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池ノ谷観音堂の祭典②

民俗行事
07 /13 2023
朝の9時から住民総出で始まった祭りの飾りつけもようやく終わり、
御本尊様が見守る中、祭典が始まりました。

参加者全員がお堂に集まり、太鼓を叩き、鉦を鳴らします。

昔はナムアミダブツと唱えたが、今は名号を唱えることもなく、
適度に太鼓を叩き鉦を鳴らして終了した。


祭典始まる
静岡県富士宮市上稲子・池ノ谷観音堂

涼やかな風がお堂を吹き抜けます。

「五色の幣は私の内房では、
初午祭典時の幟にしか使われる事はありません。
又、富士宮の足形集落の火伏念仏の祭典で、
室内天井より垂れ下がる五色幣しか見た事がなかったので、
少し、感動を覚えました」

と増田氏。


私が意外に思ったのは、若い方が多いことでした。

今までお尋ねした限界集落といわれるところは、
祭りをやる体力ももうないわずかな高齢者、というところばかりだったので、
ここはちょっと違う、心強いなと思いました。

ご婦人方が板敷に正座されていますが、
楚々として、なんかいい感じですね。


涼しい風がお堂を吹き抜ける

神事が終わると集落内の行事などが話し合われ、
祭典行事の終了が宣せられた。

終了すると、
正面の笹竹に結んであった家庭用の笹飾りをほどき、各家庭に配ります。
笹飾りには五色の幣と三枚の神符がつけられています。

留守宅ではここまで来られなかったおじいさん、おばあさんたちが
往時を思い出しながら待っておられることでしょう。

これからお堂の外へ出るようですが、
みなさん長靴を履いているのは、山ヒルよけでしょうか。

行事を無事終えて、安堵の笑顔です。


過程に配る笹竹

ここからは外での作業が待っています。

正面以外に結んだ五色の幣の縄を5カ所の道へ張ります。


お堂の横へ幣

五色の幣がついた縄とお堂です。

昔は集落の人たちがここに集まって、
お酒やごちそうをいただきながら、夜を徹して念仏を唱えたんですね。


お堂と縄

水神様など、残り4カ所の道へも張りました。

水神様へも

「これは、世間で言うところの結界の役目ではないかと思われた」と増田氏。

5カ所へ

五色の幣と神符をつけた笹飾りが、個人のお宅に飾られました。

観音様と子安様が、きっとご一家を見守ってくださいますね。

笹飾りとトトロのマッチングが楽しい!


家へ飾る

「少ない軒数であと何年存続できるかは、旧芝川町のどの集落を見ても
同様な事情であろうと想像いたしました」

手紙の最後にそう綴った増田氏。


ですが、伝統ある祭りの存続の困難さは町でも同じです。
私が住む地区は人口約1万人ほどで、若者もそれなりにいます。

でも今は神輿を担ぐ人がいないため、有効活用として老人施設に寄付され、
施設の夏祭りでお年寄りたちを楽しませるために担がれるだけ、
ということになってしまいました


ほかの町内会では、請負会社にお金を払って担ぎ手を雇ったそうですが、
しらけてしまって盛り上がらず、一年こっきり。そりゃそうですよね。


こちらは池ノ谷観音堂の力石です。

かつては集落の若者たちに担がれ、念仏祭の賑わいを聞いていた力石も、
今は自然に身を任せて、静かな眠りについています。
でも増田氏たちのおかげで、生きた証しを紙の記録に残すことができました。

そしていくつもの時代を経たのち、この記録を見た人が、
「このあたりにあるはずだ」と探す様子が見えるような気がします。


力石2

偉そうなことを言うようでおこがましいですが、私はこう思うのです。

先史時代から今日まで、人は繁栄と消滅を繰り返してきたが、
その文化や営みや信仰や歴史は決して消えてしまったわけではない。
ただ見えなくなっただけなのだ。

「見えなくなった」がために、後世の人たちはそこに魅力やロマンを感じ、
古代遺跡を掘り返したり、古い時代の文献や事物を漁って、
それがなんであったかの探索や謎解きに夢中になる。


縄文人は何を食べていたのかとか、日本人はどこから来たのかとか。

幣を飾る

今まさに消えかかっている伝統行事や神楽や祭はどうかというと、
たとえ、かつて人々に熱狂されたものでも、
しょせん、当時の暮らしにマッチした流行りモノだから、
現代の暮らしに合わなくなれば、形骸化するのは自然なこと。

ですが、どんな新しい時代になろうとも、
人の営みは過去からの続きで、切り離すことはできません。
そしてその過去には、
その時代時代の流行りモノだった民俗行事の精神が流れています。

この祭はどこから来てどのように伝播していったのかとか、
どのような時代の変化を経て受け継がれてきたのか、
どんな信仰が付随して、それが暮らしにどう影響していたのかとか。

形骸化し消滅寸前だからこそ、
後世の人たちが辿れる手段として紙に記録しておく。

文化財になった民俗行事はこむずかしい学問になってしまうけれど、
こうして記録に残すことで、
のちの郷土史や民俗、民族、文化人類学などの研究に貢献できる、

と、私は思っているんです。


歴史学者の網野善彦は、「日本の歴史書は権力者ばかりを書いている」と嘆き、
庶民の歴史を記録する重要性を説いた。


太鼓

そうした教訓を体現したかのように、

今回、池ノ谷の5軒のみなさんが、形は簡素であれこうして集まり、
「自分たちの記憶に残る祭り」を再現して、遠い昔のふるさとを共有し、
それを増田氏が克明に記録して、後世へ橋渡しされた。

そして、衰退や消滅は決して恥ずべきことでも敗北でもない。
むしろこうした伝統があるということのほうが誇りであること。
先人の古きを認めつつ自分たちの今を楽しみ、未来へ向かうこと。

そのことを池ノ谷のみなさんは示してくださった。


私はとても感動しました。
私の中で眠っていた大切な何かが呼び覚まされました。

増田さんと池ノ谷の方々に、心からの拍手と感謝を申し上げます。
ありがとうございました。

これを読んでくださったみなさんも、
どうぞ、池ノ谷の5軒、24人にエールを送ってあげてください。

写真・資料提供 
増田文夫氏(内房在住の郷土史家・富士宮市史石造物調査委員)

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池ノ谷観音堂の祭典①

民俗行事
07 /10 2023
前回、静岡県上稲子の「池ノ谷観音堂」の念仏祭をお伝えしました。
池ノ谷は世帯数5軒、24人の小さな集落です。

ここに石造物の調査に入った増田文夫氏から、
「今はお堂も力石も草に埋もれ、祭りも細々」というお手紙をいただき、
それを記事に書き上げたその日、

なんと、途絶えていた祭りが再開されたという嬉しい便りが届きました。

郷土史家の目で見た増田氏の詳細な記録を、ここにお伝えしてまいります。

※写真はすべて増田氏。解説は増田氏の説明に私の感想を添えました。

「上稲子池ノ谷 観音堂祭典」
令和五年七月二日(日)

観音堂です。
石を積んだ石畳状の石段が、ここの古い歴史を物語っています。

地蔵さんにしめ縄が掛けられました。久々の晴れ姿です。
力石もこの日ばかりは脚光を浴びました。

集落の最長老の82歳の方は「力石のことは子供の頃聞いたことがある」と。


観音堂1 観音堂2
静岡県富士宮市上稲子池ノ谷・観音堂

午前9時、集落の皆さん総出で飾りつけです。

お堂四方に笹竹を立て、正面にも笹竹を立てる。
縄を正面を除き3か所に張り、さらに対角線上にも張る。


観音堂4

御本尊の聖観音様(左)も、子安様(右)も、久々の賑わいに嬉しそう。
扉を開けてもらって、新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んだことでしょう。

男性陣が笹竹を立てている間に、ご婦人方は五色の幣を撚る。


御本尊 観音堂6
  
神符を刷る。こちらも忙しい。
版木がしっかり受け継がれていたんですね。

きれいに刷り上がりました。
「子安八幡大菩薩」「奉納百万遍家内安全所」などの3枚の神符です。

神符をする 神符3枚

笹竹に五色の幣を飾る。堂内が一気に華やぎました。

幣を笹竹に飾る

観音堂だけではなく、各家庭用の玄関飾りも作ります。

家庭用に用意された笹竹に、幣と神符をつけていきます。

笹竹につける 家庭用にもつける

次は大変特色のあることだと思いますが、

五色の幣や神符をつけた各家庭用の笹飾りを、
お堂正面に立てた笹竹に縛り付けます。

御本尊の力を移すということでしょうか。
この笹飾りは祭典後、各家庭へ持ち帰り玄関に飾られるそうです。


家庭用に幣と神符 中央に結いつける

飾り付けが完成しました。

殺風景だった堂内が、命を吹き込まれて見事に甦りました。
 
完成

「子安八幡大菩薩」の掛け軸状の赤い旗(垂れ幕)も掛けられました。

「昭和六拾参年壱月吉日」とありますから、
今から35年前の昭和最後の年に新調されたものですね。

冒頭に登場した82歳の最長老の方、当時は働き盛りの47歳。

集落の皆さん、お正月にここに集まって、
新しい旗を見ながらお祝いをして、楽しく過ごされたことでしょう。

御本尊の前の五色の幣が、気持ちよさそうに風になびいています。

お花も添えられて、祭りの準備が整いました。

いよいよ祭典の始まりです。


御本尊もきれいに

私の次男坊が、ふと、もらした言葉を思い出しました。

「ぼくは昔からの古い祭りがあるところに生れたかった。
だって、新興住宅地ほどつまらないところはないんだもん」

〈つづく〉

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池ノ谷の念仏祭

民俗行事
07 /07 2023
先日、静岡県での久々の力石新発見をご報告しました。

これです。
上稲子4
静岡県富士宮市上稲子池ノ谷・観音堂

全身苔むした力石に、地蔵さんがそっと寄り添っていました。

集落の言い伝えでは、自分の病気の所と地蔵さんのその部分とを
交互にさすり拝むと病気が治るといわれていたそうです。

以下が新発見のときの記事です。


「もう知る人は誰もいない」

申し訳ないと思いつつ、この情報をくださった郷土史家の増田文夫氏に、
集落の人口などを問い合わせたところ、
このたび、池ノ谷集落の詳細を送ってくださったんです。


増田氏によると、

「この池ノ谷の集落は以前は18軒ほどの人家があったが、
現在は5軒、24人が居住」

「一世帯で3世代の家も数軒あるようで、
戸数が少ない割には人数は多いと思います」とのこと。


さらに、
13年前に地元の郷土誌「かわのり」に掲載された「池之谷村」の記事、

稲子、池ノ谷念仏祭について」(芦澤幹雄氏執筆)もお送りくださった。
「かわのり」の誌名は、
  旧芝川町を流れる芝川で採れる川海苔から命名された。

力石が置かれていた観音堂(白い屋根の建物)です。
写真の説明に、
「沢を渡り急な坂道を上った山腹にある。この道を登ると柚野へ通じる」
とあります。
池ノ谷1
「かわのり」35号 平成22年6月30日。芝川町郷土史研究会より

執筆者の芦澤氏は取材当時、上稲子の旧家・後藤家のご当主から、
このお堂の念仏祭の「念佛縁起之事」
(日付は安永三年=1773)
という古文書の提供を受けたという。

記事によると、


「池ノ谷観音堂の念仏祭は、毎年旧暦六月の田植えが終わったころ、
村人たちがお堂に集まり、念仏百万遍を実施してきた」


「祭りの前日には参道を清め、お堂の中央と四隅に葉のついた青竹を立て、
青竹とその中間に7本のしめ縄を張り、五色並びに金銀の幣をつけた」

「当日は村人一同がお堂に参集して、百万遍の念仏が始まった」

こちらは今から8年前に私も参加させていただいた
静岡市有東木集落(標高700m。約70戸)の百万遍です。
「ダーブツ、ダーブツ、ナンマイダー」と唱えながら、数珠を回しました。
CIMG2347_202307050731554a3.jpg
静岡市葵区有東木・東雲寺

池ノ谷の念仏祭では、
「最初に〈くにまき〉というものにより日本国中の神仏を集め、
太鼓・鉦に合わせて全員で念仏を唱える。
ナマイダーを何度か繰り返して、最後にナマイダブツと言った」


「さらにこれを何回かくり返す。
この数は青竹の目盛りを一人が順に押さえていき、
太鼓の係に合図を送り決めていく。
酒食をして一休みして、また始める。一日中、時には夜を徹して実施した」

ということは、私が体験した数珠を回す百万遍とは異なり、
ここでは太鼓と鉦で念仏を唱えたようです。

池ノ谷観音堂の聖観音と子安観音です。
古い歴史を持ち、豊かだった往時の集落がうかがえます。
池ノ谷2

執筆者の芦澤氏はこの「念佛縁起之事」に書かれていた
「くにまき」に注目。
「国覓(くにまぎ)」という言葉があるが、これと関連があるのだろうか、と。

しかし「念佛縁起之事」には、
「くにまきというものにより日本国中の神仏を集めて」と書かれているが、
「国覓
(くにまぎ)とは良い国を求めて歩くこと」であり、目的が違う。

執筆者は結論が出ないまま、
この二つの言葉は同義語であろうかと、記事に疑問を記している。

池ノ谷集落に残る「青面金剛王者菩薩」木碑。宝暦十二年(1762)
池ノ谷3

芦澤氏は、はるか昔、この祭りを見学したそうで、
そのときは、「お堂いっぱいに人々が入っていた」


峠を越えて隣村の柚野からも参拝者が来たのかもしれません。

だが、それから40年ほどたった平成22年ごろには集落の人口も減り、
飾りや魔除けは実施するものの、太鼓の叩き手もいなくなり、
念仏は適当に濁して散会となっていたという。

そして芦澤氏の取材から13年たった令和5年の今、
念仏祭はどうなっているのかを、増田氏が伝えてくれました。


「5軒で協力してお祭りをやっているそうです」

「コロナ前までは観音堂の四隅に竹を立て、
しめ縄を張ってお供えをしていたが、現在は7月下旬に
下の家付近の入り口5カ所に青竹にしめ縄を張る飾りつけをして、
お祭りらしい行事を行っているとのことでした」と増田氏。

祭りの会場が観音堂ではなく、「下の家付近」になった理由の一つが、
なんと、「山ヒルが多く繁殖しているため」だそうです。

鹿が増えすぎたせいでしょうか。

でも、細々とではあるけれど、
24人が力を合わせて伝統を守っていたんですね。

増田さん、貴重なご報告をありがとうございました。
そして、池ノ谷のみなさん、どうぞ、お元気で!

ーーーと、書き終わったとき、

増田氏からとびきりの情報が送られてきました。
次回、お見せします。


お楽しみに

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オビシャ

民俗行事
01 /19 2020
「オビシャ」という言葉をご存じでしょうか?

私は10年ほど前、力石の調査で訪れた某所で初めて知り、
ちょっとユーモラスな言葉の響きと素朴な風習に、たちまち惹かれました。

でも、見物は叶いませんでした。

「地区の人たちが密かにやっていることだから」とやんわり拒絶され、
加えて神社は人家もない山中で、日時もわからず断念。

それから5年ほどたったある日、
思いがけない方から「オビシャ」が出てきてびっくり。

その方は、
国際日本文化研究センターへ留学されていた韓国の大学の先生で、

オビシャの研究で日本に来ました。
かつては韓国にもあった風習でしたが、今は途絶えてしまったんです。
それが日本には残っていたんです」と。

これは千葉県立関宿城博物館・友の会発行の図録です。

img20200118_08534121 (3)

昨年、「万治石」保存式典に出かけた際、関宿城博物館で求めたものです。

「オビシャ」は「御奉射」「御歩射」「鬼射」とも書き、
おびしゃ、おんびしゃ、ほうしゃ、ぶしゃとも言います。

1月から2月にかけて行う年のはじめの「厄払い」の行事で、
三本足のカラス魔王の目などを描いた的を弓矢で射るものです。

図録から的の写真をお借りしました。

img20200118_08505949 (2)
茨城県取手市野々井・白山神社

img20200118_08565387 (2)
栃木県日光市小倉・三所神社(写真提供・篠崎茂雄氏)

この図録は関東一円のオビシャを扱ったものなので静岡県のものは皆無。

でもわが県にもあるんですよ。
かつては、弓矢を鉄砲に替えた「オビシャ」も。

下の動画は、
静岡県の伊豆松崎町池代・日吉神社「おんびしゃまつり」です。

ここでは的に鬼の文字を描き、それを黒く塗りつぶしてあります。



こちらは静岡浅間神社「奉射祭・大的式」です。

「奉射神事」は関係者のみで屋内で行われたのか、
屋外でのこの式がその両方だったのか、只今、問い合わせ中です。

神社弓道会の方々の登場です。女性がお二人いました。

CIMG5076 (2)
静岡市葵区宮ケ崎町・静岡浅間神社

片肌脱いで凛々しく弓をひく若者です。

CIMG5084 (2)

たおやかに矢を射る若い女性です。

CIMG5089 (2)

 なんと、いきなりど真ん中に!

CIMG5090 (2)

近くの幼稚園児たちも見学です。

今はよくわからなくても、
「ああ、これはあのとき見たのと同じだ」
という日がきっときます。

CIMG5093 (2)

「万治石」がある野田市今上でも、今ごろ厳かに行われていることでしょう。

この日私は、
厄が払われて、すっきりした気分で浅間神社を後にしました。

静岡浅間神社の百段階段です。
CIMG5099.jpg

大きな神社での奉射神事も素晴らしいけれど、
やっぱりムラの小さなお社での「オビシャ」を見てみたい。

と思いつつ、これを書き終えてわが身を見るとエプロンをつけている。

ブログを書くぞ!と意気込んでパソコンに向かうとき、
なぜか自然にエプロンを腰に巻いてギュッ。

妙なところで習性が出るものですね(笑)


※参考文献・画像提供/令和元年企画展「オビシャはつづくよ400年
               ~年のはじめの村まつり~」
               千葉県立関宿博物館友の会 2019


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行ってきました、草競馬ッ!

民俗行事
04 /23 2017
いったん行くのを断念した「さがら草競馬大会」。
今朝、トーストに夏みかんジャムをたっぷりのせて、
ガリリとやっているうちに、

やっぱり、行くか!

特急バス+なんだかんだで片道2時間。今なら午後のスタートに間に合います。
いざ、牧之原市「さがらサンビーチ」へ。

オッ、いましたいました。午前の疾走を終えて、一休み中のお馬さん。
CIMG3705.jpg
静岡県牧之原市相良・さがらサンビーチ

本日の出走はサラブレッド19頭、ポニー16頭、中間馬12頭。
午前、午後とも9レースずつ。

子どもは苦手だけど、しゃーない
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決勝戦が始まる前に行われた子供たちの「人間草競馬」です。
馬のぬいぐるみを被って走ります。

CIMG3710.jpg

さあ、いよいよ始まりました。砂に、海にヨット、空に遊覧ヘリコプター

CIMG3735.jpg  

なんだか興奮してきちゃった!  私はいつでも冷静よ。

CIMG3704.jpg CIMG3695.jpg

子どもの騎手さんが大勢出場しています。
遠く長野県から来た少年もいました。
ここに載せた写真の騎手は全員、少年少女たちです。

どうです、この手綱さばき
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外野のじじさまたちが「ほれ、行け」「やれ、行け」とうるさいこと。

CIMG3719.jpg CIMG3722.jpg

ポニーに乗った少年です。ポニーも少年に応えて懸命に走ります。

CIMG3731.jpg

すごいよ。
この馬と子供の一体化。

こんな文化が続いていたなんて。子供たちがあんなに生き生きと…。

祖父から父、父から子へ、連綿と引き継がれてきた草競馬。
じいさんの顔も父さんの顔も日に焼けて真っ黒。誇り高き日焼けだね!

闘いが済んで、お互いに健闘を讃え合う子どもたち。
CIMG3723.jpg

やっぱり思い切って出て来てよかった!
遠州名物の「干しいも」も買えたし…。

また来年。
お馬さんたちも元気でね!

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞