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男もすなる力持ちといふものを女も…

力石・力士の絵
07 /26 2014
すべてを人の力に頼っていた時代は、
米俵一俵分の重さ16貫(60㌔)を担げないと、
一人前の男として認められませんでした。

賃金も半人前、「担げねえ奴は娘の尻を追うな」と言われ、
娘たちからも疎んじられた。

だから若者たちは暇さえあれば、力石を担いで鍛錬に励んだわけです。

そしてもう一つ、この力石は神聖なものとして扱われており、
女性が触ることを禁じていました。

ところがあるんですね、女性が担いだ力石が…。
その名も「女石」
静岡県三島市梅名「右内神社」にあります。
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80×33×27㌢ 墨書き 掲示板には二十三貫(88.4㌔)とあります。
「あるとき力自慢の女性がこの石を担ぎあげた」そうです。

ここには他に、旅の若者が挑戦したが挙げられなかった「乞食石」と、
立てるだけで米一俵分を担ぐことができると実証された
「立石一俵」があります。

さて、女力持ちの話です。
これは安永5年に評判を呼んだ女力持ち、「柳川ともよ」です。

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ともよは越後国高田出身。
親の借金のカタに江戸の「柳屋」へ女郎奉公。
雪国生まれのもち肌で美人。加えて稀代の力持ち。
女力持ちの見世物でひと儲けたくらむ女郎屋主人と、
早く故郷へ帰りたいともよの思惑が一致。これが大当たりをとった。

この33年後の文化6年、
今度は「淀瀧」という力持ち女太夫が出ます。
淀瀧もまた貧しさ故の遊女奉公。
大女ながら容貌美しく「ともよ」同様、評判を呼んだ。
この淀瀧の力持ち流行が、新川などの酒問屋の若者たちを刺激しました。

そして、文政の力持ち界の全盛を迎えることとなります。

しかし、都ばかりに力持ちがいたわけではありません。
地方には名もなき力持ちがたくさんおりました
静岡市の藁科川沿いには、
四斗樽の上に米俵一俵を載せ、その上に一斗樽の醤油や酒樽をつけて背負い、
険しい峠越えをしていた「持ち子」たち(荷物運び)がいました。

女性の持ち子さんです。
静岡県天竜市(現・浜松市天竜区)。昭和38年。

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後方に天竜川が見えます。
二人の女性は、船着き場で受け取った荷物を背負い、
峠を登っているところです。
夫を亡くした女性は、男以上の荷を背負い一家を支えたといいます。

最後に「おんなすもう」をご紹介します。
江戸時代にたびたび禁止令が出された女相撲ですが、
明治になると、健全なショーとしての相撲になります。

これは「石山女大角力」一座の広告です。
この一座は昭和5年、ハワイへ興行に出かけています。
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演目は、力持ち、相撲甚句、手踊り、相撲の取り組みです。
頭を銀杏がえしに結い、シャツを着て短パンをはき、
その上からふんどしをしめ、胸高く化粧まわしをつけています。

四斗俵4俵を背負ったり、27貫の土入り俵を前歯でくわえ
左右の手に四斗俵を下げて歩いてみせたそうです。
この一座は昭和26年まで続きます。

ほとんどが東北出身。
こうした女力士たちは若い女性の憧れだったそうです
まるで宝塚歌劇団ですね。

平成21年、山形県西村山郡大江町左沢(あてらざわ)の秋祭りに、
この「女相撲甚句」が復活しました。
なにしろ「石山一座」の大スター、
西の大関「大井川しん」は、山形出身ですから。


♪ ハアーアーエー
  左沢(あてらざわ)名物を甚句に読めばヨー
  ハアー
  いっちゃな~ いっちゃなッ!
  


※資料/安永版「敵計垣衣摺」
※資料/「天竜川」 中日新聞 昭和50年
※資料/江戸から明治・大正へ「引札・繪びら 錦繪廣告」 増田太次郎
      誠文堂新光社 昭和51年
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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞