「佐七」のその後
若者組・若い衆組
「みち婦村の佐七」へ入る前に、ちょっと寄り道。
静岡県内の力石を調査していて、気づいたことがあります。
それは、静岡県のほぼ中央に位置する県庁所在地の旧静岡市を境に、
東へ行くほど力石の発見個数が多くなり、
西へ行くほど少なくなるということです。
東に位置する「佐七」の故郷、伊豆の松崎町は一町だけで16個もあるのに、
西の浜松市には「武将が使った」という伝承の割れた力石が一つあるだけ。
このことを知ったNPO法人の「天竜川・杣人の会」理事の斉藤朋之氏、
「なぜだ!」と発奮して? 力石探索に乗り出してくれました。
そしてきめ細かく歩き回り、とうとう2個も見つけてしまったのです。
一つ目はこれです。

天竜林業体育館北の路傍 =浜松市天竜区月
秋葉道に人待ち顔の力石 雨宮清子
案内板によると、
「この石は昔からここに置かれて村人を守ってくれた道祖神です。
また若者の力だめしに力石としても使われていました」
分類上では「代用力石」となりますが、重さ139キロの見事な力石です。
もう一つはこちら。
石垣の上に黒光りした石がちょこんと乗っかっていますが、これが力石です。

五社神社=浜松市天竜区佐久間町浦川
浦川の郷土史家・伊東明書(あきふみ)氏と、
「天竜川・杣人の会」の斉藤朋之氏のご尽力で、陽の目を見た力石です。
家並も力石(いし)もセピアに塗り込めて
こぬか雨降る山あいの町 雨宮清子
力石の個数が、なぜ地域によって偏っているのかはっきりはわかりません。
早くから都市化や開発が進んだところは少ないかといえば、
そうでもありません。
大空襲で壊滅的被害を受けた東京には、
約1400個もの石が保存されていますし、輸出港として栄えた旧清水市は、
県内最多の力石保有地域です。
ひょっとしたら、若衆組や青年団の消長と関係があるのかもしれません。
つまり、古い若衆組を捨てて、
ハイカラな青年団色を強く打ち出したところには、力石は残りにくく、
若衆組と青年団が併存していた地域には残りやすかった、
そんなことも考えられます。
「みち婦村の佐七」が力石を残した八木山八幡神社の若者たちです。

昭和28年(1953)で最後となった奉納相撲の地元力士たち
伊豆地方には完成された「若衆制度」があり、厳しい「御条目」がありました。
明治以降、国はこの堅固な若者組の組織を官制の青年団に作り替えます。
ですが、伊豆地方などでは若者組の良さを失いたくないという思いが強く、
昔からの若者組と上から押し付けられた青年団とを併存してきたといいます。
そのため「若衆組の寝宿」の習慣が、昭和50年代半ばまでありました。
「会社勤めをしながら夜は寝宿へ泊った。
最後は二人になり、昭和56年で廃止と決まった」
(沼津市木負・昭和13年生まれの記録)
「戦争の帰還兵が若者組に帰ってきたとき、
やたら年少者を殴るので困った」。そんな重苦しい話も残っています。
さて、「佐七」です。
佐七が八幡神社に力石を奉納したのが「天明3年」であることから、
佐七は江戸中期ごろの人ということになります。
カツオ船の乗組員でしたが、漁の仕事がない冬季には、
江戸の南新川、つまり酒問屋へ出稼ぎに行っていたということが、
石の刻字からわかります。
佐七のその後はどうなったのか気になるところですが、
残念ながら、今のところ、全く手がかりがありません。
下の絵は「御蔵前八幡奉納力持錦絵」三枚つづりのうちの一枚です
歌川国安画、文政7年 =御蔵前八幡(現・東京都台東区の蔵前神社)

右側の酒樽を片手でさしている人物は、「小結佐七」とあります。
これが「みち婦村の佐七」であったなら、とは思いますが証拠はありません。
ですが佐七は、故郷の八木山八幡神社に、
「六拾貫余(約225㌔)」もの力石を奉納した力持ちです。
「御蔵前八幡力持奉納錦絵」には、素人力士が6人描かれています。
ほとんどが文政期に活躍した力士たちで、酒問屋の奉公人です。
佐七が江戸でも通用する力持ちであったこと。
酒問屋の奉公人であったこと。
錦絵が描かれたのは、佐七と同時代であること。
もしかして、もしかして、
錦絵の「小結佐七」が伊豆の若者「みち婦村の佐七」であったなら…。
無駄とは思いつつ、そんなことを夢想せずにはいられません。
<つづく>
※画像提供
/「松崎町史資料編 第四集 民俗編(下)」松崎町教育委員会
平成14年
静岡県内の力石を調査していて、気づいたことがあります。
それは、静岡県のほぼ中央に位置する県庁所在地の旧静岡市を境に、
東へ行くほど力石の発見個数が多くなり、
西へ行くほど少なくなるということです。
東に位置する「佐七」の故郷、伊豆の松崎町は一町だけで16個もあるのに、
西の浜松市には「武将が使った」という伝承の割れた力石が一つあるだけ。
このことを知ったNPO法人の「天竜川・杣人の会」理事の斉藤朋之氏、
「なぜだ!」と発奮して? 力石探索に乗り出してくれました。
そしてきめ細かく歩き回り、とうとう2個も見つけてしまったのです。
一つ目はこれです。

天竜林業体育館北の路傍 =浜松市天竜区月
秋葉道に人待ち顔の力石 雨宮清子
案内板によると、
「この石は昔からここに置かれて村人を守ってくれた道祖神です。
また若者の力だめしに力石としても使われていました」
分類上では「代用力石」となりますが、重さ139キロの見事な力石です。
もう一つはこちら。
石垣の上に黒光りした石がちょこんと乗っかっていますが、これが力石です。

五社神社=浜松市天竜区佐久間町浦川
浦川の郷土史家・伊東明書(あきふみ)氏と、
「天竜川・杣人の会」の斉藤朋之氏のご尽力で、陽の目を見た力石です。
家並も力石(いし)もセピアに塗り込めて
こぬか雨降る山あいの町 雨宮清子
力石の個数が、なぜ地域によって偏っているのかはっきりはわかりません。
早くから都市化や開発が進んだところは少ないかといえば、
そうでもありません。
大空襲で壊滅的被害を受けた東京には、
約1400個もの石が保存されていますし、輸出港として栄えた旧清水市は、
県内最多の力石保有地域です。
ひょっとしたら、若衆組や青年団の消長と関係があるのかもしれません。
つまり、古い若衆組を捨てて、
ハイカラな青年団色を強く打ち出したところには、力石は残りにくく、
若衆組と青年団が併存していた地域には残りやすかった、
そんなことも考えられます。
「みち婦村の佐七」が力石を残した八木山八幡神社の若者たちです。

昭和28年(1953)で最後となった奉納相撲の地元力士たち
伊豆地方には完成された「若衆制度」があり、厳しい「御条目」がありました。
明治以降、国はこの堅固な若者組の組織を官制の青年団に作り替えます。
ですが、伊豆地方などでは若者組の良さを失いたくないという思いが強く、
昔からの若者組と上から押し付けられた青年団とを併存してきたといいます。
そのため「若衆組の寝宿」の習慣が、昭和50年代半ばまでありました。
「会社勤めをしながら夜は寝宿へ泊った。
最後は二人になり、昭和56年で廃止と決まった」
(沼津市木負・昭和13年生まれの記録)
「戦争の帰還兵が若者組に帰ってきたとき、
やたら年少者を殴るので困った」。そんな重苦しい話も残っています。
さて、「佐七」です。
佐七が八幡神社に力石を奉納したのが「天明3年」であることから、
佐七は江戸中期ごろの人ということになります。
カツオ船の乗組員でしたが、漁の仕事がない冬季には、
江戸の南新川、つまり酒問屋へ出稼ぎに行っていたということが、
石の刻字からわかります。
佐七のその後はどうなったのか気になるところですが、
残念ながら、今のところ、全く手がかりがありません。
下の絵は「御蔵前八幡奉納力持錦絵」三枚つづりのうちの一枚です
歌川国安画、文政7年 =御蔵前八幡(現・東京都台東区の蔵前神社)

右側の酒樽を片手でさしている人物は、「小結佐七」とあります。
これが「みち婦村の佐七」であったなら、とは思いますが証拠はありません。
ですが佐七は、故郷の八木山八幡神社に、
「六拾貫余(約225㌔)」もの力石を奉納した力持ちです。
「御蔵前八幡力持奉納錦絵」には、素人力士が6人描かれています。
ほとんどが文政期に活躍した力士たちで、酒問屋の奉公人です。
佐七が江戸でも通用する力持ちであったこと。
酒問屋の奉公人であったこと。
錦絵が描かれたのは、佐七と同時代であること。
もしかして、もしかして、
錦絵の「小結佐七」が伊豆の若者「みち婦村の佐七」であったなら…。
無駄とは思いつつ、そんなことを夢想せずにはいられません。
<つづく>
※画像提供
/「松崎町史資料編 第四集 民俗編(下)」松崎町教育委員会
平成14年
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