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神話とサイエンスの融合

盃状穴②
05 /29 2023
「日本史サイエンス 弐
邪馬台国・秀吉の朝鮮出兵・日本海海戦の謎を解く講談社 2022を読んだ。

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著者は播田(はりた)安弘氏。

「古代史のテクノロジー」の著者・長野正孝氏と同じ、エンジニアです。

長野氏は「海の技術屋」と自己紹介していましたが、
播田氏は「船の技術屋」と。

「父は造船所経営。母の実家は江戸時代から続く船大工「播磨屋」の棟梁。
ご自身は三井造船で大型船から特殊船までの基本計画を担当した」という。


どっぷり「船」と共に歩んできた播田氏、
「エンジニアなりの発想で、邪馬台国の謎解きに挑戦した」
そうです。

この本と並行して、
「歴史道・卑弥呼と邪馬台国の謎を解く!
(監修・武光誠 朝日新聞出版 2021)も読んでみた。

こちらの執筆陣は日本古代史、中国古典、文化財、日本史、考古学などの
アカデミックな学者さんたち。


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どちらも「邪馬台国の謎解き」だが、その捉え方が違って興味深かった。

エンジニアのお二人は、当時は「瀬戸内海航行」は無理といい、
大陸との「交易」を重視しているのに対し、
学者連は「瀬戸内海航路」をとり、中国への「朝貢」に重きを置いていた。

技術者のお二人が「瀬戸内海航行は無理だった」として、
山陰航路を主張した理由はこうだ。

播田氏は、かつていろんなチームが行った大陸から日本への
実験航海を取り上げ、その失敗の一つをこう説明していた。


「一見、瀬戸内海は穏やかに見えるが、
潮流が速く、渦を巻き、干満の差が激しく、浅瀬が多く難しい海域。
だから平清盛時代までは宋からの船は福岡止まりで、
瀬戸内海は航行していなかった」


「日本史サイエンス 弐」より
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では山陰ルートはどうかというと、

「日本海側の対馬海流は速く困難を極めるが、古代人は往来していた」
それを可能にしていたのは「流れに任せていたから」と播田氏はいう。


「釜山を船出し、対馬の北端の韓崎まで行き、
そこから南に向かって出港すれば、そのまま対馬海流に流されて北上し、
山陰の益田や浜田に向かって船が進む。

やがて海上から山陰の三瓶山、大山が見えてくる。
そのまま陸伝いに海路を行けば、出雲の方向に高い塔が見えてくる。
九州を目指すより山陰を目指すほうがはるかに楽で、自然に到着する」


「往路で九州から朝鮮半島へ行く場合は、福岡から出航するより、
西の唐津や平戸から船出して壱岐へ行き、海流に乗って対馬の北端へ。
そこから陸沿いに南下して対馬海流を利用すれば朝鮮半島へ着く。
古代の船でも楽に航海できたと思われる」

難しい「流体力学」などについては、本書をどうぞ。

矢印が「韓崎」
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海流のほかに播田氏が強調しているのは、
「翡翠と鉄の交易」です。

「5500年前の縄文時代、
新潟県糸魚川支流の姫川や海岸で翡翠が発見され、加工が始められた。
ここには世界最古の翡翠加工所があった。
その翡翠が大陸の人々に届けられ、大陸からは鉄が入ってきた。

その証拠に、
6000年前に日本で作られた曽畑式土器が朝鮮半島で出土したり、
逆に朝鮮半島で作られた櫛目式土器が日本で出土している。
韓国の「天馬塚金冠」
(5~6世紀のもの)に、姫川の翡翠が使われている。

このことから、糸魚川から山陰へ向かう「翡翠の道」と、
大陸から山陰へ向かう
「鉄の道」が存在した」と播田氏はいう。

これは長野氏の「大陸とを結ぶ縄文時代からの交易路」と同意見です。

ただ、長野氏の「倭国は日本海沿岸の竪穴住居群の連合体。
卑弥呼は丹後あたりにいたのではないか」
に対して、播田氏は違います。

この邪馬台国の所在地について「九州説」と「近畿説」がありますが、
未だに決着がついていません。
だから「魏志倭人伝」が示す邪馬台国までのルートも未確定です。

確定しているのは、対馬、壱岐を経て北九州の博多までで、
これはどの学者さんたちにも異論はないとのこと。

では、「技術屋さん」お二人が考えた「山陰ルート」はどうかというと、
「畿内説」の学者さんたちにも取り上げられてはいますが、
やはり、圧倒的に支持されているのは「瀬戸内海ルート」だそうです。


「船の技術屋」播田氏は、ルートと邪馬台国についてこう考えました。

対馬→壱岐→松浦→糸島→博多と確定ルートは同じですが、
その先から違ってきます。


「博多から福岡県遠賀郡へ行き、そこから船に乗り山口県下関を経由して
山陰に渡り、日本海を進んだ」


「邪馬台国は最初九州にあり、卑弥呼の死後山陰ルートで但馬から
円山川を遡って豊岡に上陸。そこから近畿に入り纏向勢力を併合した」


「古代史サイエンス 弐」より
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私はもう、「なるほど!」と唸りっぱなし。

学者さんたちの説より播田氏のいう
「神話とサイエンスを融合させた視点からの検証」のほうが、

技術に裏付けされて、説得力があって、断然、面白かった!

サイエンス、最高!

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出雲、丹後は古代の国際都市だった

盃状穴②
05 /26 2023
長野正孝氏はその著書で、
自身が古代史に踏み込んだ理由をこう言っている。

「日本の最初の正史である「日本書紀」を読みながら、
古代史の現場に立った時、現場の地形と「日本書紀」の内容や、
この国が積み重ねてきた歴史学的知見との間に乖離があることに気づいた」

長野氏のライフワークは海洋史、土木史研究。


現役時代は広島港、鹿島港、第二パナマ運河などの計画・建造に従事。
世界三十余国の海や川をつぶさに見て歩いたといい、
自らを、「海の技術屋」と称している。

その長野氏が「日本書紀」に持った大きな疑問の一つがこれ。


「日本海側の古代史がほとんど記載されていない!」

あっ、これって、他の学者さんたちも主張している
「ヤマト王権を目立たせるために藤原不比等が使ったトリック」ってことか、
とワタクシメの心もザワつき、色めき立ちました。


長野先生が想定した「倭国」。「古代史のテクノロジー」PHP 2023より
倭国

中国の歴史書「魏志」東夷伝 倭人条に、
「邪馬台国の卑弥呼」が出てくることから、その所在地について、
長い間論争が続いている。

で、そのことについての長野氏の見解はこうだ。

「当時、国家が存在したとは思えない。
朝貢は国家を代表したものではなく、商売人の頭目の表敬訪問であった。
集団は利益で結びつく。それが交易の成り立つ摂理である。


卑弥呼が存在したとすれば、丹後周辺であろう。
漢書のいう百余国というのは、日本海沿岸にあった集落のことだろう。
ここには世界一長い海の交易路、縄文人のネットワークがあった」

どういう交易かというと、「玉石」だという。

新潟・糸魚川のヒスイ、長野県、北海道の黒曜石、秋田県のアスファルト
岩手県久慈市の琥珀、佐渡の赤玉、能美の碧玉、出雲のメノウ…。

古代史学の水野祐先生も、
「古代の出雲」吉川弘文館 1972で、こうおっしゃっています。

「北陸と山陰地方は古くから海上を通じて通航が行われていた。
出雲文化は海によって開けた。
出雲はシベリア、満州、韓半島と中国山地とを結ぶ南北交通路と、
日本海の東西を結ぶ東西航路とがクロスする交通の要衝であった」

これ、島根県・宍道湖産のしじみです。店頭に並んだのはこれ一度切り。
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「ここが変わる!日本の考古学」ー先史・古代史研究の最前線ー
藤尾慎一郎・松木武彦編 吉川弘文館 2019に、こんな記述がある。

「魏志倭人伝には、2世紀後半ごろ、倭国が大いに乱れたと書かれている。
文献に残る最古の戦いの記録とされる倭国の乱だが、
これを境に卑弥呼が擁立され、邪馬台国の時代に入ることから、
多くの古代史ファンの関心を集めている。

しかし考古学的に倭国争乱の証拠があるかと言えば、
見つかっていないというのが実態である」

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長野氏はいう。
「玉造りに秀でていたのが、丹後と出雲。
大陸からは銅鐸や鉄、優れた技術や文化がもたらされた。
古代の交通路は海と湖と川。そのころの畿内の船や港湾の技術は未熟で、
瀬戸内海航路はまだ開発されていなかった」


「朝鮮半島から対馬、壱岐、糸島、下関、出雲という交易路を通って、
渡来人が大勢やってきた」

そういえば「禹王と日本人」王敏 NHK出版 2014にも書かれていた。

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「日本書紀・欽明五年十二月の段に、
佐渡嶋に「みしはせ」人(中国東北の民族)が暮らしている。
嶋の東側には朝鮮半島経由でやってきた人々の村がある」
と。

長野氏の論を進めます。

「航海には水の補給が不可欠。その供給地には、
「渡し(和多志)」=航海を助ける専門家集団
(のちに海賊になる)がいた。
「渡し」には船の安全を祈る「渡しの神」を祀る神社があり、
そこは水の供給所であり、宿泊施設でもあった」


私はこの個所を読んで、
神社の成り立ちはそういうことかもしれないと、えらく納得したんです。

古墳は水辺にあってその上に祠や神社があることが多いのも、
そういうことかも、と。


祈りの場のほかに水の補給、宿泊、そして情報交換の場であった。
そういう
「実」を伴なったからこそ、
神社は重視され有難がられたのだろう、と。


静岡県沼津市に「高尾山古墳」という古墳前期前半に造られた
前方後方墳があります。
ここの発掘調査に携わった筑波大学の滝沢誠教授によると、


「前方後方墳は全国で500基余、静岡県内では7基。
その6割が東日本に存在する。

西日本とは異なる政治的背景を持った有力者たち
がいたのではないか」

これを沼津市文化財センターでは、「スルガ最初の王」と呼んでいる。



「出土品の青銅製の鏡は2世紀代の中国の官営鏡工場で製作されたもの。
また副葬品の構成が東日本最古期の前方後方墳のものと類似しており、
このことから、
これらの地域の人々に共通した意識があったものと思われる」


「古墳後期になって前方後円墳が現れるので、そのころ大きな社会の
変化があって、大和王権の影響があったと考えられる」
(滝沢誠教授)

長野先生もこういう。
「4世紀後半になると大陸から安い鉄が大量に入り、これにより列島の
鉄が値崩れを起こし、日本海側の「倭国」と言われた集落は衰退していった」

ここで初めて、畿内の大和政権の登場です。


で、それから400年後に現れた藤原不比等らが何をしたかというと、
日本海沿岸に栄えた「倭国」の栄華を横取りして、
すべて畿内の大和政権の事績とするために、
記紀から、日本海側の古代史を消し去った。

その空白を埋めるために、何人もの架空の天皇さんを登場させて、
日本書紀に盛り込んだ。
(長野正孝。大山誠一)

というのですから、
あまりのことに、私は
「ポワ~ン」としてしまったのであります。
ただねぇ、長野先生、「タカミムスヒ」の「ヒ」を「ビ」と表記しているんですよ。何でか、お聞きしたいところですが…。

で、長野先生の本に、能登の「雨の宮古墳群」の話が出てきたんですよ。

私、思わず、
「おおーっ! 私と一緒じゃないですか!」

マスコットキャラクターの「あめろく」さんです。
まるで自分を見ているような…。

あめろく
ここは能登の王を葬った国の史跡で、
北陸最大級の前方後方墳など全部で36基もの古墳があるそうです。


「雨の宮古墳群」

命名の由来を中能登町の教育委員会にお聞きしました。

「以前は、雨の宮1号墳の古墳上に、
「天日陰比咩(あめひかげひめ)神社」が建っておりました。
(現在は移築)。
当神社は古くから、地域の”雨乞い社”としての役割を担っていて、
俗に「雨の宮」と呼ばれていた。古墳の名称の由来はここから来ております」


私の先祖も、
「雨を降らせ給え。かしこみかしこみもうす」なんてやってたのかしら。

幸い、今回の地震の影響は受けなかったそうです。

私は名前とは真逆の晴れ女だけれど、こうなったら是が非でも、
「あめろく」さんに会いに行かなくちゃ。

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出色の本

盃状穴②
05 /23 2023
「古代史のテクノロジー」PHP 2023
の著者、長野正孝氏は、名古屋大学工学部出身の工学博士。

そういう経歴の方が、古代史に挑んで本を書いていた。

拝読してうわっとなった。


私の頭にこびりついていた「歴史は歴史学者」という固定観念が、
パッパラパーと吹っ飛んだ。


長野先生、やりますねぇ! とても理系の人とは思えません。(笑)

古代のテクノロジー

だって私が知る理系の人の文章って、一般人向けなのに、
ここぞとばかりに数式やら専門用語を多用して、

「お前らは何も知らないだろうから、俺が教えてやる」
という鼻持ちならない態度がいやらしいほど出ているし。


逆に文学的手法だって使えるんだぞと言わんばかりに書いた随筆などは、
定型文の羅列で面白くもなんともない。

こむづかしく書けば立派な文章とでも思っているのか、
想像力の欠如、発想の貧困が際立つ。


とまあ、十把ひとからげに過剰にわめき散らしましたが、
こんなふうに私が理系を標榜する輩を敬遠するのは、
かつてこんな経験をしたせいかも。しかも二人もの元・リケジョから。

「あなたは文系かしら? どこの大学、出てますの? 
私は一応、名のある大学の理系を出てますから」


そのうちの一人がある日、こう言って自慢した。

「テレビのクイズ番組、主人はダメだったけど私、全問正解よ。
主人より知能指数が高かったのよ」


アホか!

長野氏は、2017年に出した
「古代の技術を知れば、『日本書紀』の謎が解ける」で、こう言っている。

「技術屋として港やマチづくりの仕事に携わってきた経験から、
私は、『海からの人やモノの移動』という立ち位置から謎解きに
挑戦しようと考える」


いいですねぇ。

日本人は「均一化」とか「同調圧力」とか、
なんでもみんなと同じでなければという意識が強い。
そのせいか、間違っていようが一度確立した学説を変えることをしない。

だから私は異分野の人の果敢な挑戦が好き。たとえ荒唐無稽に見えても、
案外、真実を突いているのでは、と思うことが多々あるからだ。

そして私がこれも「出色の本だ!」と思ったもう一冊は、

「装飾古墳の謎」文芸春秋 2023です。

装飾古墳

著者は考古学者の河野一隆氏。
「通説に反証する」、その視座に魅了されました。


今まで私が古墳に抱いていた内部の印象は、
灰色で埃っぽく、ただ巨大な石棺がポツンと置かれた

「古代の残骸」


で、内緒ですけど、私、こんなことも思ったりするんですよ。
古代人が長い年月とものすごい労力を掛けて造った墓なんだから、
掘らずにそっとしておいてやればって。(笑)

それはさておき、
この本の口絵には、極彩色の内部や奇妙な渦巻き文様、船、人体など
古代の世界が生き生きと再現されていたのです。

河野氏によると、
こうした装飾古墳は九州北部・中部と関東、東北南部に偏っていて、
畿内には少ないという。

※高松塚古墳などの壁画は、装飾古墳ではなく「壁画古墳」というそうです。

この装飾古墳、大和王権の近畿中央部には少ないので、
「ローカルな古墳文化」と言われてきたそうです。

この中央重視の風潮はいやですねぇ。

中央は文化の発祥の地で、文化水準が地方に比べて格段に高い。
そういう意識が現代にもありますものね。

自分の所に「装飾古墳」が少ないからといって、
「ローカルな古墳文化」と決めつけるのは、あまりにも傲慢過ぎる。

だって、当時はヤマトの地こそが、
ローカルだったかもしれないじゃないですか。いやその可能性の方が高い。


「装飾古墳の謎」の口絵です。
装飾古墳口絵

河野氏はそこを果敢に突き、「通説に反証」しています。
その一つに、
「石人石馬」と「筑紫磐井の反乱」をあげています。

「九州には固有の石人石馬の文化があった。
記紀をみると、磐井君は大和の大王に弓を引いて滅ぼされ、
石人石馬文化は消滅して、それが装飾古墳に代わったとされている。

しかし、その後の調査で、
装飾古墳でありながら石人は共存していたことが判明し、
その結果、従来の通説は間違いで再検討を余儀なくされている」


「また筑紫君一族とそれを討伐した継体大王の古墳の形はそっくりで、
副葬品も共通していた可能性が高い。
このことから、中央と九州は磐井の乱ごときで断絶するものではなかった
と見るのが正しそうだ」


そうかぁ、そうなるとやっぱり古墳の発掘は必要だってことになる。

そして、河野氏はこうも言う。

「そのころの大和はまだ統一されておらず、各地の大王の連合体だった」

「記紀は勝者の視点から書かれているから、どこまで真実と見てよいか疑問」

「天孫降臨の夢・藤原不比等のプロジェクト」の著者・大山誠一氏が、
「日本人は今なお、不比等の呪縛下にある」と書き、
「古代のテクノロジー」の長野氏もまた、こう記している。

「藤原氏一族の陰謀の闇は深く、1300年後の現在でもなお学者たちは、
そのトリックに惑わされている」と。


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笛に合わせて

盃状穴②
05 /17 2023
ではアマテラスさんが織った御衣(おんぞ)を着たのは誰?
ということになるわけですが、


それは当然、今では影がすっかり薄くなった
「タカミムスヒ」の神ということになります。

この神さまは男神で、その神威がもの凄い。

「万物生成のための神」「万物の根元の神」「最高神」
=「アマテラスの誕生」溝口睦子 NHK出版協会 2009=

また、「神や天皇に天上から支持を与える指令神」
という解釈もあります。

タカミムスヒについて、國學院大學の論文も参考になります。
「高御産巣日神」

このタカミムスヒの「ヒ」は「日」、つまり「太陽」を表わしているそうです。
そういえばアマテラスの正式名称も「ヒ」がつく「ヒルメムチ」だった。

日の神が二人も存在するのは凄いけれど、


太陽の光が女のホトをついて受胎したとか、
岩の裂け目が女陰で太陽光線の矢が男根なら、
やっぱり本当の太陽の神さまは「タカミムスヒ」ということになります。


DSC09708.jpg

ということは皇祖神はアマテラスでないことになってしまいます。

このことを某歴史学者が昭和天皇にご進講の折、
「本当の皇祖神はタカミムスヒ」とお伝えしたら、
陛下は「うんうん」と頷かれたそうです。

天皇の伊勢神宮参拝は明治天皇から始まったということですから、
昭和天皇はそのあたりをよくご存じだったのかもしれません。


では歴代の天皇はどこへ行っていたかというと、
「熊野」へ行っていたんだそうです。

そういえばその熊野へ何度も行幸された天皇さんがおられました。
よほど熊野詣でがお好きだったようです。

後白河院の熊野詣で。「紀伊国名所図会」後編後編巻之二。小野事泉・画
熊野御幸図_加納諸平-神野易興-著小野琴泉-画平井五牸堂『紀伊国名所図会-後編二之巻』(国立国会図書館所蔵)「国立国会図書館デジタルコレクション」収録-2048x1273
国立国会図書館デジタルより

で、男神のタカミムスヒと女神アマテラスが入れ替わったと仮定して、
それはいつのことかというと、
古事記、日本書紀が構想され編まれたころだという。


つまり、
天智大王
(おおきみ)(645~671)、天武天皇(672~686)
記紀構想の時代から、次の持統天皇の成立のころだそうです。

やっぱりね!

そしてこの時代こそが、日本の歴史の転換点だったそうで、
まさにNHK風にいえば、「そのとき歴史が動いた」になるみたいです。


この天智、天武のお二人の政治手法はまったく違ったようで、
「天智朝と東アジア」
中村修也 NHK出版協会 2015)によると、

「天智は母・斉明朝の百済救援を引き継いだが、「白村江の戦い」で大敗。
その結果、中国・唐の使者たちに大和を占拠され、
唐の指令によって「近江令」を作った。

そして「壬申の乱」を経て天武の時代になると、
今度は新羅との国交が盛んになった」という。


どうやらそのころの日本は、中国と朝鮮半島のせめぎ合いに連動して、
あっちへついたり、こっちへヘコヘコしていたみたいで、

情けない。

めんぼくない…。
DSC09029.jpg

ここで天武は称号を「大王(おおきみ)から「天皇」に替え、
皇室を至高の存在にするため、
律令の制定や歴史書の編纂事業に乗り出したということですが、

「天孫降臨の夢・藤原不比等のプロジェクト」NHK出版協会 2009
の著者・大山誠一によると、


「天武には政治能力がなかったため国内は混乱が続いたが、
皇后(次期の持統天皇)の主導で政権の安定をはかった。
その持統の背後にいたのが藤原不比等だった」という。


私、知ったかぶって書いていますが、
全部、学者さんたちの本からの受け売りです。
(笑)

もうね、連休中、一生懸命勉強しましたですよ。

大山誠一先生の「天孫降臨の夢」には、
「聖徳太子は実在しなかったのに、実在したと日本書紀に書いた」
「それらすべては、藤原不比等が藤原一族の栄華をもくろみ、
天皇を操るために仕組んだ」
と書かれているし、

「天皇のページェント」T・フジタニ NHK出版協会 1994にも、

「明治の政治家たちは西欧列強に劣らぬ特権的地位を築こうとして、
戦力的動機に基づいた文化政策を推進・実行した」


そのため、かつての藤原不比等のように、

「天皇に神聖な性格を与えて、政治利用した」というのだ。


「第一回帝国議会の開院」明治23年。「帝国議会衆議院銘鑑」旭斎国照・筆
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「かわら版新聞・江戸・明治三百事件」平凡社 1978 浅井収氏蔵

その一例として、
皇室の御用医師だったベルツの書から、こんな一文を紹介している。


「会合に出席した伊藤博文が、
皇太子
(のちの大正天皇)に生れたのが実にまったくの不遇なのだ。

少し大きくなったら、
先生やら顧問やらの笛に合わせて踊らなくてはいけない。
そう言って、あやつり人形の糸を引く真似をした」


私はこれらを読んで、
なんだか皇室のみなさんがお気の毒で仕方がなかった。



    ーーー敷島神社・最新ニュースーー

ブログ「とりけらのアウトドア&ミュージック日記」のtorikeraさんから、

「志木市・敷島神社に
力石が奉納されていたぁ!の巻」


を、お知らせいただきました。
とっても楽しい記事と写真です。見てください!


志木市・敷島神社、盛り上がってます!

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アマテラスさんの秘密

盃状穴②
05 /14 2023
「機織りの姫」、アメノタナバタヒメに続く二人目は、
「アマテラス」です。

機織りの姫だなんて、
恐れ多くも伊勢神宮の祭神で天皇家の皇祖神ですぞ!

なぁーんて叱られそうですが、
皇祖神云々については、多くの歴史学者が、


「それは明治新政府の創作」といい、
外国の歴史学者までもが「明治の発明であった」と言ってますから、
私の独断ではないですよォ。

=「天皇のページェント」T・フジタニ NHK出版協会 1994=

天皇の

で、伊勢神宮とアマテラスさんの関係は、というと、

「伊勢神宮がアマテラスを祀るようになったのは、奈良時代初期前後」

=「天照大神と伊勢神宮の起源」直木考次郎 若竹書房 1951=

「文武朝期に伊勢神宮が置かれ、アマテラスが祀られた」
=「天孫降臨の夢」ー藤原不比等のプロジェクトー
  大山誠一 NHK出版協会 2009=

天孫降臨の夢

という具合に、
アマテラスさんが伊勢神宮に祀られるようになったのは、
どうも「神代の昔」ではなかったらしいのです。

それならこの神さまは、それまでどこにいらっしゃったのか?
というと、
それに対して、こんな説が…。


「弥生時代からの日本の土着神であった」
=「アマテラスの誕生」溝口睦子 岩波書店 2009=

アマテラスの誕生

「もともと伊勢の地の日の神であった」という説もあって、
真相はよくわからない。

ところが長野正孝氏の「古代のテクノロジー」
PHP 2023を読んだら、
今までにない説を打ち出していて、思わず、「あっ!」と。


つまり、こう書かれていたんです。

「天照大神は、倭国という連合体があった時代に交易路を守る神として、
玄界灘の対馬に存在する「阿麻氐留
(あまてる)神社」に置かれていた」

※ここで長野先生がいう「倭国」は近畿の「ヤマト王権」ではなく、
 日本海沿岸に存在したと長野先生が仮定した「倭国」のことを指す。

彦左氏のブログに、この神社のことが写真と共に詳しく書かれています。
「彦左の正眼!」

長野先生は、さらにこう主張されている。

「アマテラスは対馬から丹後宮津の「元伊勢籠
(もといせこの)神社」に移り、
さらにそこから伊勢神宮の内宮に移された。

壱岐の月讀(つくよみ)神は下宮に移され、今に護り続けられている」

対馬→日本海側の丹後国、そこから、
本州を横断して、太平洋側の伊勢へという長旅をされたというのです。


私はこの説、すごく気に入っちゃって。
だってあの謎の「継体大王」の経路とも一部、重なりますし、

それにアマテラスの娘の女神3人は、
それぞれ朝鮮への海路の途中にある海の道の守護神ですから、
その母が対馬に存在するのはあり得るなぁ、と。


そんなこんなで、私はどれが正論なのかもっと知りたくなって、
このゴールデンウィークは、姪と3時間ほど会ったほかは、
部屋にこもって、アマテラスさんとの付き合いで終わりました。


今は亡きカナダの姉の娘と10年ぶりの再会。お土産のサブレ。
「おばさんは母にそっくり」と。二人ともおしゃべりが止まらず。
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アマテラスの正式名称は「オオヒルメノムチ」
「ヒルメ」つまり「日の女」

「太陽の女神」であることは確かです。

しかし、民俗学者の折口信夫はこれを日本の最高神ではなく、
「日の妻」=巫女と解した。


つまり、神への供物の棚にいて棚機(たなばた)という機織り機で、
神の御衣
(おんぞ)を織る織り姫の一番偉い巫女であった、と。

記紀に、
「天照大神が服屋で神御衣(かんみそ)を織っていたとき、
スサノヲが天の斑馬を逆剥ぎして服屋へ落としたので驚いて、
分身であるワカヒルメが死んでしまい、天照大神も陰部を損傷した」

という話があります。


このことがきっかけでアマテラスは岩屋に隠れた。
つまり「お隠れ」=亡くなってしまいます。


あとはご存じのように、アメノウズメのヌードダンスがきっかけとなって、
再生復活を果たすわけです。


「習俗のナゾ」啓正社 昭和62年の著者・福永英男は、
この「天照大御神、神御衣
(かんみそ)織らしめたまひし時」に注目して、
こういっています。


習俗のナゾ

「アマテラスは日本紀がオオヒルメノムチといっているように、
太陽の妻としての役目を負っていることを示している。

だとすれば神御衣
(かんみそ)は、
彼女が仕える主人たる「日の神」に献上するものであったはず。

このことからアマテラスは絶対神格ではなく、本当の「日の神」は別にいて、
彼女はその「日の神」に仕える巫女の最高の立場の神であったことになる。

それがのちに本当の日の神とその祀り役が混同、同一化されて、
現在見るような形に変わってきたのではないだろうか」

ならばその本来の「日の神」はどなたであろうかというと、
「タカミムスヒ」という男神だという。
※「タカミムスヒ」の「ヒ」は「ビ」と濁りません。

馴染みのないお名前ですが、
天地開闢のとき生まれた3人の男神の中の次男坊だそうです。

福永氏は、この神とアマテラスが混同、同一化されたというのです。

アマテラスには「実は男であった」という「噂」があることから、
ひょっとして男神と女神が合体した神、両性具有ってのもあり得るなぁ、
なんて私は思ったり…。

だって一人で子どもを生んじゃったりするんですから。


で、この魅力的な女神が、
クローズアップされた時期やいきさつなんてのを見ていくと、

どうやら天智、天武天皇さんあたりのころ、
つまり古事記や日本書紀の構想を立ち上げた時期から、
次の持統朝の成立した時代になってくる。

そっかぁ、日本の歴史の転換点はここだったのかぁと、
私はほくそ笑んだのであります。

天智天皇

また、記紀の編纂には亡命百済人たちが関わっていたことから、
日本に中国、朝鮮半島からかなりの人が入り込んでいたことが想像され、
アマテラスさんの秘密がますます深くなってきました。


余談ですが、
「習俗のナゾ」の著者・福永氏は当時、静岡県警本部長で、
日本民俗学会会員という異色の人。

「盃状穴考」の著者にも会社経営者や医者などがいましたし、
元・静岡市長だった天野進吾氏も郷土誌を自費で出版しています。

今は郷土を俯瞰的に見るそんな政治家はいませんよね。


ほとんどが選挙が近づくと夏祭りにちょっと来て、
手踊りして名前を連呼して、それで地元のことを知ったふりする人ばかり。

憤慨しつつ食べた新品種のいちご「恋みのり」。昔を偲びつつ食べました!
甘みはさわやか。ずんぐりした形が愛らしい。
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いみじくも考古学者の河上邦彦氏が著書の中で、
「多様性の重要性」を指摘していました。

「石室の修復のとき、当時の唐尺や比率を使ってもダメで匙を投げかけた時、
メンバーの一人に異色の経歴の人がいて、その人が、
「黄金分割りではないか」というのでこれでやったらピタリと合った」と。

そこで他分野の人の意見がいかに大切かということを書いておられたが、
その通りだと思いました。


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞