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観音さまに罪はない

由比の力石
03 /31 2016
由比・阿僧の瘤山観音堂には、
樟(くす)一本彫りの十一面観世音菩薩が安置されているそうです。
そりゃまあ、観音堂ですから当たり前ですが…。

これなんです。観音様に向かって「これ」はないですよね。
こちらです。
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「阿僧の歴史」(望月良英)より

写真で見る限りは、すらっとした美しい観音さまです。
ところが「由比町の歴史・下巻」で著者の手島日真氏はこう言っています。

手島氏は、
「お堂の柱の軸受けが唐様組子の繰物肘木で、しかも極彩色。
このことからもこのお堂が、
いかに立派な建築物であったかをうかがうことができる」

と感嘆したあと、いよいよお厨子を開きます。
ところが、ビックリ仰天!

「古色蒼然とした三十二相を具し給う御本尊と思いきや、
明治の末か大正時代の樟の一本彫り、等身大の聖観世音のお姿である。

恐らく、古物屋に騙されて置きかえられたものであろうが、
実に惜しむべく、憎むべき行為である」

今でも山奥のお堂などへ行くと、
立派な仏像が簡易な鍵だけで保管されていたりします。

「盗難が心配ですね」というと、集落の人はのんびりと、
「なに。こんな山ン中までドロボーはこねえよオ」


これは民話「すもうにかったびんぼうがみ」に出てくる「貧乏神」です。
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松谷みよ子 再話 斎藤真成 画 福音館書店 1973

私の大好きな絵本です。要約するとこんなお話です。

貧乏な一人暮らしのあにさのところに嫁さまがくることになった。
ところがこの家の天井裏には、ずっと昔から貧乏神が住みついていた。
そんなことも知らず、
嫁さまは「おらうちの守り神様」にせっせとお供えをした。

若い夫婦はよく働いたので、家は少しずつ豊かになった。
困ったのは貧乏神です。なぜかって?
福の神と交替するために
この家を出て行かなければならないからです。

でも若い夫婦は「ずっと一緒に暮らしてきただもの、出ていくことはねえ」
「福の神が来たとてここへは一歩もいれねえぞ。負けるでねえぞ」
そう言ってどんどんおまんまを食べさせた。

で、力をつけた貧乏神はやってきた福の神と相撲をとって勝った。
「こんなうちは初めてだあ」と福の神はたまげて逃げ出した。
あんまり慌てていたので打ち出のこづちを落としていった。

貧乏神がそれを振ると、
「じゃらん、ぽん、ちん」とお金もお米もざっくざく。
貧乏神を見たら、なんと、でっぷりした福の神になっていた。

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斎藤真成・画

不謹慎かもしれないけれど、
瘤山観音堂のすり替えられた観音さまを知って、
「貧乏神が福の神になった」このお話を思い出したのです。

今安置されている観音さま、
古物商のよこしまな手を経てここへやってきたとはいえ、
集落の人々の熱い思いを一身に受けて、
今では魂の入った立派な仏さまになっているんじゃないかな、と。


あ、でも念のため、一度天井裏をのぞいた方がいいかもね。

※参考文献・画像提供
/「阿僧の歴史」望月良英 私家本 2016
/「由比町の歴史・下巻」手島日真 由比文教社 昭和47年
/「すもうにかったびんぼうがみ」松谷みよ子 再話
斎藤真成 画 福音館書店 1973

由比の力石めぐり②

由比の力石
03 /29 2016
4月初旬の思わぬ花冷えの朝、
四日市大学の高島教授と私は、待ち合わせ場所の阿僧宇神社で、
由比の郷土史家・望月久代さんと無事、合流。

そこから徒歩で「瘤山(こぶやま)観音堂」へと向かいました。

瘤山観音堂です。
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「阿僧の歴史」(望月良英)より

縄文遺跡があるここ阿僧は、
由比最古の人の居住地といわれております。
また、鎌倉時代には由比氏の祖、由比五郎入道浄円の屋敷があり、
室町期にはそこが二万三千石の川入城になりました。

このときの城主は今川氏二十四将の一人、由比光詔
しかし、
天文15年(1546)、信州の村上義清(甲斐・武田説も)に攻められ落城。
光詔の遺児・光秋は今川氏滅亡後帰農して、由比今宿の里長になります。
その川入城跡に出来たのが、法城山常円寺
昔は「古城山常円寺」といっていたそうです。

そんなわけで、この阿僧地区は歴史も深く、
江戸時代には経済的にもゆとりのある村だったようです。

話を瘤山観音堂に戻します。この観音堂は、
明治の廃仏毀釈で廃寺となった
深谷寺(新国寺)=しんこくじ=の境内仏堂で、
寛文六年(1666)の鰐口や、
由比地域最古といわれる慶長十七年(1612)の墓石などが現存しています。

これは明暦元年(1655)建立の多宝塔式の浮彫観音石塔です。
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「由比町の歴史下巻」(手島日真)より

右側の石塔は寛文六年(1666)の庚申塔です。
望月良英氏によれば、三猿が彫られた上部に、

「庚申を共に守り、終夜至心にして更に違うことなく、清浄本然として、
三彭(さんぼう=三尸の虫)是非を説くを遮らず」

と漢文で刻字されているそうです。
由緒ある観音堂ですが、今はちょっと寂しい風情です。

瘤山観音堂の力石です。
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立派な力石ですが、
今はもう、誰にも顧みられることなくこのように放置されています。

昔はこの境内で賑やかに盆踊りが行われていたそうです。
そんなとき、村の若者たちは娘っこたちの前で、
石を担いで競い合い、力自慢をしたことでしょう。

   
今はただ木の根枕に夢の中 
      力石(いし)は語らず人も語らず
  雨宮清子

※参考文献・画像提供
/「阿僧の歴史」望月良英 私家本 平成28年
「由比町の歴史・下巻」手島日真 由比文教社 昭和47年

望月良英さんのこと

由比の力石
03 /23 2016
阿僧在住の郷土史家、望月良英さんを知ったのは、
6年前の平成22年のことでした。

図書館で何気なく手にした冊子「郷土研究 結愛(ゆうあい)」を見て、
あ、この本欲しいなと思ったんです。

それは静岡市清水区由比の「結愛文化クラブ」の郷土史愛好家たちが、
正法寺のご住職、手島英真氏の指導の下、
自分たちの郷土について先人たちが遺した資料に学び、
自分たちの足で調べた機関誌でした。

気負いもてらいもない、真っ直ぐで率直なところに魅かれました。

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家に帰ってすぐ巻末の電話番号へかけました。
そのとき応対してくださったのが、
この機関誌を編集していた望月良英氏だったのです。

それからしばらくして、私は再び良英氏に電話をかけました。
「由比に力石はありませんか?」

今思えば、いささか厚かましかった。
でもすぐ応じてくれたんです。「望月久代さんなら」と。

これは良英氏が今は亡き最愛の息子さんに捧げた本です。
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発行は平成24年3月15日。
この前年の同じ日、つまり東日本を襲った大震災の4日後の3月15日、
息子さんは赴任先の会津若松市で急逝。

金沢大学電気情報工学科で学んだ前途洋々たる好青年。
41歳を迎えたばかりでした。

そうとは知らず、私は19日に行われる東山寺・薬師堂での
「力石の重さ当てイベント」への参加の電話をかけてしまいました。
あのとき電話へ出られた奥さまの気丈な声は今も忘れることができません。
以来、東山寺の力石と良英氏のご家族のことは切り離せなくなりました。


他人様の悲しみに触れることにはためらいがあります。
こういう形で書くことはいけないことではないのかとの思いもあります。

良英氏には正式なお悔みさえ、私はいまだに言ってはおりません。
口に出して言えば薄っぺらなものになる、そんな気がして…。
それでも変わらぬ笑顔で、私の力石の講演会には久代さんと共に、
2度もかけつけてくれました。

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静岡県富士宮市 西山本門寺
私が子供の頃遊ばせていただいたお寺です。当時のご住職は由比さん。
同級生だったこの寺の娘さんもすでにいない。

穏やかな良英氏を見て、人は言うかもしれない。
「あなたは強い人ねえ」と。
私自身が幾たびか言われてきた一番嫌いな言葉です。

「強くなんかない。本当は情けないほど弱くて、
針で身体のどこをつついても涙がほとばしり出てくるほどなのに。
今にもボロボロ崩れそうな自分をなんとか支えて不器用に生きているのに。
悲しみや辛さに遭遇して強くいられる人なんているわけないじゃない」


押しつぶされそうな現実に耐え、泣きわめかず、懸命に生きている人に、
決して言ってはならない言葉、
「あなたは強い人ねえ。私だったらとてもそんなふうにはなれないわ」
たまりかねて相手にこう言ったことがあります。
「じゃあどうすればいいの? 死ねば弱い人と思ってあげられるってこと?」

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巴川の灯篭流し 毎年、行っています。

息子さんは亡くなるひと月前、良英氏にこう言ったそうです。
「父さん、身体の不自由な人やつらい生活をしている人は、
人として意識レベルの高い人間なんだよね」

良英氏は定年を迎えた時、一冊の本を書いた。
「知っていると役立つルール」
職場で教えられたことや一緒に郷土史を学ぶ仲間たちから得た教訓を
ご自分なりにまとめた本です。
息子さんが言い残していった言葉は、父から贈られたこの本の中にありました。

父は子に人生のルールを文字に託してそっと伝え、子はその父に
「父さん、わかったよ」と無言のうちに感謝しつつ伝えていった。

本来なら、良英氏の著作や活動のご紹介をさせていただくのが筋ですが、
あの日以来、
私の胸に刺さったままの痛みや思いを記させていただきました。

などかくもつらき別れぞ今宵また
         思い出たどるこぞ逝きし子の 
  望月良英

詩を読むように故郷を語る

由比の力石
03 /21 2016
望月久代さんから新たな力石発見の知らせを受けて、
由比・阿僧(あそう)へ赴いたのは5年前の早春のこと。

「駿河記」(桑原藤泰)に描かれた阿僧です。
由比川を挟んで対岸(右)に見えるのが東山寺の紫山。
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師匠の高島愼助教授は例によってご自宅を深夜に立ち、
途中の温泉施設の駐車場で仮眠。

先生はここの調査の後、関東方面への調査へ出かけるとのことで、
阿僧へは夜が白々明け始めた早朝の出立となった。

久代さんとの待ち合わせ場所は阿僧宇神社
春とはいえ花冷えのする朝です。まだ家々は眠りから覚めやらず…。
その物音一つしない集落の道を久代さんの車がやってきました。

これは今年2月、阿僧在住の郷土史家、
望月良英氏が出版した「阿僧の歴史」です。

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良英氏は本の中で、ふるさとと向き合うきっかけをこう語っています。
「10年ほど前ふと足を運んだ郷土史の講座で、郷土史家の望月源蔵先生が、
故郷を思う心をまるで詩のように美しく語るその姿に感動し啓発された」

その後、正法寺のご住職、手島英真氏の指導の下、
仲間と共に郷土史研究に没頭。著作にも精力的に取り組み、
「日蓮宗聖典 日蓮聖人日訓遺文集」「ふるさとのことば「ゆい」方言辞典」
「ふるさと・ゆい 郷土史・文化財 源蔵先生講義録」などを発行します。

「源蔵先生」です。
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「由比町の建物を見ても仏像や神社を見ても、外観も内容も立派。
お金があったからいいものができたわけではない。
金があればとかく無駄遣いが多く、


文化には吝嗇(りんしょく=ケチになるものですが、
由比の人たちはわずかなお金を持ち寄りコツコツためて、
自分たちの納得のいくものを心でつくり、残してくれたのです」

「源蔵先生講義録・源蔵氏の序文」より

良英氏の本には、調査研究は緻密にトコトンやらねば気が済まない
という姿勢が貫かれています。
元エンジニアらしいといったら怒られるかな?

その良英氏の言葉です。
「郷土史は俯瞰的・編年的な日本史に比べ、石垣の間詰石(まづめいし)
みたいなものです。
しかしこの小さな石ころがなければ石垣は成り立ちません」

「郷土史はその時々の現実を生きた人々が流した汗の雫であり、
その時は空気のようで、
記録に残す必要さえ感じなかったその日その日の伝承です。
そういう地域の人々に光を当て、人々の思いや情念の襞に触れるとき、
知り得た知識の一部でも後世に伝えるべく
「阿僧の歴史」を書いてしまいました」


久代さんと待ち合わせた阿僧宇神社です。
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静岡市清水区由比阿僧  「阿僧の歴史」(望月良英)より

この「阿僧」と書く地名は、全国に一つしかないそうです。
地名の由来には、
「九州阿蘇山の阿蘇説」、麻の栽培地の「麻生」などがあるようですが、
良英氏は「崖、崩壊地を控えた場所「アズ」が訛ってアソウになった?」
との考えを示しています。

なにはともあれ、建久二年(1191)の改築の棟札があるそうですから、
古いお社であることは間違いありません。

しかし古いのはそればかりではないんですね。
この神社はなんと縄文遺跡の上に建てられていたのです。

今から83年前の昭和8年9月のこと。

猛烈な台風の襲来で神社の大木が根こそぎ倒された。
近くの久保田憲次君が駆けつけてみると、
大木の根元に大量の石器が顔をのぞかせていた。
久保田君は当時15歳だった望月源蔵少年に相談。
二人で担任教師に石器を見せた。

これが「阿僧遺跡」発見の発端だったのです。
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「阿僧の歴史」より

この遺跡は縄文前期から中期の集落遺跡で、
「由比町の最古の人が住んだ場所」(静岡大学・市原寿文教授)だとか。

良英氏が敬愛してやまない望月源蔵先生の本業は人形づくり
平成20年に90歳で亡くなるまで、
その審美眼洞察力
故郷への愛情は衰えることなく、
ふるさとの名もない遠い祖先たちとの出会いに精魂を傾けられました。

東山寺・薬師堂の天井裏の版木を見つけた一人が、
この源蔵先生だったそうです。


終生「石垣の間詰石」に徹した源蔵先生、こんな言葉を残しています。

「静岡市と合併しても、由比町には誇るべき独自の文化があります。
自分たちが住んでいるこの土地の歴史に思いを馳せ、
古人の声に耳を傾けて欲しいと思います。
それがこの土地の新しい将来を築くことにつながるからです」


※参考文献・画像提供
/「清水区由比 阿僧の歴史」望月良英編著 私家本 平成28年
/「ふるさと「ゆい」郷土史・文化財 源蔵先生講義録」
 望月一成監修 望月良英編著 私家本 平成22年

由比の力石めぐり①

由比の力石
03 /16 2016
由比の力石のほとんどは、
郷土史家の望月久代さんによって発見された、
ということは以前にもお伝えしました。

東山寺・薬師堂(東山神社)の力石発見を皮切りに、
私の元に、矢継ぎ早に情報が届きました。

「久代です」
受話器の向こうからふんわりと柔らかな声。
やや間をおいて、
「ありましたッ」
このときばかりは息がはずんでいます。

由比川を挟んだ東山寺の対岸に、阿僧(あそう)という地区があります。
由比氏の本拠地、川入城があったところですが、
その阿僧の瘤山観音堂白井沢・第六天神社の力石も、
久代さんからの情報です。これらは稿を改めてご紹介します

こちらは自治会館の庭に半分顔を出している力石です。
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静岡市清水区由比西倉沢 倉沢自治会館

後日、師匠の高島愼助教授とお訪ねしました。
「ここいらの若者は漁で鍛えているからね」と元自治会長の松永元信氏。
「でもこのままじゃあ、いつか忘れられてしまう。どうしたものか」

みんなに愛されてきた力石です。
散逸を恐れた先人たちが、
せめて、という思いを込めてここに並べて置いたのでしょう。


刻字が難しければ、
とりあえず文字を書いておくことを提案してみました。

倉沢自治会館です。
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波に踊る2尾の魚の彫刻、懸魚(げぎょ)がなんとも美しい。

こちらは以前、「戦争と若者と力石」の中でご紹介した中峯神社の力石です。
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右の二つが力石です。赤丸の中に盃状穴があります。
この力石は向かいの家の奥さまが、
「これは力石で、若い衆がみんなで担いだんだよと祖父から聞いていた」
と証言してくれました。

左側に神社への登り口があります。戦争中は、
弾除け祈願に兵士たちの家族が大勢この道を登って行ったそうです。
この石を担いだ若者たち、無事、戦地から帰ってきたでしょうか。

手島日真氏の「由比町の歴史(上巻)」に、
第二次世界大戦で亡くなった
夥しい数の由比の若者たちの名が記されています。

戦没場所バタン海峡、ミンダナオ島、レイテ島、ビルマ、満州…。
遺族の名の多くは母親で、ひさ、たけ、しの、ふく、はな、たみ…。

この中には何人もの息子さんを亡くした母もいるかもしれません。
著者の手島氏も本の中に「長男出征」と記してありました。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞