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「佐七」のその後

若者組・若い衆組
02 /01 2015
「みち婦村の佐七」へ入る前に、ちょっと寄り道。

静岡県内の力石を調査していて、気づいたことがあります。
それは、静岡県のほぼ中央に位置する県庁所在地の旧静岡市を境に、
東へ行くほど力石の発見個数が多くなり、
西へ行くほど少なくなるということです。


東に位置する「佐七」の故郷、伊豆の松崎町は一町だけで16個もあるのに、
西の浜松市には「武将が使った」という伝承の割れた力石が一つあるだけ。

このことを知ったNPO法人の「天竜川・杣人の会」理事の斉藤朋之氏、
「なぜだ!」と発奮して? 力石探索に乗り出してくれました。
そしてきめ細かく歩き回り、とうとう2個も見つけてしまったのです。

一つ目はこれです。
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天竜林業体育館北の路傍  =浜松市天竜区月

秋葉道に人待ち顔の力石  雨宮清子
                          
案内板によると、
「この石は昔からここに置かれて村人を守ってくれた道祖神です。
また若者の力だめしに力石としても使われていました」
分類上では「代用力石」となりますが、重さ139キロの見事な力石です。


もう一つはこちら。
石垣の上に黒光りした石がちょこんと乗っかっていますが、これが力石です。


CIMG1199.jpg
五社神社=浜松市天竜区佐久間町浦川

浦川の郷土史家・伊東明書(あきふみ)氏と、
「天竜川・杣人の会」の斉藤朋之氏のご尽力で、陽の目を見た力石です。


家並も力石(いし)もセピアに塗り込めて
         こぬか雨降る山あいの町
  雨宮清子
                                      
力石の個数が、なぜ地域によって偏っているのかはっきりはわかりません。
早くから都市化や開発が進んだところは少ないかといえば、
そうでもありません。
大空襲で壊滅的被害を受けた東京には、
約1400個もの石が保存されていますし、輸出港として栄えた旧清水市は、
県内最多の力石保有地域です。

ひょっとしたら、若衆組や青年団の消長と関係があるのかもしれません。
つまり、古い若衆組を捨てて、
ハイカラな青年団色を強く打ち出したところには、力石は残りにくく、
若衆組と青年団が併存していた地域には残りやすかった、
そんなことも考えられます。


「みち婦村の佐七」が力石を残した八木山八幡神社の若者たちです。
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昭和28年(1953)で最後となった奉納相撲の地元力士たち

伊豆地方には完成された「若衆制度」があり、厳しい「御条目」がありました。
明治以降、国はこの堅固な若者組の組織を官制の青年団に作り替えます。

ですが、伊豆地方などでは若者組の良さを失いたくないという思いが強く、
昔からの若者組と上から押し付けられた青年団とを併存してきたといいます。
そのため「若衆組の寝宿」の習慣が、昭和50年代半ばまでありました。


「会社勤めをしながら夜は寝宿へ泊った。
最後は二人になり、昭和56年で廃止と決まった」

(沼津市木負・昭和13年生まれの記録)

「戦争の帰還兵が若者組に帰ってきたとき、
やたら年少者を殴るので困った」。そんな重苦しい話も残っています。

さて、「佐七」です。

佐七が八幡神社に力石を奉納したのが「天明3年」であることから、
佐七は江戸中期ごろの人ということになります。
カツオ船の乗組員でしたが、漁の仕事がない冬季には、
江戸の南新川、つまり酒問屋へ出稼ぎに行っていたということが、
石の刻字からわかります。

佐七のその後はどうなったのか気になるところですが、
残念ながら、今のところ、全く手がかりがありません。

下の絵は「御蔵前八幡奉納力持錦絵」三枚つづりのうちの一枚です
歌川国安画、文政7年 =御蔵前八幡(現・東京都台東区の蔵前神社)

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右側の酒樽を片手でさしている人物は、「小結佐七」とあります。

これが「みち婦村の佐七」であったなら、とは思いますが証拠はありません。
ですが佐七は、故郷の八木山八幡神社に、
「六拾貫余(約225㌔)」もの力石を奉納した力持ちです。


「御蔵前八幡力持奉納錦絵」には、素人力士が6人描かれています。
ほとんどが文政期に活躍した力士たちで、酒問屋の奉公人です。

佐七が江戸でも通用する力持ちであったこと。
酒問屋の奉公人であったこと。
錦絵が描かれたのは、佐七と同時代であること。


もしかして、もしかして、
錦絵の「小結佐七」が伊豆の若者「みち婦村の佐七」であったなら…。

無駄とは思いつつ、そんなことを夢想せずにはいられません。

<つづく>

※画像提供
/「松崎町史資料編 第四集 民俗編(下)」松崎町教育委員会
 平成14年
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「みち婦村の佐七」、ふたたび

若者組・若い衆組
01 /28 2015
今まで書き続けてきた「戦争と若者と力石」のそもそもの発端は、
静岡県賀茂郡松崎町・八木山八幡神社にある力石、
「みち婦村 佐七」からでした。

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八木山八幡神社。ケヤキの木の間に見えるのが力石

CIMG0087 (3)
向かって左の石が佐七が持った石
年代刻字石としては、静岡県内で一番古い力石です。

奉納 六拾貫余 
癸卯天明三年三月 南新川 佐七 みち婦村 佐七


「松崎町史」によると、
「大正時代、若者組「聚星社」の加賀 要 がこの石を背負い、
境内を一巡して石を下そうとしたとき手を貸そうとしたら、
手助けはいらないと断り、楽々と一人で下したという」


「佐藤秀哉(草相撲のしこなは八幡錦)は二十歳のころ、
小さい方を胸まで持ち上げたが、大きい方は持ち上げることができなかった」

さて、前回までのお話は、
佐七の持った力石から、佐七も所属していたであろう若者組、若者宿へ、
と、こんな流れでした。
若者組の若者たちの夜這いの話を書いたら、
殿方の興味がいやが上にも高まりましたっけ。
うふふっ


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夜這いとくれば、やっぱりオイラの出番だよな

その若者組は明治以降、国指導の青年団組織へ再編され、
日露戦争から第二次大戦に至る過程で、国は国策として、
青年団組織を軍隊予備軍に組み込んでいった。

そんなお話を長々綴って参りました。


改めて、「佐七」へ戻ります。

佐七の故郷は、伊豆半島の西岸、駿河湾に面した道部村(松崎町)です。
漁業の盛んなところで、佐七もカツオ船の漁師でした。
カツオ節は賀茂郡の特産で、中でも「道部節」は文政5年のカツオ節番付表で、
東前頭16枚目だったとか。


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松崎町の船大工、藤池久雄氏(大正9年生まれ)が制作した
「一本釣り漁船」の模型

江戸末期に伝わった道部神社の「三番叟・翁の舞」
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道部村の若者、佐七も、
この舞台に立って伝統の「三番叟」を演じたかも、
と思ったらちょっと楽しくなりました。

<つづく>

※参考文献・画像提供/「松崎町史資料編 第4集 民俗編(下)」
               松崎町教育委員会 平成14年

社会勢力としての若者

若者組・若い衆組
11 /19 2014
このブログでたびたび取り上げている「若者御条目」
つまり、

親に孝行いたし、家業大切に…」
「海上にて難破船相見え候はば、早々相助け…」
仁義礼知信の五行の道を行い…」
他家の下女に迷惑いたさせ候者、屹度仕置きいたすべき…」
などと記した若者の憲法・定め書きです。

こうした真面目な、どこか官僚的な決まり文句と、
実際に、新参の少年たちに口伝えで教える「掟」の内容、
たとえば、
「夜這いにはみんなが寝静まってから、そうっと行くだよ」などとは、
かなり「ズレ」がありますよね。

文化10年に若者組が奉納した手水鉢です。
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静岡市古庄・淡島神社

「ムラの若者・くにの若者」の著者・岩田重則氏は、若者についてこう述べています。
「若者とは、近世後期のムラに登場してきたひとつの社会勢力

そして、歴史学者の高橋 敏氏は、
村落秩序を打ち破る突出した存在として、
若者組があったのではないか」
さらに、
「下田(静岡県下田市)の若者たちは半プロ層とともに、
天保7年(1836)の打ちこわしの中心勢力であった」

岩田氏はこうもいう。
「神社などにある若者中(若者組)が奉納した灯ろうや手水鉢は、
近世末に台頭してきた若者が、
大人社会にその実力と存在を誇示した痕跡である」

そして、 「若者御条目」については、
「幕藩体制と相克を生むそのような若者の活動を統制し、
支配体制へ組み込む装置として、体制側が作った」

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松崎町建久寺村の「若者御条目」 文化5年

ここから導かれるのは、
「社会勢力として台頭し始めた若者たちを、支配層が御条目で牽制した。
その結果、若者組は自律的組織にはなれず
幕藩村落の秩序に組み込まれ、
その枠内で存在する組織として生かされてきた」
というものです。

あれま!
私は散々、若者組は自治組織だなんて美化しまくってきたけれど
支配層の手の上で踊っていただけだったとは。
なんか、若者に肩入れしすぎてしまったのかもなあ、ああ…。

「若い衆の宮参り」  南伊豆町 1954

提灯持ちのうしろにいるのは、黒紋付・羽織姿の若者組の頭役
そのあとを中老、小若い衆が続く。  

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写真・説明/芳賀日出男氏

ちなみに、岩田重則氏は、
「若者組という言葉は、柳田国男の造語であって、
残された文書にある
「若者(わかいもの)中」というのが妥当であろう」としています。
そして、
「柳田民俗学が若者の恋愛と婚姻にのみ重点を置いたので、
若者組といえばすぐ、ムラの自由恋愛論を思い浮かべる発想になってしまった」
と。

さて、冒頭で私が感じた「御条目」と口伝えの「掟」との「ズレ」についてです。

瀬川清子氏は、若者の組織には、
「若者組」「若者仲間」という二つの組織があるとしてこんな定義をしています。

若者組は、儀礼を重んじ、年齢階層的秩序を持ち、
村落運営を担った組織で、
将来ムラの中核を担う長男のみが入った。
それに対して「若者仲間」とは、
同年齢が知り合いの家に宿を借りて寝宿とし、
夜這いなどの性に関することに終始した遊び仲間、宿仲間である」

江戸中期から若者たちによって伝えられた神楽の「狂いの舞」です。
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松崎町峰・津島神社  「松崎町史」より

「若者仲間」西日本に圧倒的に多く、
東日本ではあまりみられません。
伊豆では前回ご紹介した西伊豆町仁科などでは、
この二つの組織が見られました。
つまり羽織袴で「式三番」を演じていたのは、長男集団「若者組」だったのです。

でも伊豆に於いては、22通もの御条目が示すように、
「若者組」自身がムラに一つの寝宿を持つという、
「若者組」に「若者仲間」を内包していたという形態が多かったように思います。

だから私は、
その中での「御条目」と「掟」とのズレを気にしているわけです。
だって、片方では「他家の女に迷惑かけるな」といいながら、
もう一方では「夜這いの行き方」を伝授するんですから。

CIMG0859 (2)

吠えるべきか吠えざるべきか悩んでいた君も、そう思いません?
なになに? 今回のブログは少し理屈っぽかったって? 

まあねえ。難しいんですよ、この問題。
でもこの「ズレ」、私には、
伊豆の若者の、上から命令された官制の掟への抵抗としか思えないんです。

とまあ、またまた伊豆の若いモンに肩入れしてしまいましたが、
このつづきはまた明日。

<つづく>

※参考文献/「ムラの若者・くにの若者」岩田重則 未来社 1996
※画像提供/「日本民俗写真大系・東海道と黒潮の道」
        「漁村の暮らし」芳賀日出男 日本図書センター 1999
        /「松崎町史資料編 第四集 民俗編(上)(下)」
         松崎町教育委員会 平成14年

昼は炭焼き、夜は神楽の練習

若者組・若い衆組
11 /17 2014
かつて、「若者組」「若衆組」は、ほぼ全国的に存在していました。
ですが、村に大きな地主や親方がいたところや、
飛騨・白川村のような大家族で暮らしていたところでは、
若者組をつくる自由も結束力も持てなかったと、
宮本常一氏は著書に書いています。

長男以外の男の子に分け与える田畑がない、そういった地域では、
二、三男は大地主の家に小作人として住み込んだので、若者組は作れません。
ですがそれでも小作の若者たちは、夜になると橋のたもとに集まって
石の担ぎっくらをして遊んだという話が残っています。

秋田県山本郡三種町(旧琴丘町)あねこ峠の「あねこ石」です。
琴丘町・あねこ石
石碑前の石。約80㌔    

村人たちが力自慢に使ったこの石、
担ぎ手が凛々しい若者や美男子だとやすやすと上がるのに、
ブ男と老人では全く上がらなかったそうです。

なかなかはっきりした性格の「姉っこ」ですね。

さて、東北地方は他県に比べて力石が少ないのですが、
中でもこの秋田県、全国一力石が少ない県なんです。
確認されている石は、全部で10個しかありません。
若者組をつくる自由も結束力も持てなかったということでしょうか。

静岡県賀茂郡南伊豆町にあった「若い衆宿」です。
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写真/芳賀日出男氏   「東海道と黒潮の道」より

民俗学者・瀬川清子氏によると、
「延宝5年(1677)から昭和2年(1927)までに作られた
「若者条目」は122通
その半数が静岡県と愛知県のもので、
そのうち34通が静岡県下のもの。
そしてその34通のうちの22通が伊豆半島のもの」
だそうです。

つまり静岡県の伊豆は他の地方にくらべて、
若者の組織が非常によく完成されていたということのようです。


そのせいか、
伊豆の各市町の教育委員会でも民間でも若者組の研究に熱心で、
調査書に記された文章には、
往時の若者たちへの理解と誇りがにじみ出ています。

西伊豆町仁科の式三番に使われた浄瑠璃首です。
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「検非違使」文政8年(1825) 「小娘」弘化3年(1846)
いずれも駿府上横田町の人形師・長兵衛作

伊豆にこうした文化をもたらしたのは、
慶長11年(1606)に金山奉行として伊豆にやってきた
大久保長安だといわれております。

大久保長安の父親は猿楽師で、長安自身も能楽や人形芝居を好み、
各地に神社を建てた折には、自ら舞いを奉納したと伝えられています。

写真は、「式三番」舞台、下方の若者たち。
人形使いは、一つの人形に3人ずつ付きます。一番下の見習いは足を担当。

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謡、地謡、小鼓、笛などの若者たちが、羽織袴で並びます。
=「式三番と浄瑠璃首」より

昭和初期に神楽の獅子を舞った松崎町の男性は、こんな言葉を残しています。

「昼は炭焼きで汗を流し、夜は若衆宿で寝泊まりして毎晩練習をした。
長老の指導は徹底して厳しかったが、
大勢の観客から拍手喝さいを浴びた感動は忘れられない」

「昼は炭焼き夜は神楽の練習」
すごい豊かな青年時代だと思いませんか?

私は神楽や田遊びなどの伝統芸能を見るとき、
そのものの素晴らしさのほかに、もう一つ感動することがあります。
それは、
普段はわさびやお茶農家のごく普通のおじさんが、
舞台では裃姿で、きりりと舞う。
その変身がたまらなく魅力的なのです。

伊豆の若者は江戸などの出稼ぎ先で、文字が書けるといって重宝された、
そんな話も残っています。

<つづく>

※参考文献・画像提供
/「日本民俗写真大系第3巻・東海道と黒潮の道」
 「漁村の暮らし」芳賀日出男 日本図書センター 1999
/「伊豆仁科の式三番と浄瑠璃首」須田孝太郎
 大見世書店 昭和58年
※参考文献/「松崎町史第4集 民俗編(下)」松崎町教育委員会
         松崎町史編さん委員会 平成14年

青年組織は時代を映す鏡

若者組・若い衆組
11 /14 2014
若者組織の歴史を調べていると、
かなりの頻度でこんな言葉を見ます。それも各地で…。

「国家のための官制青年団」 
「帝国軍人の予備軍としての青年団」


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「陸軍少年戦車兵学校」の身体検査に合格した15歳の少年たち
=富士宮市。昭和16年。 「悲傷 少年兵の戦歴」より

江戸時代に組織化された「若者組」「若衆組」は、
「若者御条目」という独自の憲法を持ち、
資金も運営も独立した自治組織でした。


文政11年にできた「賀茂村宇久須柴地区」の「御条目」には、

親に孝行いたし礼儀を正しくし、家業大切に…」
「海上にて難破船を見つけたら、早々相助け…」
「上たる若者、新参の若者へ慈悲情けをかけ、非道の所作有るべからず」
「人々への無礼の言葉無用にいたすべき事」

などなど数項目にわたって記されています。

賀茂郡松崎町建久寺村の文化5年(1808)の「若者条目」です。
img391.jpg
「松崎町史・資料編」より

村落共同体の維持に不可欠で、年少者の教育機関的存在だった「若者組」が、
どのような経路で国家に取り込まれ、帝国軍人の予備軍にされていったのか。

それはひと言でいえば、
「若者組が持つ結束力」に支配層が注目したからではないかと思います。
もう一つ付け加えれば、
明治新政府が打ち出した富国強兵、学制の公布などで、
若者組としての統制が取りにくくなった。

その弱体化が、今度は新たな国家権力による統制へとつながっていった、
そんなふうにも思っています。

タイトルの「青年組織は時代を映す鏡」は、
「藤枝市史・別編民俗」に出ていた言葉です。

「博打」「夜這い」を大人たちは、若者の突出した悪行のようにいいますが、
それは広く当時の大人社会の風習であって、
「若者は時代を映す鏡」にすぎません。

若者のみに非難の矛先を向けるのは、
大人のずるさ、いやらしさというものです。
そして、そのずるさ、いやらしさを最も発揮したのが、
国家権力であると私は思います。

年末の大掃除の合間に、
畳の上でタライの足差しをしてみんなを楽しませている若者。
img390.jpg
「新撰東京名所図会」より

次回は、この「時代を映す鏡」を少し追っていきたいと思います。

<つづく>

※参考文献/「藤枝市史・別冊民俗編」市史編さん委員会 藤枝市 2002
        /「賀茂村の若衆制度」賀茂村教育委員会 昭和63年
※画像提供
/「悲傷 少年兵の戦歴・平和の礎となった15歳」毎日新聞社 昭和45年
/「新撰東京名所図会」東陽堂 1902
/「松崎町史資料編 第四集」民俗編上巻
 松崎町教育委員会 平成14年

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞