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いつの間にか「傘寿」⑳

いつの間にか傘寿
11 /22 2023
教員免許は取得した。図書館司書の資格も取った。

でも教員にはなりたくないと思った。
こんな未熟な教師が生徒たちを教え導くなんて、正直、怖かった。

図書館勤務も気が進まなかった。
なんだかカビ臭そうだし、堅苦しそうだし…。


寮の規則は厳しかったが、室内ではみんなのびのびしていた。
夜の宴会ではビールも登場。
写真がブレているのは、撮影者が酔っぱらっていたから。
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そんなとき、長兄から電話が来た。

「就職決まったか? まだならちょっと来い。きちんとして来いよ」

そうして出かけた先はなんと国会議員会館。


兄は勝手知ったる風情でどんどん入っていく。
私は緊張しながらあとに従った。

部屋ではでっぷり太った議員がにこやかに迎えてくれ、私の顔を見るなり、


「オッ、決まりだね。合格だ。航空自衛隊の秘書課。
でも一応、試験は受けてもらうよ。なに、答案用紙に001と書くだけだ」

兄が深々と頭を下げる。議員はニコニコしながら私に言った。

「2、3年勤めたら、優秀なパイロットと結婚するんだね」


でも私はこの試験をすっぽかした。

「パイロットと結婚? 人の人生、勝手に決めるな!」と反発した。
それにこんな不正はしたくないとも思った。

航空自衛隊の秘書課を蹴った私は、出版社を受験して採用された。

それから間もなく、兄から言われた。


「〇〇議員がお前を褒めてたよ。なかなか気骨のある妹さんだねって」

出版社では4年生大学卒の学生しか採用しないという規定だったが、
作文などの書類審査で特例を認められて受験させてくれた。
筆記試験と2度の面接試験を経て採用されたときは、まさかと思った。

10数名の新入社員の中の紅一点だった。


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母から手紙が来た。

「自分の才能を十二分に発揮できる職場を得られた事は、
人生最大の喜びかと思います。
お母さんは自分の出来なかった事を子供が次々とやってくれる事に、
どんなにうれしいかわかりません」


でも母はこれで末娘が帰ってくるという望みを断たれて落胆したのか、
そのあとにこう書いてきた。

「安心と疲労で寝床の虫になってしまった意気地のない私。
W子やY(次兄)が来てくれて、元気の糸を手繰り出してくれました」

「毎晩毎晩、清子の夢を見て困っています」


母の苦悩をよそに私は自分で掴んだ世界へ、ジャンプ!
その喜びを、その頃流行り出したセルフ写真ボックスで一人で嚙み締めた。


「私、やりましたよ!」「すごいねぇ! おめでとう!」  
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「これからの住まいですが、
お父さんが知り合いに見つけてもらおうかと言っています。
引っ越し費用はありますか?」

私は母のこの申し出も断り、自分で下宿を探した。
その私に、母はいつになく乱れた文字でこう書いてきた。


「二十歳の乙女が誰の力も借りずに、完全に一人で立っているんですもの。
でもよく一人でやりました。

  離れ住む娘に届たし百合の花

がんばれ、清子。負けるな 清子」


「がんばれ、清子。負けるな、清子」は、
母が自分自身へ送る声援だったに違いない。

百合の花の句をたくさん書いてきたけれど、
心ここにあらずの凡庸で乱れた句ばかりだった。


そして、わが身を振り返り、
淋しさと嘆きの入り混じったこんな言葉で手紙を締めくくっていた。

「五十の坂を越しても自分の足で立つことも、
そういう生活の楽しさも知らないお母さんにくらべ、
自分の力で生きてゆく清子を羨ましく思います」


眼科で遠視と言われてメガネをかけたが、すぐやめてしまった。
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この38年後、母は八十八歳の米寿を記念して自叙伝を書いた。
この本は頼まれて、私が編集した。
編集しながら複雑な思いで、母の八十八年の軌跡を辿った。

本に、私が卒業したころのことをこう書いていた。


「子供たちへの毎月の送金に気を張っていたと思います。
最後に清子が卒業して月謝はいらないと言われたときは、
張り詰めていた糸が切れたようでひどいショックで、
ボーッとしてしまったっけ。

当分は店に立つのも気が重く、計算も間違ったりして、
ハッと気づいたこともたびたびだった」


晴れて社会人になった年は東京オリンピック開催の年で、
私は会社の窓から、大空に描かれた白い五輪の輪を見上げていた。

切手乗車券

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いつの間にか「傘寿」⑲

いつの間にか傘寿
11 /13 2023
短大の二年はまことに短い。入学した翌年はもう卒業。

その短い期間に、
教育実習を無事終え、図書館司書や司書教諭の資格も得た。

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私はこの免許状や卒業証書を両親に見せなかった。考えもしなかった。
不遜にも当時は「たかが紙切れ」と。

父も母も家の都合で、熱望していた高等教育を受けられなかった。
そのつらさ悔しさを、子供たちだけには味わわせたくないとの一念で
働き詰めだったのに。


図書館司書の資格証明書。
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卒業の年、母は手紙で熱心に言ってきた。

「こちらに就職した方がよいと思います。
清子がその気になれば、お母さんはすぐあちこちと探します。
高校の図書館司書になれると思いますから、至急決心して返事を下さい」


つい10年前まで私を無視する母に、私はいつも心の中で叫んでいた。
「お母さん、たまには私も見て」と。
その母が私をこんなに注目しているのだ。
ふと、帰ろうかなという気持ちが起きたが、同時に不安も湧いた。


この二年間、母は私に頻繁に手紙を送ってきた。

どの手紙にも娘を心配する気持ちが綴られ、愛情に溢れていたが、
母が話しかけているのは私ではない、そう感じてもいた。
私というダミーを通して、姉たちに話しかけている、そう思っていた。

しかし長姉も次姉もすでに結婚して実家に戻らない。
長兄は東京で働き始め、次兄のめざす職業は実家周辺では得られない。

消去法で末娘の私だけが残ったというだけなのだろう。
母の望み通り、実家へ帰ったとしても、ダミーは本物にはなれない、
そう思った。


中学2年生の私。大好きだった担任と。
先生は私の詩を熱心に見てくださり、地域の学校が連携して出していた
文芸誌「ふもと」によく応募してくださった。
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手紙にあったこんな一文も、「帰らない」決意を強めた。

「寂しくて寂しくて、
お父さんを一人残してW子
(長姉)のところへどんどん出かけてしまったの。
もう楽しくて一日中おしゃべりして終電車で帰宅。
身も心もせいせいしてとても愉快になってしまいました」


母は長姉をずっと特別扱いしていた。
「W子とはあの苦しかった戦時下を共に助け合った戦友」とも言っていた。

自叙伝に、
「W子は成績抜群で皆の先頭を務める。
小学六年生の時、先生がいじわるをしてW子を二番の成績にしたので、
学校へ行き、なぜW子が一番でないのか理由を教えてくださいと
先生を追及した」と、臆面もなく書いた。

10歳の妹が作った夕食を17歳のこの姉は当然のように食べ、
食い散らかしたまま2階へ上っていく。
母も「姉さんは勉強があるから」と黙認し、家の手伝いを一切させなかった。

その母が私に「こっちで就職を」と言ってきた。


本当に母は私の幸せを考えて言ってきたのだろうか。
いや、そんなはずはない。
「帰って来て」というのは、母のエゴだろう。

当時母は私を虐待したあと、
その痕跡を消そうとするかのように、今度はベタベタ接してきた。

美容院へ連れて行き、まだ珍しかったパーマネントを小学一年生の
私の頭に施し、隣町へ連れて行き、ままごとのセットやミルク飲み人形、
ピカピカ光ったビニールのハンドバッグを買い与え、ラーメンを食べさせた。

小学2年生の私。
お出かけの日、母は私に化粧を施した。チンドン屋みたいでいやだった。
「オレ女子会」の幼なじみたちには決して持てないハンドバックを持ち、
革靴を履いて…。私が最も嫌いな写真。
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何をされても私は、母の気の済むように黙って従った。
ただ心の中では常に怯えていた。

母の心の針は右に振れたかと思うと、突如左へ大きく傾く。
その振幅の急激なことに、幼い私は戸惑った。


優しくされたあと、また殴られる。ひどい言葉で打ちのめされる。
そういう危機感があったから、優しくされればされるほど身構えたし、
極端から極端へと翻弄されて、子供の私は常に身も心も疲れ切っていた。

あれから10年たったとはいえ、母の甘言につられて家へ帰ったら、
また同じことが起きるだろう。


10歳まで繰り返されたあの体への痛みと言葉の暴力とで、
私はどんなに怖かったか、どんなに孤独だったか。

理由もなく一人だけご飯を食べさせてもらえなかった惨めさと、
誰も助けてくれない状況に何度絶望したことか。

近所の人から「シンデレラみたいな子」と言われたときの衝撃と、
私の暗部をみんなに知られていたという動揺と恥ずかしさ、哀しさ。

母が私一人だけにこんなことをするのは、
きっと私に悪いところがあるからだと執拗に自分を責めたりもした。


家を離れたことでそこからやっと逃れたのだ。
だから決して後戻りはするなと自分に言い聞かせた。

7歳離れた長姉は、母の暴力をその背後でいつも眺めていた。


後年、次姉が「W子姉は氷のような女」と言ったが、冷たい人だった。
家族の中で私に手紙も電話も終生、一度も寄越さなかったのは、
この姉だけだった。


二人の姉と中学生の私。
教師になったばかりの長姉(真ん中。21歳)は、
赴任先の先輩教師と恋に落ち結婚。そのハシャギようは尋常ではなく、
今まで冷たくあしらっていた妹の私に満面の笑顔で急接近してきた。
だが私が優しくされたのは、後にも先にもこのときだけだった。
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その長姉は、親戚の伯父や伯母たちが来ると必ずこう言った。

「清子は心のいじけた子ですから。
空想癖がありますから、この子が何かを話してもみんな作り話ですから」

父方の伯母はその言葉に耳を貸さず、
小学生の私にしっかり向き合って昔話をしてくれた。


「清子さん、よく覚えておくんですよ。
あなたのひいおじいさんは元服の時、
沼津の水野のお殿様に支度してもらって、
東海道を富士まで行列を作ってきたそうですよ。
たいそう立派だったそうですよ」

「信州から雨宮氏を婿にとって細川から雨宮に変わったころ、
浪人中の河津のお殿様が、うちに一年も居候なさって。
そのとき、扇を開いたらどこからともなく小さな白い蛇が現れて、
扇の縁をスルスル渡ったそうですよ」

後年、町役人だった佐野与一の「角田桜岳日記」が解読され、
その中に幼い日に伯母から聞いた話が出ていた。
「お伽噺」が本当だったことに、私の興奮はなかなか収まらなかった。
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父の腹違いの兄もよく来た。東京の芳林小学校を退職した人で、
電車と徒歩で1時間の道のりをはるばるやってきた。

家に入ると母の作った綿入れ半纏を着込み、
猫を膝に乗せて終日、こたつで過ごしていた。


父も母も店が忙しかったので、代わりに幼い私が隣に座って相手をした。
何を話したかは忘れたが、
元校長先生の伯父のこれ以上ないという笑顔は、今もはっきり思い出す。


母のすぐ下の叔父は「たけひこおじちゃん」といった。
家に来ると真っ先に私を見つけて「きーちゃん」と声を掛けた。
大柄のがっしりしたおじさんで、四角い顔の小さな目で心配そうに私を見た。


「おばあちゃんが二男を溺愛して、たけひこをいじめて家から追い出した」
と、母が言っていたから、
叔父は自分と共通したものを私に感じていたのだろう。

その叔父は私が短大生のころ亡くなった。
母たち姉妹は新聞の訃報欄でそれを知り遺族に抗議したら、叔父の妻から、
「誰にも知らせるなというのが、あの人の遺言でしたから」と突っぱねられた。

「昔のことを根に持って」と母たちは憤慨していたが、
私はひそかに、おじさんの見事なしっぺ返しに拍手を送った。

そんなことを思い出していたら、
ふいにおじちゃんの顔が浮かび、涙が溢れてきた。


後列右から二人目が母。その隣が「たけひこおじちゃん」
この写真は戦時中、「産めよ増やせよ」の国策に協力したとして表彰され、
新聞に載ったもの。昭和10年ごろ。
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そのおじちゃんから、
「きーちゃん。しっかり」と励まされている気がしてハッと我に返り、
情に流されまいと気を引き締めた。

それでも、私は母への罪悪感を感じていた。

「愛する清子へ」と、陳腐なラブレターみたいな母の手紙に苦笑しつつも、
母の希望通りに田舎へ帰らないことは恩を仇で返すような気もして、
親不孝な娘だと自分を責めた。

だがそれから数年後、
私の「帰らない」という選択は間違っていなかったことを知ることになった。

長姉が離婚して実家に出戻ってきたのだ。


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いつの間にか「傘寿」⑱

いつの間にか傘寿
11 /10 2023
60年前の母の手紙を読む。

手紙の中で愚痴を吐いている。

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「自分の夢が何一つかなへられずに終わってしまったお母さんです。
どうぞ希望の道に前進してください。
強い意志を持って、人の笑い者にならないよう、
又、自分の能力を過信しないよう、考へて考へて行動してくれるよう
祈ってゐます」

「ふと三十五年前の自分が昨日のように思ひ出されました。
今の中学二年を中途退学して、
子守
(母は10人姉妹兄弟の上から二番目)をしながら、家事一切をやり
女学講義録を取って読みふけり、向学心を得てゐた日を。
苦しみ悩み、その中から少しづつ成長し、
自分の子供にはこの苦しみは、絶対させまいと心に誓った事を」


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「清子は、
文春の十一月号のパール・バック女史の人生哲学を読みましたか?
昨日お母さんは繰り返し繰り返し味わいながら読みました」

「最愛なる清子。清子の性質は非常によいですから。
昔の良妻賢母型ではなく、智的でユーモアがあって、
どこか抜けてゐるようで、(失礼)、実に近代的な女性だと思われます」

手紙は兄たちからも来た。


3歳上の次兄はこう書いてきた。

「清子は生まれながらの裸のままのナチュラル的であるといつも感ずる。
お互いに生産的に将来に向かって歩みませう」

長兄も次兄も手紙に必ず書いてきたのは、
「お金、足りていますか?」だった。


母もまた、「今月、二千円送りました」「千円送りました」
と書き添えるのを常としていた。

同室の寮生と。
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母の怒涛の如き手紙を、私は戸惑いつつ読んだ。

家から駅へ続く坂道は私の履歴そのものだった。

7歳のときは、兄や姉たちがいる前で遠い場所へのお使いを命じられ、
重い買い物カゴを胸に抱いて日没後の大入道の出る暗がりを走り抜けた。

10歳の時は、母からの虐待に耐え切れず、
電車に飛びこもうと月のない暗い夜、この坂道へ飛び出した。


高校生になって映画を観た帰りに歩いたのも、
釣り竿を持った少年に出会ったのもこの坂道だった。

そして短大への入学が決まって上京する日、
大きなスーツケースを下げて振り返ることなく私はこの道を下った。

母は幼い私をよく殴った。それもなぜか顔を狙って拳で…。


姉二人を日本舞踊の稽古に連れて行くとき、
「私も連れてって」と後を追ったら「帰れ!」と手を挙げて追い返された。

後年、母は自叙伝で祭りに出かけた日の出来事をこう書いた。


「さあ、出かけようというときになって、清子はなかなか支度をせず、
行きたくないと言って皆を怒らせた」

しかし事実は全く違う。
第一、就学前の子供が「自分で支度をする」などということは不可能だった。


自分の内面の暗さを悟られまいと、いつも笑顔でいるよう心掛けていた。
だがある日「ポエムの会」で突然泣き出して、みんなを困惑させた。
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祭りの日はこうだった。

母からよそ行きの服を着せられて家を出た。
坂道をほんの数歩下り始めた時、
いきなり母が「あんたを連れて行くのはやめた」と言い出した。

必死で後を追う私に母は振り向きざま、いきなり殴りかかった。
母の拳が鼻にあたって、鼻血がドバッと出た。


このときのことを50年後も母は覚えていたのに、
自叙伝には自分の都合のいいように捻じ曲げて書いていた。

しかし、そうした母の暴力は、
10歳のときの自殺未遂を境にパタッと止んだ。


兄や姉たちが一人また一人と家を出て行くたびに、
母は私への接近を強め、本来あるべき「母」の顔を見せるようになり、
女子大生になった途端、今度は手紙で能弁に語り掛けてきた。


「自分の意志は一つも通らない人生、こんなバカバカしい人生を
多くの女性はどうして切り抜けたのでせう。
不平不満に肉体も精神も切り苛まれて、
それでもどこかに活路を見出そうともがく自分の姿。
何が何でも子供に教育をつけよう、これが精いっぱいの反抗だったのに。


負けるな清子。お母さんの分まであなたは楽しい人生を過ごす義務がある。
お母さんだって残された人生を、たとへ一年でも
自分の意志で生きる権利があるわけです。消えそうな夢を描いて、
その日その日の苦しみに打ち勝とうとしてゐるのです」


おしゃれして学生のダンスパーティーにも出かけた。白い手袋をはめて。
当時は髪の毛を櫛で逆立てて、こんもりさせるのが流行っていた。
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母の手紙には、常に短歌や俳句が添えられていた。

  秋深む案山子は土手にうつぶせり

稲刈りのすんだ田んぼに、可哀そうに案山子は土手にさぼられています。
案山子は必要な時だけ大事にされて」

母の「愛」に満ちた手紙を読むたびに、私は奇妙な感覚に囚われた。
「この人は一体、誰なんだ」「一体、誰に話しかけているんだ」と。

幼い日、私は苦しさ、つらさから逃れるためにあの坂道へ飛び出した。
母が手紙で優しく語り掛ければかけるほど、
心の奥に閉じ込めていた過去が、その坂道を勢いよく流れ出てきた。

母はそんな過去など全くなかったかのように、
暗い心を抱いたままの私に、己の心のうちを奔放に吐き出し、
最後に必ず、テンションのあがった言葉で締めくくった。

「元気で若き清子! 青空に胸をはって進め!」

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いつの間にか「傘寿」⑰

いつの間にか傘寿
11 /07 2023
女子寮には女舎監がいた。

中年の痩せた女性で、目だけが異様に大きく飛び出ていた。
寮生の間で「あの人、バセドー病だって」と囁かれていた。

異様なことは目だけではなかった。奇行もあった。
風貌も歩くさまもカギ鼻の魔法使いのばあさんそのものだった。

無口でいじわるだったから、評判はすこぶる悪かった。


母が私の病気を心配して寮に電話した時、
「本人を呼びに行ってきますから、お待ちを」と言ったきり、
30分立っても音沙汰ナシだったのも、

次兄が手紙で待ち合わせを知らせてきたのに、
その手紙が届いていなかったのも、みんなこの女舎監のせいだった。


「アメリカから友人がくるから着物で来てくれないか」との次兄の頼みで、
次姉から借りた着物で急きょ、出かけた。アメリカ男性は話しかけてきたが、
私にはさっぱり。蝋人形みたいに固まっていた。
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当時の通信手段は手紙か寮に一台しかない電話のみ。
その両方を管理監督していたのがこの人で、
彼女の気の向くまま運営されていたから、全く機能していなかったのだ。


先輩たちはため息交じりにこう言っていた。

「あの人、手紙を勝手に開けて読むのよ。
差出人が男性名だったらそのまま捨ててしまうし、
父親でも兄でも男なら玄関から追い出すし、電話は即切ってしまう。
抗議すると、決まり文句みたいに言うのよ。
大切なお嬢さんたちをお預かりしている身ですからって」


寮には門限があった。
女舎監は建物の影でよく見張っていたが、悪知恵は寮生の方が上だった。

事前に示し合わせていた友人の手引きで、
門限破りは窓から入り込んで、舎監をあざむいた。


従兄弟とボートに乗って。
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しかし、この女舎監がやっていることは、あまりにもひどい。
まるで中世のカトリックの学生寮そのものではないか。

ことに手紙を勝手に開けるなど言語道断だと有志が集まり、
大学側に抗議した。
ついでに寮生自身による自治組織を認めて欲しいと嘆願したが、
これは却下された。

そのうち、寮生の間で変な噂が流れた。

「このごろ、トイレに幽霊が出る」「毎晩出る」

真相究明のため、自警団を組んで真夜中のトイレに行ってみたら、
裸電球のぼんやりした光の下に、噂通りの大きな黒い影が立っていた。

「幽霊」は女舎監だった。


この事件後、彼女は姿を見せなくなった。

おかしな舎監にお粗末な食事の寮だったが、寮生活は楽しかった。
なによりも、
日本全国からやってきた学生たちとの共同生活は魅力的だった。
私はそれぞれのお国の話に、世界が広がったように思った。


寮生たちと。
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熊本出身の先輩から教わった俗謡は、今も口を突いて出る。

♪ よんでらるーば でてくるばってん
  よんでられんけん こうられんけん
  こんこられんけん こられられんけん
  こーんこん


ところが今回、ネットで調べたら、私の記憶違いがわかって驚いた。

私は先輩から、
「よんでらるーば」「よんでられんけん」と教わったはずだったが、
正しくは「でんでらりゅうば」「でんでられんけん」で、
「こうられんけん」も「でてこんけん」だった。


また先輩は熊本出身だったから、てっきり熊本の歌だと思い込んでいたが、
今回、初めて長崎の歌だと知りました。
なんと私は、60年も勘違いしていたんです。


先輩は両手を器用に動かしながら、これを歌ってくれた。
   
戦後、初めての東京オリンピックをまじかに控えた時代だった。
新しい息吹に満ち満ちていた。

全国から集まった少女たちは、みんな素朴で明るく優しかった。


みんな前を向いて、キラキラ生きていた。
つくづく思った。


いい時代だった、と。

相模湖畔にて。
時々、神社仏閣や名所旧跡へぶらっと出かけた。
誰にも束縛されない、気分一新のいい一日になった。
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いつの間にか「傘寿」⑯

いつの間にか傘寿
11 /04 2023
「入学以来、やうやう一ケ月立ちましたね。その後はどうかしら。
疲労と気づかれでまゐってはゐませんか。
その上晝食はラーメンばかりでは、ヒョロヒョロとのびてしまわないかと
案じています」


  淋しさのいやます日々やこいのぼり  母

家を離れて以来、母は頻繁に手紙を寄越した。

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「寮の食事は十分にあるかどうかも一寸心配。5月12日手紙に同封した千円、
受け取ったでせうね。受け取ったときはすぐハガキを出しなさいね」

母はこのとき、家でついた草餅も送ってくれた。
父は子供たちがいない淋しさを紛らわせようと、
庭の手入れを始めたという。


「お父さんはこのごろ優しくなりました。
そして暇さえあれば横の山の草刈りです。
つつじや桜、バラを買ってきてせっせと植えています。
道行く人を楽しませてゐます」

二人だけになった両親。


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父からも手紙が届いた。

体の具合が悪くなって、なかなか好転しないから、
みんなが夏休みで帰郷したら、東京の親戚の医者にみてもらうつもりだと。


ところが7月に入ったら具合がよくなったから、
清子は予定通り、学業を進めてくださいと、したため、末尾に、
「清子が心配して居ると思ふので、先ずは一報まで」とあった。

サラサラと流れるような筆の母とは違い、父は四角い固い文字。


かえってそのギクシャクとした文字に、父の素朴な優しさが見て取れた。

父は元来、体の弱い人だった。
十二指腸潰瘍を患い、手術もした。


「一昨日、お父さんの入れ歯が二つに割れてしまったの。
清子からは手紙も来ないので、
何かあったのではないかととても心配しています」


父も母も遠く離れた子供のことばかり心配していたのに、
私はのほほんと暮らしていた。

そんな母に私は「コートが欲しい」とねだった。


「コートってオーバーのことですか? 私は昔人間ですから、
清子が欲しいものはお母さんにわかるように、
どんどんはっきり言ってください。都会的のセンスでね。

そちらで気に入ったのがあったら、一万円送ります。
それともマロンで一緒に作ってもらってもよし」

※マロン=隣町の婦人服の仕立て屋さん。

「神妙に座禅を組んで読経する清子を思い浮かべて、
おかしくてたまりません。お父さんと大笑いしてしまいました」


「成人式に来るかと待っていましたが、そちらで一人でやりましたか?
成人式が終わった後、同級生たちが家に寄ってくれました」と母。
その母から届いた祝電。
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ある日、体調を崩してしまった私。母に手紙を出した。
母から速達が届いた。

「心配で心配で仕事も手に付かないので、また寮に電話したの。
すぐ呼び出しますといったきり、
30分も待たされたけどとうとう取り次いでもらえなかった。
今朝、また掛けたら言付けますと言ったけど、伝わっていなかったのね。

境のおじさんの病院へすぐ行きなさい。
一人で無理のようならお母さんが必ず行きますから」

離れて暮らすようになったら、母との距離が縮まり心が通い出した。
だが、それでも素直になり切れない自分がいた。

かつて母は「あんたは欲しくなかった子」「薄気味悪い子」と言い、
理由もなくいきなり殴りかかってきた。
その母と手紙の母が一致しなかった。

もう忘れたと思っていた幼少期の恐怖が、
母に優しくされればされるほど鮮明に甦ってくる


近所の農家のおばさんから、「あんたはシンデレラみたいな子」と言われた。
そんなシンデレラの前に突然、かぼちゃの馬車が現れて、
中から母が優し気に手招きしている。


手招きしているのは確かに母だったが、
馬車に乗った途端、いじわるな継母に変わるような気がして、
私は馬車から逃げた。


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入学して一か月ほどたったころ、新入生たちが時々泣いているのを見た。
先輩に聞いたら「ホームシックよ」と。「家が恋しいと思うのは普通でしょ?」

私はショックを受けた。
「家が恋しい」なんて気持ちは私には全然、湧いてこないではないか。
「普通」というのは、ホームシックにかかることなのか。
だったら私は、やっぱり「普通」じゃないんだ、と。


連休にも夏休みにもアルバイトを理由に帰らない私に、
母は「待っていたのに、とうとう来なかったね」と、寂しげな手紙を寄越した。

 取る人も喜ぶ人もなきままに
      秋の実りをいかにせしかと 
   母

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞