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欲がないからストレスがない

書籍
01 /25 2023
読書の話のついでに、この本もご紹介します。

「過疎の山里にいる普通なのに普通じゃない すごい90代」

表紙のご老人、いいですね。
こんな笑顔でいられたら、本当に幸せ!

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場所は静岡県の西部、浜松市天竜区春野町。
著者は池谷 啓氏。

40年の東京暮らしからこの山里に移住した著者、

「山里に暮らすのはお年寄りばかり。でもとにかく元気。
80代、90代で現役で仕事をし、自立して暮らしているのにびっくり」

この本は、そんな「すごい90代」の大先輩たちに密着、
どこまでも自然体のさわやかな人生を写真と文で紹介した記録です。


著者の説明によると、春野町はこんなところ。

「東京23区の4割ほどの広さに3500人ほどが住む。
過疎高齢化が著しく、この10年で人口減少率は3割近い」

私も、登山、新聞の取材、力石の調査、神楽や歌舞伎、人形劇大会にと、
この辺りにはよくおじゃましました。飯田線にも何度か乗りました。

山深いところですが、南北朝期にはその舞台になるなど、
歴史、民俗事例の宝庫でもあります。


この本には、
99歳の商店主を始め林業家、和紙職人、鍛冶屋など10人が登場。

山奥のポツンと一軒家の古民家で暮らすご夫婦は95歳と94歳。

ある日、妻が畑から帰ってきたら、朝は元気だった夫の息がない。
その半年後、妻も逝った。
二人は「今あるもので満ち足りる」生き方をしていた。

「欲がないからストレスがない」
「毎日やることがある」
「人に喜んでもらえることをする」


そういう教訓を残したと著者はいう。

そして巻末にこう記していた。


「今日、することがある」こと。そして、それを「自ら生み出す」こと。
それこそが人生100年時代の鍵だろう、と。

※参考文献
「過疎の山里にいる普通なのに普通じゃない すごい90代」
池谷 啓 すばる舎 2022 

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遅まきながら、「高倉健」③

書籍
01 /22 2023
高倉健はエッセイ「あなたに褒められたくて」の中で、
さらに古い先祖のことに言及していた。

俳優の萬屋錦之助にすすめられて、
「相模湾の藍色が、視界いっぱいに広がって美しい墓地」を買い、
いずれ自分もここに入るつもりで、
江利チエミとの間にできた亡き水子の墓を建てたという。

※しかし高倉没後すぐ壊され、更地にされてしまったそうで…。(;_;)

そこは鎌倉霊園といい、そのそばに宝戒寺という寺があった。

「宝戒寺といえば、僕の遠い先祖が、一族門葉のもの八百余人とともに
自害して果てた寺であることを、数年前、父の生家「小松屋」に残る
古文書を読んでいて知ったことを思い出した」

そこで寺を訪ねて、家系図の一番最初にあった名、
「苅田式部大夫篤時」の名前を言ったら、
ご住職が「あっ」という顔をしたという。


ご住職が出してくれた古い過去帳にもその名が記されていた。

高倉健の先祖は鎌倉幕府執権の北条氏に仕えた武士で、
この宝戒寺は北条氏の館があったところだという。

エッセイによると、

元弘三年(1333)、新田義貞軍の鎌倉攻めで、
先祖の篤時を含め、一族郎党八百余人は自害。


このとき、篤時三十四歳。

篤時の子供は鎌倉から逃げて西へ向かい、岡山を経て山口へ。
そこで大内氏に仕えたが、その後、大内氏が滅亡したため、
今度は七歳、四歳、三歳の子供を伴って北九州へ逃げのびて、
そこに居を構えた。


のちに筑前国黒田藩主から名字帯刀を許されて「小田」姓を名乗り、
両替屋「小松屋」を営んだ。

その何代かのちに出たのが歌人・小田宅子で、その五代あとの子孫が、
俳優・高倉健ということなのだが、いやはや、すごい。

「小説より奇なり」ではなく、「映画よりドラマティック」ではないですか。

高倉はエッセイの中で、「ぼくは普通の人間です」と主張するが、
鎌倉武士や歌人・宅子から受け継いだDNAは確実に高倉の中にあって、
それに高倉自身の個性が練り込まれて、熟成を重ねてきたはずなのだ。


その非常に良質で細やかな遺伝子は、高倉の対人関係にも表れる。

「旅の途中で」(新潮社 2003)には、
ロケ地で知り合った幼い女の子や西表島のダイバーの青年、
若き刀匠との心温まるやり取りが綴られている。


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そしてそこには、相手からのふとした言葉に耳を澄ませて感動する、
そんな高倉健がいる。

滞在中の石垣島では小中校生15名ほどの小さな運動会を見た。
村中総出の運動会で、
じいちゃんばあちゃんが縄をどれだけ長く編めるか競争していた。


それを見ていた高倉は、
「戦後の日本は、金を掛けたものが心がこもっていると思ってきたが、
本当にそうなのか」と、わが身を振り返り、

「それに比べると石垣島の運動会はとっても温かい、熱い」と感動して、
「思わず、一生懸命、手が痛くなるほど叩いていました」と綴る。

「ぼくは無口な男、寡黙な奴と言われるが、
自分ではそんな風に思ったことはない。不器用とか無愛想とか寡黙とか、
映画の役柄からそういうイメージがあるんだと思います」

そしてこんなことも。

少年の日、一番の親友と密航を企てたが叶わず。
親友はのちに検事正となり、国連刑事局議長になったが、
付き合いはずっと続いた。

明治大学の学生の頃は、下宿のワル仲間と遊郭へ行った。
みんな金がないから時計や布団を質にいれて工面した。


そんな青春時代の話も、赤裸々に語る。

「高倉健インタヴューズ」(文・構成 野地秩嘉 プレジデント社 2012)に、
編者によるこんな一文があった。

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「カッコつけない真心がそのまま表れているインタビューがある。
亡くなった元妻の江利チエミについて語ったものだ」

高倉はチエミとの結婚の前年、
生まれて初めて買った新車ベンツに新妻を乗せた。

そしたら途中で、
「下ろして。あなたが走っているところを見たいから」と。

今度は道に立つ新妻の前を行ったり来たり走った。
すると新妻は拍手をする。

「かっこいいよ!」って。

そんな妻を見てこう思ったと、インタビューで答えている。
「可愛いなぁと思いました。この女のためなら、なんでもできるなぁと」

エッセイに「いい人との出会いは人生の宝物」と書いていた高倉健。
その「いい人」と、天国で久々に再会したに違いない。

もしかしたらチエミさん、いたずらっぽく言ったかも。

「あなたの終わり方、ちょっと不器用で無愛想だったわねぇ」

遅まきながらのファンになった私は、そんな思いに駆られた。
そしてこんなことも思った。

高倉健に子供を持たせたかったな。

毎年、先祖の墓参りを欠かさず、何よりも「血」のつながりを重んじたと、
エッセイにも書いているほどだから。

もし子供がいたら、どんなお父さんになったか、
それが映画や人生にどう反映したか見てみたかった、と。


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遅まきながら、「高倉健」②

書籍
01 /19 2023
田辺聖子さんの「姥ざかり 旅の花笠」を読んだ。

これは筑前の商家の内儀・小田宅(いえ)子の旅日記「東路日記」を下敷きに、
その旅の足跡を丹念にたどった労作で、
田辺さん独特の巧みな筆力にぐいぐい引き込まれていった。

ただ、関西人特有?の「こってり感」に、「胃もたれ気味」にもなった。


天保12年閏正月16日、
宅子は歌人仲間の女性4人と筑前・上底井野村
(福岡県中間市)を出立。
そのとき宅子、53歳。4人とも50代前後の商家のお内儀さん。

そんな「姥ざかり」たちが下男3人を供に連れ、

九州から日光まで、5か月間(144日)、800里の旅をした。
しかもその旅は、
手形を持たない抜け参りというのですからたまげました。


もっとも、江戸末期のころは関所の抜け道は半ば公然。
幕府設置の関所は厳しいから、女性の旅人は「抜け道」を利用した。

旅のほとんどは徒歩で、一日、7里半から10里もの道を歩き、
時には単独で別ルートをとるなど、
現代女性も顔負けの自己主張と行動力を示します。

※1里は約4キロ

これを田辺さんはこう表現していた。

「和して同ぜずの人間的車間距離が感じられる」と。

彼女たちは行く先々で歌を詠み、名所旧跡をもれなく訪ね、
富士のお山に感嘆。
「ここまで来たらあそこへ寄らなくちゃ」と、欲が出ることもしばしば。


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舟で乗り合わせた会津の人たちと、
お国自慢の歌を披露しあって楽しんだことも。

日光見物のあとは、いよいよ「生涯一度の大江戸見物」へ。

「お江戸は喧騒のるつぼ」と驚くも、芝居や江戸城見物、有名寺院巡りと、
精力的に動き回り次々と新たな感動と知識を吸収していく。


著者の田辺氏がたびたび文中で賞賛していたのは、
「小田宅子」とその仲間の知識の豊富さ、教養の高さだった。

田辺さんは彼女たちの歌の端々や名所旧跡の歴史の詳しさから、
本居宣長、万葉集、古事記、伊勢物語、西遊記、西行のこと、
源氏物語や平家物語などの古典、歌舞伎に至るまで、

「日ごろから読み込んでいる」と、驚嘆する。


そして、こうも言う。
「現代(いま)風にいえば宅子さんの旅は、さながら自分の体で古典する」と。

田辺さんはうまいことを言う。

著者は本のあとがきにこう記している。

「宅子さんは俳優・高倉健さんの五代前の人である。
そもそも「東路日記」は、高倉さんが、

〈うちの先祖の人が、こういう手記をものしているが、
これをわかりやすく読めるようにならないものだろうか、面白そうだけれど〉

と、イラストレーターの福山小夜さんに示され、集英社の池氏経由で
私に紹介されたもので、この本を読み解くことになった」

宅子の五代後の子孫、高倉健さんも先祖に負けず劣らずの旅好きで読書家。

ただ、違うのはお酒。

宅子はお酒が大好きでしかも強い。宿では必ずお銚子を頼み、
「酒は皺伸ばし」と言いつつ、楽しんだそうだが、
子孫の健さんは下戸だったそうで…。

さて、道中、落伍者もなく誰もが意気軒高。

「ここまで来たら、善行寺さんへ寄らねば」と、悪路の峠越えに挑んだ。
思いのほか険阻でその上雨も降り出して難儀するものの、
「まるで乞食(ほいと)の一座でごたる」と冗談が口をついて出る。

「若い時の苦労は買うてもせぇち、いうじゃござっせんな」と誰かが言えば、
「そげんたいねぇ、みんな気は若いき」と、姥ざかりたちは笑い飛ばす。

板屋根に丸石を乗せた家を見て奇異の思いをしたり、
髪は伸び放題で破れた布切れを巻いただけの「猿」の如き村人を見て、
カルチャーショックを受けつつも、ようやく善光寺に辿り着いた。

早速、宅子は如来様に手を合わせ、亡き父母と亡きわが子に語りかけた。
実は宅子の善光寺詣りはこれで2度目。最初の参詣は20年前だったという


高倉健がこの宅子のことを知ったのは、
福岡女子大学の前田淑教授からの手紙からだったという。


彼は「あなたに褒められたくて」(集英社 1991)に、こう記している。

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「その手紙を読みながら、長年ぼくの中でくすぶっていた謎ともいえない謎、
気がかりだったことの一つが、すーっとほどけていくような気がした」


「ぼくの本名が小田であり、宅子の子孫であることはまぎれもない事実であり、
そしてぼくが三十年来、善行寺に惹かれ続けていることと、
宅子の二度にわたる善行寺参詣との間には、
「血」を感じないわけにはいかないのだ」

そして高倉は毎年節分の日に善行寺へ通い、参詣人がいなくなった夜中、
雪の舞う寒風の中に立って手を合わせたという。


「ぼくは行かなくてはすまなくなった。どんな忙しいときでも、
この日だけは無条件で善光寺を目指した」

「理屈ではなく、祖先の霊とぼくの魂とが呼び合っていたのかもしれない。
宅子おばあさんとぼくが、善行寺を通して結ばれていたのだ」


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遅まきながら、「高倉健」①

書籍
01 /16 2023
ここでちょっと横道に 読書の話

       ーーーーー◇ーーーーー

「高倉健」という俳優さんがいた。

周囲には思慕して止まない熱烈なファンが多かったが、
私は何も感じなかったから、
みなさん、なんでこうも夢中になるのか不思議に思っていた。

私は任侠ものは嫌いだったし、
さらに、世間に流布していた「寡黙で不器用な男」というイメージに、
なんちゅうキザな男かとも思っていた。


ところが昨年、そんな思いが吹っ飛んだ。
笑われるでしょうが、没後8年にして私はファンになった。


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「高倉健インタヴューズ」文・構成 野地秩嘉 プレジデント社 2012

きっかけはたわいないものだった。

図書館の本を検索していたとき、
ふと、

「高倉健 七つの顔を隠し続けた男」(森功 講談社 2017)が目に留まり、
たまにはこういう本も読んでみるか、と。

読み始めて、胸糞悪くなった。

著者が言う「七つの顔」はよくわからなかったし、
最期を看取ったのは、親族もその存在を知らなかった養女というくだりや、
亡くなったことも身内に知らせなかったという異常な状況。

そしてそれが高倉本人の希望だったという記述に、
肉親をそこまで粗末にする人だったのかと憤慨したりした。

本によれば遺産は約40億円で、そのすべてが養女に渡ったという結末に、
これまた三文ミステリーを読んでいる気分になった。


「健さんは高級時計のロレックスを取り巻きに気前よくあげてしまう」
とも書かれていたから、ならば80代では使いきれないその遺産も、
例えば、
国境なき医師団や貧困家庭の子供たちなどへの社会貢献として還元する、
そういう考えになぜ至らなかったのか。

高倉健は死の前年、文化勲章を授与された。


そういう方ならなおさら、無償の愛による社会への還元は、
有終の美を飾るに最もふさわしい、究極の「男の美学」ではないかと。

まあもっとも、他人が口をはさむのは余計なお世話なんだけど、
とにかく、がっかりしたことは否めない。


ただ、その本の中にこんな箇所があった。
そこだけがキラリと光っていた。

「高倉健の江戸時代の先祖に女流歌人がいて、
50代の時、女友だち4人と5か月間、居住地の福岡県から日光、江戸、
さらに長野・善光寺まで800里の旅をした。

その旅のつれづれに歌を詠み、旅日記「東路日記」を残した。
それを田辺聖子氏が本に書いた」


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集英社 2001

高倉健はその先祖を誇りにし、自身も「善光寺へ31回も詣でた」とあった。

健さんファンになったのは、肝心の映画でなかったのは心苦しいけれど、
私はこの部分にたちまち魅了された。

俳優・高倉健の根っこを見たくて、私はすぐ田辺聖子さんの本、

「姥ざかり 花の旅笠ー小田宅(いえ)子の「東路日記」-」
(集英社 2001)を借りてきた。

ご先祖は「小田」姓で、高倉健の本名も「小田」

この人には小田宅子の血が流れている。
だから文学的センスや感性をも引き継いでいるはずだ。

それが俳優・高倉健の真ん中にあって、
人々を魅了してきた素地の一つだったのではないか。


彼は「他人」に作られた俳優ではなかったんだ。

そう思ったら、この人のことをもっと知りたくなって、
エッセイなどをできるだけ読んでみた。


「高倉健は〈高倉健〉という肩書を重要視していない」

これは、
「高倉健インタヴューズ」(プレジデント社 文・構成 野地秩嘉 2012)
の中で、風間克二という広告制作会社プロデューサーが漏らした言葉です。
肩書より人間として、人に接したということだろうか。

また、
「彼はマネージャーを持たない。ロケも打ち合わせも一人でやる」とも。
あいだに人をはさむと真意がまっすぐ伝わらないからだという。

それを裏付けるように、彼自身がこう語っている。

「中国のチャン監督に乞われて、ロケ地の雲南省麗江へ一人で出かけた」

「出演者は全員現地の素人だったが、理解しようと努めた。
だが言葉がわからない。
日本語や英語だとどこでセリフが終わるかわかるが、中国語だと掴めない。
そこで通訳に、監督が言ったこと、相手役が呟いたこと、スタッフの独り言も
すべて通訳して欲しいと頼んだ」。


そこで高倉健は、こんなことを悟ります。

「俳優の仕事とはセリフ回しのうまさでもないし、表情を作ることでもない。
監督が何を考えているのかを理解するのが、俳優の仕事だ」。

彼はいつも単独で世界中を旅した。そのどこででも人と仲良くなった。
現地で知り合った小学生とも手紙のやり取りをした。

そしてエッセイの中で、こうつぶやく。

「人間っていいなあ。人生って捨てたもんじゃないなあ」

彼が綴った文章の行間から垣間見えたのは、
努力家で、思慮深く礼儀正しく、自分自身の人生哲学を持ち、俗に落ちず、

ユーモアを忘れず、利害など考えず誰とでも胸襟を開き愛情を注ぎ、
そして故郷を愛し先祖を敬い、墓の中の母の横で眠りたいと願う、

ごく普通のそんな素顔。

「あなたに褒められたくて」という著書に、母への思いが綴られていた。

最愛の母が逝ったとき、大事な撮影で駆けつけることができなかった。
そのときの心情を活字に託して吐露している。

「葬式に出られなかったことって、この悲しみは深いんです」
そして、
「お母さん、僕はあなたに褒められたくて、ただそれだけで、
背中に刺青を描き、返り血を浴び、さいはての夕張炭鉱や雪の八甲田山、
北極南極、アラスカ、アフリカまで、三十数年駆け続けてこれた」と。

このどこにも「隠し持った顔」なんて、見られないではないですか。

こんなにもわかりやすい人はいないと思った。

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「ホハレ峠」

書籍
12 /22 2022
かつて岐阜県揖斐郡に「徳山村」という村があった。

本流の揖斐川と支流の西谷川沿いに、8つの集落があって、
総勢1500人が暮らしていたが、ダム建設のため1987年廃村になった。

「ホハレ峠」という本を読んだ。

読み進むうちに泣けてきて、涙で読めなくなって私は何度も中断した。

この本は大西暢夫さんというカメラマンが、
ダムに沈もうとする村を目の当たりにして、

「今まで途方もない時間で培ってきたはずの大地を、
沈めてまで得ようとするものとは何だろうか」と問いつつ、
もう二度と足を踏み入れることができない村に、通い続けた記録です。

東京からバイクで500キロの道のりを通い始めたのが23歳の時。

その4年後の1991年、
もう誰もいないだろうと思っていた村に、
ジジババが暮らしているというのを聞いて行ってみた。

場所は徳山村の最奥部、
西谷川沿いの「門入(かどにゅう)」というところで、34世帯の村だった。

大西さんはその村で、廣瀬 司、ゆきえさん夫婦と知り合った。

この本はその出会いから、夫を亡くして一人になったゆきえさんが、
集団移転先の住宅に移り、93歳で亡くなるまでの約20年間を綴ったもの。

50歳も年の離れた著者とゆきえばあちゃんとの、
豊かで温かい、教訓に満ちたやり取りに心を揺さぶられました。

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門入は唯一、水没を免れた村だったが、危険区域ということで全員離村。

「ばあさん、ここへハンコついたらいいんだよ」と言われ、言う通りにしたら、
今度は「早く家を取り壊して出ていけ」と立ち退きを迫られた。

立ち退かない廣瀬夫妻は開発公団から訴えられて、
大垣市の裁判所で相手から、
「小屋(家屋)の建設は契約の前か後か、何年何月何日か言え」
と迫られて答えられず敗訴。


100年以上前に建てた家だもの、答えられないよ。

夫亡きあと、町へ移ったゆきえさんは、
カートを押してスーパーへ買い物に行くようになった。
村には豊富な自然の恵みがあったが、町では春夏秋冬が消えた。

町の人たちから、
「税金で建てた家」「ダム御殿」と悪口を言われたが、
国からもらったお金はみるみる減り、暮らしは豊かにはならなかった。


「結局、先祖が守ってきた財産を一代で食いつぶしてしまった」
とゆきえさんは言った。

徳山村大字戸入の住人だった増山たづ子さんが、
大事な故郷の姿を永遠に残そうと、ピッカリコニカで写した村人たち。
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「増山たづ子 徳山村 写真全記録」影書房 1997からお借りしました。

著者の大西さんは、
ゆきえさんの生い立ちからその後の人生を追い続けた。

繭を入れたかごを背負い、両親とともにホハレ峠を越えたのは14歳の時。
夜明けの峠のテッペンで、生まれて初めて見た琵琶湖に感動する。

同じ年に紡績工場へ働きに行くため再び、この峠を越えた。
今度は妹二人を連れて…。下の妹はまだ11歳だった。

町で洋服を着て帽子を被り、かかとの高い靴を履いた女性を見て、
「町には変な格好をした人がいる」と思った。

17歳のときはボッカをやった。
「ホハレ峠」は、頬が腫れるほど厳しいからそう呼ばれたが、
そこを、8貫目(30㌔)の栃板を背負って行き来した。

24歳のとき、嫁に行くために、またホハレ峠を越えた。
行先は北海道の開拓地。
親が同じ村の出だったが、相手は現地生まれで顔も知らない人だった。

紆余曲折を経て、夫婦はまた徳山村へ帰ってきた。

二人でパチンコ屋のまかないなどをして現金を稼ぎ、
息子を東京商船大学(現・東京海洋大学)へやった。
村で初めての大学生だった。

2013年8月2日、ゆきえさんは台所で一人で亡くなっていた。

ヘルパーさんが口を拭うと、口から枝豆が一つ転がり出た。
炊飯器は保温になっていて、みそ汁は温かかった。

「枝豆の味見をしていた時、倒れたんだね。ゆきえさんらしい」と
みんなは思った。

大西さんは徳山村に関わってから30年目に、この本を世に出した。
そのあとがきにこう書いている。

「100年の寿命と言われるダムは、一人の人間の寿命の長さでしかないのだ」

「この村を潰してまでダムを作るべきだったのか。
それはこの時代を生き続ける人間が、ずっと考え続けるべきテーマかも
しれないが、僕は、後世にこのコンクリートの山を委ねてしまった
罪悪感のような意識だけが残って仕方がない」

取り壊す前、ゆきえさんは築100年以上の我が家を日本酒で清めた。
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「ホハレ峠」大西暢夫 彩流社 2020からお借りしました。

お金さえ出せばすぐに何でも手に入る今から考えれば、
トチの実を拾いアクを取り、手間暇かけてトチ餅を作るような山村の暮らしは、
時間の無駄ばかりで、不便で時代遅れなのは否めない。

でも私にはそこにこそ、
現代人が置き去りにしてきた大切なものがあるような気がしてならない。

本当の心の豊かさや丁寧に生きる大切さを、私はこの本から教えられました。

※参考文献
「ホハレ峠」ーダムに沈んだ徳山村百年の軌跡ー 
      写真・文 大西暢夫 彩流社 2020
「桜田勝徳著作集 4 離島と山村の民俗」名著出版 昭和56年
「増山たづ子 徳山村 写真全記録」影書房 1997

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞