fc2ブログ

力石二題

みなさまからの力石2
06 /19 2023
先日、平塚市の
「路傍の石」の情報を呼びかける記事を書きました。

ブログ「横浜水道みちを行く」のdoushigawaさんが見つけた石で、
刻字はありませんが、形は力石そのもの。

これです。
水道みち2
神奈川県平塚市札場町 

で、平塚市博物館へ問い合わせたものの「五輪塔の残欠です」との?回答。

ならばと、地元の須賀公民館に依頼して須賀史談会へ改めて問い合わせ。
しかし、公民館を通じて返答があったものの、結論は「わからない」

ここであえなく行き詰った。

でも、返信メールをよく見たら、博物館の方も史談会さんも、
大事な情報を伝えてくださっていたんです。


「港地区内に力石は、
港稲荷神社平塚市立港小学校の2か所にあります」

そういえば、doushigawaさんもブログで港稲荷神社の力石に触れていて、
私は手持ちの資料にはないから、新発見石かなと思ったのに、
路傍の石に気を取られてすっかり忘れていました。


赤い鳥居のそばに力石が見えます。
港稲荷
神奈川県平塚市千石河岸64 港稲荷神社

地元では知られていたこの2か所の石、
全国版では「初お目見え」といったところでしょうか。


個数については博物館では神社に1個、小学校に2個、
史談会では神社に2個、小学校に1個か2個と違いはあるものの、


神社の石には、
「弐拾四メ目 大正四年五月吉日 大庭定吉 五十二才」
(doushigawaさん解読。1個確認)

小学校の石には「廿四〆」「廿七〆」(博物館確認)と、刻字もある。

港稲荷神社の力石です。
港稲荷神社

博物館の方によると、これらの石は、
「神社が昭和20年代前半の区画整理で現在地に移転する際、
神社跡地から出てきた力石で、この2か所に移設した」


「小学校には《地域の人が力比べに石を持ち上げていた》
との説明板がありますが、実際に使っていた方のお話を聞いたことはない」
とのこと。


港にある神社で出たということは、仲士たちが担いだ石かもしれませんが、
昭和20年代といえば、第二次大戦が終わって間もない時期ですから、
逆によくぞ無事に残っていてくれたと思います。

あの路傍の石もここから出た力石だったのではないか、
それが無銘の石だったので捨てられた、

との思いが消えません。

が、この長い年月、どこをどう彷徨って現在の側溝の上に収まったのか、
ますます知りたくなりました。


平塚市立博物館、須賀公民館、須賀史談会の皆様、
ご協力ありがとうございました。

こちらは力石を見つけたときのdoushigawaさんの記事
「須賀漁港周辺の石仏を訪ねて」です。
「横浜水道みちを行く」

ーーーもう一つ、東京の力石に関する出来事をお伝えします。

ブログ「Busybee Life」のBUSYBEE-GAEIさん、
この日はお母様と素敵な時間を過ごされた後、神社へぶらりと立ち寄りました。


蒲田八幡神社です。
蒲田八幡1
東京都大田区蒲田4丁目ー18-18

そこで、「大田区の文化財 第7集」に、
ここの力石が載っていたのを思い出し、境内を探したが、


「あれれ、ない」

そこで神職の方にお聞きしたら、「無い」と。「あれ、勘違いしたかなあ」

勘違いじゃないですよ。あるはずなんです。


「三拾八〆目 新村」

これです。
img20230615_02442196.jpg
「東京の力石」高島慎助 岩田書院 2003

BUSYBEE-GAEIさんのブログ記事です。
「母とタカマル鮮魚店へ」

そこでワタクシメが出しゃばって、大田区へ問い合わせました。
お返事、早かったですよ。その上、ありがたいお言葉まで。


「蒲田八幡神社の力石は、「大田区の文化財 第7集」のほか、
平成初期に実施された石造物の調査報告書
「大田区の文化財 第37集」
(2010年刊行)にも掲載されております」

「今回確認できなかった理由として考えられるのは、
八幡神社の境内整備
(令和元年頃に実施)のため、移設もしくは撤去」

そして、こんな言葉もいただきました。

「近日中に確認してまいりたいと思います。
この度は情報のご提供ありがとうございました」


大田区教育委員会文化財担当者様、感謝申し上げます。
そして、よろしくお願いいたします。


蒲田八幡2

で、平塚をネット検索していた折、某ブログと遭遇。
その中に力石があったんです。

ーーー初見の石か?ーー

場所は平塚市明石町恵比寿神社。

これも、全国版では初お目見えの力石ではないでしょうか?

ドクター・キムルさんのブログです。
「平塚・大磯旅行記」

ひょっとして「平塚市」は、見落しの多い「力石の穴場」かも。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村
スポンサーサイト



もう知る人は誰もいない

みなさまからの力石2
06 /10 2023
静岡県での久々の力石の新発見です。

この情報をお寄せくださったのは、
先月、拙ブログでご紹介した富士宮市在住の郷土史家・増田文夫氏です。

先月いただいたお手紙には、こうありました。

「定年退職して10年の歳月を数えることとなり、人生の一区切りとして
この間に調べた郷土・内房の石造物についてまとめる作業をしてます」

そしてその本の中に「内房の力石」を入れる予定ということで、
原稿をお送りくださったのです。

増田氏は現在、富士宮市史編纂の事業に携わり、
「民族編」の基礎資料・石造物の悉皆調査員として、
他の調査員4名ほどで調査を進めているとのこと。

そんな中で力石を発見。

場所は静岡県東部。静岡県富士市の富士駅から山梨県甲府に至る
身延線添いにある山寄りの集落です。(赤丸)
img20230606_13250132.jpg
静岡県富士宮市上稲子(旧芝川町上稲子池ノ谷)

「5月から稲子地区の調査に入りまして、そろそろ調査も終わりに近づき、
池ノ谷区の観音堂の地蔵尊などの調査に入りました。

そうしましたところ、観音堂の地蔵尊の足元に力石が置かれていることに
調査員の一人が気づきました」

力石の散逸を惜しんで、どなたかが地蔵さんのところへ置いたのでしょう。
それが何十年ぶりかで増田さんたちによって発見された。

「二人一緒なら寂しくないね」。地蔵さんと共にこの先もずっと一緒です。
上稲子4

「重量は推定30㎏と見えました。
石の存在については、もう知る人も恐らくいないだろうと思います」

(増田氏)

このあたりは、谷あいや川を挟んで小さな集落が点在しているところで、
公共交通の手段がないうえ、車の運転をしない私なので、
力石探しの時は苦労しました。

だから探訪はすべて、地元の方々に助けられて…。

あの頃見た村々が、調査員の方々の目に映った光景と重なり、
懐かしく思い出されました。

CIMG4716_2023060721184544d.jpg

当時、音が消えた村の中に立って思ったものです。

村が活気に満ちていたころ、お堂や氏神さまに集まって、
石の担ぎっこをして楽しんだ若者たちの姿を…。

そんな集落の一つに暮らしていた老婦人の話は、今も忘れられません。

「お堂の横に青年宿があって、夜になると煌々と明かりがついたですよ。
仕事が終わるとみんな集まって、石の担ぎっくらして賑やかだった。
青年らは毎晩、夜回りをして、祭りには張り切っていたっけが、
でもみんな、いなくなっちゃった」

今はもう遥か遠い日の出来事になってしまったけれど、
老婦人には、そのときの賑わいも楽しい笑い声も、
昨日のことのように残っていた。

この方もその後まもなく、鬼籍に入られたと知らされた。

草に埋もれ苔に覆われた、池ノ谷観音堂の力石です。
上稲子稲子3
56・7×35×27・3cm

過疎化が進んだ村里では、この石もまた自然に帰っていくことでしょう。

でもこうして調査員のみなさんに発見されて、
記録に残されることになったのです。

恐らくこの石が「紙」に記載されるのは、初めのことだと思います。

「庶民のこんな過去の遺物を記録に残して何になる」
そう言う人もいます。

でも私は思うのです。
王様の遺物は貴重で、庶民の遺物は価値がないというのは間違っている、と。

権力者たる「王様」の記録は紙に残され、遺留品のお宝や出土品から、
その時代の文化や人間模様を後世に教えてくれますが、
名もない庶民文化は価値のないものとしてその都度消えていき、
何も残りません。


ですが歴史は、人口の9割以上を占める庶民の存在なくしては作れなかった。
ささやかな存在ながら、力石もその一つです。

だからこそ、「力石が生きた証し」を残すべきだ、と。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

情報をお寄せください

みなさまからの力石2
06 /04 2023
水の道を辿ってその源を突き止め、源を下って水の行く末を丹念に追う。

そのdoushigawaさんのブログに、こんな石が出ていました。

どう見ても力石に見えます。

水道みち
神奈川県平塚市札場町

ブログ主さんも「刻字は見当たらないけど、力石ではないか」と。

確かに。

形もそうですが、こうして捨てずになんとなく置いてあるのも、
後の人たちがよくする方法です。


doushigawaさんからこんな情報もいただきました。
「グーグルのストリートビューを見たら、2011年のビューにも載っているので、相当昔からここに転がっているみたいです」


以下の記事の最初に出てくる港稲荷神社の石は、すでに収録済み。
次に出てくるのが問題の石です。民家の脇の側溝上に転がっています。
「横浜水道みちを行く」

そこで博物館に問い合わせました。

そのお返事は、「それは力石ではなく、五輪塔の残骸です」


事前に「その先に道祖神の小祠があります」と伝えましたが、
そのあたりには似たような小祠が多そうなので心配していました。
でもお返事の内容から、伝えた道祖神を把握されたのは確かです。

でも残念な回答で…。
あまりにもきっぱり「五輪塔の残骸です」と断定されたので、しばし呆然。

資料を見ただけで判断されたのか、早とちりをしたのか。
もしかしたら力石を見たことがない学芸員さんなのかな。

こちらが「側溝上の石」近くの道祖神の祠です。
平塚道祖神
平塚市札場町26・北町西原大門の道祖神

学芸員さんがいう「五輪塔の残骸」は、たぶん、これ。(下の写真)
でもなぁ、ちゃんと自己紹介をしたし、
いくら私がそそっかしくても、五輪塔と力石の違いはわかります。

なんだかがっくりです。

ちょっとピンボケですが、確かに五輪塔の一部が写っています。
五輪塔部分

それで改めて石の写真を貼付してお送りしたのですが、
今度は待てどくらせどお返事をいただけず。

返信メールにあった公共と個人2か所のメルアドに出したけど、
なぜかどちらもリターン。だから知らないでいるかと思いますが、
これ以上の手段が見つからず断念しました。

私がこの近くに住んでいたなら直接、このお宅に伺ってお聞きできますが、
そうもいかず。


石が置かれた場所のお宅の方が、拙ブログをご覧になってくださっていて、
ご一報いただけたらこんな有難いことはありませんが、
まず無理ですよね。

そこで、みなさまにお願いです。


この石の詳細をご存じの方がおられましたら、ぜひお教えください。

水道みち2

場所は、doushigawaさんの以下の説明を参考にしてください。

「平塚市札場町26の路傍の”赤鳥居と小祠”写真の奥、
一筋目道路を左へ入った右側の側溝の上」


※赤鳥居の小祠は「北町西原大門の道祖神」です。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

20年目の真実

みなさまからの力石2
05 /05 2023
BUSYBEE-GAEIさんのブログ「Busybee Life」を拝見して、
あれ?と思ったんです。


ブログ主さんが東京・江戸川区の香取神社へ行った時の記事に、
こんな写真があったからです。

古い鳥居を置いた「旧鳥居碑」の後ろに、力石のような石が…。


東小松川1
東京都江戸川区中央4-25・東小松川・香取神社

BUSYBEE-GAEIさん、近寄って写真を撮りました。

「さし石」と読めます。
境内にいた法被を着た人に「力石ですか?」聞いたが、「わからない」という。


「わからないたァ、なんだよ」と、
外野の私から文句を言いたいところですが、先を急ぎます。


東小松川2

私、この写真に目を凝らして考えました。

どこかで見覚えがあるような? でも古い鳥居の後ろって記憶にないしなぁ。
ひょっとして新発見かも。

そこで困ったときの助っ人、斎藤氏に問い合わせると以下のお返事が…。

「メモを見たらこの神社には、
江戸川区郷土資料室の「まるいし おもいし ちからいし」展の帰りに、
立ち寄っていたことが判った。でも調査に行ったわけではなかったので
さっと見て帰ったが、確か「さし石」のような石が1個あった」

そこで斎藤氏、改めて、
「東京の力石」
(高島慎助 岩田書院 2003)を精査してみたら、
ここの神社の力石は1個どころか13個と書いてある。

「あれ、おかしいな」とさらに調べたら、こんな間違いを発見。
な、なんと、この神社のデータと近くのもう一つの香取神社のデータが、


アベコベになっていた!

img20230428_09452777.jpg

さあさあ、お立合い!
「一枚が二枚、二枚が四枚…」なんて遊んでいる場合じゃーない。


5個13個に、13個5個に入れ替わっていたというのですから、

ヒエーッ!

高島先生! 間違ってますよ!

それからすぐ、斎藤氏から2通目のこんなメールが届いた。

「ふふふ 雨宮さんもここへ行って写真を撮っていましたよ。
そのとき、
「東京の力石」と両社の石の個数の違いに疑問を持たれたようです」

そこで改めて自分のブログを見ると、ありました!

「行ってきました!「ちからいし」展」

2015年、
斎藤氏が行った江戸川区郷土資料室での「ちからいし展」に、
私も行っていました。日付を見たら斎藤氏より一日早く。

で、そこでいただいたパンフ「力石に会いに行こう!」を手に、
両方の香取神社へ行っていたんです。


img20230428_08232722_2023042809563058f.jpg

すっかり忘れていました。

これが2015年に私が撮影した東小松川・香取神社の「さし石」です。

当時は香取神社境内社「日枝神社」内の手水鉢の前にありました。

そうそうあの時思ったんですよ。
「あれ? 本には13個とあったけど、たったの1個?」


2015年ちから石展

この石の刻字です。
「さし石 世話人 上之庭 秋元宗十郎 新道庭 鈴木伝左ェ門
鈴木治兵ェ 中之庭 小日向太兵衛 東小松川 梅澤」

下の写真が「東京の力石」に掲載されているここの写真です。

現在は1個のみですが、
この写真では「神輿奉献記念碑」周辺に複数写っています。


斎藤氏の調査によると、「葛飾区郷土と天文の博物館」の2000年発行の
「特別展 怪力伝説 東京近郊の草相撲と力持ち」
の表の中に、
江戸川区の力石として、
中央4-25(東小松川・香取神社)5個と記載されているそうですから、
かつては5個存在していたと思われます。

右下にある石、「さし石」に似ています。
img20230428_08245926.jpg
「東京の力石」より

データがアベコベになっていたもう一か所の香取神社は、
新小岩・香取神社
(中央4-5)です。

下は2015年に私が撮影したこの神社の力石です。


ここへ来て石を見たときも、
「あれ? 東京の力石では5個となっていたけど、なんだか増えてる」
と思ったんです。

で、そのときは再調査をと思いつつ、いつしか忘却のかなたへ。

※ちなみに「葛飾区郷土と天文の博物館」の資料には、
ここの力石は13個と明記されているから、
増えたんじゃなくて最初から13個だったんだ。

それにしてもこの粗雑な置き方。悲しすぎます。先人が泣いています。
CIMG2447_20230428102920ba7.jpg
東京都江戸川区中央4-5・新小岩・香取神社

それが8年の歳月を経て、
思いがけずBUSYBEE-GAEIさんのブログで改めて再調査。
その結果、20年前の本のデータミスが判明しました。

私が当時、「あれ?」と疑問に思った石の個数の謎がようやく解けました。


三重之助先生! ほんとにもうー! (♯`∧´)
でもまあ、そのころの先生も孤軍奮闘でしたから、
その頑張りに免じて許してさしあげます。

        ーーー◇ーーー

「さし石」の移動の変遷(斎藤氏の調査による)ー

① 2000年 「さし石」を含め5個確認。
       by「葛飾区郷土と天文の博物館・特別展資料」

② 2010年 境内社の日枝神社・手水鉢前に「さし石」。
       そのほか境内各所に力石らしき石が散在。
       byブログ「神社探訪 狛犬見聞録」

③ 2015年 斎藤氏、雨宮が手水鉢前に「さし石」確認。
       江戸川区郷土資料室発行の同年発行のパンフも、
       ここの神社の力石は「さし石」1個となっていることから、
       この時点で、あとの4個はすでに散逸してしまったと思われる。

④ 2018年 この年、境内社の改築。
       台座上の5基の小詞は撤去され、新たに3基設置。
       台座横にあった「山王大権現碑」は「旧鳥居碑」後ろに移動。
       その 「山王大権現碑」横に「さし石」確認。
       byブログ「晴れた日は歩いて行こう、どこまでも」
       
⑤ 2019年6月 「さし石」、2018年当時のまま、
        「旧鳥居碑」裏の「山王大権現碑」横に。
        byブログ「ホトカミ 香取神社のお参りの記録」 

⑥ 2023年 BUSYBEE-GAEIさんにより、同場所に確認。

あとの4個は不明。そのうちの一つには、以下の刻字がありました。

「□し石 東小松川 梅澤 四十町 力蔵 
當村 吉二郎 舟堀 桶長」


ここに出てくる「四十町力蔵」は、「鬼熊」門人。 

鬼熊を始め、本町東助、扇橋金兵衛、大島伝吉、四ツ目吉五郎などの
当時の花形力持ち力士と共に活躍し、同じ石に名を刻んだ有名力持ちです。

これを葬ってしまったのは、なんとも惜しい。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

空振りだったけど、すごく嬉しかった

みなさまからの力石2
05 /02 2023
今年1月、ふと覗いたブログ「Atelierありあ」

管理人さんは、
千葉市稲毛区でArtサロン「ありあ亭」を主宰する「ありあんね」さんです。

ブログの御挨拶に、絵画教室、イベントルーム、アートサロンを
「ゆるゆると開設した」とある通り、
どのページも穏やかにあたたかく、ゆったりと流れています。


41回も続いている「千葉手作り絵本展」より
DSC_1098.jpeg

そんな中に、力石らしき写真がありました。

これです。
ありあんねさん
千葉市稲毛区小中台1・熊野神社

この稲毛区では今まで以下の3か所しか確認されていないんです。
●吉田久衛門宅角(園生町)
●公民館(萩台町)
●駒形観音堂(長沼町)


これは新発見かも!と、期待が高まりました。
で、さっそくご連絡。

ありあんねさんから、
「この地区はあまり踏み入れたことはなく、Googleを見ながら
迷い迷い辿り着いた。再調査に行ってみますね」との有難いお返事です。


ありあんねさんが最初に訪れたときのブログ記事です。
「熊野神社」

1か月後、本当に行ってくださったんです。

いくつかの丸い石を探し出して、
何か文字が刻まれていないか調べてくださったそうですが、

残念!

見つかりません。


熊野神社2

「記念碑によると、
どうやらこの神社客殿、事務所は移転・改築されたようです」とのこと。


熊野神社碑

でも諦めるのはなんだか惜しくて、改めて千葉市に問い合わせました。

ダメかなと思いつつ待っていたら、お返事がきました。
\(^o^)/

他県の見ず知らずの人間からの問い合わせなのに、
市教委文化財課の職員さん、
休みの日に、しかも雨の中を見に行ってくださったんです。

その結果、やっぱり「違うようだ」と。


●文字等の刻が確認できないこと。
●いずれも質量が小さく、一般的な力石と比較して軽量と想定されること。 

 (私でも持ち上がりそうなサイズ)

ああ…。

石2熊野

すっかり、お騒がせしてしまいました。

ありあんねさま、千葉市教育委員会生涯学習文化財課の職員さま、
お許しを。

文化財課の方には、
庁舎移転や新年度の端境期という超多忙な時期にお手を煩わせてしまい、
申し訳なかったです。

でも私はなんだかとっても嬉しかったんです。
だって、「力石」に興味のない方にはどうでもいい石っころなのに、
こんなに熱く対応していただいたんですから。

お二方に改めて感謝申し上げます。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞