力石二題
みなさまからの力石2
先日、平塚市の
「路傍の石」の情報を呼びかける記事を書きました。
ブログ「横浜水道みちを行く」のdoushigawaさんが見つけた石で、
刻字はありませんが、形は力石そのもの。
これです。

神奈川県平塚市札場町
で、平塚市博物館へ問い合わせたものの「五輪塔の残欠です」との?回答。
ならばと、地元の須賀公民館に依頼して須賀史談会へ改めて問い合わせ。
しかし、公民館を通じて返答があったものの、結論は「わからない」
ここであえなく行き詰った。
でも、返信メールをよく見たら、博物館の方も史談会さんも、
大事な情報を伝えてくださっていたんです。
「港地区内に力石は、
港稲荷神社と平塚市立港小学校の2か所にあります」
そういえば、doushigawaさんもブログで港稲荷神社の力石に触れていて、
私は手持ちの資料にはないから、新発見石かなと思ったのに、
路傍の石に気を取られてすっかり忘れていました。
赤い鳥居のそばに力石が見えます。

神奈川県平塚市千石河岸64 港稲荷神社
地元では知られていたこの2か所の石、
全国版では「初お目見え」といったところでしょうか。
個数については博物館では神社に1個、小学校に2個、
史談会では神社に2個、小学校に1個か2個と違いはあるものの、
神社の石には、
「弐拾四メ目 大正四年五月吉日 大庭定吉 五十二才」
(doushigawaさん解読。1個確認)
小学校の石には「廿四〆」「廿七〆」(博物館確認)と、刻字もある。
港稲荷神社の力石です。

博物館の方によると、これらの石は、
「神社が昭和20年代前半の区画整理で現在地に移転する際、
神社跡地から出てきた力石で、この2か所に移設した」
「小学校には《地域の人が力比べに石を持ち上げていた》
との説明板がありますが、実際に使っていた方のお話を聞いたことはない」
とのこと。
港にある神社で出たということは、仲士たちが担いだ石かもしれませんが、
昭和20年代といえば、第二次大戦が終わって間もない時期ですから、
逆によくぞ無事に残っていてくれたと思います。
あの路傍の石もここから出た力石だったのではないか、
それが無銘の石だったので捨てられた、
との思いが消えません。
が、この長い年月、どこをどう彷徨って現在の側溝の上に収まったのか、
ますます知りたくなりました。
平塚市立博物館、須賀公民館、須賀史談会の皆様、
ご協力ありがとうございました。
こちらは力石を見つけたときのdoushigawaさんの記事
「須賀漁港周辺の石仏を訪ねて」です。
「横浜水道みちを行く」

ーーーもう一つ、東京の力石に関する出来事をお伝えします。
ブログ「Busybee Life」のBUSYBEE-GAEIさん、
この日はお母様と素敵な時間を過ごされた後、神社へぶらりと立ち寄りました。
蒲田八幡神社です。

東京都大田区蒲田4丁目ー18-18
そこで、「大田区の文化財 第7集」に、
ここの力石が載っていたのを思い出し、境内を探したが、
「あれれ、ない」
そこで神職の方にお聞きしたら、「無い」と。「あれ、勘違いしたかなあ」
勘違いじゃないですよ。あるはずなんです。
「三拾八〆目 新村」
これです。

「東京の力石」高島慎助 岩田書院 2003
BUSYBEE-GAEIさんのブログ記事です。
「母とタカマル鮮魚店へ」
そこでワタクシメが出しゃばって、大田区へ問い合わせました。
お返事、早かったですよ。その上、ありがたいお言葉まで。
「蒲田八幡神社の力石は、「大田区の文化財 第7集」のほか、
平成初期に実施された石造物の調査報告書
「大田区の文化財 第37集」(2010年刊行)にも掲載されております」
「今回確認できなかった理由として考えられるのは、
八幡神社の境内整備(令和元年頃に実施)のため、移設もしくは撤去」
そして、こんな言葉もいただきました。
「近日中に確認してまいりたいと思います。
この度は情報のご提供ありがとうございました」
大田区教育委員会文化財担当者様、感謝申し上げます。
そして、よろしくお願いいたします。

で、平塚をネット検索していた折、某ブログと遭遇。
その中に力石があったんです。

ーーー初見の石か?ーー
場所は平塚市明石町の恵比寿神社。
これも、全国版では初お目見えの力石ではないでしょうか?
ドクター・キムルさんのブログです。
「平塚・大磯旅行記」
ひょっとして「平塚市」は、見落しの多い「力石の穴場」かも。

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「路傍の石」の情報を呼びかける記事を書きました。
ブログ「横浜水道みちを行く」のdoushigawaさんが見つけた石で、
刻字はありませんが、形は力石そのもの。
これです。

神奈川県平塚市札場町
で、平塚市博物館へ問い合わせたものの「五輪塔の残欠です」との?回答。
ならばと、地元の須賀公民館に依頼して須賀史談会へ改めて問い合わせ。
しかし、公民館を通じて返答があったものの、結論は「わからない」
ここであえなく行き詰った。
でも、返信メールをよく見たら、博物館の方も史談会さんも、
大事な情報を伝えてくださっていたんです。
「港地区内に力石は、
港稲荷神社と平塚市立港小学校の2か所にあります」
そういえば、doushigawaさんもブログで港稲荷神社の力石に触れていて、
私は手持ちの資料にはないから、新発見石かなと思ったのに、
路傍の石に気を取られてすっかり忘れていました。
赤い鳥居のそばに力石が見えます。

神奈川県平塚市千石河岸64 港稲荷神社
地元では知られていたこの2か所の石、
全国版では「初お目見え」といったところでしょうか。
個数については博物館では神社に1個、小学校に2個、
史談会では神社に2個、小学校に1個か2個と違いはあるものの、
神社の石には、
「弐拾四メ目 大正四年五月吉日 大庭定吉 五十二才」
(doushigawaさん解読。1個確認)
小学校の石には「廿四〆」「廿七〆」(博物館確認)と、刻字もある。
港稲荷神社の力石です。

博物館の方によると、これらの石は、
「神社が昭和20年代前半の区画整理で現在地に移転する際、
神社跡地から出てきた力石で、この2か所に移設した」
「小学校には《地域の人が力比べに石を持ち上げていた》
との説明板がありますが、実際に使っていた方のお話を聞いたことはない」
とのこと。
港にある神社で出たということは、仲士たちが担いだ石かもしれませんが、
昭和20年代といえば、第二次大戦が終わって間もない時期ですから、
逆によくぞ無事に残っていてくれたと思います。
あの路傍の石もここから出た力石だったのではないか、
それが無銘の石だったので捨てられた、
との思いが消えません。
が、この長い年月、どこをどう彷徨って現在の側溝の上に収まったのか、
ますます知りたくなりました。
平塚市立博物館、須賀公民館、須賀史談会の皆様、
ご協力ありがとうございました。
こちらは力石を見つけたときのdoushigawaさんの記事
「須賀漁港周辺の石仏を訪ねて」です。
「横浜水道みちを行く」


ブログ「Busybee Life」のBUSYBEE-GAEIさん、
この日はお母様と素敵な時間を過ごされた後、神社へぶらりと立ち寄りました。
蒲田八幡神社です。

東京都大田区蒲田4丁目ー18-18
そこで、「大田区の文化財 第7集」に、
ここの力石が載っていたのを思い出し、境内を探したが、
「あれれ、ない」
そこで神職の方にお聞きしたら、「無い」と。「あれ、勘違いしたかなあ」
勘違いじゃないですよ。あるはずなんです。
「三拾八〆目 新村」
これです。

「東京の力石」高島慎助 岩田書院 2003
BUSYBEE-GAEIさんのブログ記事です。
「母とタカマル鮮魚店へ」
そこでワタクシメが出しゃばって、大田区へ問い合わせました。
お返事、早かったですよ。その上、ありがたいお言葉まで。
「蒲田八幡神社の力石は、「大田区の文化財 第7集」のほか、
平成初期に実施された石造物の調査報告書
「大田区の文化財 第37集」(2010年刊行)にも掲載されております」
「今回確認できなかった理由として考えられるのは、
八幡神社の境内整備(令和元年頃に実施)のため、移設もしくは撤去」
そして、こんな言葉もいただきました。
「近日中に確認してまいりたいと思います。
この度は情報のご提供ありがとうございました」
大田区教育委員会文化財担当者様、感謝申し上げます。
そして、よろしくお願いいたします。

で、平塚をネット検索していた折、某ブログと遭遇。
その中に力石があったんです。



場所は平塚市明石町の恵比寿神社。
これも、全国版では初お目見えの力石ではないでしょうか?
ドクター・キムルさんのブログです。
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ひょっとして「平塚市」は、見落しの多い「力石の穴場」かも。

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