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後世に伝えていく責務が自分にあると…

「大っきいなあ!」
眼前にドーンと広がる富士山。
山頂は天を突き、左右の裾野は優美にどこまでも地平線へ伸びている。

ここは静岡県富士市神戸(ごうど)。
「富士山を神に見立てて、その神の戸口の集落なので神戸というんです」
というのは、長年放置されていた力石を自費で保存したWさん
実直な農家のご主人です。

これが放置されていたときの力石です。
img212.jpg
長年、道路に転がしてありましたが、通行にじゃまだということで、
今度は水神さんの境内に放り込まれてしまったそうです。
これを見たWさん、「これを後世に伝えていく責務が自分にあるのではないか
そう思って、保存に向けて奔走。

神戸地域は、富士の溶岩で水が出ない。集落の人たちは常に水で苦労した。
そんな水不足を解消するために遠い水源地から樋で水を引き、
集落に水をもたらしたのがWさんの祖父だったという
Wさんの「責務」という言葉には、そんな祖父から伝わる強い郷土愛が感じられました。

立派に保存された力石とWさんです。
CIMG0290.jpg
石の重さは167㌔。新たに刻字を施しました。
「力石」 「奉納 平成二十年九月吉日 神戸上町内」

「よその力石を見に行ったりね、何もわからないものだから苦労しました
「説明文は学校の先生に書いてもらいました」

「雨宮さん、これでいいんだろうかね。本当にこれでよかったんだろうかね
Wさんは私に何度もそうおっしゃるんです。
そのたびに私は胸がいっぱいになりました
「息子がね、言ってくれたんですよ。親父、心配するな、俺が守っていくからって」

力石の保存は大変です。ましてや、個人での保存は…。
でも富士市神戸の力石は、こうして水神さんに立派に保存されました。
そしてそれを守っていくことを、息子さんが約束してくれました。幸せな力石です。

      
        見晴るかす富士の麓の力石 
                          高島愼助

※先日お伝えした「両国橋・謎の石」、解明されつつあります。
  お楽しみに!!




                                                    


両国橋・謎の石 求む、情報!

古い写真集を見ていたら、一枚の写真にくぎ付けになってしまいました。
なんと、力石らしきものが写っていたのです。
img188 (2)
これは明治9年にフランス軍事顧問団の一員として来日した
ルイ・クレットマンが撮影した写真です。
クレットマンの滞在は2年。だからこれは明治9年から11年ころの写真ということになります。

石を大きくしてみますと、こんな感じです。
刻字があります。「大王石」かなあ? 真ん中の文字は「王」に見えるけど、
う~ん、ちょっと違うかも。それに橋の名前もわからない。
img188.jpg

写真の説明文はただ「隅田川に架けられた橋」としか書いてない
特徴は橋の向こうに見えている白い大きな建物
というわけで、
別の写真集を手当たり次第めくると、ありましたねえ、白い家の写った写真が…。
それがこの写真。

img209.jpg
バッチリです。
この写真は神田川が隅田川に合流する地点から写したもので、
手前の橋は神田川にかかる「柳橋」で、遠方の橋が「両国橋」。
フランス士官が撮影した橋は「両国橋」だったのです。

両国橋というのは、その昔、
武蔵国と下総国の両国に架けられたところから名づけられたそうですが、
実は貞亨3年(1686)、それまで下総国だった江東地区を含む利根川以西を
武蔵国に編成した。だからこの時点で「両国」橋ではなくなっていたとか。

それはともかく、これが「両国橋」とわかれば、石が力石の可能性大です。
なにしろ東西の橋詰は、見世物小屋が立ち並ぶ江戸随一の歓楽街です。
浮世絵師たちも盛んに描きました。

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昇亭北寿「東都両国之風景」

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葛飾北斎「冨嶽三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽見」

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歌川広重「名所江戸百景 両国花火」

そこで、もしやあの「江戸名所図会」に石が描かれているのではないかと思い立ち、
再び虫眼鏡片手に石探し開始。

「オッ、これそうじゃないの!」
bunko10_06556_0002_p0003.jpg
「茶や」の前に数個の石が並んでいます。
早速師匠の高島先生に伺ったら、あっさり、「違うと思うよ。残念!」

「残念」で済まないのが私の性分。探索は続きます。

さて、橋の名前は判明したものの、フランス士官は冒頭の写真をどこで撮影したのだろうか
と思いつつ写真集をめくると、ありました!

「浜町から両国橋を見る」のタイトルの写真が…。全く同じ構図です。
img210 (2)
「浜町」とくれば「明治一代女」。
♪浮いた浮いたァと浜町ォ河岸に 浮かれェ柳の恥ずかしや
島倉千代子さんの甘くか細い声がどこからか聞こえてきました。

この写真は撮影者も撮影年も不明。
フランス士官の写真と比べると、川岸の木も枯れどこか寂れた感じです。
ですが、「石」も橋向こうの「白い建物」も健在です。
しかし橋の名と撮影場所は判明したものの、肝心の石が解明されません

そこで力石研究の大先輩、埼玉在住の研究者S氏にSOS。
現在東京に「大王石」の刻字石は一個だけだそうで、S氏は確認のため、
この酷暑の中、江戸川区東小岩の「善養寺」まで行ってくださったそうです。

その「善養寺」の「大王石」がこれです。(写真提供/S氏)
DSCF5223.jpg
「残念ながら、違う石でした
「東京は震災・戦災に見舞われ、復興・開発で全く別の街並みになってしまいました」
「路傍に置かれた力石は奇特な方がいて移設でもしない限り、
無残な扱いをされたかもしれません」

というわけで、「浜町から見た両国橋」に写りこんだ「謎の石」、
どなたか知りませんか~!


※資料/「フランス士官が見た近代日本のあけぼの」 ルイ・クレットマン 
      (株)アイアールディー企画 2005
※資料/「古写真で見る江戸から東京へ」 世界文化社 2001
※資料/「グラブホーン・コレクション 浮世絵名品展」図録 1996



マーガレットのように…

伊豆半島・南伊豆町から、駿河湾沿いのマーガレットラインを走る。
本日の目的地は、賀茂郡南伊豆町伊浜落居「三社神社」
途中から落居への道へ。トンネルを抜けるとその先に立派な橋がありました。
しかし目に映るのは、海と山がせめぎ合うような危うい光景です。

民俗学者の野本寛一先生は、著書の中でこう述べています。
「伊浜は日本有数の長寿集落」
その長寿集落の家々が、山肌にポツンポツンと見えてきました。

三社神社です。
集落の方が案内してくれました。
CIMG0189.jpg
力石はここにあるはずです。

「伊浜では小豆何斗何升といって、小豆の量を単位として重さを決め、
4種類の力石を置いていたという。日清・日露戦争から太平洋戦争の時代には、
(力石の習俗が)盛んに行われていた」(野本寛一)

力石です。でも2個しかありません
CIMG0187.jpg
64×28×22㌢ 57×34×20㌢ きれいな楕円形ですね。

平地がほとんどない集落です。
すぐ下に家の屋根が見えます。お隣さんへ行くにも急坂を上り下りするしかありません。
それが長寿を生み出しているのかもしれません。

風と波の音のほかは何も聞こえません。
傾斜があるので、鳥居が真下に見えます。
CIMG0190.jpg

人も力石(いし)も隔絶の中に存在す 目の前はただ海と空


この町の町民憲章が素敵なんです。
ちなみにここの町の花はマーガレット、町の木はウバメガシです。

マーガレットのように、美しく清らかなまちをつくりましょう
ウバメガシのように、たくましく長寿のまちをつくりましょう
灯台の光のように、明るく夢のあるまちをつくりましょう
湯けむりのように、高く仰ぐ文化のまちをつくりましょう
山の緑のように、うるおいと活力のあるまちをつくりましょう


※資料/「石の民俗」 野本寛一 雄山閣出版 1975





男もすなる力持ちといふものを女も…

すべてを人の力に頼っていた時代は、
米俵一俵分の重さ16貫(60㌔)を担げないと、一人前の男として認められませんでした。
賃金も半人前、「担げねえ奴は娘の尻を追うな」と言われ、娘たちからも疎んじられた。
だから若者たちは暇さえあれば、力石を担いで鍛錬に励んだわけです。

そしてもう一つ、この力石は神聖なものとして扱われており、
女性が触ることを禁じていました。

ところがあるんですね、女性が担いだ力石が…。
その名も「女石」
静岡県三島市梅名「右内神社」にあります。
CIMG0591.jpg
80×33×27㌢ 墨書き 掲示板には二十三貫(88.4㌔)とあります。
「あるとき力自慢の女性がこの石を担ぎあげた」そうです。

ここには他に、旅の若者が挑戦したが挙げられなかった「乞食石」と、
立てるだけで米一俵分を担ぐことができると実証された「立石一俵」があります。

さて、女力持ちの話です。
これは安永5年に評判を呼んだ女力持ち、「柳川ともよ」です。

img195.jpg

ともよは越後国高田出身。親の借金のカタに江戸の「柳屋」へ女郎奉公。
雪国生まれのもち肌で美人。加えて稀代の力持ち。
女力持ちの見世物でひと儲けたくらむ女郎屋主人と、
早く故郷へ帰りたいともよの思惑が一致。これが大当たりをとった。

この33年後の文化6年、今度は「淀瀧」という力持ち女太夫が出ます。
淀瀧もまた貧しさ故の遊女奉公。大女ながら容貌美しく「ともよ」同様、評判を呼んだ。
この淀瀧の力持ち流行が、新川などの酒問屋の若者たちを刺激しました。

そして、文政の力持ち界の全盛を迎えることとなります。

しかし、都ばかりに力持ちがいたわけではありません。
地方には名もなき力持ちがたくさんおりました
静岡市の藁科川沿いには、
四斗樽の上に米俵一俵を載せ、その上に一斗樽の醤油や酒樽をつけて背負い、
険しい峠越えをしていた「持ち子」たち(荷物運び)がいました。

女性の持ち子さんです。
静岡県天竜市(現・浜松市天竜区)。昭和38年。
img197.jpg
後方に天竜川が見えます。
二人の女性は、船着き場で受け取った荷物を背負い、峠を登っているところです。
夫を亡くした女性は、男以上の荷を背負い一家を支えたといいます。

最後に「おんなすもう」をご紹介します。
江戸時代にたびたび禁止令が出された女相撲ですが、
明治になると、健全なショーとしての相撲になります。

これは「石山女大角力」一座の広告です。
この一座は昭和5年、ハワイへ興行に出かけています。
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演目は、力持ち、相撲甚句、手踊り、相撲の取り組みです。
頭を銀杏がえしに結い、シャツを着て短パンをはき、その上からふんどしをしめ、
胸高く化粧まわしをつけています。

四斗俵4俵を背負ったり、
27貫の土入り俵を前歯でくわえ、左右の手に四斗俵を下げて歩いてみせたそうです。
この一座は昭和26年まで続きます。
ほとんどが東北出身。
こうした女力士たちは若い女性の憧れだったそうです。まるで宝塚歌劇団ですね。

平成21年、山形県西村山郡大江町左沢(あてらざわ)の秋祭りに、
この「女相撲甚句」が復活しました。
なにしろ「石山一座」の大スター、西の大関「大井川しん」は、山形出身ですから。


♪ ハアーアーエー
  左沢(あてらざわ)名物を甚句に読めばヨー
  ハアー
  いっちゃな~ いっちゃなッ!
  




※資料/安永版「敵計垣衣摺」
※資料/「天竜川」 中日新聞 昭和50年
※資料/江戸から明治・大正へ「引札・繪びら 錦繪廣告」 増田太次郎
      誠文堂新光社 昭和51年






遺跡から出土した力石

力石が体育史学の中で取り上げられたのは、
昭和27年、当時の東京教育大学の太田義一教授が
第3回日本体育学会において発表したのが最初だといわれています。
つまり、日本の力石研究は、体育史学の分野から始まったというわけです。

その力石に、考古学の立場から取り組んでいる人がいます。
静岡県埋蔵文化財センターの岩本 貴氏です。

2005年、伊豆半島の付け根にあたる静岡県田方郡函南町の「仁田館遺跡」」から
「二十四メ」の切付(刻字)のある力石が発掘されました。
img191.jpgimg192.jpg
60.8×28.0×29.6㌢ 86㌔ 楕円形の礫

岩本氏は言う。
「尺貫法換算のほぼ24貫に近い重量があり、
切付が重量を示しているとみてほぼ間違いないこと、同種の切付はいわゆる
力石以外に想定しにくいことから本資料は、力石と断定できる

この仁田館遺跡は、狩野川支流の来光川沿いにあります
建物の年代は、推定18世紀後半から19世紀前半。
ここは、源頼朝の家臣、あの曽我十郎を討ち取った仁田忠常の地です。
今もご子孫がお住まいです。鎌倉時代から連綿と続いているなんてすごいですね。

明治前半に撮影されたと推定される仁田館の母屋
礎石の配置などから、この建物と判断された。
img190 (2)
力石は母屋の南東隅柱の基礎材に転用されていたそうです。

この仁田館遺跡からは、法華経を写経した「こけら経」(867枚)も出土しています。
500年も地下に眠っていたそうです。
img194.jpg
静岡県指定文化財。

岩本氏によると、今までに全国の遺跡から出土した切付のある力石は
民家、地元名士宅の母屋=仁田館、城郭天守(2個)、
町屋石階段基礎の4例(5個)。
建物規模、身分階層に一貫性は認めがたく、
柱を支える礎石というような建物基礎材に転用という共通点が認められたという。

研究の対象外に置かれてきた力石に目を止め、
「こうした考古学・埋蔵文化財の発掘調査が提供する情報は、
力石研究に新たな視点を与えられるのではないか」
と発言した考古学者は、岩本氏が初めてではないでしょうか。

歴史、民俗学、体育史学、考古学、
いろんな分野の方がいろんな角度から、この力石を研究してくださったなら、
力石ももっと豊かなものになるだろうと私は思います。


※仁田館遺跡出土の力石は、現在、菊川市の小笠保管庫(小笠高校内)に保管。
※資料・写真等/第17号「研究紀要」
  「力石の考古学的検討~函南町仁田館遺跡出土「力石」の紹介を兼ねて~」 
  岩本 貴  静岡県埋蔵文化財調査研究所(現・静岡県埋蔵文化財センター) 
  2011




うしろの藪(やぶ)に捨てましょか

飯田町万屋金蔵、2枚目の絵をご紹介します。
描いたのは、浮世絵師の歌川国安

国安は歌川豊国の門人で、国丸、国直とともに豊国門下の三羽烏といわれていたとか。
39歳の若さで亡くなりますが、「駱駝之図」という変わった作品も残しています。
それがこの絵。
img_425732_19343441_0.jpg

さて、本題の金蔵の錦絵にまいります。
「御蔵前八幡奉納力持ち錦絵」です。
文政7年、御蔵前八幡(台東区・蔵前神社)の境内で、
東西の大関が力持ちを披露したとき描かれたもので、これはその一部です。

ちなみに、「御蔵前八幡」は、
元禄6年、五代将軍綱吉が江戸城の鬼門除けに京都から勧請した神社です。
img057.jpg
左側の「八十八貫目の石を両手にてささげている」のが、「大関金蔵」(万屋金蔵)、
「大亀 百二十貫目」の石を足で差しているのが「関脇直吉」です。

こうした素人力士連、あまりの人気ぶりに欲が出て、ついにプロの真似事を始めます。
この錦絵が描かれた翌文政8年、東の大関・土橋久太郎と西の大関・万屋金蔵は、
それぞれ大阪と尾張へ興行に出かけます。

どこでも人気を博し大儲け。
文政8年に出た「見世物雑志」「おおいに評判よろしく大繁盛なり」と書かれ、
遊里でも「互いの力、腰と手に、抜かりは見えぬ五大力」と唄われました。

この飯田町万屋金蔵の持った石は、現在15個確認されています。
なにしろ西の大関をはった有名人です。
実はこの有名力士の力石が、わが静岡県三島市の三嶋大社にもあるのですが…。

金蔵が三嶋大社に奉納した力石がこれです。
三島市・三嶋大社 (2)
107×65×37㌢。写真/高島愼助教授。

立派な刻字もあります。

奉納 力石 元飯田町 金蔵 彦太郎 福島屋真□ 直吉

高島教授によると、
「飯田町金蔵と併刻された直吉は、飯田町直吉と思われる

ということは、歌川国安の錦絵に描かれた大関金蔵と関脇直吉の名前が、
三嶋大社の力石に刻まれているということになります

ところが、今、この力石を見ることはできません。
かつては立派な説明板と共に、宝物館の前に置いてあったそうです。
写真でお分かりのように、
いつのころか「うしろの藪(やぶ)に捨てましょか」になっちゃったんです。

三嶋大社には何度か、「どうぞ力石に日の目を…」とお願いしましたが、
未だ、叶いません。
境内に麗々しく置かれた「頼朝が腰かけた石」より、ずっと確実な歴史の証人のはず。

どうして「うしろの藪に捨てましょか」にしてしまったのか、
なぜ「いえいえそれはなりませぬ」と誰も止めなかったのか、
その真相もまた「藪の中」




渡辺崋山が描いた「飯田町万屋金蔵」

亀戸天神社の「臥龍石」に刻まれた「金蔵」のお話です。

江戸時代の文政のころは、力持ち界の全盛期で、
たくさんのプロ力士や素人力士が活躍しました。
江戸の新川、神田鎌倉河岸、神田明神下の酒問屋の若者たちは、
酒樽を持ち上げては互いに力量を競ったそうです。

そんな中から、スターが出てまいります。
その一人が、ここに登場する酒問屋万屋の奉公人金蔵です。

蘭学者で画家の渡辺崋山が描いた「力自慢 飯田町金蔵」
20170331170226e90_20171230023544900.jpg

この絵は、渡辺崋山が甥のために描いた「喜太郎絵本」の中にあります。

金蔵のような素人力士たちは深川八幡、本所羅漢寺、御蔵前八幡、
高田南蔵院などで、力持ちを奉納しました。
木戸銭をとらないことやプロにはない新鮮さで、庶民から贔屓にされます。

この人気に目を付けたのが瓦版売りと絵草子問屋です。
瓦版売りは「力士番付」を作って売り、絵草子問屋は力士の錦絵を売り出して、
商売にしました。

生き馬の目を抜くお江戸です。抜け目がありません。

さて、この絵を描いた渡辺崋山です。
幕末、崋山は政府の政策を批判して投獄、のちに切腹します。
「蛮社の獄」といわれる言論弾圧事件です。

当時、崋山に共鳴していた人は大勢いたのですが、政府から圧力がかかりだすと、
みんな保身に走り、「崋山なんて知らない」なんて言い出します。
でも最後まで崋山を助けた人がいました。
「崋山十哲」の一人、永村茜山(せんざん)です。

永村茜山が描いた「雲竜」
img114.jpg
静岡県島田市金谷「医王寺薬師堂」の天井画です。
畳八畳分あります。薬師堂・天井画ともに静岡県文化財。

崋山亡き後、茜山は流浪の旅に出ます。
金谷宿までやってきた茜山は、宿組頭の養子となってここに留まります。

この「雲竜図」は、四十一歳のときの作品で、
その二年後に茜山は病死してしまいます。

この絵に圧倒されるのは、絵のうまさだけではなく、師の崋山の怨念と
弟子の茜山の無念が塗り込められているからのように思われてなりません。


次回は「もう一つの万屋金蔵の絵」のご紹介です。


※参考資料/「見世物研究」 朝倉無声 昭和3年






大田蜀山人が書いた「臥龍石」

亀戸天神社、第3回です。

第2回で、亀戸天神社の5個の力石をお見せしました。
本日はそのうちの一つ、向かって一番左の石をご紹介します。
 (第2回の記事の写真をご参照ください)

「臥龍石」です。
CIMG0872.jpg
「臥龍石」の揮毫者は、大田蜀山人といわれています。

大田蜀山人(大田南畝・四方赤良
江戸幕府に仕えた武士にして狂歌師・戯作者です。

江戸時代、亀戸天神社の近くの北十間川沿いに「梅屋敷」というのがあって、
八代将軍吉宗も遊び、数々の錦絵に描かれた有名な「臥龍梅」がありました。
「臥龍石」は、その臥龍梅にちなんで名づけられたとされています。

亀戸天神社発行の「境内石碑案内」では、摘要として「蜀山人筆」となっていますが、
江東区発行の「江東区の文化財」では、
刻銘「臥龍石 万本店 金蔵 蜀山人書」となっています。

img189.jpg
     中島正伍氏・画         高島愼助教授・画

右の絵は「臥龍石」ですが、左の絵は蜀山人の書ではないかと言われている
東京都目黒区下目黒の大鳥神社の「驪(り)鳥石」です。

蜀山人の揮毫はいろんなところで見られます。
文化三年にできた「新梅屋敷」(現在の向島百花園)の「花屋敷」の扁額
浮世絵師・歌川豊国の墓石の「五渡亭」の筆跡も蜀山人だそうです。

後年吉原へのめりこみ、遊女を身請けして本宅の別棟に住まわせたとか。
その蜀山人の狂歌。

 世の中は色と酒とが敵(かたき)なり どふぞ敵(かたき)にめぐりあいたい
                                         


次回は、臥龍石に刻まれた力持ち力士「万屋金蔵」の登場です。


※資料/「石に挑んだ男達」 高島愼助 岩田書院 2009
※資料/「蜀山人の真否をめぐって」(一) 大鳥神社の力石」 
       中島正伍 目黒区郷土研究 1990

灯ろう流し 姉さん、サヨナラ

盆の16日は、恒例の巴川・灯ろう流しです。
毎年、友人と行っています。

今年はなかなか引き潮にならず、
灯ろうは海とは反対の川の上流へ流れ出しました。

CIMG1481.jpg

今月、姉さんが亡くなりました。
だから灯ろうに書く人が一人増えました。
カナダ在住30年。七夕の夜に旅立つなんて、ロマンチストの姉さんらしい。

CIMG1488.jpg

カナダの婦人たちにお茶、お花、着物の着付けを教えていた姉さん。
バイタリティ溢れる行動派。どこへ行っても友人がたくさんできた。
カナダ人になりきったけど、胃袋だけは日本へ回帰。だから私への要求はいつも、
「梅干し、コンブの佃煮、永谷園のお茶漬け、静岡の緑茶を送ってね

img166.jpg

15年前、カナダで姉と会った。
「日本からヨーコの妹が来た」と、姉の友人たちが歓迎してくれました。
早速「野点」
和服を着たミシェルさん、真ん中が私、後ろで琴を弾いているのが姉さん。

元看護婦のミシェルさんがヨーコの最期を看取りました。
遺言で海へ散骨。
強がりの姉さん、何年かかっても海流に乗って、
懐かしい日本へ帰り着くことでしょう。





江戸名所図会に描かれた力石

亀戸天神社、第2回目です。

ここでちょっと「江戸名所図会」について、ご説明します。

作者は斎藤月岑(幸成)=文化元年~明治11年=です。
正確に言いますと、祖父の代から書き始めて親子三代、
30数年の歳月をかけ、天保7年に上梓した絵入り地誌です。
7巻20冊に及ぶ労作で、江戸を知る一級資料です。

これに亀戸天神社の力石が描かれています。

天神社の実際の力石はこちら。
CIMG0869.jpg

ここに5個、表に1個の計6個あります。そのうち3個が有形民俗文化財です。
見学したいときは、神官さんにお願いして門扉を開けていただきます。

左から2番目の小ぶりな石は、子供持石です。刻字があります。
 「奉納 子供持石 浅草 平右衛門町 大工重藏」

江戸名所図会に描かれた亀戸天神社と力石です。
丸い点線の中にあるのが力石です。今もほぼ同じ場所にあります。


img067.jpg

絵師は長谷川雪旦。尾張藩・唐津藩の御用絵師です。
親子三代の地道な取材と雪旦の綿密な絵で構成されています。

この江戸名所図会に力石が描かれていることを発見したのは
私の師匠、高島先生です。ところがある日、私は先生が指摘した力石以外にも
まだたくさんの力石が描かれているのを見つけてしまいました。
先生、悔しがったかどうかは定かではありませんが、いい気分です。

絵を一枚ずつ虫眼鏡で丹念に見ていきまして、気が付いたら夜が明けていました。
ちなみに、角川文庫版(全6巻)を鈴木棠三氏と共に校注したのは、
奇しくも師匠と同じ四日市大学の朝倉治彦教授です。先生は昨年、他界されました。

さて、この図会の中に、作者と絵師の自画像が描かれているそうです。
目白大学・鈴木章生教授の説です。

鈴木教授が指摘した絵がこれです。
「平村平惟盛古墳」の絵です。

edo_0203.jpg

「しゃがんで熱心にスケッチしている坊主頭の男が雪旦
それを見守っているのが月岑の父の幸孝ではないか」と、
鈴木教授は推理しています。

江戸名所図会の作者、斎藤家の墓です。
台東区東上野の法善寺にあります。

CIMG0946 (2)

月岑は明治11年に亡くなりましたが、その後子孫が絶え、
今は訪れる人もなく、このようになっています。


次回につづく

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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