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駿府城への通船は本当にあったのか

小論文
09 /29 2022
「雁木」をテーマに書いた「雁木にフォーカスしてみた」を終えて、
いまだに引っかかっているのが、「横内川の通船説」です。

著名な郷土史家や歴史家の先生が著作などで、

「駿府城本丸と清水湊は、湊➡巴川➡横内川を経由して繋がっていて、
御城米などを積んだ船が三の丸の「水落」から二の丸の堀へ入り、
船着場で荷揚げして米蔵へ納めた」

と主張しています。
そしてこれが「定説」となって、今もネット上などで拡散されている。


堀に架かる東御門橋からみた高麗門。この門と御水門の間に米蔵があった。
駿府城高麗門

しかし、これを否定する声は昔から根強くあった。

「城から流れ出る横内川は幅も狭く浅いから、船が通ったとは思えない」
「水落ではドドーッと凄い音を立てて水が落ちていたから怖かった」


現在の「水落」です。
ここで「船の向きを変えて横内川を出入りした」とされてきたのだが…。
20220906_094750.jpg

清水湊は江戸時代以前は「江尻湊」といった。
そこから繋がる巴川もかつては、「江尻川」と呼ばれていた。

鎌倉時代にはこの川を経由して、上流部の村々から鎌倉へ木材が送られ、
江戸時代を通じて年貢米を積んだ船が下った。

江戸初期には、
駿府築城に使う石材や木材が、清水湊➡巴川➡十二双(社)川を通り、
城近くの熊野神社の船着場まで運ばれた。

※「十二双(社)は、熊野神社のこと)

明治27年、300年振りに巴川から拾い上げられた城の石垣用の石。
img20220906_18155238 (2)

江戸時代半ばごろにも十二双川を利用した記述が名主日記に出てくる。

この十二双川は川幅が広かったものの、
巴川の船着場「上土」の上流部に位置していたため、
町の商人たちは駿府への最短距離の、
上土に直結した「横内川」の開削を望み、何度も幕府に嘆願書を提出。


現在の横内川は暗渠となり、石碑だけが残っている。
20220906_100246.jpg

しかし、巴川を生活に利用していた村の郷土史2誌を見ると、
横内川の通船は実現しなかったようだ。

2誌はこう書いている。

「江戸の初め、城の水を放流するために横内川を掘削した」
「慶長7年の武徳編年集成に、江戸初期、通船のための拡幅工事を
巴川側から試みたが、出水多く一日で断念したとある」

「その後何度も横内町の商人たちから拡幅開削の嘆願書が出されたが、
この川を農業用水に使っていた周辺農民たちから、
水が使えなくなれば年貢米に支障をきたすとして反対され実現せず」

「江戸末期の天保14年、水野忠邦の天保の改革で、巴川から横内川への
通船路の開発が企画され、巴川側から200間掘り進んだところで、
翌年の水野失脚によりとん挫」


このことは川の石垣用の石の供出を命じられ、工事がとん挫したため
石を捨てざるを得なかった東村の名主日記にも見える。


今も旧東村の山上に残る石切り場跡。写真は放置された矢穴のあいた石。
東村石切り場

結局、「この一件は未完の終結となった」と、2誌とも書いている。

では通船の代わりにどんな手段で清水湊から駿府へ物資を運んだのか。

その答えを10年ほど前に郷土史家が「定説に挑む」の講演で、

「牛車が隊列を組み、別ルートの陸路で運んだ。
今もその道が牛道として残っている」と明かし、
「巴川➡横内川運河は幻に終わった」と、結論付けている。

この「牛車」で陸送という運搬は、経費も時間もかかる。
横内川経由なら駿府へは最短距離で、輸送にかかる負担は少なくて済む。

横内町の商人たちが幕府にたびたび「横内川の拡幅開削」を嘆願したのは、
これが大きな理由であったという。


隊列を組んで牛道を行く牛車。
img20220908_11084575 (2)
「東海道便覧」

駿府城の絵図はいろいろ残されているが、「船着場」の記載はない。
また、発掘調査に携わった方への問い合わせでは、
「雁木跡は出てこなかった」とのお返事をいただいた。

船着場とされてきた場所は幅が狭く、鍵型に折れ曲がっている。


青丸が「水落」。茶丸の鍵状の水路が「船着場」とされてきた「御水門」
黄丸は「東御門橋」。ここと御水門との間に「米蔵」があった。
img20220906_18130690 (5)

なぜ鍵状の水路にしたかについて、こんな説がある。

本丸の堀の水が溢れないよう調整する必要があり、
一気に流すことのないよう鍵状にした。また侵入者を防ぐための工夫。

水路の形状や流域の郷土史の記述から見て、
私は、「船の航行はなかった」との思いに至らざるを得なかった。

しかし、今なおネット上や城のボランティアガイドさんたちは、
「清水湊と駿府城の間に船が行き来していた」ことを拡散し続けている。

静岡市では駿府城の発掘調査に熱心で、
このたび長年の夢だった「静岡市歴史博物館」がオープンした。

この「通船はあったか、なかったか」への明確な答えを、
市では出すべきではないかと私は思っております。

また、どなたか、ご教示いただければ幸いです。


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「雁木」にフォーカスしてみた(最終回)

小論文
09 /27 2022
6回ぐらいで終わるつもりが、いつものおしゃべりが過ぎました。

「これは論文じゃないよ」と、
大阪民俗学研究会の田野先生、苦笑しているかも。

ま、性分です。


最後の〆、新居関所の船着場です。

全国で唯一の現存関所です。国指定特別史跡。

江戸時代はこんな感じ。


「東海道名所図会」より、荒井(新居)関所と船着場の部分。
船着場から上がってすぐの、木を組み合わせただけの黒い「関門」にご注目。
img20220617_12150767 (3)

復元したのがこちら。

この船着場を上がり、まっすぐ行くと「大御門」、右の大きな建物が「番所」


1995年に私が撮影したときと違っています。⑩参照。
そのときは屋根のない「関門」でしたが、現在は屋根付き。
でも「東海道名所図会」には、1995年の写真と同じ関門が描かれています。
新居関所大御門入り
新居関所史料館提供

こちらの絵図は江戸末期~明治初年の巻物。作者不明。

左右に船着場がある。
ここの船着場は一か所のはずなのに、
どちらにも階段状の雁木に似た石段が描かれている。


取締りが厳しかった関所も、時代が下るに従い関所の機能が低下。
そのため、無断で浜名湖を往来する人が増えたという。

この絵は幕末から明治初期に描かれたということなので、
人の往来が自由になった頃の情景なのかも。


絵図・地図2(通364)関所絵図 江戸末期 県指定
新居関所史料館所蔵・提供

新居関所の詳細は下記のURLでどうぞ。
見取り図や動画でわかりやすく説明されています。


「新居関所」

ーー課題ーー

同じ石階段なのに「雁木」と呼ぶ場所と呼ばない場所があるのはなぜか?
近世城郭の船着場の雁木の紹介が極端に少ないのはなぜか?


ーー県西部の沼津市の場合を、
       沼津市歴史民俗資料館にお聞きしました。ーー

「かつて狩野川に張り出した河岸は「だし」と呼ばれていましたが、
断面楕円形または直線的な石積みのようです。
ただし、階段状にはなっていないようです」

「沼津港は戦前に掘り込み港として作られたもので、垂直の岸壁です。
浦地域の昔の絵はがきを見ましたが、船の上げ下げに斜めの床が作られ、
岸壁は直線的のようです」

「このころ作られた狩野川の親水堤は、「階段堤」と呼ばれているようです。
ということでわかる範囲では、「雁木」という呼び名は確認出来ませんでした」

残念。

下の動画は沼津市で今も運行している渡し船
「我入道(がにゅうどう)の渡し船」です。



「雁木考」の終わりにあたり、私の好きな句を。
俳人・種田山頭火が放浪の旅の途中、浜名湖で詠める句です。

「水のまんなかの道がまつすぐ」

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「雁木」にフォーカスしてみた⑪

小論文
09 /25 2022
関所の厳しさと渡船の危険から、
旅人が湖北の本坂道
(姫街道)の陸路を歩くようになった。

そのため、渡船で潤っていた新居宿は困窮。

そこで、ほかの五カ宿と共同して本坂道の通行停止を幕府に嘆願した。


「東海道新居関所の研究」(近藤恒次 橋良文庫 1969)によると、
「この嘆願を受けて幕府は船の安全航行のため、荒井、舞坂間の中瀬に、
波除の杭を打った。その数5,628本。その航路を大名の一行が
多い時で160隻も渡った」


この杭は波戸といい、
広重の「東海道五十三次之内舞坂・今切真景」に描かれている。
絵では数本だが、実際は5,628本。
広重舞坂
国立国会図書館デジタルコレクションより

江戸の狂歌師で幕府の役人だった大田蜀山人は、
享和と元号が改まった年
(1801)に、公用で江戸から難波(大阪)へ出かけた。

その旅のつれづれに記したのが「改元紀行」

蜀山人は役人だから関所もスイスイ。
新居宿の酒家
(酒屋)に立ち寄り、おいしいと聞いてきたウナギを食べた。

その味、「ことによろし」かったそうで…。

旅籠(はたご)「紀の国屋」の当時のメニューは、
ごはんにみそ汁、アサリのむき身、そしてやっぱり名物のウナギ。


さて、新居といえば有名なのが「遠州新居の手筒花火」です。

これです。
「花(花火)を浴びて男気を示す」新居の男衆です。
参加資格は18歳以上。成人の通過儀礼でもある。
img20220917_10324258 (2)
新居町役場提供。この写真お借りしてすでに27年。おじさん、元気かなぁ。

私が撮影したのがこれ。当時の新聞の県内版はモノクロだった。

img20220918_02463876.jpg

翌年行ったら、若い女性たちがイナセな姿で手筒を抱えていた。
火の粉に浮かんだ彼女たちの緊張した顔が非常に美しかった。


こちらは静岡市郷島(ごうじま)「郷島煙火大会」

手筒花火は孟宗竹に畳表を巻き、その上を荒縄で固く巻いたもの。
節を抜いた竹の中に火薬を詰めるが、その作業が一番難しいという。

この手筒には、最後に底が抜けるものとそうでないものがある。

郷島のは最後に筒の底が抜けてドカンと大きな音がするように、
火薬に「ハネ粉」を入れるそうで、
動けば危険なため、腰を落として安定させた姿勢を保つ。

一方、新居のは底が抜けない作りのため持ったまま乱舞できる。


しかし、どちらも爆発の危険は常にある。

「郷島の手筒」です。
市内最大の火薬量の筒を持った男衆が一列に並ぶ。
巨大な火柱が立ち、火の粉が雨のように降り注ぎ、最後に筒の底が割れて
ドカンとものすごい音と煙が地面を揺るがす。
CIMG1525_2022092211525832e.jpg

新居の男たちは「恐怖が快感に変わり陶酔していく」と表現していたが、
命がけで恐怖の極限に挑む郷島の男たちはあまりにも神々しくて、
声をかけるのもはばかられた。


CIMG1521_20220922120715593.jpg
静岡市葵区郷島

さて、浜名湖です。

地震以前、ここを通った「東関紀行」の作者は、

「南に海潮(遠州灘)あり。漁舟波に浮かぶ。北に湖水(浜名湖)あり。
人家岸につらなれり。湖に渡せる橋を浜名となづく」
と、湖が切れる前の情景を書いているが、


その「岸につらなっていた」人家も、地震でことごとく海中に没した。
だが浜名の橋の跡は長く残っていたという。


蜀山人は輿(こし)を担いでいた者に橋の跡を尋ねたら、
「教恩寺の四辻の向かいに道があって、その先に橋の跡がある」
と教えられた。だが公務の身ゆえ、あきらめて先を急いだ。

そのとき作れる歌。


「いにしえのはまなの橋の跡問えば
           風吹きわたる松のひとむら」


教恩寺の境内です。1995年撮影
img20220918_02463878.jpg
新居町浜名

このときの私のお目当ては、天然記念物の「大イチョウ」

だが行ってみたら、無残な切り株になっていた。
台風で倒れたとのこと。

そこでわたくしメの詠める歌。


「いにしえの寺のイチョウを尋ぬれば
             虚ろな穴を残すひと株」


あ、しまった。話が逸れすぎました。「雁木」でしたね。

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「雁木」にフォーカスしてみた⑩

小論文
09 /22 2022
舞阪の対岸、関所のあった「新居」(荒井)の船着場をみていきます。

新居の関所は元は「今切関所」といった。
地震などで2度移転。

設置は箱根関所より20年も早く、
関ケ原合戦後の慶長5年(6年説もあり)のこと。

箱根、福島とともに最も重要な関所として、厳重な取り締まりをおこなった。

「国指定特別史跡」の新居関所。1995年撮影
img20220917_10301229 (2)
静岡県湖西市吉見

裸の放浪画家・山下清もここへ来た。

「山があって道があって、
道のそばに握り飯をくれそうな家があって、海岸に近い町」

そういう町が好きで、
「(本当)の景色の方が絵よりきれい」と思っていた清が、
周囲の勧めではり絵による「東海道五十三次」の制作を始めたのは、
昭和40年、41歳のとき。


清の「関所跡」と題したペン画が残っている。
自転車に乗った少年と少女が関所の門前を走っている絵だ。

「種子島の船着場でおまわりに捕まって追い返された」清にとって、
黒々といかめしさの漂う関所跡は、
気の進まない画材だったのではないだろうか。


広重と三代豊国の共同制作「双筆五十三次・荒井」
女が男装しているのではないかと疑い、改め婆さんが下半身を改めている。
荒井
国立国会図書館デジタルコレクションより

幕府は人質として江戸に住まわせていた奥方の逃亡を防ぐため、
江戸から出る「出女」と、江戸へ向かう「入り鉄砲」を警戒した。

ここを通るには手形(許可証)が必要で、その手形も、「小女」を「女」と
書いただけで、「記録に相違あり」として通行を許可しなかった。

近在の女性たちも同じ扱いだったので、
遠くても手形のいらない三河(愛知県)と縁組をした。


こうした厳重な取り調べから逃れるためと、
宝永4年(1707)の大地震で今切れ口がさらに広がり、
渡船での往来が危険になったため、
旅人は湖北にある本坂(姫街道)の陸路をとるようになった。

とはいっても、そこにも関所があり、


「気賀関所」
気賀関所2
浜松市北区細江町気賀

「改め女」もいた。

気賀関所1

でも、抜け道があったんです。

通行手形がなければ通れないので住民は不便。
そこで領主が裏道を作った。

それが「犬くぐり道」です。

「犬がくぐるなら差し支えない」というわけで、
犬のように四つん這いになって通行した。武士は絶対通らなかったが、
お尋ね者には好都合だった。


「犬くぐり道」
CIMG3318.jpg

旅の自由を奪い人々を威嚇し続けた関所。
そんな関所跡で、山下清はこんな感想を残している。

「人に知られないようにこっそり歩くには、山道か野原がいいな。
舟や渡し場はとがめられやすいものな」

でもこの浜名湖の最奥、細江の奥浜名湖には、
こんな美しい光景があったんです。


「澪標(みおつくし)

航行する舟を安全に導くための標識です。
img20220617_11112672 (2)
「姫街道ー細江ー」細江町役場企画商工課 平成7年より

「遠江引佐細江のみおつくし(澪標)
      あれ(吾)をたの(頼)めてあさましものを」 万葉集巻14

小舟が澪標を頼るように私を信じさせておきながら、
あなたは浅い(軽い)気持ちだったのねと「恨み言」を歌ったもの。

裏切られて「く、くやし~」と嘆いたのは、
男だったのか女の方だったのか解釈はいろいろ。


遠江(とほつあうみ)は遠江国。引佐(いなさ)・細江(ほそえ)は地名。
(みお)は水脈。
「みおつくし」には「身を尽くす」という意味もあります。

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「雁木」にフォーカスしてみた⑨

小論文
09 /20 2022
「舞阪の地名」(舞阪町立郷土史料館 舞阪町 2005)によると、
ここの雁木の名称は、「通称」「別名・別記」とあり、
以下の通りになっている。


●南に位置した雁木は、通称は「渡荷場(とうかば)
別名・別記は「南雁木」「南船着場」で、荷物と庶民用
●中に位置した雁木は、通称は「本雁木」
別名・別記は「中雁木」「中船着場」「中船場」で、武家用。
●北に位置した雁木は、通称「北雁木」
別名・別記は「北かんき」「北船着場」「北船場」で、大名・諸侯用

舞阪町の松並木。江戸時代は3000本。この時は340本。1995年撮影
img20220916_22405746 (3)

「古地図で楽しむ駿河・遠江」
(加藤理文編著 戸塚和美執筆 風媒社 2018)に、
舞坂の雁木を「階段状」に築いた雁木と説明していたが、
ここは「石畳」で階段状ではない。

江戸時代の絵師たちも思い込みからか、階段状に描いている。
絵図はあくまでも絵であって、そのまま信用できない事例の一つ。


「東海道分間延絵図」の「舞坂宿」の部分です。

浜名湖東岸の船着場3カ所が描かれているが、
全部、「階段状」に描かれている。
img20220902_09295498 (4)
東京国立博物館デジタルアーカイブズより

五雲亭貞秀の「東海道五十三次之内舞坂宿並姫街道望遠」も
同様に階段状で、一か所のみになっている。

しかし、浜松市教育委員会設置の説明板には、こう書かれている。

「雁木とは階段状になっている石階段の船着場のことで「がんぎ」というが、
ここでは「がんげ」といい、石畳が往来より海面まで坂になって敷かれていた」

ちなみに「舞阪」の古代名は「象嶋(きさじま)
赤貝がよく獲れたため、
貝殻の放射状の「刻み」の「キサ」からきた地名との説もある。

こちらはその「キサ」を冠した神社、「岐佐(きさ)神社」です。
主祭神は「きさがい(赤貝)比売命」、
もう一人の祭神は「うむがい(はまぐり)比売命」

赤貝とはまぐりが神さま…。いかにも浜名湖らしい。

兄弟たちに妬まれて焼けた大石を落とされた大国主命は大やけど。
そこでこの二人の比売命が削った貝殻を乳汁で溶いたものを塗ったら、
大国主命は「たちまち麗しき男」になったそうな。
img20220617_12323724 (2)
北雁木のすぐ近くにあります。

下の写真は友人と舞坂の脇本陣を訪ねたとき、
某新聞社の記者に頼まれて、モデルになったときのもの。


ガイドのおじさん、
記者の要望に応えてお釈迦様の如く指で天を指したまま動けず。

奥にいる女性もサクラです。


img20220914_09501335 (2)

このままの姿勢で居続けるというのもなかなか大変で。
若い友人が思わず「アハハ!」と。

でもおじさんは直立不動。真面目な方なんですね。


img20220914_11012612 (3)

残念ながら、これはボツになったと、
記者さん、すまなさそうに写真だけ送ってくれました。

いい写真だと思うけどなぁ。ちょっとピンボケだけど。

あ、小論文に私情を挟んでしまいました。
ド素人がモロに出てしまいましたがお許しを!


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞