茶農家のごく普通のおじさんが、
舞台では裃姿で、きりりと舞う。その変身がたまらなく魅力的なのです。

伊豆の若者は江戸などの出稼ぎ先で、文字が書けるといって重宝された、
そんな話も残っています。


<つづく>


※参考文献・画像提供/「日本民俗写真大系第3巻・東海道と黒潮の道」
               「漁村の暮らし」芳賀日出男 日本図書センター 1999
              /「伊豆仁科の式三番と浄瑠璃首」須田孝太郎
               大見世書店 昭和58年
※参考文献/「松崎町史第4集 民俗編(下)」松崎町教育委員会
         松崎町史編さん委員会 平成14年


青年組織は時代を映す鏡

若者組織の歴史を調べていると、
かなりの頻度でこんな言葉を見ます。それも各地で…。

「国家のための官制青年団」 
「帝国軍人の予備軍としての青年団」

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「陸軍少年戦車兵学校」の身体検査に合格した15歳の少年たち
=富士宮市。昭和16年。 「悲傷 少年兵の戦歴」より

江戸時代に組織化された「若者組」「若衆組」は、
「若者御条目」という独自の憲法を持ち、
資金も運営も独立した自治組織でした。

文政11年にできた「賀茂村宇久須柴地区」の「御条目」には、

親に孝行いたし礼儀を正しくし、家業大切に…」
「海上にて難破船を見つけたら、早々相助け…」
「上たる若者、新参の若者へ慈悲情けをかけ、非道の所作有るべからず」
「人々への無礼の言葉無用にいたすべき事」

などなど数項目にわたって記されています。

賀茂郡松崎町建久寺村の文化5年(1808)の「若者条目」です。
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「松崎町史・資料編」より

村落共同体の維持に不可欠で、年少者の教育機関的存在だった「若者組」が、
どのような経路で国家に取り込まれ、帝国軍人の予備軍にされていったのか。

それはひと言でいえば、
「若者組が持つ結束力」に支配層が注目したからではないかと思います。
もう一つ付け加えれば、
明治新政府が打ち出した富国強兵、学制の公布などで、
若者組としての統制が取りにくくなった。
その弱体化が、今度は新たな国家権力による統制へとつながっていった、
そんなふうにも思っています。

タイトルの「青年組織は時代を映す鏡」は、
「藤枝市史・別編民俗」に出ていた言葉です。

「博打」「夜這い」を大人たちは、若者の突出した悪行のようにいいますが、
それは広く当時の大人社会の風習であって、「若者は時代を映す鏡」にすぎません。
若者のみに非難の矛先を向けるのは、大人のずるさ、いやらしさというものです。
そして、そのずるさ、いやらしさを最も発揮したのが、
国家権力であると私は思います。

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年末の大掃除の合間に、
畳の上でタライの足差しをしてみんなを楽しませている若者。
「新撰東京名所図会」より

次回は、この「時代を映す鏡」を少し追っていきたいと思います。


<つづく>


※参考文献/「藤枝市史・別冊民俗編」市史編さん委員会 藤枝市 2002
        /「賀茂村の若衆制度」賀茂村教育委員会 昭和63年
※画像提供/「悲傷 少年兵の戦歴・平和の礎となった15歳」毎日新聞社 昭和45年
        /「新撰東京名所図会」東陽堂 1902
        /「松崎町史資料編 第四集」民俗編上巻
          松崎町教育委員会 平成14年


酸いも甘いも…

「夜這い」という言葉は、今は淫靡な響きになっていますが、
もとは健やかに「男女が呼び合う」、これが原初の姿です。
時代とともに、「呼び合う」が「夜這い」に変わっていったわけです。

古代、歌垣(うたがき・かがい)という風習がありました。
あらかじめ決められた日と場所に男女が集まり、飲食を共にし、
輪になって求愛の歌を掛け合いながら踊る、これが歌垣です。

静岡市・小野寺(小野薬師堂)です。
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ここもかつては歌垣の場所でした。
狂歌師の太田蜀山人は、ここでこんな狂歌を詠んでいます。

小野ならば下に小町がつくものを 
                深草の中に寺が少々(少将)


平安初期、小野小町という絶世の美女がいました。
美しいだけではなく和歌にも優れ、和歌の名人「六歌仙」の一人でもありました。
また言い寄る男たちをことごとく拒絶する女性でもあったそうです。モッタイナイ…。

それでもあきらめない深草の少将に、小町は言います。
「100日通い続けたら結婚してあげましょう」
しかし毎晩5キロの道を通い続けたものの、
満願の100日目の夜、少将は雪のため凍死してしまいます。

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「小町とはなんとまあ、高慢ちきで非情な女だこと」
と非難するなかれ。
この物語は能役者・世阿弥の創作で、深草の少将は架空の人物です。

歌垣で有名なところに常陸国「筑波山」があります。
ここで高橋虫麻呂はこんな歌を詠んでいます。

「人妻に吾(あ)も交はらむ わが妻に人も言問(ことと)え」

「人妻に私が交わろうと、私の妻に他人が言い寄ろうと、
それは山の神が昔から許していることだ。だから今日だけはだれも咎めるな」

静岡市内の某名刹寺院でも、かつてはそんなことがあったようです。
そこの特徴は「人妻だけがその晩に限り、他の男と交わることを許された」そうで、
帯に紺の手ぬぐいを下げているのが人妻の目印だったとか。

旧中川根町(現・静岡県榛原郡川根本町)久野脇・佐沢薬師堂です。
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古代の「歌垣」を今に伝えている貴重な踊りです。

20年余り前、体の芯まで凍るほど寒い1月の夜、私、ここへ行きました。
村の方が差し出す懐中電灯の明かりに導かれて、お堂のある山の中腹まで、
「歌垣」を”見に”行ったんです。
これ、「ひよんどり」といいます。

火を囲んで踊るから「火踊り」、つまり「ひよんどり」です。
このときはお堂の中での踊りでしたが、いつもは境内に火を焚き、
男女が肩を組み、火を囲んで廻りながら、地を踏み鳴らし踊ります。
そのとき、さまざまな求愛の歌を掛け合います。

「佐沢薬師は妻薬師」といわれ、ここで妻を見つけて結婚する人も多かった。
親の気に入らない相手でも、「ひよどり踊りで約束した」といえば許されたそうです。

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地元のおじいさんがいいました。
「大井川の上からも下からも若い衆が、
今夜は娘っこに会えるっていって、舟漕いで来たっけよ
「でもこんなに寒いんじゃ、意気投合してもそのまま藪に消えるなんて無理ですよね」
と聞いたら、
「なに、若い衆は寒さなんて…」と照れ笑い。

「ひよんどり」では、一晩にいくつもの歌を掛け合います。
それが素晴らしいんです。
例えば、こんなの。

酸いも甘いも身に持つゆえに 色づきゃ裸になるみかん

つまり男性が、
「みかんだって熟れたら皮を脱ぐんだから、あなたも今夜はひとつどうですか?」と。
すると、今度は女性がこう返すんです。

しのぶあなたの手ぬぐい取って 月にさせたい頬かむり

「OKよ。でもお月さんが見ていて恥かしいから、
あなたの手ぬぐいで月に頬かむりさせてちょうだい」

昔の人は本当に粋ですね。
精神の成熟さを感じます。

で、唐突ですが、ここでこの町にある力石、ちょっと見てください。

榛原郡川根本町上長尾・智満寺です。
川根本町・智満寺

「せっかく歌垣の心地よさに酔っていたのに、力石だなんて…」とお叱り、ですか?

まあ、そうですよねえ。
ホント、私としたことが、野暮でどうもスイマセン。



<つづく>


※参考文献/「中川根町史・ひよんどり」中川根町教育委員会 2004
        /「婚姻の民俗」江守五夫 吉川弘文館 1998
※撮影協力/平井正次氏



夜這いには、そうっと行くだよ

『夜這いにはみんなが寝静まってから、そうっと行くだよ。
もし上の衆が行っていたら、邪魔しないように他の家へ行くだよ。
また家の衆に気づかれたら「若衆です若衆です」と言って、
後戸をちゃんと締めて帰るだよ。
もし怒られて戸を締めるひまがなかったときは、後で戸を締めに行ってくるだよ』

これは「賀茂村の若衆制度」に示された「夜這いに行き方」です。 

CIMG0859.jpg
オッ、若い衆らが夜這いにきたな。
こんなときは吠えるべきか吠えざるべきか、それが問題だなあ。 

娘のいる家に忍び込んで思いを遂げるのですから、
これはもう立派な犯罪です。

実際、
江戸時代、伊豆の島々を巡視した役人が、若者たちの寝宿の習俗などを、
理解を超えたけしからぬ存在」だとして、
寛政8年(1796)、伊豆の島々に「寝宿禁止令」を出しています。

img384.jpg
「夜這之図」 元禄8年

けれど、この習慣、長い間全国で「ふつう」に行われていました。
それにはそれなりの理由があるのだろうと考えて、
民俗学者さんたちが、いろいろ調査をしました。
結論は、

「前代の人たちは、性の問題をあっさりと考えていた
「若者組は年少者への性教育機関であった」

夜這いは自然なこと」で、「夜這いに来てもらえない娘は、
体に欠陥があるのだろうといわれて、肩身が狭かった」

img386.jpg

夜這いと結婚は別もので、結婚は親が決めた人とした。
処女との結婚は、初夜の血の穢れが婿に災いをもたらすとして嫌われたため、
むしろ経験豊富な娘が喜ばれたという。
地方によっては、そうした娘が結婚する際は今までのナジミの男たちに、
「このたび限り」と足袋をおくったりしたそうです。

民俗学者の瀬川清子氏は、
著書「若者と娘をめぐる民俗」の中で、こう述べています。

「三角、四角関係が生じたからといって、誰も非難などしなかった。
おのずから相手が決まって結婚すれば、一対一の生活が始まる。
学校で学ぶ道徳とは違う道徳があった

同じ民俗学者の宮本常一氏は、著書「村の若者たち」でこんなふうに言っています。

「年功者の体験に基づいて学んだのが若者組で、
職業教師は教師自身の体験に基づくものではなく、実践すべき規範について教えた」

CIMG1168 (2)
力石(左)のかたわらで、肩を抱き合い握手している双体道祖神    
=富士宮市淀川町

冒頭の「夜這いに行き方」にあるように、そこにはそれなりのルールがありました。
しかも誰もが勝手気ままに、夜這いに行けたわけではありません。

若者組の先輩たちは後輩たちを、こんなふうに指導していたのです。

「力石も担げないやつは娘の尻を追うな」

見事担げたあかつきには、

「石とおなごは心(しん)から抱け!」



<つづく>


※参考文献/「若者と娘をめぐる民俗」瀬川清子 未来社 1972
         /「村の若者たち」(復刻版)宮本常一 家の光 2004 
        /「賀茂村の若衆制度」賀茂村教育委員会 昭和63年
        /「力石ちからいし」高島愼助 岩田書院 2011
※画像提供/「講座・日本風俗史別巻1 性風俗」
        「好色旅枕・夜這之図」 元禄8年
         雄山閣出版 昭和34年




チョイ、ハッ、ポイ!

「若者組」に、ちょっと気を入れすぎました。
お読みくださっている皆さまも、さぞかし肩など凝ったのではないかと…。
そこで、リラックスタイム、世間ばなしを少々。

「大道芸ワールドカップ」のひとこまです。
CIMG1757.jpg

この催しは毎年11月初旬、
静岡市の中心部などで4日間かけて行われる
アジア最大級のパフォーマンスです。

約20か国からやってきた100組ものストリートパフォーマーたちが、
ホールや公園、駅前広場、街角、道路で、
アクロバットやジャグリング、パントマイムなどを繰り広げます。

今はボランティアまでクラウン姿という西洋色一色ですが、
これが始まった22年前は、もっと日本人的繊細さと泥臭さにあふれていて、
雪竹太郎さんが全身白塗りで、
ロダンの考える人に扮した「人間美術館」というパントマイムをやったり、
ギリヤーク尼ケ崎さんがバケツの水をかぶって公園を走り回る、
ばかばかしくておかしくて、どこか物哀しい「街頭舞踊」なんかをやっていた。

私はそのころの方が断然好きですけどね。

それで、
日本の伝統的大道芸も、堂々と見せたっていいんじゃないのって思うんですよ。
例えばこんなもの。「水芸」です。
img383.jpg
松旭斎天一演ずる初期の水芸   「明治21年ごろの絵番付部分図」

「こちらには刀が一本ござります」
「この方の玉には水を次第にあげます」
「水はしばらく私の言うとおりに従います。
エッ、チェッ、ハッ、エッ、チェッ、ハッ、ハッハッハッ、
チョイ、ハッ、ポイ!

こんなものもどうでしょうか。
力石による力持ち。
img377 (2)
「小紋雅話・力持ち」

美しい100㌔級の力石をズラッと並べて、次々担ぎあげる。
公衆の面前でのふんどし姿は、公序良俗にひっかかる?
う~ん。

「大道芸ワールドカップ」4日間の見物客は、約150万人
静岡県内はもちろん、神戸・大阪、関東一円からも観光客が来るほど人気抜群とか。
なにしろ東京から「はとバス」まで来たっていうんですから。

やっぱりふんどしはダメかしら。
まあ、ねえ…。

次回はまた「若者組」に戻ります。
「夜這い」です。



※参考文献・画像提供/「図説・日本の手品」平岩白風 青蛙房 昭和45年
              /「滑稽本集・小紋雅話」山東京伝 寛政2年
               日本名著全集刊行会 昭和2年


プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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