駿府城への通船は本当にあったのか
小論文
「雁木」をテーマに書いた「雁木にフォーカスしてみた」を終えて、
いまだに引っかかっているのが、「横内川の通船説」です。
著名な郷土史家や歴史家の先生が著作などで、
「駿府城本丸と清水湊は、湊➡巴川➡横内川を経由して繋がっていて、
御城米などを積んだ船が三の丸の「水落」から二の丸の堀へ入り、
船着場で荷揚げして米蔵へ納めた」
と主張しています。
そしてこれが「定説」となって、今もネット上などで拡散されている。
堀に架かる東御門橋からみた高麗門。この門と御水門の間に米蔵があった。

しかし、これを否定する声は昔から根強くあった。
「城から流れ出る横内川は幅も狭く浅いから、船が通ったとは思えない」
「水落ではドドーッと凄い音を立てて水が落ちていたから怖かった」
現在の「水落」です。
ここで「船の向きを変えて横内川を出入りした」とされてきたのだが…。

清水湊は江戸時代以前は「江尻湊」といった。
そこから繋がる巴川もかつては、「江尻川」と呼ばれていた。
鎌倉時代にはこの川を経由して、上流部の村々から鎌倉へ木材が送られ、
江戸時代を通じて年貢米を積んだ船が下った。
江戸初期には、
駿府築城に使う石材や木材が、清水湊➡巴川➡十二双(社)川を通り、
城近くの熊野神社の船着場まで運ばれた。
※「十二双(社)は、熊野神社のこと)
明治27年、300年振りに巴川から拾い上げられた城の石垣用の石。

江戸時代半ばごろにも十二双川を利用した記述が名主日記に出てくる。
この十二双川は川幅が広かったものの、
巴川の船着場「上土」の上流部に位置していたため、
町の商人たちは駿府への最短距離の、
上土に直結した「横内川」の開削を望み、何度も幕府に嘆願書を提出。
現在の横内川は暗渠となり、石碑だけが残っている。

しかし、巴川を生活に利用していた村の郷土史2誌を見ると、
横内川の通船は実現しなかったようだ。
2誌はこう書いている。
「江戸の初め、城の水を放流するために横内川を掘削した」
「慶長7年の武徳編年集成に、江戸初期、通船のための拡幅工事を
巴川側から試みたが、出水多く一日で断念したとある」
「その後何度も横内町の商人たちから拡幅開削の嘆願書が出されたが、
この川を農業用水に使っていた周辺農民たちから、
水が使えなくなれば年貢米に支障をきたすとして反対され実現せず」
「江戸末期の天保14年、水野忠邦の天保の改革で、巴川から横内川への
通船路の開発が企画され、巴川側から200間掘り進んだところで、
翌年の水野失脚によりとん挫」
このことは川の石垣用の石の供出を命じられ、工事がとん挫したため
石を捨てざるを得なかった東村の名主日記にも見える。
今も旧東村の山上に残る石切り場跡。写真は放置された矢穴のあいた石。

結局、「この一件は未完の終結となった」と、2誌とも書いている。
では通船の代わりにどんな手段で清水湊から駿府へ物資を運んだのか。
その答えを10年ほど前に郷土史家が「定説に挑む」の講演で、
「牛車が隊列を組み、別ルートの陸路で運んだ。
今もその道が牛道として残っている」と明かし、
「巴川➡横内川運河は幻に終わった」と、結論付けている。
この「牛車」で陸送という運搬は、経費も時間もかかる。
横内川経由なら駿府へは最短距離で、輸送にかかる負担は少なくて済む。
横内町の商人たちが幕府にたびたび「横内川の拡幅開削」を嘆願したのは、
これが大きな理由であったという。
隊列を組んで牛道を行く牛車。

「東海道便覧」
駿府城の絵図はいろいろ残されているが、「船着場」の記載はない。
また、発掘調査に携わった方への問い合わせでは、
「雁木跡は出てこなかった」とのお返事をいただいた。
船着場とされてきた場所は幅が狭く、鍵型に折れ曲がっている。
青丸が「水落」。茶丸の鍵状の水路が「船着場」とされてきた「御水門」。
黄丸は「東御門橋」。ここと御水門との間に「米蔵」があった。

なぜ鍵状の水路にしたかについて、こんな説がある。
本丸の堀の水が溢れないよう調整する必要があり、
一気に流すことのないよう鍵状にした。また侵入者を防ぐための工夫。
水路の形状や流域の郷土史の記述から見て、
私は、「船の航行はなかった」との思いに至らざるを得なかった。
しかし、今なおネット上や城のボランティアガイドさんたちは、
「清水湊と駿府城の間に船が行き来していた」ことを拡散し続けている。
静岡市では駿府城の発掘調査に熱心で、
このたび長年の夢だった「静岡市歴史博物館」がオープンした。
この「通船はあったか、なかったか」への明確な答えを、
市では出すべきではないかと私は思っております。
また、どなたか、ご教示いただければ幸いです。

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いまだに引っかかっているのが、「横内川の通船説」です。
著名な郷土史家や歴史家の先生が著作などで、
「駿府城本丸と清水湊は、湊➡巴川➡横内川を経由して繋がっていて、
御城米などを積んだ船が三の丸の「水落」から二の丸の堀へ入り、
船着場で荷揚げして米蔵へ納めた」
と主張しています。
そしてこれが「定説」となって、今もネット上などで拡散されている。
堀に架かる東御門橋からみた高麗門。この門と御水門の間に米蔵があった。

しかし、これを否定する声は昔から根強くあった。
「城から流れ出る横内川は幅も狭く浅いから、船が通ったとは思えない」
「水落ではドドーッと凄い音を立てて水が落ちていたから怖かった」
現在の「水落」です。
ここで「船の向きを変えて横内川を出入りした」とされてきたのだが…。

清水湊は江戸時代以前は「江尻湊」といった。
そこから繋がる巴川もかつては、「江尻川」と呼ばれていた。
鎌倉時代にはこの川を経由して、上流部の村々から鎌倉へ木材が送られ、
江戸時代を通じて年貢米を積んだ船が下った。
江戸初期には、
駿府築城に使う石材や木材が、清水湊➡巴川➡十二双(社)川を通り、
城近くの熊野神社の船着場まで運ばれた。
※「十二双(社)は、熊野神社のこと)
明治27年、300年振りに巴川から拾い上げられた城の石垣用の石。

江戸時代半ばごろにも十二双川を利用した記述が名主日記に出てくる。
この十二双川は川幅が広かったものの、
巴川の船着場「上土」の上流部に位置していたため、
町の商人たちは駿府への最短距離の、
上土に直結した「横内川」の開削を望み、何度も幕府に嘆願書を提出。
現在の横内川は暗渠となり、石碑だけが残っている。

しかし、巴川を生活に利用していた村の郷土史2誌を見ると、
横内川の通船は実現しなかったようだ。
2誌はこう書いている。
「江戸の初め、城の水を放流するために横内川を掘削した」
「慶長7年の武徳編年集成に、江戸初期、通船のための拡幅工事を
巴川側から試みたが、出水多く一日で断念したとある」
「その後何度も横内町の商人たちから拡幅開削の嘆願書が出されたが、
この川を農業用水に使っていた周辺農民たちから、
水が使えなくなれば年貢米に支障をきたすとして反対され実現せず」
「江戸末期の天保14年、水野忠邦の天保の改革で、巴川から横内川への
通船路の開発が企画され、巴川側から200間掘り進んだところで、
翌年の水野失脚によりとん挫」
このことは川の石垣用の石の供出を命じられ、工事がとん挫したため
石を捨てざるを得なかった東村の名主日記にも見える。
今も旧東村の山上に残る石切り場跡。写真は放置された矢穴のあいた石。

結局、「この一件は未完の終結となった」と、2誌とも書いている。
では通船の代わりにどんな手段で清水湊から駿府へ物資を運んだのか。
その答えを10年ほど前に郷土史家が「定説に挑む」の講演で、
「牛車が隊列を組み、別ルートの陸路で運んだ。
今もその道が牛道として残っている」と明かし、
「巴川➡横内川運河は幻に終わった」と、結論付けている。
この「牛車」で陸送という運搬は、経費も時間もかかる。
横内川経由なら駿府へは最短距離で、輸送にかかる負担は少なくて済む。
横内町の商人たちが幕府にたびたび「横内川の拡幅開削」を嘆願したのは、
これが大きな理由であったという。
隊列を組んで牛道を行く牛車。

「東海道便覧」
駿府城の絵図はいろいろ残されているが、「船着場」の記載はない。
また、発掘調査に携わった方への問い合わせでは、
「雁木跡は出てこなかった」とのお返事をいただいた。
船着場とされてきた場所は幅が狭く、鍵型に折れ曲がっている。
青丸が「水落」。茶丸の鍵状の水路が「船着場」とされてきた「御水門」。
黄丸は「東御門橋」。ここと御水門との間に「米蔵」があった。

なぜ鍵状の水路にしたかについて、こんな説がある。
本丸の堀の水が溢れないよう調整する必要があり、
一気に流すことのないよう鍵状にした。また侵入者を防ぐための工夫。
水路の形状や流域の郷土史の記述から見て、
私は、「船の航行はなかった」との思いに至らざるを得なかった。
しかし、今なおネット上や城のボランティアガイドさんたちは、
「清水湊と駿府城の間に船が行き来していた」ことを拡散し続けている。
静岡市では駿府城の発掘調査に熱心で、
このたび長年の夢だった「静岡市歴史博物館」がオープンした。
この「通船はあったか、なかったか」への明確な答えを、
市では出すべきではないかと私は思っております。
また、どなたか、ご教示いただければ幸いです。

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