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いつの間にか「傘寿」⑮

いつの間にか傘寿1
11 /01 2023
大学落ちた。

当然の帰結だから納得したが、家を出る手段をなくして慌てた。

あたふたして探したら、手頃な学校が見つかった。
短大だったが図書館司書の資格も教員免許も取れるとあったから、
これだ!と思った。

「女は手に職を持たなければお母さんのように惨めな思いをするから」
と、母は常日頃、職業婦人になれと勧めていたから、これなら説得できる。
それに2年という期間なら、両親の経済的負担も軽い。


というわけで、ほとんど無試験みたいな短大に入り込んだ。

花の女子大生になった!
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入学が決まったとき、母は私を隣町の洋裁仕立ての店へ連れて行った。
そこで3着も誂
(あつら)えた。

一つは萌黄色のワンピースにお揃いのボレロ、
2着目は、えんじ色の地に黒い線が入った厚手のスーツ。
これには同じ生地でできたマフラーがついていた。

一番おしゃれだと思ったのは3着目の洋服だった。
千鳥格子のジャケットに箱ヒダのスカートのスーツと、
金ボタンがついた赤いチョッキのセット。


洋裁店の女店主は、「チョッキは肌に直接着てね」と言ったから
その通りに着たら、硬いスーツの下から赤と金色のボタンが
チラリと見える。

これが都会風で、なかなかおしゃれだった。


父からも小さな包みを渡された。
開けたら、なんと数枚のピンクのパンティ。母は呆れた顔をしたが、
私は真面目な顔をしてしっかり受け取った。

母は表面ばかりに気を取られる人だったから、
今までも下着の調達には苦労した。
父はそういう妻の性格を知り抜いていたのだろう。


その頃の私は腰と両腿にゴムが入ったズロースばかりだったから、
パンティなるものは初めて。そんな娘を察して、
父は衣料品店の女主人に相談して、見繕ってもらったに違いない。
母は「やだぁ、お父さん」と言いつつ、丁寧にスーツケースに入れてくれた。

最後の子供が家から出て行く。


今にして思えば、どんなに寂しかったことかと思ったが、
そのときの私は、これから始まる新しい世界ばかりに気を取られて、
父と母の気持ちなど知ったこっちゃなかった。

いよいよ上京する日が来た。


私は仕立てたばかりのスーツに身を包み、
母が購入してくれたバカでかいスーツケースを下げて家を出た。
そしてそのまま振り向きもせず、通いなれた道を一直線に駅へ向かった。

母は私が坂道を下りその先を曲がり切るまで、見送っていたに違いない。
父は家の中にいただろう。


母の背後にはもう誰もいなくなった2階がぽっかり穴を開けていたはずだ。
後年、母は手紙に書いてきた。

「だれかがいつでも帰って来てもいいように、
お母さんは毎日、2階を掃除しています」


女子寮に入った。4人部屋だった。

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困ったのはお風呂だった。人前で裸になることに慣れていなかったから、
イヤでイヤで仕方がなかった。
今でも温泉が嫌いなのは、この時の後遺症が尾を引いている。

寮には賄いのじいさんがいた。
じいさんは最後のお湯に入るのを毎晩、楽しみにしていたが、
その理由はこうだった。

「若い娘が入った後はホルモンがいっぱいだからな。体にええ」

そのせいか、肌はピカピカだった。

朝と夜の食事は食堂で食べたが量が少ない。


寮の食事風景。お櫃が時代を感じさせます。
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みんな食べ盛りだから争うようにご飯も味噌汁もてんこ盛りだったが、
私はいつも食いっぱぐれて、自分に回ってきたときはほとんど空。
だからいつもお腹を空かせていた。

同期生は買い食いや栄養剤で凌いでいたが、
父からの仕送りが少なくて昼食代にも事欠いていたから、栄養失調になった。


痩せた体に追い打ちをかけたのが病魔、帯状疱疹というすごいやつで…。
「全然、栄養が足りてないよ」と医者から笑われた。

花の女子大生が鶏ガラになって、帯状疱疹で水膨れだなんて最悪だった。
なんとかしなければと考えてアルバイトに行き始めた。


行った先は運送会社。今のクロネコの前身で伝票整理をやった。

いろんなことをやり過ぎて疲れ果てて爆睡。母が送ってくれた布団で。
日曜日になるとそのころまだ東京にいた次姉から「手伝いに来て」と。
「Y子はまたあんたをこき使って」と母は憤慨していたが…。
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短大の勉強は楽勝だった。
平安文学の先生が主宰するポエムの会に入った。
図書館通いも始めた。最初に借りたのが「チボー家の人々」。
これは11巻もあって大変だったが読み切った。

図書館の司書講座は熱心に勉強した。教員免許への道も忘れなかった。
これさえ完璧にやっていればよし。

アルバイトで少し余裕が出来たら、途端にいろんなことをしたくなり、
ハワイアンと座禅にのめり込んだ。


座禅は夜、早朝問わず、禅堂へ通った。
夏休みには遠方の寺へ泊りがけで出かけた。

静けさのほかは何もない禅堂は居心地がよかった。
空気さえ動かなかった。
だが、無の境地になろうとすればするほど、頭の中は騒ぎ出す。


警策を持った直堂(僧)が音もなく禅堂の中を歩いている。
ただ微かに風を感じるだけだ。

その風が背後で止む。直堂がピタリと後ろに立った瞬間だ。
気配を察して合掌し首を傾け警策を肩にバシッと受けた。

禅堂に入ったとき天空にいた月はいつの間にか姿を消し、
しらじらと夜が明け始める。
その流れを背中で感じるときが一番好きだった。


ハワイアンは独学で始めた。
ハワイアン喫茶に通い詰め、楽譜を買い、ウクレレを買って…。


裏声を出す練習をしたり…。
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そしてなんと、
翌年、私は卒業していく2年生から頼まれて、
横浜の劇場で弾き語りをしたのだ。

シルクホールという会場だった。
卒業生を送る謝恩会で、ぜひ演奏を、ということで、
恐いもの知らずの私はホイホイと承諾。


当日、大きなステージで一人ウクレレ片手に2、3曲歌った。
歌った曲はもう覚えていないけれど、

「小さな竹の橋」「サンゴ礁のかなた」「バリバリの浜辺」か、
それとも、
♪月の夜は 浜に出て みんなで踊ろう、フラの踊りの「月の夜は」か、
「マニヒニメレ」の、♪フムフムヌクヌク魚も楽しく歌うよ が好きだったので、
そのあたりだったかも。


それにしてもなんと無謀で恥知らずなことを、と、思い出すたびに赤面。
でもみなさん、万雷の拍手で讃えてくださった。
真剣に耳を傾けてくれていたホールのボーイさんたちの姿は、
今も目に浮かぶ。

田舎から出てきたおのぼり一年生の19歳は、こうして暮れていきました。

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いつの間にか「傘寿」⑭

いつの間にか傘寿1
10 /29 2023
秋の修学旅行が終わると、いよいよ次のステップへ踏み出すことになった。
だれもが進路を決めなくてはならない、
そういう決断の時がきたのです。

来年3年生になれば理数系と文系に分かれていく。
この時期になると、一様にみんなの顔つきが変わってきた。

でも私は相変わらずのんびり、ふわふわしていた。

何になりたいとか、どこの大学を目指すのか、少しも考えていなかったから、
今思うと「お前、バカじゃないの?」としか言いようがない。

子供のために自分たちのすべてを犠牲にして働いてきた両親には、
全く親不孝な不遜極まりない娘だった。

ただ兄や姉たちと同じ道を行くのが当然のように思っていたから、
大学生になって東京へ行くことだけは、私の中で規定路線になっていた。

両親が一番、幸せだったのがこのころではないだろうか。
長女は教師に、長兄は大学生(このころはまだ学帽を被っていた)、
次姉と次兄は高校生。そして私が中学一年生
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そんな中、私はラブレターをもらった。

朝、靴箱を開けたら、室内履きの中に小さく折りたたんだ紙が入っていて、
開けるとこれまた小さな丁寧な字で、なにやらびっしり書かれていた。

「雨宮さんのことを書く僕をお許しください」

今どきの高校生には通じないかもしれない古風な書き出しです。


「好きで、ずっと思っていました。
でも友人からは今は我慢しろと言われています。
これから本格的に勉強しなければいけない時期なのに、と」

それで思いを断ち切ろうと、
電車の車両を私が乗っている車両から、わざと変えてみたとのこと。

私は同じ車両に乗っていたことも全然気付いていなかった。


あの通勤、通学で込み合う車内で私を見つけて、
胸を熱くしていた少年がいたんだと思ったら、急に顔が火照った。

でも、このレターには名前がなかったから誰かはわかりません。
だが、ヒントが書かれていた。

「いつか釣りに行ったとき、お会いした者です」


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アッと思った。
あれは高校一年生の秋ごろではなかっただろうか。もう一年以上も前だ。


その日は日曜日で、ちょうど注文してあったセーターが編みあがって、
浮き浮きしていた時だった。

セーターはクリーム色の地に青い縞模様が二本入ったおしゃれなもので、
外をうろつきたい気分になって坂道を下って行ったときだった。

軽快に歩いていくと反対側から、
坂道を登ってくる釣り竿を持った少年が二人やってきた。
だんだん近づくと、それは同級生で見覚えのある顔だった。


先に向こうが気づいたのか、すでに足が乱れている。

すれ違うとき、背の高い色白の美少年がふいに下を向き、
隣にいたもう一人の少年が困ったような顔で私を見た。

私は揺れる心を読み取られまいと、そのままズンズン坂道を下っていった。

そうか、あの時の…。


だがこの恋はそれきりになった。
彼はこの恋文を出したことで踏ん切りをつけ、志望する大学目指して
勉強に集中していったのだろう。

でもこのラブレターは、別の意味で私を勇気づけてくれた。


あれは高校に入学して間もない頃だった。

登下校の道は広大な梨畑の中にあったから、その日も私と友人は、
梨の白い花が一面咲きほこる美しい道を駅へ向かっていた。
そのとき、
大荷物を満載した荷車が坂の途中で立ち往生しているのを見た。


回り込んでみるとそこには、
いかにも陰険そうなおやじに「役立たず」と怒鳴られ、
鞭打たれている犬がいるではないですか。

犬は痩せこけた肩にロープを食い込ませて、荷車引きの助手をしていたのだ。

かなり酷使したのだろう。犬の体は変形して見るからに痛々しい。


「ひどーい! ぼくの先輩がそんな目に遭ってたなんて」
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こんな光景、江戸末期や明治、大正の錦絵でも見た事がない。
貧しさの極限みたいな「今どきあり得ない現実」を目の当たりにして、
私はいたたまれなくなり、

「義を見てせざるは勇なきなり」


とっさにカバンを友人に預け、
スカートをたくし上げて荷車の後押しをした。

ようやく坂の上に上がって、礼も言わずに立ち去る荷車引きを見送り、
友人を振り返ると彼女はさっきの場所で固まっている。
近づくと真っ赤な顔で睨まれた。

「恥ずかしくて恥ずかしくて。みんなが笑っていたじゃない!
またあんなことをするなら、もう一緒に歩かないから!」

笑って通り過ぎた生徒たちと、これから同じ電車に乗らなくてはならない。
駅までの道々、彼女はそればかりくどくど言い続けていた。

でもそんな「恥ずかしい」私を、ずっと思い続けてくれた少年がいた。
凄いことだと思ったし、たまらなく嬉しかった。


もうボロボロになってしまったけれど、今でもこの恋文を私は持っている。
そしてこれを見るたびに思い出すんです。


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あの梨畑の道と鞭打たれていた犬と荷車と、
そして、
恋と学業を天秤にかけつつ、告白した釣り竿を持った少年の白い顔を…。

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いつの間にか「傘寿」⑬

いつの間にか傘寿1
10 /20 2023
高校生になったら、すぐ上の兄も東京へ出て、
ここは父と母と私だけの家になった。

3人だけになったら母は優しくなり、父はますます寡黙になった。

今まで兄や姉たちがいた2階の部屋全部が私のものになった。

日曜日には1階の屋根に布団を干して寝転んだ。
私の上にあるのは空。動くものは流れる雲だけ。


恥ずかしながら、当時作ったポエムをご披露します。

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あの雲に乗っかって

あの雲に乗っかって どこか遠くへ行きたい
どんなに気持ちがいいんだろう

はてしない空に浮かんで水色に染まって
突風を体で受け止めて
そうだ、雲の上で大きく背伸びをしよう
ああ、どんなに気持ちがいいんだろう


独り占めした空の中で
私は大声で泣き、大声で歌い出す
一人になった喜びと 一人になったさびしさを
両手にいっぱい抱えながら

     ーーーーー

屋根の上の私を見つけて、猫がやってきた。
一匹、二匹、三匹。

茶とら、ぶちねこ、からすねこ。

      ーーーーー

転居先で。家が出来るまで仮住まいした借家で。
二男が庭に出ると、どこからともなく大きな猫が現れて、
毎日、こうして寄り添い、二男がゴニョゴニョ言うのを目を細めて聞いていた。
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ねるねこ

ねこ ねこ ねる ねこ
ねんねこ ねこ ねる

横向いてスースー
両足伸ばしてフーッ


ひげピク
耳ピク
しっぽピク
いい夢見たのかな

ねこ ねこ ねる ねこ
ねんねこ ねこ ねる


チョンと鼻つついたら
丸くちぢんで ギュッと顔隠した

ねこ ねこ ねる ねこ
ねんねこ ねこ  ねる

どうにも眠くてたまらない
フーッ


    ーーーーー

田舎の猫は自由気ままだったけど、
後に暮らした新興住宅地の猫は大変でした。

     ーーーーー


猫嫌いの自治会長とお仲間がアジの干物をぶら下げたオトリカゴを仕掛け、
毎晩、住宅地を巡回して猫狩りをして歩いた。捕獲した猫をどうしたのか
追及されて答えられず、愛護団体から動物虐待で摘発され、
市からオトリカゴの返還を命じられた。

我が家へ来た捨て猫さん。無言で窓の外に佇んでいた。
化膿した前足をぶらぶらさせた猫も来た。薬を塗り、一晩、段ボールに。
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ねこはともだち

家の向かいのおくさんは
ねこを見張るのが仕事です
ねこよけのペットボトルに
水を入れ換えるのが生きがいなのです

家の隣りのおくさんは
ねこの通り道を見つけるのが仕事です
見つけた道に、
ガラスの破片を撒くのが生きがいです

はす向かいのおくさんは
ねこのフン探しが仕事です
どこにも落ちていないときは
しそうなねこがやってくるまで待ってます

みんなそれが生きがいなのです
ねこのおかげで楽しんでいるのです

ごはんを食べて布団を干して
テレビと電話と立ち話
子供の世話とときどき房事
次の日もまた繰り返し…
単調な日々の慰みに
どこの家のおくさんも肉食獣に変身し
小さな獲物を待ってます
ペットボトルの水を換え
道にガラスの破片を撒き
大事な庭に目を凝らす

ある日
夫たちが提案した
向かいの夫はこう言った
「アジの干物をぶら下げたオトリカゴを置いたらどうだい」
隣りの夫はこう言った
「トラバサミを仕掛けよう」
自信ありげに言ったのは
はす向かいの家の夫
「毒ダンゴならイチコロさ」

ところがおくさんたちは腹を立て
「とんでもない!」と首振った

向かいも隣りもはす向かいも
この世にねこがいなければみんな生きがいを失くすのです

おくさんたちとねこたちは
とても不思議な関係です

     ーーーーー

片手に乗るほどの捨て猫を息子が拾ってきた。
私の最後の飼い猫。エサの袋から顔が抜けなくなって七転八倒。
あずき

一人になった15の春。

赤いトタン屋根の上の私と猫たちは、
頭上に広がる空に溶け込んで、いつまでもまどろんでおりました。

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いつの間にか「傘寿」⑫

いつの間にか傘寿1
10 /17 2023
前回、同窓会のことを書いたらすっぽりはまり込んでしまい、
懐かしさから抜けられなくなりました。

修学旅行で。右端が私。
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同窓会のあとにいただいた同窓生からの突然の手紙を改めて見た。
手紙の書き出しはこうだった。

「前略 突然ですが懐かしさに駆られてお便りいたします」


そしてそこには思いがけないことが書かれていた。
彼は私が書いた山登りの本2冊を読んでくれていたのです。

私の登山の始まりはこうだった。


東京から静岡に転居してみたら、ここには魅力的な山がいっぱいあった。
指をくわえて見ているだけではもったいない。
そこで私は地元の山岳会に入れていただいた。30代で二人の子持ち。

旧住民の主婦たちからは、
「私らPTAかママさんバレーしか外出を許されていないのに」と、
お門違いの文句を言われ、


新興住宅地の奥さんたちには、格好のいじめの材料にされて、
「登山って若い人がやるもんなのに、いい歳してみっともない。
遭難したらみんなに迷惑かけるのに無責任な人だ」と、
これまたお門違いな非難をされた。


苗場にて。息子たちを連れてスキーに。
「あの家、また変わったことを始めたよ」と、スキーも誹謗の対象に。
苗場

主婦たちが大勢働くパートの部品組み立て工場では、
こんなことが広まっていると、PTAで知り合った主婦から告げられた。

「あんた、ここでは有名人だよ。みんな言ってるよ。〇〇の変人って」

〇〇はここの土地の名。

しかし間もなく本を出版し、テレビや新聞に出ると状況は一変。
「〇〇の変人」はアッと言う間に「〇〇の貴重品」に格上げされた。

あのいやがらせ大学教授夫人までもが「わたしを山へ連れてって」ときた。

どんな相手であろうと、頼まれれば一生懸命尽くす私。
大学教授夫人とそのお仲間を数人、近くの低山に連れて行ったら、
途中で「疲れたから帰りたい」と言い出して、1時間もしないうちに下山。


別のグループからまた頼まれて連れて行ったら、途中から小雨になった。
途端に「こんな日に連れてくるなんて」と文句タラタラ。

「女子と小人は養い難し」そのものではないですか。

あ、同窓生の手紙から横道に逸れ過ぎました。

さて、同級生の彼が読んでくれていたのは、
私の登山の本「おかあさんは今、山登りに夢中」「お母さんの歩いた山道」。

これは二人の息子を高山に連れて行ったり、
私自身の生きざまと山を絡めた山行記録だったが、
まだ主婦や子連れ登山が珍しい時代だったため、注目された。

「お母さんになっても山登りしてもいいんですね」「勇気をもらいました」
というお便りを全国からたくさんいただいた。


そうか、みんなも同じ目に遭っていたんだと、驚いたり安堵したり。

私も見知らぬ農家の主婦から「よくそんなに遊んでられるねぇ」と言われたり、
近所の男どもからは「主婦のくせに」とあからさまに悪態をつかれた。
山仲間の友人はそんな地元を避けて、東京の山の会で活動していた。

他人のことばかり気にしてあげつらう人が、どうしてこうも多いんだろう。
自分が夢中になるモノを見つける方が、ずっと心豊かに生きられるのに。


体育祭で仮装大会の衣装を着て。その名の通り、いつも明るい照ちゃんと。
右端には胸を膨らませて女装した男子生徒が…。
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同窓生は手紙にこう書いてきた。

「山登りの本二冊を読み終わり、
あなたの足跡と自分の人生をダブらせて感慨に耽っております。
気持ちはとても清々しく、こんな時を創ってくれた貴女に、
「有難うございました」を言いたくて、この手紙を書き始めました。


貴女の小気味の良い書き振りに感心する私の頭の中に、
咄嗟に「ふもと」とそこに書かれたあなたの詩が思い浮かび、
変色した七冊の小冊子を取り出して検めて見つけました。


昭和三十二年十一月五日発行の中学二年版「ふもと」NO45

練習       〇〇中学     雨宮清子

「きおつけー」
という声が運動場中に聞こえる
みんながくすくす笑う
わたしは兵隊さんのように
ピーンと立った
「ラジオ体操のたいけいにひらけー」
又もピリッとした声がする
消ぼう団のようにだだだととんでいく
道ゆく人がたちどまって
それを見ている


『だだだ』と飛んでゆく。同じ人だという証拠ですね。

雨宮さんとは高一の時一緒のクラスだったように思い、
写真を見たのですが見当たらず、高二の修学旅行の写真を見たら、
清楚な乙女がいるではありませんか。
ほっとして嬉しくなりました。


「お母さんの歩いた山道」に、K先生のことが書かれていますが、
私にも思い当たることが在り更に嬉しくなりました。

年老いた父が病の床に就き、家計も苦しく、
進学の可能性を考えられなかったその頃の私は、
勉強に励むことなど毛頭なく、バスケットボールと映画に熱中していて、
映画を観に行く為によく早引けをしました。

「蓄膿症の治療に病院へ行くので」と、K先生には偽り続けていました。
心の何処かに、
先生に対する痛みを抱えていた私をK先生が信用してくれたことが、
私には無上の張り合いとなり、『人を信じることが人を動かす』
ということを教わったように思いました。

貴女が同窓会の際、K先生に(追試の時の気遣いに対する)礼を
言いそびれたのと全く同じことを私も味わいました。

先生はもう私のことなど覚えてはいないだろうし、先生は誰彼の差別なく
自分の信ずるところを行っていた人だと思っていましたので、
挨拶をするのも変なもののような気がして、時をやり過ごしてしまいました。


今日までいろいろな人と接して来ましたが、『尊敬する』と言う言葉に
ぴたりと嵌る人は、K先生だけだったように思います」


体育祭・ほかのクラスの仮装。
当時はバイクで騒音を立てて走り回る若者たちを「カミナリ族」と言った。
1960年代の高校生たちです。
高校体育祭1

高校卒業からはや60余年。
改めて読んでみた同窓生からの手紙。

手紙は生き生きと語り掛けてきました。
涙もろい私はタオルで涙を拭き拭き読みました。


彼は、
失恋、組合運動の挫折、職場をいくつか変えたと赤裸々に綴っていました。


「平凡な人間として普通の男としての生活を作るまでには、
かなりの永い歳月が流れ、
それでも生きなければならないと経理の勉強を始め
…略…

現在の妻と見合い結婚をし、
六畳一間のアパート暮らしから新たな出発をした。
何かを背負うことにより
それを生き甲斐としなければ生きて行けないように思い、
ごく平凡な女を伴侶とすることが自分に合っていることを納得した。

今私の家族は妻と、妻の病気の実父と二匹の猫。
食っていければいいんだと腹を括ってのんびりやっています」


手紙には知り合いの山男から聞いたというケルト語のこんな言葉も。

「ア ファン アール ゴーディ(緑の谷間 希望の大地)」 

そして末尾をこう結んでいた。

「雨宮さんの本を読んで、元気を分けて貰ったような気がしています。
いろいろ昔のことを思い出して、楽しい気分です。
有難うございました」


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いつの間にか「傘寿」⑪

いつの間にか傘寿1
10 /14 2023
無事、高校生になったが、勉強に身が入らなかった。
60年安保の前年で、世間が揺れていた時代だった。

私はというと、「虚無」という言葉に取りつかれ始めていた。
虚無というより「ニヒリズム」。
同じだけどなぜかカタカナの方が気に入っていた。

なんだかわからないまま、自分にピッタリだ!なんて興奮して…。

もうなんでも虚しく思った時代。高2の修学旅行の車中で、
「あれっ、アメちゃんが笑ったのを初めて見た」と言われてしまった。
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遅刻の常習犯にもなった。

登校がいやだったわけではない。
電車の本数が少ないため、前の電車で行くと40分ぐらい早く着きすぎる。
一本送らせると5分ぐらい遅刻するだけなので、どうしても後の電車になった。

当時の先生は「お前、また遅刻か」と言うだけ。気楽な時代でした。

なにしろこの世のすべてが虚しく思えていたから、
「人はなんのために生きているんだろう」なんて、いっぱし煩悶して。
その昔、華厳の滝へ飛び込んだ藤村操の言葉に反応して、
「ふむふむ、大いなる悲観は大いなる楽観に一致する。そっかぁ」と。

「勉強なんてやる意味あるの?」なんて真剣に考えていたから、
当然、勉強は疎かになった。

結果は如実に現れた。

「お前の姉さんや兄さんは優秀だったのになぁ」と担任から言われたし、
高2の時は数学で赤点をとった。

夏休みのある日、電話が鳴って私が出ると、担任からだった。

「今、近くに親はいるか?」
「いえ、いません」
「そうか。あのな、数学、ダメだった。追試に来い。親には内緒で来いよ」

勉強は嫌いだったが、この学校は大好きだった。

同窓会で。「きよちゃーん! オレ、好きだったんだよ」「ふええー」
あのころは笑顔も消えて、ラブレターもらってもトキめかず。

そういえば、当時「僕の可愛いみよちゃんは」って歌が流行ってて、
みよちゃんをきよちゃんに替えてからかったのは、もしや?
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ここは旧制中学から新制高校になった学校で、私は新制高校第十四回生。
圧倒的に男子生徒が多く、私のクラスは53人中、女子生徒は13人。
少ないところは4人。男子だけのクラスもあった。

バンカラが色濃く残り、先生と生徒の間にはいい絆があった。

教師の移動はほとんどなかったから、
「〇〇高のホコリ(誇り)、ゴミ(五味)先生」などのあだ名も
代々引き継がれていて、そんな「伝統」に私は感動したりしていた。

電車を降りたら駅で先生たちが並んで、「安保反対」のビラを配っていた。
ここの高校の専用みたいな小さな駅だったから、
この時間、降りるのはここの生徒たちだけ。

「先生何してんだよ」と生徒から声を掛けられて、
先生は照れながらビラを手渡してきた。
配る方も受け取るほうも和気あいあいの変な安保反対です。

ほかの高校なら大問題になっただろうが、ここは違った。

「剛健進取の志操は堅き 若き人生の闘志我らの 使命は重きこの濁世に」
の校歌のままの活力漲り、意見をはっきり言うことが許されていたから、
居心地は最高だった。

同窓会で久々に聞いた在校生からの応援エール。
このときからすでに30年。光陰矢の如し。
応援団

あのころは「未来の日本は安泰だよね」なんて信じていたけれど、
「剛健進取の志操」のかけらもない政治家や稚拙なゲーノー人種や、
エセジャーナリストがはびこるこんな濁世になるとは思いもしなかった。

とまあ、憎まれ口はこの辺にして、

高校時代の私、勉強はしなかったが映画はよく見た。

「禁じられた遊び」
戦争孤児の女の子と農民一家の少年の別れに胸が詰まった。
このころは戦争を批判する映画が多かった。
禁じられた遊び

実家が映画館という教師が、さりげなく割引券を置いていくので
そこへ行ったり、下校のとき途中下車した町て3本立てを見たりした。

「西部戦線異状なし」の、戦争推進者への痛烈な皮肉を
情緒的な表現の中で描いて見せたあの感動は格別だった。

主人公は愛国心を説く教師の言葉に感動して入隊したものの、
戦争はただの殺し合いだったことを知る。この主人公も戦死するが、
大本営は「今日も西部戦線異状なし」と発表した。

私は泣き泣き憤慨した。

「アラビアのロレンス」では、
ロレンスが熱砂漠の陽炎の中からユラユラ現れるシーンや、
砂漠の蟻地獄に落ちた少年の恐怖の目が、いつまでも瞼に残った。

「顔のない眼」では事故で顔を失った娘のために医者の父親が、
他人の顔を移植しようと殺人を犯す。だが移植した顔は次第に腐っていく。
人間って恐ろしいことを考えるものだなあと思ったが、
今や移植は普通のことになった。でも私にはこの映画がチラついて…。

「戦場に架ける橋」
第二次大戦中、日本軍が捕虜を使ってタイとビルマを結ぶ鉄道を建設した。
その過酷さから「死の鉄道建設」と言われた。実話から創作した作品。
戦場に架ける橋

「戦場に架ける橋」のララ、ラララ、ラッラッラーの主題歌の口笛、
「地下水道」の壁を叩く音、
「禁じられた遊び」の、哀しくしのびやかに響くギターの音色、
ミュージカル映画「ウエスト・サイド物語」のトゥナイトの透き通る歌声、
マリア、マリア、マリアの若者の力強い叫び、


どの映画の主題歌にも本当に感動した。「グレンミラー物語」もよかった。

西部劇もよく見た。
「リオ・ブラボー」では、リッキー・ネルソンに惚れ込み、
ジョン・ウエインにはスクリーン上で何度も会った。

「ローマの休日」ではヘプバーンに憧れた。


「鳥」に恐怖し、「老人と海」にはしみじみ。「渚にて」の人類滅亡の町で、
コーラの瓶が風に揺れて音を立てているシーンに、近未来はこうなんだと。

「ぼくの伯父さん」も楽しかったし、「チャップリンの独裁者」では笑った。

チャップリン

日本映画にもいい作品がたくさんあったはずだが、
「椿三十郎」しか思い浮かばない。

就学前、父に連れられて見た「東海道四谷怪談」が人生初の映画鑑賞で、
その後は美空ひばりとマーガレット・オブライエン共演の華やかなものに。

映画の前にパラマウント・ニュースがあって、これも楽しみのひとつだった。

最初にライオンがウワーオとひと声吠えるのだが、
私には顎がはずれかけたライオンが、
けだるそうに吠えているとしか見えなかった。

「ウエスト・サイド物語」
リチャード・ベイマー、ナタリー・ウッド、チャキリス、リタ・モレノ出演。
ウエストサイド物語

見終わって映画館を出るころはすでに夜。

商店街はシャッターが下りていて、街灯だけが歩道を照らしていた。
誰もいない町をコツコツと駅へ向かい、そうして辛抱強く電車を待った。


私の下車駅で降りる人はほんの数人で、
そのほとんどは駅近くの路地へ消えていくので、その先へは私一人になった。

坂道を上る途中に「大入道のお化けが出る」発電所の導水管があった。

小学生の時買い物を言いつけられて、胸に買い物かごを抱いて、
走り抜けた場所だが、高校生のこのときは緊張しつつも難なく通り過ぎた。

当時、近所の娘さんが強姦されて大騒ぎになっていたから、
私に何もなかったのは奇跡というほかはない。

夜遅く帰宅する娘を両親はどう思っていたのだろう。

あのスーパーカブ事件以来、父も母も何も言わなくなったが、
このときも何も言わなかった。

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞