fc2ブログ

いつの間にか「傘寿」㉓

いつの間にか傘寿2
12 /01 2023
徳間書店には2年半しかいなかった。

短期間ではあったが、そここそが私の原点になった。
この原点に出会えたことが、
その後の私を何があってもめげないサバイバーにしてくれた。

社長の「徳間康快」という人はあらゆる意味で「大きな人」だった。
いつ見ても笑顔の人だった。
私たちは愛を込めて、「コウカイさん」と呼んだ。


社員旅行でオイチョカブをやった。コウカイさんボロ負け。私が勝った。
img20231126_16582342.jpg

佐高信氏は、
著書「飲水思源・メディアの仕掛け人 徳間康快」で、こう書いている。


「飲水思源は水を飲むときはその井戸を掘った人を思えと言う意味の
中国の言葉。


コウカイならぬゴウカイ(豪快)とも呼ばれた徳間康快は、
文化の井戸を掘った。それは必ず水が出ると信じて掘ったのではなく、
徒労に終わっても掘り続けなければ水は出ないと覚悟して、
さまざまな井戸を掘り続けた」

さらに佐高氏は、
スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫氏が、
徳間社長から言われたこんなことも書いている。

ある日、鈴木氏は徳間社長からこう尋ねられた。

「俺もいろんな会社をやってきて苦境に立たされてきたし、
ひどい目にもあってきたけれど、
これさえあれば切り抜けられるというのは何だと思う?」

わからないので鈴木氏が黙っていると、こう続けたという。

「人間的魅力だ。
これさえあればあらゆる艱難辛苦は乗り越えられる」

そう、コウカイさんはまさに、人間的魅力にあふれる人だった。


img20231126_16124752.jpg
株式会社金曜日 2012

私はオリンピック開催の年の1964年に、
「アサヒ芸能出版社」の「徳間書店」に入社した。
この年が初めての新卒者募集だったとあとから聞かされた。

どうりで、オヤジばかりだと思った。


会社の募集を何で知ったかは忘れたが、ひと目見て虜になった。
この出版社で出している週刊誌はハダカばかりと聞いてはいたが、
募集広告の文面は簡潔で新鮮、活気に溢れ、淫靡さは微塵もなかった。

文面は忘れたが、
私はその募集広告から勝手にこんなメッセージを受け取った。

「権威、縁故はクソくらえ。
これから発展するぞ、やる気がある者だけ、来たれ!」

なんだか闘志満々になって、
「ここだ! ここしかない!」と思い込み、即、願書を出した。

「短大生ですが、受験だけでもさせてください」と。

入社の3年前に「アサヒ芸能出版社」から書籍部門を「徳間書店」として
分離独立していたから、受かればたぶん書籍の所属だろうと思ったものの、
ハダカ週刊誌だって構わないとも思っていた。

入社後、編集長が「男を知らない生娘は大胆で怖い」と、笑った。

採用通知の電報が届いた時、
母が「アサヒゲ、イノー」と読んで大笑いになったのも、今は懐かしい。


二期入社の島田敬三氏は26歳で退社。溝口敦の名で作家デビューした。
img20231126_16143605.jpg  img20231126_16181457.jpg

会社は新橋・烏森口にあった。

ルポ・ライターの竹中労氏は、
「木筋二階建て、つれこみホテルを改築したオンボロの社屋」と書いているが、
ここには新社屋に移るまでの短期間しかいなかったので、
オンボロ以外は記憶が薄い。


確か書籍の編集部は販売部と同じ部屋にあって、
週刊誌の編集部はその上階にあった。

「飲水思源」に古い社員の話として、
「そのころ社長は、週刊誌の編集長も兼ねていた」と書いてあったから、
社長室もその一画にあったのだろう。

私が2回目の面接試験を受けたのは、2階の小部屋だったような…。

とにかく人の出入りの激しい、ごった煮のような職場だった。
右寄りの人も左寄りも宗教の信者も学者もいた。

ノッポでおしゃれなゲイさんもいた。体を触られるからと若い男性は
二人だけになるのを避けていたが、逆に私には安全な人だった。

輪ゴムで無造作に髪を束ねていたら、
「女の子がそれではいけません」と忠告された。


出入りする面々も作家、政財界の人、相撲取り、歌手や女優の卵、
記事にクレームをつけて金銭をせびりに来るエセ〇〇や強面の人など、
木造の階段をギシギシさせながらひっきりなしに登って行った。

コンクリートの階段だったかもしれないが、
私には階段を上り下りする人の足音が、「木造の階段をギシギシ」
というふうに聞こえた。

のちに歌手として大成する五木ひろし氏もその一人で、
私がいたころは、ギター片手に飲み屋で弾き語りをする流しをやっていた。


建物は確かにオンボロだったが、
そのオンボロが吹っ飛びそうなほどすごい活気に満ちていた。
生きていることをこんなに実感したことは今までなかった。

仕事中に隠し撮りされた。これは新社屋に移ってから。
img20231110_16303717_0001.jpg

出版局長で中国古典研究者として知られた村山孚氏(神子侃)は、
のちに当時の会社をブログにこう書いている。

「昨今の出版社と違い、社長は経営者というより風変わりな侍、
社員はサラリーマンというよりインテリヤクザだったり、
梁山泊風の仲間だったり、とにかく奇妙な集団だった」

「1955年、アサヒ芸能へ入社して整理部へ。ハダカ写真に抵抗があったが、
編集長にされてしまった。だが手がけた週刊誌は売れず、一年でクビに」

「ハダカ写真の編集長は適任ではなかったが、引き受けたのは心の隅に
青年の功名心があったからだろう」との述懐も。

その後、松枝茂夫、竹内好という中国文学の大家とその門下生13名と共に、
村山氏もその一員となって「中国の思想」12巻に着手。
会社近くのアパートの一室を研究室にして、若い学徒らと過ごすようになった。


ハダカ写真から一転、
中国の韓非子、孟子、論語などに鞍替えした村山氏は、
第10巻「孫子・呉子」の訳を担当した。


コウカイさんは試してダメでも見捨てず、必ずその人を生かした。

左伝

村山さんは陽が落ちたころ、
ホームレスたちの真ん中に座って、みんなと酒盛りをしていることがあった。
「あれ、村山さん」と声を掛けると、酔眼を向けてニタッと笑った。

みんなは「奥さんが怖いんで家に帰りたくないんだよ」と言っていたが、
ブログには妻への愛情あふれる言葉ばかりが並び、
その愛妻を亡くされたときは慟哭。「俺もすぐそっちへ行くからな」と。


その村山さん、
「もう時効だから告白するが」と前置きしつつ、こんなことも書いていた。

「34,5歳ごろ、ほろ酔い気分で飲み屋の赤ちょうちんを電車の尻につけた。
赤ちょうちんをぶら下げたまま走り去る電車を見送りながら、バンザイをした。
しかしこれは犯罪行為だと気が付き、以後、イタズラは止めた」

私は思わず、吹き出した。
なんだぁ、村山さんこそ奇妙で風変わりな人だったんじゃないの。

村山さんのこのブログを見つけたのは、あれから40年もたったころだった。
懐かしくてすぐ連絡を入れたら、
「おおーっ、覚えてるぞ」と、例の村山調の返事が来た。

そのとき、思った。

もしかしてこの私も、
梁山泊の仲間の一人に入れていただいていたのかもなあ、と。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村
スポンサーサイト



いつの間にか「傘寿」㉒

いつの間にか傘寿2
11 /28 2023
二人っきりになった父と母に、何か喜んでもらえることをしたいと思った。

母はなによりも本が好きだったし、父が「隠れ本好き」なのを知っていたし、
それに私は出版社にいるのだからと本を送ることにした。

二人が好きそうな本を社員割引きの7掛けで買って送ったら、
折り返し母から手紙が来た。

「お父さんは清子の手紙をジッと読んで目をそらし、
手紙だけお母さんの方へ寄こし、楽しそうに読み始めました。


  子の文のやさしさ汗の目にしみる

これでもかこれでもかとでもいうように、連日の猛暑。
清子は溶けそうなアスファルトの上をコツコツと歩いているのかしら。
パラソルをさしてください。日射病になりますから」


父に贈った林房雄氏の「西郷隆盛」
img20231122_14394889.jpg

手紙の末尾に母から、さらなるお願いがあった。

「新潮社刊 俳人伝記集 吉屋信子著『底の抜けた柄杓』
手に入りましたらお願いいたします。母より」

と書いた後、気が引けたのか、
「でも今度はこちらで買いますから、心配しないでください」とあった。

しばらく逡巡したのだろう、数行あけたあと、今度は、

「『西郷隆盛』は五巻までいただきました。
出来ましたら後、おねがいします。
お父さんが楽しみに待ってゐるようですので」と、書かれていた。


こんな小さな広告でも何度も赤を入れられた。
img20231122_14283716.jpgimg20231122_14230661.jpg

母の希望した吉屋信子の「底の抜けた柄杓」を送ったら、
嬉しさ全開の礼状が来た。

「今日は待望の本と手紙をありがとうございました。
おどる胸をおさへて紐を解き、一気に三分の二読んでしまいました。
ほんとうにありがとう」


今東光氏の本には、勝新太郎さんが「発刊に拍手」を送っています。
「今氏の小説群は今日の壮観であろうか。
構想行文が天馬空を行く如く爽快で男性的である」
img20231122_14460541.jpg

またある日の手紙には、改まった口調の礼状が届いた。

「昨日は高價な本二冊もお送りいただきありがとう。
こんな立派な本を読むのも絶へて久しき。
毎日少しずつ読ませてもらおうと心楽しく思ってをります。

心もとない巣箱から(子供たちが)順々に飛び立って行き、
ついに最後の一羽も大空めがけて飛び立ち、
破れた古巣を抱いて虚しき心も癒えし今日この頃。

運ばれた短い文のふしぶしに、楽しさ満ち溢れてゐるのを知り、

うれしく思っています。
いつの間にこんな丈夫な木になってゐるのか。
雨にも風にも嵐にも、きっと耐へて行く事を信じます」


「色にかけてはひけ目をとらず、欲にかけては並ぶものなし」などと書く私を、
編集長がからかった。「色の道を知らないから、ズケズケ書けるんだよなぁ」
img20231122_14412704.jpg img20231122_14372620.jpg

若手社員たちが「雨宮清子の処女を守る会」を作った。
当時編集部は3つあった。
別の編集長から猛烈なセクハラを受けたが、みんなが守ってくれて助かった。


「艶話(えんわ)いなもの」の作者、近藤啓太郎氏のところへ行ったら、
仕事場は日本旅館だった。仲居さんに案内されて部屋へいったら、
敷きっぱなしの布団から顔だけ出して、「おお、来たか」

「僕の小説、どこが面白かった?」と聞くから、私は廊下に正座したまま、
「はい。チンクサーレがおもしろかったです」と言ったら先生、大爆笑。
チンクサーレは男性自身に塗るとそこが腐る薬のことで、
コンケイ先生の造語。浮気者の亭主への浮気防止薬だったのです。
img20231122_15223711.jpg

「清子は雨にも風にも嵐にも耐えていくと信じています」
と言う手紙の中に愚痴も忘れない。

「人生及び結婚の敗残者の私が、こんなことを言うのは一寸変だけれど、
人生はやり直しがききません。

   性合わぬ夫と幾年暮らしつつ
        涙しつつもむち打つ我に」


母の心の動きは、相変わらず右に左に揺れているのか、
ドキッとする手紙のあと、
今度は何事もなかったような日常を綴った手紙が届いた。

「もうすぐお父さんが仕入れから帰る頃です。
お父さんも昨日から清子からの本を読んでゐます。
お父さんには講談本のほうがよいようです」

母はあからさまに「性合わぬ夫」と、父をコケにしていたが、
父は私に言ったことがあった。
「お母さんと一緒になってよかったよ」

なにはともあれ、二人で寄り添って暮らしている様子に私は安堵した。

そんなある日、社長がニコニコしながら私に近づいてきた。


「雨宮クン。ご両親からおいしいものを送っていただいたよ。ありがとう」

一瞬、ドキンとした。


すぐ母に問い合わせたら、
「社長さんやみなさんに食べていただこうと思ってね、お父さんと二人で
草餅をたくさんついたの。お餅のほかに柿と栗も入れてお送りしたの」

写真の裏に母の文字で、
「ゲバ学生ではありません。アケビを取るお父さんの雄姿」と。
父は栗もこうしてとってくれたのでしょう。
img20231122_14190488_0001.jpg

子供の頃、店を閉めた大晦日の深夜、大きな臼を真ん中に、
父が杵を持ち母が手返しをしていた餅つきの光景が浮かんだ。

実家の庭には大きな丹波栗の木があった。
甘柿の木はなかったから、父が隣町の果物屋から買ってきたのだろう。


都会の人にはヨモギの匂いはきついかもしれないし、
生の栗の処理に困っただろうと私は気を揉んだが、
東京の会社を知らない父と母からの、田舎まるだしの素朴なこの贈り物を、
社長は心から感謝して受け取ってくれた。

ありがたかった。


社員旅行で。徳間社長と普段は交流がない女性社員たちと。
改めて徳間社長の生年月日を調べたら、この時はまだ42歳。若かったんだ。
いつもニコニコしていて器の大きな人でした。
当時の奥様はミス早稲田だったとか。恐妻とのうわさも。
img20231122_14190488.jpg

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

いつの間にか「傘寿」㉑

いつの間にか傘寿2
11 /25 2023
新人編集者の私の仕事は主に3つ。

一つは作家さんや画家さんたちを訪問しての原稿の受け渡し。
二つ目は小説の校正作業。
これは初校、再校、三校と3回おこなった。

三つ目は広告の作成です。

デザインの学校を出たわけでもないのに、
いきなり新聞や週刊誌、チラシの広告を作れというのです。
デザインも文章もどの絵柄を使うのかも、私に全部丸投げ


でもやってみると、これが楽しかった。
どういうレイアウトにするか、とか、どのさし絵を持ってこようか、とか。

一番ワクワクしたのは、
ひと目見て、つい買いたくなるようなキャッチコピーを考えるときだった。

当時自分が作った広告を私はまだ持っているんです。スクラップブックで。

たとえばこんなもの。
ハードボイルド作家として一世を風靡した大藪春彦。サンカ小説の三角寛。
「柳生武藝帳」の五味康祐(正しくは示に右の文字)、菊村到の新作など。
img20231110_16482866.jpg

大藪春彦氏の奥様も元・編集者だったから、私はすぐ馴染んだ。
その大藪宅へ伺ったら、台所からご本人が叫んだ。
「ちょっと待ってて。今朝、大きなタコ獲ったんだ。今、茹でてるから」

その日私は茹で上がったばかりの大ダコと編集長への土産のお酒と
私へのチョコレートと原稿を抱えて帰社。
電車の中でタコが匂って、二十歳の乙女は恥ずかしくて、
タコを抱いたまま早く下車駅が来るのを祈っていた。

岩崎栄の「徳川女系図・家重濡れ牡丹の巻」には、
「放蕩将軍・家重の漁色はやまず」、今東光の「愛染時雨」では、
「浮世絵的エロチシズムの極致。二人は青酸カリサイダーを共に飲み下した。
そして双方からにじり寄るとヒシと抱き合った」
などと、人目を引きそうなコピーをルンルンと書いていた。


五味康祐氏、45歳。写真も若い。
「他でもない。柳生は忍びが本体じゃ」「忍び?」
かりそめにも将軍家兵法指南たる柳生家が、下賤の術と蔑まれる忍びとは…。
img20231123_21241815.jpg

そのころ関西の演劇界で活躍されていた花登筐さんが小説を初めて書いて、
この出版社に持ち込んだ。
以後、「フグとメザシの物語」「すててこ大将」など矢継ぎ早に出版。
原稿を渡されるのはいつも喫茶店。優しい人で、このひとときが楽しかった。
「僕、直木賞、欲しいんだ。取れるかなぁ」「取れます。絶対」なんて言って。
でも取れなかった。


花登筐「銭牝」
img20231110_16411296.jpg

「西郷隆盛」の著者・林房雄氏は確か当時、鎌倉に住んでいた。

はるばる訪ねた私を、まるで孫娘が来たとでもいうように
ご夫妻で歓待してくださり、帰りにはそのころ賛否両論で世間を騒がせていた
「大東亜戦争肯定論」のご著書を持たせてくださった。

笹沢佐保氏からは、できたばかりの日生劇場のチケットをいただいた。
「何枚欲しい?」と言うから「2枚」と言ったら、「恋人の分か?」「はい」

当日、会社の女性社員と出かけたら、
近くの席から私を見て、わっはっはと大笑いした。
どんな男が来るか見てやろうと思っていたんでしょう。私はエヘヘと返した。

個人所有の小型飛行機に乗せてくださった方もいて、もう楽しいことばかり。

ところがただ一人、怖い人と遭遇。
大御所・村上元三氏です。

当時この方は「鎮西八郎」シリーズを執筆。
上は「司馬遼太郎選集」の広告。この原稿には編集長の赤が入っています。
img20231118_19274840.jpg

村上氏の所は初めてだったが、いつものように何の憂いもなく出かけた。
ところが玄関へ現れたご本人、仁王立ちしたままいきなり大音声。

「こんな子供を寄越すなんてけしからん!」

帰社して事情を話したら編集長が、
「ただ原稿をいただくだけなのに、なんだ、えらそうに!」と憤慨した。

まあ、私は23歳の時、のちに夫となった彼と入ったパチンコ屋で、
警察官二人に補導されそうになったから、
元三先生には頼りないヒヨッコに見えたのでしょう。

会社の出版内容は、お色気物やお涙ものの柔らかいものから、
「中国の思想」「近代日本の名著」「日本刀全集」などの硬いものと幅広く、
頭の切り替えが忙しかった。


柴田光男氏の名前が入ったふろしきです。
柴田氏は当時の美術刀剣商・刀剣鑑定士。
20231121_163903.jpg

当時は「水石」ブームで、編集長と現地へ出かけたりもした。

そのころ、旧参謀本部編纂の「日本の戦史」全11巻が進行中。
私は毎月、監修者の大学教授のお宅へ原稿取りです。

そのうち、先生に気に入られて、「息子と見合いをしてほしい」と。

「拒めば原稿は渡さない」というので、人生初の見合いをしました。
でもねぇ、さすがに結婚はまだ早い。それに仕事も面白くなってきたし、
というわけで断るのに悩みました。


結局、編集長が「まだ二十歳そこそこで、仕事を始めたばかりですから」
と電話して、別の社員が菓子折り持参で謝罪に行ってくれた。

もちろん私は、教授宅へは出入り禁止になりました。
目出度く受け入れていたら、
私は「義父」からマンツーマンで歴史を教えていただけたのに、
ちょっと惜しかった。


色刷りのチラシ。
表は赤色で、
「義経記」「平家物語」「吾妻鏡」の三古典を総編集した「原典 源義経」
こちらは裏で「日本の戦史」。黒一色。定価はそれぞれ570円と580円。
img20231110_16512238.jpg

傘寿になったら、そんな昔のことが映像の如く鮮やかに蘇ってくるんです。

あのとき教授の息子のエリートサラリーマンの妻になったら、
母の念願通り、「上品なお召を着て里帰り」できたかも。
いやいや、あの優しい作家さんと結婚したら楽しい家庭が築けたかも。

長兄の紹介に素直に従い、航空自衛隊の秘書課に勤務して、
素敵なパイロットの奥さんになったら幸せだったかも、なぁんて。

あれから60年。
牛肉100g80円、映画鑑賞1回平均221円の時代に、新書版が300円前後。
映画より高かったが、よく売れた。

今は出版不況と言われ、町から本屋が消えた。

隔世の感あり。

ああ、青春は遠くなりにけり。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞