祖先が残した暗号
盃状穴③
手水鉢の縁に穿たれた穴と溝の、妄想第2弾です。
この穴と溝を見ていてハタと浮かんだのが、
奈良の「酒船石」と鹿やイノシシの骨で占った「骨卜」です。
またまた飛躍しすぎだァーって?
そうです。素人だから無責任なんです。(^^♪
ここでは「酒船石」を取り上げます。
私の下手な手書きの「酒船石」です。

所在地は奈良県高市郡明日香村岡
酒の醸造、辰砂の精製の装置なんて言われた時期がありました。
その後は「導水施設」となったそうですが、
近くの山下に本格的な導水施設が出土して、この説も消えたそうです。
早くからこの説を否定していた考古学者の河上邦彦氏は、
こう主張していました。
「酒船石は、毎年春に行われる
五穀豊穣を祈念する〈水口祭〉の施設
だったのではないだろうか。
そのため水口に水神を招かねばならず、その供犠に牛を使った」
これと同じ説を、井本英一氏も大阪外国語大学論集33で言っています。
「酒船石は水の神の崇拝施設」と。
石と穴と水と祀り
古代から地球上の人間はみんな同じことを考え、実行してきた。
「酒船石」に似た「穴と溝をつなぐ」、そんな石をいくつかお見せします。
こちらはへいへいさんのブログ
「へいへいのスタジオ2010」からお借りした氷川神社の手水鉢です。
神聖な手水鉢ですから、ふざけて穿ったとは思えません。
きっと何かの意図があったはずですが、残念ながら現在には伝わっていない。

埼玉県比企郡川島町上八ツ林854・氷川神社
手水鉢ではありませんが、ホッとする記事をご紹介します。
へいへいさんのブログに登場した猫ちゃんと力石です。
「春うらら」
こちらは斎藤氏撮影の、踏み石にされてしまった石造物です。
もったいないですね。

埼玉県春日部市備後東5‐10‐48・雷電神社
石の側面に、「願主 酒屋内 おかつ」と、あります。
酒屋のお内儀が、どなたかのために心を込めて奉納したものと思われます。
それが後世になって踏み石にされるとは、思いもしなかったことでしょう。
この石造物を奉納してのち、参拝者がこうした穴と溝を穿ったわけですが、
穿つだけの価値やご利益がこの石にはあったということだと思います。

こちらは、地蔵堂への石段に穿たれた穴と溝です。
穴の中に金が塗りこめられています。
かつて家の入口に胞衣や亡き嬰児を埋めて、
たくさんの人に踏んでもらうことで無事の成長や亡き子の再生を願う、
そういう風習がありましたから、
これも同じ意図から穿たれたのでは、と思うのです。
ここは地蔵堂へ向かう石段ですから、なおさらのこと、
幼くしてあの世へ旅立ったわが子を守ってくださるよう、
再びこの世に生まれてくるよう、お地蔵様へお願いしたはずです。

さいたま市南区白幡1‐16‐4・白幡地蔵堂
小学一年生の頃、亡くなったばかりの赤ちゃんを見ました。
そこは小学校の先生の家で、ある日遊び仲間とその家の庭へ入ったら、
赤ちゃんを抱いたおばあさんが出てきて、「見てあげて」と声を掛けてきた。
死産だったことを知っていたからみんなは逃げたが、私だけはとどまった。
おばあさんは縁側に座ると、抱いていた赤ちゃんを傾けて私に見せた。
真っ白い産着とフリルの付いた帽子を被ったきれいな赤ちゃんだったが、
その顔は硬く、もう息をしていないことは子供心にもわかった。
「よかったねぇ。お姉ちゃんに見てもらえて」
と、おばあさんは愛おしそうに赤ちゃんに話しかける。
座敷の布団の中から赤ちゃんのお母さんの先生が顔をこちらに向けて
微笑んでいた。たくさん泣いて赤く腫れた顔だった。
「生まれてきてよかったねぇ。お姉ちゃんが見てくれたよ」
おばあさんは子守歌でも歌うように、優しく何度もささやいた。
今になって思います。
はかない命だったけれど、
赤ちゃんがこの世に存在した証しを誰かに覚えておいて欲しかった、
おばあさんはそう願ったんだ、と。

話が湿っぽくなりました。元へ戻します。
いかがでしょう。
こうした穴と溝、「酒船石」の穴と溝に通じるものがあると感じませんか?
願う目的は違っても、
誰かのために穿つ。神に願い、祈る。
そんな姿が見えるような気がします。
そんな穴と溝が「盃状穴考」にも紹介されていました。
「水路の石橋の板石上に穿たれた連結盃状穴」です。

酒船石の穴と溝のことについて、
日本文化史研究者の重松明久氏は、こう言っています。
「これには古代国家の道教的色彩がある。
中国梁(りょう)代の陶弘景の「天地陰陽昇降図」が、
酒船石の池と溝の構成に酷似している」
「天地陰陽昇降図」
これは、「この世はすべて陰と陽の二つの「気」の動きによって、
盛衰、天変地異、寒暖などが起きる」ということらしいのです。
ということは、酒船石の「穴は陰で溝は陽」ということになります。
骨卜では骨に穴を開けてその割れる溝の方向で、吉凶を占ったそうですが、
酒船石でも同様に、その年の「気」の動きを知るために、
陰の穴に水を注ぎ、どの陽の溝を通過するか、
そこから次のどの陰(穴)に辿り着くかで、
その年の雨の降り方や、豊作か不作かを占っていたのではないでしょうか。
こちらは全身に穴を穿たれたサイの神さん(道祖神)です。
「何のために、かくまでたくさんの穴をつけたのであろうか」と著者。
静岡県沼津市桃里中町

「伊豆のサイの神(前編)」吉川静雄 吉原書店 昭和51年
「盃状穴考」の執筆者の一人が、
「溝は陽(男根)を表わしているのではないだろうか」と言っていたが、
私もそう思います。
河上邦彦氏も、著書「飛鳥を掘る」の中で、こう言っている。
「終末期古墳から飛鳥の初めに、道教思想がかなり入っていた。
風水思想に基づき古墳は作られた。
ハミ塚古墳から白黒の小石が出たが、これは道教の陰陽説からと思われる」
酒船石も飛鳥時代のものだそうですから、
陰陽思想が入っていると考えてもおかしくないはずです。
ただそれ以前の縄文遺跡からも、
盃状穴が穿たれた石や石棒が出土していますから、
そうした日本の古くからの「穴」と「溝」に、中国伝来の陰陽思想が融合し、
日本の風土と人に合う形で独自に発展してきた、と思うのです。
手水鉢などに残る穴と溝は、そうした思想を一般民衆が、
土俗信仰として取り入れて穿ったものではないでしょうか。

静岡市清水区・八幡神社
盃状穴の謂れについて、古代のどの国にも共通していたのは、
穴は「女性器」で、「子宝」「多産」を祈願して開けたということでした。
そして「子宝・多産」から、穀物や家畜の「豊穣」が想起された。
人でも動植物でも子孫を生み出すには当然、
「女性=陰」と「男性=陽」の交わりがなければ成り立たない。
それを国家的規模ではなく個人的・私的目的で具現化したのが、
身近にある手水鉢や石造物への穴と溝だった。
神域にあって生と死の境に置かれ、不浄を流すとされた手水鉢、
その大切な石の縁を傷つけるこの行為を寺社が黙認していたということは、
それだけの重要な意味があったからで、
誰もが暗黙のうちに了解していた大切な風習だったからだと思うのです。
下の絵は、
幕末・明治初期に来日した外国人が描いた「手水鉢の前に座る女性」です。
「何のために座っているのか解し兼ねる」と添え書きがあるように、
非常に珍しい不思議な光景を捉えた貴重な一枚です。
女性は正座して目を閉じています。何かを祈っているように見えます。

「外人の見た幕末・明治初期 日本図会〖文化・景観篇〗」
池田政敏編 春秋社 平成20年新装版1刷発行よりお借りしました。
祖先が残したこの「暗号」から、いろいろ学び、考えさせられました。
迷走しつつ妄想しつつたどった「私の盃状穴考」、
これにておしまい。
※参考文献
「盃状穴考」国分直一監修 慶友社 1990
「飛鳥を掘る」河上邦彦 講談社 2003
「飛鳥発掘物語」河上邦彦 産経新聞社 2004

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この穴と溝を見ていてハタと浮かんだのが、
奈良の「酒船石」と鹿やイノシシの骨で占った「骨卜」です。
またまた飛躍しすぎだァーって?
そうです。素人だから無責任なんです。(^^♪
ここでは「酒船石」を取り上げます。
私の下手な手書きの「酒船石」です。

所在地は奈良県高市郡明日香村岡
酒の醸造、辰砂の精製の装置なんて言われた時期がありました。
その後は「導水施設」となったそうですが、
近くの山下に本格的な導水施設が出土して、この説も消えたそうです。
早くからこの説を否定していた考古学者の河上邦彦氏は、
こう主張していました。
「酒船石は、毎年春に行われる
五穀豊穣を祈念する〈水口祭〉の施設
だったのではないだろうか。
そのため水口に水神を招かねばならず、その供犠に牛を使った」
これと同じ説を、井本英一氏も大阪外国語大学論集33で言っています。
「酒船石は水の神の崇拝施設」と。
石と穴と水と祀り
古代から地球上の人間はみんな同じことを考え、実行してきた。
「酒船石」に似た「穴と溝をつなぐ」、そんな石をいくつかお見せします。
こちらはへいへいさんのブログ
「へいへいのスタジオ2010」からお借りした氷川神社の手水鉢です。
神聖な手水鉢ですから、ふざけて穿ったとは思えません。
きっと何かの意図があったはずですが、残念ながら現在には伝わっていない。

埼玉県比企郡川島町上八ツ林854・氷川神社
手水鉢ではありませんが、ホッとする記事をご紹介します。
へいへいさんのブログに登場した猫ちゃんと力石です。
「春うらら」
こちらは斎藤氏撮影の、踏み石にされてしまった石造物です。
もったいないですね。

埼玉県春日部市備後東5‐10‐48・雷電神社
石の側面に、「願主 酒屋内 おかつ」と、あります。
酒屋のお内儀が、どなたかのために心を込めて奉納したものと思われます。
それが後世になって踏み石にされるとは、思いもしなかったことでしょう。
この石造物を奉納してのち、参拝者がこうした穴と溝を穿ったわけですが、
穿つだけの価値やご利益がこの石にはあったということだと思います。

こちらは、地蔵堂への石段に穿たれた穴と溝です。
穴の中に金が塗りこめられています。
かつて家の入口に胞衣や亡き嬰児を埋めて、
たくさんの人に踏んでもらうことで無事の成長や亡き子の再生を願う、
そういう風習がありましたから、
これも同じ意図から穿たれたのでは、と思うのです。
ここは地蔵堂へ向かう石段ですから、なおさらのこと、
幼くしてあの世へ旅立ったわが子を守ってくださるよう、
再びこの世に生まれてくるよう、お地蔵様へお願いしたはずです。

さいたま市南区白幡1‐16‐4・白幡地蔵堂
小学一年生の頃、亡くなったばかりの赤ちゃんを見ました。
そこは小学校の先生の家で、ある日遊び仲間とその家の庭へ入ったら、
赤ちゃんを抱いたおばあさんが出てきて、「見てあげて」と声を掛けてきた。
死産だったことを知っていたからみんなは逃げたが、私だけはとどまった。
おばあさんは縁側に座ると、抱いていた赤ちゃんを傾けて私に見せた。
真っ白い産着とフリルの付いた帽子を被ったきれいな赤ちゃんだったが、
その顔は硬く、もう息をしていないことは子供心にもわかった。
「よかったねぇ。お姉ちゃんに見てもらえて」
と、おばあさんは愛おしそうに赤ちゃんに話しかける。
座敷の布団の中から赤ちゃんのお母さんの先生が顔をこちらに向けて
微笑んでいた。たくさん泣いて赤く腫れた顔だった。
「生まれてきてよかったねぇ。お姉ちゃんが見てくれたよ」
おばあさんは子守歌でも歌うように、優しく何度もささやいた。
今になって思います。
はかない命だったけれど、
赤ちゃんがこの世に存在した証しを誰かに覚えておいて欲しかった、
おばあさんはそう願ったんだ、と。

話が湿っぽくなりました。元へ戻します。
いかがでしょう。
こうした穴と溝、「酒船石」の穴と溝に通じるものがあると感じませんか?
願う目的は違っても、
誰かのために穿つ。神に願い、祈る。
そんな姿が見えるような気がします。
そんな穴と溝が「盃状穴考」にも紹介されていました。
「水路の石橋の板石上に穿たれた連結盃状穴」です。

酒船石の穴と溝のことについて、
日本文化史研究者の重松明久氏は、こう言っています。
「これには古代国家の道教的色彩がある。
中国梁(りょう)代の陶弘景の「天地陰陽昇降図」が、
酒船石の池と溝の構成に酷似している」
「天地陰陽昇降図」
これは、「この世はすべて陰と陽の二つの「気」の動きによって、
盛衰、天変地異、寒暖などが起きる」ということらしいのです。
ということは、酒船石の「穴は陰で溝は陽」ということになります。
骨卜では骨に穴を開けてその割れる溝の方向で、吉凶を占ったそうですが、
酒船石でも同様に、その年の「気」の動きを知るために、
陰の穴に水を注ぎ、どの陽の溝を通過するか、
そこから次のどの陰(穴)に辿り着くかで、
その年の雨の降り方や、豊作か不作かを占っていたのではないでしょうか。
こちらは全身に穴を穿たれたサイの神さん(道祖神)です。
「何のために、かくまでたくさんの穴をつけたのであろうか」と著者。
静岡県沼津市桃里中町

「伊豆のサイの神(前編)」吉川静雄 吉原書店 昭和51年
「盃状穴考」の執筆者の一人が、
「溝は陽(男根)を表わしているのではないだろうか」と言っていたが、
私もそう思います。
河上邦彦氏も、著書「飛鳥を掘る」の中で、こう言っている。
「終末期古墳から飛鳥の初めに、道教思想がかなり入っていた。
風水思想に基づき古墳は作られた。
ハミ塚古墳から白黒の小石が出たが、これは道教の陰陽説からと思われる」
酒船石も飛鳥時代のものだそうですから、
陰陽思想が入っていると考えてもおかしくないはずです。
ただそれ以前の縄文遺跡からも、
盃状穴が穿たれた石や石棒が出土していますから、
そうした日本の古くからの「穴」と「溝」に、中国伝来の陰陽思想が融合し、
日本の風土と人に合う形で独自に発展してきた、と思うのです。
手水鉢などに残る穴と溝は、そうした思想を一般民衆が、
土俗信仰として取り入れて穿ったものではないでしょうか。

静岡市清水区・八幡神社
盃状穴の謂れについて、古代のどの国にも共通していたのは、
穴は「女性器」で、「子宝」「多産」を祈願して開けたということでした。
そして「子宝・多産」から、穀物や家畜の「豊穣」が想起された。
人でも動植物でも子孫を生み出すには当然、
「女性=陰」と「男性=陽」の交わりがなければ成り立たない。
それを国家的規模ではなく個人的・私的目的で具現化したのが、
身近にある手水鉢や石造物への穴と溝だった。
神域にあって生と死の境に置かれ、不浄を流すとされた手水鉢、
その大切な石の縁を傷つけるこの行為を寺社が黙認していたということは、
それだけの重要な意味があったからで、
誰もが暗黙のうちに了解していた大切な風習だったからだと思うのです。
下の絵は、
幕末・明治初期に来日した外国人が描いた「手水鉢の前に座る女性」です。
「何のために座っているのか解し兼ねる」と添え書きがあるように、
非常に珍しい不思議な光景を捉えた貴重な一枚です。
女性は正座して目を閉じています。何かを祈っているように見えます。

「外人の見た幕末・明治初期 日本図会〖文化・景観篇〗」
池田政敏編 春秋社 平成20年新装版1刷発行よりお借りしました。
祖先が残したこの「暗号」から、いろいろ学び、考えさせられました。
迷走しつつ妄想しつつたどった「私の盃状穴考」、
これにておしまい。
※参考文献
「盃状穴考」国分直一監修 慶友社 1990
「飛鳥を掘る」河上邦彦 講談社 2003
「飛鳥発掘物語」河上邦彦 産経新聞社 2004

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