いつの間にか「傘寿」㉓
いつの間にか傘寿2
徳間書店には2年半しかいなかった。
短期間ではあったが、そここそが私の原点になった。
この原点に出会えたことが、
その後の私を何があってもめげないサバイバーにしてくれた。
社長の「徳間康快」という人はあらゆる意味で「大きな人」だった。
いつ見ても笑顔の人だった。
私たちは愛を込めて、「コウカイさん」と呼んだ。
社員旅行でオイチョカブをやった。コウカイさんボロ負け。私が勝った。

佐高信氏は、
著書「飲水思源・メディアの仕掛け人 徳間康快」で、こう書いている。
「飲水思源は水を飲むときはその井戸を掘った人を思えと言う意味の
中国の言葉。
コウカイならぬゴウカイ(豪快)とも呼ばれた徳間康快は、
文化の井戸を掘った。それは必ず水が出ると信じて掘ったのではなく、
徒労に終わっても掘り続けなければ水は出ないと覚悟して、
さまざまな井戸を掘り続けた」
さらに佐高氏は、
スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫氏が、
徳間社長から言われたこんなことも書いている。
ある日、鈴木氏は徳間社長からこう尋ねられた。
「俺もいろんな会社をやってきて苦境に立たされてきたし、
ひどい目にもあってきたけれど、
これさえあれば切り抜けられるというのは何だと思う?」
わからないので鈴木氏が黙っていると、こう続けたという。
「人間的魅力だ。
これさえあればあらゆる艱難辛苦は乗り越えられる」
そう、コウカイさんはまさに、人間的魅力にあふれる人だった。

株式会社金曜日 2012
私はオリンピック開催の年の1964年に、
「アサヒ芸能出版社」の「徳間書店」に入社した。
この年が初めての新卒者募集だったとあとから聞かされた。
どうりで、オヤジばかりだと思った。
会社の募集を何で知ったかは忘れたが、ひと目見て虜になった。
この出版社で出している週刊誌はハダカばかりと聞いてはいたが、
募集広告の文面は簡潔で新鮮、活気に溢れ、淫靡さは微塵もなかった。
文面は忘れたが、
私はその募集広告から勝手にこんなメッセージを受け取った。
「権威、縁故はクソくらえ。
これから発展するぞ、やる気がある者だけ、来たれ!」
なんだか闘志満々になって、
「ここだ! ここしかない!」と思い込み、即、願書を出した。
「短大生ですが、受験だけでもさせてください」と。
入社の3年前に「アサヒ芸能出版社」から書籍部門を「徳間書店」として
分離独立していたから、受かればたぶん書籍の所属だろうと思ったものの、
ハダカ週刊誌だって構わないとも思っていた。
入社後、編集長が「男を知らない生娘は大胆で怖い」と、笑った。
採用通知の電報が届いた時、
母が「アサヒゲ、イノー」と読んで大笑いになったのも、今は懐かしい。
二期入社の島田敬三氏は26歳で退社。溝口敦の名で作家デビューした。

会社は新橋・烏森口にあった。
ルポ・ライターの竹中労氏は、
「木筋二階建て、つれこみホテルを改築したオンボロの社屋」と書いているが、
ここには新社屋に移るまでの短期間しかいなかったので、
オンボロ以外は記憶が薄い。
確か書籍の編集部は販売部と同じ部屋にあって、
週刊誌の編集部はその上階にあった。
「飲水思源」に古い社員の話として、
「そのころ社長は、週刊誌の編集長も兼ねていた」と書いてあったから、
社長室もその一画にあったのだろう。
私が2回目の面接試験を受けたのは、2階の小部屋だったような…。
とにかく人の出入りの激しい、ごった煮のような職場だった。
右寄りの人も左寄りも宗教の信者も学者もいた。
ノッポでおしゃれなゲイさんもいた。体を触られるからと若い男性は
二人だけになるのを避けていたが、逆に私には安全な人だった。
輪ゴムで無造作に髪を束ねていたら、
「女の子がそれではいけません」と忠告された。
出入りする面々も作家、政財界の人、相撲取り、歌手や女優の卵、
記事にクレームをつけて金銭をせびりに来るエセ〇〇や強面の人など、
木造の階段をギシギシさせながらひっきりなしに登って行った。
コンクリートの階段だったかもしれないが、
私には階段を上り下りする人の足音が、「木造の階段をギシギシ」
というふうに聞こえた。
のちに歌手として大成する五木ひろし氏もその一人で、
私がいたころは、ギター片手に飲み屋で弾き語りをする流しをやっていた。
建物は確かにオンボロだったが、
そのオンボロが吹っ飛びそうなほどすごい活気に満ちていた。
生きていることをこんなに実感したことは今までなかった。
仕事中に隠し撮りされた。これは新社屋に移ってから。

出版局長で中国古典研究者として知られた村山孚氏(神子侃)は、
のちに当時の会社をブログにこう書いている。
「昨今の出版社と違い、社長は経営者というより風変わりな侍、
社員はサラリーマンというよりインテリヤクザだったり、
梁山泊風の仲間だったり、とにかく奇妙な集団だった」
「1955年、アサヒ芸能へ入社して整理部へ。ハダカ写真に抵抗があったが、
編集長にされてしまった。だが手がけた週刊誌は売れず、一年でクビに」
「ハダカ写真の編集長は適任ではなかったが、引き受けたのは心の隅に
青年の功名心があったからだろう」との述懐も。
その後、松枝茂夫、竹内好という中国文学の大家とその門下生13名と共に、
村山氏もその一員となって「中国の思想」12巻に着手。
会社近くのアパートの一室を研究室にして、若い学徒らと過ごすようになった。
ハダカ写真から一転、
中国の韓非子、孟子、論語などに鞍替えした村山氏は、
第10巻「孫子・呉子」の訳を担当した。
コウカイさんは試してダメでも見捨てず、必ずその人を生かした。

村山さんは陽が落ちたころ、
ホームレスたちの真ん中に座って、みんなと酒盛りをしていることがあった。
「あれ、村山さん」と声を掛けると、酔眼を向けてニタッと笑った。
みんなは「奥さんが怖いんで家に帰りたくないんだよ」と言っていたが、
ブログには妻への愛情あふれる言葉ばかりが並び、
その愛妻を亡くされたときは慟哭。「俺もすぐそっちへ行くからな」と。
その村山さん、
「もう時効だから告白するが」と前置きしつつ、こんなことも書いていた。
「34,5歳ごろ、ほろ酔い気分で飲み屋の赤ちょうちんを電車の尻につけた。
赤ちょうちんをぶら下げたまま走り去る電車を見送りながら、バンザイをした。
しかしこれは犯罪行為だと気が付き、以後、イタズラは止めた」
私は思わず、吹き出した。
なんだぁ、村山さんこそ奇妙で風変わりな人だったんじゃないの。
村山さんのこのブログを見つけたのは、あれから40年もたったころだった。
懐かしくてすぐ連絡を入れたら、
「おおーっ、覚えてるぞ」と、例の村山調の返事が来た。
そのとき、思った。
もしかしてこの私も、
梁山泊の仲間の一人に入れていただいていたのかもなあ、と。

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短期間ではあったが、そここそが私の原点になった。
この原点に出会えたことが、
その後の私を何があってもめげないサバイバーにしてくれた。
社長の「徳間康快」という人はあらゆる意味で「大きな人」だった。
いつ見ても笑顔の人だった。
私たちは愛を込めて、「コウカイさん」と呼んだ。
社員旅行でオイチョカブをやった。コウカイさんボロ負け。私が勝った。

佐高信氏は、
著書「飲水思源・メディアの仕掛け人 徳間康快」で、こう書いている。
「飲水思源は水を飲むときはその井戸を掘った人を思えと言う意味の
中国の言葉。
コウカイならぬゴウカイ(豪快)とも呼ばれた徳間康快は、
文化の井戸を掘った。それは必ず水が出ると信じて掘ったのではなく、
徒労に終わっても掘り続けなければ水は出ないと覚悟して、
さまざまな井戸を掘り続けた」
さらに佐高氏は、
スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫氏が、
徳間社長から言われたこんなことも書いている。
ある日、鈴木氏は徳間社長からこう尋ねられた。
「俺もいろんな会社をやってきて苦境に立たされてきたし、
ひどい目にもあってきたけれど、
これさえあれば切り抜けられるというのは何だと思う?」
わからないので鈴木氏が黙っていると、こう続けたという。
「人間的魅力だ。
これさえあればあらゆる艱難辛苦は乗り越えられる」
そう、コウカイさんはまさに、人間的魅力にあふれる人だった。

株式会社金曜日 2012
私はオリンピック開催の年の1964年に、
「アサヒ芸能出版社」の「徳間書店」に入社した。
この年が初めての新卒者募集だったとあとから聞かされた。
どうりで、オヤジばかりだと思った。
会社の募集を何で知ったかは忘れたが、ひと目見て虜になった。
この出版社で出している週刊誌はハダカばかりと聞いてはいたが、
募集広告の文面は簡潔で新鮮、活気に溢れ、淫靡さは微塵もなかった。
文面は忘れたが、
私はその募集広告から勝手にこんなメッセージを受け取った。
「権威、縁故はクソくらえ。
これから発展するぞ、やる気がある者だけ、来たれ!」
なんだか闘志満々になって、
「ここだ! ここしかない!」と思い込み、即、願書を出した。
「短大生ですが、受験だけでもさせてください」と。
入社の3年前に「アサヒ芸能出版社」から書籍部門を「徳間書店」として
分離独立していたから、受かればたぶん書籍の所属だろうと思ったものの、
ハダカ週刊誌だって構わないとも思っていた。
入社後、編集長が「男を知らない生娘は大胆で怖い」と、笑った。
採用通知の電報が届いた時、
母が「アサヒゲ、イノー」と読んで大笑いになったのも、今は懐かしい。
二期入社の島田敬三氏は26歳で退社。溝口敦の名で作家デビューした。


会社は新橋・烏森口にあった。
ルポ・ライターの竹中労氏は、
「木筋二階建て、つれこみホテルを改築したオンボロの社屋」と書いているが、
ここには新社屋に移るまでの短期間しかいなかったので、
オンボロ以外は記憶が薄い。
確か書籍の編集部は販売部と同じ部屋にあって、
週刊誌の編集部はその上階にあった。
「飲水思源」に古い社員の話として、
「そのころ社長は、週刊誌の編集長も兼ねていた」と書いてあったから、
社長室もその一画にあったのだろう。
私が2回目の面接試験を受けたのは、2階の小部屋だったような…。
とにかく人の出入りの激しい、ごった煮のような職場だった。
右寄りの人も左寄りも宗教の信者も学者もいた。
ノッポでおしゃれなゲイさんもいた。体を触られるからと若い男性は
二人だけになるのを避けていたが、逆に私には安全な人だった。
輪ゴムで無造作に髪を束ねていたら、
「女の子がそれではいけません」と忠告された。
出入りする面々も作家、政財界の人、相撲取り、歌手や女優の卵、
記事にクレームをつけて金銭をせびりに来るエセ〇〇や強面の人など、
木造の階段をギシギシさせながらひっきりなしに登って行った。
コンクリートの階段だったかもしれないが、
私には階段を上り下りする人の足音が、「木造の階段をギシギシ」
というふうに聞こえた。
のちに歌手として大成する五木ひろし氏もその一人で、
私がいたころは、ギター片手に飲み屋で弾き語りをする流しをやっていた。
建物は確かにオンボロだったが、
そのオンボロが吹っ飛びそうなほどすごい活気に満ちていた。
生きていることをこんなに実感したことは今までなかった。
仕事中に隠し撮りされた。これは新社屋に移ってから。

出版局長で中国古典研究者として知られた村山孚氏(神子侃)は、
のちに当時の会社をブログにこう書いている。
「昨今の出版社と違い、社長は経営者というより風変わりな侍、
社員はサラリーマンというよりインテリヤクザだったり、
梁山泊風の仲間だったり、とにかく奇妙な集団だった」
「1955年、アサヒ芸能へ入社して整理部へ。ハダカ写真に抵抗があったが、
編集長にされてしまった。だが手がけた週刊誌は売れず、一年でクビに」
「ハダカ写真の編集長は適任ではなかったが、引き受けたのは心の隅に
青年の功名心があったからだろう」との述懐も。
その後、松枝茂夫、竹内好という中国文学の大家とその門下生13名と共に、
村山氏もその一員となって「中国の思想」12巻に着手。
会社近くのアパートの一室を研究室にして、若い学徒らと過ごすようになった。
ハダカ写真から一転、
中国の韓非子、孟子、論語などに鞍替えした村山氏は、
第10巻「孫子・呉子」の訳を担当した。
コウカイさんは試してダメでも見捨てず、必ずその人を生かした。

村山さんは陽が落ちたころ、
ホームレスたちの真ん中に座って、みんなと酒盛りをしていることがあった。
「あれ、村山さん」と声を掛けると、酔眼を向けてニタッと笑った。
みんなは「奥さんが怖いんで家に帰りたくないんだよ」と言っていたが、
ブログには妻への愛情あふれる言葉ばかりが並び、
その愛妻を亡くされたときは慟哭。「俺もすぐそっちへ行くからな」と。
その村山さん、
「もう時効だから告白するが」と前置きしつつ、こんなことも書いていた。
「34,5歳ごろ、ほろ酔い気分で飲み屋の赤ちょうちんを電車の尻につけた。
赤ちょうちんをぶら下げたまま走り去る電車を見送りながら、バンザイをした。
しかしこれは犯罪行為だと気が付き、以後、イタズラは止めた」
私は思わず、吹き出した。
なんだぁ、村山さんこそ奇妙で風変わりな人だったんじゃないの。
村山さんのこのブログを見つけたのは、あれから40年もたったころだった。
懐かしくてすぐ連絡を入れたら、
「おおーっ、覚えてるぞ」と、例の村山調の返事が来た。
そのとき、思った。
もしかしてこの私も、
梁山泊の仲間の一人に入れていただいていたのかもなあ、と。

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