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慈しむ

富士塚
06 /15 2022
「的と胞衣」(横井清 平凡社 1998)を読んでいたら、こんな記述があった。

「高貴の家の台所を「御清所」と言った。
そこで働いていた上役の女性を「御清(おきよ)」と言い、
転じて、女中・下女のことを「お清」というようになった」

そういえば夏目漱石の「坊ちゃん」にでてくる女中も「キヨ」だった。

ありゃー。

私はお女中の名を付けられちゃったのか。(*`へ´*)
でもこの著者の名も「清」さん。

でも親は一生懸命考えて付けてくれたことだし、何でも感謝しなくちゃね。

それはさておき、
「縄文土偶ガイドブック」(新泉社 2014)の著者・三上徹也氏が、
序にこう書いています。

「土偶を見ると、何か心の一番奥にあるものを呼び起こされるような、
懐かしい、安心した気持ちになるのはなぜでしょうか」

DSC06074_202206080814249f0.jpg

そんな一つに、
死んだ我が子の足型や手形を粘土板に写し取ったものが
各地に残されています。


「手形・足形付土版」「大石平遺跡」(青森県新城字天田内)出土。
田中義道氏撮影。青森県立郷土館所蔵
足型手形
「世界遺産・北海道・北東北の縄文遺跡群アーカイブ」よりお借りしました。

1歳前後の子供の手形と足形なんだそうです。

死んだ我が子の手や足の型を粘土に写し取り、
粘土板にあけた穴に紐を通して形見として家に吊るしておいたもので、
その親が死んだとき、副葬品として一緒に埋葬した
のだそうです。

また函館市の考古学者さんの話では、
墓地から、ポリオのような病気で動けなくなった子供を、
みんなでケアして成人まで面倒を見たような人骨も出て来たそうです。

確かに、
「心の一番奥にあるものを呼び起こされる」
ような気がします。

さて、赤ちゃんは、
お母さんのおなかの中では「胞衣」(えな)に包まれています。
※胞衣とは羊膜と胎盤=後産(のちざん)のこと。

生まれてくるとき、その胞衣を破って出て来るそうです。

こちらは、
フォトエッセイ「わらべ地蔵」の中の「子育て地蔵」です。杉村孝制作
この本は、寺のご住職が亡き我が子を追慕して綴ったエッセイ集です。

img20220608_08582633 (3)
「わらべ地蔵・悲しみをお地蔵さんにあずけて…」藤原東演、杉村孝
すずき出版 1996

この「胞衣」、
今はゴミとして廃棄されますが、昔の人たちは違いました。

「胞衣は桶や壺に入れ、日時や方角を見て吉方にあたるところに埋めた。
太陽の威力が最も盛んな時刻(正午)は、
胞衣に悪影響を及ぼすので避けた」
(横井清氏)

「胞衣納めをめぐって」の著者・土井義夫氏は、より詳細に記述しています。
※「江戸の祈り」江戸遺跡研究会編 吉川弘文館 2004より。

「胞衣納めの記述は平安時代の日記にあり、胞衣を納める壺
昭和の戦前まで売られていた。

胞衣は水と酒で洗い、男の子なら墨や筆を、女の子なら縫い針などを
胞衣と一緒に壺に入れ、それをさらに曲げ物や桶に入れて

吉方・恵方にあたる山中に行く。
人足が穴を掘り、埋めた上に
松の木を一本植えた

img20220608_09013522 (2)

昔、取材させていただいた家具職人のかつみゆきお氏の著書、
「山の心 木の心 人の心」に、こんな記述があります。

「立木はね、伐らない方がいいと思ってる。
立って生きてる木が一番立派だよな。

山へ行くと、一般ではダメって言われてる木が一番立派でしょ。
山で苦労してるから。
人間だって苦労してる人間の方が味がある」

本当の職人さんって、こういう人なんだと思いました。

かつみゆきお=静岡市生まれ。家具職人・木工作家。登山家で写真家。
        傘寿で世界一人旅。現在82歳。
        今なお精力的に日本各地で個展を開いている。

「ヒンズークシュ、サルトアンバスへの道で」1971 
img20220609_18271673 (2)
「山の心 木の心 人の心」文・写真=かつみゆきお 池田出版 1997より

かつみさんの足元には到底及びませんが、私も山が好き。

考古学者の三上氏が土偶を見て、
「心の一番奥にあるものを呼び起こされる」のと同じように、


かつみ氏も私も、「山に呼び起こされた」のかもしれません。

で、そんな山ン中を歩いていると、
ポツンと一本、見事な松の木を見ることがあります。

ひょっとして、かつての胞衣納めの現場だったのかもなんて思ったりします。

で、昔の人は「胞衣」をなんでこんなに大切に扱ったかというと、
ただただ、子の健やかな成長を願ってのことなんだそうです。

決して非科学的などと笑えないと思うのです。

だって、これって、
物事をなんでも金銭に換算してしまう現代人に一番欠けている
「無償の愛」だと思うから。

で、私、ふと思ったんですよ。縄文の土器に付けてある像は赤ん坊で、
これはその子の
胞衣壺ではないのかって。

「人体文様付有孔鍔付土器」
「鋳物師屋遺跡」出土(山梨県南アルプス市下一ノ瀬)
土偶装飾
出典は「南アルプス市ふるさとメール」
「南アルプス市ふるさと文化伝承館」所蔵

目の下から頬にかけての2本の線は入れ墨だそうです。

縄文時代の入れ墨は家族や出自などの「帰属を表すもの」で、
男女とも入れていたという。

素人考えですが、これがもし「胞衣壺」なら、
この中の胞衣と赤ん坊の帰属を示したものかなぁと思ったのです。

どうなんでしょう?

私の勝手な想像ですが、
壺に付けた像の手の指が3本で表されているのは、
まだ人間にはなりきれない半人前との認識があったからではないのか、と。

さて、南アルプス市ではこの土器の愛称を公募した結果、
「ピース」と決定したそうです。

ここにはふっくらとしたお腹をした女性の土偶「子宝の女神ラヴィ」もあって、
あわせて「ラヴィ&ピース」と呼ばれているそうです。

なんか、いいですねぇ。幸せを感じます。

詳しくは下のURLをご覧ください。
「南アルプス市」

ド素人の私メが、
「これ、胞衣壺ではないのか」などと発言するのは恐れ多いのですが、
でも、過去にそう考えた考古学者さんがいたんです。

土井義男氏の論文に、
「木下忠さんという方の論」として出て来たんです。

木下忠氏の論というのは、これです。

「縄文時代の竪穴式住居から出てくる埋め甕という遺構が、胞衣を納めた
容器であろうという仮説を民俗事例を採用して実証しようとした」
と。

私は小躍りしましたが、結論を読んでがっかり。

「今のところ、類推に過ぎない」

でも、中沢新一氏の「精霊の王」(講談社 2004)に、

「長野県諏訪では子供が生まれると胞衣の代わりに綿を扇に被せて奉納する」
という話が出ていました。

やっぱり「胞衣」って、特別のモノなんだと思いました。

現代人には「ばかばかしい」と一蹴されそうですが、
今は廃棄物という認識の「胞衣」であっても、気づかないだけで本当は、
私たちの心の奥底にはこういう「慈しむ」という記憶が刻まれている、

そう思うんですよ。

その遠い先祖の記憶が、何かをきっかけに呼び起こされるんだと。

こちらは私が一番、心を打たれた縄文土偶です。

「子を抱く土偶」 縄文中期
東京都八王子市の「宮田遺跡」出土。国立歴史民俗博物館所蔵

img20220608_09442059 (3)
「縄文土偶ガイドブック」三上徹也 新泉社 2014よりお借りしました。

おっぱいをあげているのでしょうか。赤ちゃんもまるまる太っています。

お母さんの足を見てください。横座りしています。

その太い腿の上に我が子をしっかり乗せて、
もう可愛くてしょうがないといった感じで抱きしめています。

縄文の母の慈しみ。

しみじみと胸に沁みました。


ーー「富士塚」のお話はこれにておしまいーー

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平和に生きた縄文の人々

富士塚
06 /12 2022
縄文人の技術の高さについては前々回、書きました。

でも、技術ばかりではなかったんです。
考古学者のみなさんは、さらに「精神文化の高さ」をも称賛する。

「1万数千年も戦争がなかった世界というのは、古今東西ここだけ」

「彼らは木々や石一つにも精霊が宿っているとして敬い、
常に自然と共に生きてきた」と。

それに対して、私たちの歴史はたったの2000年余。

その間、戦争ばかりしてきた。
その最前線に少年兵を送った。

生まれてからまだ、15年しかたっていないのに、
大日本帝国のお金持ちや偉い大人たちは、
与謝野晶子がお国のむごさを訴えた歌の通り、
「人を殺して死ねよ」と、子供たちに命じた。

そのほとんどが貧しい家や山村の少年たちだった。

img20220606_14111613 (2)
毎日新聞社 昭和45年

人間は万物の霊長などと勝手に主張し、
文明と称して、自然は征服するものだとして痛めつけてきた。

プラスチックが発明されてからまだ100年しかたっていないのに、
地球上はゴミの山だ。

自ら撒いたそのゴミの中で、アップアップしているのだから、
「なんと愚かなこと」と、縄文人に笑われそう。

「我々日本人には縄文人の遺伝子が残されている」と考古学者は言う。

そうか。だからなのか。

例えば、
ナントカ博のために樹木を伐採する計画があると、反対運動が起きる。

私自身もそうですが、まるで自分の身を切られるみたいに思えて、
なんとか止めて欲しいと願う。


あれは縄文人の遺伝子が叫んでいるってことかも。

下の写真は、樹木のためにフェンスも間を開けて設置した個人宅。
それにしても木の生命力はすさまじい!

これ、
元々この木が立っていたところに道路を作ったんでしょうか。

そうだとしたら、「樹木の逆襲」。無言でジワジワと。

CIMG4242.jpg

私利私欲にばかり突っ走って、争いごとが絶えない現代人は、
これが知的生物かと思うほど、あまりにも大人げない、
とまあ、柄にもなく憤慨してしまいました。

で、私、思うんですよ。

1万数千年も平和に暮らした縄文人の子孫であることを、
日本人はもっと誇ってもいいって。

その穏やかな年月の中で、
縄文の人々が作り続けてきたのが「土偶」です。

「土偶」は、見れば見るほど不思議な像ですよね。
中でも際立つのが豊満な女性(女神)像。

「縄文のビーナス」です。(縄文中期)

img20220606_10414062 (2)
長野県茅野市・棚畑遺跡出土。茅野市尖石縄文考古館所蔵。

私はこうした女神像の突き出たお腹や肉付きのいい腰回りに、
わが身を見る思いがして…。

もうね、どう見ても、
ビ(美)が抜けちゃった「令和のトーナス」ですから、
こっぱずかしくなります。※トーナス(唐茄子)=かぼちゃ

三上徹也氏の「縄文土偶ガイドブック」(新泉社 2014)には、
縄文前期~中期の土偶の一例として、こんな土偶も紹介されています。

「大型板状土偶」(縄文中期)

img20220606_11010340 (2)
青森県青森市・三内丸山遺跡出土。青森県文化庁文化財保護課所蔵

チィと怖い顔をしていますが、
私はこれを見て、とっさに案山子を思い浮かべたのです。

案山子は稲を食害する鳥を脅すだけではなく、
作神であり神の宿る依り代として、田んぼを守っていると言われています。

氏は全く言及されていませんが、
土偶が子孫繁栄と豊作を願う守り神「地母神」であれば、

こういう一本足の案山子状の土偶が作られてもおかしくないと、
そう思ったのですが、みなさんはどう思われますか?

CIMG5644 (2)

エジプト神話に出てくる冥界の王・オシリスも一本足。
元は穀物の神で、のちに柱神になった。

殺害されてバラバラになっても復活したというのも、
バラバラにされた縄文の土偶に似ているような…。

それはともかく、田んぼでがんばる案山子さんが、
はるか1万数千年昔の縄文土偶の姿を今に伝えているとしたら、
案山子を見る目も違ってくると思います。


こちらは平安時代の遺跡から発掘された「人面墨書土器」です。

先日、当地の登呂博物館で見てきました。

登呂博物館「誕生 スルガノクニ」のパンフより。
img20220606_10451418 (2)
静岡県三島市・箱根田遺跡出土。三島市教育委員会所蔵。

こうした「人面墨書土器」は、
各地の官衙(国の役所)跡から出てくるそうで、
この箱根田遺跡だけでも12点出土したそうです。


何に使われていたかというと、一つには、
自分に付いてしまった災いや穢れを、
この壺の中に封じ込めて川へ流した
というのです。

この風習は、今もある紙の人形(ヒトガタ)と同じですね。

人の形に切り抜いた紙で、自分の体の悪いところを撫でて川へ流す、
私もやりましたよ。

縄文遺跡から、
片足がとれたりほかの部分が破損した土偶が出て来るそうですが、
これには故意に壊したという説があるとのこと。

有名な青森県つがる市の「亀ケ岡遺跡」出土の「遮光器土偶」
遮光土偶
「世界遺産・北海道・北東北縄文遺跡群アーカイブ」よりお借りしました。

故意に壊したという理由の一つに、
病気やケガの回復を願い、患部にあたる土偶の個所を壊すという
「身代わり説」=「祓いの人形説」があるそうですが、

しかし一方で、
そうした土偶が女性像ばかりなのが不自然だと指摘されているそうです。

「縄文土偶ガイドブック」の著者も、「祓いの人形説」には懐疑的で、
これは、難しい土器作りを成功させるための身代わりの女神ではないのか
と、述べています。

どちらにしても、「身代わり」
でも、「土器づくりの成功のための身代わり」というのは、ちょっと弱い。

「壊して墓地に埋める」という行為には、
もっと強い主張が込められていたと思うし、

オシリスの例にもあるように、「壊して復活する」という思想は、
古代人共通のものだったのではないかと思うんですよ。

この「壊して復活」という縄文の思想があったからこそ、のちに、
顔を描いた壺に災いを封じ込めたり、ヒトガタで身を拭ったりして川に流した風習が派生したのだと、私は思いたい。

こちらは木製の「ヒトガタ」です。奈良時代の官衙跡から出土。
登呂遺跡のパンフより。

img20220606_13435080 (2)
静岡市駿河区中田・ケイセイ遺跡出土

また、森や海の恵みの豊作、豊漁を祈ると同じように、
子宝を得たいという願望はどの時代にも強かった。

その願いも今は医療の分野に移りましたが、
それでも祭りには嫁の尻を叩いて子供を授かる「嫁叩き棒」が登場したり、
神社の二股になった木をまたぐと授かるなどという風習が残っています。

昔、子宝に霊験あらたかな某所で聞き取り調査をしたとき、
古老からこんな話を聞きました。

「子ができない嫁をこの神社で数晩、お籠りさせると、
不思議に子宝が授かると言われておったが、

なぁに、ありゃあ、神主が種付けをしとったんだよ。

わっはっは

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柱を立てる

富士塚
06 /09 2022
縄文人が作った環状木柱列環状列石はみんな集落の真ん中、
つまり住居がそれを囲むような広場に作られているという。

そしてその真ん中に「柱」を立てた。

柱は天と地を結ぶもので、よみがえりを信じて立てたものだという。

その証拠に石柱の下から、屈折した人骨が出てくる。
これを屈葬と言うんだそうですが、

一説には、
この折り曲げた形は母親の胎内にいたときの胎児の姿だそうで、
勾玉はそれを模したものだとも。

再びこの世に生まれ変わるには、胎児にならなければと思ったんでしょうか。

青森県朝日山遺跡のヒスイ製玉類
A200c000042.jpg
「世界遺産・北海道・北東北縄文遺跡群アーカイブ」よりお借りしました。

こちらは私が持っている「勾玉もどき」

右は神社のお守りについていた勾玉。
左はアフリカ土産のライオン?の牙。

勾玉に似ているなあと思ったのですが、似てませんねぇ。牙ですもんね。

img20220604_08201154 (2)

古代の人々はそういう墓地を最も神聖なものとして、
集落のド真ん中に置いた。

のちに仏教が入ってきて、死を穢れとして生者の生活環境から遠ざけたが、
「柱を立てる」という観念は、一万数千年後の今日でも形を変え、
今なお世界中で信奉されているというのだから驚きだ。

縄文の土器や寺社の柱に蛇や龍が絡みついているのは、
「天に登る」と信じられ、「脱皮して生まれ変わる」からだという。

「虹は天の蛇」という認識も各国共通だとも。

「石にやどるもの」の中沢厚氏は、
縄文の立柱から派生した諏訪神社の御柱や民俗の「ダイノコ」などに言及。

一本足の案山子も家の大黒柱も、みんな縄文の「立柱」からきていると。

子孫繁栄と豊作を祈って作る「ダイノコ」です。門口に立てます。
これ、男女2神が仲良く並んだ「双体道祖神」に似ていませんか?

img20220604_08170134 (2)
「山に生きる人々の知恵・大井川最上部の民俗文化」
静岡市無形民俗文化財保存団体連絡協議会 平成25年

ほかにもまだあります。

粥かき棒、嫁祝い棒、ベロベロ神や東北のオシラさまもそうだという。

「オシラさまは縄文時代に遡るかもしれない」と、
「縄文土偶ガイドブック」(新泉社 2014)の著者、
三上徹也氏も言っています。

そして中沢氏は、こう書いています。
「こうした形態の御神木をすべて「富士のおやま」と称していた」

こちらは静岡市日向(ひなた)の「七草祭」で最初に演じる神おろしです。

6人の舞役の真ん中に立てた一本の笹竹に、神(歳徳神)をつける呪術です。

どんな祭りでも、初めは必ずこの「神おろし」から始まります。

神様は岩でも木や竹、建物でも、
先のとんがったものや長いものがお好きなんですね。

img20220604_08085399 (2)
「七草祭」静岡市教育委員会 平成5年

次に神おろしに用いたものも含めた12本の笹竹が登場します。

この祭りを特徴づける「駒んず」の始まりです。

CIMG0662.jpg

舞い手が笹竹をすぼめたり開いたりする中を、
白黒の馬の被り物をつけた少年二人と、
雌雄の山鳥の被り物をつけた少年二人が出たり入ったりします。


「七草祭」の解説によると、山鳥の羽根は蚕の掃きたてに用いるもので、
蚕は馬の化身という伝説にちなんだものとか。

「田遊び」に「養蚕祈願の芸能」が加わった
珍しい民俗芸能だそうです。

動画をご覧ください。



蚕は脱皮新生することから、神が宿るものと尊ばれた。
でも現実には糸をとるために、繭玉ごと茹でられてしまうんですよね。

でも、生きながらえて蛾になっても
交尾ののち産卵したらすぐ命が尽きるという短命の虫なんだそうです。

普段は静かな山村ですが、この日ばかりは賑わいます。
冬の夜の祭りなので、寒いです!

今までも何度もお見せしましたが、もう一度、ここの力石も見てください。

CIMG0651 (2)
静岡市葵区日向・福田寺観音堂

さて、立柱に戻ります。

「古代の立柱祭祀」の植田文雄氏は、もっと踏み込んでこう分析した。

「立柱には以下の3つの系統がある。

① 呪術としての縄文の立柱。
② 制度としての弥生系古墳の立柱。
③ 宗教儀礼としての律令系立柱。

例として、
伊勢神宮の「心の御柱」
諏訪神社の御柱。

天皇の即位の折り。

皇居の正殿の中心に深夜、心の御柱を立て、
「真床覆衾(まとこおふすま)なる秘事が行われるそうですが、
このとき、新しい天皇は「胞衣」に似せたものを被ると言われています。

まさに神話の世界の「新天皇誕生」です。

胞衣(えな)=母の胎内で赤ちゃんを包んでいたもの。

これらはすべて、こんな考えから生まれたそうです。

●巨大な柱を立てる共同作業で一族が強く結びつく。
●天空に近づこうとする原理。
●柱そのものが神。
●神が柱へ降臨する。


こちらは井伊氏ゆかりの井伊谷宮の御神木です。
ご神木
静岡県浜松市北区引佐・井伊谷宮

さて、植田氏はこれらは世界共通で、
イギリス、エジプト、インド、ネパール、中国などの例を挙げていますが、
その中にタイの立柱の事例がありました。

タイでは新しい町を作るときは、
一本の柱を立てて永遠の発展を願ったのだという。


また、王の交代ごとに柱を立て替える立柱祭祀も行われていたそうです。

一例としてタイ・バンコクの「ラク・ムアン」が載っていたので、
早速、タイのPERNさんに問い合わせました。

お返事は速攻で届きました!

タイの観光庁HP掲載の「サーン・ラック・ムアン」です。
2本の柱が立っています。

短い柱は、バンコク遷都の際、ラーマ1世が建立、
長い柱は、ラーマ4世が立てたそうです。


タイ柱神社

詳しい写真と記事は以下でどうぞ。

「サーン・ラック・ムアン(バンコク都の柱神社)」

「主だった県には必ず同じような祠があります。
お寺ではなく神社に近いものです。

その県の礎といったような意味合いもあります。
当然、私が今住んでいますアユタヤでも見られます。

昨年、ブログに少し書いています。
黄金色の柱をご覧ください」
と、PERNさん。

ブログ記事のピラー廟の柱です。

アユタヤ柱

美女二人のドライブツアー。

素敵なお仲間と荘厳なピラー廟。


羨ましい!

以下はブログ記事です。爽やかなタイの風が吹いてくるようです。

「アユタヤ・ドライブツアーEP2
シティー・ピラー廟」


PERNさん、貴重な情報ありがとうございました。

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大地に立てる

富士塚
06 /06 2022
富士塚のテッペンには、細長い石が突きささっています。

志木市の「田子山富士塚」の頂上にもあります。

「陰陽石」

これです。
無題
埼玉県志木市本町・敷島神社内

陰は母なる大地(女性)陽は石棒・立石(男性)
を表しています。

この二神の合体によって、子孫繁栄と豊作が得られる
と信じられてきた。

そのためこうした男女和合の神事は紀元前から大切な祭礼として、
世界中で行われてきた

力石にもこの陽石があります。
これです(右端)。
木島力石
静岡県富士市木島・子之神社

ここは富士川に面し、山梨、静岡間の物資が行き交った水運の町でしたから、
荷揚げの若者たちが大勢いたはずです。

時代が変わり、今はこの石もご覧のように放置されていますが、
当時は神の依り代ですから、特に選ばれた若者が持ったことでしょう。

こうした石棒=「柱」を大地に立てるという風習は、
縄文遺跡でたくさん見ることができるそうです。

こちらは秋田県の「大湯環状列石」の2か所あるうちの一つで、
「日時計状組石」(野中堂環状列石)です。

これは集団墓地だそうです。ここで祭祀を行った。縄文後期。最大経44m。
大場遺跡
秋田県鹿角市十和田大湯

環状列石の画像は以下の
「北海道・北東北の縄文遺跡群デジタルアーカイブ」提供です。

大変充実したHPです。ぜひ、覗いてみてください。

「JOMON ARCHIVES」

石柱のほかに木の環状列柱も発見されて、
「環状列石」に対して「環状木柱列」と命名されています。

この環状木柱列は北陸の遺跡で見つかり、他では発見がなかったため、
「縄文晩期に北陸でつくられた祭りの遺構」だと言われてきたそうですが、

「古代の立柱祭祀」(学生社 2008)の著者・植田文雄氏は、
「本当にそれ以前にはないのか。北陸地方だけの特殊な遺構なのか」
と、疑問を持ち、
「もっとたくさん探す必要がでてきた」と序に書いています。

1994年、著者は縄文遺跡として西日本最大級(滋賀県東近江市)の
「正楽寺遺跡」 の発掘に携わり、
そこで巨木列柱屈葬人骨シャーマンと思しき土面火を焚いた跡を発見。
※シャーマンの土面などは上記の「正楽寺遺跡」でご覧ください。

これらのことから著者は、木、石問わず環状柱列は、
死と再生の祭祀場だったのでは、と想像した。

植田氏が確認した木の立柱遺構は21遺構、81基。
その中の一つ、群馬県「矢瀬遺跡」で石棒を見て、
「男根状の石棒が立てられているのも興味深い」と記している。

また外国の「立柱」をも訪ね歩き、
イギリス・ソールズベリーのストーン・ヘンジは、
かつては儀礼の場で、

「石以前には4本のトーテム・ポールが立つ木柱列だったという、
予想もしない事実を知ることになった」と書いています。

ストーンヘンジ
Wikiより

下は、金沢市のチカモリ遺跡「環状木柱列」です。

ここの環状木柱列の円形は直径約7m、柱はクリ材で、太さは直径約1m前後、
そんな巨木を、縦に二つに割ってあったという。

石の道具しかなかった時代なのに、信じられません。

「金沢市・チカモリ遺跡」

「チカモリ遺跡の環状木柱列」 復元。縄文晩期。
チカモリ遺跡
石川県金沢市新保本

そして、植田氏が滋賀県の「正楽寺遺跡」で巨大立柱を見つけたのと同じころ、
青森県の三内丸山遺跡が発見されて、「木柱列」へ注目が集まります。

この三内丸山遺跡の立柱建造物は、
柱穴の直径が約2m、穴の深さも2m、6本柱はクリ材で、すべて4.2mの等間隔という巨大なもの。

「重機もないのに2mもの穴を掘り、高さ20mもの巨木を立ち上げた。
等間隔に柱を立てたのは、7や70の倍数を単位とする尺があって、
これにのっとって精密に立てられたとされている」(植田氏)

縄文人は35 ㎝を基準とする
「縄文尺」というべきものを駆使していたのではないかと言われています。

この立柱の構造物を現地では「大型掘立柱建物跡」と称し、
「用途、機能については様々な意見があり、現在でも明らかになっていない」
としているのに対して、

「古代の立柱祭祀」の著者の植田氏は、「建物のように復元された6本柱も、
あの姿で決着したわけではなく、
柱のみが立つ立柱遺構とする案もいまだ有力である」としています。

三内丸山遺跡の「立柱」遺跡。縄文前期~中期。復元。
三内丸山
青森県青森市三内字丸山・三内丸山遺跡。
「北海道・北東北の縄文遺跡群デジタルアーカイブ」提供。

こちらはこの遺跡の動画です。



話変わって、

「縄文人は海を越えたか?」(朝日新聞出版 2022)
の著者・水ノ江和同氏によると、

「縄文の文化の範囲は、現在の日本という国の領土とおよそ重なる
日本固有の文化」だそうで、

土器に至っては、
「同時代の世界各地の新石器時代の土器に比べて、
器形や文様において、圧倒的に優れた造形美を有する」という。

さらに、「丸木舟ひとつで海を渡る
航海技術、観天望気に優れていた」というし、

植田氏も、
「漆を塗った土器や漆で染めた糸で織った衣服が出土している」と、
縄文人の技術の高さを称賛している。

まさに縄文人、恐るべし!

昔、学校で、「縄文人は猿に毛が生えたぐらいの未開人」
だと教えられたけど、あれは一体、なんだったのか。

「猿ですけど、それはひどい」と猿もびっくり。

この方は「思わ猿」。何もしないから「動(な)さ猿」とも言われています。
「オイラ、モノに動じないだけで無気力とは違うよ」
img20220531_16400605 (2)
静岡県湖西市白須賀。旧東海道・白須賀宿の庚申堂。

再び、「環状木柱列」です。

植田氏や「石に宿るもの」の中沢厚氏によると、

その場所は墓地を伴った命の再生を願う祭祀場で、
真ん中に立てた巨木や石柱は、

「天の神と地の霊が行き来する道」なのだという。

富士山も同じ。

テッペンのホト(女陰)に石棒を立てて命の再生を願い、
その命が誕生する場、「御胎内」を持つという見事な装置になっています。


仏教の経典に「釈迦入滅後、弥勒菩薩が出現してこの世を救う」と
書かれているそうですが、
その出現する場所が弥勒浄土という天上の世界。

平安の昔から人々は、その世界こそが富士山の火口だとして、
そこに「ミロクの世界」があると信じた。


富士講が特に説いたのは、「男女和合」

「男女和合」とくれば、男女2神が仲良く並んだ道祖神です。

道祖神の隣りにあるのが力石。
ここで産気づいた妊婦がこの石に手をかけてお産をした話が残っています。

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静岡県富士宮市淀川町・個人宅

富士講はこれにより、
「男女平等の世界に生まれ変われる」と説きました。

セクハラ、パワハラ、いまだに男尊女卑の現代人には、
耳が痛い話ですね。(笑)

しかし、これほどまでに「命の再生」に固執したのは、なんだったのか、

それも日本だけではなく、世界中の民族が…。

縄文の立柱は、さらに、
伊勢神宮の「心の御柱」や諏訪大社の御柱、
道祖神から田んぼの案山子にまで脈々と繋がっているというし、

「橋の根元に人を埋めたという犠牲者を「人柱」と言うのも、
戦死した若者が神として扱われて「ひと柱」「ふた柱」と数えられるのも、

みんな、縄文の立柱から来ている」(植田氏)と知って、

この悠久の歴史の凄さに圧倒されて、

もう「縄文の世界」から離れられなくなりました。

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多才玉

富士塚
06 /03 2022
江戸の富士塚を調べていて、ふと、思ったんです。

力持ちの多くは富士講の講員だったのではないか、と。

富士講信者は圧倒的に下町の庶民。力持ちの居住地も下町。
講の分布と力持ちが出た地域と重なるんですよ。

で、富士山へ行くにはお金がかかる。
旅費や宿泊代はもちろん、道中の茶屋、馬子への散銭もある。

道者を見れば、子供たちが寄ってきて、
「ビッケ(ビタ銭)まけやぁーい」とせびる。

これをケチっては御利益が薄れる。

「富士登山道しるべ」です。
宝暦8年(1758)、遠江国長上郡の鈴木善左衛門が富士入峰33回
禅定成就を記念して建碑したものだそうです。

善左衛門さん、33回もの登山では、かなり散財したことでしょう。
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静岡県富士市松岡・水神社内。
「富士市の文化財」富士市教育委員会 平成2年より

岩科小一郎氏は言う。

「道者は道中の無事を願い、
病気平癒や商売繁盛のお礼として銭を撒く。施しではない」
と。

すべて自分自身の功徳のためだから、
道中でも宿でも馬子や子供にも銭を撒いた。

富士山の火口にはことさら景気よく撒いた。

こうしたお金がかかる富士登山は、庶民には高根の華だ。

だから講組織に入り月々掛け金を掛けた。
それでもようやく実現するには、3年とか5年かかった。

力持ちが必要とされた事例もある。

「寛政9年(1797)に、
小御嶽に重量百八貫(430㎏)の鉄の斧が奉納されている」(岩科氏)

ということからも、富士山に重いものを運び上げるには、
力持ちの力を借りなければならないし、
富士塚築造の際にも、力持ちが頼りになったはず。

そこで「田子富士保存会」の方にお聞きしました。

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埼玉県志木市本町・敷島神社

質問 「東京の神社などで、力石を埋め込んだ富士塚を見かけます。
    ご当地の敷島神社や羽根倉浅間神社にも、力石が保存されています。

    また、有名な力持ちの亀嶋平蔵の歌石に、富士山を連想させるような
   「雲霧も晴れゆく」と言う言葉が出てきます。
    そんなことから、
    富士講信者には力持ちもいたのではないかと思っておりますが、
    いかがでしょうか」


 「敷島神社の力石は、市内にあったものが邪魔に扱われていたので、
   昨年、引き取ったものです」


ガーン! 元からここになかったのか…。(*゚Q゚*)

それなら、羽根倉浅間神社の力石は?

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埼玉県志木市上宗岡・羽根倉浅間神社

 「宗岡の浅間神社の力石は従前からあったものと思われます。
   宗岡の中ノ氷川神社に1個、下ノ氷川神社には4個の力石があります。

ブログ「へいへいのスタジオ2010」のへいへいさんが、
下ノ氷川神社の石を撮影してくださっています。

ちょっと「日陰の身」ですが、丁寧に保存されています。

下ノ氷川神社
埼玉県志木市下宗岡・下ノ氷川神社

羽根倉浅間神社の石にある「荒井清治郎」の名が、
ここでも世話人として刻まれています。

へいへいさんは埼玉県内の力石を数多く訪ねていますが、
羽根倉浅間神社と同じ上宗岡の大仙寺の力石も撮影されています。

「志木市大仙寺の石をたずねて」

大仙寺へいへいさん
埼玉県志木市上宗岡・大仙寺

 「ですが、力石が富士講と関係があったということは、
   全く聞いたことがありません。
    
   なお、荒井清治郎は清水清治郎とも呼ばれ、
   大変な力持ちだったので、花のお江戸での興行で成功し、
    
   清国まで遠征して大成功を収めて帰国したと言われております。

   (さらに後日談あり…)」

※「後日談」とは、これです。
  清治郎は再度の海外巡業への出発に際し、
 「もし自分が帰ってこなかったら、これを祀ってくれ」と言い、
 愛用の力石を置いていったが、その通りになってしまったという。

それにしても、ああ、

私が思い描いた夢、力持ちと富士講の関係が、
きれいさっぱり遠のいてしまいました。

でもね、まだまだ希望は捨ててはいませんよ。
きっとどこかに糸口が見つかる。

頼りにしたいのが、講印です。
これが力石のどこかについていればと、淡い期待を持つ。

なにはともあれ、保存会の方には、
ご多忙の中、お時間を割いていただき、心から感謝申しあげます。

保存会の方からの伝言です。

「志木の田子山富士塚は、富士塚の典型例と文化庁が高く評価している通り、見応えのある富士塚です。

ぜひ、お出かけください」

ユキワリソウ
11 ユキワリソウその2

下のURLは、
「田子山富士塚」を15のパーツに分けて、案内している動画です。

各動画の案内時間は1分足らず。
歯切れのよい解説で、あっという間に頂上へ着いてしまいます。

ぜひごらんください。そして富士塚を体感してみてください。

「武州志木宿 田子山富士塚のごあんない」

実はこの動画の解説者が、私の質問に答えてくださった方なんです。

私、つくづく思いましたよ。

埼玉県人って、すごいなって。ここは人材の宝庫だなって。

私がお世話になっている写真撮影の方々は、それぞれ個性豊かだし、
ご訪問くださる方々のブログもまた、味わい深いものばかりです。

地元を盛り立てようとされる方々の気概や実行力は切れ味がよく、
それでいて押しつけがましさや理屈っぽさがない。

みなさん、
おおらかで温かく、さりげないユーモアの持ち主ばかりです。

力石の大先輩の斎藤氏もその典型で、
非常に真面目な方なのに、何気なくさらりと面白がらせてくれます。

そんな斎藤氏が送ってくださったのがこれ。

猫かかし。

猫が田んぼに、なんて想像もしませんでした。

猫2

センスいい!

父ちゃん母ちゃんの着古したシャツを着せられた
当地の古典的かかしとは大違い。

発想が斬新です。ダサイ玉だなんて、とんでもない。

埼玉県は、多彩な才能を持つ珠玉の人たちの集合体です。

「多才玉」県と言わせてください。

「オイオイ、そりゃあ、チト褒め過ぎじゃニャイかい?」

すかさず道端のクロネコから声が掛かった。

猫1

あたいがスリスリしている土管に書いてあるよ。

「LA CAMPAGNE」ってサ。

「A」が抜けちゃってるけど、
これ、ホントは「A LA CAMPAGNE」(ア・ラ・カンパーニュ)

「フランスの田舎風のタルト」って意味らしいから、
ここは「田舎」ってことなんだけどね。

でもまあ、言ってみれば、

埼玉県は素朴ながら、
「人情も風土も絶品のお町」

ってことだニャン!

※この記事を読んだ斎藤氏から、
「多彩玉」なんてのも浮かびました」とのメールをいただきました。

うん、いいですね!


ーーー追記ですーーー

斎藤氏、気になって再び、クロネコさんのところへ。

その結果、これは「株式会社セトクラフト ラ・カンパーニュ」という会社の
「クロネコ ソ-ラーライト チムニー」という製品の壊れたものと判明。

ケーキのタルトじゃなかった! 
セトクラフト ラ・カンパーニュさんごめんなさい。

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。