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罠 …60

田畑修一郎2
08 /11 2022
退院した翌年は不気味な一年だった。

どんな困難であっても逃げない、ケリをつける、
そう決めて勇ましく歩き出したはずなのに、そうはならなかった。

自分はしっかりしているから大丈夫と思っていたが、
今まで通り、夫に振り回される情けない年になった。

大学生になった長男は、
父親のいる東京を避けるように関西の大学へ進み、
二男は高校生になった。

そして二男と私との二人暮らしが始まった。

あれは退院から4か月余りの4月末のことだった。

久し振りに東京から帰ってきた夫の武雄が帰って来るなり、
「大阪へ行こう」と言い出した。


私はてっきり、こう思った。

長男に会いに行こうとしているのだ。
新生活の手助けを何一つしなかった自責の念に駆られたのだと。


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ところが違った。

「ほら、お前が入院した時、親戚の医者が口利きしたんだろ? 
お礼に行くべきじゃないのか」

お礼? 何故、今? 

従兄弟は関西に住んでいた。
私はこの人とは東京にいたころ、1度か2度しかあったことがない。

まして武雄は会ったことも話したこともないのに、
こうも馴れ馴れしくわざわざ出向くってどういうことなんだろう。

「雄二を一人、家に残して行くことはできない」と言うと、
口辺を歪めて声を荒げた。

「今しかないんだよ。クソ忙しいのに一緒に行ってやるって言ってんだよ。
行くのか!行かないのか!」と凄む。

そうして凄んだかと思ったら、今度はご機嫌を取るかのように優し気な声で、
「オレが費用、全部出すからさァ」と、エヘラエヘラ笑った。

いやな笑い方だった。

今にして思えば、それは、
彼の叔父、田畑修一郎が小説の中で描いていた
武雄の父のあの「えべったん笑い」そのものだったのだが…。


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しかし、この強引さは何だろう。
費用はオレが出すって、夫婦なのに変ではないか。

なにかいやなものを感じて私は返事を渋った。

それに武雄は、私の従兄弟の勤務先をなぜ、知っているのだろう。

それだけではない。すでに先方に連絡済みだと言う。

ずいぶん後になって兄から聞いた。

「武雄君が電話して来て、
どうしてもお礼に行きたいから連絡先を教えてくれと言うので、
その必要はない。第一、妹は病み上がりじゃないか。
どうしてもと言うのなら、電話で充分だよと言ったんだ」

兄のその助言を無視して強引に行こうとするのは、やっぱり変だ。

ふと、あの手術直後の個室での出来事が頭をよぎった。

タンが絡んで呼吸困難になっていた私を、ただ見下ろしていた夫のあの顔。

看護師から「なぜタンを切る薬をあげなかったのか」と叱責されて、
私の胸にその薬を投げつけて出て行った、あの冷酷な顔を…。


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ここ数年、おかしなことばかり続いていた。

小学6年生だった二男が友人を連れて、
「ジャーナリストの自慢の父」に会いに行ったのに部屋に置き去りにされた。

友人の前でメンツをつぶされた二男の雄二が、ポツリと言った。

「友達が言うんだよ。君んちお父さん、愛人がいるんじゃないのって。
そんなに家に帰らないのは愛人がいるせいだって」

「愛人」という言葉を、まだ小学生の息子が口にした。

私はうろたえた。
そんな言葉を息子に言わせてしまって、どうしたらいいのか。

だがこの時も私はいつものように、沈黙を押し通した。

二男だけではない。

夏休み、東京の予備校に通うために
父の暮らすアパートへ出かけた長男の大介が、夜になると電話でこう言った。

「いつもぼく、独りなんだよ」

それからまもなく家へ帰ってきた大介は、父の部屋の鍵を私に出して言った。

「これはお母さんが持つべき鍵だから」


そう言って父の部屋の鍵を突き付けられたときも、
私は動揺を悟られまいと口を引き結んだままだった。


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私は長い間、夫の居場所も電話番号も知らせてもらえなかった。
おかしなことだと思ったし緊急の時どうしたら、という不安はもちろんあった。

だが、「俺をそんなに信用できないのか」と言う夫に逆らえなかった。

「お母さんが強く言えないから、ぼくらまで惨めな思いをする」
と、長男がうめいた。

その通りだと思ったし、このままではいけないとも思った。
きちんとしなければ子供たちに迷惑をかけてしまう。

ある日、勇気を出して夫に言った。
「もう私と一緒にやっていく気がないのなら、はっきり言ってください」と。

武雄は激怒した。

「お前はホントに何んにもわかっていないんだな。
オレが家に帰れないほど働いているのは、なぜだと思ってるんだ。
みんなお前たちのためじゃないか」

そうわめくとそのままプイと家を出て、そのまま戻って来なかった。

久し振りに帰宅した夫にすき焼きを出すと、
「肉の顔見るのは何カ月ぶりかなあ」という。

そういう夫の言動のなにもかもが芝居がかっていると感じたが、
そのときも私はまだ、
「帰れないほど忙しく働いている」という言葉を信じたい気持ちと、
「食べさせてもらっている」という負い目に囚われていた。

それに優しい時も確かにあった。
そんなことをぼんやり考えていた時、武雄の怒気をはらんだ声が飛んできた。

「行くのか! 行かないのか!」


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ハッと我に返ったとき、
「行きます」と言う言葉が口を突いて出た。


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無になる …59

田畑修一郎2
08 /08 2022
退院して間もなく、ふいの訪問客が増えた。
みんな初めて見る顔ばかり。

どこからともなく、わらわら湧いてきた。

押し売りではなかったが似たようなもので、宗教の押し売りだった。
子連れもいた。

この人たちの、人の不幸を嗅ぎつける嗅覚は犬も顔負けだと思った。

こちとら病み上がりだよ。しかも全く知らない人。
そういう輩が他人の家に押しかけるってどう考えても、まともじゃない。

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所属教団名を名乗る者はほとんどいなかったし、
「宗教じゃない」と言い張る者もいたが、雰囲気は同じ。

顔つきはみんな似たりよったりで、始終笑ってやたら自信にあふれていた。

かれらがゾッコンの教祖はいろいろで、
メシアだの救世主だのキリストの生まれ変わりだの、
東西の神さまのごちゃまぜだのって、

なんとまあ、「神さま」ってたくさんいるもんだなと驚いた。

「興味がない」と断ると、あっさり引き下がる人もいれば、
「そんな態度だからガンになったんだ」と、
どこで聞いたのか、「ガン」という言葉を使って捨て台詞を吐く「羊」もいた。

10歳ぐらいの子供が絵を示して、「これが理想世界です」と得意気に言った。
うしろにいた父親も得意満面で胸を張っている。

見るとライオンや虎や象などの猛獣と人間たちが、
仲良く広場に集まってニコニコ笑っている。

ちょっといたずら心が起きて、
「もしこのライオンが腹ペコだったら、僕、食われちまうよ」
と口に出掛かったが、無言で手を振ってドアを閉めた。

「イワシの頭も信心から」と言うのだから、あなた方の好きにすればいい。
だけど、子供だけは自由にした方がいいよ。

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どの人も善良そうで真面目そうで熱心で、
それで言うことは決まって「愛」「平和」「救済」

おいおい、愛だの救済だのと自信たっぷりに言うのなら、
ちょいと品がないけど、今の私の気持ち、お伝えしましょうか。

「同情するなら金をくれ!」

「信心しなければ地獄に落ちる」って、あんた、地獄を見たことあるの?
「先祖の因縁」って言うけどさ、
縄文の昔から考えたら、そりゃ、いろいろあるだろうさ。

私は今、地獄の真っただ中だけど、こう思ってる。
現実の出来事は現実の世界で解決するしかないんじゃないの?って。

現実に立ち、
これから自分の身に起きたことを一つ一つ解決していこうとしている私には、
こういう「クローン人間」はその対極にある人たちだ。

彼らは他人が作った「仮想世界」の住人たちなんだろうと思った。

その仮想世界でただ一人、「現実の世界」に生き、俗世を謳歌しているのは、
彼らが神と崇める教祖だけなんだろうなとも思った。

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人の冗談を真に受けては笑われ、頼まれ事は無理してでも引き受ける、
そういう私を見て、「どうしてキミは周りに遠慮ばかりしているんだね。
もっと自分を大事にしなきゃダメだよ」

と、人生の先輩たちから忠告されてきたトンチンカンで隙だらけの私が、
この長い人生の中で、
マルチやカルト宗教や詐欺を回避できたのはどうしてなんだろう。

単なる幸運なのか、それとも干渉され嫌いが幸いしたのか。

はたまた、
誘われて行った有名歌手のコンサートで、観客総立ちで熱狂している中、
独り冷めて座っていた私を見て友人は困惑したが、
そういう「乗れない性格」のせいなのか自分でもわからない。


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私は登山が好きだった。

ただ頂上を目指して黙々と歩くという行動に、
修行のようなものを感じてもいた。頂上についた頃、いつも思ったものだ。

「無になれた」と。

孤高を気取っていたわけではない。

どんなに大勢で登っていても、歩くのは自分自身だから孤になれる。
この瞬間のために私は歩いた。
だれに指図されたわけでも誰のためでもない。自分のために。

何も考えずただ歩く。ひたすら歩く。一歩、また一歩と。

花、木、川の音、鳥の声や風の音、
空や雲や踏みしめた大地のそのすべてに、私は精霊や命を感じつつ歩いた。

そうして、
解き放たれた心のすき間に自然からの恩恵を埋めていった。

下山した時、
俗世間から受けた垢や埃が浄化されて、新たな生きる力を獲得できたと思った。

流した汗、足の筋肉痛のひどい分だけ、
心身の迷いや苦悩や穢れが外へ押し流されたと感じた。


笊ケ岳登頂への途中の「幻の池」。消滅していた池がこの日は姿を見せていた。
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10代の頃は坐禅をやった。

夕方から夜間の参禅、明けの明星を背にした早朝参禅、
夏には緑陰禅をやった。

ただ座っているだけ。
誰かに強制されたわけでも、小難しい法話を聞いたわけでもない。

シンと静まり返った坐禅堂でひたすら座り続け、
時折り僧が打つ警策を肩に受けて、そうして「無」になり、現実へ戻った。

登山は坐禅に似ていた。
子供のころから群れることが苦手だったから、どちらも性に合った。

禅の「来る者は拒まず、去る者は追わず」がしっくりきたし、
なによりも、人を頼らず自分自身で決め、実行することが快感だった。

「自分でやるしかない」という母の言葉が、さらに現実直視へと私を促した。

退院した翌年はそのスタートの年となった。
だが、解決までの道のりは遠かった。


       
         ーーーーー◇ーーーーー

ーーー原爆投下で被ばくさせられた方々を悼むーーー

今年も「2度と過ちを繰り返させてはならない」と誓う日がやってきました。
私は夏が来るといつもこの写真を見ます。


「焼き場に立つ少年」 ジョー・オダネル撮影
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そして山の先輩だった広島の橋本さんを思い出します。

爆心地からほど近い場所で倒れたまま何日か過ごし、
探しに来た兄に発見されて奇跡的に助かったと何度も聞かされた。

背中一面のケロイドにもめげず、生涯独身で山を友として生き、
そして一人で世を去った。

子連れの鳳凰三山で知り合い、共に神奈川、広島の山を登った。
わが家へ泊った時は「もっと立派な家かと思った」と笑い、
彼女の家へ泊めていただいたときは「こんな小さな家で」と、顔を赤らめた。

動物園が大好きでひまさえあれば動物園へ通った。
小さな山にこれまた小さな手作りの山小屋を建てて住み、
「夕べは熊がきたらしい」と笑った。

原爆の話になると形相が変わったが、
くっついたままの手の指を庇いながら、グチをこぼさず明るく生きた橋本さん。
あの笑顔を思い出します。


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自分の骨壺をくわえて …58

田畑修一郎2
07 /30 2022
Gがわが家へやってきたのは、東京から転居してまもなくのことで、
長男が小学1年生、二男が2歳のときだった。

近くの酒屋の奥さんから、

「知り合いの家で困っているので、犬の子をもらってくれないか。
ほかの子はみんなもらわれていったのに、
1匹だけ残ってしまって。このままだと保健所へ連れて行くしかない」

そう言われて引き取ることにした。


Gに主役の座を奪われた二男
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連れてきた子犬は貰い手がなかったのもさもありなんという貧相な犬。
やせ細り、生まれながら老人みたいな可愛げがない子犬だった。

これは回虫がいるせいかもと思い、市販の虫下しを飲ませたら、
いやというほど虫が出てきて、
その後はもりもり食べるようになって、あっという間に美しい犬になった。


エアデールテリアとセッターの合いの子と聞いていたが、
そのどちらの性格も引き継いでいて、
忠実で従順、忍耐強く、温厚で聡明な犬になった。

なによりも子供が大好きで、
以後はずっと息子たちの一番の親友にして先輩、心の拠り所となった。


共に野山を駆け巡り、川遊びに興じ、
息子たちのグチや悩みのはけ口になり、安らぎを与えてくれた。


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頑健な犬で、共に暮らした14年間、
一度も病気もケガもせず、獣医の世話になることはなかった。

安楽死が、獣医の手に委ねられた最初にして最後となった。

私は恩を仇で返したのだ。罪は重いと思った。

自分の病気にかこつけて、
目も見えず爪も伸び放題にしてしまい、
老犬にもかかわらず、食事に気を配るのも私は怠った。


獣医さんにGの最期を委ねたあの日、
学校から帰ってきた二男の雄二は、空っぽになった犬小屋を見て、
すべてを悟ってくれた。

私に何も聞かず、私も何も話さなかった。


いつも二男に寄り添って。
「このごろお母さん、怒ってばかり。ねえG、聞いてる?」「聞いてるよ」
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翌年、私は市が毎年主催する動物慰霊祭の式典に参加した。

会場の市民会館には愛犬や愛猫、鳥などを亡くした人たちがたくさんいた。

壇上に上がった人たちが最期を看取った話をしたとき、
私はいたたまれなくなった。

こんなことで、
あれほど私たち一家に尽くしてくれたGへの贖罪になるわけがない。

バスを乗り継いで愛護館まで行き、慰霊碑に手を合わせたときも、
死んだあとになってこんなことをするのは欺瞞だと思った。

「幼稚園入園かぁ。がんばれよ」
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同じ町内に住むという主婦から、猛攻撃を受けたことがあった。

「うちの息子がお宅の犬に噛まれた。
そんな狂暴な犬を飼っているのは問題ではないですか」と。

「うちの息子」は中学生で、「塀を乗り越えて庭に入り」、犬が吠えたので
「石を投げたり棒で叩いた」。被害は「ズボンに歯の跡がついた」

さらに、主婦は語気を強めて言った。
「ズボンに穴があいただけで済んだけど、下手すりゃ命にかかわった」

見知らぬ中学生が塀を乗り越えて侵入したのなら、立派な犯罪だよなあ。
不審者を吠えたのなら、番犬としての務めを果たしたことになる。

例え犯罪者でも、肉を噛まないよう気を付けてズボンだけ噛んだのは、
Gの優しさ、思慮深さなんだけどなぁ。

近所の問題児がちょくちょく空き巣に入ったときは、
顔見知りゆえにシッポを振って出迎え、まんまとやられた。

どっちにしても、Gはホントに繊細で気のいい犬だった。

そういうもろもろの出来事を思い出すたびに、己の冷淡さがそれに重なった。

「おいらの自慢の次男坊がとうとう中学生になったんだぞ」と胸を張るG
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Gが逝って3年ほどたったころ、夢を見た。

灰色とも白色ともはっきりしない混沌とした中、
遠くから何かが駆けてくる気配がした。

音がしないのに、何かが懸命に駆けてくる。

その混沌としたモヤの中から、突然、Gが現れた。


見ると、口に何かを下げている。布でくるんだ丸いもの。

とっさに「Gの骨壺だ」とわかった。
Gは自分の骨壺をくわえて、私のところに駆けて来たのだ。

目は笑っていた。これ以上ないという優しさに満ちていた。

「G! G!」


そのGに向かって大声で叫んだ時、
目の前でGがパッと消え夢から覚めた。

Gはすべてを許して私のところへ帰ってきてくれたと思った。


Gをおんぶして
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勝手な思い込みかもしれないけれど、
「安心していいよ」と言ってくれているような気がした。

今でもあの夢のシーンはいつも私と共にある。


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安楽死 …57

田畑修一郎2
07 /27 2022
一家が崩壊する前兆みたいに、飼い犬のGがこの世を去った。

この世を去ったというのは正しくない。私が殺したのだ。

Gは私が退院して間もなく、泡を吹いて倒れた。
往診を頼んだ獣医さんから、心筋梗塞だと聞かされた。

注射を打つと、やがて呼吸が落ち着いてきた。

帰り際、獣医さんから、
「水を欲しがっても飲ませたらいけない。窒息死しかねないから」
そう言われたが、

欲しがってシーシー鳴くので口を濡らしてやると、
嬉しそうにペロペロ舐めた。

そのとき、Gの目から涙がひとつぶ、ポロっと落ちた。


ひそかに炬燵に潜ったけれど、頭隠して尻隠さず。
律儀に後ろ脚は窓の外だから、すぐばれた。

犬は戸外で飼うものという固定観念があったので、Gはいつも庭にいた。
でもいつも羨ましそうに中を覗いていた。

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見えない目から涙が…。

犬も涙を流すのかと驚いた。

同時に、自分の命の瀬戸際にあっても、
飼い主へ感謝を見せるGの真っすぐな性格に胸が締め付けられた。

うかつにも、私はGの失明に長いこと気付かなかった。

名前を呼ぶと小首を傾げ、
匂いの元を探るみたいに鼻を上向きにしてそろそろと歩き出し、
サッシの縁に体をつけて移動する。
そのしぐさを見て、私は初めて気が付いた。

Gは目が見えていないんだ、と。


思えばここ数年、自分や子供たちのことばかりに集中していて、
Gのことはほったらかしにしてきた。

私の入院中はみんな犬どころでなかったに違いない。

退院してきたとき、
犬小屋の横にGの排せつ物が山のようになっていた。

めったに入れてもらえない室内に、この日は許可されて
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その汚物の山を見たとき、せめて夫が片付けてくれていたらと思ったが、
留守の子供の心配すらしない人に期待するのは、しょせん無理な話だ。

こうした荒んだ家庭では、犬や猫を飼ってはいけないんだとつくづく思った。


最初の発作のとき、トイレに行きたがったGを長男が抱えて、
外でおしっこをさせたら、このときも嬉しそうにシッポを揺らした。

重症の体になっても、Gは恩を忘れなかった。

そのときは奇跡的に元気になり、2度目の発作は自力で回復した。


3度目の発作は半年後の夏の初めに起きた。

往診を頼んだ獣医さんが、「まだ生きていたとは」と驚いた。
最初の発作のとき、もう助からないと思っていたのだという。

このときは二男が登校してしまい、
この大きなGを抱える力がなかった私は、
海岸で差す大きなパラソルで日差しを遮ってやるしかできなかった。

「この夏はもう乗り切れない。もう助からない」と獣医が言った。

動物は己の死期を悟る本能は人間よりあるという。
このときGの脳裏に去来したのは、
一番密着度が高く最後まで身近にいてくれた二男なのかもしれない。

二男に犬小屋を乗っ取られ、
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ゴルフの標的にもされた。

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大きな唸り声をあげて苦しそうなG。

私は途方に暮れた。
お金がないから治療が長引けばどうしたらよいのか。

犬の治療費より人間の食費にそれを回したいし、
家には車がないから、死なれたときどうしたらいいのかわからない。

それにこれ以上、苦しむ姿を見るのは耐えられない。


これは実情を率直に獣医さんに話すしかないと、ありのままを話した。

獣医さんは黙って聞いてくださった。
それからこうおっしゃった。

「本当は最期まで看取ってやって欲しい。
でもご事情はよくわかりました。
自分が責任を持って愛護館へ埋葬をお願いしてきますから」

そう言って、獣医さんはGを引き取ってくれた。

ふとGを見ると、さっきまでの荒い呼吸がなくなって静かになっている。
私のこのむごい決断を聞いていたに違いない。

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「このまま苦しませるより、安楽死を」と言った私のその言葉は、
たとえ数日の命であってもあまりにも身勝手すぎる。

これが息子たちであったなら、私はどんな犠牲を払ってでも助けたはずだ。

獣医さんのワゴン車の荷台に横たわったGは、
見えない目で静かに夏の青い空を見上げていた。

体や腕をさすっていたとき、爪が丸まっていることに気が付いた。
そういえば長い間、切ってやらなかった。本当にひどい飼い主だったんだ。

14年もの間、何があっても私たち一家を信頼し支え守ってくれたGを、
今度は守り支えるのが私の責務なのに、
それを最後の土壇場で人間の私が裏切ってしまった。


私はこの罪をずっと背負って生きていくしかないと思った。

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にいさん寒かろ、おとうと寒かろ …56

田畑修一郎2
07 /24 2022
話を3か月前の大晦日に戻そう。

あの日私は、兄に先導されて病院を出た。
1カ月ぶりに見る青い空。冷たい風も心地よかった。

私は力強く大地を踏みしめた。
だが、翌年日常が戻ったころ、二男の雄二がこんなことを言った。

買い物袋を下げてお腹を押さえて歩いていた私の姿を、
学校帰りに見たのだという。

「あれでも動いているのかっていうくらい、
お母さん、ゆっくり歩いていたんでびっくりした」と。

退院の日の私もきっと、「あれでも動いているのか」というくらい
そろそろと歩いていたに違いない。

でもその時の私は、さっそうと歩いているように思っていたのだ。

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タクシーが病院を出て間もなく、
「武雄くんが後ろをついてくる」と、兄が言った。

お腹の痛みをこらえつつ体をねじって後方を見ると、
見覚えのある水色の50ccバイクが見えた。

私がバス代節約のためようやく買ったオンボロバイクだ。
武雄はそれにまたがって、つかず離れずついてくる。

「出がけに武雄くん、迎えに行きますなんて言ったけど、
あんなので病人をなんて…」

兄は怒りを抑えた声で言った。

家に入ると、母と姉が出てきた。

私は夢遊病者みたいにふわふわ歩き、そのまま部屋を突っ切って、
庭に面したサッシを開けた。

庭に飼い犬のGがいた。

「G!」と声を掛けると、Gは小首を傾けて声に聞き入り、
それからハッとして私の方に向き直ると、大きくシッポを振った。

このときは気づかなかったが、この数日後、Gが失明していたことを知った。

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母がサッシをさらに大きく開けて、庭にいた武雄に声を掛けた。

「布団を敷いてあげたらどうですか」

武雄は慌てて部屋へはいると、押し入れから布団を引っ張り出し、
まごまごしながら敷き始めた。

どれも昔のまんまのせんべい布団。
それに、縁がほつれて固くなった毛布をぎこちなく重ねている。

私はそこへ倒れ込むように横たわった。

その様子をドアの陰からジッと見ていた飼いネコのサビが、
突然、私めがけて走ってくると布団の中へ潜り込んできた。

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それからどのくらいたったころだろうか。

誰かが私に話しかけているのに気づいてうっすら目を開けると、
そこに母がいて、こう言った。

「お重に赤飯とお煮しめを詰めて来たからね。
私たちはこれで帰るから」

返事が出来ないまま、私は再び眠りに落ちた。

次に目を覚ました時、あたりはすっかり夜になっていた。
ぼんやりした頭で、そろそろと起き上がり居間まで歩いた。

ソファにいた大介と雄二がハッとした顔で私を見た。

「お父さんは?」と聞くと、暗い顔で雄二が言った。

「東京へ帰った」

帰った? 今日は大晦日だよね。明日はお正月。

今までも「仕事が溜まっている」と見え透いた言い訳をしては、
元日の朝、そわそわと東京へ帰っていたから慣れてはいたけれど、
まさかこういう日にまでとは思いもしなかった。

あの人は母に、入院費を立て替えてくれたお礼も言わず、
その母が用意してくれた赤飯とお煮しめを食べて出て行ったという。

ひねくれ男がみんなの前で、すねて見せたってわけか。

大人としてのまともな挨拶が出来ない人とはいえ、
あまりにも不甲斐ないではないか。


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でも、もう何も言うまい、思うまい。
私が取るべき道は、後ろを振り返らず前へ進むだけのことだ。

ソファに座ると、息子たちの表情が少し和らいだ。

長男の大介が目を伏せたまま言った。

「おやじに約束させたよ」

「えっ!」

「父親として僕らにどこまで責任を持ってくれるのかって…。
おやじ、黙っているから、ぼくと雄二を大学まで出す気はあるのか。

あるんならそう約束して欲しい。それから先はそれぞれの責任だから。
そう言ったんだ」

あ、先を越されてしまったと私は思った。

大介は淡々と話し続けた。

「そしたら、大学まで出す。約束は守るって」


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母の入院で受験生の二人には苦労を掛けた。
その上、我が子の進路にさえ関心がない父親であってみれば、
勉強どころではなかっただろう。

長男の大介は母親の汚れたパンツまで洗っては届けてくれた。

勉強に疲れた弟がガスの点火を確認しないまま眠り込み、
漏れたガスが部屋に充満した。

警報器の音で目を覚ました大介が、
窓という窓を開け放して処置してくれたという。

「ぼくら、危うく死ぬところだったよ」

私は絶句した。
恐怖と感謝と、わけのわからない感情に打ちのめされた。

よく気が付いてくれた。
何か大きな力が子供たちを、私を、守ってくれたんだと思った。

ふと、脳裏に、
「にいさん寒かろ、おとうと寒かろ」の昔話が浮かんだ。

両親を亡くした幼い兄弟が、食べるものもなくなり、
たった一枚残った布団に抱き合ってくるまり、
「にいさん寒かろ、おとうと寒かろ」と互いを気遣い死んでいった。


でも大介と雄二はその危機を回避していた。
兄の機転で、無事生き延びてくれていたのだ。


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私はただただ、ありがとうを繰り返した。

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞