いつの間にか「傘寿」⑳
いつの間にか傘寿
教員免許は取得した。図書館司書の資格も取った。
でも教員にはなりたくないと思った。
こんな未熟な教師が生徒たちを教え導くなんて、正直、怖かった。
図書館勤務も気が進まなかった。
なんだかカビ臭そうだし、堅苦しそうだし…。
寮の規則は厳しかったが、室内ではみんなのびのびしていた。
夜の宴会ではビールも登場。
写真がブレているのは、撮影者が酔っぱらっていたから。

そんなとき、長兄から電話が来た。
「就職決まったか? まだならちょっと来い。きちんとして来いよ」
そうして出かけた先はなんと国会議員会館。
兄は勝手知ったる風情でどんどん入っていく。
私は緊張しながらあとに従った。
部屋ではでっぷり太った議員がにこやかに迎えてくれ、私の顔を見るなり、
「オッ、決まりだね。合格だ。航空自衛隊の秘書課。
でも一応、試験は受けてもらうよ。なに、答案用紙に001と書くだけだ」
兄が深々と頭を下げる。議員はニコニコしながら私に言った。
「2、3年勤めたら、優秀なパイロットと結婚するんだね」
でも私はこの試験をすっぽかした。
「パイロットと結婚? 人の人生、勝手に決めるな!」と反発した。
それにこんな不正はしたくないとも思った。
航空自衛隊の秘書課を蹴った私は、出版社を受験して採用された。
それから間もなく、兄から言われた。
「〇〇議員がお前を褒めてたよ。なかなか気骨のある妹さんだねって」
出版社では4年生大学卒の学生しか採用しないという規定だったが、
作文などの書類審査で特例を認められて受験させてくれた。
筆記試験と2度の面接試験を経て採用されたときは、まさかと思った。
10数名の新入社員の中の紅一点だった。

母から手紙が来た。
「自分の才能を十二分に発揮できる職場を得られた事は、
人生最大の喜びかと思います。
お母さんは自分の出来なかった事を子供が次々とやってくれる事に、
どんなにうれしいかわかりません」
でも母はこれで末娘が帰ってくるという望みを断たれて落胆したのか、
そのあとにこう書いてきた。
「安心と疲労で寝床の虫になってしまった意気地のない私。
W子やY(次兄)が来てくれて、元気の糸を手繰り出してくれました」
「毎晩毎晩、清子の夢を見て困っています」
母の苦悩をよそに私は自分で掴んだ世界へ、ジャンプ!
その喜びを、その頃流行り出したセルフ写真ボックスで一人で嚙み締めた。
「私、やりましたよ!」「すごいねぇ! おめでとう!」

「これからの住まいですが、
お父さんが知り合いに見つけてもらおうかと言っています。
引っ越し費用はありますか?」
私は母のこの申し出も断り、自分で下宿を探した。
その私に、母はいつになく乱れた文字でこう書いてきた。
「二十歳の乙女が誰の力も借りずに、完全に一人で立っているんですもの。
でもよく一人でやりました。
離れ住む娘に届たし百合の花
がんばれ、清子。負けるな 清子」
「がんばれ、清子。負けるな、清子」は、
母が自分自身へ送る声援だったに違いない。
百合の花の句をたくさん書いてきたけれど、
心ここにあらずの凡庸で乱れた句ばかりだった。
そして、わが身を振り返り、
淋しさと嘆きの入り混じったこんな言葉で手紙を締めくくっていた。
「五十の坂を越しても自分の足で立つことも、
そういう生活の楽しさも知らないお母さんにくらべ、
自分の力で生きてゆく清子を羨ましく思います」
眼科で遠視と言われてメガネをかけたが、すぐやめてしまった。

この38年後、母は八十八歳の米寿を記念して自叙伝を書いた。
この本は頼まれて、私が編集した。
編集しながら複雑な思いで、母の八十八年の軌跡を辿った。
本に、私が卒業したころのことをこう書いていた。
「子供たちへの毎月の送金に気を張っていたと思います。
最後に清子が卒業して月謝はいらないと言われたときは、
張り詰めていた糸が切れたようでひどいショックで、
ボーッとしてしまったっけ。
当分は店に立つのも気が重く、計算も間違ったりして、
ハッと気づいたこともたびたびだった」
晴れて社会人になった年は東京オリンピック開催の年で、
私は会社の窓から、大空に描かれた白い五輪の輪を見上げていた。



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でも教員にはなりたくないと思った。
こんな未熟な教師が生徒たちを教え導くなんて、正直、怖かった。
図書館勤務も気が進まなかった。
なんだかカビ臭そうだし、堅苦しそうだし…。
寮の規則は厳しかったが、室内ではみんなのびのびしていた。
夜の宴会ではビールも登場。
写真がブレているのは、撮影者が酔っぱらっていたから。

そんなとき、長兄から電話が来た。
「就職決まったか? まだならちょっと来い。きちんとして来いよ」
そうして出かけた先はなんと国会議員会館。
兄は勝手知ったる風情でどんどん入っていく。
私は緊張しながらあとに従った。
部屋ではでっぷり太った議員がにこやかに迎えてくれ、私の顔を見るなり、
「オッ、決まりだね。合格だ。航空自衛隊の秘書課。
でも一応、試験は受けてもらうよ。なに、答案用紙に001と書くだけだ」
兄が深々と頭を下げる。議員はニコニコしながら私に言った。
「2、3年勤めたら、優秀なパイロットと結婚するんだね」
でも私はこの試験をすっぽかした。
「パイロットと結婚? 人の人生、勝手に決めるな!」と反発した。
それにこんな不正はしたくないとも思った。
航空自衛隊の秘書課を蹴った私は、出版社を受験して採用された。
それから間もなく、兄から言われた。
「〇〇議員がお前を褒めてたよ。なかなか気骨のある妹さんだねって」
出版社では4年生大学卒の学生しか採用しないという規定だったが、
作文などの書類審査で特例を認められて受験させてくれた。
筆記試験と2度の面接試験を経て採用されたときは、まさかと思った。
10数名の新入社員の中の紅一点だった。

母から手紙が来た。
「自分の才能を十二分に発揮できる職場を得られた事は、
人生最大の喜びかと思います。
お母さんは自分の出来なかった事を子供が次々とやってくれる事に、
どんなにうれしいかわかりません」
でも母はこれで末娘が帰ってくるという望みを断たれて落胆したのか、
そのあとにこう書いてきた。
「安心と疲労で寝床の虫になってしまった意気地のない私。
W子やY(次兄)が来てくれて、元気の糸を手繰り出してくれました」
「毎晩毎晩、清子の夢を見て困っています」
母の苦悩をよそに私は自分で掴んだ世界へ、ジャンプ!
その喜びを、その頃流行り出したセルフ写真ボックスで一人で嚙み締めた。
「私、やりましたよ!」「すごいねぇ! おめでとう!」


「これからの住まいですが、
お父さんが知り合いに見つけてもらおうかと言っています。
引っ越し費用はありますか?」
私は母のこの申し出も断り、自分で下宿を探した。
その私に、母はいつになく乱れた文字でこう書いてきた。
「二十歳の乙女が誰の力も借りずに、完全に一人で立っているんですもの。
でもよく一人でやりました。
離れ住む娘に届たし百合の花
がんばれ、清子。負けるな 清子」
「がんばれ、清子。負けるな、清子」は、
母が自分自身へ送る声援だったに違いない。
百合の花の句をたくさん書いてきたけれど、
心ここにあらずの凡庸で乱れた句ばかりだった。
そして、わが身を振り返り、
淋しさと嘆きの入り混じったこんな言葉で手紙を締めくくっていた。
「五十の坂を越しても自分の足で立つことも、
そういう生活の楽しさも知らないお母さんにくらべ、
自分の力で生きてゆく清子を羨ましく思います」
眼科で遠視と言われてメガネをかけたが、すぐやめてしまった。

この38年後、母は八十八歳の米寿を記念して自叙伝を書いた。
この本は頼まれて、私が編集した。
編集しながら複雑な思いで、母の八十八年の軌跡を辿った。
本に、私が卒業したころのことをこう書いていた。
「子供たちへの毎月の送金に気を張っていたと思います。
最後に清子が卒業して月謝はいらないと言われたときは、
張り詰めていた糸が切れたようでひどいショックで、
ボーッとしてしまったっけ。
当分は店に立つのも気が重く、計算も間違ったりして、
ハッと気づいたこともたびたびだった」
晴れて社会人になった年は東京オリンピック開催の年で、
私は会社の窓から、大空に描かれた白い五輪の輪を見上げていた。



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