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すべてが戦争のためにあった時代

戦争と力石
08 /29 2015
街角でひっそりと開催されていたミニ企画展「戦後70年」。
主催者は歴史家で歌人だった長倉智恵雄氏の娘さんでした。

来客に説明中の長倉さん(真ん中)。
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=静岡市浅間通り       がれりあ布半

静岡空襲で長倉さんの母は焼かれ、
おんぶしていた赤ん坊の妹さんは亡くなりました。
家も焼かれたため田舎へ疎開。

その疎開先で長倉さんはグラマン機に狙われます。
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ウルシ・ヒロ画

「はっきり見えたんですよ。操縦している人が…。夢中で逃げました」

今夏、私はできるだけ、先の大戦に関する展示を見て歩きました。
どの展示も戦争の悲惨さをあますところなく訴え、特に体験者の語りは
聞く者に衝撃を与え、二度と戦争はゴメンだという思いを植え付けました。
小中学校では「平和授業」をやり、その成果も会場に展示されていました。

中学校で取り組んだ「平和について学び考え表現する」作文
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=静岡市民ギャラリー

血染めの千人針と摘出された小銃弾
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=静岡市民ギャラリー

戦場でお腹を撃たれ、巻いていた千人針が血で染まった。
幸いにも弾を摘出して、この方は助かった。
生々しさが残るこの展示品を、小学生が一生懸命カメラに収めていた。

本当に子どもから大人まで、戦争はどんなに愚かな事か理解できたはずです。
ですが、私にはなんとなく不満が残りました。
その不満は何かを、この街角の小さな戦争展で気づかされました。
ここには被害と共に加害の事実も展示してあったからです。

長倉さんが指し示す先にあったのは、写真雑誌のグラビアです。
そこには数珠つなぎにされて日本軍に連行されていく
朝鮮人民衆の残酷な姿がありました。

そうだったんです。
今まで見た展示会の展示品のほとんどが、自分や自国への被害の実態で、
他国への加害行為を示すものはなかったのです。

こちらは7月に図書館で見つけた本です。
驚きの内容でした。初めて知りました
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「阿片帝国 日本」の著者、倉橋正直氏はいう。
「戦前の日本は世界一の麻薬生産国であった」
「阿片は戦略用に使われ、アジア諸国民に計り知れない害毒をもたらした」
 ※当ブログ2015.7.10参照。

展示の目的が静岡市に関するものに限るのであれば、
ヒトラー・ユーゲントのことも取り上げるべきではなかったかと私は思います。

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昭和13年8月、静岡県の青年団とヒトラー・ユーゲントの交流会。
=三原山

この年の5月、静岡県出身の団長と共に日本の青少年30人がドイツへ。
3か月滞在し、「ヒトラーへの忠誠心に感動して帰国」。
8月にはドイツからヒトラー・ユーゲント(ナチス青少年団)が来日。
帰国の時は東海道線の各駅で、
静岡の青年たちは「ドイツ国万歳」を叫んで彼らを盛大に見送りました。
 ※当ブログ2015.1.7参照。

ここで
日本の植民地時代を生き、32歳で自ら命を絶った韓国の詩人、
キム・ソウォル(金素月)氏の詩(1922年作)をご紹介します。

ツツジ  

私を見るのが嫌になって
(あなたが去って)行く時には
黙って優しく送ってあげよう

寧辺(ヨンピョン)の薬山
ツツジ
手一杯とって(あなたが去って)行く道にばらまこう

(あなたが去って)行かれる足元
そこに置かれたその花を
やさしく踏んで行ってください

私を見るのが嫌になって
(あなたが去って)行く時には
(私は)死んでも涙は流しません

                       (呉善花・訳)

「ワサビと唐辛子」の著者、オ・ソンファ(呉善花)さんは、こう説明しています。

「この詩は失われた祖国への(ハン)を歌ったものと言われている。
”去りゆく恋人”に仮託して”去りゆく祖国”への悲しみが恨として歌われている。
テーマは、国民を見放して日本の統治下へと去り行く祖国。
この詩は決して優しさの心情を現わしたものではない。
相手を許していないからこそ
あえて”黙って優しく送る”態度をとる。すさまじいばかりの恨。
だからこそ、死んでも涙は流しませんという表現になる」

「韓国人は恨をバネにして生きると言ってもいいだろう。
韓国では恨を溶かすという言い方がよくされるが、
これは将来の人生へ向けての願望として使われる言葉です。
恨を溶かすことで未来への希望がより強く湧いてくる。
この詩はそうした心の美学を歌ったものです」

終戦直後の日本の小学校です。
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ウルシ・ヒロ画

「校舎が焼けてしまいましたので、プールが教室になりました」と長倉さん。

何もかも失ってしまったけれど、子供たちの顔はとびきり明るい
韓国流にいうなら、
「恨を溶かして」未来への希望に向かい始めたということでしょうか。

終戦2年後にシベリアから帰還した長倉智恵雄氏は、
こんな歌も遺しています。

     慰安婦律子が裾をからげて渡り来し
             十里河の流れいまもきよきや


ミニ企画展「戦後70年」を見終えて出ようとしたとき、
長倉さんが一枚のチラシを差し出しながらポツンとおっしゃいました。

「私、この言葉が好きなんです。すごくいいと思います」

そのチラシです。
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「静岡の戦争」~静岡市の戦争資料展~
=静岡市文化財資料館

長倉さんが「すごくいい」と言ったチラシに書かれていた言葉です。

   
   「知っていますか? 
   すべてが戦争のためにあった時代を」





※参考文献・画像提供/「静岡県民衆の歴史を掘る」「戦争に協力した青年団」
               肥田正巳 静岡新聞社 1996
※参考文献/「阿片帝国 日本」倉橋正直 共栄書房 2008
        /「ワサビと唐辛子」呉善花 祥伝社 平成9年
         /長倉智恵雄歌集「多聞」「野の葡萄」
※画像提供/ウルシ・ヒロ
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街角の小さな戦争展

戦争と力石
08 /27 2015
ちょっと寂しい商店街の交差点。その十字路の角にそれはありました。
ミニ企画展「戦後70年」。

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=静岡市浅間通り 「がれりあ布半」

主催は「文化の小さな窓」
手作りの、しかし思いの濃厚な展示品がところ狭しと並べてあります。

入るとすぐこれが目に入りました。
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その下に憲法九条の条文が大きくはり出してあります。

年配の上品なご婦人が一人、来客に丁寧に説明をしています。
どうやらこの方が主催者らしい。
テーブルには戦時中の新聞、旧制静岡高校の生徒の遺稿集、
戦場からの便りなど貴重なものが置かれています。


旧制静岡高校の出身者には、
元首相の中曽根康弘氏、作家の故・吉行淳之介氏がいます。
エコノミストの竹内宏氏もここの出身。
今は「次郎長翁を知る会」の最高顧問として、
故郷・清水でユニークな活動をされています。

展示品の夥しい雑誌や書籍は初めて見るものばかり。タダ者ではない気配です。

奥へ行くと、温かい色づかいの絵が何枚も飾られていました。

「静岡の空襲
長倉智恵雄 留守家族の記録 ウルシ・ヒロ画」

「長倉智恵雄さん、この方のお名前、聞いたことがあります」
そう言ったら、ご婦人がにっこりして、
「父なんです。私、娘なんです」

長倉智恵雄氏は、
「戦国大名 駿河今川氏の研究」の著作を持つ歴史家で、
古城研究者としても知られた方でした。
そして著名な歌人でもありました。

「留守家族の記録」は、出征中の長倉さんの家族を描いた実話でした。

「逃げるなと蹴られる」
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「空襲で逃げようとした女性を警防団のおじさんが、
”逃げていくのか、お前は非国民だ”と言って蹴ったんです」


この絵を見て、アレは本当だったんだと思いました。
アレとは、コレのことなんです。

表紙に焼夷弾が描かれています。
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この小冊子は、私もちょっぴり関わっている静岡市主催の戦争資料展、
「静岡の戦争展」(静岡市文化財資料館)に展示されているものなんです。
この展示会は今までお伝えしてきた「戦争と静岡展」とは別のものです。
ですが、資料提供など相互に関わりを持った企画展でもあります。

この「時局防空必携」は、
今の町内会にあたる「隣組」で住民に配った町内の決まりごとです。
資料館を訪れた私に、館長さんがおっしゃいました。

「なぜあんなにおおぜい焼け死んだのか、なぜ逃げなかったのか、
ずっと不思議だったんですよ。でもこれを読んでわかったんです」

「命よりまず消火。防火第一主義だったんです。
防空壕は単なる待避所だから、
火事になったら飛び出して消火にあたれ。逃げるなんてとんでもない、と」

こんなことも書かれていました。

弾にはめったにあたらない。
爆弾・焼夷弾にあたって死傷する者は極めて少ない
「焼夷弾も心がけと準備次第で、容易に火災にならず消し止め得る」

どこかで聞いたようなセリフです。
そう、福島原発の核爆発で多量の放射性物質が日本中に拡散したとき、
確か政府や学者が似たようなことを言っていました。

「直ちに健康に影響を及ぼさない」とか、
「放射能の影響はニコニコ笑っている人にはきません。
クヨクヨしている人にはきます」
って。

「弾にはめったにあたらない」「ニコニコしている人にはきません」
素人の一般人が言ったんではありませんよ。
どちらも、人の上に立つ影響力の極めて強い人が言ったんです。
よくこんなふうに断言できるものですね。ひどいもんです。

焼夷弾や放射能より怖いのは、こうした「エライ人」の発言です。

「空襲で焼かれた母」
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「母も背中の赤ん坊、私の妹ですがひどいやけどで…。
母の両手から焼けた手の皮がズルズルとぶら下がっていました」

「母は体をひどく焼かれて、妹にお乳を飲ませることが出来なくなって…。
ヤギのお乳をもらってきて飲ませたんですが、妹は死んでしまいました」


父親の長倉氏は出征中。
終戦後はシベリア抑留。その2年後、ふいに家族の元へ帰ってきたそうです。

「栄養失調で顔がぶくぶくにむくんでいて、
最初、誰だかわからなかったんです」


その長倉氏の短歌が残っています。

幼子を死なせしことを詫びていう
            妻の双手も焼けただれたり


<もう一回つづく>

第五福竜丸

戦争と力石
08 /25 2015
力石ブログが「戦争一色」になってしまいましたが、
今また妙な雰囲気になりつつあり、戦後70年の節目の年でもありましたので、
私なりに、ぜひともとりあげてみたかったのです。
「戦争」関係はあと一回で終了の予定です。

「戦争と静岡展」には3日間通いました。
静岡市旧庁舎1階の静岡市民ギャラリーを全室使用。
これは静岡大空襲に遭ったものの奇跡的に残った建物です。

駿府城跡地に建つ県庁から見た旧庁舎。左は新庁舎。
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 =昭和9年竣工。国登録有形文化財

1階がギャラリー、2階以上は市議会会議場。
建物の特徴は、テラコッタを多用した外壁とドームです。 

この展示会は、
「静岡市の空襲」「戦時下の市民生活」「放射能」の3部からなり、
このほか、市民から寄せられた戦争に関する作品の創作広場
語りや国策紙芝居や演劇を上演するイベント広場で構成され、
子供から高齢者まで容易に理解できる内容になっていました。

現在世界で勃発している紛争や水爆実験の被害者・マーシャル諸島の
人たちや原発事故にも言及していました。

今回は「放射能被害と人間」の展示室をご紹介していきます。
ここでは主に、昭和29年3月、太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁で、
アメリカが行った水爆実験によって被曝した焼津市の
「第五福竜丸」に関する展示がされていました。

私がよく訪れるブログ
「緑と青の風に乗って」のブログ主のkappaさんは、
東京・夢の島にある「第五福竜丸展示館」によく足を運んでいますが、
私は被曝した船の故郷の隣りに住んでいながら、まだ一度も。

部屋の入口でゴジラがお出迎えです。
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第五福竜丸(30分の1)の模型です。大石又七氏製作。
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ビキニでの被曝船は、八百数十隻もあったそうです。
なぜ第五福竜丸だけが騒がれたんですか?」の質問に、
係りの方は、「焼津の人が強硬に抗議したから」と。
真偽はわかりませんが、他の船の方々はその後どうなったんでしょうか。

私が一番驚いたのは、この第五福竜丸は被曝後、
東京水産大学の練習船になっていたことです。
死の灰が積もった船ですが、本当に大丈夫だったんでしょうか。
10年後、廃船となり夢の島に捨てられますが、
保存運動のおかげで、被曝の証人として現在に至っているとのこと。

死の灰、ガイガーカウンター、検査用のマグロのウロコなど。
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すべて本物だそうです。こわごわ覗きました。

水爆実験の放射能汚染でマグロが売れなくなりました。
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魚検査済みのポスター。

福島原発事故後の放射能の食品汚染と重なります。
kappaさんの話では、汚染マグロは東京のどこかに埋められているとか。
なにしろ被曝船は八百数十隻だったそうですから、かなりの量です。


被曝して亡くなった無線長の久保山愛吉さん。
奥様と幼いお子さんたちを残して…。なんとも痛ましい。
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その後、乗組員の多くは、ガンなどを発症し次々と倒れていきました。

これにも驚きました。
当時の読売新聞の記事です。
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「邦人漁夫 ビキニ原爆実験に遭遇]
「23名が原子病」
「死の灰つけ遊び回る」


主催者が付けた説明には、同船の乗組員の談話としてこうありました。

「漁から帰っても船の上での作業があり、
すぐに下船はできないから遊び回るなんてことはなかった。
邦人漁夫って、漁師に対する蔑視・偏見を感じます」

たとえ遊び回ったとしても、長い遠洋漁業から帰れば当然のこと。
でも彼らはあくまでも、アメリカの水爆実験の被害者です。
死の灰なんか好き好んでくっつけたわけではありませんよ。
それを「死の灰つけ遊び回る」だなんて…。

記者は、
「水爆実験場にいた船のほうが悪い」
とでも言いたかったのでしょうか。

<つづく>

パンプキン爆弾

戦争と力石
08 /23 2015
今年1月、貴重な戦争遺跡が一つ消えました。
場所は静岡県島田市の大井川に突き出た牛尾山の、
その先端にあった「海軍技術研究所・牛尾実験場」です。

何を研究していたかというと、マグネトロンによる電磁波発射装置、
俗にいう殺人光線兵器=Z研究です。
特殊な光線を敵機に照射して、パイロットのみ殺してしまおうという装置です。

この研究のために,
物理、化学、電子、生物などの日本の最高頭脳がここに集結。

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後のノーベル賞受賞者、湯川秀樹氏や朝永振一郎氏の顔も見えます。
=庁舎玄関裏

高松宮(右)もここへ視察に訪れました。
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=1945年4月20日

うさぎでは見事に成功したものの、実用に至らず終戦。
ここでの実験資料はのちにアメリカへ渡されたとも言われていますが、
今、家庭で使われている電子レンジは、
この「殺人光線」から生まれたものです。

日本の頭脳が集結したこの牛尾実験場は、
大井川の川幅拡張工事のため、今年1月、跡形もなく消滅しました。

私がこの実験場のことを知ったのは、
21年前、偶然目にしたある一冊の本からでした。
島田市にある島田学園高校の3人の教師と生徒たちが記録した
「明日までつづく物語」です。

本にあったのは、実験場のことだけではありませんでした。

こんな田舎のぼくたちの町に戦争があったこと。
そして、ここに落とされたのは、かぼちゃ型のパンプキン爆弾で、
50名もの町民が犠牲になったこと。

この爆弾は長崎に投下されたプルトニウム爆弾と同型の模擬爆弾で、
終戦間近の7月26日、米軍が原爆投下の訓練のために落としたことを知り、
教師も生徒も愕然となったという。

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爆心地の普門院で被災者の話を聞く高校生たち。
高校生による聞き取り調査は1989年から3年間続けられた。

大きな戦争の中の小さな出来事として人々から忘れられ、
ひっそりと暮らす被災者たちを探し出して、聞き取り調査を開始。
まだ体に爆弾の破片が刺さったままの被災者たちは、
一気に胸の内を吐きだし、口々に生徒たちにこう言った。


「今日中にはとても話し切れない。明日までかかっちゃうよ」

その高校の生徒たちの演劇が、
この夏、「戦争と静岡展」で上演されたのです。
高校の名称は島田樟誠高校と変わっていましたが、
劇は島田学園高校時代の卒業生が書いた「『聖戦』の果てに」でした。

上演前、執筆者のお一人で、
21年前に私の取材に応じてくださった土居先生にお会いしました。
先生は定年まで勤め上げ、お母様の最後を看取ったとのこと。
かつて生徒たちと手がけた「仕事」が、
今なおこうして続いていることが嬉しくてたまらない様子。

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召集令状がきて、一家の主が出征。=島田樟誠高校・演劇部

椅子席の前に用意されたシートに座って、熱心に演劇を見る子供たち。
演じる側も見る側もみんな平成生まれです。
演じる内容は、70年も前の戦争のお話。思えば不思議な光景です。

父は戦地で行方不明に、母は島田に落とされたパンプキン爆弾で死亡。
孤児になった少年が役所へ助けを求めたものの、役人は冷たく言い放つ。
「君のような子供はたくさんいる。いちいち構ってはいられない

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出演者全員でフィナーレ。

終演後、司会者の「何かご感想を」の声に立ちあがったのは、
私の隣りにいた外国の方。4人連れのお一人です。
震えるようなか細い声で、耳の悪い私にはあまり聞き取れなかったものの、
高校生たちの顔がみるみる紅潮、彼らは女性の言葉に何度も頷いています。
この外国の方は、
イスラム教徒の女性が被るヒジャブで髪を覆っていましたが、
その横顔にツーッと涙が流れるのが見えました。

涙をぬぐいながら話す女性を見て、高校生たちの顔がより真剣になりました。

私は日本の高校生が伝えた戦争と、
それをしっかり受け止めてくれたイスラム圏の女性の姿に感動し、
その涙の意味を噛みしめながら、会場を後にしました。

<つづく>

※画像提供/「明日までつづく物語」小屋正文・小林大治郎・土居和江
      平和文化 1992

私の「戦争体験」

戦争と力石
08 /21 2015
私の「戦争体験」といっても、直接の体験があるわけではありません。
みんな母を通しての「二次的体験」です。
ですが、母の話から想像が膨らみ、私の脳裏にはより強く残されています。
そんな話を二つ三つ…。

「B29が炎をあげながら落ちて行った。怖かったよオ」

このときのB29は村の上空を横切り、山の向うの町へ落ちた。
落ちたのは、アメリカ空軍爆撃機・ニックネーム「WERE  WOLFE]。
「B29のアメリカ兵を竹やりでみんな突き殺したんだよ」
母は見てきたようなことを言ったが、それは違う。

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アメリカ空軍「WERE WOLFE」の搭乗員たち

この機はサイパンから東京へ向かう途中、
富士山上空で鈴木正一伍長の戦闘機に撃墜され空中爆発。
搭乗員11人のうち7人死亡。生存の4人は捕虜として東京へ送られたが、
その4人も病気や東京大空襲で死亡した。
墜落死した7人は地元の共同墓地に埋葬され、近年、子孫が墓参にきたという。

このB29墜落の話を母は何度も繰返した。
次第にそれが私自身の体験のようになっていき、私は高校生のころまで、
何度も、真っ赤に燃える戦闘機の夢にうなされて飛び起きた。

母はこんな話もした。

役場から茅を3把供出せよとの命令があった。
でも町からきた母には鎌がない。茅を刈る山もない
周囲はみんな農家だったが、持ち山で刈らせてくれなかった。
仕方なく誰の山でもない遠くまで出かけたが、そういう山に茅はあまりない。
なんとか刈って背に担いだころには、日もとっぷり暮れて漆黒の闇

父は出征中で、家には子供しかいない。
みんなお腹をすかせているだろう、
幼い弟妹たちを預った8歳の長女は、さぞ困っているだろうと、
母は暗闇の中を懸命に走った。


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母の留守を守った小学2年生の長女と1年生の長男。昭和19年。

家の厚手の木の引き戸に、ピンポン玉ほどの穴が開いていた。
戦時中、村の男が小刀で開けた穴だと母が言った。
母はまだ20代。町から来た美しい女性だった。
夫のいない留守に手籠めにしようとして、鍵をはずすためにあけた穴だった。


「こちら側で震えながら、竹刀を握って身構えていたんだよ。
入ってきたら、叩き殺してでも子供を守らなくちゃって」


戦後数年立っても、村の学校は戦前が抜けなかったとみえて、
元日には学校へ集まり、
君が代を歌い天皇陛下万歳を三唱した。
母は神主だった祖父の緋の衣をほどき、それを袴に仕立て直して私にはかせ、
元旦の祝賀へ送り出した。
「先生みたい」とみんながはやし立てたが、私は背をぴんと伸ばして立っていた。

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小学1年生の私。黄組。担任はもとこ先生。

上の赤丸の中の男の子は、私の初恋の人、とおるクン。

7歳で恋に盲目になりました。
休み時間になると、とおるクンの椅子に二人で腰かけて過ごしました。
とにかく体を密着させていたかったんですね。
あるとき、視線を感じてふと見ると、もとこ先生と隣りの担任が私の方を見て、
なにやらヒソヒソ。
汚いものでも見るような、その視線のいやらしかったこと。
冷や水を浴びせられたような気持ちになりました。

「これは悪いことなんだ」
そう思った途端、恋心がスーッと消えました。
それからまもなく、
とおるクンは遠くへ引っ越していき、幼い恋は終わりました。

ですが、それ以来、人を好きになるたびに、
汚いものでも見るようなあのときの先生の目がブレーキになってしまい、
その後は謹厳実直、堅いばかりのトホホの人生とあいなりました。

代わりに詩を書くことを覚えました。
いつも枕元にノートと鉛筆を置いて寝てました。
そんな子供時代の私の詩です。


かげ

わたしは道をあるいていた
たいようの光がわたしの背中にむかって
てっていた

前をみると
せいたかのっぽのように
わたしの足からかげがはえていた

ふもうとしてもなかなかふめない
かげはずんずんとぶ
わたしがとべばいっしょになって前をとぶ」


戦後になっても上級生から、
赤い蟻はアメリカ兵だから殺せ」と言われたり、
物乞いの老夫婦が戸口に立ち、盲目の妻が手にした竹で
拍子をとりながら歌う「芸者ワルツ」を立ち聞きしたり…。
そんな戦後の風景の中にいた私です。

とおるクンは今、どうしているんだろう。

<つづく>

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞