fc2ブログ

東京だよ おっ母さん

力石
06 /30 2014
♪さあさ 着いた 着きましたァ
  観音さーまです おっ母さん

というわけで、東京・浅草です。

浅草寺・雷門です。
CIMG0798 (2)

♪お祭りみーたいに にぎやか~ね

ホント! 
日本人外国人ごっちゃごちゃ。仲見世通りは朝の通勤電車並み。
思い出すなあ、昔よく乗った中央線。女性専用車両があったっけ。

ようよう本堂にたどりつき、ふと振り向くと空にスカイツリーが浮かんでいた。
五重塔もそこそこに、私はひたすら奥へ奥へ。

大ぢょうちん大わらじ見て「熊遊碑」  雨宮清子

これが目的の「熊遊」碑です。石に「熊遊」と彫ってあります。

CIMG0806 (2)

碑そのものが力石です。375㌔あります。

明治6年、この浅草奥山で「鬼熊」こと熊治郎が担いだ力石です。
まるで熊が石と戯れているみたいだというところから、熊が遊ぶとなったわけです。
この奥山というところは、見世物小屋が立ち並ぶ娯楽のメッカでした。
そしてそこを縄張りにしていたのが、火消し「を組」の親分、新門辰五郎です。
碑には「世話人 新門辰五郎」と刻まれています。

鬼熊です。四代目歌川広重が描きました。

img055.jpg
=「江戸府内絵本風俗往来(下)」

熊治郎は神田鎌倉河岸・酒問屋「豊島屋本店」の奉公人です。
河岸から問屋まで酒樽を運ぶのに、それを両足に履いて運んだそうです。
その怪力ゆえに、まるで熊のようだということで、
「鬼熊」と呼ばれました。

たくさんの力石が、この「熊遊」碑を囲んでいます。
どれも立派な刻字がありますが、二つだけお目にかけます。
CIMG0802.jpg

「大石 四ツ目 カチヤ 吉五郎持之」 84×78×23㌢
「大亀石 文(安?)政五戌歳 以下不明」 86×68×24㌢

わっ立派!さすがお江戸の力石   雨宮清子

<追記>
埼玉在住の力石の研究者の大先輩、「保之進」こと斎藤保夫様より、
ご指摘がありましたので、ここに訂正を記します。

「大亀石 文(安?)政五戌歳 以下不明」は、古い文献によるもので、
正しい刻字をご教示いただきました。正しくは、

「大亀石 文政九戌歳 柴田勝次郎□□」
スポンサーサイト



吹上天満宮

力石
06 /29 2014
東海道本線吉原駅から岳南鉄道に乗る。
雄大な富嶽の南側を走るローカル鉄道です。

この鉄道は乗客の減少に加え、JR貨物の撤退で存続が危ぶまれていましたが、
平成25年、「岳南電車」として新たな一歩を踏み出しました。

東京の大手電鉄の払い下げ車両を2両つないだワンマン電車です。
若い運転手が真剣に電車を動かす様子を、間近に眺めつつ、
「岳南原田駅」で下車。本日の目的地、富士市今泉の吹上天満宮を目指します。

吹上天満宮です。
急坂を右へ左へ曲がり、途中の神社へ迷い込んだりしつつたどり着きました。

CIMG0291.jpg

力石です
灯ろうに挟まれるように、置かれていました。

CIMG0293 (2)

立派な碑がありました。

碑文
この石は明治のころ、町内及び近隣の若者が健康と体力増進を競い、持ち歩き、
互いの力を試した「試練の石」といわれています。

進学や技能の上達、各種免許証取得を願う人は、
この石に触れその力を授けられるよう祈願するとよいといわれるものです。
昔の人にあやかり、勉励努力の象徴として、ここにおまつりします。

                            平成六年八月吉日   吹上町内会

滅びゆくものの一瞬の美しさに浸るのも悪くはない。
でも、それでいいのだろうか。昔の人の営みを忘れ去ることは、
自分の「今」を否定することになるのではないか。
本当に、前に進むだけが「文化・文明」だろうか。

人の持つ温かさ、ゆるやかさに満ちた岳南鉄道が、
岳南電車として蘇ったように、
力石もまた、ただ路傍に捨てるのではなく、この天満宮の力石のように、
「今に生かして欲しい」と私は切実に思います。

力石と並び天下の富士を見る   雨宮清子

CIMG1008.jpg

研究者・伊東 明上智大学名誉教授

力石の研究者
06 /27 2014
平成5年に亡くなるまで、力石の研究に尽力された上智大学名誉教授、
伊東 明先生をご紹介します。
ご専門の「体育史学」の立場から、力石に光をあてられた方です。
先生の残された資料は、青森県から沖縄県にまで及びます。

伊東 明先生です。
img055 (2)
写真提供/高島愼助・四日市大学教授

「力石は、ほとんどの全国各地の神社仏寺などの境内で見かけることができる。
それでありながら、文献資料としては番附などを除いて全くないし、
規則ややり方に関するものも皆無に等しい」

という状況の中で、先生は、
「大石を高く持ちあげて群がる敵に投げつける大力無双の豪傑物語
といういわゆる伝説上の力持ちから掘り起こし、
東京都江東区の志演神社内にある寛文4(1664)年の切り付け(刻字)の石が、
刻字の力石としては、都内で最古のものであることを突き止めます。

「力石による力持ちの最盛期は江戸中期から明治初年
「演技の様式も一応決まり、神社の神賑わしの行事、花相撲の余興、
大都市では曲俵、曲持ちなどを加えて、力持ちの興行として行われるようになった」
農山漁村の若者たちによる力石は、都会の興行化とは異なり、
生活に密着して発達した」
と述べています。

東京都江東区・亀戸天神社の力石と伊東先生のスケッチです。
CIMG0869 (3)img184 (2)

写真とスケッチは違う力石です。
伊東先生は、1988年当時、亀戸天神社で4個の力石を発見していますが、
その後新たに2個見つかり、現在では6個保存されています。
写真の力石は新たに見つかった石の一つです。

そして写真の石は文化9年に、またスケッチの石は寛政8年に亀戸天神社に
奉納されたものです。そのどちらにも名前が刻まれているのは、
石の平蔵と異名をとった「八丁堀亀嶌平蔵」です。

こちらは熱海市上多賀・多賀神社の力石です。
img185 (2)
寸法は53×32×24㌢

伊東先生が、昭和54年7月に調査したときのスケッチです。
「若衆力石」と墨書があります。

ところが昨年、再調査したときには、
この力石はすでに行方が分からなくなっていました。
まだどこかにあるのではないかという淡い期待と寂しい思いを抱きながら、
神社を後にしました。

資料/上智大学研究紀要。伊東 明。1968年、1988年。

閻魔大王

代用力石
06 /26 2014
目的地は、相模灘に突き出た伊豆下田の須崎小白浜です。
須崎御用邸とは反対側の小白浜は、
海と山に挟まれた小さな漁村です。潮の香が鼻孔をくすぐります。

山の斜面にへばりつくように作られた三十三観音への石段を上りつめると、
庚申堂に出ました。
本日の目的の閻魔さまはそのお堂の中におられました。

石造り朱塗りの閻魔さまは、頭に頭巾をいただき、道服をまとい、
右手に笏を持った座像で、汗だくの私を恐ろしいお顔で迎えてくれました。

CIMG0158 (2)

人の死後、その生前の善悪を判じて賞罰を加えるという冥界の王です。
江戸中期の作だそうです。

かつてこの閻魔さまに、東京から会いに来られた方がいました。
今は亡き上智大学名誉教授の伊東 明先生です。
先生は力石の研究者でした。

これは先生が残されたこの閻魔様のスケッチです。
img183.jpg

「近くの村で力くらべをした。
その村の人は、この大きなエンマ様を一人で運べたら運んだ人に
エンマ様をくれるという。須崎の力自慢はそれなら俺がいただこうと、
この大きな重いエンマ様を軽々と抱き上げ、やがて背負ってここまで運び、
庚申堂に安置したと伝えられている」
=下田市教育委員会 力くらべのエンマ様、下田市の民話と伝説。

庚申堂に掲げられた説明板です。
CIMG0157 (2)

ジャーナリストの岩下俊三氏は、
以前のブログで「閻魔大王」を名乗られていました。
今はこの世に蘇り、本名で鋭い批評を発信しています。

あまりにもひどい日本の指導者への怒りは、
エンマの名を捨てた今もなお燃えたぎり、閻魔大王そのものであります。

炎天下エンマ大王真っ赤っ赤   雨宮清子

春日神社の力石・その2

力石の保存
06 /25 2014
昨日の続き、静岡市清水区追分3丁目の春日神社です。

追分とは、
旧東海道より清水湊へ抜ける分岐点(追い分け)のこと。
「是より志みず道」の石の道標があります。
道標は、創業300年を誇る「追分ようかん」の店の傍らにあります。
赤いのれんが目を引きます。

ここのご主人だった府川松太郎さんが「追分今昔記」(昭和60年)の中で、
春日神社と力石のことを書いています。

力蔵さんという人は鷺坂伊三郎氏の先祖の人で、
非常に力のあった人だったと伝えられています。

戦時中、春日神社境内に鷺坂力蔵片手ざしの力石があったが、
普通の人では持ち上げることができない重量の丸い石であった。
これを片手で持ち上げたというから、驚くほどの力持ちであった」

春日神社は道路建設のため、昭和46年に現在地へ移転したそうだから、
そのとき力石も持ってきたものと思われます。
府川さんが戦時中に見た力石は今ある石と同じもので、たぶんこれです。

CIMG0118.jpg
寸法は48×33×30。重さは不明。

こんなふうに誰にも顧みられず、長い間放置されていました。
鳥にフンまで落とされています。
近所のご老人がいうには、
「子供のころは二つあった。大きい方は戦時中なくなってしまった」

そのたった一つ残された石も、その後はフンだり蹴ったりの境遇でしたが、
幸運にも神社の総代さんがこの石に関心を持たれて、
平成24年、急ピッチで保存がなされました。それが昨日の写真です。

説明板も立てられました。名文です。
なんと私の名前まで入れてくださった(赤丸のところ)。

CIMG0566 (2)

初春や装い新た片手差し   雨宮清子

この「片手差し」、片手に乗せた石が蓮華の花のように見える所から、
「蓮華差し」ともいいます。
またこの「かたて」の刻字のある石は珍しく、この春日神社の「片手差し」
姫路市栗山・法圓寺の「片手留」、同峰山・広峯神社の「片手止」の刻字は、
それぞれ全国で唯一のものです。

講演で熱弁をふるっている私です。新聞記事です。
寝癖のついた髪の毛が、緊張を物語っています。

img181 (2)

さて、会場にお借りしてきた力石、どういう風に運んだかというと、
二つ折りにした毛布の上に石を転がし、毛布の四隅を4人で持って運びました。

これを一人で片手で頭上高く差し上げた鷺坂力蔵さんに、完敗です。

「片手差し」の力石

力石の保存
06 /24 2014
北斎の「絵手本」の中の「力くらべ図」
その中に力者が片手で石を挙げている絵が出てきます。
これ、「片手ざし」という技なんです。

こんな大きな石をどうやって頭上高く、しかも片手だけで挙げられるのか。
img180 (2)

ここで、石担ぎの順序からご説明します。

まずは腰を落として両手で石を持ち、わずかに持ち上げる。
蟻が殺される程度の隙間だから「あり殺し」という。
または蟻が通れるほどの隙間だから「あり通し」ともいう。

次が「ひざ取り」。腹に力を込めて膝まで挙げる。
そして今度は一呼吸置いてから一気に胸まで挙げるのです。
これを「胸取り」という。
力者は大きなおならを出すこともあるが、見物人は絶対笑ったりしません。
力持ちの集中力が削がれて、大ケガをしてしまいますから。

政治家は時に人を愚弄する野次を飛ばしますが、昔の人たちは
ちゃんと礼儀をわきまえていたのです。

さて、胸まで挙げた石をいよいよ肩へ担ぎます。
これで「力石を担いだ」ということになるのです。
さらに、その石を肩から両手で頭上高く挙げる技を「石ざし」といい、
それを今度は少しずつ片手に移動させ、
ついに片手一本で挙げた技を「片手ざし」というのです。

これを実際やった力持ちとその石をご紹介します。
CIMG0579 (2)

静岡市清水区追分の春日神社の力石です。
立派な刻字があります。

嘉永四年生 鷺坂力蔵 片手差しの力石  納 鷺坂粂吉


この石を片手で持ち上げた鷺坂力蔵さんのご子孫、今も同所にお住まいです。
2年前、学習センターで力石のお話をさせていただいたとき、
講演会場へこの石をお借りしてきたんです。
ですが最初は重くて、誰も動かすことができませんでした。

これを片手一本で頭上に挙げる、信じられないほどの力持ちです。

明日につづく

北斎の「力くらべ図」

力石・力士の絵
06 /23 2014
力石とそれを担いだ力士たちの絵が数多く残されています。
主に錦絵ですが、現代でも絵本やカルタなどに見ることができます。

ちなみに江戸時代は相撲取りのことを「関取」、
力持ちのことを「力士」と呼んでいました。

今回は江戸後期の絵師葛飾北斎の絵です。
北斎といえば、「富嶽三十六景」が浮かびます。
この名作、71歳から74歳のとき描いたというのですから、
すごいエネルギッシュなご老人ですね。

ここでご紹介するのは北斎絵手本に出てくる「力くらべ図」
これです。

img063 (2)
    永田生慈監修 「北斎絵手本」(五) 岩崎美術社 1995年

片手で石か俵を持ち上げている「力者」が描かれています。

力石を挙げる方法はいろいろありますが、
この絵は「片手ざし」「片手留め」という技法です。
足で挙げるのを「足ざし」。ほかに曲持ち、振りさしなんてのもあります。
スペインのバスク地方で今も行われている競技は、「石回し」。
大きな球形の石を使い首の周りを何回まわせるかを競います。

この「絵手本」は、
いちいち手ほどきをしていられない弟子たちのために、
絵画学習の教科書として描いたものだそうです。

北斎は幕末の嘉永2年、90歳で亡くなります。
画狂老人、為一、卍などと改号すること30回、引っ越しはなんと93回。

なにしろ絵に没頭するあまり掃除ができない。
部屋がゴミだらけになると引っ越していたとか。

この「天才奇人」の辞世の句がこれです。

人魂で行く気散じや夏野原

河津のみなさん、そりゃないよ!

力石
06 /22 2014
力石の保存に奔走している私をしり目に、逆行しちゃった現場を見てしまいました。
伊豆・賀茂郡河津町の
河津八幡神社です。

このモニュメントは、河津三郎。
仇討で有名な「曽我兄弟」のお父さんです。


CIMG0083.jpg

大変な怪力だったそうで、相撲四十八手の一つ「かわづ掛け」を
生み出した人物だそうです。
ちなみに台座に記された「河津三郎力石」は、第35代横綱双葉山の揮毫。


像の前に置かれた石は「手玉石」といい、
河津三郎がトレーニングに使った石(320㌔)といわれていますが、
四日市大学の高島先生によると、
「全国的に存在する一般人が使用した大きな部類に入る石」とか。


 力石に河津桜の散りそそぐ  高島愼助

この神社には家臣たちが鍛錬に使った力石が、10数個あったそうですが、
昭和13年の山崩れで境内に埋まったままになっているとか。


で、問題はこれなんです。

実は数年前まで、
ここには別の台座に乗せた力石が3個、保存されていたんです。
ところが、行ってみるとない!
境内にいた方が言うんです。「石段に使っちゃった」って。


CIMG0082 (2)

もうどれが力石かわかりません。
有効活用もいいけれど、せめて「力石クン」に「力石」と刻字して、
「ずっと君を忘れないよ」と示してほしかった。

力石の再利用

力石の保存
06 /21 2014
東京には約400個の力石が、民俗文化財として保存されています。
ですが、地方の力石の多くは氏神さんや路傍、
民家の片隅に放置されたままになっています。

私はそうした力石を見つけると、石にそっと手をあててみるんです。
すると石から、昔の若者たちの熱気や歓声がジンと伝わってきます。
力石には若者たちの汗や涙、喜びや悲しみがいっぱい沁み込んでいます。

力石の中には庭石に転用されたり、歌碑に化けたりしているのもあります。

これはそうした再利用の一例です。


CIMG0070.jpg

沼津市市場町の八幡神社です。
よく見ると、社殿の前、両脇に妙な石が立っています。
これ、力石なんです。

沼津駅へ向かうバスの中から見つけました。
急いでバスを降りて神社へ駆け込みました。

右の石がこれ。
CIMG0068.jpg

左の石がこれです。

CIMG0067.jpg

神社の神官さんに電話で確認したら、

「そうです。あれは力石です。
以前は境内にただ転がしてあったんですが、
こんなふうに粗末にしているのはどうかと思いまして、
社殿前にきちんと設置しました」

捨てられなくてよかったけど、あと一歩、
「これは力石です。石を撫でて力をいただいてください」
なんていう掲示板を添えてくれていたらなあ、と思いつつ、


リサイクル狛犬になった力石

力くらべの経験者

内房の力石
06 /20 2014
力くらべの経験者、お二人にお会いできました。
お一人は、昨日ご紹介した富士宮市内房大晦日にお住まいです。
それまで私がお会いした経験者は、90代の方、ただお一人でした。
ところが大晦日の方は77歳とお若い。本当に嬉しい出会いでした。

Mさんといいます。芭蕉天神宮をお守りしている方です。
CIMG0536 (800x600)

「十九貫担いだ」と語る老人の 力石(いし)つかむ指、瞬時華やぐ

ファインダー覗けば力石(いし)に手を添えて 
六十年(むそとせ)昔の青年がいる


「昔は力仕事だったから、山から石を拾ってきて鍛えていたんだ」
そのMさんのもう一つの石がこれです。


CIMG0861 (2)

芭蕉天神宮です。深い山の中に忽然と姿を現す神秘的なお社です。
Mさんがいつも手入れをしています。


CIMG0510 (2)CIMG0515 (2)

もうお一人はFさん。Mさんより2歳若い方です。
大晦日の隣の集落、行政区域は富士市になりますが昔の青年仲間です。

「昔は大カヤの広場に集会所があってね。芝居やったりして遊んだんだ。
力くらべは昭和40年ごろまでやったよ。そのころはまだ青年が20人ほどいた。
女の子もいたよ。
先輩たちから、この石を持ち上げられなくてどうするって言われてね、
がんばったよ」

「持ち上げるにはコツがあるんだ。
まず腰を落としてから石の下に手を入れる。そこからヒザへあげるんだ。
ひと呼吸おいて今度は胸まであげるんだけど、20何貫なんてのになると、
どうしても肩まではあがらなかった」


Fさんが青年時代、自宅で愛用していた力石です。
CIMG0557.jpg
寸法は48×38×34.重さは不明。

今はここを離れて町に住むFさんの友人は、
「昔は広場でみんなやっていた。でもぼくはただ見ているだけでした」

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞