fc2ブログ

今さら …83

田畑修一郎3
12 /19 2022
武雄が送金を止めた。
覚悟はできていたから、「ああ、そうなの」と。

唯一、危惧したのは次男への送金中止だったが、幸いこれは続いた。

3年に進級するとき1年休学して、雄二はアメリカへ留学した。
その交渉もすべて雄二自身がやり遂げた。

「母親」を卒業できたと私は胸を撫でおろした。

離婚届の提出は1年先延ばしになったけれど、辛抱辛抱。


だが、それまでの数年間も、武雄には翻弄され続けた。
縁を切るのは容易なことではない。


DSC00517.jpg

送金を止められてから2年後、
大阪の大介からの電話で、武雄の母親が亡くなったことを知った。

大介が言いにくそうに聞いてきた。
「葬式にはお前ら二人だけで来い、
お母さんは来る必要がないって言われたけどどうする?」

「来るなと言うんだから行かないよ」と返事をしたら、
「じゃあ僕らも行かない」と、なんだか明るい声できっぱり言った。

あちらの家とはもう長い間、やりとりがない。

義兄、義姉と母親は長い間、3人で固まって生きてきた。
末っ子の武雄はそんな家庭を嫌い、私との結婚を理由に家を出たが、
結局、離れられなかった。

そして今度、一家の大きな要(かなめ)だった母親を失ったことで、
彼らだけに通じる「仮想の家」が崩壊した。

かつて義姉が私に話した。

死んだ父親の二郎は新聞記者で母親はお琴の名手、
義兄は優秀な大学を二つも出て、会計士の国家試験のため勉強中。
昔は武蔵野の広大なお屋敷に住んでいた、と。

だがそれは全部ウソだった。
真実は二郎の弟の田畑修一郎が書いた小説の中にしかなかった。

私が納得した唯一の真実は、
父親譲りのあの笑ってごまかす「エベッタン笑い」を、
兄、姉、弟の3人とも継承していたことだけだった。


虚構の家が母という演者の一人を失って、終焉を迎えたのだ。

義兄も義姉もとうに還暦を過ぎたはずだが、
私は14、5年前の顔しか知らない。

そのときも唐突に、
「うちへは武雄と孫さえくればいい。あんたは来なくていい」と言われたが、
私は「秘密」を共有できる「身内」ではなかったのだろう。

DSC08780.jpg

それから2、3か月たったころ、夜、突然、武雄から電話が来た。

「会ってほしい」と言う。「どうしても会って話を聞いてほしい」と。

「お断りします」と伝えても、
「玄関でもいいから。聞いてくれるだけでもいいから」と必死で頼んでくる。
やむなく「それなら」と承諾した。

夜中の1時過ぎ、インターフォンが鳴った。
高速を飛ばしてきたはずだが、車の音がしなかったのは、
少し離れたところへ置いてきたためだろう。

武雄は「金がない」を理由に、私の入院費を払わなかった。
だがその陰で、M江とお揃いのバイクを買い、
二人でキャンプや遠出のための車を買っていた。

その後ろめたさを今も引きずっているのかもしれないとも思った。

ドアを開けるとオドオドした武雄が、闇の中に立っていた。

居間へ戻る私の後をよろよろしながらついてきたが、
部屋の入口に来ると崩れるように座り込んだ。

「葬式に大介も雄二も来なかった」
「……」
「やっとわかったんだ。家族がどんなに大切かって」
「……」
「元に戻りたい。家族として戻りたい」

なんと身勝手な、と私は呆れた。
私は胸の中で叫んだ。

武雄さん、あなたは忘れたの? 

あの奈良の雨の日や木枯らしが吹いた夜、バイクで引きずり回したことを。
M江に結婚を迫られて交通事故に見せかけてお前を、
と告白した東京のアパートでのあの日のことを…。

私はあの瞬間、恐怖の極限を突き抜けて、見るものすべてから色が抜けた。
未だにセピア色の、すべてが緩慢と動く世界にいるんだよ。


すごく苦しい世界だよ。

DSC00135.jpg

一番安心だと思っていた人が実は一番危険な人だと知って、
あれから誰かと同じ部屋に寝るのが怖くて、
部屋にはいつもきっちり鍵を掛けなければ眠れなくなった。

30代40代という、人生で一番華やかで充実したはずの時代を、
あなたのせいで暗く苦しく、みじめに過ごしてきた。

子供たちが小・中・高という一番親を必要とした時期に、あなたはいなかった。
いなかったのではなく、女に入れ込みこれ見よがしに醜態を見せ続けた。

それを葬式に誰も来なくて恥をかいた、すごく惨めだったから、
また家族に戻りたいとは。

もう戻れないんだよ。
居場所を捨てたのは、ほかならぬあなた自身だし、私はもうまっぴら。

私は奥のソファに座り、終始無言で真っ直ぐ武雄を見ていたが、
彼はそんな私を一度も見ることもなく俯いたまま、
ひたすら「戻りたい…」と呟いている。

しばらくの沈黙の後、
「いっぱい言うことがあったけど、言いたいことがわからなくなった」

そう言いつつ、ハァーッと一つ、大きなため息をついた。

それからのろのろ立ち上がると、ションボリ玄関を出て行った。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村
スポンサーサイト



アポイント …82

田畑修一郎3
12 /16 2022
夜遅く帰宅すると、けたたましく電話が鳴っていた。
離れて暮らす息子たちに何か起きたのかと、慌てて受話器を取った。

いきなり、怒鳴られた。武雄だった。

「お前、なんだ!」
「はぁ?」
「勝手なことしやがって」

武雄とは、
今後の生活費の約束と不動産登記の名義変更の書類に署名してもらった
あの日以来、会ってはいない。

あれからすでに3年はたっているし、電話で話すことは全くなかったので、
私は何を怒っているのかサッパリだった。

DSC00225.jpg

黙っていると、武雄がまた怒鳴り出した。

「金借りようとしたら、断られたんだよ。不動産担保に金を…。
そしたら相手が言ったんだよ。
貸せません。もう奥さんの名義になっているからって」

私はアッと声を上げた。やっぱり武雄は…。


あのときの私の決断は間違ってはいなかったんだ。
こういう日が来ることを危惧していたからこそ、決断したんだもの。

それが現実となったんだ。
私の予測は間違ってはいなかった。

よかった、本当によかった。嬉しさが込み上げてきた。
即・行動に移したことは、私としては上出来だったではないか。

あの日の夜の武雄のヘラヘラ顔が鮮明に浮かんできた。

「どうせ、こいつは何もできないヤツだから」


そういう顔をしていた。

私は笑いたくなるような高揚した気持ちを抑えて、大きく深呼吸した。

電話の向こうから、今まで耳にしたこともない憎々し気な声がした。


DSC00293.jpg

「勝手なこと、しやがって。
名義の変更なんていつしたんだ! 俺は何も聞いてない!」

「忘れたの? 書類に署名押印したのを…」

そう言うと、武雄はグググッと妙な声を出したまま、黙り込んだ。
私は大声で笑い出したくなるのを抑えて、ふふと小さく笑った。

危なかったなあ。
あのままだったら、この家を追い出されて私は路頭に迷うところだった。

この人はあのときのことを本当に忘れてしまったのだろうか、
それとも、
まさか、本当にやるとは思わなかったのにやったとでも思ったのか。

でもそんなことは、もうどうでもいい。
私は走り出したんだ。
「守りきれた」ことへの満足感が全身を巡り、「安堵」でクラクラした。

武雄の罵詈雑言は止むことはなかった。

私はせめてもの義務のように、黙って聞いていた。

やがて落ち着きを取り戻した武雄が別のことを言いだした。

「こんなことをされたんだからな。送金する必要なんてないだろう。
今後一切、送金は止めるから。
いいな! もう金は一切、送らないからな!」

その言葉通り、こちらへの生活費はピタッと止まった。
それはいい。覚悟の上だ。


DSC09582.jpg

ただ次男は大学生で、卒業までまだ3年ある。
そのことが心配だったが、
入学当初から父親とのやり取りは自分ですると次男は宣言し、
今までその通りやってきた。

受験の時も入学するときも武雄は、自分のところへ泊めることもしなかった。
入学費用と息子の生活費以外は何もしてあげなかった。

東京暮らしが初めての息子なのにアパートの世話もしなかったから、
母親の私が上京して整えた。

どんなに不快な父親であっても、
雄二にはどこかで自分に目を向けて欲しいという願望はあったはずだ。

雄二は自分を鼓舞するように、元気に振る舞っていたが、
私と一緒にアパートを借り、寝具や暖房器具など買いながらも、
どこか寂し気な感じを漂わせていた。

同じ東京にいながら、ただ無機質に金だけ振り込んでくる父親。

金だけのつながりだと割り切っていても、父親に会いたくなったのだろう。

ある日、「おやじのアパートへ行ってみたんだけどさ」と、電話を掛けてきた。
「そしたら、おやじ、会いに来るときはアポイントを取れって追い返された」

そう言って雄二はカラリと笑った。つられて私も笑った。

笑いながら、泣いた。
父親に会うのに「アポイントを取れ」とは、あまりにも情けなかった。

CIMG4507.jpg

あの晩、不動産の名義を変えていたことで、
「今後一切、送金を止めるから」と、武雄は言った。

私だけならそれは覚悟の上だが、息子のものまで止めるとなったら、
そのときはただではおかない、M江にも要求するよと、私は心に誓った。

不完全ながらも最後まで父としての責任を果たせば、
息子はそれなりに「愛情」も「信頼」をも感じるはずだ。

それすら裏切ってしまったら、武雄自身のためにもならないではないか。
どうか最後まで「父」でいて欲しいと、私は祈るような気持ちで日々を送った。

その後、雄二から何も言って来なかったところをみると、
その細い糸はつながったままなのだろう。

父としての威厳を示すのは、もうそれしかないではないか。
それさえも切ってしまったら、雄二は真っ直ぐ生きてはいけない、
武雄にはせめてそれだけでも自覚して欲しかった。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

すいま、せ、え、えーん …81

田畑修一郎3
12 /13 2022
夫の武雄が生活費を送ると約束してから2年余たった。
雄二は東京で学生生活を送るようになり、私は一人暮らしになった。

そんなある日、電話が来た。
受話器を取ると、いきなり女がわめきだした。

「あんた、いつまでくっついているつもり!」
「はっ?」
「わかんないの? もう先生はあんたに愛情なんかないんだよ」

電話をかけてきたのはM江だった。


「1号だからって威張るんじゃないよ。先に結婚しただけじゃないの」

なんなんだ、この電話。1号って私のことか?


DSC08587.jpg

M江はさらに私をいたぶるみたいに、鼻先で笑いながら言った。

「専業主婦っていいねぇ。食って寝て。楽だよねぇ。
そういうアンタにしたら、
私みたいな働いている女はバカにみえるでしょうね」

うちへの送金やら子供たちの学費に追われて、
M江に回るお金がなくなったんだろう。

それで腹立ちまぎれにこんな電話を掛けてきたのだろう。
そう思いつつ、私からも声を掛けた。


「今まであなたは、うちへの送金を自分の口座に入れてたでしょ?
だからこちらは生活できなくてね、大変でしたよ」

そう言った途端、M江が一段と声を上げて怒鳴り出した。

「そうでしょうよ! そりゃあそうでしょうよ!
すいませんって言って欲しい?
言って欲しけりゃ、いくらでも言ってやるよ!


す、い、ま、せ、え、えーん
す、い、ま、せ、え、えーん、す、い、ま…

聞くに堪えられなかった。即座に受話器を置いた。

DSC09474.jpg

武雄はこんなのが好きなのか。30過ぎというのにガキみたいな…。

武雄が得意げに言ってたなぁ。
M江は大酒食らいで、
自分と競争みたいにタバコの煙を吐き出す女だと。

それから決まってこう付け足した。
「その点、お前ほどつまらない女はないね。酒は飲めねぇしタバコは嫌うし」

確かにね。そういう意味では二人はお似合いのカップルだと私は苦笑した。

「愛人」という言葉は好きではないけれど、私は楚々として控えめな、
昔風の「妾」という存在を思い浮かべたりしていたので、
M江にはがっかりした。


子供のころ、同級生にこぎれいな女の子がいた。

そこのご主人が町の芸者に産ませた子で、
生れ落ちるとすぐ本妻のもとへ連れてきて育てさせたという。

本妻さんにはたくさんの実子がいたが、分け隔てなく育て、
中学は実子と同じ町の私立へ通わせていた。

「一人だけ、顔立ちが違ってきれいな子」と母が言っていたのを思い出す。

「本妻さんは特別な存在だから、芸者衆もそれをわきまえていたんだよ」
と、母は感慨深げにつぶやいた。

田舎なのに、そんな境遇の子が身近に二人いた。

二人とも芸者の子供だったが、隠すことなく周囲も気にもせず、
子供たち同士も普通に遊んだ。

そういう原風景と「控えめな芸者衆」の記憶があったせいだろう、
M江がひどく下卑て見えた。


DSC08019.jpg

ふと、昔見た映画を思い出した。

あるカトリックの寄宿舎でのこと。
舎監は神に仕える厳格な教育者で、ことに生徒たちに厳しかった。

ところがその舎監がある日、忽然といなくなった。
やがて生徒たちは変な噂を耳にした。


なんでも先生は場末の劇場にいるらしいというのだ。

生徒のだれもが信じることができなかった。
しかし、相変わらず舎監は姿を見せない。
そこで数人の生徒たちが確かめようと、町へ出かけた。

噂に聞いてきた場所は、いかがわしいストリップ劇場だった。

「まさか、あの先生がこんなところに」と、少年たちは戸惑うものの、
やはり確かめようということになり、楽屋らしき暗がりに忍び込んだ。

暗がりの中に光が漏れている部屋があった。
そこから、女の怒鳴り声が響いていた。

これ以上ない卑し気なしわがれ声で女が怒鳴っている。

「この役立たず!」

恐る恐る覗いてみると、
下品な衣装の踊り子らしい年増女が、鞭を片手に仁王立ちしている。
そしてその前には、ピエロ姿の男がいた。
男は床に這いつくばって、鞭で打たれていた。

しかし、
そのピエロの男こそ、あの舎監の先生だったのだ。

女が鞭を振るうたびに風を切るビュワとした音と、
男を打つピシッとした音が痛々しく響き、生徒たちは震え上がった。

だが、女の鞭を受けるたびに、
先生の顔はこれ以上ないという喜びに溢れていた。

そんな映画だった。

20220512_102719.jpg

マゾ体質の舎監だったんだろうと言ってしまったら身も蓋もない。

ただ、人は何かをきっかけに、
今までのその人からは想像もつかない方向へ行ってしまうものだなと、
そんな思いにとらわれた。

それから間もなく送金が滞りがちになった。

私は構わず、
「今月はまだ振り込まれていないんですが?」と電話した。

以前の私だったら、自分でなんとかしなくちゃと無理をしたが、
「まだですか?」など言えるようになっていたし、
武雄は武雄で「実家から借りれば…」などと言わなくなった。

「も、もうちょっと待って。必ず送るから」

その言葉通り、振り込んできた。

だがそれも長続きはしなかった。

2世帯分の出費に二人の子どもの学費や生活費で、
いくら今を時めく週刊誌のライターでもさぞかし大変だろうと想像がつく。

だが、私は同情などしなかった。

「東京でみんな一緒に暮らす」という提案を退けたのは、
ほかならぬ彼自身だし、
たとえ武雄が、今、そう願ったところで、時すでに遅かった。

そんなことがあってほどなく、その武雄から電話が来た。

怒り狂った電話だった。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

カモメ …80

田畑修一郎3
12 /10 2022
この自分がまさかDV被害者だったとは、思いもしなかった。
思いもしなかったが、
あの不可解な暮らしの原因がはっきりしたことで、私は「道」を見つけた。

労働基準法を逸脱した職場であれ、私は居場所を得てスタートを切った。
そして、
長男は大阪の大学へ進み、私は次男の雄二との二人暮らしになった。

自分では明るいスタートだと思っていたものの、
過重労働と近所の主婦たち、のちに男たちまで加わっての嫌がらせが始まり、
私は新たな重いものを背負うはめになった。


そんなこんなで口数もすくなくなり、
いつもピリピリしていたのを自覚してはいた。

そういう母親を見て、高校生になった雄二は、
なにかと明るく振る舞い、プレゼントまで贈ってくれるようになった。


次男がそっと差し出したオルゴール。ねじを巻くと音楽とともに花が揺れる。
今も大切に持っている。
CIMG5787.jpg

疲れ切って暗い顔をして帰宅し、
打ちひしがれ怒りにただ黙って耐えている母親を見て、
自転車を走らせて町までプレゼントを買いに行った雄二。

あの時私は、内心、ふわっとして泣きたいくらい嬉しかったのに、
そのプレゼントを表情一つ変えず無言で受け取っていた。


なんてダメな母親だったのかと、
こうして落ち着いた老後を迎えた今頃になって、いたたまれなくなる。

あの子は乏しい小遣いの中から買ってくれたのに。

店員は思ったことだろう。好きな女の子にあげるんだなって。


カモメのブローチをもらった。
アクセサリー売り場で一生懸命、選んでくれたに違いない。

「お母さん、大空をゆったり舞って!」

そう伝えているように思えた。
そうなろうと、仕事へ行くとき必ずつけていった。


いつもバッグにつけていた名入りの飾りは、どこへ行ってしまったんだろう。
CIMG5790.jpg

夕食は帰りがけに買ってきた出来合いの弁当が多くなり、
休日も朝から晩まで飛び回って家を空けていたのに、
あの子はグチひとつ言わなかった。

いくら頑張っても父親の役目はできなかったが、
雄二はこの不自然な「母子家庭」を懸命に支えてくれた。


京都の修学旅行の土産。赤とブルーの刺繍が施された小銭入れ。
もったいなくて、とうとう使わずじまい。
CIMG5792.jpg

そういえば制服はどうしていただろう。

入学したときに誂えたことは覚えているが、
成長とともに買い替えたかどうか、さっぱり記憶にない。

新興住宅地の中でも一番少ない班の11軒に、
同級生や似通った年齢の子供がそれぞれ二人ずついた。

雄二の高校が決まったら、近所の主婦たちが路上で騒ぎ出した。


「あそこだけがいい高校に入って…」
「裏から手をまわしたんじゃないの?」

そういう主婦たちの中を朝晩、自転車で走り抜けていた雄二。

その雄二が後年、「あそこは嫌なところだった」と、ポツリと言ったとき、
自分のことに精いっぱいで、わが子の苦悩を知ってあげることも、
寄り添うことさえしてこなかった自分の愚かさに、後悔ばかりが沸いた。


私が長期入院していたとき、
長男の大介は高校3年生、雄二は中学3年で、ともに受験を控えていた。

父親不在、お金のない中、二人で食いつないでいた。
受験生の母親らしいことは何もしないまま、二人は自力で進学した。

その私たち母子をこうして攻撃する。なぜだろうと思った。

周囲の主婦たちに何か言われるたびに、
自分に落ち度があるのかと思ったり、

誠実な態度でいれば、いつかはわかってくれるなどと思っていたが、
すべて無駄だった。


DSC08105.jpg

ところが3年後、再び、近所が騒ぎ出した。

全く付き合いのないS家の主婦が突然訪ねてきてこう言った。

「お宅の雄二くん、どこの大学へ行きました?」

何言ってるんだろうと戸惑っていると、いきなり大声で、
「うちは一応、名のある大学ですから」と言い放って出て行った。

それをどこかで見ていたのか、別の家の主婦が告げ口に来た。


「あの人ね、高校受験のとき、お宅の雄二くんに負けたんで、
わざわざ自慢しに来たんだよ」

「KさんとことTさんとこ、
ほら、入れる高校がなくてどっか遠くへ行ったでしょ。
それが今度はこう言ってるんだよ。
大学へやるお金はいくらでもあるけど、本人は専門学校希望なのでって。
ふふふ、負け惜しみだね」


負けたとか勝ったとかって、何考えているんだろう。

DSC08578.jpg

新興住宅地へ家を建てるもんじゃないということは、以前からよく耳にした。

ここは駅からバスで30分もかかるどん詰まりで、
周囲は純農家が点在する寒村だった。

その村の丘に目を付けた業者が宅地開発して、その頃では珍しい
ガスの集中供給と水洗トイレ完備の「高級住宅地」として売り出した。

元からの住民たちは私たちを「新住民」と呼び、
「新住民」たちは「旧住民」を、「ボットン便所の遅れた人たち」と言い、
交流することはほとんどなかった。

ところが入居してすぐのころから、転居する家が出始めた。

そんな一人と偶然、町で出くわしたとき、彼女がふと漏らした。


「あそこはホントにいやなとこだった。
うちの子が付属小へ行っているだけで、嫌がらせを受けて…。

ああいうところって親の年齢がみんな近いから子供も同級生ばかりでしょ。
いやでも競争心むき出しになるのよね。
やっと手に入れた家だったけど、あそこを出てホッとしています」

公務員、勤務医、大学教授、教師に中小企業経営者、
そんな人たちが大半だった。


DSC09925.jpg

「干してある布団の前で、近所の主婦が集まって、
この布団は安物だなんて言いあったり…。

お宅のご主人、どこへお勤めですの? 係長さんかしら? 
うちのは一応、課長ですけどなんて言ったりね。

あそこは他人と比較する人ばかりだった。
自分になくて隣にあるときは妬む、逆の場合は威張るのよね」

そう言ってその人は笑った。

「そういえばうちも転居早々、エアコンなんていらないよねなんて、
はす向かいの夫婦がわざわざうちの前へ来て大声で言ってて…」

あのころの田舎ではエアコンがまだ珍しいころで…。

「エアコンで悪く言われて、車を持っていないことでバカにされました」
そういうとその人が、「そうそう、それよ」と笑った。

「お宅は部屋がいくつありますの?って聞かれたことも」と言ったら、
「うちもやられた」とまた、笑った。

そんな住宅地で、自治会役員による巨額の横領事件が発覚したのは、
それから7年後のことだった。



(;_;)ーーーーー悲しいなぁーーー

長野市で「子供の声がうるさい」という苦情を受けて、
児童公園の廃止を決めたという。

子供の声がしなくなった世界を想像してみて欲しい。

昔はいたるところで、もっとたくさんの子供の声がしていた。
誰もうるさいなんて思わなかった。
だって、子供は笑顔を運び、元気をもたらし、未来を見せてくれるから。

近くの保育園から鼓笛隊の音楽が聞こえてきます。

児童館の運動場では「見守り隊」のおじさんおばさんたちのもと、
一輪車やサッカーや追いかけっこの子供たちの歓声が響いていますが、
誰もが自然なことと受け止めています。

乗り物の中でぐずる幼児を気にするママや、集合住宅で音を立てさせないよう
子供を叱るお母さん。みんなビクビク暮らしている。

こんなんじゃあ、子供は育ちません。
息子たちのころは一学年300人もいた児童は、今は、わずか60人。

うるさいと思わず、そうした子供たちの「見守り隊」になってやって欲しい、
そう願わずにはいられません。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

私も働いた、働いた …79

田畑修一郎3
11 /25 2022
「赤城の工房へいらっしゃいませんか」

俵さんは私に何度もそう呼びかけてくださった。
「女性の自立を支援する」お仲間たちからも、お誘いの手紙を頂戴した。

だが私は行かなかった。
行かなかったというより、行けなかった。

まだ次男は大学生で離婚まで間があったから離婚しないままだったし、
なによりも多忙だった。


新聞社では使い勝手がよかったのだろう。
フリーの記者だったが、あれこれ仕事を背負わされた。


登山者のゴミやし尿問題の取材のため富士山へ。(左)  
山岳会からの依頼で初心者登山の引率者の一人として南アへ。(右)
ついでに新聞の連載記事にした。
img20221118_09394328.jpg

若い記者を休ませたいからと言われて、
大晦日やお正月にも私はカメラを持って町を歩き回った。

宿直しかいない支局で暗室にこもり、写真の現像と紙焼き。
薬品で爪がふやけた。

どんど焼きや花火は夜間の取材になる。
山村の民俗芸能の神楽や「ひよんどり」は、真冬の真夜中。

夏の特集の水辺や秘境の取材には交通の不便さと危険が伴った。

左は、旧富士郡芝川町瓜島のどんど焼き。
集めた竹やお飾りは2トントラック2台分+軽トラック6台分。
30本の孟宗竹の割れる音が闇夜に轟いた。

右は浜松市新居の「手筒花火」
img20221118_09520139.jpg img20221118_10190563 - コピー

長期連載がいつも紙面を埋めた。在籍していた14年間途切れることなく。

大井川中流域の旧中川根町へ。郷土芸能の「鹿ん舞」をカメラに収め、

篝火がゆらめく神社の境内では、少女たちが踊る「ヒーヤイ踊り」を観た。

すべての取材を終えて大井川鉄道の最終便を、誰もいない駅のホームで待った。


この日懸命に舞ってくれた少年たちももう40代。元気にしてるかなぁ。
img20221118_10190563.jpg
毎日が戦争だった。

県内各地の演劇人を訪ね歩き、アーティストに会いに行き、
紀行文を書くために旧東海道を歩き、大井川を海から源流部まで遡り、
川と共存しつつ暮らす人々を訪ねた。


熊の取材には大井川奥地の猟師さんを訪ねて熊鍋をいただいたり、
広島と島根の県境の山村で開催された「世界クマフォーラム」にも出かけた。

左は、調査用の罠にかかり、発信器をつけられた熊。(提供写真)
ほかに、
巣穴で子育て中の熊を撃ったのだろう。頭に銃弾を受けて即死した母熊が、
赤ん坊を胸に抱いている写真があった。赤ん坊は生きていた。

右は林業家と。
「山持さんは金持ちという時代は過ぎたが、
林業は都市の水源を守る重要な仕事」と熱く語った老林業家。

この方は著名な現代書家・柿下木冠氏の父上。
img20221118_09363007_202211181227230e0.jpg

こんなこともあった。

朝日新聞阪神支局襲撃事件と、
それに続いた同新聞静岡支局爆破未遂事件の2、3年後、
私がいた支局に、突然、関西弁の男が入ってきた。

眼光鋭く、全身から異様な威圧感を放っていた。

危険を察知したデスクがとっさに机の下にもぐって隠れたので、
その場にいた女性事務員と私とで対応した。
男は全国版の記事の苦情を地方支局に言いに来た。

「あの記事はなんだ! 朝日のようになりたいかっ!」

右手に下げた紙袋から何が飛び出すかヒヤヒヤした。


男が立ち去ったあと、机の下からデスクが顔を出した。
デスクがデスクに隠れるなんて、シャレにもならない。

女を盾に自分だけ逃げただけでも恥を知れ!と思ったが、
顔を出したとき発した「大丈夫だよ、うちはウ〇ク新聞だから」に、
女二人、思わず、「はァ?」

それを言っちゃァ、オシメーよ。

ともかく事件にならずに済んだが、
私はこの一件以来、関西弁を聞くと、ギクリとするようになった。

支局長はほぼ2年交代で、東京の本社から赴任してきた。
ほとんどが生え抜きだったが、
一人だけ、頭の薄いぶよっとした、いかにも場違いなジイサンがやってきた。

地方でミニコミ誌をやっていたという男で、これがやたら威張った。
無能なヤツほど威張るというけれど、その通りだった。

どうやら私が目障りだったようで、
なにかにつけ「ミスしたら即刻クビですから」と脅す。

あげくにこんな張り紙まで張り出す始末。(下記)
誰が見ても私に当てつけたもので、単なる嫌がらせだとわかっていた。

ある日、支局へ入った途端、このジイサン、鬼の形相で怒鳴った。
「あんたの記事で県庁の偉い役人から抗議を受けた。クビだっ!」

私は笑いながら、「そんなら、私が直接、話をつけてきますよ」と。
帰社後、「役人さん、どうか穏便にと低姿勢でしたよ」と言ったら、
コソコソと局長室へ隠れて、以後、大人しくなった。

こいつは一年ほどでいなくなった。


張り出した年月日は「1998年4月2日」
私は大声は出さないが、陰にこもるタチだから、いまだに持っている。(笑)
img20221124_20350950_202211242046592b4.jpg
img20221124_20342046.jpg
本社から、
「著作権を会社に譲れ」と再三、言われたがこれだけは突っぱねた。

県内版の大半を書かせておきながら、
フリーという名目のまま、一文字5円だなどと生活保護費よりも安く使い、
今度は著作権をよこせとは、人をバカにしやがってと怒りが沸いた。

退社してからも「譲渡しろ」と手紙が来たが無視した。

あまりの労働形態に疑問を持ち、しかるべきところに相談したら、
「新聞社がこんなでたらめを。きちんと契約書を交わしなさい」と叱られたが、
私の立場は弱い。だからあきらめた。

しかし仕事は楽しかった。企画から原稿まで全部、任された。

任されたというより、小規模支局で新人記者ばかりだったから、
腰を据えての長期取材は不可能。そこを私が埋めた。

誰にも口出しされることなく、自由に取材し書きまくった。
名刺一枚でどんな人にも会えた。


沼津市の写真家と。
この写真はご長男が撮影してくれた。
img20221118_09325256.jpg

お会いしたアーティストは200人以上。
画廊、アトリエ、劇場と県内くまなく駆け回った。

普段は注目されないアマチュア劇団、70団体ほどを訪ねた。
「身内で細々と活動していたので、こんなふうに取材されるとは」と、
誰もが驚き、喜んでくれた。

でもそのすべてが、私の大きな糧となった。

何人かは鬼籍に入ったが、今も交流が続く人も。
テレビディレクターの息子の依頼で、ン十年ぶりに電話したら、
「お久しぶりです!」と。

覚えていてくれたんです。

胸がいっぱいになった。これが記者冥利というものか。

心に残る人は何人もいるが、
一番思い出すのはシェークスピア研究の第一人者の先生。

すでに大学を退官されて別の大学にいたとき、お訪ねした。

権威をまとわない朴訥な老学者で、
「ごちそうする」と嬉しそうに私を学食へ誘った。

先生はコッペパンとジャムを選んだ。
「これ、おいしいよ。ぼく、いつもこれなんだよ」と。
コッペパンってまだあったんだと思いつつ、私も同じものにした。

支局へ帰って事務員に話したら、フンとした表情でこう言った。

「ああ、その先生の隣りの人が言ってた。庭が草ぼうぼうで迷惑してるって」
私は即、こう言い返した。「だったら草を刈ってあげたら?」

子供のいない高齢の夫婦二人暮らしで、妻は介護施設に入っていた。
「施設の終了時間まで妻のそばにいるのが僕の一番の幸せなんだ」

そう言ってジャムをのせたコッペパンに噛り付いたので、
私も同じように噛り付いた。
ほんのちょっぴりでも、「父と娘」の時間になってくれたら、そう思った。

私生活では神楽があれば見に行き、国指定の盆踊りに参加し、
合間に登山雑誌の原稿を書くために山に登り、本を書き、テレビにも出た。

青春切符と地図だけ持ってローカル線の小旅行にも出かけた。
講演を頼まれて、遠く北海道まで出かけた。


未熟な私に飛び込んできた講演依頼。
大勢の聴衆を前にあがりにあがって…。

あのときの不出来をあの時来ていただいた皆様に謝りたい。
でもあの経験から多くを学び、その後は順調にいきました。
img20221118_09325254.jpg
摩周湖にて。

出身校の同窓会の理事にもなった。みんなを歴史散歩に連れて行った。

時には新人記者の代わりに記者会見の席に顔を出し、
勲章受章者のインタビューや社会問題の記事も書いてきた。

取材相手が演劇人なら、伊豆の果てでも県西部の山間地へも行き、
芝居や人形劇を観た。

取材相手がアーティストなら、可能な限り展覧会を観、著作を読んだ。
一晩に2,3冊読んだら、心臓がバクバクしてぶっ倒れた。

画廊で開かれた展覧会とコンサートを取材。

イタリアへ絵の修行に行く友人のために芸大出身の声楽家たちが協力。
私も餞別代わりに絵を一枚買った。
img20221118_09325255.jpg

他社から自分の本の取材も受けた。
事前に「本をください」と言われたので送ったが、当日現れた若い記者から、

「ところでこの本には何が書いてあります? 忙しくて読む暇がなかったので」
と言われて、言葉を失った。

年下の当時のデスクから、たばこを買いに行かされた。

カラオケ、冠婚葬祭にも付き合った。

いやだなぁと言いながら、陶酔しております。
img20221118_09444690_0001.jpg

仕事が夜間に及ぼうが休日だろうが、私だけ手当は一切出なかったが、
真夜中の選挙報道も手伝った。

局長から「新聞購読の勧誘」を強いられて、
紹介されたおばちゃんの生命保険に入るのと引き換えに契約も取った。

だが、2回目の要請があったとき、
新人記者として赴任してきた女性記者に救われた。

「この会社は正社員でない人に、こんなことまで強制するんですか!」

そんな女性記者の一人とは、今も賀状のやり取りが続いている。

「お元気ですか? お体大切に」と、本当の娘のように案じてくださる。
たった1年しか一緒じゃなかったし、その間、会話はほとんどなかったのに。

きちんと見ていてくださったんだなぁと、またまた胸がいっぱいになる。

朝から晩まで必死で働いた。寝る暇もなかった。
ガン患者だったことなどすっかり忘れた。


疲労困憊して、
「もう人生を終わらせて楽になりたい」と虚ろになっていると、
いつもどこからか楽しいお誘いが…。


知人の遊び場の古民家です。廃村にただ一軒。
仲間が集まって、いろりで鮎を焼いたり蓄音機でレコードを聴いたり。
img20221118_09563323.jpg

市井の方から要職にある方までお会いするのだからと、
洋服にはお金をかけた。

ある晩遅くタクシーで帰宅したら、隣家の裏のドアがスーッと開いた。
ドアを細目に開けてそこの主婦がこちらを見ていた。

翌朝、ご近所さんが道端に集まって、聞こえよがしに言っていた。

「ねえねえ、夕べ、男と会ってきたらしいよ」


多忙を極めていたときも、
「山へ連れてって」というご近所さんの要望に応えてきた。

小雨がぱらつくと「こんな日に連れてきて」と文句を言われ、
まだ頂上ではないのに、「疲れたから帰りたい」と言われて引き返した。

当番でもないのに町内会の役も押し付けられた。

それでも悪口を言われる。
「誰もやりたがらないのに引き受けてバカみたい」

思えば子供のPTAの時もそうだった。

自分はいったい、何やってんだろう。

このバカさ加減に自己嫌悪に陥って不眠になった。
バスの中では涙をこらえ、支局に入るときはニコニコ顔で入った。

俵さんからの何度ものお誘いのすえ出かけたのは、
東京での「やきものの個展」だけだった。


東京在住の友人とお訪ねした。
img20221115_11065351.jpg

それから俵さんは乳がんになった。

だがそれも克服して、おっぱいを失った女性たちとグループを作り、
「1、2の3で温泉に入る会」を結成。

しかし、10数年後、肺がんになってこの世を去った。

「離婚を、世間やメディアはそれみたことか、
だから女が仕事をすればロクなことはない。
男は仕事、女は家庭。母親が出歩いていると子育ても失敗するぞ、と」

明るい顔を見せつつも苦悩を吐露していた。

そんな俵さんの大きさに比べたら、私など記者とはとても呼べない。
だが、同じ名の新聞社に在籍ということが私を安心させてもいた。

私はこの大先輩の赤裸々な告白と怒りと前向きな姿勢に、
どんなに励まされたことか。


本社から賞もいただいた。
img20221118_09542861.jpg

俵さんがこの世を去ってから今年(2022)で14年。

一人、モーツァルトを聴いて声を上げて泣いたあの赤城の家や工房は、
今は深い草に埋もれているという。

あんなにお誘いを受けていたのに、
とうとう赤城の家を見ることも、再びお会いすることもなく終わってしまった。

また後手に、と悔やんだが、でも、それで良かったと思うようになった。

贈られた本や手紙を開くたびに、
そこには、今なお「生きた俵さん」がいるのだから。

還暦を目前にしたとき、新聞社を辞めた。
14年間全力疾走で駆け抜けてきた。疲れた。心に空洞ができていた。
潮時だと思った。


写真を見ると一目瞭然。笑顔がない。もう覇気がないのがわかった。
このあとすぐ、新しい感動を求めてカナダへ出かけた。
img20221118_09444690_0002.jpg

俵さんは自著「五十代の幸福」を、
七転八倒していた四十代の私へエールのつもりでくださった。

あれから気の遠くなるような長い年月を歩いてきた。

「お見事でしたよ!」

私が駆け抜けた五十代を、俵さんは天国から笑顔で褒めてくださったと、
私は今も信じている。


ーーー想いあふれて

書き出したら懐かしいあの人この人のお顔が次々現れて…。
うらみつらみ、あれこれを辛抱強くお読みいただき、ありがとうございました。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞