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立派に保存された力石

力石の保存
06 /19 2014
長年放置されていた力石が、立派に保存された例です。
場所は、静岡県富士宮市内房(うつぶさ)大晦日(おおづもり)です。

深い山のてっぺんに、大きく枝を広げたカヤの木があります。
その木の下は「芝返しの辻の広場」といい、
昔の若者たちのたまり場でした。力石はそこに放置されていました。

そのときの状態がこれです。


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それが平成25年、こんな風に保存されました。立派でしょう。

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石碑も碑文も素晴らしいです。

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これを手掛けた石屋さんが言ってました。
「長いこと石屋をやっていましたが、力石は知りませんでした。
いい勉強をさせてもらいました」
ちなみにこれ、この石屋さんが無償で手掛け奉納したんです。

 息切らせ祭りの子らが登りゆく 大カヤの木の力石まで

大晦日と書いて「おおづもり」と読みます。
古い言い方の「おおつごもり」が訛って、「おおづもり」となったわけです。
ここは駿河から甲州への塩の道でした。
そしてここには、鎌倉時代の京都の久我大納言を祀る芭蕉天神宮があります。

その神社の総代さんがこの方です。
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大正5年、大正14年生まれのMさんご夫妻です。
今は限界集落となってしまったこの大晦日を、こよなく愛するお二人です。

  杖揃え力石背に並びをり 美しきかな翁と媼

有東木の盆踊り

古典芸能
06 /18 2014
古典芸能が続きました。
が、も一つおまけに、「有東木(うとうぎ)の盆踊り」、ご紹介します。
少し気が早いですが、まあ、お許しください。
これ、そんじょそこらの盆踊りではないんです。
国指定の重要無形民俗文化財の盆踊りなんです。

静岡市の中心から車で約一時間、標高600㍍、
70余戸の「有東木(うとうぎ)集落」がその舞台です。
私も毎年参加させていただいております。
ささらやコキリコといった古い楽器を持ち、
歌と太鼓だけの素朴なリズムで踊ります。


恥ずかしながら、これ、私です。
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♪「甲州河内下山村に 後家のむすめにお花というて 
人に優れて伊達者でござる」
♪「お花子女郎は深草の露 なびく若衆もきりもない」
 =ささらおどり・じょろごのおどり。

単調なようでも独特な動きがありますから、なかなか難しいです。
リズム感のない私は、いつもワンテンポ遅れます。

男踊りと女踊りがあって、
昔は男女が交じって踊ることは許されなかったそうですが、
今は輪の中に入れていただいて、粋な男衆と一緒に踊っています。

これは「灯ろう」です。
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盆に帰ってきたご先祖様をこれに乗せ、輪の中央に入って一緒に踊ります。

池田弥三郎の本に、「盆とは生者と死者が共に踊るもの」とあります。
だれが死者かわからないように、笠や頬被りで顔を隠して踊るんだそうで…。
一番鶏が鳴くころ、一人減り二人減り…、
その減った人がつまりご先祖だったそうな。

この集落には、市指定民俗文化財の「神楽」もあります。
私はこの神楽を最初から最後まで見続けたことがあります。
同行した友人たちの「もう帰ろうよオ~」の声を無視して…。

このときは、あんまり熱心に見入ってしまい、
写真を撮るのをすっかり忘れて、大失敗をしてしまいました。

日向の七草祭りと力石

古典芸能
06 /17 2014
古典芸能が続きます。
でも力石も登場します。本日は祭りの脇役ですが…。

場所は、静岡市葵区日向(ひなた)の福田寺観音堂です。
戸数80余の小さな集落ですが、中世には南朝方の居城があり、
観音堂前の道は秋葉みちでもあり、東国へ繋がる交易ルートでもありました。

祭りの提灯が夜空に浮かびます。
旧暦1月7日。空気も凍るほどの寒さです。

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日向の「七草祭り」の始まりです。
これは「田遊び」で、静岡県指定無形民俗文化財になっています。

まず、お堂前の仮設舞台で、裃姿の舞役が神を迎える「歳徳祝」を舞います。
この方たちは昼間、藁科川で水浴潔斎をしています。

「大拍子」「申田楽」、そして養蚕との結びつきが深い「駒んず」が舞われます。
笹竹を持った舞役が円陣を組み、
その中へ駒と鳥の被り物をつけた少年が入ります。

順の舞、道化の舞のあと、いよいよ本祭りの「数え文(もん)」です。
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「数え文」を唱えながら、田んぼに見立てた太鼓に「福の種」を播きます。

「都にまします関白殿 あすらまんちょうの 御正作の福の種」
「地頭殿の あすらまんちょうの 御正作の福の種」

この「福の種」というのがいいですね。
普段はお茶やわさびの農家のおじさんが、この日ばかりは裃を着け、キリリと舞う、
この変身がもうたまらなく魅力的です。
ハレとケ、見事です。

力石です。
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鉄分を含んだテツガン石です。3個あります。

アマチュアカメラマンが石の上に乗っていたので、
「おいおい、なんて恐れ多いことを!」と優しく一喝。

この日、集落の方から「力石なら、うちにもあるよ」との貴重な情報が…。
後日、訪問したことはいうまでもありません。

崩野、楢尾、諸子沢

古典芸能
06 /16 2014
崩野(くずれの)は静岡市を流れる藁科川(わらしながわ)の支流、
崩野川右岸斜面にある集落です。
かつては大井川上流の集落と静岡市を結ぶ中継地として、
大勢の持ち子(荷物持ち)や商人たちが行き交ったところです。

崩野の白髭神社です。

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近くに八草(やくさ)というところがありますが、今は廃村です。
ここに智者山神社の別当・高橋氏という神職がいました。この人は、井川金山
の番所の役人でもありました。そして神楽に非常に熱心な人でもありました。
当時の神職たちは、伊勢から伝わった神楽に独自の創作を加えて、
それを村の若者たちに教えていたんです。

南アルプスを背後に持つ大井川左岸、安倍川、藁科川の人たちは面を担いで
険しい峠越えをして神楽の交流を深めていたのです。ですからこうした峠道は
生活道路でもあり「神楽みち」でもあったわけです。


この白髭神社でも神楽は盛んでしたが、
集落の人口が減り笛を吹く人がいなくなり舞う人も足りなくなったため、
今はテープで音を流し数人の男女で舞って、
細々と続けている状態だそうです。


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崩野の宝光寺跡から見た楢尾(ならお)集落です。
赤い丸のところが、かつての分校です。

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30数年前、私は智者山から崩野へ下り、対岸の「楢尾分校」を見ました。
その頃は山々に元気な子供の声がこだましていました。
ですが、崩野の子供たちが谷を越え山を登って通っていたこの分校、
平成5年に閉校してしまいます


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ハプニングがありました。
次の「諸子沢(もろこざわ)」へ行く途中、足止めを食らいました。
沢に落ちたトラックを引き上げるためです。幸いトラックは木にひっかかり、
運転手は軽傷。しかし作業ははかどらず、1時間30分も足止め。

作業員は3人ともブラジル人。こんな山の中でも渋滞です。
作業終了後、リーダー格が帽子を取って「アイム ソーリ」。
みんなに笑顔が戻りました。

お茶です。

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黄金色のお茶、「黄金みどり」です。
始めは水出しでいただきます。
香り高く、まろみと旨みがあります。

20年前、一本の茶樹から突然変異した珍しいお茶です。
ここ諸子沢の茶農家の青年が発見したもので、

「ふじのくに山のお茶100選」入賞茶でもあります。

梅が島新田の神楽とチキドン

古典芸能
06 /15 2014
今日は気分を変えて、神楽です。

静岡県の真ん中あたりを流れる河川の上中流域には、
神楽や田遊びといった伝統的な民俗芸能が残っています。
力石はもちろんですが、私はこういうのも好きなんです。

まずは安倍川上流の「梅が島新田神楽」。
梅が島は静岡の奥座敷、金山と温泉で有名なところです。

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初午の日、新田集落の人たちによって山の上の稲荷神社と公会堂で行われます。
伊勢神楽系の「駿河神楽」です。

特徴は湯立神事と反閇(へんばい)。反閇とは、陰陽師の安倍清明が
創作したといわれる星形の敷物「清明判」の上で、
北斗七星の動きと同じ動きをして足を踏み鳴らすことです。
地下の悪霊を封じ込めるわけです。相撲の四股を踏むのも同じです。

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面です。
中学生も舞います。初々しいです。

下の写真は、「チキドン」です。
神楽の合間に家々を訪れます。
家に福を呼び込む門付け芸です。
子供が泣きだしてしまうところは、「なまはげ」に似ています。


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この「福の神」たちを先導する鉦や太鼓が,
「チキドンドン」と聞こえるところから、「チキドン」と呼ばれているそうです。

新田集落の方々のご先祖は、梅が島の日影沢金山からの移住者です。
明るくて芸達者、なによりも人を楽しませることが大好きな方たちです。

この日はおかみさんたちが打ったお蕎麦をいただきました。
たくさんの福もいただいて、心身ともにリフレッシュできました。

戦争と若者と力石・田端神社

戦争と力石
06 /14 2014
東京都杉並区荻窪・田端神社の力石と一人の若者をご紹介します。
これが田端神社の境内にある力石群です。


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全部で11個。一番軽いもので28貫、重いもので55貫あります。

この一番重い55貫目の石を担いだのは、東京の横綱と呼ばれた
「田端の市さん」こと小林市松さん、この写真の人です。


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21歳の凛々しい若者です。

大正6年、小林市松青年は近衛歩兵第一連隊に入隊が決まりました。
第一次大戦のさなかです。
この入隊を記念して、神社で石担ぎ大会が開かれました。
このとき小林青年が担いだ石がこれです。立派な刻字があります。
「奉納 五十五貫目 大正六年十一月 当村 小林市松」

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この田端神社には、こんな絵馬も残っています。
11個の力石とともに、杉並区の有形民俗文化財になっています。

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今、神社の境内には石担ぎに興じた青年たちの熱気はどこにもなく、
ただそれぞれの名前を刻んだ力石だけが、静かに時代を見つめています。

戦争と若者と力石・万福寺

戦争と力石
06 /13 2014
昨日の続きです。
南小岩の円蔵院から、今度は東小岩の万福寺へ向かいます。
ここは第44代横綱・栃錦の菩提寺です。
小岩駅構内に、その栃錦の銅像がありました。


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銅像の台座が荷物置きにちょうどいいのか、いつも人がいます。

万福寺に着くころから、お日様が顔を出し気温が急上昇。
ブーツに入り込んだ雪が解けて、靴の中でチャプチャプしています。
万福寺のお母さんが「まずはお茶をどうぞ」と。
下町の人の温かさをお茶と一緒に飲み込みました。

若いご住職が「川野家の墓ですか?」と首を傾げる。
懸命に探してくださるものの、なかなか見つかりません。
私も墓地へ入れていただいたら、すぐ見つかった。
「さすがですね」とご住職に感心されて、少し照れました。

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力石は灯ろうの横にありました。
寸法は54×37×26。重さは不明です。
刻字がありました。
「さし石」のほかは「□□□ □□□」と判読不能。
碑がありました。

碑文
「陸軍騎兵二等卒 川野定次郎之墓 明治三十八年十二月行年二十二才」

日露戦争の戦死者です。
円蔵院の若者は二十三才、こちらは二十二才です。
力石を担げるほどの力持ちは、戦争で前途を断たれました。
力石さえ担げない支配者たちは、口先だけで戦争を勧めますから長生きします。

力石(いし)探す行脚巡礼に相似たり

戦争と若者と力石・円蔵院

戦争と力石
06 /12 2014
関東一円に大雪が降った今年二月、東京へ行きました。
戦争で亡くなった若者が残していった力石に会うためです。

江戸の中ごろ、五人組制度ができます。
時を同じくして、若者の組織が生まれます。「若者組」「若い衆組」です。
祭り、消防、海難救助などに携わり、村を支えた強力な自治組織です。
明治になると、明治新政府はこの堅固な若者の組織を戦争に利用します。
これが日露戦争から昭和の第二次大戦まで続きます。

徴兵検査の通知が来ると、村の若者たちは氏神様に集まって、
「この力石を担げたら甲種合格間違いなし」と念じつつ、一生懸命持ち上げた。
そんな記録が各地に残っています。
無事担げたら嬉しくて、石を担いだまま村の人たちに見せて歩いたそうです。
そして勇んで戦地へ赴き、多くの若者がそのまま帰ってこなかった。

大雪の日、私はそんな「若者」の一人に会いに行ったのです。
場所は東京江戸川区南小岩、円蔵院。

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総武線小岩駅に降り立つ。あたり一面銀世界です。
靴にすべり止めをつけていざ、円蔵院へ。
しかし墓地の門扉は雪に埋もれてびくともしない。
「わざわざ遠くからおいでになったのに」と、ご住職が気の毒がる。
二人してスコップで雪かきです。

ようやく門扉を開けても墓地の中はまた雪の山。その雪をかき分けて
やっと探し当てました。
目当ての力石は頭に雪を載せて、どこかあどけなく見えました。
「さし石」の刻字が現れました。さし石とは力石のことです。
立派な碑もありました。

「墓誌銘碑 故海軍二等兵曹橋本善二 昭和十九年十二月廿一日
 トラック島夏島に於て戦病死 行年二十三才 法名南□院義照頭善居士」

息子が生前愛用した力石を墓に据える…、親の悲しみと愛情が偲ばれました。

力石(いし)残し主は南の海に散る

サイの神さんと力石

力石
06 /11 2014
静岡県三島市にあります。

「村祭りにはここに幟を立てて、若い衆が力比べをした。
村へ来たばかりの新参のムコさんには、
その家の大戸口にわざわざ石を運び、力試しをさせた」
=三島市郷土資料館「石と生活」

「この力石は大正8年、
三島市に野戦重砲がきてからマグサを納めるようになり、
そのマグサを刈っての帰りに、馬坂の沢より持ち帰ったもの。
石の大きさは28貫、18貫、16貫。
休みの日や雨の日には若者が集まってきて、
力競べをした。
昔の仕事は担ぐことが主であった。
若者は力持ちになることに励み、力石で力競べをして一人前になっていった」
=小林弘邦「中村誌稿」

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昔の若者たちが集まって力比べに興じたこの場所も、
今は住宅地になっています。
中ほどの石造物は「サイの神」です。
左右に置かれた4個の石、これが力石です。

サイ(塞)の神さんは、村境や峠に置かれて、
村に悪疫が入ってこないように防いでくれる神さんです。
このサイの神も、若者たちに担がれました。
これを「代用力石」といいます。

2年前に「静岡の力石」を出版しました

書籍
06 /10 2014
由比の大門薬師堂の力石のことは、昨日ご紹介しました。
その大門薬師堂の境内での力比べを、絵に描いた方がいます。
今は亡き松永宝蔵さんです。

江戸時代、
薩埵(さった)峠の上り口で茶店を開いていた「藤屋・望嶽亭」のご主人です。
この茶店のことは、「東海道名所図会」や太田蜀山人の「改元紀行」に出てきます。
ここは左手に霊峰富士、右手に三保の松原を望む景勝地で、
「道中無双の景色也」と絶賛されたところです。

2年前、私は師匠の四日市大学教授・高島慎助先生と「静岡の力石」という
本を出版しました。その表紙に松永さんが描いた「大門薬師堂での力比べ」を使わ
せていただきました。それがこれです。

静岡の力石

すでに人々の記憶から消えてしまった「力石」の調査。
大変でした。
「なんか頭のおかしな人がきたぞ」なんて笑われたこともありました。
学芸員さんたちには「あんなマイナーなもの、よくやってるねえ」なんて言われて。


長い間、全国の若者たちに愛された力石。今は忘れられ、お堂や路傍に
放置されて…。

朝寒や声なき力石(いし)の声を聞く

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞