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「親に孝行、博打はするな」

若者の自治組織、
「若者組」「若衆(わかいし)組」について、少しお話してみます。

昭和6年頃の「小若衆」         「ふるさとの歴史」より
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唐突ですが「五人組制度」の話です。
この五人組制度は、三代将軍徳川家光の寛永年間に確立します。
5軒の家を一組に編成し、名主などの統率の元、一軒の家で年貢が滞ったり
犯罪を犯したりしたら、あとの4軒が連帯で責任を負うという、
支配者にとってはまことに好都合、身勝手な制度であります。

これが第二次世界大戦のとき、「隣り組」「隣保班」となって蘇ります。
命令に逆らう人は「非国民」と呼ばれ、村八分にされて配給米ももらえません。
戦後はGHQの命令で解体されましたが、
形を変えて、町内会組織として現在に至っています。

「若者組」「若衆組」は、
そうした「五人組制度」の下部組織としてできたという説がありますが、どうでしょうか。

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大正時代               「伊豆の若者組の習俗」より

上の写真は、若者宿での「正月吉例の歌い初め」で、
セキフネという舟唄を歌っているところです。

若者組の構成員は地域によって呼び名が違いますが、おおよそ、

「小若い衆」=数えで15,6歳、
「中老(ちゅうろう)」=20歳前後、
「宿老(しゅくろう)」=24、5~30歳頃

で構成されています。この写真に写っているのは、中老、宿老だそうです。
今の若者とは成熟度が全然違いますね。

若者組は、「若者山」「若衆山」を持ち、そこで作った薪炭を売ったり、
いわしやイルカ漁で得た収益で運営するという完全な自治組織でした。

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棒押し、力石、はしごで遊ぶ若者たち    画/松下石人氏

独立した組織なら、当然力を持ちます。政治的な発言もするようになります。
自己主張をして、名主たちのいうこともなかなか聞きません。
支配者にとっては、目障りな集団です。
それで、領主に解散させられたりするところも出てきます。

興味深い古文書が残っています。
寛政十年(1798)に書かれた原宿(現・沼津市原)、植松家の文書です。

「   一札之事
 一、力石
    右者、先年子細有之、諏訪社地へ入置可申旨 被仰付有之候処……」

で始まるこの文書は、力石の管理・所有権を巡る若者たちの争論を記したもので、
町内惣代と若者惣代が印鑑を押し連名で、
「今後はこのようなことがないようにいたします」と役人へ出したものです。

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沼津市西間門・八幡神社の力石

力石を巡っての騒動も、それが古文書として残っているのも大変珍しいですね。

当時の若者たちの単なる喧嘩ではありますが、
こうした行動を無視できないほど、その存在が大きかった
決して彼らは、五人組制度の下部組織に甘んじていたわけではなかった、
そういうことを、この文書は示しているのではないかと私は思っています。



<つづく>


※参考文献・画像提供/「ふるさとの歴史」八幡野区郷土史編纂委員会
               八幡野小学校 昭和50年
               /「伊豆の若者組の習俗」平凡社 昭和47年
※参考文献       /「賀茂村の若衆制度」賀茂村教育委員会 昭和63年
               /「原町史」原町教育委員会 1963
※画像提供       /「三州奥郡風俗絵図」松下石人 国書刊行会 昭和56年





伊豆松崎・みち婦村の佐七

前々回まで、古い年代刻字の力石をご紹介してきました。
今回は、静岡県を取り上げます。

賀茂郡松崎町岩科南側(いわしななんそく)八木山八幡神社です。
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町指定天然記念物のケヤキの根本に、石が2個見えます。

大きくしたのが、これ
CIMG0087 (2)

この2個とも力石です。
向かって左の石に、刻字(切付)があります。

「奉納 六拾貫余 癸卯天明三年三月 
            南新川 佐七 みち婦村 佐七」


実はこの力石、静岡県内で一番古い年代刻字石なんです。

天明年間は冷害で、日本各地で大飢饉になった時代。
また石に刻まれた天明三年(1783)は、浅間山が大噴火した年です。
そういう大変な状況の中で、この石は奉納されたことになります。

先に、日本で一番古い力石の年代刻字は、
埼玉県久喜市樋ノ口・八幡神社の「寛永九年」(1632)とお伝えしました。
その埼玉県の石に遅れること151年目に、
やっと静岡県最古の力石が登場したということになります。

この石に名を残した「佐七」は、どんな若者だったのでしょうか。

これは伊豆・八幡野村(現・伊東市八幡野)の若者たちが使った提灯です。
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写真集「伊東百年」より

伊豆は、「若者組」「若い衆組」という若者たちの自治組織が盛んなところでした。
佐七もまた、村の「若者組」の一員だったと思います。

「松崎町史資料編」によると、
南新川は江戸の酒問屋街で、鰹船の乗組員が冬季出稼ぎに行ったところ。
みち婦村は道部村のことで
道部の佐七が南新川に働きに行った記念か、この石で優勝した記念であろうか」

下の写真は、「若者組」の加入式に臨む新加入者たち(大正時代)
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「伊豆の若者組の習俗」より

15歳くらいになると、若者組への加入を許されます。
写真は、お揃いの絣の着物を着た少年たちが正座して、
若者頭の先輩から「御条目」という規則を聞かされているところです。

「お前っちも若衆へ入ったんで、子供心を打棄って臨機口上、商売、宿を貞実に勤め、
親には狼言を言わないようにするだよ」
臨機口上とは朝だら、お早うごだんす、昼間だら、こんちわ
夜だら、お仕舞ですかと言うだよ」

そういう社会のルールを少年たちに教えているわけです。
佐七は漁師ですから、
人より早く浜へ行き、舟を下すときは一番ひだを敷くようにするだよ」
「網をやるにゃ先に立ってやるだよ」なんて先輩から聞かされたのかもしれません。

若者宿です。組に加入した少年たちはここで寝泊まりしました。
旧田方郡西浦村木負(きしょう。現・沼津市西浦)
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庭に力石が置いてあります。     「伊豆の若者組の習俗」より

地域によっては、この力石を担げない者は、組への加入を許されなかったそうです。

16貫(60㌔)、これは米俵1俵分に相当しますが、
最低この重さを担げなければ、一人前の男と認められなかった
給金も半人前しかもらえなかった。
それで少年たちは、暇さえあれば石を担いで鍛錬したといいます。

漁船の乗組員はさらに厳しく、揺れる舟の舳先で石を担がされたそうですから、
それを乗り越えた佐七は、かなりの力持ちだったはずです。

こちらは同じ旧西浦村古宇(こう)の若者宿です。
大正時代の建物です。
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これは私が3年前に撮影した古宇の公民館です。
CIMG0233 (2)

驚きました
障子がガラス戸になっているほかは、
大正時代の若者宿と全く同じです。軒下の漆喰のこて絵も当時のまま。

近所の80代の男性にお聞きしたら、
「おお、今は公民館だけどな、昔はワケーシ(若い衆)の宿だった。
床が回り舞台になってて、よく芝居をして遊んだもんだよ。
なに、力石かね
わしらのころにはもうやってなかったよ。せっかく来てくれたのに悪いっけなあ」

最初にご紹介した「木負」の若者宿は、すでにモダンな公民館になっていて、
力石の行方はおろか、力石そのものを知る人はもう誰もいませんでした。


<つづく>


※参考文献・画像提供/「写真集・伊東百年」編者 竹田信一 
                緑星社出版部  昭和56年
               /「伊豆の若者組の習俗」平凡社 昭和47年
               /「松崎町史資料編・民俗編(下巻)」松崎町教育委員会
                1989


和気あいあい、観音さんの餅さし

古い年代刻字の力石をご紹介している途中ですが、
ここで、ちょっと寄り道です。

ふとのぞいたブログ「眞さんのつぶやき」に、いい写真が載っていました。
島根県雲南市吉田町上山(うえやま)の「餅さし行事」です。
自分の目で見たものしか書けない私ですが、
ちょっとブログ主さんの写真をお借りして、紹介してみたくなりました。

これです。       
その1 その2
餅を上げた形が美しいですね。  善福寺観音堂

雲南市吉田町は東京からJRで約7時間
遠いですね~。
でも、ここは「たたら製鉄による和鉄生産の中心地だったそうです。
これを経営していたのが、日本一の山林王で鉄山師の田部家

その田部家の土蔵群。
群土蔵

昭和61年、吉田町は「鉄の歴史村」を宣言。
全国でも珍しい「鉄の歴史博物館」を運営しています。
ここには太平洋側にはないものがたくさんあって、遠路はるばる来る価値充分です。

さて、「餅さし行事」です。
これは雲南市の無形民俗文化財に指定されている力自慢大会です。

この行事は、今から約170年前の天保11年(1840)、
天保の大飢饉を経験した村人たちが、15軒の頭屋を選び、
観音様に餅を供えて、五穀豊穣を祈願したことから始まったそうです。

餅差し大会
集落の方々が餅の準備をします。

できた餅は、「餅さし」前夜の午前0時に、若者の手で観音堂へ運ばれます。
観音堂へ
2月の雪の夜です。このとき、「ときの声」を7回あげます。

今年2月16日の「餅さし」には、
京都醍醐寺の五大力大鏡餅上げで横綱になった「浪速の長州 力」さんが参戦。
浪速の
右腕だけではなく、左腕でも上げる。さすがです。
でも今回はケガの影響もあって準優勝。
ですが御年55歳でここまでやれる人は、そうそういないですよね。

「浪速の長州 力」さんは、
11月3日開催の、
福島県須賀川市・菅船神社「太郎石持ち上げ大会」にも出場予定とか。

   力石上げれば天国落とせば地獄   浪速の長州 力

天国行き?を祈ってます!

さて、いよいよ今年の優勝者の登場です。
さん啓太
趣味でキックボクシングジムに通う福祉施設・介護士さんの菅野啓太さん。
餅は大鏡餅が一斗五升、小鏡餅が三升の合計43㎏。
これを片腕で上げ、その持上げた回数を競います。
啓太さんは、なんと37回も上げたそうです。

どうやらその勝因は、この人たちの熱い声援にあったようです。
応援
啓太さんが勤務するケアポートからの応援団のみなさん

和気あいあい、でも餅さしは真剣勝負。
町では、
「全国の力自慢さん、ぜひ挑戦しにきてくださあ~い!」
と呼びかけています。



※情報・画像提供/堀江 眞氏のブログ「眞さんのつぶやき」
 土蔵群画像提供/「鉄の歴史博物館」鉄の歴史村地域振興事業団
※問い合わせ/雲南市政策企画部☎0854・40・1015

 




志演神社の志演は「しのぶ」と読みます

「志演」を「しのぶ」だなんて読めませんよね。
正式名称は、「志演尊空神社」(しのぶそんくうじんじゃ)、
東京都江東区北砂にあります。

神社の説明によると、
最初は、学問の神様・菅原道真の子孫が、
江戸の初めに祀った稲荷神社だったとか。

ところが元禄年間、五代綱吉が鷹狩りに来たとき、
民の志を演(の)ぶる=広く及ぼす=こと殊勝なり」といったことから、
「志演」と改称したんだそうです。う~ん、ホンマかいな??

尊空は伏見宮の王子、尊空親王のことで、
この人を祀った祠と志演神社を昭和22年に合祀して、
現在の名称になったんだそうです。

ま、それはともかく、志演神社の力石です。
chikara02.jpg

前回、年代刻字で日本最古の力石は、
埼玉県久喜市樋ノ口の八幡神社の寛永九年
2番目が同じ神社の万治年間のもの、
3番目は千葉県野田市・八幡神社の万治四年の力石とお伝えしました。

志演神社の石は寛文四年(1664)で4番目、東京では一番古い力石です。

寛文は四代家綱の時代です。
家綱はわずか10歳で将軍になりますが、そのとき起きたのが由比正雪の乱
正雪はわが駿府の生まれで、自害したのも駿府の宿「梅屋」。
別に自慢するわけではないんですが…。

それから6年後に起きたのが、明暦の大火、俗に振袖火事

越後屋の商人が、娘さんに図柄見本を見せているところ。
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「呉服行商の図」        勝川春勝画

寺の美少年に一目ぼれした娘が、少年と同じ柄の振袖を作ってもらい、
美少年の代わりに毎夜抱きしめて、ついに病死。
その振袖を手に入れた娘たちも次々亡くなったため、寺で供養に焚き上げた。
そしたら、火のついた振袖が風に舞って
それが元で江戸の大半を焼失、死者10万余という大惨事に。

ただし、老中の家の出火を寺のせいにしたなんて説もございます。
でも、
この振袖火事と八百屋お七の火事と混同している方が結構いらっしゃいます。
お七は放火犯、振袖火事の25年後の事件でございます。
それにしても若き将軍さま、大変でした。

話が脱線しました。

故・伊東 明上智大学名誉教授が描いた志演神社の力石です。
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80×50×30㎝  安山岩  石銘「志乃武石」

この石、昭和40年ごろには境内に放置されていたそうですが、
その後神殿の植え込みに立ててあったそうです。
平成13年に区の有形民俗文化財に指定され、
今は立派な台座に保存されています。

さて、この石の刻字(切付)が只今、問題になっております。

伊東先生は、「寛文四大二月八日」「九□八」と判読。
江東区教育委員会では、「寛文四辰天二月朔日」「□嶋正□」と判読。

寛文四は共通していますが、伊東先生は「□嶋正□」を見落とし、
区教委は「九□八」を見落としています。
また、「」と「辰天」、「八日」と「朔日」という違いも出ています。
なにしろ、今から350年も前の刻字です。
おまけに、
大火事や大震災、空襲と幾多の火をかいくぐってきた石だから剥落が激しい。
正しく解読するのは至難のわざです。
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そこで、浅学故の怖いもの知らずで、こんなふうに推理してみました。
「大」ではなく「辰」が正しく、「八日」は「朔日」が正しい。
また「」の刻字はもともとないのではないかと。
「九□八」は、石の重量を貫目ではなく、
○斗○升と米の重さで示したものと判断しました。
というわけで、推理した結果がコレ。

正面中央に「九□八」
正面左に「□嶋正□」「寛文四辰二月朔日」

いかがでしょう? 江東区教育委員会様!

「天」ときたので、さては隠れキリシタンのものか、なんて思ったりしましたが、
力石にキリシタンの暗号を刻むのも変だし、これは考えすぎですね。

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なにしろ「志演」を「しのぶ」と読ませる神社です。刻字も人を惑わせます。
伊東先生、あちらの世界で、「オヤオヤ」なんて笑っているかもしれません。


<つづく>


※参考文献/「伊東明教授退任・古希記念原著論文」伊東 明 1988
        /「東京の力石」高島愼助 岩田書院 2003
        





石には凄絶に生き抜く意志がある

石は生きている。
石には凄絶に生き抜く意志があり、死の沈黙ではない」と言ったのは、
「清水みなと史」(明治大学校友会清水支部発行 昭和39年)を書いた
立川春重さん。

私もそう思います。
師匠の高島先生も埼玉県の力石研究者S氏も、
きっと同じような思いで日々、力石と向き合っている、そう思っています。

さて前回は、
日本一が4つもある埼玉県の状況と、最古の年代刻字石をご紹介しました。
今回は、日本で三番目に古い年代刻字石をお見せします。

これです。千葉県野田市今上下の八幡神社にあります。
今上下・八幡神社6
45×32×10余

「奉納力石五十六メ目 万治四年 吉三月日」

万治四年は西暦1661年、四代家綱の時代です。

前回、日本で二番目に古い石は、埼玉県の「万治□□□九月」の石とお伝えしました。
同じ万治で年がわからないのに
なんで千葉の石が三番手になるのかといいますと、
万治四年は四月二十五日に寛文に変わったため、 「九月」はあり得ない。
だから、埼玉の石は万治四年以前ということになり、千葉の石より古いとなったわけです。

さて、この千葉の石、実はずっと「明治」と誤読されていたそうですが、
S氏が改めて調べて、「万治」と確認、解読し直したものだったのです。


土掻きて石に現る万治四年 往時男の覇気ぞ迫り来  
                                            呆人

さて、このブログにたびたび助言をくださるS氏について一言。
S氏が力石を知ったのは、、趣味の「路上観察の延長線上で」なんだそうです。
自転車での緻密な調査はすでに10年。守備範囲も埼玉県を中心に関東一円と広く、
特に刻字の判読解読に力を注いでいます。

その追及のためには、ココ掘れワンワンとばかりに、地面を掘り返すことも。
そうした中で発見した貴重な力石がいくつかあります。

写真は、三野宮香取神社(埼玉県越谷市)の力石群です。
ずっと、この3個だけとされてきました。
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すべて「三ノ宮卯之助」の持った石です。

真ん中の大きな石は、昨年、越谷市の民俗文化財になりました。
その時の新聞記事です。
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重さ約520㌔ 真ん中に「大磐石」、「嘉永元年」の年号。

「どうやって持ち上げたか想像もつかない」と市長さんがおっしゃるほど大きな石です。

時は遡り、2005年5月、
この同じ並びに、「オデコを出して埋まっている石」に気づいたS氏が、
白昼、辺りを気にしながら掘ってみると、
なんと石に「奉納 指石 三ノ宮卯之助」の刻字が…。
img362.jpg

画にしたのがこれ
img359 (2)
この石は長い間所在不明になっていたもので、S氏の執念で再発見。
三野宮香取神社の卯之助石が、4個になった瞬間でした。

本当にご苦労様です。
地下の卯之助もきっと、喜んでおります。
img365.jpg img363.jpg
郷土の歴史から生まれた越谷銘菓「力餅」の包み紙の卯之助と「力石」のお菓子
=和菓子の「えびす」(越谷市)

卯之助はお菓子になって、今も生き続け、人々に愛されております。


石探索終えて夜寒の帰り道 遥か地平にぬっと満月  
                                          呆人

<つづく>


※参考文献・画像提供/埼玉在住の力石研究者S氏


埼玉県は力石の宝庫です

埼玉県には、力石に関する日本一が4つもあります。

 力石の2,588個(2011年調査時)と日本で最多。

道端にも立派な刻字の力石が、無造作にゴロ~ン。
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 日本一重い力石、610㌔(実測)がある。
この石です。
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埼玉県桶川市・稲荷神社。 画/酒井正氏

「なんだ、たいしたことないじゃないか」と思われた方のために、
桶川市民祭り1 (4)
610㌔の力石は、こんなに大きいんです。 写真提供/高島愼助教授

こうした特別大きな力石を「大盤石」(大磐石)といいます。
写真は、桶川市の市民祭での再現です。「足差し」という方法で上げたのです。
仰向けになった人の足の上に、みんなで持ち上げた石を乗せるわけです。
力のない人は、当然、ペシャンコになります。
写真の石は、祭り用に作ったハリボテですからご安心ください。

 日本一の力持ち三ノ宮卯之助の出身地である。
三ノ宮卯之助です。
unosuke.jpg
この像は兵庫県姫路市・魚吹八幡神社にあります。

先ほどの610㌔の大盤石を上げたのは、もちろんこの人です。

そして4つ目は、
日本一古い年代刻字の力石、寛永九年(1632)がある。
寛永九年は、三代家光の時代です。

これです。埼玉県久喜市樋ノ口の八幡神社にあります。
前列丸い石が3個並んだうちの向かって左端の石。
樋の口・八幡社
53×40×25         写真提供/高島愼助教授

「奉寄進 寛永九申年 柏浦岩□」

日本で二番目に古い年代刻字の力石も、ここにあるんです。
前列真ん中の石です。一部欠損。66×34×19

「万治□□□九月日 二十メ目」

万治年間は、1658~1661年。四代家綱の時代です。

本当に埼玉県はすごいです。でもですね、感心するのはまだ早い。
これだけの日本一があるというのに、
文化財になった力石が少ないんです。

東京には有形民俗文化財の力石が約300個余ございます。
しかし埼玉県には14個しかありません。
そのうちの6個は、昨年やっと文化財に指定された越谷市の卯之助の石です。


   力石あゝ力石力石   藤井一彦


※刻字判読/「久喜市歴史さがし隊」7人による


<つづく>




力石にも華麗な歴史があるんです

本日は絵画文字に現れた「力石」のご紹介です。

日本に初めてキリスト教が入ってきたのが、
室町時代末の天文18年(1549)のこと。
またたくまに全国に広がり、信徒は70万人にもなったといわれております。
今からは想像もつかないほど多くの宣教師たちが、
日本で暮らしていたことになります。

一説には、宣教師たちの被り物やロザリオのグッズが売られていて
日本の若者たちに人気だったとか。
若者の新し物好きは、いつの世も同じですね。

少年使節天正遣欧
4人の少年をローマ教皇のもとに派遣した「天正遣欧使節」

そんな中、ポルトガルの宣教師たちが、
日本人の言葉や風俗などをポルトガル語で解説した辞書、
「日葡(にっぽ)辞書」を発行します。
面白いことに、この中に力石が取り上げられているんです。

「力石 力試しをする石」

力石や力比べを、ポルトガル人たちは日常的に目にしていたのかもしれません。
この辞書の発行は、江戸初期の慶長8年(1603)、
徳川幕府が全国にキリスト教禁教令を布告して大弾圧を始める10年前です。

その慶長8年から時代を逆に30年ほど遡った天正2年(1574)、
つまり室町幕府滅亡の翌年、安土桃山時代初めに、
織田信長が、京都の市中や市外の風俗などを描いた屏風を上杉謙信に贈ります。
それが下の写真です。

国宝「上杉本洛中洛外図屏風」
700px-洛中洛外図右
六曲一双のうちの右隻。狩野永徳画 米沢市上杉博物館所蔵

国宝に赤丸を付けちゃって気が引けますが、そこを拡大すると、こうなります、
上杉本洛中洛外図屏風

松の木の下に人が集まっています。
男がしゃがんで石を担ごうとしています。そうです。力試しをしているところなんです。

石の下方に「べんけい石」と書かれています。
あの武蔵坊弁慶が持ったと伝えられる力石なんですね。

ともあれ、この屏風が描かれた室町時代に、すでに力石は存在し、
それが重軽石としてではなく、庶民の力試しの石であった、ということが
この絵からわかります。
周囲の男達がもろ肌ぬいでいるのは、
みんなで力比べをやっているということなんでしょう。

次は連歌をごらんください。

わくら葉やいなりの鳥居顕われて  其角
       文治二年のちから石持つ  才丸

この連歌は貞亨3年(1685)、
江戸小石川で、出羽国の豪商で俳人の鈴木清風を迎えて、
百韻俳諧興行を開いたとき詠まれたものです。
このとき芭蕉、嵐雪なども参加しています。

其角こと宝井其角、江戸前期の俳諧師。
其角の句碑がある三囲(みめぐり)神社です。
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同じ神社の隅田川に面した裏の鳥居。ここはお稲荷さんの神社です。

「詩歌俳諧にたしなみのある者は、皆、隅田川上三囲のあたりに納涼の遊びす」
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向こう岸に三囲神社の鳥居が見えます。其角もよく船で遊びに行ったとか。

さて、この連歌に文治二年(1186)と出てまいります。
文治2年は平安から鎌倉時代へ移行する時期です
上杉本洛中洛外図屏風が上杉謙信に贈られた年から、388年も昔です。
この年号が、今の所、力石の文献上の最も古い年号です。

連歌に出てくる「いなりの鳥居」は、其角ゆかりの三囲神社のことでしょうか?
才丸が持った「文治二年のちから石」は、石に年号が刻んであったのでしょうか?
そしてその石は、今、どこにあるのでしょう。

そんな問いかけに三囲神社の「鬼面石」は、何も答えず、
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癒しのキツネで人気の、
「ほほえみのキツネ」さんは、ただ微笑むだけでした。



※参考文献・画像提供/「新撰東京名所図会」 明治31年
※参考文献/「東京の力石」高島愼助 岩田書院 2003            



ちょっと寄り道、曽我兄弟の話

河津三郎の遺児、曽我十郎と弟・五郎のお話をちょっぴりいたします。

曽我兄弟の仇討ちは人々の関心を呼び、
鎌倉時代後期には「曽我物語」が成立し、
江戸時代になると歌舞伎などで喝采を浴びます。

この兄弟の墓は、全国になんと14カ所余り、遠く九州にもあるそうです。
兄弟を祀る神社の数も多いのですが、そのひとつ、
静岡県富士市厚原の「曽我八幡宮」は、私の父の生家だったんです。

私事で恐縮ですが、思い出話、ちょこっと聞いてくださいね。

明治35年の曽我八幡宮です。
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「富士登山に来た京都探遊会の人々が参拝している」
との説明文が添えられています。

明治44年発行の「日本史蹟」には、
「境内一二畝 老樹これをめぐりて 
苔気林嵐(たいきりんらん) 自ずから冷ややか」
とあります。

この神社について、思わずひえ~となった本がございます。
一つは民俗学者・柳田国男です。

「厚原の曽我の社は、以前は単に虎御前様と言って居ったに、
いつの世にか曽我兄弟の祠とし、浩々歌客の父君角田虎雄氏が近年撰文を書いて
ついに本物にしてしまった。古く辿れば随分疑わしい

つまり、この神社は石占をした虎という放浪の巫女が定着したものにすぎないと、
柳田先生はそう断言されているわけです。
でも、その根拠は何も示されていないんですよね。

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兄の十郎祐成像      弟の五郎時致像

浅学の私が、民俗学の大御所に言うのもなんですが、
父の家の長押には夥しい槍がかかっていて、古い刀なんかも今もあるし、
江戸時代、神主以外の兄弟姉妹は江戸で武士だったり、
武士に嫁いだりしていたし、
柳田先生がいうような巫女の影など微塵もないんだけどなあ。

もう一人は、某郷土史家
ウソの多い曽我伝説 宝物開帳と遺品の謎」として、
父の家をやり玉にあげ、「厳しいメスをいれていこうと思う」と著書に書いています。

なんでも延宝のころ(1673~1680)、
江戸でのご開帳(寺社で宝物を見せること)の折、
父の先祖が河津三郎兵衛殿から借りた宝物を返さないまま、
行方をくらましたというのです。

亡き伯母が残した記録によると、
確かに「延宝6年、霊宝出開帳江戸表執行又本社大祭」とあります。

江戸での出開帳の折の箱書きです。
img351.jpg img352.jpg

父の生家の曽我八幡宮は、
江戸の深川八幡宮回向院でたびたび出開帳を行っています。

ネコババはなかったと思いますが、
(亡き父が、うちはそんな家ではないと静かに怒っていたっけ)、
でも「ろくな宝物がない家だからよそから借りた」というのは、本当かもしれません。
その貧乏ぶりが、幕末、大宮町(現・富士宮市)の町役人だった佐野与市(角田桜岳)の「角田桜岳日記」に出てまいります。

弘化4年(1847)、
工藤祐経の子孫河津三郎兵衛の嫡男、祐邦が、
曽我八幡宮に来られるというのに、
当主(私の曽祖父)は、なんと屋敷を借金のカタにとられて、三島の叔母宅に寄宿。
呼び戻されて、
急きょ、隠居の家を接待場所にしたというのですから、
貧乏も相当なもの
です。

写真は、その河津祐邦が外国奉行となり、
遣欧使節団副使として赴いたときのエジプトでの写真。
この3年後、祐邦は江戸幕府最後の長崎奉行になります。
河津祐邦

河津祐邦は、曽我兄弟のことによほど関心があったようで、
「曽我物語」をよく読み、まだ三郎太郎の若君だったころから晩年まで、
曽我八幡宮へよく参詣にきていたことが、
桜岳日記や伯母の記録から読み取れます。

某郷土史家が、
「延宝のころ、この神社は河津家の宝物をネコババして神主は姿を消した」
なんて書いていたその延宝年間のころのことを、
河津祐邦は角田桜岳にこんなふうに話しています。

「延宝年中、先祖浪人いたし、厚原村曽我八幡神主雨宮方ニ而一年も居候よし」

この「浪人」は、祐邦の約70年前のご先祖、「祐玄」ではないかと思います。
幼いころ、昔話をしてくれた懐かしい人たちが思い出されて、
ついつい長話になってしまいました。

ここで、曽我兄弟が持ったという力石をお目にかけます。
二宮町・川匂神社
向かって左が五郎、右側が十郎の力石。いずれも伝説上の力石です。
=神奈川県中郡二宮町 川匂神社     写真提供/高島愼助教授

富士市厚原の曽我八幡宮は、ほんのささやかな神社ですが、
父の一族の手を離れた今も、集落の方々がしっかりと守っておられます。

境内には、「和州十津川桂山住 小松典膳平延盛」の仇討ち本願成就の灯篭や、
角田桜岳の息子さんの角田鍬太郎氏が、
明治18年に奉納した標柱などがあります。

標柱にはこんなことが刻まれています。

「父は、孝子曽我士之祠を十分整えようと心しながら
                     果たせず卒してしまった」



<つづく>


※参考文献/「駿州富士郡大宮町 角田桜岳日記」富士宮市教育委員会 
2004~2009
        / 郷土誌「駿河」駿河郷土史研究会 谷本洸 杉山煕司 
         (谷本、杉山両氏による事実に即した丁寧な調査に感謝申し上げます)


力石にも武将たちの歴史があるんです

前回、長野の長谷寺に残る「覚明の力石」をご紹介しました。
この人は僧侶でしたが、元は木曽義仲に仕えた武将です。

こうした武将が担いだという伝承の力石が、各地に残されています。
こういうものを「伝説上の力石」と位置付けております。

下の写真は、豊臣秀吉の武将・福島正則の力石とされている石です。
どちらも、「元は三島宿の世古本陣にあった」と主張しています。
CIMG0150.jpg CIMG0693.jpg
静岡県三島市             沼津市

福島正則が石を持ち上げたとされてから約120年後の寛政7年(1792)に、
幕府の役人・吉田桃樹が、三島宿の世古本陣でその石を見たそうです。
そのことが、桃樹の旅行記「槃游余録」(はんゆうよろく)に書かれています。

明治になって、石は本陣の世古氏とともに沼津へ移されたといわれていますが、
現在、沼津市にある石は、吉田桃樹の本に記された石とは全く異なるし、
三島市の石にも確たる証拠はない。本物の石には、
元和二年閏二月 福島左衛門太夫正則之を立つ」と刻んであったそうです。

img349.jpg

また、静岡県菊川市の毘沙門堂には、和田義盛の力石の話が残っています。
和田義盛は、平安から鎌倉初期の武将で、鎌倉幕府の御家人。
弓の名手で大力の人。平家を滅亡へ追いやった立役者です。
「吾妻鏡」に、「平家と対峙するために遠江国へ来た」とあるところから、
遠江国の菊川市に石があったというのも、まんざらウソでもなさそうな…。

「郷土史和田」に、「なかなか抱え上げる人がいなかったこの石を、
満州で戦死した岩堀喜一氏が青年団員のとき担ぎあげた」と書かれていました。

「力持ちの若者の戦死」、切ない話ですね。
残念ながらこの石は、現在、所在不明です。

さてここで、静岡県の大物、河津三郎の登場です。
以前にもご紹介しましたが、今回は視点を変えての再登場です。

日本三大仇討ちの一つに、曽我兄弟の仇討ちがあります。

img347_20171230111249f64.jpg

「曽我兄弟討ち入りの絵馬」 天保12年8月奉納 作者不詳 
=富士市厚原「曽我八幡宮」所蔵

安元2年(1176)、所領争いで対立していた工藤祐経の手下によって、
伊豆の赤沢山付近で、曽我兄弟の父・河津三郎は殺されてしまいます。
母が曽我氏に再嫁したあとも、幼い兄弟は復讐の念をいだき続け、
17年後の建久4年(1193)、頼朝率いる富士の巻狩りの夜、
ついに敵、工藤祐経を討ちます。

静岡県賀茂郡河津町に、その河津三郎父子を祀る「河津八幡神社」があります。
大正時代の「河津八幡神社」です。当時は「谷津八幡神社」と称していました。
img344.jpg
赤丸の所に、河津三郎が愛用した力石があります。

郷土史「伊豆鏡」に、
「楕円形の石あり。三郎祐泰の朝夕力量を試し石にして里人俗に手玉石という」

下の写真は、数年前までの河津八幡神社です。
img343.jpg
河津三郎愛用の石と、その前に3個の力石が保存されています。

それが現在は、こうなっています。
CIMG0083.jpg
本殿前、向かって右側にあった「河津三郎像」を左側へ移したようです。
で、ほかの3個の力石はどうなったかというと、

石段になっちゃったんです。
CIMG0082.jpg
これ、以前にもお見せしましたが、何度見てもがっかりする光景です。

三郎像は後藤白童作。
台座の揮毫「河津三郎力石」は、横綱双葉山。
この石を横綱「男女川」、大関「前田山」が胸の高さまであげたとか。

ここには、家臣たちが鍛錬のため使っていた力石が数10個あったそうですが、
昭和13年のがけ崩れで、境内に埋まったままになっているようです。

それなら余計、せっかく残った力石3個、
大切にして欲しかった!



<つづく>


※参考文献・画像提供/「伊豆鏡」勝間田泰平 大正3年 復刻 昭和62年
               /冊子「河津三郎と曽我兄弟」 谷津温泉館通り進栄会
               /「河津町いにしえまっぷ」河津商工会青年部
               /「郷土史和田」菊川町和田自治会 1997




力石にもなが~い歴史があるんです

ここでちょっとお勉強です。

力石の歴史

力石にも長い歴史がございます。日本だけでなく、世界中に。
ここでは日本について、お話してみたいと思います。

「石占」に使った「重軽石」(おもかるいし)です。
CIMG0243 (2)
直径20㌢ほどの球形。静岡市・石部神社。

石占(いしうら)、
つまり、この石を使って占いをしたわけです。
石が軽く持ち上がったら「吉」、重くて上がらなかったら「凶」
それで、「重軽石」といいます。「重軽地蔵」なんてのもございます。

そういえば、神社で見たことが…」と思い出される方もあるかと思います。

この重軽占いの歴史は、大変古く、「日本書記・景行記」にも出て参ります。
景行天皇が土蜘蛛と呼んだ豪族を討ちに行くとき、この石占をします。
天皇は石を持ち上げたのではなく、大岩を蹴っ飛ばします。
すると大岩が、まるで木の葉のように空へ舞い上がった、つまり吉と出たわけです。

こちらは狂言「石神」
石神
「お豆腐狂言・茂山千五郎家」HPより

毎日遊び歩く夫に愛想を尽かした妻が離婚を決意します。
しかし夫は別れたくない。
そこで仲人が知恵を働かせて、
妻には石占を勧め夫には石神に成りすますよう伝えます。

さて、妻が「持ち上がったら別れます」と、石を持ちますがビクともしません。
石神に成りすました夫が、「あげさせてなるものか」とがんばっていたから、
という、そんなお話です。

改心するから許してね」という男の懺悔に何度も騙されながら、
仕方がないかと元のさやに納まる妻。いつの世も同じですねえ。
離婚調停の裁判所にも、この重軽石を置いてみたら、なあんてね。

「あら、ヨッと!」
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画/沢田重隆 新潮社

力石を上げるという行為は、この「重軽石」から派生したという説がございます。
主に、民俗学者さんが提唱しています。
四日市大学の高島教授は、この説をとってはおりません
「力石とは労働を人力に頼らざるを得なかった時代に、労働者の間に発生したもの」
「一人前の男としての通過儀礼、鍛錬や娯楽の要素が濃厚」と。

長野県長野市篠ノ井・金峯山長谷寺です。
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信濃国 長谷観音霊場。    「善光寺道名所図会 巻之二」より    

大夫坊覚明力石(石階の左にあり)」
赤丸のところです。
覚明の力石は今も同じところにあります。
長谷寺のHPの境内図にも、ちゃんと描かれております。

ご住職の岡澤慶澄氏によると、
「覚明という人物は謎の多い人ですが、
信濃の海野氏の生まれと伝えられています。
鎌倉初期に活躍した武将で、木曽義仲の軍師でしたが、
義仲死後、法然門下に入り念仏修行をして信濃の長谷にて康楽寺を開基しました」

庵を結んで念仏三昧に明け暮れていた覚明さん、
なかなか修業が進まず、ある日、長谷観音さまに参詣したそうです。
そのとき目についたのが、参道にあった大きな石。

これなんです。
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左の石です。ちょっと大きすぎやしませんかねえ。 画像提供/高島教授

覚明さん、
「悟りが得られるものであるなら、この石が持ち上がるに違いない」と。
しかし何度挑戦してもなかなか持ち上がらない。結局どうなったかわかりませんが、
そのときの怪力の跡が窪みとなって、今も石の下に残っているそうです。



<つづく>


※参考文献/「長野の力石」高島愼助 岩田書院 2014



プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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