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布の回廊

盃状穴②
05 /11 2023
静岡市の「機織り」の話、続きます。
かなり昔に調べたことですが、改めてブログにアップしてみます。


静岡市の背後には、標高の低い賎機(しずはた)の峯が連なっています。
その峯の中ほどに、「倭文(しどり)布」を織っていたという
「賎機
(しずはた)」村があった。

そして連峰のどん詰まりに、「麻を織っていたのでは」と言われている
「麻機
(あさはた)村」があった。

この村から賎機連峰へ登り、左への道に入り、
尾根の南端まで行くと、6世紀後半に作られた古墳に出ます。

その古墳の下にあるのが、静岡浅間神社です。
今川氏や徳川氏の尊崇深かった神社です。

浅間神社境内からこの100段階段を登ると、右手に「麓山(はやま)神社」
左へ行くと、「賎機山古墳」に出ます。
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静岡市葵区宮ケ崎・静岡浅間神社

賎機山古墳から出土した馬具
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「財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所 設立20周年記念埋蔵文化財展」
「古代との対話」2004より、お借りしました。

その浅間神社の対岸の、安倍川と藁科川が合流する地には、
古くから「服織
(はとり)の郷」という村があって、
大陸から渡ってきた「秦氏」が住んでいたといわれています。


秦氏と言えば、蚕が吐き出す絹織物を伝えた氏族です。

またこの地には、かつて栄華を誇った
白鳳時代の創建といわれる「建穂寺
(たきょうじ)」がありました。

今は幻の寺となってしまいましたが、
「枕草子」にも載るほどの、都に聞こえた大寺院だったそうです。

建穂寺パンフより
img20230409_14085231.jpg
静岡市葵区建穂

この「服織(はとり)の郷」が、
秦氏や絹織物と関連があるのでは、とされている理由は、
建穂寺の守護神の建穂神社の存在です。

この神社の旧名は、「馬鳴
(まみょう)大明神」で、
これは養蚕の守護神なんです。
ですが残念ながら、
この地の秦氏と絹織物の話は確証がなく、今は幻となっています。

でも国宝・久能山東照宮には、かつて久能寺という大寺があって、
創建者は、秦河勝の子の久能忠仁とされていますから、
秦氏はこの地にかなり食い込んでいたことが想像されます。


ちなみにこの久能寺、中世には、京から東国へ下る旅人が、
「山上から流れてくる1500余人の僧たちの読経を聞きながら、
三保まで続く有度浜を歩いた」そうですから、
かなりの寺院だったことが伺えます。

駿河湾の波音を聞きつつ、天女の羽衣伝説の有度浜を歩き、
ふと見上げると、霊峰富士が眼前に現れて…。
さぞかし、旅の疲れも吹っ飛んだことでしょう。


〽 や 有度浜に 駿河なる有度浜に 打ち寄する波 七草の妹
   ことこそよし ことこそよし


「ちょっとおばさんぽい天女」ですって? そりゃ私だって年取りますわよ。
だってこの天井に住み始めて、もう、ン百年もたっているんですもの。
img20230510_17022932.jpg

この久能寺、戦国時代、甲斐の武田氏による焼き討ちを逃れるため
山上から移され、以来、荒廃していたところを明治初年、
幕臣の山岡鉄舟に救われて今は「鉄舟禅寺」となっています。

鉄舟禅寺。初期の老住職の聞き書きが本になって残っていますが、
欲得のない自然体の禅僧で、風流でユーモアに富む人柄が伺えます。
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静岡市清水区村松・鉄舟禅寺

話を「倭文(しずり・しどり)布」に戻します。

静岡浅間神社の境内社の一つに、
「大歳御祖
(おおとしみおや)神社」があります。
浅間神社よりも古く、中世にはここで「あべの市」が開かれたといいます。

この市の遊女とひと夜を過ごした都人の歌が、今に残っています。

この神社、江戸時代までは「奈吾屋大明神」といい、
「倭文部」の祖を祀った神社といわれています。


ということは、「しずはた村」の「倭文部」たちとこの神社は
深い関係にあり、麻織りの「あさはた村」も、
浅からぬ関係があったのでは、と思われます。

賎機山の最南端にあるこの「奈吾屋大明神」から尾根通しで
反対側の最北端に行くと、「北浅間神社」に到達します。

近年、この神社を修復したとき出てきた棟札に、
大正年間、奈吾屋大明神を解体した際、その木材をこの神社に再利用した
と書かれていたそうです。


北浅間神社本殿の屋根に座っている「四方睨みの猿」
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静岡市葵区北・北浅間神社

大麻や苧麻(ちょま。からむし)などで織った麻布は
「麁妙
(あらたえ)」といい、神官の衣服になり、麻そのものは、
お祓いの神具や鈴の縄などに使われましたから、神社の必需品でした。

賎機山を通じてそれぞれの村から、倭文布や麻布や麻が神社に供給され、
絹布もまた、服織の村から川を越えてもたらされていたのではないでしょうか。

もしかしたら、賎機、麻機の村人は、富士川のほとりにいて秦氏と戦った
「大生部多」と同じ部民だったのでは、と思うのです。

それはこのあさはた村の古老から、こんな話を聞いていたので。

「ここの賎機の尾根の下には皇ノ池という池があって、
東国の賊を成敗するために都から来た軍隊が休んだという言い伝えがある」

この尾根道は古い街道だったし、秦氏が通ったというのもあり得るし。
なんか、すごくないですか? といっても、興奮するのは私だけか。


尾根道への道標です。
今は山の下に何本もの新道ができ、
行き場を失くした道しるべだけが民家の庭に残されていた。
CIMG4407.jpg
麻機街道沿い

さて、謎の村「あさはた村」の話をもう少し。
年寄ると文章まで長くなります。(#^.^#)

「駿河国新風土記」(新庄道雄 文化13年~天保5年)に、

「浅畑(麻機)北村に浅畑浅間三社明神あり。神部神社なるべし。
伊勢神宮の書に、神服部
(かんはとりべ)と麻服部を神部というとある。
この神社は古社に浅間を合わせ祀ったもの」


とあった。

鎌倉時代の宝治元年(1247)の、公家・葉室定嗣の日記「葉黄記」には、
「後嵯峨院の評定において、浅服庄のことが論議された」とある。

また「鹿児島県史」によると、
「するがのくに、あさはたのしょうのうち、きたむらのごうのごうし職を
千竃
(ちかま)氏にくだした」と出てきます。

この千竃氏の本貫地は尾張国千竃郷で、
その所領は常陸、駿河、尾張、薩摩の国々だった。

しかし、
静岡市の北のどんづまりの名もなき寒村が朝廷で話題になり、
支配権を鎌倉武士の間で争われたりしていたことを知る地元の人は皆無。

歴史学者が編纂した「麻機誌」にも掲載されてはおりません。


「北浅間神社」には「大門」「神子面」などの地名や、
流鏑馬の言い伝えがあり、天文3年
(1534)の鰐口が存在しているのに、
詳しいことは誰も知らない。歴史が寸断されてしまっているんです。


もったいないですね。

開発されて「遊水地公園」ができたが、今もなお残る湿地帯。
背後に連なる山が「賎機連峰」です。
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静岡市葵区・麻機沼周辺

神社の背後にはかつては密教の修験者たちの寺が散在し、
そのまた背後に竜爪山という信仰の山がある。


一番奥に見えるのが、神体山の竜爪山。
下を走っているのが「新東名」です。
CIMG5499.jpg
静岡市葵区麻機地区から見た竜爪山

あさはた村の北浅間神社の後ろに神の山・竜爪山、前方には大きな沼。

風水思想でいえば、この沼は周辺の「気」が集まる「龍穴」かも。


なんちゃって

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機織りの姫

盃状穴②
05 /08 2023
ーー長らくお休みしていた「盃状穴」、再びーー

「もう忘れちゃったよ」なんて言いっこなしヨ。
「このどこが盃状穴なんだよ」って言われると弱いけど…。


        ーーー◇ーーー

人が生まれ変わる場所は大地の穴。
そこに生えている「生命の樹」は、天まで伸びているという。

でもその大地と天は年がら年中、行き来していたわけではないらしい。

ではその日はいつかというと、7月7日がそうなんだ、と。
つまり七夕の日。

この日は年に一度の男女交会の日で、また、天と地がつながる日。
天の川を挟んで住む織り姫と彦星の逢瀬も1年にこの日だけ。

で、魂の復活再生が行われるのも、この七夕の日というのです。


古代人の思考って、すごいなぁと思います。

奇数が並ぶ日は、陰陽でいうと「陽」の日。

古代ローマではこの日は「女たちの日」と呼ばれていて、
イチジクの小枝でお互いを打ち合ったそうです。

さて、ここに3人の超有名な「機織りの姫」をあげてみます。

一人目は天の川の西側に住んでいる「織り姫」です。

織り姫は神さまの供物をのせる「棚」にいて、「棚機(たなばた)」という
特別な機織り機で神さまの着る衣を織っている女性です。


浜松市に、「初生衣(うぶぎぬ)神社という古社があります。

初衣神社の「織殿(おりどの)」です。祭神は「アメノタナバタヒメノ命」
あの天の川の織り姫なんです。
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静岡県浜松市北区三ケ日町岡本

伊勢神宮に神御衣(かんみそ)=御衣(おんぞ)を納めてきたそうです。
私はこちらに2回、お邪魔させていただきました。


一度目は、
平安時代から続く機織り職の「神服部(かんはとり)家」のご当主、
二度目は女性神職の方のご案内でした。

あいにくの雨で白足袋が汚れて、申し訳ない気持ちで拝聴しました。
CIMG4391.jpg
同上

そうそう、トヨタといえば自動車ですが、
初代の豊田佐吉は自動織機や自動糸繰り機を考案した人です。

浜名湖の西岸・静岡県湖西市に佐吉の生家が保存されていて、
質素な茅葺の家に機織り機がポツンと置かれていました。

ここが世界のトヨタの原点だったんです。

案内の人が言ってました。

「佐吉は少年の頃、機を織る母親の姿を見て、
将来、自動で布が織れる機械を作って母親を楽にさせてあげたいと…」


初衣神社の動画です。どうぞご覧ください。


さて、ここで静岡市にある機織りに関連した地名を3か所みていきます。

静岡浅間神社の後背には賎機
(しずはた)連峰という低山が連なっています。
その山の安倍川側にあった村を「賎機(しずはた)村」といい、
そこで「賎機布」を織っていたそうです。


「賎機布」というのは「倭文(しずり。しどり)布」のことで、
日本古来の織物です。

ところが、楮(こうぞ)や梶(かじ)などの木の繊維を原料としていたため、

大陸伝来の蚕が吐き出す絹布に対して、一段と低く見られ、
それで「賎しい」の「賎(しず)」の名で呼ばれていたというのです。

県東部の富士宮市には、古代、朝廷にこの倭文布を「調」として納めていた
倭文神社があるんですけどねぇ。


静岡市の航空写真です。
赤丸が静岡浅間神社。そこから奥へ続いている尾根が賎機山。
「賎機(しずはた)村」は山の左側、安倍川沿いにあった。

山の右側の一番奥、三方を山に囲まれたところが麻布を織っていたと言われる
「麻機(あさはた)村」です。黄色の丸は駿府城。
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静岡市 清流の都・静岡創造推進協議会パンフ(2007)よりお借りしました。

「日本書紀」に、
富士川のほとりに「大生部多(おおうべのおう)」という部族がいて、
常世の虫と称するもので住民を惑わしていたので、
秦氏が成敗した話がでてきます。

この多氏と倭文神社とは関係があったかどうかはわかりませんが、
日本書紀のこの話、単なるカルト教祖の話ではなく、
都の貴族たちの勢力争いの代理戦争のような気がします。


とまあ、またまた不確かな推理ですみません。

「麻機(あさはた)村」の話に移ります。
古い本には「麻服」と書いて「あさはた」と読ませているものもあります。

江戸時代には7か村あったそうですが、なにしろ三方が山で、
そのど真ん中に大小の沼と葦が生い茂る湿地帯が広がっていたため、
家々は山の斜面にへばりつくように散在。

この地は賎機山の反対側を流れる安倍川より標高が低く、
海抜はないに等しかったため、常に洪水との闘いを強いられてきたという。

泥と砂地の田んぼには、胸まで浸からなければならなかったから、
嫁取りには苦労し、年貢は沼の魚や鳥で納めるしかなく、
貧しさゆえに名主でさえ賎機山の尾根を歩いて
町へ行商に出なければならなかったと郷土史にあった。

そんなわけで町の衆からは「異界」とされていた。

昭和初期のあさはた村です。
現在は住宅がびっしり並び、人口も1万3000余人という町に変貌した。
背後の山が賎機山。
img20230408_13152066.jpg
「麻機村誌」麻機をつくる編集委員会 昭和54年よりお借りしました。

不思議なことにここには、どこの村にもある伝統行事などは皆無で、
ただ古さを証明するものと言えば、唯一、「北浅間神社」という古社。


この古社の由来は全くわかっていませんが、
「その昔、富士宮の富士山本宮浅間大社を駿府に分祀した際、
その行列の休憩場所だった」
との言い伝えが残っています。

分祀は夜間行われたとのことで、口を白い紙で封じ、ここから賎機連山の
尾根を通って、南の端に位置する静岡浅間神社に運ばれたのだ、と。

この「麻機村」の歴史が古い時代まで辿れないのは、
生活環境の厳しさから何度も住民の移動や入れ替わりが
あったせいかもしれません。


「麻織りの村だったのではないか」と言われてきましたが、
それとて、確実な証拠は何もない。

唯一残った古社だけが、ここの歴史を知っているということになります。


          ーーー◇ーーー 

ブログ「Atelierありあ」ありあんねさんが、
拙ブログ記事をご紹介してくださいました。
なんか照れちゃいますが、とても素敵な文と構成でうれしいです。

どうぞ、ご覧ください。

「力石、盃状穴とは」

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縄文人・男女の役割分担

盃状穴②
04 /14 2023
岩に矢を打ち込んだら、大神が生まれた話にちなみ、
「井戸尻考古館」
(長野県)より縄文の土器の写真をお借りしました。
その折、日ごろ思っていたことを学芸員さんにお尋ねしてみました。

専門家の方にとっては、稚拙な質問だと思いますが、
丁寧に対応していただきました。

私信は公表すべきでないと迷いましたが、
私一人で享受するのはもったいないと思い、ブログに載せました。


あくまでも一人の学芸員さんの、
個人的なご意見として受け止めていただけたら幸いです。

学芸員さま、お許しを。

井戸尻考古館の動画です。

長野県諏訪郡富士見町境・井戸尻考古館 

私からの質問。

「考古学博物館の縄文や弥生人の暮らしの動画での
火起こしや土器づくりの場面では、ほとんど男性がやっております。
  
ですが古い調査書(例えば金関丈夫先生)などを見ると、ボルネオとか
アフリカ原住民では土器づくりは女性の仕事。
また火の管理者は日本でも近現代まで女性が担っていました。

ですので、
火起こしも土器づくりも酒を醸すのも、女性たちの仕事だったのでは、と。

それであのような性や出産や子供にまつわる文様や酒の壺などを
作り出せたのでは、と思いました。

縄文と弥生の違いはあると思いますが、集落内の仕事はほぼ女たちで、
男たちの仕事は狩猟と部族間の闘争で普段はぶらぶら。
そういう分業があったのではと思ったことと、

動画の男女の仕事内容が、
明治以降の家父長制度の影響を受け過ぎているように思いました。

何の根拠もない素人の妄想でお恥ずかしい限りですが、
よろしくお願いいたします」


これに対して、学芸員さんから以下、頂戴しました。

「縄文時代に置いて、男女の役割分担があったかなかったのか、
またあったとしたらどのようなものであったか、研究者の間でも
意見が分かれており、こうだったというふうに断言できないのが現状です。

雨宮さんが言及されているように、民族事例あるいは民俗例において、
女性の土器づくりの報告は数多くなされていますし、

また最近では、
海外の事例ですが女性も狩猟を行っていたという報告もあります。

「9000年前に女性ハンター」

一方では、特に大型の土器については男性でないと作成が難しいのでは
ないかという指摘や、中国のお墓からの出土事例により、
木材加工具である磨製石斧は男性に帰属しているようだとの報告もあります。

縄文時代の分業については、未だ正解が見つかっていないというのが
現状であり、当館としても意見の方向性を明示していません。


当時の人々の生活の復元の様子が、いかにも男性社会的で明治の
家父長制の影響を受け過ぎているのではないかというご指摘も受けました。

こちらについては、明治時代以降、考古学という学問は男性研究者によって
リードされてきた歴史がありますので、
そういう傾向は多少あるかもしれないと、私個人としては思います。

最近は女性の研究者も増えてきて、
少しずつ新たな視点での研究が始まってきたように感じます」


ーーー

※参考までに、
 今、読み始めた「生と死の考古学」山田康弘 東洋書店 2008に、
 アメリカの社会学者が世界各地の民族誌をもとに出した、
 男女分業の割合の紹介が出ています。
 グラフの見方がわからなくて、まごまごしているところです。

ーーー

考古学者の河上邦彦先生の著書を数冊、読みましたが、
考古学という学問は、単に古いものを掘るだけではなく、
そこから当時の社会構造、風水思想や民俗学的なものまで推し量る、
そういう広い知識と想像力や柔軟性が必要な学問であると教えられました。


ご著書「考古学点描」(六興出版 平成元年)に、こんな記述がありました。

「吉野山へ行った折、小さな集落の道端に祠があるのに気づいた。
中に石仏が祀ってあり、軒下にひもで石がつるしてある。
通りがかった人に尋ねたら、耳の聞こえにくい人が良く耳が通るように
願掛けをした石だと教えてくれた」


先生が見たのは、こうした「穴あき石」だったのでしょう。
CIMG1745_20221223195728c8a.jpg
静岡市葵区松野・阿弥陀堂

「信仰深い素朴な村の生活が浮かんだ。どのような人が奉納したのかと
思いながら石を手にしていると、一個の緑色の石に気が付いた。
それは弥生時代の稲穂を刈るときに使った〈石包丁〉だった」


先生は、願掛けをした人には申し訳ないと思いつつ、
貴重な考古学資料なので、町教委に連絡して保管をお願いしたそうですが、
こんな感想も書かれていた。

「しかしちょっとおもしろいではないか。
弥生人の生活道具が、2千年をへだてた現代人の信仰道具になるとは!」


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岩と矢と穴

盃状穴②
04 /11 2023
「盃状穴」を見極めようとしているのに、そこからだんだん遠ざかる。
どうやら私は迷路に迷い込んだらしい。

でもまあ、やるっきゃないか。

「岩から生まれ出ずる神」の話です。

西アジアに、キリスト教やゾロアスター教以前の
「ミトラス教」なる、なにやら秘密めいた原始宗教があったそうです。


この宗教は西アジアで生まれ、古代イランからローマ帝国に広がり、
なんと、日本の弥勒信仰も、
その流れを汲んでいるというのですから驚きました。

弥勒といえば、静岡市には「弥勒町」という町が今もあるんです。
大河・安倍川のそばの町で、
江戸時代にはその近くに、幕府公認の遊郭「二丁町」があった。

「東海道中膝栗毛」に描かれた「二丁町」です。
元は五丁あったが、のちに一部が江戸の吉原へ移転して二丁になったとか。
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「日本名著全集 膝栗毛其他 上」 日本名著全集刊行会 昭和2年

「あべ川まちといへるは、あべ川弥勒の手前にて、通り筋より引っ込みて
大門あり」
。作者の十返舎一九は駿府生まれだから詳しい。

三代将軍家光が没した頃、
安倍川辺に住んでいた弥勒院と名乗る山伏が還俗して餅屋になった。
それがこの町の由来なんだそうです。


この「安倍川もち」、今は静岡土産として観光客に人気です。
今も往時の餅屋が並ぶ先に、長い安倍川橋が架かっていますが、
旧名は「弥勒橋」。江戸時代は橋はなく川越でした。

二丁町の花魁が差していた櫛から、工芸作家さんが作ったペンダントです。
螺鈿と金細工の蒔絵。壊れてしまったけれど、花魁の生きた証しを
せめて私だけでも覚えていてあげたいと、今も大切に持っています。
20230404_161720.jpg

さて、
「輪廻の話」(法政大学出版 1989)の著者・井本英一先生によると、

ミトラス教の神もまた洞窟の岩から生まれた神さまで、
弓矢の「矢」と密接に関係があるというのです。


ミトラス神に限らず、神さまの誕生には「矢」が重要な働きをしていたそうで、
「出雲風土記」に出てくる「佐太大神」も、
岩に金の矢を打ち込んだら生まれたといい、

「古事記」「日本書紀」や「山城国風土記」にも、
丹塗矢が女の陰(ほと)を突いたら、神の子が生まれた話が出てきます。

神武天皇の皇后もそうした出自を持つ御子神。

そこでこんな写真を、井戸尻考古館からお借りしたんです。
もうばっちり「矢」が表現されているんですよ。

「蛇頭半人半蛙(はんあ)交会文深鉢」 曽利遺跡出土
【曽利遺跡出土】蛇頭半人半蛙交会文深鉢
井戸尻考古館所蔵(長野県諏訪郡富士見町境)

縄文時代の土器です。考古館の説明によると、

「蛙形の図像下方から突き上げる矢印=蛇頭・陰陽交会の図を
表わした土器」


つまり、矢=蛇の頭=男根ということになります。
半分人で半分蛙という精霊が豊穣と多産のシンボルの蛇と交わって、
「神の子」を宿すということでしょうか。

この土器、
神の誕生が「矢」というところが、ミトラス神の誕生と同じなんです。

今のような通信機器がなかった時代に、
古代イランやローマ帝国と日本の縄文時代が通底していたなんて、
もうビックリです。


「終末観の民俗学」(宮田登 弘文堂 昭和62年)にも、
群馬県吾妻郡中之条町五反田の嵩山(789m)の弥勒が出てきます。

「頂上近くにミロクサンが祀られていて、
このミロクサンは「穴の神」だといい、耳、目、口、鼻などの病を治す。

また女の神であり婦人病を治すともお産の神だとも言われている。
本体は弥勒仏で、断崖の洞窟の奥に安置されている」

この耳、目、口などの「穴」ですが、人体には九個の穴があって、
易学ではこれを「九宮」といい、
「八方(八卦)」に配属された地上の分野としています。

これは私がいつもザックにぶら下げている「八方除け」
中央は「気」が集まる「龍穴」「大地のへそ」
三ノ宮卯之助像がある姫路市の魚吹八幡神社で求めたお守りです。
八卦除け1

今年1月、拙ブログへご訪問くださる方から、
小川哲氏の直木賞受賞作、「地図と拳」にも九宮八卦が出てきますよ
と教えていただき、早速、図書館へ申し込んだ。

大人気の本だそうで、やっと手にしたのが3月。これがまた分厚い本で…。

時代は満州国建設の第二次大戦ごろ。架空の町を背景に、
秘密結社だの日本人密偵、謎のロシア人神父だのが登場。

そこに孫悟空という男が出てきて死なない体づくりをするわけですが、
そこにこの「九宮と八卦」が出てきました。

私にはちょっと苦手な本でしたが、
今はこうした空想小説が好まれているのかと、考えさせられました。

さて、
ミトラス神と弥勒仏の共通点は、死と生の境界の神だったことですが、
ミトラス教は女人禁制だったのに対して、
日本のミロクサンは女人に寄り添う「神」だったようで…。

ただどちらも「穴」に縁があった。

江戸時代に流行した「冨士講」という信仰があります。
現在、関東周辺には、
富士山を模した「富士塚」が残されていて往時を偲ぶことができます。

これは、富士山の火口こそ「ミロクの世界」とした信仰で、
火口を「女陰(ほと)」と見て石棒を立て、命の再生を願った。
そして、生命誕生の場は山麓の穴「御胎内」としていました。

冨士講の始祖・角行が入定した富士山の「人穴」です。
CIMG1346.jpg
富士宮市人穴

角行の弟子、「食行弥勒」も、のちに富士山の岩穴で入定します。

で、この信仰が特に取り組んでいたのが、
「男女平等」「男女和合」だったそうです。

お手すきの折にでも拙ブログの「富士塚」をご覧いただけたら幸いです。

ミトラス教の影響を受け、インドで生まれたこの「弥勒信仰」、
平安時代ごろから「阿弥陀信仰」に取って代わられたそうです。

弥勒さんが衆生救済に天上から降りてくるのは、
釈迦入滅後の56億7000年後だというし、
弥勒浄土に行くには自力で修行しなければならない。

対して阿弥陀さんの方は、
他力で阿弥陀浄土に行けるというのですから、こっちの方が楽ちん、


と考えたのかどうかわかりませんが、
まあ、信仰にも流行りすたりがあるということでしょうか。

さて、「迷路」にはまった私ですが、
またまた、こんな言葉に惹きつけられてしまいました。

「ミトラス信仰にはがつきものである」

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大地のへそ

盃状穴②
04 /08 2023
人は「火」で己の罪や穢れを焼き払い、「水」で清めて再生する。

ならば、その場所はどこかというと、
歴史、民俗、文化人類、考古の学者さんたちは異口同音に、
それは「境界」だという。


そこは道が複数に分かれた場所で、境、辻、坂、岐(くなど)ともいった。

何の境かというと、異界(あの世)と現世(この世)だという。

その境界には「大地のへそ」があるという。

「へそ」は平板状をなしていて「天の磐座」ともいい、あの世への入り口で、
その下には水陸両棲の蛇や亀や蛙が住んでいるとされていた。

この「へそ」は、
インドネシア・リオ族にも、古代ギリシャのアポロンの神殿にもあった。


アポロンの神託所には大蛇ピュトンが棲んでいて、アポロンに殺されて
へそ石(オンパロス)の下に埋められたと、

「十二支動物の話」(井本英一 法政大学出版 1999)に書かれている。

こちらは以前取り上げた「さいとくさん」(姫路市別所町)です。
地元では「さいのかみさん」(道祖神)と呼ばれている板状の石で、
盃状穴が穿たれています。


私がこの石にこだわっているのは、これはよくある道祖神というより、
もっと重要な「大地のへそ」ではなかったかと思っているからなんです。
また石の六角形は、
仏教の「六道輪廻」「六角堂」を表わしたものではないか、と。
さいとくさん
「盃状穴考」国分直一監修 国領駿、小早川成博編集 慶友社 1990

「大地のへそ」には、大地と天をつなぐ「生命の樹」が生えていて、
これを上り下りすることで「輪廻転生」が行われるのだという。


この「生命の樹」、キリスト教ではエデンの園に生えていたそうですが、
日本の生命の樹は、ご神木や柱や家の大黒柱などで、卒塔婆もそう。
縄文遺跡の巨大な柱もそうですよね。


下の写真は、
熱海の「来宮(きのみや)神社」「聖樹」樹齢2000年余の大楠です。
江戸時代までは「木宮神社」と呼ばれていたそうです。

樹木や岩は神が降臨する場所なので、聖樹の宮で「木の宮」だったとか。
木の周りを一周すると寿命が一年延びるというので、私も周りましたよ。
CIMG4489.jpg
静岡県熱海市西山町・来宮神社

この神社、境内を思いっきり素敵にリニューアル。まるで地上のユートピア。
茶房もモダンで、ロケーション抜群。思わずはしゃいでしまいました。
♪ コーヒはうまいし、境内はきれいだ、ワーワーワッワー

ところで、社寺で龍蛇が巻き付いている柱を見かけたりしますが、
神話学の井本英一先生は、こう言っています。

「門柱に蛇が上がるのは、敷居の下から祖先が現れたことを示す」

つまりあれは「命の再生」を表わしているんだと。


こちらは、そんな柱です。
torikeraさんの
「矢崎鷲神社の本殿」からお借りしました。

ド迫力の「昇り龍」「降り龍」ですね。いろんな説がありますが、
長い年月の間にいろんな宗教が融合していますから。
これやそれやをひっくるめて、考えて楽しんでいただけたらと思っています。
ちなみに、蛇にさまざまな動物の強い部分を付けたのが「龍」です。
柱の龍
千葉県佐倉市先崎・先崎鷲(まっさきわし)神社

torikeraさん、私からの突然の依頼にご友人の送別会で帰宅後、
写真を探してくださったとのこと。
せっかくのお酒の余韻を台無しにしてしまって申し訳なかったですが、
大助かりでした。感謝!

以下にも見事な彫刻と「龍の柱」が出てきます。どうぞ、ご覧ください。
蛇がウジャウジャ出てくる彫刻、リアルすぎておったまげますよ。


「大曾根八幡神社」 「八条八幡神社」

もうね、いろんな本を読んでいたら、
あっちこっちに「再生する場所」があって、こんがらがってきたんですよ。

鳥居、手水鉢、墓穴、洞窟、岩の裂け目、井戸、海、川、橋、村境、大黒柱…。


考古学者の河上邦彦先生の本(「考古学点描」六興出版 平成元年)にも、
「境」の話が出てきます。

それは「境に大甕(おおみか=かめ)を埋めた」という話で、

「私たちが古墳や集落跡を発掘していると、しばしば大きな甕が
据え付けられているのを発見することがある」とし、
龍王山古墳群や石光山古墳群、多遺跡などの例を挙げています。

また、その甕は何かを入れたという状況ではないとして、
こう結論付けている。


「国と国との境、つまり結界の場所に甕が据えられたと考えるならば、
古墳に見られる甕の存在は、
生者と死者の結界の場所に据えられた甕と見ることができる。

そして村はずれ等に見られる据え甕は人間世界と動物の世界の境、
あるいは人と生霊の世界の境に据えられた甕と見ることができる。
甕は異なる世界に据えられた結界のシンボルであったといえる」


来宮神社の境内社・弁財天の神使、巳(ミー)さまです。
私これを見て、「あれ、蛇がサングラスしてる」って思っちゃって。(#^.^#)
弁財天来宮神社
熱海市西山町・来宮神社・ここの弁財天像は高村光雲作。

そして、なぜ甕なのかについては、恩師・池田源太氏の、
「古代において甕は呪術的要素を持つと信じられていたから」
という言葉を紹介している。

だとすると、死者を胎児の姿勢で甕棺に納めたのも、
「再生」を意識してのことと言えますね。

民俗学者の宮田登先生の解説もまた面白い。


「辻には市が立ち、辻占が四辻に出て吉凶を占い、辻君(遊女)が集結する。
こうした境の神は市神で、
神道では市杵島姫として住吉神社の祭神の一つとしている。


「願掛重宝記(文化文政期編纂)に、大阪の境界空間の神として、
梅田墓所の薬師堂、千日墓所の上人堂、幸橋南詰の北向き地蔵、

京橋詰めの歯神など、墓や橋周辺に祀られている神格、道祖神(猿田彦)
地蔵といった境の神に位置付けられる神格が目立っているとあった」
そして、
「江戸の稲荷に対して、大阪の地蔵という対象もある」と。

=「終末観の民俗学」弘文堂 昭和62年

「美男におわす仏かな」
右側に見える石、力石だと思ったもののとうとう確認できず。
CIMG0049.jpg
静岡市大谷

「境界」に立って、外から入り込む邪悪なものを追い返して村を守り、
不安定な霊魂を安定させる守護神として大活躍した道祖神も、
今やその謂れも忘れられ、わずかな居場所にそっと佇んでいます。

それでもどこかに痕跡を残しています。


この「境界」という摩訶不思議な空間、もう少し探訪を続けます。

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞