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「孤闘」を読んで

書籍
11 /19 2023
「孤闘」という本を読みました。

著者はテレビ朝日社員で弁護士の西脇亨輔氏。

副題は「三浦瑠麗裁判1345日」です。

西脇さんが訴えた相手は「国際政治学者」を名乗り、
テレビ朝日の看板番組、田原総一郎氏が司会を務める「朝まで生テレビ」に
出ずっぱりだった三浦瑠麗氏で、誰もが知っている有名人です。

だが、この「国際政治学者」の女性は、
社員にも知られていなかった西脇氏の夫婦間の問題をツイッターで拡散。

西脇氏はその反響の大きさと誹謗中傷に耐え切れず、
三浦氏を「プライバシーの侵害」「名誉棄損」で訴えた。

相手は自分が勤務するテレビ局の、しかも看板番組の人気出演者です。
そこには当然、葛藤はあったが、著者は本の末尾にこう書いている。

「闘うことが私の存在証明だった」

三浦瑠麗氏は、マスコミに持てはやされた売れっ子だけではなく、
強力な政治家を後ろ盾に、政府の複数の重要委員会に委員として
名を連ねるという「マルチ学者」で、まさに怖いものなしの、
ある種、彼女自身が「権力者」そのものという人物だった。


その「権力者」としての高慢な意識は、彼女の訴状の中に西脇氏を、
「テレビ朝日の一会社員」「原告はサラリーマンにすぎない者」
と、たびたび卑下していることからも見て取れる。


さらに時代の寵児を彷彿させたのが、彼女の援護者たちの名前だった。

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弁護は元大阪府知事だった橋下徹氏の法律事務所の弁護士が担当。
「池上彰氏、津田大介氏、古市憲寿氏、田原総一郎氏。綺羅星のような
著名人の名前が陳述書に並ぶ」=「孤闘」

控訴審では著名な憲法学者で東京都立大学教授の木村草太氏が登場した。

これに対して、西脇氏は弁護士を頼まず本人訴訟で裁判に臨んだ。

木村草太氏の意見書を丹念に読み、彼の意見書にあった参考文献も精査、
そして木村氏の矛盾点を次々、論破していく。

このあたりは読んでいて胸がすく。
「著名な学者」という形容詞に惑わされてはいけないという教訓にもなった。

西脇氏が捨て身でこの裁判を決意した理由の一つ、
「インターネットや表現の場での「言った者勝ち」「目立った者勝ち」
という風潮に一矢報いたいという気持ちだった」に、私は大いに賛同した。

金稼ぎと目立ちたいだけの、
愚かで過激な映像や言葉が溢れるネット世界に、うんざりしていましたから。

さて、この裁判はどうなったかというと、
三浦氏は裁判所からの和解勧告にも応じず、執拗に控訴を繰り返したが、
今年2023年3月22日、最高裁で棄却され敗訴が確定した。

世間から無謀な闘いと言われ、どんなに嗤われようとも西脇氏は闘い抜き、
「著名人」「権力者」に、見事に勝ったのだ。


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「孤闘」西脇亨輔 幻冬社 2023

「たとえ名もない一介のサラリーマンに過ぎなくても、他人が名誉を棄損したり
プライバシーを侵害することは、許されないことではないのか」

そういう西脇氏の心の叫びが日の目を見た瞬間だった。

昔、テレビに登場したばかりのころの三浦瑠麗氏を見たことがあったが、
私には「言葉の羅列ばかりで主旨がない人」という印象しかなかった。
この「主旨がない」ということについて、西脇氏もこんなことを書いていた。
「訴訟では三浦氏の論点がどんどんズレるので大変だった」

テレビでの発言も何を言わんとしているのか私にはサッパリだったので、
以来、全く興味を持たないままできたが、この本を読んで改めて思った。

なんで他人の離婚に首を突っ込むのか。
触れてほしくない「離婚」という個人的なできごとを、
第三者がツイッターで拡散する必要がどこにあるというんだろうか。
これが彼女が名乗る「国際政治学」と、どう関係があると言うの?


西脇氏の元・妻は売れっ子の記者だという。
著者は本の中でこう書いている。

「ある日、家に帰ったら彼女の荷物が全部なくなっていた」
「妻が某テレビ局員と同棲していることを週刊誌の報道で初めて知った」


同じつらさを経験した私には、西脇氏の驚愕と戸惑いがよくわかります。

同時に元・妻はなぜ、
「ほかに好きな人が出来ました」と頭を下げなかったのかと思った。
それが夫婦として過ごした相手への最低のマナーではないのか、と。


あ、これも第三者からの余計なおせっかいですね。すみません。

さて、西脇氏は裁判に勝利し、三浦氏との闘いは終わった。

仕事をこなし、妻を寝取られた哀れな男という恥辱を受けつつ、
著名人を相手の1345日、3年8カ月という長きにわたった孤独な闘い。

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妻と暮らしたマイホームを売却するとき、内覧に訪れた若い夫婦がいた。
連れてきた4歳ぐらいの女の子が「ここ、私の部屋!」と言い、
部屋を駆け回っている。
「ここがいいの?」とお父さんとお母さんが笑っている。

その家族を見て西脇氏は思った。
「ああ本当だったら自分たちがこの部屋で、
こんな話をしているはずだったのに」


3年8カ月の闘いの賠償金はたったの「35万9219円」

「色彩のない世界で、控訴審の書類を作りながらいつも聴いていたのは、
エレファントカシマシの「悲しみの果て」だったという西脇氏。

気が付けば52歳になっていた。

「自分が壊れないために「自分」が「自分」のままであるためには、
この裁判はやるしかなかった」西脇氏は、
今年、この裁判記録を「孤闘」として出版した。

そしてその印税すべてを「犯罪被害救援基金」の団体に寄付した。

で、西脇氏に敗訴した三浦瑠麗氏はというと、最近、肩書が、
「国際政治学者」から「エッセイスト」に変わっているのだそうです。





ーーーギョエーッ!!

本日、女子高生の制服のスカートをはいたジイサンを見てしまいました。
超ミニのスカートから筋張った生足がニョキッ。

「心は女の子です」って顔でいましたが、もう、世も末です。


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目からウロコのかぐや姫

書籍
10 /26 2023
「竹取物語と中将姫伝説」(梅澤恵美子 三一書房)という本を読んだ。
1998年発行だから、今から25年前の本ということになります。


目からウロコでした。

著者はこう語っています。
この物語は、藤原一族に抹殺されたヤマトの豪族たちの末裔が、
おとぎ話に託して藤原氏の悪行を暴き、世に知らしめたものだ、と。


「竹採公園の竹採塚」 ここはかぐや姫伝説発祥の地とか。
右は「富士山かぐや姫ミュージアム」(富士市伝法)で購入した一筆箋。
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静岡県富士市中比奈

私も単なるおとぎ話ではないとは思っていたものの、
それ以上、関心を持たずにきてしまいました。


ただ、かぐや姫誕生の「竹」について、考えたことはあります。

日本の代表的な竹は、「孟宗竹」「真竹」「ハチク」の3種類だそうですが、
かぐや姫誕生の竹はこのうちのどれだったのか、考えたんです。

「竹取物語」の成立は平安前期。
「孟宗竹」が日本にもたらされたのは江戸初期ということですから、
これではない。

三寸(約9cm)というかぐや姫のサイズから考えると、
直径3~10㎝の「ハチク」では小さすぎる。
残る「真竹」は、5~15㎝ということですから、たぶんこれだろうと。

真竹を使った自在鉤
節の輪が二本あります。孟宗竹は1本。
山村の「かあさんの店」にそばを食べに行ったとき、購入したもの。
地元のご老人作製。竹製のうぐいす笛も買いました。
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さらに、姫を見つけた「竹取の翁」の職業が竹細工の職人で、
その材料は「真竹」ということからも、
かぐや姫が入っていた竹は「真竹」に確定できた。

残念ながら私の追及はそこまでだったが、
この本がその続きを見事に明かしてくれたのです。

平安時代、権勢を誇った藤原一族の祖は、中臣(藤原)鎌子(鎌足)。
著者はこの人物は日本人ではなく、
当時日本にいた百済王子の豊璋(ほうしょう)ではないかと。


豊璋の来日は631年。
この14年後の645年、鎌足と中大兄皇子(のちの天智天皇)が、
ヤマトの豪族の一人、蘇我入鹿を誅殺。

この間にヤマトの豪族たちの血を引く天皇や皇子、一族の変死が続いた。


660年、百済は唐と新羅の連合軍に破れて滅亡した。
なのに、その翌年、天皇、中大兄皇子、豊璋たちは、
百済再興軍を率いて九州へ。そこから朝鮮半島を目指した。

2年後、唐と新羅の連合軍にボロ負け。(白村江の戦い)。
これを機に百済人難民がたくさん日本へ流入した。


このとき駿河国から船団を送ったものの、この船はお粗末なもので
日本の何処かの海で沈没したという。


旧東海道沿いの「籠製造所」。30年ほど前に撮影。
籠を編んでいたので写真を撮らせていただいた。
カゴ
静岡県沼津市

最初から勝ち目ゼロの戦いなのに、
なぜこうも「百済」に固執し、肩入れしてきたのか。

それがずっと不思議でしたが、
「時の権力者、鎌足は豊璋と同一人物」と言う説明で納得できた。

この大胆な説、あまり重要視されていないのはどうしてだろう。

鎌足の子の藤原不比等の時代になると、さらに非道になり、
ヤマト豪族たちは殲滅に近い抹殺にあう。

そしてこの不比等が全般にわたって編纂などに関わったのが「日本書紀」。
「歴史書は勝者の歴史」というのは古今東西の通説ですが、
やっぱり不比等さん、いろいろ捏造やら創作やら工作しているみたいです。

東京から静岡の田舎に転居した際、
農家のみなさんが使っている籠に魅せられて購入。
50年後もこの通りきれいです。マグカップと比べるとかなり大きい。
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こうなってくると、
物部氏と蘇我氏の仏教を巡って争った話も眉唾に思えてきます。

著者の梅澤氏は言う。

「ヤマトに最初に王権を築いたのは物部であり出雲。
三輪山の大神神社の大物主神は物部氏の祖・ニギハヤヒと同一で、
日本の皇祖神で太陽神(男神)」

「権力掌握を狙う藤原氏は持統天皇(天智天皇の娘・女帝)と与し、
アマテラス神話の天孫降臨を創作。
これにより、本来の大和朝廷の神・ニギハヤヒは消された」


そうか。太陽神が男神から女神に代わり、
祭祀場所も大神神社から伊勢神宮に変わったのはこういうことだったのかと、
妙に納得した。


竹で編んだ弁当箱
もう半世紀以上立ちますが壊れず美しいままです。これぞ職人技の美。
夏の登山のとき使っていました。冬はメンパ(井川メンパ)
20231023_100030.jpg

さて、かぐや姫です。
美しい娘に成長した姫は、都の公達5人から求婚されます。
この5人は藤原一族に滅ぼされたヤマト豪族にとって、
「穢き世にのさばる許せない」実在した人物ばかりだという。


その一人「車持(くらもち)皇子」は藤原不比等のことで、
物語には「心たばかりある人」=二枚舌で奸計を巡らす人物=
と書かれている。


著者はこの本で滅ぼされたヤマト豪族側の「かぐや姫」と、
権勢をほしいままにした藤原氏一族の「中将姫」を対比させています。

中将姫は藤原不比等の孫で、17歳で仏門に入り29歳でこの世を去った。

奈良・當麻寺の国宝、本尊・當麻曼陀羅は、
この姫の手になるものとの伝承があります。

「かぐや姫は藤原氏を呪い、その罪を世に告発し、かたや藤原の娘中将姫は
藤原氏が作り出した罪を背負い、ひたすら神仏にすがって許しを乞うた」

(著者)

知人手作りの竹製品「タオル掛けやのれんに使うといいよ」と。
つるつるした肌触り、美しい色と光沢。自然のものは人にも自然にも優しい。
こういう技術が失われてしまうのは本当に惜しい。
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かぐや姫が奸智に長けた男どもを手玉に取って打ちのめし、
意気揚々と月の世界へ戻っていくのは痛快ですが、

いくら藤原一門の人間とはいえ、
中将姫が一族の男どもの罪を一身に被るってのは、
理不尽というか不憫すぎます。

でも、おとぎ話を使って悪辣な権力者や悪いやつらを告発するって、
案外いいやり方かも。


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「テムズとともに」を読んで②

書籍
09 /26 2023
徳仁親王殿下「ヒロ」さんの、オックスフォードでの研究テーマは、
「テムズ川の交通史」

そのわけを本書で明かしています。

「幼少の頃から交通の媒体となる”道”について、大変興味があった」

「外に出たくてもままならない立場」だったが、
「たまたま赤坂御用地を散策中、奥州街道と書かれた標識を見つけた。
古地図や専門家の意見などにより、実は鎌倉時代の街道が御用地内を
通っていたことがわかり、この時は本当に興奮した」

鎌倉街道といえば、静岡県にはこんな伝説と寺院跡が残っています。
かつて鎌倉街道沿いに「紅葉寺」(もみじでら)という尼寺があった。
庵主さんは「橋本宿」の長者の娘で、源頼朝と恋仲になり、
頼朝亡き後、尼になってこの寺に住んだ、そんなお話です。

今は数体の石仏を残すのみ。「紅葉寺」の正式名称は「本覚寺」。尼寺。
紅葉寺
静岡県新居町浜名

御用地の中で偶然見つけた「鎌倉街道」から、
親王は目を開かれ、ご自分の進むべき一筋の「道」を見出します。

「私にとって道は、いわば未知の世界と自分とを結びつける
貴重な役割を担っていたといえよう」


「初等科高学年の折に母とともに読破した芭蕉の「奥の細道」により、
旅、交通に対する興味がより深まった」


日光街道・草加松原
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「外へ出たくてもままならない立場」が切なく、
それでも限られた中で探求心を失わずコツコツと歩まれた姿に、
私は思わず拍手。

また、小学生の時、美智子妃とともに「奥の細道」を辿ったという話に、
私は驚きと共にまたも胸を熱くした。

我々が知り得ようもない御所の奥深いところでの「母と子」の姿が、
眼前に浮かびました。

こちらのお母さんも愛情たっぷり。
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学習院大学の史学科に席を置いた「ヒロ」さんは、中世の交通制度に着目。

やがて「中世の海上交通が交通史分野では未開拓」であることを知り、
瀬戸内海を対象地域として、大学院進学後もこのテーマに取り組んだ。

そして、オックスフォードでもそれが、
「英国中世の交通史の研究」へと繋がっていった。


ラテン語の中世資料に四苦八苦しつつ、
史料館、文書館、図書館へ通い、何度も現地を歩く研究生活が続く。

図書館での閲覧には利用許可証の申請が必要だったが、
図書館では、日本の皇太子だからといって特別待遇はしない。
それを「ヒロ」さんは当然のこととして、素直に規則に従った。


傘を盗まれたときも施設で傘を貸してくれるわけではなかったから、
強い雨の中をずぶぬれでコレッジまで帰った。


別の著作もご紹介します。
「水運史から世界の水へ」徳仁親王 NHK出版 平成31年
これは、昭和62年から平成30年に行った国内外での講演集です。
中世の琵琶湖の水運、江戸の利根川の水運、テムズ川の水運史などを、
図や写真で分かりやすく説明されています。
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オックスフォードでは滞在2年という限られた中での調査。
来る日も来る日も研究に没頭します。

テムズ川の歴史、ここを行き来した船舶、輸送業者と製粉業者間の争い、
運ばれる二大産業のモルトや石炭とそうした人たちの居住区、関税。

やがて鉄道や車の出現で衰退していった水上交通とその後など、
その綿密な調査や手法に、私は驚かされっ放しでした。

この研究成果が実り、論文は「The Thames as Highway」と題され、
オックスフォード大学出版会によって出版された。


この留学中に撮影した写真は2000枚だという。

インドネシアご訪問の折にも、歴史的建造物を目にすると、
胸のポケットからデジカメをサッと取り出し、素早く撮影されていましたが、
本当に歴史がお好きなんですね。

ファインダーを覗く時は歴史学者の目になっておられるのでは、と思いました。

テムズ川の水門に取り付けられたパウンド・ロック。(上の写真)
下は、オックスフォード運河に設置された水門の開閉を操作体験する殿下。
この本に、
日本最古の閘門(ロック)は、さいたま市の見沼通船堀」と書かれていた。
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「水門史から世界の水へ」より

この聡明さ、行動力、好奇心・探求心、そして真摯で丁寧な性格、
もし一般人であったなら、日本の史学界をリードする方になっただろう、
そんなことが私の脳裏をかすめました。

「ヒロ」さんの真っ直ぐな目は、
ロンドンに到着した翌日に見た「英国議会の開会式」にすでに表れていた。

「女王陛下からの使者が下院のドアを叩くが、2回拒絶して3回目にドアを開く。
いわば女王陛下の使者に三顧の礼を尽くさせるわけであるが、
私はこの一連の所作に、ピューリタン革命にまで遡る王権から自立した
議会を主体とする政治の理念が表わされている思いがした」


そして私が注目した記事の一つに、図書館の在り方があった。

「ヒロ」さんが体験したイギリスの図書館や文書館には
各分野の専門職がいて、
閲覧希望者に対して高度な対応がなされていたという。


「英国の文書館や図書館制度がとてもよく整備されていること、および
アーキヴィストや司書のサービスの良さを再認識した。
これらが高いレベルを誇る英国の歴史研究に大きく貢献していることは
論をまたない」と、「ヒロ」さんは本書に綴っている。


下は「中世日本の諸相・下巻」吉川弘文館 平成元年の目次です。
徳仁親王はこの論集に執筆者の一人として、(右から5番目)
「室町前中期の兵庫関の二、三の問題」を寄稿されています。

「兵庫関」とは神戸市和田岬付近に存在した関所で、
ここで東大寺と興福寺が兵庫津に入港した船舶から関銭を徴収していた。
中世日本の

英国の図書館についてを読んだ時、私は羨ましくて仕方がなかった。
だって今の日本の図書館ときたら、あまりにも理念がなさすぎるから。


本屋に経営させる図書館なんて最悪だし、
司書資格もない定年役人を館長に据え、パート従業員を使い捨て。

司書の仕事はバーコードに光をあてるだけとなり、
図書館同士で入館者数や貸し出し数を競わせるという
競争主義、商業主義へ堕落。


古い資料はパッパと捨てる図書館まで出現した。

本を借りに行けば、「いつもありがとうございます」なんて言う。
「ありがとう」を言うのは、貸していただくこっちじゃないの。

図書館の存在意義はそんなところにあるのではないのに。


かつては日本の図書館にも専門職はいた。
私が欲しい資料を伝えると「それなら」とすぐ見つけてきて、
懇切丁寧に説明。さらに地域の郷土史家まで紹介してくれた。

それなのに、今は惨憺たる状況ではないか。
なんで日本はこうなったのかと、つい愚痴が出る。


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「テムズとともに」に戻ろう。

巻末の言葉には「ヒロ」さんの物のとらえ方と感性が凝縮されていた。

「新しいもの、古いものと一見矛盾するものを抱えながら、
それを対立させることなく見事に融合させているイギリス社会」

「イギリスの石の文化と日本の木の文化」

「最初に建物の石を積み上げた職人は完成を見ないまま、次代へ引き継ぐ。
それが長い目でモノを見る目に繋がったのではないか」
と、「ヒロ」さんは分析する。


留学生活を終え、離英を前にしての思いもまた胸を打つ。

「英国の内側から英国を眺め、様々な人と会い、
その交流を通じて英国社会の多くの側面を学ぶことができた。
さらには日本の外にあって日本を見つめ直すことができた」

そして24歳の若者らしく正直に、


「再びオックスフォードを訪れるときは、今のように自由な一学生として
この町を見て回ることはできないであろう。

おそらく町そのものは今後も変わらないが、
変わるのは自分の立場であろうなどと考えると、妙な焦燥感に襲われ、
いっそこのまま時間が止まってくれたらなどと考えてしまう」と。

IMG_4958.jpg

この「テムズとともに」は、留学を終えた8 年後に発刊された本で、
そのとき33歳になられていた殿下は、あとがきでこう回想されていた。

「思い出というものは自分で作る部分も多かろうが、
人に作ってもらう思い出も多いと思う。上記の方々
(お世話になった方々)
温かい心遣いがあってこそ、当地での私の滞在は実り多く、
思い出深いものとなったのはいうまでもない」


陛下はどんなときでもどなたにも「感謝」を忘れない方だと思いました。

「テムズとともに」は勉学と友情を、若者らしい透明度で描き切った名著です。
多くの方が読むべき本であり、
特に若い方々にはぜひ、と強く思いました。

※本書に習い、「ヒロ」さんを使わせていただきました。お許しを。

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「テムズとともに」を読んで①

書籍
09 /23 2023
皇室というとはるか遠い、別世界という思いがあって、
皇室のニュースはスルーばかりしてきました。
失礼ながら、世間知らずでわがまま、そんな風にも思っていました。

けれど天皇ご一家のニュースを拝見しているうちに、
ご一家が醸し出す何とも言えない温かさに引き寄せられました。

温かさだけではない。
言葉や表情に現れる重厚な奥行きや幅広さ、
それがごく自然に発せられるところに、私はすっかり魅了されたのです。


「なんて素敵なご一家なんだろう」と。

今年6月、両陛下はインドネシアをご訪問された。

そのとき見せた皇后さまの、周囲を和ませるお心遣いやお茶目な一面、
さらに陛下による記者の囲み取材というサプライズに、
おふたりは本当に豊かな心をお持ちなんだな、と。

それが安心と共感につながりました。


ちょうど「川と人類の文明史」を読んでいたときだったので、
ローレンス・C・スミス 藤崎百合・訳 草思社 2023

そういえば、陛下にも川をテーマにした「テムズとともに」
という著作があったことを思い出し、早速、図書館に申し込んだ。

驚きました。このときすでに申込者が10数人もいたのです。
ようやく手元に届いたのが4か月後。


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「テムズとともに」ー英国の二年間ー 徳仁親王著 
学習院総務部広報課 平成五年

今年出た復刊本ではなく、30年前に出版された本で、
水濡れ、解説書ナシ、破損、除籍図書というヘロヘロの本。

当時、それだけ皆さんに読まれたということなんですね。

「要回収」の張り紙付きだったから、
私が最後かと思ったら、借り手は私の後に20人ほど出来ていた。


ヘロヘロ、ボロボロになってもなお、読みたいと思うのは、
私と同じように即位後の陛下とご一家に改めて魅了された人が、
それだけ多いということではないでしょうか。

文章のうまさに驚きつつ、一気に読み終えてつくづく思いました。
「ああ、いい本だった」と。


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陛下は徳仁親王時代の23歳のとき、イギリスのオックスフォード大学・
マートン・コレッジで2年間過ごされた。

ご自身で「持ち前の好奇心も手伝って」とおっしゃる通り、
徳仁親王さんはみんなに「ヒロ」と呼ばれ、
滞在先の方々や友人たちと積極的に交わっておられた。

ヴィオラでの演奏に映画にオペラ鑑賞、スキーにボートにテニスに登山、
そして何度も出てくるのが恩師や友人たちと入ったパブ。

「ビールの注文の仕方には、
ビターまたはラガーをくださいと言うことを教わった」


「注文するときは勇気がいる。一軒目は大丈夫だったが、
二軒目ではパブのマスターから、
何んだこいつは、という感じの目で見られてしまった」

「誘われて友人の部屋でみんなでコーヒーを飲んだ。
コーヒーの入ったマグを平気で床に置くことも、この時初めて知った」

だが、「ヒロ」さんは素直に受け入れて、どんどん溶け込んでいく。

用意されていた部屋もまた、なかなかの代物で、
「今にも破れそうなカーテンが頼りなげに下がっていて」
「浴室にはシャワーがなく、浴槽に半分ほどお湯をいれるともう出なくなる」
という、
プリンスだから特別に用意したのではない、ありのままの部屋。

「セントラルヒーティングの設備はなく、電熱器が一つあるだけ。
隙間風が入るので窓に目張りをし、電気毛布で寒さをしのいだ」

洗濯もアイロンがけもご自分でされた。


「マートン・コレッジ」 親王殿下の部屋は、左ページの下の写真。
「セント・オーバンス・クオッド 右翼の三階正面が私の部屋」と説明。
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「テムズとともに」より

まさかと思うような暮らしぶりだが、相手を敬いつつも特別扱いしないという
イギリス人の精神が垣間見えて、
日本メディアの忖度しすぎる、あるいは風聞や想像で作られた
真実を反映しない報道の異常さが、浮き彫りになるような気がした。

本書の随所に現・上皇ご夫妻への感謝が綴られていたのもよかった。

巻頭に、
「私は本書を、二年間の滞在を可能にしてくれた私の両親に捧げたい。
両親の協力なくしては実現しなかった」と記し、

「両親がアフリカ訪問の帰途、ロンドンに立ち寄ったので
自分が滞在する場所を見てもらうことができた。 

私の父は19歳のとき、エリザベス女王の戴冠式に出席。
その際、オックスフォードの学長宅に泊り、桜を植樹した。
31年を経て、大きくなった様子を目の当たりにして嬉しそうであった。

また父が泊ったコレッジの部屋も、
当時とは様子が変わっているようであったが、
懐かしげな父の表情が忘れられない」と、弾んだ筆遣いで記されていた。

そして、次に訪れたブロートン城での晩、
「レディー・セイのヴィオラと母のピアノ、私のヴィオラを交えて合奏をした」
と、なんの気取りもてらいもなく素直にその時の喜びを吐露しておられた。

JR・東静岡駅構内に置かれたストリートピアノ。
私はそこに上皇后さまが座ってピアノを弾いている姿を想像してしまいました。
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私がなによりも胸を熱くしたのは、この記述だった。

「私の母は、
(イギリスへの)出発前の私にできるだけ食堂へ出ることと、
よい傘を買うことを勧めてくれた。

それは、食事の場こそ、自分の専門外の話や広範な知識を他の学生との
会話を通じて身につけられる得難い重要な機会となる場所だったから」と。


今は上皇后になられたお母様。
「賢母」という言葉がこれほどぴったりくる方はいないのではないか。


子への情愛は身分や学歴とは無縁のものだということを、
この書で気づかされました。

「この母にしてこの子あり」

若き日の美智子妃とその母の教えに耳を傾ける徳仁親王の姿に、
慈愛に満ちた一幅の絵を見る思いがいたしました。


       ーーーーー◇ーーーーー

ーー教えてくださいーー

最近、windowsペイントがおかしくなりました。
写真に文字がうまく入りません。

デフォルト文字が「YuGthic UI」で固定されて、
文字、色、サイズの変更ができなくなりました。

8月半ばごろの自動更新でそうなったようですが、
みなさんのところはいかがですか? 対処法があれば教えてください。
難しそうなら「修正を待つ」ほかないかと思っています。

現在は最初にアルファベットで入力して続いて日本語入力、
そのあと最初のアルファベットを削除していますが、文字が薄いのです。

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読書の夏・老いるということ

書籍
08 /09 2023
久坂部羊という人を知ったのは、ほんの10日ほど前です。

何か面白い本はないかと図書館の資料検索をしていたとき、

「寿命が尽きる2年前」という本が目に留まった。
早速借りて読んだら、これがおもしろい。


著者は、「2年後に死ぬとわかったら、
いつまでも元気で長生きという理想の選択はなくなります」と言い、
さらに「そうなったら延命など考えず、医療に近づくな」と、
世間一般の医者とはまるっきり違うことを言うのです。

今までにない発想に引きずり込まれて、この人の本を次々借りた。


「人はどう死ぬのか」「オカシナ記念病院」「老父よ、帰れ」
「黒医」「生かさず殺さず」「MR」


老人施設から父親を引き取った息子の悲喜劇に、思わずウフフ。
老父よ
朝日新聞出版 2019

久坂部氏は大阪大学医学部出身の医師で、外科、麻酔科で研修。
その後、在外公館の医務官となってサウジアラビアやオーストリア、
パプアニューギニアに赴任し、
帰国後、在宅医療に携わるようになったという経歴の作家です。


著書には一貫して以下のような事柄が書かれていた。
ただし、著者の対象は高齢者です。

「寿命が尽きかけたら病院へ運ぶな。延命治療で苦しめるだけだ」

「認知症に効く薬はない」「自覚症状がなければ検査も治療も不要」
「健康診断は受けるな。受けて検査結果が異常値と言われても、
若者も老人も正常値の基準が同じなんてあり得ない。だから気にするな」

「骨粗しょう症だといって、
80歳の老婆にカルシウム剤を飲ませても骨まで届きません」


「高齢者のコレステロールが高いからといって、
30年後の動脈硬化を予防する必要があるでしょうか」

「ガンが見つかっても老衰のほうが早い場合がある。それならことさら、
病気を見つけ出すより何もしないほうが心安らかです」

ああ、納得! 


合間にこんな本も。クマの母子の写真と解説が素晴らしい。
最近はクマの恐ろしい記事ばかりが突出していますが、共存すべき命です。
その生態を知り、事故を未然に防ぐ指針ともなる本。
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「ツキノワグマのすべて」
小池伸介・著 澤井俊彦・写真 文一総合出版 2020
「日本をダメにした新B層の研究」適菜収 ベストセラーズ 2022

今まで私は「ボケ防止に効果がある食事」だの「サプリ」だの、
「寝たきり防止の体操」なんてのに囚われていたけれど、
こうもはっきり言われてしまうと、ふんぎりがつくというものだ。


医者だった著者の父親も「自然のままに」を信条にした人で、
重症の糖尿病なのにコーヒーには砂糖を3杯、たばこは吸いたい放題。

85歳で前立腺がんと診断されたら「しめた。これで長生きせんですむ」と。
86歳で腰椎の圧迫骨折。だが本人の希望で治療せず自然に任せ、
在宅のまま87歳で大往生したという。


7編を収めた短編集「黒医」、これがまたすごい。

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KADOKAWA 令和元年

出生前診断でお腹の赤ちゃんは無脳児だと言われ、
中絶か産むか悩む母親に、お腹の子が声を出す。
「生まれたくない」「殺してくれ」と。
結局、死産。だが出てきた子は無脳児ではなく正常児だったという。

これは、科学は万能と思い込んでいる人間たちを胎児が揶揄した話だが、
不妊治療の名医の秘密を描いた「のぞき穴」というぞっとする話もある。

大人用おむつなどが売っている「シニアコンビニ老村(ローソン)」
なんてのも出てくる。

医師としての確固とした知識に裏打ちされた冷徹さとブラックユーモア、
巧みな書き手だなぁと思いました。


そしてもう一人、小堀鴎一郎という医師を知りました。

母校の東京大学医学部付属病院で外科医として勤務し、
定年後は訪問診療医として在宅患者の看取りに関わっている方です。

偶然にも小堀氏も久坂部氏も元・外科医で、高齢者医療の従事者。

小堀氏はドキュメンタリー「人生をしまう時間(とき)の出演者で、
あの明治の文豪、森鴎外のお孫さんだそうです。

私、このドキュメンタリー見ました。

糸井重里氏との対談集「いつか来る死」を読んで驚きました。
久坂部氏と同じ思いをお持ちだったからです。


カトリック信者の小堀先生、聖母病院の医師のもとへ20年間ほど通った。
入院患者にはカトリック関係者が多くいて、その医師が、
「ブラザーでもファーザーでも死ぬのはこわいんだ」と言っていたとか。
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マガジンハウス 2020

久坂部氏と小堀氏の共通した思いとは、こういうものでした。

「食べないから死ぬのではなく、死ぬべき時が来たから食べなくなるのです」

「在宅で看取りを決めていた101歳の女性の息子から、入院を要請された。
死に向かう母親をまじかに見ていられなくなったんでしょう。
しかし、一旦入院したら医者は無駄とわかっていても気管切開や点滴をする。
これをすると患者は苦しみつつ死ぬ。


彼女も人工呼吸器をつけた。命が長引くにつれ家族は来なくなった。
寝たきりのまま暗い集中治療室で10か月生き続けたが、
だれにも看取られず亡くなった。病院における孤独死です。
あのまま在宅で看取れば数日で安らかな最期を迎えられたのに」
(小堀氏)

「一旦、胃ろうなど作ったらなかなか死ねない。
あとから取ってと頼まれても、医者は殺人罪に問われるから
取り外すことはできない」
(久坂部氏)

小堀氏は「死ぬべき時が来たから食べなくなる」としつつも、
「一人一人それぞれのケースがある。胃ろうをして元気が回復して、
また口から食事ができるようになる場合もある」


「認知症のテストは万能ではない。
認知症テストでダメだった人が実生活ではちゃんとふるまっている。
その逆もある。認知症は病気ではなく老化の一つという学説もある」

「医療は科学的になればなるほど[医療]から遠ざかる。
患者とは関係のない研究者の[趣味]になる」
(久坂部氏)

この作品、う~ん、イマイチ。平板で新鮮味がない。
主人公のグダグダ話をダラダラ聞かされている感じ。
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朝日新聞出版 2020

高齢者医療の専門医のお二人に見えているものは、
テレビに出てくる医者や老人向けの本が示すものとは全く違いました。

今までの私の認識はすべてひっくり返りました。
老いるということに抗うことも、身構えることもしなくていいんだと思ったら、
憑き物が落ちたみたいに心が軽くなりました。


そしてお二方は言う。
「日本人は死を穢れたものとして常に遠ざけてきたが、
死は決してタブーではない。タブーにしてはいけない」

「自分にとって大事なことは何なのか、意識しながら一日一日を生きる。
人は生きてきたようにしか死ねませんからね」と小堀氏。


で、小堀氏の著作ももっと読んでみたくなって、貸し出しの申し込みをした。

この炎天下、本読みたさに図書館まで徒歩で往復40分の道のりを、
三日ごと汗だくで通い、帰宅後はシャワーでさっぱりしてから、
エアコンガンガンの部屋で読書三昧の日々。

今、久坂部氏のデビュー作「廃用身(はいようしん)を読み終えたところ。

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幻冬舎 2003

実話のようなフィクションという実に巧妙な書き方で、
この主人公は著者自身? いやそんなはずはないと何度も自問自答。

これは「廃用」となった手足を切断して老人たちに活気を取り戻すという
画期的な新治療を始めた老人施設の医師が、医師会や世間、
マスコミからの攻撃に追い詰められて自死、妻もあとを追うという、
サスペンスもどきの、しかし非常に奥深い物語でした。

生活のクオリティを高めるために無用となった四肢を切り落としたことは、
この医者個人の嗜虐性のなせる業か、
それとも彼は老人医療の突出者だったのか。


歪曲報道と、それに便乗して主人公を叩く幼なじみや昔の同僚やご近所さん。
世間は、真面目に取り組んだ記事より歪んだ報道を歓迎し信じてしまう、
そうした現代の病んだ社会を見事にあぶり出していた。

ちなみに「廃用身」とは、脳梗塞などで回復の見込みのない手足のことで、
れっきとした医学用語だそうです。


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞