すべてが戦争のためにあった時代
戦争と力石
街角でひっそりと開催されていたミニ企画展「戦後70年」。
主催者は歴史家で歌人だった長倉智恵雄氏の娘さんでした。
来客に説明中の長倉さん(真ん中)。

=静岡市浅間通り がれりあ布半
静岡空襲で長倉さんの母は焼かれ、
おんぶしていた赤ん坊の妹さんは亡くなりました。
家も焼かれたため田舎へ疎開。
その疎開先で長倉さんはグラマン機に狙われます。

ウルシ・ヒロ画
「はっきり見えたんですよ。操縦している人が…。夢中で逃げました」
今夏、私はできるだけ、先の大戦に関する展示を見て歩きました。
どの展示も戦争の悲惨さをあますところなく訴え、特に体験者の語りは
聞く者に衝撃を与え、二度と戦争はゴメンだという思いを植え付けました。
小中学校では「平和授業」をやり、その成果も会場に展示されていました。
中学校で取り組んだ「平和について学び考え表現する」作文

=静岡市民ギャラリー
血染めの千人針と摘出された小銃弾

=静岡市民ギャラリー
戦場でお腹を撃たれ、巻いていた千人針が血で染まった。
幸いにも弾を摘出して、この方は助かった。
生々しさが残るこの展示品を、小学生が一生懸命カメラに収めていた。
本当に子どもから大人まで、戦争はどんなに愚かな事か理解できたはずです。
ですが、私にはなんとなく不満が残りました。
その不満は何かを、この街角の小さな戦争展で気づかされました。
ここには被害と共に加害の事実も展示してあったからです。
長倉さんが指し示す先にあったのは、写真雑誌のグラビアです。
そこには数珠つなぎにされて日本軍に連行されていく
朝鮮人民衆の残酷な姿がありました。
そうだったんです。
今まで見た展示会の展示品のほとんどが、自分や自国への被害の実態で、
他国への加害行為を示すものはなかったのです。
こちらは7月に図書館で見つけた本です。
驚きの内容でした。初めて知りました。

「阿片帝国 日本」の著者、倉橋正直氏はいう。
「戦前の日本は世界一の麻薬生産国であった」
「阿片は戦略用に使われ、アジア諸国民に計り知れない害毒をもたらした」
※当ブログ2015.7.10参照。
展示の目的が静岡市に関するものに限るのであれば、
ヒトラー・ユーゲントのことも取り上げるべきではなかったかと私は思います。

昭和13年8月、静岡県の青年団とヒトラー・ユーゲントの交流会。
=三原山
この年の5月、静岡県出身の団長と共に日本の青少年30人がドイツへ。
3か月滞在し、「ヒトラーへの忠誠心に感動して帰国」。
8月にはドイツからヒトラー・ユーゲント(ナチス青少年団)が来日。
帰国の時は東海道線の各駅で、
静岡の青年たちは「ドイツ国万歳」を叫んで彼らを盛大に見送りました。
※当ブログ2015.1.7参照。
ここで、
日本の植民地時代を生き、32歳で自ら命を絶った韓国の詩人、
キム・ソウォル(金素月)氏の詩(1922年作)をご紹介します。
ツツジ
私を見るのが嫌になって
(あなたが去って)行く時には
黙って優しく送ってあげよう
寧辺(ヨンピョン)の薬山
ツツジ
手一杯とって(あなたが去って)行く道にばらまこう
(あなたが去って)行かれる足元
そこに置かれたその花を
やさしく踏んで行ってください
私を見るのが嫌になって
(あなたが去って)行く時には
(私は)死んでも涙は流しません
(呉善花・訳)
「ワサビと唐辛子」の著者、オ・ソンファ(呉善花)さんは、こう説明しています。
「この詩は失われた祖国への恨(ハン)を歌ったものと言われている。
”去りゆく恋人”に仮託して”去りゆく祖国”への悲しみが恨として歌われている。
テーマは、国民を見放して日本の統治下へと去り行く祖国。
この詩は決して優しさの心情を現わしたものではない。
相手を許していないからこそ、
あえて”黙って優しく送る”態度をとる。すさまじいばかりの恨。
だからこそ、死んでも涙は流しませんという表現になる」
「韓国人は恨をバネにして生きると言ってもいいだろう。
韓国では恨を溶かすという言い方がよくされるが、
これは将来の人生へ向けての願望として使われる言葉です。
恨を溶かすことで未来への希望がより強く湧いてくる。
この詩はそうした心の美学を歌ったものです」
終戦直後の日本の小学校です。

ウルシ・ヒロ画
「校舎が焼けてしまいましたので、プールが教室になりました」と長倉さん。
何もかも失ってしまったけれど、子供たちの顔はとびきり明るい。
韓国流にいうなら、
「恨を溶かして」未来への希望に向かい始めたということでしょうか。
終戦2年後にシベリアから帰還した長倉智恵雄氏は、
こんな歌も遺しています。
慰安婦律子が裾をからげて渡り来し
十里河の流れいまもきよきや
ミニ企画展「戦後70年」を見終えて出ようとしたとき、
長倉さんが一枚のチラシを差し出しながらポツンとおっしゃいました。
「私、この言葉が好きなんです。すごくいいと思います」
そのチラシです。

「静岡の戦争」~静岡市の戦争資料展~
=静岡市文化財資料館
長倉さんが「すごくいい」と言ったチラシに書かれていた言葉です。
「知っていますか?
すべてが戦争のためにあった時代を」
※参考文献・画像提供/「静岡県民衆の歴史を掘る」「戦争に協力した青年団」
肥田正巳 静岡新聞社 1996
※参考文献/「阿片帝国 日本」倉橋正直 共栄書房 2008
/「ワサビと唐辛子」呉善花 祥伝社 平成9年
/長倉智恵雄歌集「多聞」「野の葡萄」
※画像提供/ウルシ・ヒロ
主催者は歴史家で歌人だった長倉智恵雄氏の娘さんでした。
来客に説明中の長倉さん(真ん中)。

=静岡市浅間通り がれりあ布半
静岡空襲で長倉さんの母は焼かれ、
おんぶしていた赤ん坊の妹さんは亡くなりました。
家も焼かれたため田舎へ疎開。
その疎開先で長倉さんはグラマン機に狙われます。

ウルシ・ヒロ画
「はっきり見えたんですよ。操縦している人が…。夢中で逃げました」
今夏、私はできるだけ、先の大戦に関する展示を見て歩きました。
どの展示も戦争の悲惨さをあますところなく訴え、特に体験者の語りは
聞く者に衝撃を与え、二度と戦争はゴメンだという思いを植え付けました。
小中学校では「平和授業」をやり、その成果も会場に展示されていました。
中学校で取り組んだ「平和について学び考え表現する」作文

=静岡市民ギャラリー
血染めの千人針と摘出された小銃弾

=静岡市民ギャラリー
戦場でお腹を撃たれ、巻いていた千人針が血で染まった。
幸いにも弾を摘出して、この方は助かった。
生々しさが残るこの展示品を、小学生が一生懸命カメラに収めていた。
本当に子どもから大人まで、戦争はどんなに愚かな事か理解できたはずです。
ですが、私にはなんとなく不満が残りました。
その不満は何かを、この街角の小さな戦争展で気づかされました。
ここには被害と共に加害の事実も展示してあったからです。
長倉さんが指し示す先にあったのは、写真雑誌のグラビアです。
そこには数珠つなぎにされて日本軍に連行されていく
朝鮮人民衆の残酷な姿がありました。
そうだったんです。
今まで見た展示会の展示品のほとんどが、自分や自国への被害の実態で、
他国への加害行為を示すものはなかったのです。
こちらは7月に図書館で見つけた本です。
驚きの内容でした。初めて知りました。

「阿片帝国 日本」の著者、倉橋正直氏はいう。
「戦前の日本は世界一の麻薬生産国であった」
「阿片は戦略用に使われ、アジア諸国民に計り知れない害毒をもたらした」
※当ブログ2015.7.10参照。
展示の目的が静岡市に関するものに限るのであれば、
ヒトラー・ユーゲントのことも取り上げるべきではなかったかと私は思います。

昭和13年8月、静岡県の青年団とヒトラー・ユーゲントの交流会。
=三原山
この年の5月、静岡県出身の団長と共に日本の青少年30人がドイツへ。
3か月滞在し、「ヒトラーへの忠誠心に感動して帰国」。
8月にはドイツからヒトラー・ユーゲント(ナチス青少年団)が来日。
帰国の時は東海道線の各駅で、
静岡の青年たちは「ドイツ国万歳」を叫んで彼らを盛大に見送りました。
※当ブログ2015.1.7参照。
ここで、
日本の植民地時代を生き、32歳で自ら命を絶った韓国の詩人、
キム・ソウォル(金素月)氏の詩(1922年作)をご紹介します。
ツツジ
私を見るのが嫌になって
(あなたが去って)行く時には
黙って優しく送ってあげよう
寧辺(ヨンピョン)の薬山
ツツジ
手一杯とって(あなたが去って)行く道にばらまこう
(あなたが去って)行かれる足元
そこに置かれたその花を
やさしく踏んで行ってください
私を見るのが嫌になって
(あなたが去って)行く時には
(私は)死んでも涙は流しません
(呉善花・訳)
「ワサビと唐辛子」の著者、オ・ソンファ(呉善花)さんは、こう説明しています。
「この詩は失われた祖国への恨(ハン)を歌ったものと言われている。
”去りゆく恋人”に仮託して”去りゆく祖国”への悲しみが恨として歌われている。
テーマは、国民を見放して日本の統治下へと去り行く祖国。
この詩は決して優しさの心情を現わしたものではない。
相手を許していないからこそ、
あえて”黙って優しく送る”態度をとる。すさまじいばかりの恨。
だからこそ、死んでも涙は流しませんという表現になる」
「韓国人は恨をバネにして生きると言ってもいいだろう。
韓国では恨を溶かすという言い方がよくされるが、
これは将来の人生へ向けての願望として使われる言葉です。
恨を溶かすことで未来への希望がより強く湧いてくる。
この詩はそうした心の美学を歌ったものです」
終戦直後の日本の小学校です。

ウルシ・ヒロ画
「校舎が焼けてしまいましたので、プールが教室になりました」と長倉さん。
何もかも失ってしまったけれど、子供たちの顔はとびきり明るい。
韓国流にいうなら、
「恨を溶かして」未来への希望に向かい始めたということでしょうか。
終戦2年後にシベリアから帰還した長倉智恵雄氏は、
こんな歌も遺しています。
慰安婦律子が裾をからげて渡り来し
十里河の流れいまもきよきや
ミニ企画展「戦後70年」を見終えて出ようとしたとき、
長倉さんが一枚のチラシを差し出しながらポツンとおっしゃいました。
「私、この言葉が好きなんです。すごくいいと思います」
そのチラシです。

「静岡の戦争」~静岡市の戦争資料展~
=静岡市文化財資料館
長倉さんが「すごくいい」と言ったチラシに書かれていた言葉です。
「知っていますか?
すべてが戦争のためにあった時代を」
※参考文献・画像提供/「静岡県民衆の歴史を掘る」「戦争に協力した青年団」
肥田正巳 静岡新聞社 1996
※参考文献/「阿片帝国 日本」倉橋正直 共栄書房 2008
/「ワサビと唐辛子」呉善花 祥伝社 平成9年
/長倉智恵雄歌集「多聞」「野の葡萄」
※画像提供/ウルシ・ヒロ
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