東京だよ おっ母さん
力石
♪さあさ 着いた 着きましたァ
観音さーまです おっ母さん
というわけで、東京・浅草です。
浅草寺・雷門です。

♪お祭りみーたいに にぎやか~ね
ホント!
日本人外国人ごっちゃごちゃ。仲見世通りは朝の通勤電車並み。
思い出すなあ、昔よく乗った中央線。女性専用車両があったっけ。
ようよう本堂にたどりつき、ふと振り向くと空にスカイツリーが浮かんでいた。
五重塔もそこそこに、私はひたすら奥へ奥へ。
大ぢょうちん大わらじ見て「熊遊碑」 雨宮清子
これが目的の「熊遊」碑です。石に「熊遊」と彫ってあります。

碑そのものが力石です。375㌔あります。
明治6年、この浅草奥山で「鬼熊」こと熊治郎が担いだ力石です。
まるで熊が石と戯れているみたいだというところから、熊が遊ぶとなったわけです。
この奥山というところは、見世物小屋が立ち並ぶ娯楽のメッカでした。
そしてそこを縄張りにしていたのが、火消し「を組」の親分、新門辰五郎です。
碑には「世話人 新門辰五郎」と刻まれています。
鬼熊です。四代目歌川広重が描きました。

=「江戸府内絵本風俗往来(下)」
熊治郎は神田鎌倉河岸・酒問屋「豊島屋本店」の奉公人です。
河岸から問屋まで酒樽を運ぶのに、それを両足に履いて運んだそうです。
その怪力ゆえに、まるで熊のようだということで、
「鬼熊」と呼ばれました。
たくさんの力石が、この「熊遊」碑を囲んでいます。
どれも立派な刻字がありますが、二つだけお目にかけます。

「大石 四ツ目 カチヤ 吉五郎持之」 84×78×23㌢
「大亀石 文(安?)政五戌歳 以下不明」 86×68×24㌢
わっ立派!さすがお江戸の力石 雨宮清子
<追記>
埼玉在住の力石の研究者の大先輩、「保之進」こと斎藤保夫様より、
ご指摘がありましたので、ここに訂正を記します。
「大亀石 文(安?)政五戌歳 以下不明」は、古い文献によるもので、
正しい刻字をご教示いただきました。正しくは、
「大亀石 文政九戌歳 柴田勝次郎□□」
観音さーまです おっ母さん
というわけで、東京・浅草です。
浅草寺・雷門です。

♪お祭りみーたいに にぎやか~ね
ホント!
日本人外国人ごっちゃごちゃ。仲見世通りは朝の通勤電車並み。
思い出すなあ、昔よく乗った中央線。女性専用車両があったっけ。
ようよう本堂にたどりつき、ふと振り向くと空にスカイツリーが浮かんでいた。
五重塔もそこそこに、私はひたすら奥へ奥へ。
大ぢょうちん大わらじ見て「熊遊碑」 雨宮清子
これが目的の「熊遊」碑です。石に「熊遊」と彫ってあります。

碑そのものが力石です。375㌔あります。
明治6年、この浅草奥山で「鬼熊」こと熊治郎が担いだ力石です。
まるで熊が石と戯れているみたいだというところから、熊が遊ぶとなったわけです。
この奥山というところは、見世物小屋が立ち並ぶ娯楽のメッカでした。
そしてそこを縄張りにしていたのが、火消し「を組」の親分、新門辰五郎です。
碑には「世話人 新門辰五郎」と刻まれています。
鬼熊です。四代目歌川広重が描きました。

=「江戸府内絵本風俗往来(下)」
熊治郎は神田鎌倉河岸・酒問屋「豊島屋本店」の奉公人です。
河岸から問屋まで酒樽を運ぶのに、それを両足に履いて運んだそうです。
その怪力ゆえに、まるで熊のようだということで、
「鬼熊」と呼ばれました。
たくさんの力石が、この「熊遊」碑を囲んでいます。
どれも立派な刻字がありますが、二つだけお目にかけます。

「大石 四ツ目 カチヤ 吉五郎持之」 84×78×23㌢
「大亀石 文(安?)政五戌歳 以下不明」 86×68×24㌢
わっ立派!さすがお江戸の力石 雨宮清子
<追記>
埼玉在住の力石の研究者の大先輩、「保之進」こと斎藤保夫様より、
ご指摘がありましたので、ここに訂正を記します。
「大亀石 文(安?)政五戌歳 以下不明」は、古い文献によるもので、
正しい刻字をご教示いただきました。正しくは、
「大亀石 文政九戌歳 柴田勝次郎□□」
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