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「由比かるた読本」

由比の力石
06 /27 2022
先月、由比の久代さんから何年振りかのお電話を頂戴した。

「由比のかるたの本が出来ましたッ!」

あの頃と変わらない元気いっぱいの声が、
電話の向こうから聞こえてきました。

私の力石調査はここから始まったというほど、
久代さんは精力的に地元を訪ね歩き、逐一、情報をくださった方。


この心強い援軍で、私はどんなに励まされたことか。

早速会いに行きました。

JR由比駅で再会。そこから至近距離の
「見晴旅館(みはらしりょかん)さんでランチをいただきながら、
ご本を拝見。

これです。
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久代さんが長年所属する歴史の会「結愛文化クラブ」発行の労作です。

これは国土交通省富士砂防事務所が平成18年に発行した
「由比・薩埵峠風物誌」の中の「いろは歌留多」を、
読み物風にまとめたもの。

表紙の広重の絵や写真も歌留多になっていました。

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静岡市清水区由比

由比とくれば、なんといってもサクラエビが有名です。

でも最近、漁獲量が減って高級品になってしまいました。
「昔はたくさん獲れたので安く手に入ったんですけどねぇ」と久代さん。

サクラエビ料理の定番はかき揚げですが、
漁師さんたちはこんな食べ方をしていたんですね。


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ここから大相撲力士も誕生。

化粧まわしも広重が描いた「薩埵峠から見た富士山」です。

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由比で忘れてはならないのが「地すべり」

過去に何度か大災害に見舞われています。

作家の幸田文さんもここを訪れて「崩れ」を書いています。

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由比には歴史のある寺や神社がたくさんあります。

豊積神社は、
若者たちが担いで勇壮に太鼓を打つ
「お太鼓祭り」で有名です。

この神社と隣りの桃源寺にはそれぞれ雌木と雄木のイチョウの巨木があって、
二つ合わせて、「夫婦イチョウ」と呼んでいます。

由比本陣は今は「東海道広重美術館」に生まれ変わっています。

こちらは私費を投じて道路や橋を作った「望月幸平」翁です。
久代さんイチ押しの郷土の偉人です。

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「由比かるた読本」によると、この方は大庄屋の家に生まれ、
成人して江戸へ出て、井上八郎門下に入り、
北辰一刀流の免許皆伝を受けた。


幕末、公武合体に尽力し、維新後、山岡鉄舟から、
京都武徳殿の指南役に抜擢されたがこれを辞退。

故郷に帰り、郷土の発展に尽力したそうです。

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顕彰碑は以前の碑に、近年、新たな碑を加えて整備。
これは他県在住のご子孫が私費を投じて作ったものだそうです。

この「由比かるた読本」は、後世に残しやすくするために冊子にし、

「楽しみながら郷土について学び、
子供たちにもわかりやすく」


を心がけて制作されたとのこと。

随所にみなさんの愛情があふれています。

そして、「力石」もちゃんと入れてくださっていました。
散策マップにも紹介されています。

これです。地区内の5カ所にある力石です。
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一番上にあるのが、東山寺薬師堂の力石です。

境内から掘り起こされたのを記念して、
地区の人総出で、力石の重さ当てイベントを開催。

懐かしい思い出です。

こちらはかるたの「薬師堂」です。

img20220609_10395535 (2)
静岡市清水区由比東山寺・薬師堂

「由比かるた読本」の冒頭には、こんなことが書かれています。

「会員の高齢化で退会者も増え、活動の気力も衰えてまいりました。
それでも趣向を変え、細々ながら継続しております」


そして、このような立派な本を世に出された。

「老い」に逆らわずあきらめず、
ゆっくり歩まれているみなさんから、大きな勇気をいただきました。

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「ありましたッ!」

由比の力石
01 /13 2018
「久代ですッ! ありましたッ!」

電話の向こうから柔らかくもとびきり弾んだ声。
私はこの声を何度耳にしたことか。

電話の主は静岡市清水区由比の望月久代さんです。

今から8年前、
由比地区には力石がたくさんあるのではと思った私は、
当時、由比の郷土研究グループの会員で、
会報「結愛」の編集長だった望月良英氏に思い切って電話をかけた。

見ず知らずの私からの電話に戸惑いつつも、
良英氏が即座に名前をあげたのが、郷土史家の久代さんだったのです。

もう何でも突撃。当たって砕けろ。思えばご迷惑もずいぶんおかけしました。

久代さんの新発見第一報の力石がこちらです。
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静岡市清水区東山寺大門・大門薬師堂

久代さんはご主人と家業のみかん農家を営みながら、
長年、幼稚園の園長先生を務め、
また、静岡市との合併前の旧由比町時代には、
文化財保護審議会の委員として文化財の保護活動に携わった方です。

この大門薬師堂の力石は、私が電話をした前年の平成21年
久代さんはすでに先人が書き残した冊子から見つけていました。

上の写真は境内に埋まっていたものを相撲の土俵上に並べたところです。

平成22年11月、私は師匠の高島先生と薬師堂を再訪。
そのとき、地元の松永宝蔵氏が描いた力比べの絵もいただきました。

平成23年
地区をあげての「力石の重さ当てイベント」が行われました。
一番重いのは135㎏、最軽量は35㎏。ぴったり賞の主婦は米10㎏ゲット。

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それから3年後の平成26年9月、
地区の人たちの手で力石は新しい居場所を与えられ、永久保存されたのです。

昔の人はこれを担ぎましたが、今はこうしてクレーンのお世話に。
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「東山寺の歴史」(望月久代著)より

法印さんのご祈祷も。

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同上。

平成27年3月、
久代さんはご主人と共に説明板を寄贈

それから間もなく、電話の向うからいつもの優しく弾んだ声。
きれいにできましたから、見にきてくださいッ!」

ありがとう、久代さん! 
早速駆けつけたことは言うまでもありません。

「写真撮ってもいいですか? ブログに載せてもいいですか?」
「うふっ! どうぞッ!」

下の写真は、
薬師堂と隣接する東山神社との入口に保存された力石と久代さんです。
この一帯は古い歴史を持つ地域で、この東山神社も、
かつて存在した東山寺という古刹の鎮守だったそうです。
ちなみにこの東山寺は和銅年間(708~715)創建と伝えられています。

そして私が一番驚いたのは、
今も地区の方たちが当番制で神社に毎朝、お灯明をあげていることです。
365日、一日も欠かしたことがないそうです。
数百年以上、ひょっとしたら千年以上、
この神聖な火を絶やさずにきたなんて、凄いことですよね。

力石保存場所・説明板の右側に東山神社の石段があります。
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ここ大門薬師堂の力石は、久代さんが初めて見つけた力石で、
その発見から6年の歳月をかけて、熱心に地元の方々を説得。
そして見事に保存されたのです。

あの穏やかなお顔からは想像もできない粘り強さです。

現在、確認されている旧由比町の力石は全部で25個。
そのすべてを久代さんが見つけてくださったのです。

現在は郷土史研究や俳句を創りながら、
観光や美術館ボランティア、更生保護女性会委員を務めるなど
相変わらず多忙な日々を送られています。

気負わず、威張らず、自然体で人とも力石とも郷土とも向き合い、
しかし、その粘り強さで着実に成果をあげていった久代さん。
私にとって貴重な、そしてまたとない素敵な出会いでした。

これも久代さんが見つけた力石です。
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静岡市清水区由比阿僧・瘤山観音堂

ちょっと寂しい光景ですが、こうして力石の存在を掘り起こしたことで、
昔の青年たちの力比べの歴史が、地元の方々へ確実に伝えられていったと、
私は信じています。


   =朗報です=

前々回お伝えした野田市今上下・八幡神社の「万治石」と、
愛宕神社で動きがありました。
次回、詳細をお伝えします。


<つづく>

由比の力石めぐり⑤

由比の力石
04 /20 2016
豊積神社に力石のような石があるんですよ」
由比在住の郷土史家、望月久代さんからの電話です。

オッ、あの有名な「豊積(とよづみ)神社」に!
胸が高鳴ります。

この神社はやたら古いんです。
なにしろあの「延喜式神名帳」に載る「延喜式内社」ですから。
これは延喜年間に時の醍醐天皇が全国の神社を調べさせ、
「由緒ある神社である」とのお墨付きを与えたものです。

「延喜式神名帳」の完成は延長5年(927)。
ということは、この豊積神社は1100年もの昔から、
すでにこの地に存在していたということになります。

豊積神社・本殿です。
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「ふるさと・ゆい 郷土史・文化財 源蔵先生講義録」
(望月一成監修、望月良英編著)より

望月良英さんによると、現在の本殿は文政8年(1825)、
伊豆・土肥町八木沢の宮大工と地元の大工が手がけたものだそうです。

土肥町には力石調査で行きましたが、
それよりはるか昔、新聞の取材で訪れたことがあります。
県内の演劇人などを訪ね歩く「ライブの創り手たち」の連載のため、
その日は昼間は伊豆・旧韮山町の「韮山時代劇場」へ赴き、
夕方から土肥町の菜の花畑で行われる「菜の花舞台」を訪ねました。

これは俳優の橋爪功さんと演劇集団「円」、
それに地元の人たちが共に作り上げた珍しい試みの舞台でした。

プロの役者はプロらしく、
地元の大人や子供たちは素人そのままの姿で無理なく溶け合い…。
真っ暗闇の中、おぼろ月だけが頼りのぞくぞくわくわくするひとときでした。

そうそう。歌手のかまやつひろしさんがギター抱えて飛び入りしましたっけ。

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旧土肥町小土肥 菜の花畑の特設舞台での橋爪さんと子供たち。

年のせいですねえ。このごろは昔のことをよく思い出してしまうんです。
ここに写っている子供たちも、すでにお父さんお母さんになっているはず。

この土肥町にも力石はたくさんありますが、それはまたの機会にして、
まずは豊積神社へ。

境内の大イチョウの根元に置かれた石です。
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静岡市清水区由比町屋原

「これ、どうでしょうか? 力石みたいですけど」と久代さん。
確かに!
特にイチョウの根元の丸い石はもう力石そのもの。
「でもねえ、できるだけたくさんの地元の人に聞いたんだけどわからないって」
久代さんはとても残念そう。

高島愼助教授に問い合わせるも、
「証言が得られなければ力石とは認められません」とのつれないお返事。
散逸を恐れた昔の人がご神木の根元に置いたことは充分考えられますが、
証言者がいなければやはり諦めるしかありません。

東山寺の力比べを描いた「望嶽亭」の松永宝蔵さんがご存命ならなあと、
二人して嘆息しました。

推定1200年もの歴史のあるこの豊積神社には、
奇祭と呼ばれる「お太鼓まつり」があります。

CIMG1962.jpg

延暦16年(797)、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征伐に向かう途中、
この神社に立ち寄り戦勝祈願をしたとの伝承があります。
その願いが叶って帰路、ここで神楽を催したのがこの祭りの始まりとか。

江戸時代になるとこれが男女の出会いの祭りになります。
老若男女が太鼓の後について、歌を掛け合うわけです。
男女が輪になって踊る旧中川根町・佐沢薬師のひよんどりや、
静岡市の小野薬師の歌垣に似たものです。

でも私が取材に入ったころは、
15歳になった若者の「若衆入り」の行事になっていて、
先輩たちが歌う「めでた歌」と水祝儀を浴びながら、
少年たちが大太鼓を叩くという勇壮な祭りになっていました。

正月二日目の「入り太鼓」
img20220904_18171722 (2)
氏子さん提供

当時の新聞記事です。
このころは、大晦日も元旦も飛び回っていました。

思えばよく働きました。

由比の力石めぐり④

由比の力石
04 /15 2016
熊本県で大きな地震が起きたようですね。
被害が拡大しないよう、皆さまの無事を祈るばかりです。

ここ静岡では「東海大地震」が来ると言われてから、すでに40数年。

水、パンの缶詰、アルファ化米、簡易トイレ、非常用ローソクは2週間分常備。
寝室には太陽光携帯ライト以外は何も置かず、
いつでも飛び出せるようパジャマがわりにスポーツウエア着用。
各部屋にペットボトルを置き、玄関への逃げ道には倒れるものは置かず、
タンスは一部屋に集中設置。本棚には転倒防止策。

なにしろ40年間、「来るぞ来るぞ」ですから、自然にこうなりました。
準備万端でも建物自体が倒壊したら何もなりませんけど。

さて、由比の力石めぐりです。
由比の力石の情報提供者・望月久代さんがある日、小声で言いました。
「静岡の力石」に載っている石の中に、ちょっと疑問の石が…」
思わず、ギョエ!

それがこれ。確かに少し大きすぎるような…。
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静岡市清水区由比・個人宅  84×48×25㎝、68×39×20㎝

それで久代さんと石の所有者宅へ伺いました。
ここには江戸時代、由比宿の木戸と、
閻魔様を祀る十王堂があったそうです。
出てきたこの家の奥さん、
「エエーッ! これが力石? 聞いたことないっけやあ。
庭を掘ったら出てきた石だって聞いてたけど、う~ん」

この石の情報は10数年前のことで、提供者は他県の方です。

石は玄関わきにあって門扉を開けなければ入れませんし、
寸法もちゃんとはかってありますから、無断で入ったはずもない。
当時の住人に力石であると確認してのことだろうと思います。

同じ家にいても知っている人と全く知らない人がいる、
こういう例はママあります。

こちらは清水区小河内和田・金毘羅神社の参道の力石です。
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63×36×30㎝

「奉納」と刻字があります。斜めの線は絡まった蔦(ツタ)。

こちらの情報も10数年前のことで、市の石造物調査の折りに、
当時の調査者が土地の古老から聞き取ったものです。

ところが現在の地元の郷土史家は全くご存知なかったのです。
というより「力石」という名称すら知りませんでした。
たった10数年でこんな状態になってしまうんですね。

同じ土地の住人でも先輩から後輩へと伝えられていない、
あくまでも個人の思い出の中にしか残っていないのです。
現在ここにお住いの郷土史家にいくら説明しても、
「これが力石だなんて聞いたことがない」と頑強に認めませんでした。

こんなふうなので、
その証拠を調査報告書に残しておかなければうやむやになります。
全国調査をした高島愼助教授の仕事の価値はここにあります。

今この力石は頭部の一部を欠いた状態で、参道に放置されています。
由比の個人宅の力石は、
寺社へでも保存しない限り所在不明になる確率が高そうです。

愛着を持たれなかった力石の運命は無残です。

※参考文献/「静岡の力石」高島愼助・雨宮清子 岩田書院 2011

由比の力石めぐり③

由比の力石
04 /11 2016
由比・阿僧の瘤山観音堂で、木の根に集められた力石を確認したあと、
私たちは次の目的地「白井沢」へと向かいました。

白井沢の力石の情報をくださったのは、青木仁さんという農家さんです。
早朝にも関わらず、青木さんは笑顔で、
「今、案内します」
それから高島教授の軽自動車をチロッと見て、
「うーん。うちの車で行くかね?」

先生、慌てて、
「いや、これで行きます」
それでも青木さん、
「うーん。道悪いでね、うんと悪いでね、慣れてない人にはどうかなあ」

結局、久代さんだけ青木さんの車へ乗り換え、
私は高島教授の軽自動車に乗り込んで、いざ、山のテッペンへ。

青木さんが言った通り、軽一台やっとの山道。おまけに左側は断崖です。
そのざらざらのクネクネ道を登り詰めたところに小さなお社がありました。

青木さんにご案内いただいた第六天神社です。
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「阿僧の歴史」(望月良英 私家本 2016)より

第六天神って時々見かけますが、今一つわからない神様です。
なにしろ仏道修行をじゃまする天の魔王ですから。
織田信長がこの魔力に魅せられて信奉したそうですが、
結局、本能寺であえない最期を遂げてしまいました。

でもこの魔王さん、お釈迦さまが涅槃に入られるとき駆けつけて、
大乗仏教とその信奉者を守護することを誓ったそうです。

青木さんによると、
ここの第六天神社には、武士の守り本尊の摩利支天
山の神様が合祀されているとのこと。

第六天神社の力石です。
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ここもまた木の根枕の力石  雨宮清子

力石がこんなにたくさんあるってことは、
かつてここには多くの若者たちがいて、力比べに興じていたってことですよね。
それを「魔王」さまがご覧になっていた。

そういう日々はもう来ないんだよなあとちょっぴりセンチメンタルになりつつ、
青木さんの車を先頭に、
再びざらざら道をつんのめるようにして下りました。

でも有難いことに、
望月良英さんが、
郷土史「阿僧の歴史」」にその痕跡を永久に残してくれました。

これです。
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今は人々から忘れられ、みんなで寄り添って眠る力石ですが、
この郷土史に記録されたことで、
その存在を郷土のみなさんに再確認していただくことができました。


そして私が、昔の人たちが残してくれた郷土史の中で力石と出会い、
それを元に尋ね歩いたように、
「阿僧の歴史」を見た「もの好き」な若者がこの石に会いにくる、
そんな日がきっとあるような、そんな気がいたします。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞