池ノ谷観音堂の祭典②
民俗行事
朝の9時から住民総出で始まった祭りの飾りつけもようやく終わり、
御本尊様が見守る中、祭典が始まりました。
参加者全員がお堂に集まり、太鼓を叩き、鉦を鳴らします。
昔はナムアミダブツと唱えたが、今は名号を唱えることもなく、
適度に太鼓を叩き鉦を鳴らして終了した。

静岡県富士宮市上稲子・池ノ谷観音堂
涼やかな風がお堂を吹き抜けます。
「五色の幣は私の内房では、
初午祭典時の幟にしか使われる事はありません。
又、富士宮の足形集落の火伏念仏の祭典で、
室内天井より垂れ下がる五色幣しか見た事がなかったので、
少し、感動を覚えました」
と増田氏。
私が意外に思ったのは、若い方が多いことでした。
今までお尋ねした限界集落といわれるところは、
祭りをやる体力ももうないわずかな高齢者、というところばかりだったので、
ここはちょっと違う、心強いなと思いました。
ご婦人方が板敷に正座されていますが、
楚々として、なんかいい感じですね。

神事が終わると集落内の行事などが話し合われ、
祭典行事の終了が宣せられた。
終了すると、
正面の笹竹に結んであった家庭用の笹飾りをほどき、各家庭に配ります。
笹飾りには五色の幣と三枚の神符がつけられています。
留守宅ではここまで来られなかったおじいさん、おばあさんたちが
往時を思い出しながら待っておられることでしょう。
これからお堂の外へ出るようですが、
みなさん長靴を履いているのは、山ヒルよけでしょうか。
行事を無事終えて、安堵の笑顔です。

ここからは外での作業が待っています。
正面以外に結んだ五色の幣の縄を5カ所の道へ張ります。

五色の幣がついた縄とお堂です。
昔は集落の人たちがここに集まって、
お酒やごちそうをいただきながら、夜を徹して念仏を唱えたんですね。

水神様など、残り4カ所の道へも張りました。

「これは、世間で言うところの結界の役目ではないかと思われた」と増田氏。

五色の幣と神符をつけた笹飾りが、個人のお宅に飾られました。
観音様と子安様が、きっとご一家を見守ってくださいますね。
笹飾りとトトロのマッチングが楽しい!

「少ない軒数であと何年存続できるかは、旧芝川町のどの集落を見ても
同様な事情であろうと想像いたしました」
手紙の最後にそう綴った増田氏。
ですが、伝統ある祭りの存続の困難さは町でも同じです。
私が住む地区は人口約1万人ほどで、若者もそれなりにいます。
でも今は神輿を担ぐ人がいないため、有効活用として老人施設に寄付され、
施設の夏祭りでお年寄りたちを楽しませるために担がれるだけ、
ということになってしまいました。
ほかの町内会では、請負会社にお金を払って担ぎ手を雇ったそうですが、
しらけてしまって盛り上がらず、一年こっきり。そりゃそうですよね。
こちらは池ノ谷観音堂の力石です。
かつては集落の若者たちに担がれ、念仏祭の賑わいを聞いていた力石も、
今は自然に身を任せて、静かな眠りについています。
でも増田氏たちのおかげで、生きた証しを紙の記録に残すことができました。
そしていくつもの時代を経たのち、この記録を見た人が、
「このあたりにあるはずだ」と探す様子が見えるような気がします。

偉そうなことを言うようでおこがましいですが、私はこう思うのです。
先史時代から今日まで、人は繁栄と消滅を繰り返してきたが、
その文化や営みや信仰や歴史は決して消えてしまったわけではない。
ただ見えなくなっただけなのだ。
「見えなくなった」がために、後世の人たちはそこに魅力やロマンを感じ、
古代遺跡を掘り返したり、古い時代の文献や事物を漁って、
それがなんであったかの探索や謎解きに夢中になる。
縄文人は何を食べていたのかとか、日本人はどこから来たのかとか。

今まさに消えかかっている伝統行事や神楽や祭はどうかというと、
たとえ、かつて人々に熱狂されたものでも、
しょせん、当時の暮らしにマッチした流行りモノだから、
現代の暮らしに合わなくなれば、形骸化するのは自然なこと。
ですが、どんな新しい時代になろうとも、
人の営みは過去からの続きで、切り離すことはできません。
そしてその過去には、
その時代時代の流行りモノだった民俗行事の精神が流れています。
この祭はどこから来てどのように伝播していったのかとか、
どのような時代の変化を経て受け継がれてきたのか、
どんな信仰が付随して、それが暮らしにどう影響していたのかとか。
形骸化し消滅寸前だからこそ、
後世の人たちが辿れる手段として紙に記録しておく。
文化財になった民俗行事はこむずかしい学問になってしまうけれど、
こうして記録に残すことで、
のちの郷土史や民俗、民族、文化人類学などの研究に貢献できる、
と、私は思っているんです。
歴史学者の網野善彦は、「日本の歴史書は権力者ばかりを書いている」と嘆き、
庶民の歴史を記録する重要性を説いた。

そうした教訓を体現したかのように、
今回、池ノ谷の5軒のみなさんが、形は簡素であれこうして集まり、
「自分たちの記憶に残る祭り」を再現して、遠い昔のふるさとを共有し、
それを増田氏が克明に記録して、後世へ橋渡しされた。
そして、衰退や消滅は決して恥ずべきことでも敗北でもない。
むしろこうした伝統があるということのほうが誇りであること。
先人の古きを認めつつ自分たちの今を楽しみ、未来へ向かうこと。
そのことを池ノ谷のみなさんは示してくださった。
私はとても感動しました。
私の中で眠っていた大切な何かが呼び覚まされました。
増田さんと池ノ谷の方々に、心からの拍手と感謝を申し上げます。
ありがとうございました。
これを読んでくださったみなさんも、
どうぞ、池ノ谷の5軒、24人にエールを送ってあげてください。
写真・資料提供
増田文夫氏(内房在住の郷土史家・富士宮市史石造物調査委員)

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御本尊様が見守る中、祭典が始まりました。
参加者全員がお堂に集まり、太鼓を叩き、鉦を鳴らします。
昔はナムアミダブツと唱えたが、今は名号を唱えることもなく、
適度に太鼓を叩き鉦を鳴らして終了した。

静岡県富士宮市上稲子・池ノ谷観音堂
涼やかな風がお堂を吹き抜けます。
「五色の幣は私の内房では、
初午祭典時の幟にしか使われる事はありません。
又、富士宮の足形集落の火伏念仏の祭典で、
室内天井より垂れ下がる五色幣しか見た事がなかったので、
少し、感動を覚えました」
と増田氏。
私が意外に思ったのは、若い方が多いことでした。
今までお尋ねした限界集落といわれるところは、
祭りをやる体力ももうないわずかな高齢者、というところばかりだったので、
ここはちょっと違う、心強いなと思いました。
ご婦人方が板敷に正座されていますが、
楚々として、なんかいい感じですね。

神事が終わると集落内の行事などが話し合われ、
祭典行事の終了が宣せられた。
終了すると、
正面の笹竹に結んであった家庭用の笹飾りをほどき、各家庭に配ります。
笹飾りには五色の幣と三枚の神符がつけられています。
留守宅ではここまで来られなかったおじいさん、おばあさんたちが
往時を思い出しながら待っておられることでしょう。
これからお堂の外へ出るようですが、
みなさん長靴を履いているのは、山ヒルよけでしょうか。
行事を無事終えて、安堵の笑顔です。

ここからは外での作業が待っています。
正面以外に結んだ五色の幣の縄を5カ所の道へ張ります。

五色の幣がついた縄とお堂です。
昔は集落の人たちがここに集まって、
お酒やごちそうをいただきながら、夜を徹して念仏を唱えたんですね。

水神様など、残り4カ所の道へも張りました。

「これは、世間で言うところの結界の役目ではないかと思われた」と増田氏。

五色の幣と神符をつけた笹飾りが、個人のお宅に飾られました。
観音様と子安様が、きっとご一家を見守ってくださいますね。
笹飾りとトトロのマッチングが楽しい!

「少ない軒数であと何年存続できるかは、旧芝川町のどの集落を見ても
同様な事情であろうと想像いたしました」
手紙の最後にそう綴った増田氏。
ですが、伝統ある祭りの存続の困難さは町でも同じです。
私が住む地区は人口約1万人ほどで、若者もそれなりにいます。
でも今は神輿を担ぐ人がいないため、有効活用として老人施設に寄付され、
施設の夏祭りでお年寄りたちを楽しませるために担がれるだけ、
ということになってしまいました。
ほかの町内会では、請負会社にお金を払って担ぎ手を雇ったそうですが、
しらけてしまって盛り上がらず、一年こっきり。そりゃそうですよね。
こちらは池ノ谷観音堂の力石です。
かつては集落の若者たちに担がれ、念仏祭の賑わいを聞いていた力石も、
今は自然に身を任せて、静かな眠りについています。
でも増田氏たちのおかげで、生きた証しを紙の記録に残すことができました。
そしていくつもの時代を経たのち、この記録を見た人が、
「このあたりにあるはずだ」と探す様子が見えるような気がします。

偉そうなことを言うようでおこがましいですが、私はこう思うのです。
先史時代から今日まで、人は繁栄と消滅を繰り返してきたが、
その文化や営みや信仰や歴史は決して消えてしまったわけではない。
ただ見えなくなっただけなのだ。
「見えなくなった」がために、後世の人たちはそこに魅力やロマンを感じ、
古代遺跡を掘り返したり、古い時代の文献や事物を漁って、
それがなんであったかの探索や謎解きに夢中になる。
縄文人は何を食べていたのかとか、日本人はどこから来たのかとか。

今まさに消えかかっている伝統行事や神楽や祭はどうかというと、
たとえ、かつて人々に熱狂されたものでも、
しょせん、当時の暮らしにマッチした流行りモノだから、
現代の暮らしに合わなくなれば、形骸化するのは自然なこと。
ですが、どんな新しい時代になろうとも、
人の営みは過去からの続きで、切り離すことはできません。
そしてその過去には、
その時代時代の流行りモノだった民俗行事の精神が流れています。
この祭はどこから来てどのように伝播していったのかとか、
どのような時代の変化を経て受け継がれてきたのか、
どんな信仰が付随して、それが暮らしにどう影響していたのかとか。
形骸化し消滅寸前だからこそ、
後世の人たちが辿れる手段として紙に記録しておく。
文化財になった民俗行事はこむずかしい学問になってしまうけれど、
こうして記録に残すことで、
のちの郷土史や民俗、民族、文化人類学などの研究に貢献できる、
と、私は思っているんです。
歴史学者の網野善彦は、「日本の歴史書は権力者ばかりを書いている」と嘆き、
庶民の歴史を記録する重要性を説いた。

そうした教訓を体現したかのように、
今回、池ノ谷の5軒のみなさんが、形は簡素であれこうして集まり、
「自分たちの記憶に残る祭り」を再現して、遠い昔のふるさとを共有し、
それを増田氏が克明に記録して、後世へ橋渡しされた。
そして、衰退や消滅は決して恥ずべきことでも敗北でもない。
むしろこうした伝統があるということのほうが誇りであること。
先人の古きを認めつつ自分たちの今を楽しみ、未来へ向かうこと。
そのことを池ノ谷のみなさんは示してくださった。
私はとても感動しました。
私の中で眠っていた大切な何かが呼び覚まされました。
増田さんと池ノ谷の方々に、心からの拍手と感謝を申し上げます。
ありがとうございました。
これを読んでくださったみなさんも、
どうぞ、池ノ谷の5軒、24人にエールを送ってあげてください。
写真・資料提供
増田文夫氏(内房在住の郷土史家・富士宮市史石造物調査委員)

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