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酸いも甘いも…

若者組・若い衆組
11 /11 2014
「夜這い」という言葉は、今は淫靡な響きになっていますが、
もとは健やかに「男女が呼び合う」、これが原初の姿です。

時代とともに、「呼び合う」が「夜這い」に変わっていったわけです。

古代、歌垣(うたがき・かがい)という風習がありました。
あらかじめ決められた日と場所に男女が集まり、飲食を共にし、
輪になって求愛の歌を掛け合いながら踊る、これが歌垣です。

静岡市・小野寺(小野薬師堂)です。
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ここもかつては歌垣の場所でした。
狂歌師の太田蜀山人は、ここでこんな狂歌を詠んでいます。

小野ならば下に小町がつくものを 深草の中に寺が少々(少将)

平安初期、小野小町という絶世の美女がいました。
美しいだけではなく和歌にも優れ、
和歌の名人「六歌仙」の一人でもありました。
また言い寄る男たちをことごとく拒絶する女性でもあったそうです。

モッタイナイ…。

それでもあきらめない深草の少将に、小町は言います。
「100日通い続けたら結婚してあげましょう」
しかし毎晩5キロの道を通い続けたものの、
満願の100日目の夜、少将は雪のため凍死してしまいます。

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「小町とはなんとまあ、高慢ちきで非情な女だこと」
と非難するなかれ。
この物語は能役者・世阿弥の創作で、深草の少将は架空の人物です。

歌垣で有名なところに常陸国「筑波山」があります。
ここで高橋虫麻呂はこんな歌を詠んでいます。

「人妻に吾(あ)も交はらむ わが妻に人も言問(ことと)え」

「人妻に私が交わろうと、私の妻に他人が言い寄ろうと、
それは山の神が昔から許していることだ。だから今日だけはだれも咎めるな」

静岡市内の某名刹寺院でも、かつてはそんなことがあったようです。
そこの特徴は「人妻だけがその晩に限り、他の男と交わることを許された」そうで、
帯に紺の手ぬぐいを下げているのが人妻の目印だったとか。

旧中川根町(現・静岡県榛原郡川根本町)久野脇・佐沢薬師堂です。
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古代の「歌垣」を今に伝えている貴重な踊りです。

20年余り前、体の芯まで凍るほど寒い1月の夜、私、ここへ行きました。
村の方が差し出す懐中電灯の明かりに導かれて、お堂のある山の中腹まで、
「歌垣」を見に行ったんです。

これ、ここでは「ひよんどり」といいます。

火を囲んで踊るから「火踊り」、つまり「ひよんどり」です。
このときはお堂の中での踊りでしたが、いつもは境内に火を焚き、
男女が肩を組み、火を囲んで廻りながら、地を踏み鳴らし踊ります。

そのとき、さまざまな求愛の歌を掛け合います。

「佐沢薬師は妻薬師」といわれ、ここで妻を見つけて結婚する人も多かった。
親の気に入らない相手でも、
「ひよどり踊りで約束した」といえば許されたそうです。

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地元のおじいさんがいいました。
「大井川の上からも下からも若い衆が、
今夜は娘っこに会えるっていって、舟漕いで来たっけよ」

「でもこんなに寒いんじゃ、
意気投合してもそのまま藪に消えるなんて無理ですよね」
と聞いたら、
「なに、若い衆は寒さなんて…」と照れ笑い。

「ひよんどり」では、一晩にいくつもの歌を掛け合います。
それが素晴らしいんです。
例えば、こんなの。

酸いも甘いも身に持つゆえに 色づきゃ裸になるみかん

つまり男性が、
「みかんだって熟れたら皮を脱ぐんだから、
あなたも今夜はひとつどうですか?」と。

すると、今度は女性がこう返すんです。

しのぶあなたの手ぬぐい取って 月にさせたい頬かむり

「OKよ。でもお月さんが見ていて恥かしいから、
あなたの手ぬぐいで月に頬かむりさせてちょうだい」

昔の人は本当に粋ですね。
精神の成熟さを感じます。


で、唐突ですが、ここでこの町にある力石、ちょっと見てください。

榛原郡川根本町上長尾・智満寺です。
川根本町・智満寺

「せっかく歌垣の心地よさに酔っていたのに、力石だなんて…」
とお叱り、ですか?

まあ、そうですよねえ。
ホント、私としたことが、野暮でどうもスイマセン。

<つづく>


※参考文献/「中川根町史・ひよんどり」中川根町教育委員会 2004
        /「婚姻の民俗」江守五夫 吉川弘文館 1998
※撮影協力/平井正次氏

夜這いには、そうっと行くだよ

若者組・若い衆組
11 /08 2014
『夜這いにはみんなが寝静まってから、そうっと行くだよ。
もし上の衆が行っていたら、邪魔しないように他の家へ行くだよ。

また家の衆に気づかれたら「若衆です若衆です」と言って、
後戸をちゃんと締めて帰るだよ。
もし怒られて戸を締めるひまがなかったときは、後で戸を締めに行ってくるだよ』

これは「賀茂村の若衆制度」に示された「夜這いに行き方」です。 

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オッ、若い衆らが夜這いにきたな。
こんなときは吠えるべきか吠えざるべきか
それが問題だって? 

娘さん、なに寝言いってるんですか。
娘のいる家に忍び込んで思いを遂げるのですから、
これはもう立派な犯罪ですよ。

実際、
江戸時代、伊豆の島々を巡視した役人が、若者たちの寝宿の習俗などを、
理解を超えたけしからぬ存在」だとして、
寛政8年(1796)、伊豆の島々に「寝宿禁止令」を出しています。

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「夜這之図」 元禄8年

けれど、この習慣、長い間全国で「ふつう」に行われていました。
それにはそれなりの理由があるのだろうと考えて、
民俗学者さんたちが、いろいろ調査をしました。

結論は、
「前代の人たちは、性の問題をあっさりと考えていた
「若者組は年少者への性教育機関であった」

夜這いは自然なこと」で、「夜這いに来てもらえない娘は、
体に欠陥があるのだろうといわれて、肩身が狭かった」

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夜這いと結婚は別もので、結婚は親が決めた人とした。
処女との結婚は、初夜の血の穢れが婿に災いをもたらすとして嫌われたため、
むしろ経験豊富な娘が喜ばれたという。
地方によっては、そうした娘が結婚する際は今までのナジミの男たちに、
「このたび限り」と足袋を贈ったりしたそうです。

民俗学者の瀬川清子氏は、
著書「若者と娘をめぐる民俗」の中で、こう述べています。

「三角、四角関係が生じたからといって、誰も批難などしなかった。
おのずから相手が決まって結婚すれば、一対一の生活が始まる。
学校で学ぶ道徳とは違う道徳があった

同じ民俗学者の宮本常一氏は、
著書「村の若者たち」でこんなふうに言っています。

「年功者の体験に基づいて学んだのが若者組で、
職業教師は教師自身の体験に基づくものではなく、
実践すべき規範について教えた」

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力石(左)のかたわらで、肩を抱き合い握手している双体道祖神    
=富士宮市淀川町

冒頭の「夜這いに行き方」にあるように、
そこにはそれなりのルールがありました。
しかも誰もが勝手気ままに、夜這いに行けたわけではありません。

若者組の先輩たちは後輩たちを、こんなふうに指導していたのです。

「力石も担げないやつは娘の尻を追うな」

見事担げたあかつきには、こう教えたそうです。

「石とおなごは心(しん)から抱け!」

<つづく>

※参考文献/「若者と娘をめぐる民俗」瀬川清子 未来社 1972
         /「村の若者たち」(復刻版)宮本常一 家の光 2004 
        /「賀茂村の若衆制度」賀茂村教育委員会 昭和63年
        /「力石ちからいし」高島愼助 岩田書院 2011
※画像提供/「講座・日本風俗史別巻1 性風俗」
        「好色旅枕・夜這之図」 元禄8年
         雄山閣出版 昭和34年

怖い、痛い、恥かしい思いをさせる制裁

若者組・若い衆組
11 /03 2014
昭和63年、伊豆・賀茂村(現・静岡県賀茂郡西伊豆町)では、
「歴史と伝統を持つ若衆制度を現時点で集大成しておかないと、
生のものが永久に消えてしまう」という危惧を持ち、
体験者による執筆をもとに、「賀茂村の若衆制度」を編集、発刊した。

三番叟
「牛越神社の人形三番叟」=静岡県無形民俗文化財

伊豆には若者たちが江戸時代から演じ、
守ってきた「三番叟」が各処にあります。

「賀茂村の若衆制度」の発刊にあたって、
当時の村長・原田良夫氏が、こんな言葉を綴っています。

「明治憲法は1889年に、現行の新憲法は1946年に公布された。
しかし、その憲法公布を遡ること227年前に於いて、
先人たちは教育、秩序の確立に英知を傾け、若衆制度を作った」

「そして、この自治・連帯の育成となる「若者御条目」は、
当時の唯一無二の家憲であり、集落統治の憲法であった」

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「思い出”はつくら”昭和のはじめ」より

新加入者の小若い衆は服装、言葉遣い、
礼儀などを徹底的に仕込まれた。
例えば客へのお茶出しは、こんなふうに。

「盆をお客の左前に置いて手をついて、
粗茶ですがどうぞと挨拶をしてから盆を持って差し上げるだよ。
お客が茶碗を取るまで盆を下すんじゃないよ」

掟を破れば、過酷な制裁が待っています。

怖い制裁は、真夜中に火葬場などに行かせられる。
痛い制裁は、三角マキや砂利の上に2時間も正座させられる。
恥かしい制裁は、八分、つまり除名処分。

これは、15歳の小若い衆が黒田節を踊っている写真です。

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「若者組と地芝居」より   昭和31年の祭典で

踊っているのは、なんとあのナンセンス漫画の大家、秋竜山氏なんだそうです。
「若者組と地芝居」の著者、小林一之氏によると、
秋竜山氏は、
伊東市赤沢の若者組が消滅する最後の加入者の一人だったとか。
秋氏が加入した昭和31年のころでも、厳しさは変わらなかったそうです。

その厳しさについて、賀茂村の若者組体験者は、
「今にして思えば、全く言語に絶するものがあった」と言います。

大正15年生まれのご老人を沼津市大平にお訪ねした折にも、
「若い衆の集まるところはそこんとこにあったがね、
組に入るのはやだったねえ。厳しいのなんのって…
と、昨日のことのようにおっしゃった。

若者を厳しく躾けたのには、理由がありました。

若者組は、村の自治、秩序、連帯、安全を一手に引き受けていたといいます。
生業に加えて、海難救助、消防、祭り、三番叟や神楽、病人の搬送…。
それだけの重責を全うするには、
少年たちを徹底的に教育し統率していかなければなりません。

ことに「板子一枚下は地獄」の漁業では、生半可な気持ちでは
全員が命を落としかねない。だからより厳しく鍛えられたといいます。

下の写真は、沼津市大平のご老人が、かつて力比べに使った石です。
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壊れた鳥居の一部と坊さんの墓石  大平・庚申堂

「組に入るのはやだったねえ」といっていたご老人ですが、力石の話になると、

「35貫っていやあ重いよそりゃあ。挙げた人もいたけど、
わしは全然担げなかった。
鳥居はみんなで鷲頭神社からこっそり持ってきた。
力石に使わざあ、それ、持ってけって」

そう言って、いたずらっぽく笑いました。

<つづく>

※参考文献・画像提供
/「若者組と地芝居」小林一之 城ケ崎文化資料館 2000            
※画像提供
/「思い出”はつくら”昭和のはじめ」榛葉禮一 私家本 平成3年
/静岡県賀茂郡西伊豆町HP
※参考文献/「賀茂村の若衆制度」賀茂村教育委員会 昭和63年

「親に孝行、博打はするな」

若者組・若い衆組
10 /31 2014
若者の自治組織、
「若者組」「若衆(わかいし)組」について、少しお話してみます。

昭和6年頃の「小若衆」  「ふるさとの歴史」より
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唐突ですが「五人組制度」の話から始めます。

この五人組制度は、三代将軍徳川家光の寛永年間に確立します。
5軒の家を一組に編成し、名主などの統率の元、一軒の家で年貢が滞ったり
犯罪を犯したりしたら、あとの4軒が連帯で責任を負うという、
支配者にとってはまことに好都合、身勝手な制度であります。

これが第二次世界大戦のとき、「隣り組」「隣保班」となって蘇ります。
命令に逆らう人は「非国民」と呼ばれ、村八分にされて配給米ももらえません。
戦後はGHQの命令で解体されましたが、
形を変えて、町内会組織として現在に至っています。

「若者組」「若衆組」は、
そうした「五人組制度」の下部組織としてできたという説がありますが、
どうでしょうか。

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大正時代。「伊豆の若者組の習俗」より

上の写真は、若者宿での「正月吉例の歌い初め」で、
セキフネという舟唄を歌っているところです。

若者組の構成員は地域によって呼び名が違いますが、おおよそ、

「小若い衆」=数えで15,6歳、
「中老(ちゅうろう)」=20歳前後、
「宿老(しゅくろう)」=24、5~30歳頃

で構成されています。この写真に写っているのは、中老、宿老だそうです。
今の若者とは成熟度が全然違いますね。

若者組は、「若者山」「若衆山」を持ち、そこで作った薪炭を売ったり、
いわしやイルカ漁で得た収益で運営するという完全な自治組織でした。

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棒押し、力石、はしごで遊ぶ若者たち    画/松下石人氏

独立した組織なら、当然力を持ちます。
政治的な発言もするようになります。
自己主張をして、名主たちのいうこともなかなか聞きません。
支配者にとっては、目障りな集団です。
それで、領主に解散させられたりするところも出てきます。

興味深い古文書が残っています。
寛政十年(1798)に書かれた原宿(現・沼津市原)、植松家の文書です。

「一札之事
 一、力石
右者、先年子細有之、諏訪社地へ入置可申旨 被仰付有之候処…」

で始まるこの文書は、
力石の管理・所有権を巡る若者たちの争論を記したもので、
町内惣代と若者惣代が印鑑を押し連名で、
「今後はこのようなことがないようにいたします」と役人へ出したものです。

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沼津市西間門・八幡神社の力石

力石を巡っての騒動も、
それが古文書として残っているのも大変珍しいですね。

当時の若者たちの単なる喧嘩ではありますが、
こうした行動を無視できないほど、その存在が大きかった。
決して彼らは、五人組制度の下部組織に甘んじていたわけではなかった、
そういうことを、この文書は示しているのではないかと私は思っています。

<つづく>

※参考文献・画像提供
/「ふるさとの歴史」八幡野区郷土史編纂委員会
 八幡野小学校 昭和50年
/「伊豆の若者組の習俗」平凡社 昭和47年

※参考文献       
/「賀茂村の若衆制度」賀茂村教育委員会 昭和63年
/「原町史」原町教育委員会 1963
※画像提供/「三州奥郡風俗絵図」松下石人 国書刊行会 昭和56年

伊豆松崎・みち婦村の佐七

若者組・若い衆組
10 /28 2014
前々回まで、古い年代刻字の力石をご紹介してきました。
今回は、静岡県を取り上げます。

賀茂郡松崎町岩科南側(いわしななんそく)八木山八幡神社です。

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町指定天然記念物のケヤキの根本に、石が2個見えます。

大きくしたのが、これ。
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この2個とも力石です。
向かって左の石に、刻字(切付)があります。

「奉納 六拾貫余 癸卯天明三年三月 
          南新川 佐七 みち婦村 佐七」


実はこの力石、静岡県内で一番古い年代刻字石なんです。

天明年間は冷害で、日本各地で大飢饉になった時代。
また石に刻まれた天明三年(1783)は、
浅間山が大噴火した年です。
そういう大変な状況の中で、この石は奉納されたことになります。

先に、日本で一番古い力石の年代刻字は、
埼玉県久喜市樋ノ口・八幡神社の「寛永九年」(1632)とお伝えしました。
その埼玉県の石に遅れること151年目に、
やっと静岡県最古の力石が登場したということになります。

この石に名を残した「佐七」は、どんな若者だったのでしょうか。

これは伊豆・八幡野村(現・伊東市八幡野)の若者たちが使った
提灯です。

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写真集「伊東百年」より

伊豆は、「若者組」「若い衆組」という若者たちの
自治組織が盛んなところでした。
佐七もまた、村の「若者組」の一員だったと思います。

「松崎町史資料編」によると、
「南新川は江戸の酒問屋街で、鰹船の乗組員が冬季出稼ぎに行ったところ。
みち婦村は道部村のことで
道部の佐七が南新川に働きに行った記念か、
この石で優勝した記念であろうか」

下の写真は、「若者組」の加入式に臨む新加入者たち(大正時代)

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「伊豆の若者組の習俗」より

15歳くらいになると、若者組への加入を許されます。
写真は、お揃いの絣の着物を着た少年たちが正座して、
若者頭の先輩から「御条目」という規則を聞かされているところです。

「お前っちも若衆へ入ったんで、
子供心を打棄って臨機口上、商売、宿を貞実に勤め、
親には狼言を言わないようにするだよ」
臨機口上とは朝だら、お早うごだんす
昼間だら、こんちわ
夜だら、お仕舞ですかと言うだよ」

そういう社会のルールを少年たちに教えているわけです。
佐七は漁師ですから、
人より早く浜へ行き
舟を下すときは一番ひだを敷くようにするだよ」
「網をやるにゃ先に立ってやるだよ」なんて
先輩から聞かされたのかもしれません。

若者宿です。組に加入した少年たちはここで寝泊まりしました。
旧田方郡西浦村木負(きしょう。現・沼津市西浦)

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庭に力石が置いてあります。     「伊豆の若者組の習俗」より

地域によっては、
この力石を担げない者は組への加入を許されなかったそうです。

16貫(60㌔)、これは米俵1俵分に相当しますが、
最低この重さを担げなければ、一人前の男と認められなかった
給金も半人前しかもらえなかった。
それで少年たちは、暇さえあれば石を担いで鍛錬したといいます。

漁船の乗組員はさらに厳しく、
揺れる舟の舳先で石を担がされたそうですから、
それを乗り越えた佐七は、かなりの力持ちだったはずです。

こちらは同じ旧西浦村古宇(こう)の若者宿です。
大正時代の建物です。

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これは私が3年前に撮影した古宇の公民館です。
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驚きました。
障子がガラス戸になっているほかは、
大正時代の若者宿と全く同じです。軒下の漆喰のこて絵も当時のまま。

近所の80代の男性にお聞きしたら、
「おお、今は公民館だけどな、
昔はワケーシ(若い衆)の宿だった。
床が回り舞台になってて、よく芝居をして遊んだもんだよ。
なに、力石かね。
わしらのころにはもうやってなかったよ。せっかく来てくれたのに悪いっけなあ」

最初にご紹介した「木負」の若者宿は、すでにモダンな公民館になっていて、
力石の行方はおろか、力石そのものを知る人はもう誰もいませんでした。

<つづく>

※参考文献・画像提供
/「写真集・伊東百年」編者 竹田信一 
緑星社出版部  昭和56年
/「伊豆の若者組の習俗」平凡社 昭和47年
/「松崎町史資料編・民俗編(下巻)」松崎町教育委員会 1989

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞