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戦争と若者と力石

戦争と青年団
01 /25 2015
昨年秋から続けてきた
「戦争と若者と力石」シリーズ、一旦、終わります。
ですが、このテーマはまた発信していきます。

日露戦争で亡くなった223名の若者たちの木像です。
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                 常昌院(兵隊寺)=静岡県藤枝市岡部

力石という石のブログなのに、
なんで戦争のことを書くのかと思われた方もおいでかと思います。
今までも折に触れお伝えしてきましたが、今一度…。

力石は何の変哲もないただの石っころです。
地蔵さんみたいに目鼻がついているわけではありません。
のっぺらぼうの、丸い、ただ重いばかりの、本当にただの石です。

でもこの石、江戸時代から昭和初期頃まで、
全国の若者たちが一人前の男になる証しとして、日夜懸命に担いだ石なのです。
しかし、
時代が人力から動力へ、そして娯楽の多様化などで戦後急速に廃れていきました。

そして今では人々からすっかり忘れられ、
神社の片隅や路傍や個人宅に放置されています。
ほとんどの人が、もう、「力石」という名前さえ知りません。

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イチョウの巨木の根元に置かれた力石  豊積神社=静岡市清水区由比 
ここでは一人前の証しとして大太鼓を若者がたたく「お太鼓祭り」が行われます。

そうした石を探し歩いているうちに、
かつて力比べに使ったこの石が、戦争とも関わっていたことを知りました。

氏神様の境内に集まって、
「この石を担げたら、徴兵検査で甲種合格間違いなし」と祈願しつつ、
懸命に石を担いだ若者たち。
戦争で真っ先に最前線に送られたのは、日頃、力仕事に従事したり、
重い力石を担げるような、そんな若者たちだったのではないでしょうか。

今もご自宅に力石を大切に持っている方が、ポツリとおっしゃいました。
「叔父さんはあの峠を越えて出征していったんだよ。でも戻っては来なかったサ。
送り神峠っていうんだよ、あそこ」

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出征する叔父さんを「送り神峠」で見送ったFさん宅の力石  =富士市

東京へ調査に出かけた折り、力石が置いてある墓所を見ました。
いずれも、二十歳そこそこの若者のお墓でした。
こんな大きな石を担げたのですから、さぞ壮健な若者だったことでしょう。

若者が生前愛用した力石に文字を刻み、ここへ置いたのは、
きっとご両親だったに違いありません。
石を息子と思い、毎日、会いに来ていたのかもしれません。
力石は墓碑に寄り添うように、そっと置いてありました。

力石には、昔の若者たちの汗や涙、喜び、悲しみがいっぱい沁みこんでいます。
それだけではなく、
こんなふうに、戦争の影もしみ込んでいたのです。

好きな女の子に、力持ちであるのを見せたいがためにがんばった、
そんな微笑ましい思い出と共に、重い歴史も刻まれていたのです。
たかが石っころと思われようが、力石もまた、歴史の立派な証人
それを石は無言のうちに私に教えてくれました。

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「うぶどうなたの力石」 鹿児島県大島郡与論島の「よろんかるた」

そんなことを皆さまにも知っていただきたくて、
「戦争と若者と力石」を書きつづってまいりました。
歴史はくり返すといいます
だからこそ、歴史から学ばなければいけないと、私は思います。
二度と戦場に若者たちを送ることのないように…。

次回からはまた、楽しい力石のお話です。


※画像提供/「よろんかるた」清野土平 「力石”ちからいし”」高島愼助 
         岩田書院 2011

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三冊の本から考えたこと

戦争と青年団
01 /22 2015
今まで取り上げた本の再登場です。

戦前に書かれた田沢義鋪の「田澤義鋪選集」
戦後に書かれた林房雄の「大東亜戦争肯定論」「続・大東亜戦争肯定論」
昨年書かれた矢部宏治氏の「日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか」

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この三冊に共通するものは、「共産主義」「欧米列強」「憲法」ではないか、と。

まず最新の「日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか」に軸足を置いて、
遡って考えていきます。

すると、
林房雄はなぜあの本を書いたのか、ヒューマニストの田沢義鋪
満州建国を正しいものとし、共産主義に脅威を抱きつつアメリカに不信感を持ち、
自国の憲法を大事にしなくちゃいかんと言ったのか理解できる気がします。

「日本はなぜ…」は、絶望の本です。

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悲壮感漂う「国防婦人会の竹やりの訓練」 小川国民学校校庭にて  
=昭和17年 山崎博康氏蔵

この本に絶望したというのではありません。
日本が絶望的という意味です。
この本は言います。
日本は昭和20年の敗戦から現在まで、ずっとアメリカの植民地だった、
国家主権なんてなかったんだって。

日本の国を動かす政治家や官僚の本当のご主人様は、ほかの場所にいるって、
この本は言っている。
だったら、私たちが「どうか住みよい暮らしができるよう頼みますね」といって、
なけなしの税金払って彼らを「雇って」いるのは、徒労ってこと?
「エサはこっちでもらって、命令はあっちで聞く」だなんて。
絶望以外の何物でもありません。

林房雄は、昭和16年に始まった日米開戦は、
「アメリカに嵌められた戦争」といった。

矢部氏も同じようなことを言っています。
「敗戦の4年も前に、アメリカのルーズベルトとイギリスのチャーチル
”大西洋憲章”という、自分たちの勝利を前提に、
戦後の世界の基本構想について、共同宣言をしている」

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イギリスのチャーチル(左)とアメリカのルーズベルト

「アメリカはまだ戦争に参加してもおらず、真珠湾攻撃はこの共同宣言の4か月後。
この調印の日付が4年後の日本がポツダム宣言を受諾して第二次大戦が終わる
その同じ8月14日なのです。
ポツダム宣言、原爆投下と続く戦争終結計画の中でこの日付が一つのゴールとして
設定されていたことは間違いないでしょう」

英米、恐るべし!

さて、矢部氏が精魂込めて書いた「日本国憲法」の話です。

「日本国憲法を書いたのは100%GHQ。
アメリカ側が基本方針を決め、英文で書かれた原案を日本側がアレンジした」
矢部氏はこう断言しています。

そういえば、戦後20年目に林房雄も「大東亜戦争肯定論」の中で言っていました。
「日本国憲法は、日本を弱体化するためにGHQが作った」と。

ちなみに敗戦のとき、昭和天皇が読み上げたあの「人間宣言」も、
初めは英文で書かれていたそうです。

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厚木へ降り立ったアメリカ軍最高司令官のマッカーサー元帥  昭和20年

「占領軍が被占領国の憲法草案を書いた」
確かに変な話です。

矢部氏はいいます。
「内容が良かったからそれでいいじゃないかという議論は、
間違いです。なぜなら、
近代憲法とは権力者から与えられるものではないからです」

「日本の悲劇は、”いい憲法だから指一本ふれてはいけない”という護憲勢力と、
悪く変える勢力しかいないことです」

「2014年安倍政権は、
日米安保条約や地位協定にいっさい手を付けぬまま
歴代自民党政権が自粛してきた
”集団的自衛権の行使容認”という解釈改憲をついに強行した。
このままではおそらく、日本はアメリカの侵略的な戦争に
加担することは止められないでしょう」

私はこの本を読むまで、日本には「戦争放棄」という9条があるから、
もう若者を戦場に送ることはないなんて思っていました。
でも矢部氏にいわせると、その9条が問題なのだ、と。

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「憲法9条2項に定めた
”陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない”は、
国連憲章の国連軍編成が実現不可能になった今、ただの夢となってしまった」

「だから、戦争放棄(永久に武装解除させておく)という日本に、
人類史上最大の攻撃力を持つ米軍の駐留という絶対的な矛盾が生まれてしまった」

平和憲法ができたら連合国のすべての占領軍は、
90日以内に撤退しなければならなかったのに、なぜか米軍だけは今もいる。
そして、
アメリカ政府の財産(基地)があるところは、
日本中どこでも一瞬にして治外法権エリアにされてしまい、
日本の司法も警察の手も届かないようになっている。
沖縄の大学に米軍ヘリコプターが墜落しても、少女が米兵に凌辱されても…。

そういう屈辱に耐えて、日本はこんなに奉仕しているのだから、
いざという時アメリカは守ってくれるかといったら、どうもそうでもないらしい。

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終戦直後、真知志村の村長と村民が建てた「ひめゆりの塔」

アメリカは日本を利用するだけで守ってくれない…。
これが林房雄が言っていた
「日本弱体化」「属国化」
ってわけかと納得しました。

そしてまたショックだったのは、
戦後70年たった今も、日本は国連で世界の「最低国」「敵国」なんだそうです。
敵国のままに、
国連の予算の分担金を10%以上も日本一か国で負担させられているそうです。
ということは、戦後70年間、賠償金を払い続けているってことでしょうか。

なんだか日本人としての誇りをペシャンコに潰されました。

でも、矢部氏は言いっぱなしではなく、提案もしています。
「国際法の原則に従い、米軍を撤退させ、しかもアメリカとの安全保障条約を
継続しているフィリピンから学ぶこと
「自衛のための必要最小限の防衛力は持つが、集団的自衛権は放棄する
という従来の政府見解を明文化すること」

今から50年前の昭和40年に、林房雄はこういっています。
「日本がアメリカのアジア政策を改めさせることもできず、またアメリカへの追随を
やめることもできなければ、
やがてアジアの大多数の国家から侮られるときがくると思う」

残念ながら、「追随」どころか「植民地」だそうです。
だから今でも、アジアに親しい友人もいない

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銃をしっかり握るパレスチナの少年戦士 1971年 「中東戦争」より

それどころか、最近、日本の首相は遠い外国へ行って、「お金あげます」と
気前のいいことをあっちこっちで言ったため、デカイ敵を作ってしまったとか。
  ※アマリニモ、歴史ヲ 知ラナスギル。
昔、「お金あげるからぼくと遊んで」と、
近所の子供たちに頼んでいた男の子がいたけど、そんな感じだよなあ。
みんなはお金せしめて遊んでやるけれど、内心蔑んで、その場限りだった。

立憲政治・粛正選挙に情熱を傾けていた青年団の指導者、田沢義鋪は、
終戦の前年、四国の地方指導者講習協議会で、
「この戦争は負けます。みなさんどうか、敗戦の苦難を乗り越えて…」と発言中、
脳出血で倒れ、帰らぬ人となったそうです。

もし、この田沢義鋪がご存命であったなら、戦後の日本と日本国憲法について、
どんな感想を持たれたか、ちょっと聞いてみたかった。

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ビルマの前線に出撃する少年兵たち 「悲傷 少年兵の戦歴」より

若者たちを戦場に送らない日本になるためには、
先に天皇陛下がおっしゃった「戦後70年の節目のこの年に、
この戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくこと」

これが世界に嘲笑われないための、
希望の持てる正常な日本になれる最善の方法だと、私も思います。



※画像提供/「焼津市史・市制50周年記念写真集・やきつべ」焼津市 平成13年
        /「現代のアジア・アフリカ7」「中東戦争」甲斐静馬 三省堂 昭和46年
        /「悲傷 少年兵の戦歴・平和の礎となった15歳」
         毎日新聞社 昭和45年
※参考文献/「日本はなぜ、「基地」と原発」を止められないのか」矢部宏治
        集英社 2014
        /「大東亜戦争肯定論」「続」林房雄 番町書房 昭和39年、40年
        /「田澤義鋪選集」財団法人田澤義鋪記念会 昭和42年




パンツの柄は星条旗?

戦争と青年団
01 /19 2015
目からウロコの本を読みました。
矢部宏治氏の「日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか」

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こんなことが書いてありました。
「首相になった人は必ず選挙公約と正反対のことをする」

そういえば、現首相も民主党時代の首相もそうだったな。
「消費税はあげない」「TPP絶対反対」「原発は年までに減らしていく」
と選挙中言っていたのに、選挙が終わった途端、平気で反故にした。
逆に公約を守ろうとした鳩山首相はあっけなく潰された。

矢部氏はその原因をこう分析する。
「日本の本当の権力の所在が、
オモテとは全く関係のない”どこか別の場所”にあるから」
「日本の官僚たちの忠誠を誓う相手は、自国の総理ではない」
ゆえに
「戦後70年たっても、日本はまともな主権をもった独立国になれない
だから、基地も原発もなくならなのだ」

なんでそうなったのかということを、今から50年前に林房雄が言っている。

「かつての日本列島はアメリカにとって、
太平洋における最も危険で頑強な岩礁であった。今はそうではない。
”安保条約”にしばられ、”半身不随”の列島にすぎない」
「日本の大東亜戦争は終わったが、アメリカはまだ太平洋戦争を継続中だ」

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新安保条約の強硬採決に抗議するデモ隊が国会議事堂を取り巻いた
1960年

50年後の今、矢部氏も同じように、こういいます。
「日本国憲法より日米安保条約の方が優先されている。
さらに、この日米安保条約、日米地位協定の上に”密約”まである。
ここで日本のすべてが決められてしまう。だから日本は独立国とは言い難い」と。
つまり「半身不随の列島」だと。

これが事実だとしたら、選挙なんて意味がありません。

福島の原発被害者や沖縄の基地、空港騒音訴訟などで、
裁判所が同じ日本人に対して理不尽な判決を下したり、
為政者が表向きの言葉と裏腹のことをするのを見れば、矢部氏の言葉に納得がいく。

遡って見てみれば、
明治維新以前から昭和20年の敗戦までの日本は、どこの植民地でもなかった。

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「外国人干渉の国辱を残そうとは思わぬ」 最後の将軍・徳川慶喜

「日本人が鎖国を解いて目を見開いたとき、世界は欧米の支配下にあり、
アジア、アフリカはほとんど植民地化されて、朝鮮・中国も分割の寸前にあった」
(宇都宮徳馬)

そうした状況にありながら、
「黒船がやってきて、無理やり不平等条約を強いられても、
幕府と志士たちは、外国のお金や力に頼ったら、日本は二分される。
主権国家でなくなるといってがんばった。
だから日本は植民地にはならなかった」(林房雄)

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沈没寸前の「不沈空母」武蔵

それが昭和20年の敗戦で、ガラッと変わってしまったと矢部氏も林房雄もいう。
「日本は米軍に多額のお金を差し出し、
日本の空も地上も治外法権という思いやりをみせて、
自ら国家主権を放棄してしまった」

「日本のお金も国土も国民も、どうぞご自由にお使いください」
と差し出しちゃたってことか、……ムム。

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「日本の首相は外国人に弱いんだニャア」

「今日もどこかの国にたくさんお金をやるって約束したんだってね。
物価は上がるし年金給付は下がるし、
国民は草でも食ってろってことニャのか!」

草葉の陰で幕末の志士たちが泣いています

「白い人たち」の征服欲は、江戸時代にも見られます。

慶長12年(1609)、
駿府家康に会ったイスパニア(スペイン)の高官ドン・ロドリゴは、
たった11ヶ月の日本滞在中に九州にまで足を延ばし、
地理や産業、歴史、風俗に至るまで調べ上げた。
そして本国の国王あてにこんな手紙を出している。

「この国は武力による侵入は困難。
キリスト教の布教によって従わせるほか道はない。
そのためには宣教師を鉱山などに入れるべき」

「入れるべき」だなんて勝手に決められてもねえ、ここはアンタの国じゃないって!

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南蛮寺と宣教師たち  南蛮屏風部分 安土桃山時代

未開の島に宣教師が入って、島民を土俗信仰からキリスト教に改宗させるとき、
彼らが欲しがるナイフと一緒に
パンツを置いてくるという話を本で読んだことがある。
パンツをはくのが文化的で、グローバルっていいたいんだろうけど、
フリンでいようがいいではないか、余計なお世話ですよねえ。

「アジアの大部分の国家は欧米の軍事力・経済力によって主権を奪われ、
独立を失い、在来の平和な経済生活は無残に破壊された上、
民族独自の文化を壊されていった」(林房雄)

民族独自文化を壊される」
かつて日本も「侵略の”大恩人”ペルリを真似て」、
朝鮮併合なんていって、他国の民族文化を壊すというひどいことをした。

でも「白い人たち」の一部は、そういう日本を非難しつつ、
かつて宣教師たちが、日本の神仏は悪魔だとして神社仏閣を焼き払ったように、
今なお自称?「正義」のパンツ片手に世界中を徘徊している。

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「安保条約にしばられて、半身不随のニッポン国」に住む私たちは、
星条旗の柄のパンツをはいたサルってことになるんでしょうか。



<つづく>


※参考文献/「日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか」矢部宏治
         集英社 2014
        /「大東亜戦争肯定論」「続」林房雄 番町書房 昭和39年、40年
※画像提供/「近代日本の名著 9・戦争体験」山田宗睦編 徳間書店 昭和41年
        /「詳説 日本史」山川出版社 1989



ペルリは「大恩人」?

戦争と青年団
01 /17 2015
明治27年(1894)に、日清戦争というのがありました。
日本が鎖国から開国して初めての大きな戦争です。

「日本は日清戦争からずっと侵略戦争をしてきた」と
主張している人々もいます。

そうではないという立場の林房雄は、
「大東亜戦争肯定論」の中で、こういっています。

「マルクス主義者の井上清は、日清戦争より以前の
”西郷隆盛の征韓論こそ、日本の東亜侵略の第一歩とみなす”として、
侵略戦争を幕末までさかのぼらせているが、
征韓論は、西欧列強に対する最初の、そして性急な反撃計画であった。
相手は朝鮮でも清国(中国)でもなかった」

井上先生、ちょっと自虐的のような…。

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日清戦争の賠償金などを話し合う「講話会議」 =下関・春帆楼にて 明治28年
久保田米僊画

日清戦争は初め「東学党の乱」という農民運動から引き起こされました。
つまり当時の李朝の腐敗に怒った朝鮮国民が抵抗運動を起こし、困った李朝が
中国に援軍を求めた。朝鮮国内の別のグループが日本に助けを求めた。
これが自国へ他国の軍隊を引き込む原因になったともいわれています。

幕末、フランスからの援助を断った徳川慶喜さんはこう言っているそうです。
「外国に金まで借りて彼ら(討幕派)に勝とうとは考えていない。
外国人干渉の国辱を残そうとは思わぬ」

「幕府が仏国の力を借り、薩長が英国の助けを受け、
国内の争いに外国の力を導き入れておったら、
国家の運命はどうなっていたであろう。
このことを考えると、身の毛がよだつ」(田沢義鋪

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英国のパークスと仏国のロッシュ

パークスと共にやってきたイギリスの外交官アーネスト・サトーは、
日記にこう書いている。
「いろんな人が金の無心に来る。ある夜、一人の朝鮮人がやってきた。
彼は、日本政府に軍隊の派遣を頼むために密航してきたと言った」

林房雄の本によると、
ライシャワー「日本と中国の近代化」で、こういったそうです。

「維新当時の日本と現在近代化を目指している低開発国との大きな違いは、
後者がアメリカや国連などからの外部的援助を享受しているのに対し、
日本はそれが皆無だったこと。
国家主権を侵されるような危険な一線を踏み越えることはしなかった」
  ※エドウィン・O・ライシャワー 歴史家・昭和36~41年の駐日大使。

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西郷隆盛
真山青果は戯曲の中で西郷隆盛にこう言わせているそうです。
「フランスの金など借りていくさをしたら、戦争に勝つかもしれない。
しかしそのときは必ず薩摩は英国と結ぶ。
日本は二つに分かれるぞ。インドが滅びたのもそれだ。
支那が領土を盗まれたのもそれだ」

つまりみなさんは、
「お金でも軍隊でも外国に頼ったら、エライことになるぞ。
でも当時の日本人はそれをしなかったから、偉い!」
といっているわけです。

さて、日清戦争から10年後に、今度は日露戦争が勃発します。

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露国の病院で手当てを受ける日本兵の捕虜  明治38年

林房雄はいいます。
「アジアでただ一つ残された非植民地の日本は、欧米列強の東洋征服を
食い止めなくてはならなかった」
「イギリスはロシアの南下を防ぐために、日本を東洋の番犬に使った」

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東洋の番犬? いえ、ぼくはここんちの愛犬です

そして、
「露国の南下は食い止めたものの、結果的には日清も日露も日本の挫折。
西洋列強の鉄環がますます強力になり、しめつけられていった」

「幕末以来の日本の抵抗と挫折は、
ついに昭和20年8月15日において完成された。
アメリカは真珠湾攻撃のはるか以前から、日本に対する交戦国となっていた。
アメリカは日本にをかけたのだ。
(日米開戦は)
初めから勝ち目のない戦争であったが、だが日本は戦わねばならなかった」

作家だった山岡荘八はこんな見方をしています。
私にはこれが一番うなづけます。

「日清・日露の両役は、
「和魂」による黒船以来の防衛国家が果たした防衛であって、決して侵略ではない。
侵略はその後の日本人が「洋魂洋才」になってから、見よう見まねで起った。
その意味ではペルリは日本人に侵略を教えてくれた「大恩人」である」

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広島の原爆ドーム

林房雄は本の中に、こんな言葉も残しています。
原爆被災地の広島には、
”あやまちは二度とくりかえしません”と刻んだ碑がある。
もしそれを(原爆を投下した)アメリカ人が建てたのなら論理的・倫理的であるが、
被爆者の日本人自身がつくったのだから、今から思えば奇妙な心理だ」

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山の先輩、橋本さん(右)と私。  広島県の恐羅漢山にて

2011年の大震災・福島原発事故のあと、
橋本さんから一枚のハガキが届きました。

「被災された方々の苦しみ悲しみを思うと言葉もありません。
被爆者は私たちだけでたくさんです」

ずっと一人で人生を歩かれて来られた方ですが、
これが最後の便りになりました。


<つづく>


※画像提供/「「朝日新聞100年の記事に見る⑤・奇談珍談巷談上」
         朝日新聞社 1979
        /「近代日本の名著 9」徳間書店 昭和41年



えげつないなあ

戦争と青年団
01 /14 2015
18世紀のころのインドに、イギリスの東インド会社というのがありました。

政治家だった宇都宮徳馬「わが父の記」によると、この会社は、
インドの原住民の間に若干の特権階級をつくり、
その利益と感情を本国のそれと一致させ、それを通じて原住民を抑えていた」
「インドの原料や手工業品を農民から四分の一の価格で買い取り、
イギリスの工業製品を5倍の価格で売りつけた」

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つまりインド古来の平和な農村共同体に地主制度と高率地代とを導入し、
インド農民の現在に至る極度な貧困の条件をつくったのが、
このイギリスの東インド会社だというのです。

そしてそのインドにも有利な商売をさせるために仕掛けたのが、
インド産アヘンの中国輸出だそうです。

宇都宮徳馬はいいます。
「いやがる中国にイギリスは通商の自由を主張して1840年、
アヘン戦争を起こし、
南京条約を結んで、アヘンを公然と輸入しうる権利と香港島を割譲させた」

「まさしく天人とも許さざる暴挙であった」

本当ですね。
「お金のためならなんでもする。どうせ相手は黄色い人たち。
アヘン中毒者がどんだけ出ようが知ったこっちゃない」ってことでしょうかねえ。

「このアヘン貿易で、イギリスのジャーディン・マジソン商会は大もうけ。
中国社会の停滞と腐敗を招いた。
アメリカはイギリスのこの行為を非難したが、のちに同じようにアヘン貿易を行った」
(宇都宮徳馬)

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鳥居民「昭和史を読み解く」によれば、
アメリカ・ルーズベルト大統領の母方の一族は、ジャーディン・マジソン商会と同様、
アヘンを売って大もうけしたそうです。

ナンカナア…。
暗たんとしてしまいます。
王族とか貴族とか大富豪とかって品よく見えるけど、こういう歴史を見ていくと、
えげつないとしか言いようがありません。

でも中国も黙ってはいなかった。

「アヘン戦争、不平等な南京条約の屈辱は、
清朝の屋台骨を揺るがす太平天国の乱を呼び、
このことが英仏軍の北京乱入を許してしまった。
このどさくさに、中国の領土を併合したのが帝政ロシアだった」(宇都宮徳馬)

とまあ、どいつもこいつも、まったく油断も隙もない連中です。

で、鎖国の日本にアメリカからペリーがやって来たのはそんなときで、
何しに来たかといえば、
中国貿易のための中継基地にしたいがためなんだそうです。
つまり薪や石炭、食料などを提供しろと迫ったわけです。

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ペリー(ペルリ)

アメリカのみならず西欧列強が虎視眈々と狙ったのが、
「アジア最後の非植民地、ニッポン」

黒船でやってきたペリーに大砲をドカンと撃ち込まれて、 
300年の太平の眠りを破られた日本は、無理やり「日米和親条約」を結ばされます。
同時にイギリス、ロシアとも和親条約を結ばされます。

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ペリーの横浜上陸 安政元年(1854)  東京国立博物館蔵

この日米和親条約を結んだとき、アメリカに米を200俵渡したということが、
大宮町(静岡県富士宮市)の造り酒屋の主人の「袖日記」にでてきます。
ちなみに「袖日記」とは、いつも着物の袖に日記帳を入れていたという意味です。

「異国へ米弐百俵渡し候処、品川の手前なるよし。
角力取り四十人、力持ち二十余人、異人へ米渡すとき、(曲もち)を取る。
俵を片手にのせ玉に取る。異人これを受け取るに、四,五人にて荷ひ船に積み
木遣りの如き事を言ひて運ぶ」
img512.jpg img512 (2)

いいですねえ、異人相手に堂々と「曲をとった」なんて。

「あめりかの米より喰わぬ国なれど 
              日本人はあわをくふなり」


さて、安政5年(1858)になると、日本は今度は、
領事裁判権など治外法権を含む新たな不平等条約「日米修好通商条約」を
押し付けられます。

「大東亜戦争肯定論」の作者、林房雄は、
「昭和20年に終わった戦争は15年だけ続いたのではない。
この戦争の始まりは、明治維新からだった。
正確に言えば、ペリー来航よりもっとさかのぼる。
日本近海に外国船が急激に押し寄せた弘化年間が、
この百年戦争の始まりだ」という。

「不平等条約を結ばされたけれど、幕末の志士たちは果敢に抵抗した。
薩摩藩はイギリスと対峙し、長州は、英米仏蘭の四国連合艦隊を退けた。
この戦役で幕府は300万ドルの賠償金を支払ったが、
それでもこのおかげで、西欧列強の蚕食場だったアジアで、
日本は唯一植民地化を免れることができた」

青年団の父・田沢義鋪もいう。
「「幕府、薩長の抵抗で、
我が国はかろうじて白人の征服的爪牙から免れることができた。
そして、ヨーロッパ諸国が次に食指を動かしたのは、
いうまでもなく支那(中国)だった」

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英米仏蘭による下関砲撃事件 元治元年(1864)

さらに、林房雄はいう。
「鎌倉時代の蒙古襲来(元寇)で先鋒を務めたのは朝鮮軍。
背後に元帝国の強圧があった。
そして幕末、その朝鮮の背後にいたのが大清帝国ロシア帝国だった。
”この真の対象を叩くべし”と主張したのが西郷隆盛「征韓論」であった」
そして、
日清・日露の両役は、ロシアのアジア侵略の阻止のための戦争であった」

田沢義鋪もいう。
「日露戦争によって、ロシアの野望は壊滅。ようやく危機を救うことができた。
しかし、ヨーロッパの白人たちの貪欲あくなき征服的野望の視線は、
ペルシャ、バルカン地帯に集中し、その結果5ヵ年の欧州大戦を惹起した」

白人、恐るべし!



<つづく>


※参考文献・画像提供/「新詳説・日本史」山川出版社 1989
               /「総合資料日本史」浜島書店 1988
※画像提供/「日本庶民生活史料集成・第15巻 都市風俗」 三一書房 1971
※参考文献/「袖日記 5巻・6巻」富士宮市教育委員会 平成10年
        /「大東亜戦争肯定論」「続・大東亜戦争肯定論」林房雄
         番町書房 昭和39年、40年
        /「昭和史を読み解く」鳥居民 草思社 2013



雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。