金杉藤吉と清水湊
力石
巴川(ともえがわ)という川があります。
静岡市内のハイキングの山として人気のある「竜爪山」に端を発し、
麻機沼という低湿地帯で水を集めて、静岡市清水区の清水港まで流れています。
全長約18㌔。水源から河口までの高低差わずか7㍍。
この緩慢な流れがしばしば洪水を起こし、長い間人々を苦しめてきました。
昭和49年7月7日に起きた集中豪雨「七夕豪雨」ではこの川が氾濫し、
約8万戸が浸水、多くの人的被害を出しました。
しかし江戸時代には、
駿府の町や城の生活物資を運ぶ重要な川の道でもありました。
歌川広重が描いた「日本湊盡(尽くし)駿州清水湊」です。

巴川河口には、徳川家康から沿岸海運の営業独占権という特権を与えられた
42軒(文化10年には39軒)の廻船問屋が軒を連ねていました。
そのうちの「播磨屋与平」は「鈴与(株)」として,
また「天野屋」は「天野回漕店(株)」として、
今も清水の発展に寄与しています。
明治10年代の「巴川西岸」です。

「清水港開港100年史」より転載。
中央2階建ての建物が侠客・清水次郎長の家、
撮影者は次郎長の養子で、「東海遊侠伝」を書いた天田愚庵だそうです。
前置きが長くなりました。
今回は明治の力持ち力士「金杉藤吉」の登場です。
静岡県内には、関東や関西のような立派な刻字の力石はほとんどありません。
刻字どころか大半が無銘の石。
図書館で文献を漁り、寺社を軒並み尋ね歩いても、
力石はなかなか姿を見せてはくれません。
ところがあったんです。これです。

次郎長の生家の近く、巴川に架かる港橋のたもとの「西宮神社」です。
この中の一つに、「金杉藤吉」の名前が刻まれていたのです。
見つけたぞ金杉藤吉刻字石 雨宮清子
金杉藤吉(慶応3年~昭和13年)。東京都港区芝金杉川口町出身。
故・伊東明上智大学名誉教授によると、
代々、薩摩屋敷に出入りしていた仲士の元締めだったとか。
藤吉自身は、同所で海運業を営んでいたそうです。
西宮神社には力石が3個。
このうち2個に刻字がありました。
灯ろうの流るる岸辺力石(いし)三つ 雨宮清子
<つづく>
※参考文献/「伊東明教授退任・古希記念原著論文」伊東明 1988
/「清水港開港100年史」
静岡県清水港開港100年史編集室 田口英爾 1999
静岡市内のハイキングの山として人気のある「竜爪山」に端を発し、
麻機沼という低湿地帯で水を集めて、静岡市清水区の清水港まで流れています。
全長約18㌔。水源から河口までの高低差わずか7㍍。
この緩慢な流れがしばしば洪水を起こし、長い間人々を苦しめてきました。
昭和49年7月7日に起きた集中豪雨「七夕豪雨」ではこの川が氾濫し、
約8万戸が浸水、多くの人的被害を出しました。
しかし江戸時代には、
駿府の町や城の生活物資を運ぶ重要な川の道でもありました。
歌川広重が描いた「日本湊盡(尽くし)駿州清水湊」です。

巴川河口には、徳川家康から沿岸海運の営業独占権という特権を与えられた
42軒(文化10年には39軒)の廻船問屋が軒を連ねていました。
そのうちの「播磨屋与平」は「鈴与(株)」として,
また「天野屋」は「天野回漕店(株)」として、
今も清水の発展に寄与しています。
明治10年代の「巴川西岸」です。

「清水港開港100年史」より転載。
中央2階建ての建物が侠客・清水次郎長の家、
撮影者は次郎長の養子で、「東海遊侠伝」を書いた天田愚庵だそうです。
前置きが長くなりました。
今回は明治の力持ち力士「金杉藤吉」の登場です。
静岡県内には、関東や関西のような立派な刻字の力石はほとんどありません。
刻字どころか大半が無銘の石。
図書館で文献を漁り、寺社を軒並み尋ね歩いても、
力石はなかなか姿を見せてはくれません。
ところがあったんです。これです。

次郎長の生家の近く、巴川に架かる港橋のたもとの「西宮神社」です。
この中の一つに、「金杉藤吉」の名前が刻まれていたのです。
見つけたぞ金杉藤吉刻字石 雨宮清子
金杉藤吉(慶応3年~昭和13年)。東京都港区芝金杉川口町出身。
故・伊東明上智大学名誉教授によると、
代々、薩摩屋敷に出入りしていた仲士の元締めだったとか。
藤吉自身は、同所で海運業を営んでいたそうです。
西宮神社には力石が3個。
このうち2個に刻字がありました。
灯ろうの流るる岸辺力石(いし)三つ 雨宮清子
<つづく>
※参考文献/「伊東明教授退任・古希記念原著論文」伊東明 1988
/「清水港開港100年史」
静岡県清水港開港100年史編集室 田口英爾 1999
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