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いつの間にか「傘寿」㊵

いつの間にか傘寿2
02 /18 2024
私的な暗部を人さまに見せる、
恥ずかしいことなのか、不快感を与えるだけなのかは正直、わからない。
ただ書きたいという衝動は消しようもなく、
ひとつ書くごとにそれが自分自身の浄化に繋がる、そんな気がした。

80歳になったとき、やけに過去が甦ってきた。
その過去の映像を記憶の引き出しからひとつひとつ引き出してみたら、
意外にも冷静に見ることができた。

まるで他人事みたいに。


私は終戦の2年前に生まれた。
子供の頃の楽しみはラジオだった。

♪ お父さんは青い空 いつもそっと見てるよ きっと
  お母さんは白い雲 いつもそっとささやく きっと
  ワンココロわんわん コーロコロ 
  ワンコロわんわんコーロコロ わん わん わん


これはみなしごになった子犬の「コロ物語」。

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コロは一人になってもたくましく生きた。
ラジオから流れる声優の声を聞いているだけで、
目の前にそのシーンが連続して見えて、私はコロのために泣いた。

「少年探偵団」も楽しみだった。
テーマソングの「♪ ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団」が聞こえてくると、
ラジオにかじりついた。


「浪曲天狗道場」では浪花節を覚えた。真似て唸ると爽快だった。

NHK紅白歌合戦はもちろんラジオで聞いた。
大晦日、父と母の餅つきを見ながら、みんなで聞いた。

こうして記憶の奥から過去の映像を引き出して見ていると、
次から次へ思い出が溢れてきた。


観客席には私一人がいて、
遠い日の風景の中で父や母や姉や兄たちが、
サイレント映画みたいに動いていた。
不思議なことに映像には私自身はいなかった。


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つらいことなんかなかったではないか、そんな気持ちになった。
そして見終わって映像を閉じたとき、
自分がすっかり浄化されているのに気が付いた。

近所の農家のおばさんから「あんたはシンデレラみたいな子だね」と
言われた日もあった。「あんたのお母さんは姉さんたちばかり可愛がって」


私は母からの仕打ちより、
自分が置かれた現実を周囲に知られていることの方が恥ずかしくて、
「そんなことはない。私のお母さんは素晴らしい人なんだ」
と自分にいい聞かせてきた。

それでも私の背負っていたものは隠しきれなかったのだろう、
「寂しそう」「暗い」と言われ、M編集長からは「尖がっている」と言われた。


後年、お世話になった新聞社では「元気印」と言われていたが、
支局長だけは心配そうに忠告してくれた。

「そんなに周りに遠慮するな。
あなたは人に気を遣い過ぎる。もっと自分を大事にしたほうがいいよ」


フリーの記者だったから超がつくほどの安い稿料だったが、
やりがいはお金では買えないものだった。
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母の虐待から逃れるために夕食を作ったら、虐待は止んだ。
そのとき私は「人に優しくすればその恩恵は自分に返ってくる」と思った。

だがそれは結果的に間違っていた。
そうした行為は場所や時代や人が変わっても、
さらにいじめを受けやすくするといういびつな人間関係を作った。

私はそれを人に媚びへつらう卑屈な態度と認識しないまま、
「気を遣い過ぎる」大人になった。そのことを支局長は見抜いたのだ。


息子からも言われた。
「お母さんはなぜそんなに周りに遠慮ばかりしているんだ。
おかげでぼくらまでつらい思いをしているじゃないか」と。


そういえば夫のSも言っていた。
「お前が優しすぎたから俺がダメになった」

身勝手な責任転嫁だが、一理あるなとも思った。


人に気を遣い過ぎることはさらなるいじめを誘発してしまう、
そのことに気付いたのはずっとあとになってからのことだ。
だが、気づいても修正できなかった。

間抜けな人生だなあとつくづく思ったが、努力はした。

二男の出産の折、母から「妊婦は汚いから風呂は最後に入れ」と言われた。
浴室にはシャワーがなく、入浴は数日おきで以前の風呂の追い焚き。
そのどろんとした湯に耐えかねて、妻が妊娠中だった次兄に助けを求めた。

兄はピーナッツか何かをボリボリ食べながら、
電話の向こうでけだるそうに言った。
「ふーん。うちでは一番先にいれるけどね」


あの食糧難の時代、母はこの兄だけに玉子掛けご飯を食べさせた。
「私も食べたい」と言ったら、「兄ちゃんは今、成長期だから」と。
たった3つしか違わない兄は私の目の前で、
勝ち誇ったようにそれをかっ込んでいたではないか。
その兄に助けを求めるなんて、バカだなと思った。


出産から間もなくして実家から逃げ帰ってきた。
二男にミルクをやりながら、戦時下、母乳が出ず玄米を粉にして私に与え、
苦労して育ててくれた母を複雑な気持ちで思いつつ。
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努力しても虚しさだけが返ってくるということをこのとき知ったが、
それでも私はあきらめなかった。

つらいことから目を逸らすと見えてくるものがある。それを信じた。
そちらから助けに寄ってくることはなかったけれど、
確かに別の世界があると思った。それも複数。


そのとき思った。
「なあんだ。苦境からほんのちょっと体をずらせばよかったんだ」と。

苦境に落ちたまま潰れるか、叩かれても這い上がるか、
今風に言えばサバイバーになれるかなれないかは、
被虐待者が「助けてくれる人」や「場所」に気づくかどうか、
そして自ら行動に移せるかどうかということだと私は思う。


「愛着崩壊」岡田尊司 KADOKAWA 平成24年という本に、
こんな一文があった。


「子供のときどんな体験をしたかということよりも、
その体験をどう受け止め振り返ることができるかが重要」

「安定型の人では逆境的な体験であっても、
それと折り合いをつけ、前向きに振り返ることができる」
「それはポジティブの意味のもとに自己考察する能力と関係する」


そして著者はこう付け加える。
「親以外の人が安全基地となってくれる場合があるかどうかが重要」と。

私はそれを10歳の時、自分で見つけた。
それが適切でなかったにしても、とにかく切り抜けた。


ただ「やる」「やられる」の関係は、
「やる」ほうに反省や懺悔がない限り解消できないことを、
二男の出産のとき、身をもって知った。


「弟が生まれたよ」。長男、このとき4歳8か月、次男生後1か月。
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実家の母から「家で産んだらどうか」と言われたとき、私は28歳だった。

そのころ実家には教師のW子という7歳上の姉がいた。
離婚して実家に出戻っていた。


このときW子から受けた仕打ちは、
44歳の時夫・Sから受けた仕打ちに匹敵するほどひどいものだった。
どちらも命に係るものだったから、
この二つだけは「記憶の映像」を、ずっと見ることができないままだった。 

家族と縁を切ってはいけないと思い込んでいた私だったが、
自分が還暦を迎えた時、「もう終わりにします」と母に伝えた。
もう充分子としての務めは果たした、これからは自分のために生きるんだと。


それから10数年後の母の死後、「力石」の情報を得て故郷を訪ねた時、
初対面の情報提供者から突然「実家」の話を突き付けられた。

「あなたは〇〇さんの家の人ではないですか?」

即座に否定したら、不審げな顔で「絶対そうですよ。似てますもん」と言い、
「お姉さんはあんなに立派な方なのに」と非難するような口ぶりになった。

その数年前にも同様のことがあった。まだ母が生存中のときで、
この町に用事で立ち寄った際、見知らぬ女性から声を掛けられた。
女性は険しい顔で言った。
「あんた、あそこの家の人でしょ。お母さんどうしてる?
姉さん一人に押し付けていい御身分ね」


JR東静岡駅から見た富士山。左側に新幹線、右側を在来線が走っている。
東静岡駅

母は百歳で死んだ。W子姉は半世紀をこの母と過ごした。
その孝行ぶりは小さな町だから、隅々にまで評判になっていたのだろう。
「苦労を姉さん一人に押し付けて」という言葉を付して。


かつてW子姉は親戚の伯父や伯母がくると、幼い私を指してこう言った。

「この子は空想好きで物語を作るのが得意ですから、
この子の言うことは信じないでください」
「この子は心がいじけた、ひねくれた子ですから」

そしてこの言葉は実家と縁を切ったあとまで、形を変え吹聴された。
一人で老母を介護している感心な元・教師の言葉を、
誰もウソとは思わないだろう。


「二人は共依存母娘ですから」などと、反論するつもりはさらさらない。
「立派な方」に見えていたのなら、それはそれでいいではないか。

だってあの恐怖は私以外知る人はいないのだから。
だから話しても理解されないだろうとずっと封印してきた。

だが傘寿を迎えて思い直した。


あのときの映像を今一度、巻き戻して見よう、そう思った。
自分のために。浄化して禍根を残さないために。

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いつの間にか「傘寿」㊴

いつの間にか傘寿2
02 /15 2024
次兄から言われたことがある。
「お前は昔のことを克明に覚えているから怖い」

そう言われて初めて気が付いた。
私は映像で記憶するという、兄とは違う記憶の仕方をしているらしい、と。

だから過去を振り返る時、そのときの映像を巻き戻せば表情や匂いと共に
記憶が鮮明に蘇ってくる。ただしこの記憶装置は、
感情を揺さぶられたり衝撃的、印象的な出来事に限られていたから、
苦手な学校の勉強にはほとんど役に立たなかった。

持って生まれたこの記憶装置、
40代半ばで入った新聞社でもごく自然に活用していたから、
取材の時、メモもテープへの吹き込みもしなかった。

そんな私を見てデスクが忠告した。


「あとで取材した人から、
そんなことは言ってないと苦情が来た時困るから証拠を残してくれ」


取材中の自分の写真はわずか。これはその一枚。
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もっともだと思ったものの不遜にも私は、
テープレコーダーは買ったものの使わずメモもいい加減だった。
だが幸いにも、記者時代の14年間、苦情は一度もなかった。


第一、テープ起こしに時間を取られるなんて愚の骨頂だし、
そうした記事は往々にしてダラダラとして、
一体何を言わんとしているのかという意味不明な記事になりやすい。

実際の取材の現場で要点をすばやく掴み記事にする方が、
よっぽど正確な記事になる。
それに目の前で録音されれば緊張して、よそ行きの会話になりがちだから、
本音が出ない。つまらない記事になる。


今は記者会見の場で各社一斉にパソコンに打ち込んでいるが、
あれはデスクへの送信なのか、あとから記者自身が読んで記事にするため
なのだろうか。今の私にはわからない。


画家修業にイタリアへ旅立つ若者へインタビュー。若い友人たちも一緒に。
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幸い私の担当は文化面で、
事故や事件のような緊急を要するものではなかったし、企画も取材対象も
全部私の自由だったから事前調査にたっぷり時間を使うことができた。

演劇人なら伊豆半島の先端から遠州の山奥まで足を運んで芝居を観、
アーティストなら展覧会場へ出かけたり画集を見たり、
著作があれば読んで、可能な限りの情報を頭に入れてから取材に臨んだ。


そうして情報収集をしているうちに人物の輪郭がおぼろげに浮かび上がり、
その人のクセや主張、趣味、家族、経歴などが見えてくるから、
取材当日は相手との対話が以前からの知己のように弾んだ。

勉強不足や事前の調査不足は、
記者の思い込みや何を言いたいのかわからない記事になる。

今はそういう記事が多くなったと思うのは、私だけでしょうか。

「寄り道・回り道ー大井川を訪ねて」の取材で。1993年。
かつて就航していた高瀬舟の船宿など大井川流域に暮らす人々を訪ねた。
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元・夫のSは人生の大半を雑誌のライターとして生きた。
ただ彼はアンカーライターだったから、取材経験はない。

アンカーライターというのは室内にいて、
取材記者が現場で取材してきたデータや資料を元に、
雑誌の掲載用の記事に仕立てるライターのこと。

彼が20年勤めた雑誌で一度現場取材をしたものの編集長から、
「君には無理だ」と言われたと、正直に自分の著作に書いている。


アンカーライターにはそれなりの才能がいるだろうが、
現場を見ずに書くという臨場感に乏しい仕事で、
想像力を働かせすぎると事実とかけ離れた記事になる。

「講釈師、見てきたようなウソを言い」の状態で記事を書くのは、
なんだか気の毒だなとも思った。


俳優の橋爪功氏率いる演劇集団「円」と地元の人たちたちが一つになって、
菜の花が咲き乱れる野外で「菜の花舞台」を演じた。
その第一回目の公演(1994年)を取材した。写真は練習風景。
風邪を引いて鼻水が止まらず、難儀した取材だった。現在も存続とのこと。
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静岡県伊豆市小土肥

彼は作家志望だった。
38歳の時、ある新人賞に応募したが落ちた。
そのときのことを彼自身が後年、自著にこう書いている。

「ほとんどフィッシュオンしていたのに、土壇場で逃げられた」


しかしそれは事実ではない。

応募も通常の形ではなく、その出版社にいる友人に頼んで予選を飛ばし、
いきなり最終候補作5編の中にいれてもらったという特別な扱いだった。
だから「もう受賞したのも同然」と、彼は浮かれていた。

だが落ちた。私はそのとばっちりを受けて、
「お前が俺の才能を潰した。お前のせいで落ちた」と散々罵倒された。


どんなものを書いたのか気になって本屋で雑誌を求めたら、
選者のこんな酷評が目に飛び込んできた。

「これは小説とは呼べない。週刊誌記事の拡大に過ぎない」


Sの叔父は芥川賞候補にもなった戦前の作家だった。
生い立ちや生きざまをこれは絶対書かねばという強い動機に立ち、
技巧におぼれず淡々と書いていたが、Sの文章にはそれがなかった。

作り過ぎていたし、知ったかぶってもいた。
面白いだろう?凄いだろう?という自意識が先走っていた。

彼が還暦になって出した最後の本を今、読んでみたら、
「屈折」や「言い訳めいたもの」ばかりが目に付き、その根底に、
叔父の作家が指摘していたSの亡父の「えべったん笑い」と同じ、
えへらえへら笑ってごまかす「逃げ」みたいなものが感じられて、
やっぱり「文は人なり」だよなぁと、哀しいような寂しい気持ちになった。


私には、
「現場に立っての取材なくして物は書けない」というこだわりがあった。

写真家が「その場の動きを切り取って静止画像にする」ような、
そうした個人技に魅せられていたから、
元旦でも休日でも現地を飛び回っていた。

未知の人を掘り起こして新聞紙上で知らしめるという醍醐味もあった。
そして、たくさんの人に出会い、その出会った数だけの人生を知った。

静岡支局にて、掲載紙を前に。
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まだ記者になりたてのころ、
一人の県立静岡農業高校・園芸科の生徒さんに会った。

「高校生輝きコンクール最優秀賞」(産能大学主催)を受賞した
17歳の高村直登君。


早いものですね、この取材からすでに30年余たちました。
あのとき「夢はオランダ留学。品種改良がケタ違いに進んだ国ですから」
とおっしゃっていましたが、きっと実現されたことと思います。
高校生バラ

彼が言った。
「バラは改良に改良を重ねて大輪の美しいバラになりました。
でもその陰で失ったものがあります。
香りです。
バラは美しさと香りが揃ってバラなんです。

香りを失ったのは、
色と形ばかりを重視した育種家の考え方にあることに気づき、
色、形、香りの三つ揃った本物のバラを作ろうと決意。
僕は今、その香りを取り戻そうと実験を重ねています」

その後私は偶然にも、全く別の方からまた別の「香り」の話を聞いた。

マスクメロンの品質・生産額で日本一を誇る袋井市の、
その基礎を作ったメロン研究者で、
元・静岡大学教授の鈴木英治郎氏
(1908年生まれ)がその人だった。

私は1994 年から一年かけて静岡県内の旧東海道二十二宿を歩き、
「今」と「過去」をつなぐ「ぶらぶら旅日記」を書いた。
魅力的な場所・人だらけで私はしょっちゅう街道を大きく外れて歩き回った。

88回の連載で100人ほどの方にお会いした。
その中のお一人が鈴木先生だった。

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いろいろお話を伺ってそろそろおいとまを、と思っていたとき、
先生が「メロンの香り」についてポツリと話された。


「マスクとはジャコウ(香り)を意味しています。だが見た目や甘さを重視
するあまり、香りをおろそかにする傾向にあります。
僕はそれを懸念しています。香りの研究をしてくれる人がいれば…」と。

鈴木先生のご著書「メロン考・1991」鈴木英治郎 1991 私家本
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そこでバラの香りの研究をしている高村君の話をしたら、
「えっ、そんな若者がいるんですか」と、鈴木先生の顔がパッと輝いた。


先生の優しいお顔は今も忘れがたく、落ち込んだ時助けられています。
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同著より
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いつの間にか「傘寿」㊳

いつの間にか傘寿2
02 /12 2024
罠にはめられたと思った。

母は次から次へ苦情や要求を突き付けてきた。
「あんたの息子がW子の部屋へ入った」「懐中電灯を壊した」

それから何やら細かく数字を書きつけた紙片を突き出すと、こう言った。

「あんたとあんたの息子の分の食費を徴収するから」


食費を徴収…、私は呆気にとられた。
呆然としている私を見下ろしながら、母はさらにこう付け足した。

「全額、前払いしてちょうだい」

「あんたの息子」って、この子はお母さんの孫ではないですか。
以前はあんなに可愛がっていたのに、なんでそんな言い方をするの?


まして食費を払えだなんて。
こんな親がいるなんて想像もしていなかった。

今、孫たちを迎える立場になった私には、とうてい考えられないことだ。

困惑して父に打ち明けたら、感情を出すことのないあの父が、
烈火のごとく怒り「どういうつもりだ」と母を𠮟りつけたので、
食費の件は立ち消えになった。


食費の請求書の文字は母の筆跡ではなかった。
短歌や俳句を詠む母は、その歌のように流れるような文字を書くが、
姉の文字はチマチマした神経質な文字だったからすぐわかった。


寡黙だった父は愛情も黙って示した。
私の実家にいい印象を持たなかった長男に、
「おじいちゃんはあなたをおんぶして、どんど焼きに行ったんだよ」
と言ったら、「そんなことがあったのか」とホッとした顔になった。
父と良太

それにしても何かがおかしかった。

10歳以降、母は人が変わったように優しいお母さんになった。
短大生の時も就職したあとも、私を気遣う手紙を頻繁に寄越した。


長男を出産したときは店番を終えたその足で上京した。

たぶん節約のため鈍行列車に揺られてきたのだろう。
慣れない都会でようやく病院に辿り着いた母は、その疲れた体のまま、
まだエアコン設備のなかった産院で暑くてぐずる息子を抱き、
病院の長い廊下を一晩中、「ねんねんよう」と行ったり来たりしてくれた。

そしてついこの間まで、
雑誌の記事を書く私のために助言してくれていたではないか。


そのころ私は料理雑誌に「食べ物歳時記」を連載していて、
母から年中行事を教えてもらっていた。
手紙には母が祖母から伝授された行事やおまじないが綴られていた。


そんな一つにこんな「おまじない」があった。

≪盗難予防のおまじない≫
「寝るぞ根太、頼むぞ垂木、梁も聞け、何事あれば起こせこうべり」

その祖母は母が10歳の時亡くなったという。
幕末、廃藩のため藩主と共に流浪したが、
貧すれど武士の娘としての気概を終生失わなかったという。
母は尊敬していた祖母を自叙伝にこう記している。

「今もおまじないを呟くと、
祖母の面影が偲ばれて懐かしさで胸がいっぱいになります」


母からの年中行事の手紙。苦手な横書きで書いてきた。
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子供の頃母は、どんなに忙しくても年中行事は欠かさなかった。

お正月は近所の子供も呼んで百人一首をやった。
上の句を母が独特の節回しで詠むと、年長者が「はい」と取る。
するとすかさず母が下の句を詠みあげた。

おかげで私は小学校に上がる頃には、百人一首を諳んじるようになった。

七草の日はまな板に七種の野菜を載せ包丁やすりこ木を両手に持ち、
「ななくさなずな、とうどのとりが」と歌いながら、ストトンのトンと叩いた。


3月は「女の節句」
母が詰めてくれたお重を持って、女の子だけで裏山に登って宴会をした。
白酒を飲み過ぎた次姉が派手に嘔吐したのもこのとき。

母は私の求めに応じて、雄弁に手紙で語ってくれた。


「七夕の早朝、芋の葉に溜まった露を硯にとって墨をすり短冊に書きます。

七夕の今宵逢ふ瀬の行く末は 
      よろずよかけてなほちぎるらん


「10月20日 えびす講
えびす・大黒を残してほかの神様は全部出雲に集まり、
全国の縁結びの会を開くので、この月はえびす・大黒をまつる。

祭壇を作りえびす・大黒を並べ、かけ魚といって頭付きの魚に藁を通して
二匹下げ、大根二本、赤飯、なます、おひら、吸い物、みかん、落花生、
柿、りんごなどを供える。その後、くじ引きで家中の者に分ける」

母の手紙を読みながら、そうそう、みんなでくじを引いたっけと
私は過ぎた日々を思い出して懐かしさにひたった。


「どんど焼きの日には米の粉で作った「繭玉」を作り、玄関に飾る。
この日は「成木責め」も行われた。

”大の木、小の木成らすと申せ 末(うら)から元(もと)まで
千百俵万百俵 成らすと申せ”と唱えながら、
家の周りの木を叩いてそのあとへ「小豆粥」をつけて歩く」


左は「繭玉」。右は初午の日に作った幟。五色の紙で作った。
私もこの幟を担いで近所の子供達と稲荷様をまつる家に持っていき、
「おぶく」(お仏供。赤飯の握り飯)をいただいた。
新聞紙にじかに包むので、おぶくに文字が写っていた。
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母が豊かさ溢れるこの手紙を送ってきたのは、つい去年のことだ。
その続きみたいに、「こっちで産んだらどうか」と言ってきたから、
私は何の疑いもなく誘いに乗った。

だが来てみればその母が、
「デカイ腹をしてよくも来れたな」などと思いもしなかった言葉を吐き、
次々と理不尽な要求を突き付けてくる。


ひょっとして姉が言わせているんじゃないだろうか。

姉は背後霊みたいに母の背中にくっ付いていたし、
その姉が離れると母の態度が変わった。

まるで二人羽織か腹話術師とその人形みたいじゃないか。


そういえば姉はいつからこの家で暮らし始めたのだろう。

あれは確か私が社会人になったころだった。
帰郷した私に母が「W子は離婚したから」と興奮気味に告げた。
「あの男がW子にとんでもない思想を吹き込んで。
だからここに呼んで離婚届に判を押させたんだよ」と。


父(60歳)と母(53歳)が一番穏やかに暮らしていたころ。
長姉の登場でこの生活は一変した。
父と母

W子姉は仕事で不在以外の時間には自室にこもっていたから、
会うことは全くなかったし、存在すら訪問客から忘れられていた。

のちにアルバムを見たら、
私の結納の日にみんなの陰にひっそり写っていた。


あれはいつのことだったか、
その姉がいきなり部屋から出てくると赤い小冊子をヒラヒラさせ、
ハイテンションでわめきだした。

「清子、ブルジョワのアンタこそ、これを読みなさい!」

赤い冊子には「毛沢東語録」と書かれていた。


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いつの間にか「傘寿」㊲

いつの間にか傘寿2
02 /09 2024
3月下旬、
私はもうすぐ5歳になる息子の手を握り、実家の玄関の前に立った。

その月に入ったら実家の母から突然電話が来て、
「こっちへ来て産んだらどうか」と言う。
「一人ぐらい孫をここで産んで欲しいってお父さんが言うんだよ」

思いがけない母からの申し出だった。
私はそれを素直に受け入れ、出産まじかのこの日、故郷へ向かった。
懐かしい駅に着いた頃は、日はとっぷり暮れていた。

タクシーの音を聞きつけたのか、
玄関のガラス戸の向こうがパッと明るくなった。暖かい光だった。

だが、ガラス戸を開けると状況は一変。
そこに仁王立ちした母がいて、険しい顔でこう怒鳴った。


「そんなデカイ腹をしてよくも来れたね! 
ここには子供を産みたくても産めない姉さんがいるってのに!」

お正月には大きなおなかを抱えて長男と凧揚げをした。
私の手編みのセーターを着せて。
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思いもよらない暴言だった。

母の顔が子供の頃、私を憎々し気に罵ったあの顔になっていた。

私はたじろいだ。意味が掴めなかった。どういうこと? なんなのこれ。
こっちへ来いと言ってきたのはお母さん、あなたではないですか。


私は一気に、あの暗く寂しかった10歳の少女に引き戻された。

母は理由もなく私を殴った。その理不尽さ、恐ろしさに耐え切れず、
私は電車に飛び込もうとした。今でもあの時の光景を忘れはしない。

裏木戸を開けると冷さが足元から這い上がってきた。
闇夜だった。
そのどんよりと重たい黒い世界へ迷わず足を踏み出し、
踏切めざして歩き始めたとき、
背後から「ごはんだよー」と呼ぶ母の声を聞いた。
私に掛けた呼び声でないことはわかっていたが、なんだか胸が熱くなり、
その声に引き寄せられるようにふらふらと舞い戻った。

義兄の娘とアメリカンショップで買ったデニムの上下を着た長男。
娘さんは今はもう還暦を過ぎたころ。幸せになっていると信じて…。
このデニムを着せて里帰りしたら、実家の母が
「作業着なんか着せてみっともない。ちゃんとした服を着せなさい」と。
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自殺を思いとどまったその日以来、
私は働き詰めの母を助けるために夕食作りを始めた。
いつも母のしぐさを見ていたから、ご飯炊きもおかずも難なく出来た。

この逆転の発想が功を奏したのか、以来母は怒りの対象を、
私から切れた電球に代え、力まかせに石垣にぶつけ始めた。


そのとき思った。
「人に優しくすることは自分を助ける事なんだ」と。

当時高校生だった長姉のW子は、
10歳の妹が作った夕ご飯を当然のように食べ、
食い散らかしたまま二階の自室へ上って行った。


あれから18年たったこの日、私は再び悪夢を見た。
険しい顔で立ち尽くす母がいて、その母の背後に長姉のW子がいた。

姉はまるで背後霊のように母にピタッとくっつき、
肩越しに目だけ出して私を凝視していた。
黒目が溶けて灰色一色になったガラスのような目だった。

カナダへ移住した次姉のY子が、
「W子姉は氷のような女」と言っていたが、まさにその目だった。

雰囲気を察したのか、息子が私の手を固く握りしめた。

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身軽なら踵を返して「サヨナラ」が言えるのに、
すでに東京の産院はキャンセルしていたし、保育園にも届けを出してきた。
なにより出産が迫っている。

呆然と立ち尽くしていた時、W子姉がふいに母の背後から離れ、
そのまま自室へ向かって去っていった。

その姉が自室に入るのを見届けると、母が小声で言った。


「来ちゃったものは仕方がないね」

そう言いながら私と長男を部屋へ招じ入れた。


部屋のソファベッドにはすでに布団が敷かれ、
息子用のベッドも用意されていた。
よく見るとたくさんのおむつがきちんとテーブルに置かれていた。

紙おむつがないころだったから、母は古い浴衣をほどいたり、
新たにさらし布を買って毎晩、縫っていたのだろう。

その母が息子に言った。


「いいかい。隣はおばちゃんの部屋だからね。
おばちゃんは毎日お仕事で疲れて帰ってくるんだから、
声を出すんじゃないよ。この部屋から出るんじゃないよ」


2歳ごろの長男と母。優しいおばあちゃんそのものだったのに。
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そう言ってから私に向き直ると、こう言い放った。

「妊婦は汚いからお風呂は最後に入ってちょうだい」


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いつの間にか「傘寿」㊱

いつの間にか傘寿2
02 /03 2024
それは唐突だった。

「会社辞めた。東京へ引っ越す」

息子が3歳になる直前だった。
運の悪いことに息子は日本脳炎の予防接種で高熱を発し、
危機を脱したものの衰弱が激しい時だった。


だが引っ越しは強行された。
神奈川県の端っこから東京まで、
ぐったりした息子をどのように連れて行ったか記憶がすっぽり抜けている。

東京の住まいは2階建ての木造アパートで、
似たようなアパートが立ち並ぶ吹き溜まりのような場所だった。


でも東京では雪が降った。初めて見る雪に息子は大喜び。
さっそく長靴を履いて庭に出て、雪だるまを作った。
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出版業界は大盛況の時代で、面白いように仕事が舞い込んだ。
同時にSの暮らしも派手になっていき、朝帰りが当たり前になった。

明け方帰るなり、「天ぷら食いてえ」と命令されて、
女の香水の匂いを漂わせているSのために天ぷらを揚げた。


予防注射の副作用を発して以来、息子は喘息持ちになったが、
ゼーゼーと苦しむ幼子の横で、Sは平然とタバコを吸い、
酔っぱらって大いびきをかいた。

Sの働きで収入は大幅に増えた。
だが入金するとすぐ多額を引き出されて生活費が足りない。


私は息子を保育園に預けて、家で校正や雑誌の記事を書き始めた。

保育園入園を申し込んだら区の役人から、
「旦那は女房子供を食べさせられないほど低収入か」と言われた。
無事入園したが、園長兼任の大学教師から「楽しそうに見えても
長時間保育はお子さんには負担が大きいんですよ」と言われ、
そうだなと思ったがどうしようもなかった。


お昼寝の様子。高いところの子供、落っこちないか心配した。
保育園昼寝

後年、Sが書いた本を読んだら、こんな記述があった。

「会社勤めの頃の月給は15、6万。当時はそれと同じくらい飲んで使ったが、
全部、会社のツケにできたからよかった。
でもフリーになったら全部自分持ちになったから大変だった」

Sは湯水の如くお金を使った。
私が息子を保育園に預けて、家で細々と得る収入なんて焼け石に水。

ささやかながらも安定していた団地での暮らしが思い出されて、
私は徒労感を覚えた。

保育園で息子を可愛がってくれた保母さんがいた。愛称は「レモンちゃん」
嫁ぎ先の三重県熊野市から手紙をくださった。
中にお嫁さん姿の「レモン先生」の写真が同封されていた。
手紙れもん

そんなとき、義姉から電話があった。
「あんなに収入があるんだから、こっちを援助するのは当然じゃない?」

義姉はとげとげしい言葉の中に「なんて気が利かない嫁だろう」と匂わせる。
「いくらぐらいですか?」と聞いたら、「月3万。そのくらいは出せるわよね」

その一件をSに告げると、アハハと軽く笑った。

「義姉さんはあんなに収入があるのにって言ってたけど、
どうしてうちの収入を知ってるの?」と聞いたら、
「姉貴に確定申告やってもらっているから」と、至極あっさり言った。

なぜ妻の私に頼まないのか。バカにしているのか。
どのみち、私は頼りにされていないってことなんだと思った。

父親不在の夜が続く。
布団に入って息子に絵本を読んであげるのが日課になった。
そのうち息子は自分でもお話を作るようになった。

「おばあさんがワニを焼いて食べました。
ワニを食べるおばあさんは、ワニを食べないおばあさんのところにいます。
ワニを食べないおばあさんはご飯を食べます」

実家の母から送られてきた甚平さんを着て、生まれて初めて花火をした。
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義姉からの要求が目に見えて増えてきた。

「せいちゃんの嫁さんにあんたの着物を貸してやって」と言われた。
私の返事を待つまでもなく、Sが当然のように義姉宅へ着物を届けた。

義兄の「せいちゃん」の嫁は「さる銀行頭取の姪」と義姉は言っていたが、
そんなご令嬢が「親戚の結婚式に着ていく着物がない」なんて、
バレバレなのに懲りずにまだウソをつく。


この「嫁さん」は、がっしりした体格で太い眉毛のキツイ目をした人だった。
自分が「令嬢」などと言われていることをたぶん知らないのだろう。
気の毒に思ったが、同情はしなかった。


保育園の運動会。私に似て駆けっこはいつもビリ。
でも小学校でも中学でも恥じることなく最後まで走り抜いた。
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着物はなかなか返却されなかった。
数か月後ヨレヨレで返ってきた。広げると襟にもわきの下にも汗滲みが。
胸元には点々と食べこぼしの跡が付いていて、思わずアッと声が出た。

この着物は自分で購入し、
その記念に写真スタジオで写真を撮っただけだったから、
食べこぼしなど付くはずがない。それに夏でもないのになんで汗ジミ?

腹が立って「ひどく汚れていました」と抗議したら、
義姉がいきなり怒鳴り散らした。

「初めからついていたわよ。難癖付けるのはよしてよ」

悔しくて腹が立ってどうしようもなかったが、黙るしかなかった。
でも疑問が湧いた。
義姉は私が着物を持っていることを、なぜご存じだったんだろう。

義姉からの要求は着物だけではなかった。

「あれ、もういらないんじゃないの? こっちへ頂戴」と、
まるで我が家の持ち物は何でも知っているとでもいう風に要求してくる。
なんでなの?

夫から家の収入も知らされない妻ってなんだろう。
義姉に支配されている「私たち一家」って、なんなんだろう。

そんなある日、Sが私に告げた。
「みんなで旅行に行くことになった。お前や息子は連れて行かないから」

それを補足するように義姉から電話が来た。

「Sちゃんの結婚の報告を兼ねて、
お父ちゃまの遺骨を故郷の墓に納めに行くことにしたのよ。
私と母さんとせいちゃんとSちゃんの私たち家族4人だけで。悪いわね」

「私たち家族4人」


その言葉にS自身がなんの疑問を持たないことが、私には信じられなかった。

ある日保育園へ迎えに行ったら、息子の指に包帯が巻かれていた。
先生が申し訳なさそうに言った。「他の子からトイレのドアに指を挟まれて
しまって。泣くか騒ぐかすればすぐ気が付いたんですけど」

帰る道々「どうして助けてと言わなかったの?」と聞いたら、
「僕さえ我慢すればいいんだよ」と。私はハッとした。

この子にこんな考えを植え付けてしまったのは私なんだ。
我慢ばかりしている母親を見て、それが正しいことだと思ったのに違いない。

罪悪感と自分の不甲斐なさでいたたまれなくなった。


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義兄の「せいちゃん」は、「会計士の国家試験」の勉強のためという
見え透いたウソをつき通して、嫁や我が子のいる家へ行くことはなかった。

このときすでに小学生になっていた彼の娘は、
数か月に一度、「父親」のいる家へ来て数時間で帰った。
この異様な暮らしを彼女はどう思っていただろうか。

義姉は暗黙のうちに示し続けた。
「私たち家族4人」は永遠に「4人」だと。

だが10数年後にその行き着く先に悲惨な現実が待っていたことを、
この時点で彼らも私も知る由もなかった。

離婚という選択肢は全く考えなかった。
ただ普通の家庭生活がしたい、この「壊れた人たち」から逃れたい、
そればかり考えていた。

母がよく言っていた。

「困難にぶつかっても誰も助けてはくれないんだよ。
だから自分で起き上がるしかないんだよ」

自分で起き上がる、そのことを模索しているうちに、
私は第二子を妊娠した。

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞