瀕死のヨット・ウーマン …㉚
田畑修一郎
ふと自分が、冬眠から覚めたばかりの熊のような気がした。
空腹だったけれど、長い「冬眠」から覚めたばかりだ。
とても食べられそうにない。
部屋中に広がっていたコーンの匂いだけで充分だった。
「雄二、一人でいるのねえ」と、かすれた声で二男のことを聞くと、
「心配ないさ。あいつだってもう子供じゃないんだ」と大介が力強く言った。
「あのね」と、私は一番聞いてみたいことを大介に言った。
「大介、お父さん、ちゃんと家に来てる?」
祈るような気持ちでそう聞くと、大介は不快気に顔を歪めてこう言った。
「あいつには関係ねえことだよ」

「でも、お父さん、ここに来たよね?」と聞くと、
「ああ」と、ぶっきらぼうに答えた。
「来た。一度だけ。あとはお前がめんどう見ろって。
そう言ってそのまま東京へ帰って行った」
まもなく私は、個室からもとの4人部屋へ戻ることになった。
大介に言わせると、手術から三日目らしかったが、
そのときの私には、時間の観念はまるでなくなっていた。
看護師さんがベッドごと私を運び始めた。
ベッドの足のキャスターが、ゴロゴロ音を立てて滑り出した。
廊下を歩いていた人たちが、サッと道を開けてくれた。
なんだか波を蹴立てて大海原を行くヨットみたいだ。
首に点滴の針が刺さり、
下腹部の導尿管からは絶えず黄色い尿が流れている。
そういう無様なヨット・ウーマンだ。

斎藤氏撮影
退院してしばらくしてから、夫の武雄がこんなことを言ったことがある。
「腹の傷はまるで魚の骨が張り付いているみたいでおかしいのなんの。
それに絶えずチューブからブクブク小便が垂れてくるんだぜ」
会社の同僚にそう言ったら、みんなゲラゲラ笑ったと言ったけれど、
今にして思えば、
その相手はそのときはまだ知らなかった愛人のM江だったのだろう。
元の4人部屋のドアの前で、ベッドは入り口へ向けて大きく旋回を始めた。
振り返ると大介が、スーツケースと紙袋を両手に下げて、
恥ずかしそうに付いてくるのが見えた。
部屋にベッドを乗り入れた途端、歓声が上がった。
「お帰りなさーい!」
ハツエはなぜか白い割烹着をつけていた。
その姿のまま、真っ先に飛んできた。
再入院したTさんは、上半身をベッドに起こして笑っている。
Mさんは、もうバルーンカテーテルをはずして、すっかり元気になっていた。
「よくがんばったわね」
そう言って、ハツエが手を握りしめてきた。
「私、あなたの手術中、ずっと時計を見ていたのよ」
下ぶくれのハツエの頬がぶるっと揺れた。その頬に白粉をはたいた跡がある。
きっと今日もご主人が見えるに違いない。

私はハツエのこの幸せから離れていたいと思った。
決して妬みからではない。
ハツエには私の心を乱す何かがある。
そんな気がしたのだ。
ーーーーー企画展のお知らせーーーーー
「利根川の河岸で」のブログ主さまから、「物流近代化の父」と言われた
平原直先生の企画展のお知らせをいただきました。
場所は物流博物館(東京都港区高輪4-7-15) ☎03-3280-1616
入館料は高校生以上200円、65歳以上100円、中学生以下無料。月曜休館。
5月8日まで。

「はこぶことは生きること。生きることははこぶこと」
と悟り、
荷役の重要性を広めて実践し、日本経済の発展に貢献した平原先生。
同時に近代化以前の日本の荷役を担った力持ちたちの支援を行い、
「深川の力持ち」の東京都無形文化財指定にご尽力された。
もっともっと多くのみなさまに知って欲しい方です。
拙ブログ「神田川徳蔵物語」に、詳細を記しました。

企画展にちなみ、
●映画上映会 ●講演会(ZOOM配信あり) ●学芸員によるスライドトークも。
詳細は同館HPをご覧ください。
物流の初期の珍しい映画や展示など、ここでしか見られないものばかりです。

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空腹だったけれど、長い「冬眠」から覚めたばかりだ。
とても食べられそうにない。
部屋中に広がっていたコーンの匂いだけで充分だった。
「雄二、一人でいるのねえ」と、かすれた声で二男のことを聞くと、
「心配ないさ。あいつだってもう子供じゃないんだ」と大介が力強く言った。
「あのね」と、私は一番聞いてみたいことを大介に言った。
「大介、お父さん、ちゃんと家に来てる?」
祈るような気持ちでそう聞くと、大介は不快気に顔を歪めてこう言った。
「あいつには関係ねえことだよ」

「でも、お父さん、ここに来たよね?」と聞くと、
「ああ」と、ぶっきらぼうに答えた。
「来た。一度だけ。あとはお前がめんどう見ろって。
そう言ってそのまま東京へ帰って行った」
まもなく私は、個室からもとの4人部屋へ戻ることになった。
大介に言わせると、手術から三日目らしかったが、
そのときの私には、時間の観念はまるでなくなっていた。
看護師さんがベッドごと私を運び始めた。
ベッドの足のキャスターが、ゴロゴロ音を立てて滑り出した。
廊下を歩いていた人たちが、サッと道を開けてくれた。
なんだか波を蹴立てて大海原を行くヨットみたいだ。
首に点滴の針が刺さり、
下腹部の導尿管からは絶えず黄色い尿が流れている。
そういう無様なヨット・ウーマンだ。

斎藤氏撮影
退院してしばらくしてから、夫の武雄がこんなことを言ったことがある。
「腹の傷はまるで魚の骨が張り付いているみたいでおかしいのなんの。
それに絶えずチューブからブクブク小便が垂れてくるんだぜ」
会社の同僚にそう言ったら、みんなゲラゲラ笑ったと言ったけれど、
今にして思えば、
その相手はそのときはまだ知らなかった愛人のM江だったのだろう。
元の4人部屋のドアの前で、ベッドは入り口へ向けて大きく旋回を始めた。
振り返ると大介が、スーツケースと紙袋を両手に下げて、
恥ずかしそうに付いてくるのが見えた。
部屋にベッドを乗り入れた途端、歓声が上がった。
「お帰りなさーい!」
ハツエはなぜか白い割烹着をつけていた。
その姿のまま、真っ先に飛んできた。
再入院したTさんは、上半身をベッドに起こして笑っている。
Mさんは、もうバルーンカテーテルをはずして、すっかり元気になっていた。
「よくがんばったわね」
そう言って、ハツエが手を握りしめてきた。
「私、あなたの手術中、ずっと時計を見ていたのよ」
下ぶくれのハツエの頬がぶるっと揺れた。その頬に白粉をはたいた跡がある。
きっと今日もご主人が見えるに違いない。

私はハツエのこの幸せから離れていたいと思った。
決して妬みからではない。
ハツエには私の心を乱す何かがある。
そんな気がしたのだ。

「利根川の河岸で」のブログ主さまから、「物流近代化の父」と言われた
平原直先生の企画展のお知らせをいただきました。
場所は物流博物館(東京都港区高輪4-7-15) ☎03-3280-1616
入館料は高校生以上200円、65歳以上100円、中学生以下無料。月曜休館。
5月8日まで。

「はこぶことは生きること。生きることははこぶこと」
と悟り、
荷役の重要性を広めて実践し、日本経済の発展に貢献した平原先生。
同時に近代化以前の日本の荷役を担った力持ちたちの支援を行い、
「深川の力持ち」の東京都無形文化財指定にご尽力された。
もっともっと多くのみなさまに知って欲しい方です。
拙ブログ「神田川徳蔵物語」に、詳細を記しました。

企画展にちなみ、
●映画上映会 ●講演会(ZOOM配信あり) ●学芸員によるスライドトークも。
詳細は同館HPをご覧ください。
物流の初期の珍しい映画や展示など、ここでしか見られないものばかりです。

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